第一章 悪夢《ナイトメア》の序幕-5-
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小学校低学年ほどの少女が秀一に話しかけてきた。夕方の公園であるらしい。夕日の影になって、少女の影はよく見えなかった。少女がランドセルを背負っているところをみると、学校から帰る途中のようだ。
秀一は、うん、と頷いて少女に手を差し出す。その手はまだ幼く、どうやら自分も小学校低学年の少年であるようだった。
(ああ…昔の夢か)
秀一は悟った。
そして少年の秀一は、その少女の手を握った。すると少女は顔を上げ、影になっていた少女の顔が明らかになった。
(確か…彼女は…)
秀一の、同級生だった気がする。しかし少女はなぜか最近の記憶になく、思い出しても確信を持てなかった。
夢の中の少女は秀一に微笑みかけた。
とたん、少女の輪郭がぼやけて形を失う。やがて、彼女は消えてなくなってしまった。
秀一は辺りを見回したが、人どころか車も見あたらなかった。幼い秀一は不安になった。
(何だ…この感じ?)
潮騒に似た響きが身体中を駆けめぐる。息が詰まり、どうしようもない苦しさに耐えられなくなったとき。
「秀一!」
聞き慣れた声がした。
「父さん…!」
幼い秀一は安堵し、父親の両腕に飛び込んだ。
─はずであった。しかし、秀一は父親の身体を通り抜けてしまったのである。 秀一はもう一度父の元へ行こうと思い、父のいるはずの背後を振り返る。
「…?」
不思議に思って目をこすると、風景が見え始めた。 ただしそこには父の姿ではなく、教室に備え付けられた、ランドセルを入れるための棚があった。
壁一面を覆い尽くすほど大きな棚は、鍵がついているわけでもないのに、ロッカーと称されている代物だ。そこには多くの子が集まり、自分の荷物を入れている。
窓から外を見ると、すがすがしいほどの青空が広がっている。太陽が東にあるので、朝であるようだ。 そこで秀一は自分がまだランドセルを背負ったままでいるのに気づいた。長方形に区切られている『ロッカー』の、自分の番号の所にランドセルを入れる。
あの公園で消えてしまった少女のロッカーには荷物がなかった。風邪でもひいて、休んでしまったのだろう。早くよくなるといいなと思いながら、秀一は自分の席に着いた。
始業のチャイムが鳴り、若い女性教師が姿を現す。…なぜか、目を赤く腫らして。
「先生はみなさんに悲しいお知らせをしなければなりません」
(まさか…)
いやな予感がした。
「藤原結衣さんが亡くなりました」公園の少女であった。ざわ、と教室が揺れる。
今まで気づかなかったが、隣の席には、白い花束があった。結衣は秀一の隣の席だったのである。
秀一はそっと花束に手を伸ばした。夕方、公園で手を握った感触を思い出したのだ。
(冷たい…)
そう感じると同時に、彼は抵抗できないほどの強い力で、白い花束に引き寄せられてしまった。秀一の手は、花束から離れなくなってしまう。だが、不思議と恐怖はなかった。
(そうか…彼女は亡くなってしまったのか…)
秀一は思った。
(どうしてこんなことが夢に出てくるんだろう)
一方、夢の中の秀一は、離れなくなった花束をどうすればよいのか考えていた。幼い思考の末、花束にくっついたままの手をゆっくりと押しつける。
手は、花束の中に吸い込まれていった。しかし秀一は、そのまま腕を押し込み続け、やがて花束に自分の身体を全部吸い込ませてしまった。
入った花束のなかの風景は、秀一の家だった。
「今日のニュースをお伝えします。本日、藤原結衣ちゃんの遺体が発見された事件で、詳しい調査結果が公表されました」
テレビの音がする。ニュースを伝える無機質な声だった。
「結衣ちゃんの死亡推定時刻から午前0時頃に殺害されたことが明らかになりました。結衣ちゃんは背中から心臓をナイフのようなもので刺されており、即死だったとみられます。」
幼い秀一には何の事だかよくわからないが、結衣が死んだことを報道しているのだということは理解できた。
「結衣ちゃんがその時刻、なぜ一人で外出していたのかということは定かではありませんが、飼い犬の姿が見られないことから、探しに行こうとしたのではないかという見解が出されております…」
「お帰りなさい」
ニュースの声に、懐かしい女性の声が重なる。…秀一の母親だ。
「母さん…」
(…母さん!!)
秀一は内心で絶叫した。
「おなか空いたでしょう?今日は早めにご飯を作ったから、食べてもいいわよ」
「…母さん…」
「…わかっているわ。辛かったでしょう」
母親は秀一を抱きしめ、頭をなでてくれた。秀一は、ただそれが有り難くて安心した。
安心すると急に眠気が襲ってきて、秀一は自分のベッドに潜り込もうとした。…だが、秀一は、ベッドカバーを掴むと、とてつもない恐怖に捕らわれたのだった…。
どうしてかわからないが、そこに潜り込んだら何か怖い物がやってくるように思えたのである。しかし、睡魔は容赦なく小2の少年の身体を襲う。
幼い秀一は、わけの分からないまま眠りに落ちた…。
すると再び風景が変わった。
どこかの暗い街角であった。向こうから人がやって来る。女性のようだ。
「…母さん!!」
叫んだ声は現在の秀一のものであった。今度は高校生の姿になったらしい。 秀一は、母親が夜遅くコンビニでパートをしていたのを思い出した。
秀一の声は母には届かなかったらしく、彼女はそのまま歩き続ける。
秀一はもう一度母親に呼びかけようとした。そのとき、不快な険悪さを纏った男が足早に秀一を通り過ぎる。─手には刃渡りが30?もあろうかというナイフがあった。
「!!」
(こいつは…この男は…!!)
母を殺す男だ。
(今なら、まだ止められる…)
秀一は男を追った。男が手を動かしたとき、秀一の手が男に届く。
(……)
秀一は男の腕を強引に引っ張ろうとした。…だが、出来なかった。
秀一の手は、実体のない水を掴むことが出来ないように、男を掴むことが出来なかった。
(イヤだ…こんなことが…!!)
男は秀一に気付くこともなく、狙いを定めた。
「やめろぉぉぉぉお!!」
鮮血が迸った。