トラの挨拶はまだ続くわけで
クラスメイトの質問攻めから逃げてきて、そのまま下校する私とトラ先輩。
手を繋いだまま帰るという恥ずかしさからなのか、手のひらに汗をかいている気がして手を離そうと見上げると、笑顔で返される。
──もう少しこのままでいいかな。
帰り道の話題は、文化祭と心春のバンド活動がメインとなる。
本当にいつも楽しそうに話すその内容を聞いているだけで、こっちまで楽しい気になってきてしまう。
──のろけているのか、やはりのろけているのだろうか私は。
「ん? どうかした?」
考え事をしていて無意識でジッと見つめていたのだろう。焦点が合って自分がトラ先輩を見ていたことに気が付く。
「あ、いえ。凄く楽しそうに話すなぁって」
「うん、楽しいからね」
ここで言い切れるのが凄いと思う。純粋に物事に向き合えそれを楽しいと感じれること。
さっき学校で正直に答えたりして時々暴走するが、素直に尊敬できるところだ。
それに対し素直でない私は羨ましがるばかりで、情けない。
「やっぱりどうかしたの? 何か悩みとか?」
心配そうに覗き込んでくるトラ先輩と目が合い、恥ずかしくて思わず反らしてしまう。
「そ、それより早く行きましょう。ドランカーが待ってますよ」
「うん、そうだね」
話を逸らし、おばあちゃんのお店へと向かって歩く。
今日はお互い放課後に予定がないので一緒に帰ろうと約束し、ちょっと遠回りをしておばあちゃんのお店で飼っている猫のドランカーに挨拶して帰ることになっている。
あまり人に懐かないドランカーが、トラ先輩には心を許しているのか自らすり寄っていく。
ちょっぴりイラッとするのはトラ先輩に甘えるドランカーへのジェラシーではない。
私にはすり寄ってこないドランカーにイラッとしているのだ。
やがておばあちゃんのお店がある商店街が見えてきて、ゲートをくぐると先へと進む。
商店街の間に吹く風に仄かにお茶の薫りが混ざり始めたとき、突然声を掛けられる。
「あら、あなた久枝さんのところのお孫さん。えーと」
「茶畑彩葉です」
「そうそう、彩葉ちゃんだったわ。大きくなったわね」
派手な服を着ているおばさんは、私を見て笑いながら手を仰いでいる。
ちなみに久枝は私のおばあちゃんの名前、この人はお母さんの同級生のお母さん。
家のおばあちゃんより若く、見た目通りのお金持ちである。
そして私はこの人が苦手だ。
「お母さんの虹花ちゃんは元気にしてる? 突然高校途中で退学したでしょ。家の暁美も私も心配してたのよー」
何が面白いか分からないけど、笑いながら手をパタパタ仰ぐ。
「あらら! そっちの男の子はもしかして、彩葉ちゃんの彼氏とかかしら!?」
最初から知っていただろうに、今気が付いたかのように大袈裟に驚くおばさんの声は大きく、わざと周りに聞こえるように言ってるんじゃないかと思う。
「彩葉さんとお付き合いしている梅咲虎雄といいます。よろしくお願いします」
トラ先輩の丁寧な挨拶を受けおばさんは嬉しそうな笑み、私にとっては気持ち悪い笑みを浮かべる。
「あらぁ~、やっぱりそうなのね。虹花ちゃんも同い年位だったかしらねぇ~。あのときね、学校から男女交際の正しいあり方とかでぇ、緊急に保護者が集められて大変だったのよぉ。
彩葉ちゃんも虹花ちゃんみたいに間違いを犯さないように気を付けないとねぇ。
あのときの資料とかまだあったかしらねぇ? よかったら見せてあげましょうか? 参考になるかもしれないわよ」
そう言いながら私を見る目は、あからさまに私の反応を見て楽しんでいる。
お母さんに私が付き合うことに関して大丈夫、安心してと言った手前文句を言ってやりたいけど、ここで怒鳴ったりするのは相手を喜ばせ、お母さんに迷惑を掛けるのは目に見えている。
どうせすぐに過ぎることだと、下を向いてじっと我慢する。
だが、下を向く私を影が覆ったので顔を上げると、トラ先輩が立っていた。
トラ先輩に鋭い眼差しを向けられおばさんは少し怯んでいる。
「な、なにかしら?」
普段から温厚なトラ先輩だけど、温厚な人ほど怒ったら歯止めが効かないと聞いたことがある。もし暴力なんか振るったら……止めなきゃとトラ先輩の服を握ったときだった。
「あの、見せて下さい」
「え?」
この発言におばさんは意表をつかれ、私も心の中で疑問符を飛ばす。
「資料を見せてほしいんです! 正しい男女交際のあり方が書いてあるんですよね」
トラ先輩が一歩踏み出るとおばさんは一歩後退する。
「ボク、生まれて初めてお付き合いしてるんですけど、何が正しいのか、何が間違っているか、これがよく分からないんです。
ですから、ボクには彩葉さんのお母さんが間違ってたって言う資格はありません。
あなたの言う間違いを犯さない為にも、その資料を見せてもらえませんか? お願いします」
おばさんはタジタジといった感じで後ろに数歩下がるが、トラ先輩は数歩前に出る。
「ボク彩葉さんを大切にしたいと本気で思ってます。経験が少ない分、知識で補いたいんです。お願いします!」
グッと身を乗り出すトラ先輩に、背中を反らして逃げるおばさん。
段々2人が私から遠ざかっていく。
そして商店街を歩いてた人たちも、初めはこそこそ見ていたが、今は事の結末を興味本位を隠さずに堂々と見ている。
多くの人の視線に晒されて尚食い下がらないトラ先輩と、ちょっぴり涙目なおばさん。
「あ、あなたは、大丈夫。そう大丈夫よ。おばさん分かるわ、あなたは大丈夫!」
「本当ですか!? 良かったです」
ホッと胸を撫で下ろすトラ先輩と一緒におばさんもホッとしている。
「あっ、でも!」
「なっ、ななななにかしら、まだなにか?」
すごく嫌そうな顔をするおばさんにトラ先輩は屈託のない笑顔見せ、頭を下げる。
「厚かましいお願いなんですが、もしボクが間違ったら教えて下さい! こういうの良識ある方にお任せした方が良いと思うんです。お願いします!」
「えっ、あぁ、はい。そ、そうね分かったわ。うん、任せて。あっ、早く帰ってお夕食の支度しなきゃ」
逃げるように去っていくおばさんを見送った後、私に振り返ったトラ先輩は嬉しそうに私を見て微笑む。
「今のところ大丈夫だって。やっぱり他人の意見を聞くって大事だね。少し自信がついたよ」
本当に嬉しそうな表情で言うその言葉に偽りはない気がする。
逆に逃げていくおばさんを思い出して、ちょっとスッキリした私は悪いヤツかもしれない。
それにしてもトラ先輩の対応の仕方、あの返し方は斬新だと思う。文句を言うより後腐れもないし、今後見習ってみようかな。
そして……私のことを大切にしたいって堂々と宣言されると恥ずかしいものだ。嬉しいけど……。
「彩葉、笑ってるけどなにか良いことあったの?」
私を不思議そうに覗き込むトラ先輩の顔を見て、自分が笑っていたことに気付く。
「トラ先輩、ありがとうございます」
「ん?」
「いえ、私を大切にしてくれるって言ってくれて嬉しかったです。私も見習わないとですね。
付き合ってるんですからもっとトラ先輩を大切にする努力をして、好かれないと……」
と言ってて恥ずかしくなって、トラ先輩を叩いてしまってから気付く。
大切にするって言ったそばからやってしまったことに……
でも気にする様子もないトラ先輩は、笑いながら言う。
「ボクも頑張るよ」
「むぅ、頑張られると追い付ける気がしないです……」
膨れっ面の私の横を一緒に並んで歩くトラ先輩と、おばあちゃんのお店へと向かうのだった。
──敬語をどうにかしたい。
タイミングを逃してしまった。壁を感じてないだろうか? 不安になる。突然普通に話すのもどうなのだろうか……。
トラ先輩って呼び方も恋人らしくない気がする。
こういう切り替えのタイミングってどこなんだろう? どこかに資料はないものだろうか。