小説家になろうと感性
なろうとつきあう
もはや、小説家になろうのジャンル分けというのは意味をなさなくなってきたように思える。どのジャンルにおいても異世界という設定を垣間見るようになった。このことは、ネット小説と言えば異世界転生/転移という様式が生まれてきている現状に大いに関係があることだろう。私は別にこの事態に憂いがあるわけではない。このときこの瞬間にも新たな小説が産み出されていることは読み専にとっては喜ぶべき事態である。それが異世界ものであろうとなかろうと関係ない。では、私は何を思ってこの文章を書こうと思ったのか。
まず、最近よく聞くのがなろうは面白くないという一言である。彼らは異世界や恋愛といったものに飽きてしまった人、正確にいうのならば感性があまりにも御都合主義展開が多く存在する特定の人気ジャンルを読んでいてもなにも感じなくなってしまった人であると私は考えている。
かくいう私も感性が終わってしまった一人である。昔は何も感じないということはなく、ただ純粋に御都合主義展開を楽しむことが出来ていた。しかし、人間というのは欲張りなもので、素晴らしい作品を読むたびに意外性を求め、そして、高度な展開を要求するようになってしまった。
しかし、そんな私は彼らに一言いいたい。彼らは表層しか見ていないのだ。なろうのジャンルは人気ジャンルに名作があるわけではない。
私が何を読むようになったのか。それを述べていこう。
まず、私は累計ランキングを片っ端から読み尽くすことにした。それが、今から3年ほど前のことである。当時の作品は殆どが今の累計からは姿を消してしまっている。しかし、これも1年ほどしかもたなかった。私にはあまりにも少なすぎた。すぐに、読むものがなくなったのだ。
また、私は日刊ランキングを毎日チェックし読む日々を送ることとなるが、全く面白くない。ほとんどの上位がテンプレであり、御都合主義では満足できる体ではない私にとっては無為な時間を過ごさせるものとなった。
そこで、次は純文学、コメディー。そこに手を出した。
私にとって穴だった。素晴らしい作品の宝庫であった。異世界にこだわらず、異世界であっても異世界の要素に囚われない話の展開は私を惹き付けるのに十分であった。例えるのであれば、目の前に女の子という要素があったとして、彼女を女の子と認識するのが一般的であるのにたいして、ツンデレや百合など他の要素のことを認識するようなものである。まさしく、異世界という考えが一般的なこのなろうの世界では異質な存在であった。
そして、一番いいなろうの楽しみ方は読み返すことである。これが一番である。しかし、これもやり過ぎると飽きる。
さてさて、どうしたものか。
そこで、私が行き着いたのは頭のなかで自分好みの展開を作り、ひたすら話を考えることである。
ただ、これは少し読み専の定義からずれかねない。
畢境、感性が合わなくなったとき、自分が今まで読まなかったジャンルに足を踏み入れるのが吉であると思う。
これが、私の感性とのつきあい方でもある。
なろうとすごす