第一章 悪夢《ナイトメア》の序幕-4-
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「明鏡─」
雰囲気を落ち着かせるため、照明が押さえられた室内に老人の重々しい声が響いた。
この老人は、名を山本健吾という。山本老人の支配するその重厚な室内は、見た目こそ地味であれ、日本の平均的なサラリーマンなら一生を費やしても決して手に入れる事ができないような高級な品で埋め尽くされていた。
それに見合うような服装をしている山本老人は、あたかもその部屋の支配者のようにもう一人の男に視線を送っていた。
「は…」
明鏡と呼ばれた中年の男が恭しく一礼する。こちらの男の服装は山本のそれとは多大な差があり、絶対的な主従関係を物語っているようであった。
明鏡というのは彼の名であって、姓ではない。かといって、老人が彼をファーストネームで呼んでいるのは親しみを込めているのかというと、決してそうではなかった。明鏡というのが単に珍しい名前のため、そう呼んでいるだけである。
「何かあったようだな」
山本は先日の霜置での出来事を指して言った。
老人は具体的な事物は何一つ挙げていない。が、明鏡は何の事でしょう、などという間の抜けた質問をすることはなかった。 主人の言っていることが分からないようでは、役に立たないのである。…明鏡の代わりはいくらでもいるのだった。
「はい。…しかし我々とは全く関係がないようです。念のためマスコミの口封じはしてありますが」
「そうか」
老人は明鏡の処置に頷いた。それは明鏡の処置を肯定していることであった。
堅牢な造りの部屋に香りの良い紅茶の香気が漂う。老人は酒や煙草を一切嗜まない代わりに、紅茶を愛飲するのだ。
「飲んでゆけ」
老人の一言で明鏡は椅子に座ることを許された。「はっ。失礼します」
程なく明鏡の目の前にティーセットが運ばれてくる。ティーセットからは着香茶の一種である、アールグレイの香りがした。老人の物と同じ香茶である。 カップに琥珀色の液体が注がれると、いっそう良い香りが立ち上った。老人は知る由もないが、実はこの紅茶は明鏡が好み、欧州から時々取り寄せているものだ。
だが、老人から出された紅茶は、味からしても香りからしてもその何十倍の値段がするのではないかと思われた。
その様子を見ていた山本老人がけらけらと乾いた笑声をあげる。明鏡は首筋にナイフを突きつけられたような不快感を覚えた。
「明鏡。」
老人はもう一度重々しい声を発した。
「…。」
彼は返事をしなかった。否、返事をすることが出来なかったのである。老人の威圧感は、明鏡がどうあがいても逃れることが出来ない重石となってのしかかっていた。
「期待しておるぞ」
先ほどとは違い、老人は彼を明確に賞賛した。…しかしそれを裏返せば、しくじったら終わりだということを意味している。
「は…」
明鏡は辛うじて声を出すと、先刻に増して恭しく一礼し、部屋を辞した。─次にやるべき事を果たすために。
「ふん…」
後に残された老人は一人鼻を鳴らした。
「期待などは他人にするべきではないのだ…」
老人は呟きながらおもむろに英国製デスクの引き出しをあけ、数束の書類を取り出す。
「…」
その書類は明らかに日本語ではない言語で記されていた。かといって、英語でもフランス語でもドイツ語でもない。─古代中国の甲骨文字、それに近い文体であった。
しかし、山本老人は現代に存在しない文字を、意味を成すものとしてちゃんと理解しているようであった。
やがて一時間ほどすると、老人は書類の束を読み終え、それを取り出したときと同じような緩慢な仕草でデスクに戻した。
さらに視線を冷め切った紅茶に戻すと、老人は顔にどす黒い笑みを浮かべる。─書類の続きは明鏡が持ってくることであろう。 老人はデスクの隅の小さな鈴を鳴らし、使用人に新しい紅茶に替えさせた。 この紅茶を飲み終えたら、ベッドに就くつもりであった。