第一章 悪夢《ナイトメア》の序幕-1-・-2-
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(あーあ……)
大学受験を一年後に控えた高校二年生、霞持秀一はため息をついた。
先日の定期考査で、欲しくもない全教科赤点を獲得してしまったのである。考査前日に今まで無縁だった風邪をひいてしまい、高熱を出して受験できなかったためだ。
彼は今、父親に入れられた学習塾に居るのだが…ただ単に居るわけではなく、居残りをさせられていた。この学習塾はありがたいことに、赤点取得者に無償で居残り指導なる物を提供しているのだ。
しかし、ありがたいというのはあくまでも親の事情であり、秀一は自分の不運を呪いながら多大な量の課題と格闘しなければならなかった。
(…もう、こんな時間か) 時計を見ると針は11時半を指していた。塾の正規授業が終了するのは22時、すなわち午後10時であるから、1時間半も居残り指導サービスを受けていたわけである。家には午前0時前には帰ると連絡してあったので、そろそろ帰らなければならない時間だった。
そして、秀一は塾講師にその旨を伝え、学習塾を後にした─。
-2-
秀一の家は学習塾から徒歩で十五分ほどの所にある。今通っているところより家に近い塾もあったのだが、秀一の父はここを選んだ。この学習塾から家までの通り道に電灯や自動販売機が多く、夜でも煌々としているためである。位よりは多少安全、というわけであろう。
それでも秀一は夜道を快く思わなかった。…秀一の母親は一時期流行した『シンデレラ事件』―十二時に犯行が行われる殺人事件―の犠牲者であったのだ。秀一は当時小学二年生だった。
もう少し幼ければ衝撃も少なくて済んだのだろう。が、皮肉なことに、小学二年生の少年は『通り魔』という得体の知れない単語をしっかり理解し、『通り魔=母の死』という方程式を自分自身に刻み込んでしまったのだった。
鮮明に脳裏に焼き付いているその方程式は、いくら努力しても薄れてはくれない。そのため、秀一はせめて十二時に一人で外出することのないよう気を配っていた。
そんなわけで今回も十二時前に帰宅してしまおうという予定であった。─だが、予定とはいつでも変更されるから予定というのである。塾を発ってから十分ほど経過した時。
「あっっ…。」
なんと、明日提出しなければならないレポートを、サブバッグと一緒に塾に置き忘れてしまったのだ。このレポートは秀一が通う響鈴高校の名物で、これを期日内に提出しなければ三学年に進級できないと言われている。
…戻らざるを得なかった。
(何という不運…。)
秀一は少しでも十二時を回避する確率を高めようと、嘗てないスピードで必死に走った。もちろん周囲を気にしている余裕はない。…案の定、その通りを歩っていた人影に衝突してしまった。
「すみ、ま、せん。急いで、いて」
秀一は息を切らしながら丁寧に謝罪した。ぶつかった相手が若い男性で、揉め事になったら困る、という意志もある。
「…。」
相手は返事をしなかった。秀一は内心焦った。
(やばい…相当怒ってるよ、この人…)
しかし、しばらく経ってもその男は動こうとしない。
(…?)
秀一は、男の様子がおかしいことに気づいた。そして、もう一度男に声をかけようとした瞬間。
その男性が、『巨大化』した。さらにその人影は爆煙が広がるように人間の形を失う。秀一が半歩後退る間には、男性は元の身長の三倍以上に達していた。
「…!!」
次いで、数百本もの糸状のものが、凄まじい速さで伸びてゆく。糸と見えた物が近付いてくると、人間の指ほどの太さがあることが明確になり、何かの触手のように見えた。
秀一は走った。竹を斜めに切ったような、鋭い触手の先端は、秀一を追って高速移動してくる。それに捕まったら、生き残れる可能性はないだろう。
秀一は走った。走るしかなかった。しかし、昨年陸上短距離で全国五指に入った秀一の俊足をもってしても、人ならざる物には通用しなかった。
無数の触手の一部が秀一を追い抜き、前方に回り込む。
(囲まれた!!)
もはや逃げ道はない。
(来る!!)
鋭利な触手が突き刺さる衝撃を覚悟し、身構えた時。
不意に触手の動きが止まった。