第三十七話 邂逅
グラスの中身を飲み干し、ため息をひとつつくと鼻からフルーティな香りが抜けていく。
寛ぎスペースでひとり酒を飲みながら、膝の上で寝ているきなこを撫でる。
どうやらこの毛玉は化け物の腕で撫でられるのが好きなようだ。
あごの下や腹を撫でてやるとプスプス言いながら寝返りをうつ。
ズレたブランケットを掛け直してやり撫でるのをやめると、ぷうぷうと文句のような寝息が聞こえた。
ブランケットは規則正しく上下しているので、膝の上で寝られるのならそれで満足らしい。
先ほどの美香と鈴鹿の一件のあと、美香は山口を連れて探索に行き、鈴鹿は俺を避けるかのようにミシェルのトレーラーハウスに行ってしまった。
美香が探索に行くのは、日の光が出ていない夜の方が自由に動けるという理由かららしい。
俺やおそらく変異した美香は、夜目がきくので昼よりも夜のほうが安全度は高い。
日中に他の生存者に見つかった場合に襲われない保障はないのだ。
こちらだけが一方的に発見できるアドバンテージはやはり夜の方が大きい。
まあそもそも普通の人間がわざわざ暗くて危険度の増した夜に外へ行くことはないだろうけど。
寝るに寝れないので晩酌の続きをしているが、先ほどと違って一人で飲む酒はどうしてか少しだけ物寂しさを覚える。
膝上で寝ている一匹の毛玉は、晩酌に付き合ってくれるわけでもなく、むしろそのあたたかい体温で睡眠へと誘っているかのようだ。
ぼんやりとした頭で、なにをしなくてはいけないのかを考える。
美香が鈴鹿になにかを言ったせいで二人の間に不和が生じてしまっている。
これをこのまま放置しておいたら時間経過と共に悪化していき、きっとろくなことにはならないだろう。
解決策を考えるには、やはり美香がなにを言ったかを知らなければならないか。
女同士の話に首を突っ込まないのは大事だとは思うが、それでコミュニティ全体に不和が広がり内部崩壊をするなど、リーダーとして絶対に阻止しなくてはいけない。
俺としてはせっかく美香と再会できたのだから前のように夫婦生活を送りたい。
全く同じようにできるとは思わないが、それでも美香と一緒に生きて行きたい。
鈴鹿は俺のことを支えてきてくれた大切な仲間だ。
だがそれ以上に俺は美香のことが大事なんだ。
もし、美香か鈴鹿かを選ばなきゃいけないときが来たら、俺は鈴鹿を捨てる選択をするのだろうか。
考えてみたが、その時にならないと答えは出そうになかった。
気がつけば空が白みはじめていた。
どうやらうたた寝をしていたようだ。
膝上で丸くなっていたきなこがおすわりをして、つぶらな瞳でこちらを見つめていた。
「アン」 (おなかすいた)
「ああ、朝食にはまだ早い気もするけどレストランに行ってみるか……」
きなこを床におろして立ち上がり、ソファで寝て凝り固まってしまった体を思い切り伸びをしてほぐす。
どこかの骨がぱきぽきと鳴るのが気持ちいい。
髭を剃って顔を洗って、朝の準備をやってしまおう。
最近ではきなこも階段を上り下りできるようになったので、ほうっておけば勝手にレストランに向かうだろう。
七階の男子トイレが俺専用の洗面所代わりとなっている。
ここには歯ブラシ、コップ、髭剃り、シェービングクリーム、タオルが置いてある。
タオルの補充は誰かがやってくれているようだ。
そういえば洗濯物も誰かがいつの間にかやってくれている。
あとで感謝を伝えておこう。
化物の手は朝の支度をするのにとても不便だ。
肉級の間にすら毛が生えていて、水に濡らすと乾くまでにとても時間がかかる。
おまけに歯ブラシや髭剃りなど小さな物を持つのがとても苦手だ。
今までは右手が使えていたから良かったが、両手が化物の腕になってしまってはもうどうしようもない。
タオルを多く使ってしまうが許してもらおう。
顔を洗い鏡を見ると、化物と目があった。
金の虹彩に小さな瞳孔、顔の半分が白い毛で覆われている化物だ。
その無機質な目を見つめながら「お前は誰だ」と尋ねる。
鏡の中の俺は、見透かしたような目で俺を見てくるだけで答えることはなかった。
朝の支度を終わらせ時計を見ると、六時過ぎになっていたのでレストランへ向かう。
ここでの生活のルールで、食事の時間は毎日決まっている。
六時、十二時、十八時の三回だ。
なので今日の俺は遅刻をしたということになる。
急いで行こう。珠子は食事関係になるととても怖くなる。
レストランに着くとほぼ全員が揃っていた。
昨日の一悶着があったが、美香も鈴鹿もレストラン内にいた。
一晩経って冷静になってくれていればいいけど。
今朝のご飯はポトフとクロワッサン、ミートボールとウインナーというものだった。
珠子お手製のミートボールは本当に美味しい。
ミートボール自体は好きでも嫌いでもなかったが、これを食べてからは一気に俺の好物へと躍り出た。
厨房のフライパンと鍋から自分で皿へとよそっていく。
これも最初は全員分を珠子がよそって配膳していたが、起きてくる時間もまちまちなので各自でやることになった。
ただあまり遅くに来ると、せっかくの出来たての料理が冷めてしまうと珠子が怒ったことから、みな自主的に早く起きてくるようになった。
クロワッサンも珠子の手作りだ。
卵がないから完璧ではないとは言っていたが、俺にはなにが不満なのかわからないくらいに美味しい。
卵は鶏を捕まえてくれば産んでくれるか?
どこか養鶏場を探しに行ってみるか……。
餌をくれる人がいなくなっても、運がよければ野生化して生き延びているだろうか。
シロたちや赤カブトのように巨大化していれば生き残れていたりするか?
もしそれを捕まえたとしても、卵を回収するのは命がけになりそうだが。
席につき「いただきます」と食事を開始する。
美香のいる席に行きたかったが、花乃ちゃんと優子ちゃん、恵理奈ちゃんが座っていたので狭くなるから遠慮しておいた。
鈴鹿の席はマキシーンと直美、深冬の狩猟メンバーが話をしていたので邪魔をしないでおいた。
双子のいる高校生組とは朝から疲れるので一緒に食事をしたくない。
奈津実、明穂、香織、珠子のいる席は既に食事を終えているようなので座りにくい。
ということでボッチ飯である。
ボッチでも美味いものは美味いのだ。
毎日食べても飽きない珠子の料理に舌鼓を打つ。
ポトフとクロワッサンをおかわりしに行くと、ちょうど美香と山口もおかわりをしていた。
「おはよう」
「おはよう恭平」
「ああ、おはよう」
「この体になってからお腹すっごい空くよね」
「ああ、だから俺はプロテインを飲んで腹を膨らませてるよ」
「なるほど。その手があったか」
「スポーツショップがあったからそこに行く」
「そうね。私たちは大飯食らいだから、ちゃんと自分たちの分くらいは集めてこないとね」
「そうだな」
食べようと思えば米を十五合は食べられる。
この拠点の食糧事情が危ういのは、まず間違いなく人の十倍以上食べるようになってしまった俺のせいだろう。
早急になんとかしなくては。
食事を終わらせて朝のミーティングを始める。
この一週間で慣例化したこのミーティングは、それぞれが一日の予定を決めて発表する場となっている。
普段あまり話さない人の声や意見を聞くことはとても大事だとミシェルに言われ、それで皆の関係が良好になるのならば、と始めたものだ。
毎朝のミーティングには子供たちも参加しそれぞれ気がついたことや要望などを言っている。
ミーティングには毎回、珠子が書記を務めてくれる。
ホワイトボードに誰がどこでなにをしているかなども書いてくれており、目に見えることで拠点内の整理等の進捗状況もわかりやすくなっている。
ありがたいことだ。
「ええと、じゃあまとめるぞ。引き続き珠子は子供たちと拠点内の整理整頓だな」
使えるものを種類ごとにまとめて片付けるのは、思った以上に骨だ。
ダンボールに中の物の名前を書き隙間なく詰め種類別に並べる。
これに参加する子供たちを所詮子供と侮るなかれ、彼女らは立派な戦力なのだ。
戦いは数だよ、兄貴。と昔の偉人は言ったとか言わないとか。
「美香と花乃ちゃ……花乃は奈津実のトラックで西部から物資の運搬。これに千恵と友里、香織も参加するってことでいいな?」
「いいわよ。向こうの物資をまとめるのにも時間がかかるし人手は多ければ多いほうがいいわね。ちょっと量が多すぎてトラックでなん往復もすることになるかもだけど」
「ああ、それは俺が明穂と深冬と一緒にトラックを確保してくるから問題ない。運送会社に大型のトラックをとりに行ってそのままそっちに合流する」
「オーケーよ」
とりあえずは西部百貨店から食料だけでも運んでしまおう。
美香曰く冷凍物が大量に手付かずで残っているそうなので、これを持ち帰れば当面の間は俺がたくさん食べてもなんとかなりそうだ。
いやお前が食わなきゃいいだけじゃんとか言われそうだが、食わないと頭がクラクラしてくるんだ。
燃費の悪すぎる体に少しだけ嫌気がさしてはいる。
でも食べれば食べるだけ体に力が蓄えられるというか、筋肉が増すというか、そんな感じが凄くする。
なので俺は誰になにを言われようと、これからも大量に食べ続ける。
なんせ腹筋が六つに割れて胸筋を動かせるようになったからな。
一日に二十杯プロテインを飲み続けた甲斐があった。
あれは味も美味しいしお腹も膨れるからいいものだ。
「えーと、鈴鹿はマキシーンと直美と猟の下見をするってことでいいか?」
「うん、それでいいよ。鹿の群れがどこを餌場にしているか見たいからね」
「近くの公園の雑草とか食べに来てるみたいだから、食べつくされる前に仕留めないとって感じかなー」
「そうデスねー。おウチに生えるしてる木とか食べてるマス」
「普通の大きさの鹿でさえ食害が深刻だったのに、あんな大きい鹿じゃどれだけ被害が出るかわからないよねー」
直美がスマホで撮影した写真を見せてくれたが、隣に写っているハイエースよりも大きい馬鹿げた大きさの鹿だった。
世界最大のシカであるヘラジカを優に超える大きさの鹿が、一日にどれほどの量の餌を食べるのか。
あっという間にこの辺りの植物を食べ尽くしてどこかへ移動してしまいそうだ。
写真には少なくとも十頭の鹿が写っていた。
これを狩れれば毎日もみじ鍋が食べられるな。
どうにもこの化物の体になってから、肉が大好物になってしまった。
鹿肉のロースト、しゃぶしゃぶ、ジンギスカン、すき焼き。
想像するだけでヨダレが垂れそうだ。
「山口は菊……葉子と一緒に市役所に行く、と」
「そう」
「ちょっと小池さんに会いにな」
「ああ、それがいいだろ。ミシェルのゾンビ避けも一つだけだが忘れずに持っていってくれよ」
「任せて」
ミシェルの作り出した、俺の血を使ったゾンビ避けは血の培養が上手くいけば量産ができるとのことだった。
俺の血液内のウイルスを希釈して芳香剤に入っているジェルのようなものに吸わせ、ゾンビの嫌がるにおいを揮発させるという仕組みのようだ。
まだ六つほどしかできていない内の一つを小池さんに渡せば、きっと喜んでくれること間違いなしだな。
欲を出してここに奪いに来たのならば、そのときは全力で叩き潰すまでだ。
……本気で殺す気で戦わないと、あの人には勝てそうにないな。
「よし、じゃあそんなもんか。皆、くれぐれも安全にだけは気をつけてくれよ。ゾンビ避けは服から出してつけるように。絶対に一人では行動しないように。よろしく頼む」
まるでタイミングを計ったかのように、異口同音で「はい」と返事がきた。
出来ることなら美香と共に行動しいろいろと話をしたかったが、美香が俺を避けると宣言した以上、俺は美香とできるだけ接触を図らない方がよさそうだ。
もし無理に話をしようとしたり近づこうとしたりしたら、きっと美香は俺の元から離れてどこかへと行ってしまうだろう。
落ち着いて話せるようになるまで、もう少しだけ時間を置こう。
俺と明穂と深冬は、二人がいた運送会社までの道を歩いている。
目的の物はダンプと箱型のトラックだ。
「ダンプなら畑の土も運べそうだよな。あとあれがあるといいな。ユンボ」
「んー、それは置いてないかな。ただの運送屋だからあってもフォークリフトだけだよ」
「あとユンボは商品名。正しくはバックホウ」
「あ、そうなのか。バックホウってあのシャベルがついてるシャベルカーだろ? ユンボと一緒?」
「バケットがついてるよ。ちなみにショベルカーとユンボとかのバックホウじゃ作動する方向が違う」
「へえ。深冬詳しいじゃん。うち入る前にオペでもやってたの?」
「いや、実家が農家だった。絶対に手伝いたくないから中学卒業してすぐ家出てきたけど。で、バケットを前に動かすのがショベルカーとか油圧ショベル。バックしながら動かすのがバックホウ。バックしながら、ホウ、鍬を動かすからこの名前」
「めっちゃ詳しいじゃん」
明穂が感心した声を漏らす。
俺もこんなに喋る深冬を見るのは初めてなので驚いた。
建設機械とか好きなのかね。
「そういや深冬、スコップとシャベルの違い知ってる?」
「大きさとか?」
「あー、そういやなにが違うんだろうな。気にしたことなかった」
「建設現場で使うのがシャベル。園芸用がスコップとか?」
「正解正解。やるねえ、深冬。あの両手で穴掘るのがスコップで、片手で使える小さいやつがシャベルなんだって」
「え。ウチら呼び方逆なんだけど」
「呼び方とか全然気にしたことなかったな。でもたしかに小さいのはシャベルか?」
「は? ウチらは小さい方をスコップって呼んでたけど」
「あー、なんか西日本と東日本じゃ呼び方逆になってるんだってさ。深冬、たしか実家三重だったっしょ」
「うん」
「へえ、面白いな」
明穂はいろいろな豆知識を持っているようで、運送屋までの長い道中の話題に事欠かない。
俺が深冬と自然と話せるのも、明穂のおかげなんだろう。
こういうムードメーカー的な人物は、本当にありがたい。
俺と深冬の二人だけだったら、きっと今頃重苦しい沈黙で嫌な空気になっていたことだろう。
「そういやさ、うちの奥さん昨日レストランで皆が集まったときになんて言ってたんだ?」
「ん? 美香さんのこと? あー、恭平には言うなって言われてんだよね」
「でも知っといた方がいいと思うよ、ウチは」
「うーん、でもなあ、わりとシビアな問題だと思うよ? あの話をしてたときの美香さんの顔見りゃ相当な覚悟で言ったってわかんだろ」
「それでもおかしいし」
「おかしいって思う気持ちはわかるけど、きっと事情があるんだよ」
「おい、二人だけで話してないで俺にもわかるように説明してくれ。もうそこまで言っておいて俺に言えないとか言うなよ?」
「えー? うーん……」
明穂は眉をひそめて口をすぼめて言いたくなさそうにしている。
ここまで言われて気にするなという方が無理がある。
絶対に聞き出してやると意気込んでいると、深冬が「あんたの奥さんさ」と切り出した。
「なんか、ウチらにあんたの子を孕めって言ってきたんだけど」
「……はあ? どういうことだよ」
「知らないよ」
「あーあ、言っちゃった」
深冬の言ったことが理解できない。
美香が他の女に俺の子を孕めと言った?
いったいなにが目的なんだ、美香。
「あー、恭平。全員に強制とかそういうんじゃないよ? 希望する人だけみたいな」
「あんたのことを好きなら、自分のことは気にしなくていいから積極的にアプローチしろって」
「なんだそりゃ。おかしいだろ、それは」
「なんか私らを百貨店に行くように仕向けたのも、恭平の女にさせるためだったんだって」
「言っちゃ悪いけどさ、あんたの奥さんどっかおかしいよ。人っぽくないって言うか、考え方が普通じゃない」
「ちょっと深冬。やめなってば」
「いや、いい。それは俺もおかしいと感じていた」
人の話を聞かなくなったというか、我が強くなったというか。
前はあんなに独善的ではなかった。
今の美香は自分の考えに妄信していて、心に余裕がないように見える。
俺が他の女を孕ませなければいけないと美香が妄信する理由か……。
考えてみたが全くわからなかった。
美香も俺が他の女と寝るわけがないとわかりきっているのに、本当になにを考えているのかわからない。
「もっとさ、ちゃんと奥さんと話した方がいいんじゃない?」
「ああ、それはそうなんだけどな。難しいんだよ」
「そんなのは恭平が一番わかってることでしょ。深冬がわざわざ言うことないって」
「そうだけどさ」
「あー、恭平のこと心配したからかなー? あ、ちなみに恭平。こいつこんなこと言ってるけど恭平の子を孕む気あるってよ」
「はあ!? んなこと言ってないし!」
「あれー? 恭平なら的なこと言ってなかったっけー?」
「ちがッ! あれは他の男にマワされるくらいなら恭平さんの子を産んで守ってもらいたいって意味で」
「ほら恭平、深冬が守って欲しいってよ」
「ちょ、やめろッ! ぶっ飛ばすぞテメェ!!」
「ほーん、上等だよ。ほらほらかかってこい」
「おいやめろ。やーめーろ。明穂も深冬のことからかいすぎだ。一回やめろって。やめろっつの!」
取っ組み合いをする二人の体をはがすも、深冬が明穂に突っかかっていって止まらない。
「おい、ほら、やめろって。こいつ……オラ!」
「きゃっ」
「ぷっふー。抱っこされてやんの」
「明穂は煽んな!」
肩に担ぐようにして深冬を抱き上げると、途端に借りてきた猫のように大人しくなった。
深冬は美香より小柄だから、俺の肩の上程度でも高く感じてしまうのかもしれない。
「明穂、もう煽んないか」
「はーい、もう言わないって」
「よし。深冬は。もう手を出さないか」
「ウ、ウン……」
「ぷぷ、こいつ顔赤くなってるけど」
「明穂!」
「あーはいはい。ごめんって」
地面に下ろしてやると、顔を赤くした深冬がこちらを睨んできた。
深冬はわなわなと震えた拳を作ると、俺へと叩きつけてくる。
「いてっ。抱えて悪かったよ。いたっ」
深冬は無言で三発ほど俺を叩くと、気が済んだのかふいと顔を背けてしまった。
「恭平これね、こいつの照れ隠しだから。本当は嬉しいんだよ」
「お前えぇッ!!」
「ああ? やんのか?」
「やめろってんだよお前ら!」
再び取っ組み合い始めた二人を引き剥がす。
初めて会ったときよりも元気なのはいいことだが、少し落ち着いてほしい。
喧嘩するほど仲がいいとは言うけれど、鼻血が出るまで取っ組み合いをするのはやりすぎじゃないか。
二人が落ち着いたところで歩き出す。
百貨店から運送会社まで行く道は、以前に車を片付けたおかげで見通しも良く歩きやすい。
道の両脇にあるビルからなにが飛び出してきてもいいように、道の真ん中を歩いていく。
前方数百メートル先に珍しくゾンビの姿を見つけた。
この辺のゾンビは皆、俺のことを嫌ってどこかに行ってしまったはずなのに、群れからハグレてしまったのだろうか。
赤黒い肌をしたそのゾンビは、他のゾンビの一回りは大きいように見える。
体長は自動販売機より大きく、体格も筋肉質だ。
上半身に服をまとっていないのでその筋肉の発達具合もよくわかる。
ゾンビになる前はボディビルダーでもやっていたのだろうか。
「どうしたの恭平。立ち止まって」
「いや、珍しくゾンビがいてな」
「え、どこ?」
「ほら、あそこだよ。十字路んとこ。薬局あるだろ、その前」
「あーいたいた。でもなんかでかくない?」
「こっち気付いたよ。えっ。うわっ」
「なんか走ってきてない? ゾンビって走るんだっけ」
「いや、初めて見たな」
陸上選手もかくやとばかりのフォームで、ゾンビがこちらへと走ってきた。
いや、俺を見ても逃げなかったり、普通に走ったりしている時点でこいつはただのゾンビじゃない。
運送会社は百貨店よりも駅ビルに近いから、美香の言っていた変異したゾンビとやらと出会ってしまったのか。
明穂と深冬の近くで戦っては二人に危害が及びかねない。
彼我の距離はもうわずかだ。
「お前ら、ここを動くなよ」
両足に力を込めて駆け出す。
左手の指先に力を込めると、鋭利な爪が飛び出した。
自身の化物具合に自嘲の笑いが浮かぶ。
ゾンビは俺が迫っても眼中にないのか、フォームを崩さずに走ってくる。
それならそのまま死ね。
「くたばれ」
首を狙って振るった左腕の一撃を、ゾンビは倒れこむようにしてかわした。
走った勢いを殺し振り返ると、ゾンビが起き上がり明穂と深冬の元へ走り出そうとするところだった。
すぐさま駆ける。
こいつ、女を食うことを優先してやがる。
ゾンビに知恵があるのか?
まずいぞ、追いつくか。
明穂と深冬の怯えた顔が目に入る。
ゾンビがフォームを崩し腕を前に突き出す。
深冬を庇おうと前に出た明穂に掴みかかろうとしている。
その背中へタックルをかますも、なんの手ごたえもない。
頭部に衝撃を受け、走った勢いのまま地面の上をすべる。
腕を振り切った体勢のゾンビがちらりと見えた。
誘われたのか。
起き上がろうとしたところに再び衝撃。
道路脇に止めてあった車に叩きつけられた。
頭を掴まれ持ち上げられる。
急加速、再び衝撃。車のボンネットに顔が埋まる。
頭を掴んでいる腕を両手で掴み、思い切り爪を食い込ませる。
浮遊感のあと、背中に衝撃を受ける。
ぶん投げられたが解放はされた。
追撃が来るかと体勢を整えるが、ゾンビは千切れかけた腕を押さえ、憎憎しげにこちらを睨んでいるだけだった。
「お前、ゾンビじゃねえな。なんなんだよ、お前」
「グアァ……」
「喋れはしないのか」
よく見ればゾンビ特有の腐った皮膚はなく、筋繊維が剥き出しになっている。
千切れかけていた腕は肉が蠢き既に繋がっていた。
鼻にしわを寄せこちらを警戒するように見ている。
「こんなのが駅ビル方面にいっぱいいんのかよ。美香、よく三日も戦えたな……」
俺じゃこいつ一匹で手一杯だ。
視界が赤く染まる。
頭を触れば血が出ていた。
女たちを攻撃すると見せかけて俺に隙を作らせるという知恵がこいつにはある。
普通に戦ったんじゃ負ける可能性があるが、どうする。
こいつになくて俺にあるものは、やっぱりこの爪か。
さっきの一撃でこいつは俺の爪に警戒している。
なんとかしてこの爪で首を掻き切らねば。
もっと鋭く伸びたりしないものかと手に力を込めると、三十センチほどまで爪が伸びた。
やはりどう考えても俺も化物の仲間だ。
「おら、行くぞ」
「ガアァ!」
伸びた爪を横に振るうと、わかりやすいくらいにゾンビが避けようとする。
振るう腕を止めて潜るようにして踏み込む。
下を見たゾンビの顔を目掛けて右手を手刀状態にして突き出す。
人差し指と中指がゾンビの両目に突き刺さった。
「グウアァ!」
「離、せよ!!」
右腕をゾンビに掴まれると骨が軋む音がした。
左手の爪を振り下ろすと、熱したナイフでバターを切るかのように、なんの抵抗もなくゾンビの腕を切り落とすことができた。
右腕についたままのゾンビの腕を外し、それで頭を思い切り殴る。
よろめいて体勢が崩れたゾンビの首が手ごろな高さにやってきた。
左手を斜めに振り上げると首がずるりとズレ落ち、噴水のように血が噴き出して俺を濡らした。
「おい、この血には触んなよ。離れとけ」
「ウ、ウン」
ミシェルの言うことが間違っていなければ、ゾンビの血が粘膜に入ったりしただけで感染するはずだ。
細かい飛沫が空気中を漂って感染しないとも言い切れない。
ウイルスが空気中でどれくらい生きられるかわからないので、安全マージンをしっかりとって距離をあけておこう。
「なんか布で口を隠せるか。ここを離れるぞ」
「わかった」
万が一は起こってはいけない。
すぐ横にあったビルの二階にある小さな美容室へ行き、店内の様子をうかがってから中へと入る。
安全を確認し、二人から離れる。
「俺に近づくなよ。ゾンビの血を浴びたから流す。目と口を布で塞いでおけ」
「恭平は大丈夫なの?」
「ああ、俺は感染してるからな。今更ゾンビの血が入ろうが問題はないはずだ」
一度感染したあとなら抗体ができてるはずだ。
頭の傷口にもろにゾンビの血を浴びたが、たぶん俺は感染しないと思う。
それよりも他のヤバい病気とかになりそうで、そっちの方が嫌だった。
店の一番奥の洗髪台まで行き、シャワーを伸ばして頭から水をかぶる。
寒くて死にそうだが、お湯で洗ったりしてウイルスの含まれた湯気で二人が感染したら最悪だ。
我慢して水で洗うしかない。
頭の傷は塞がったらしく、流れる水から赤色が消えた。
着ている服はジャケットとジーンズが血まみれだが、幸いにもシャツとパンツは無事だった。
頭と腕、それと毛まみれの顔をシャンプーで入念に洗い、ゾンビの血を流していく。
そういえばいつの間にか伸ばしていた爪が元に戻っている。
念のために再度爪を伸ばし、石鹸で爪の間などを洗っておいた。
爪の伸縮が自在なのは、自分でやっていてもなんだか不思議だった。
指の延長線上と言えばいいのだろうか。
指全体を反らしつつ第一関節だけ内側に折るような力の入れ方をすると、爪がニュッっと出てくる。
これは尖っていると日常生活をする上で危ないので、先端をヤスリなどで削って丸くしておいたほうがいいのかもしれない。
でもさっきのようなゾンビを相手するには、尖っている方が切れ味があっていい気もする。
誰かに相談してみるか。
シャツが濡れるとまずいので脱ぐと、パンイチのおっさんが鏡に映った。
左腕を覆った白い毛は、左半身のほとんどを覆うようになってしまっている。
肌が見えている部分は右胸、右肩、腰から下といったところか。
せっかく割れた腹筋が短い毛に隠れてしまっているのが、なんだかもったいない気がした。
血がきれいに流せたのでタオルを使って水をふき取っていく。
美容院のタオルはなんだか水の吸いがいいように感じる。
はさみなどの道具が乗っている台からドライヤーを数台見つけたので、それを持ち二人の元へ行く。
二人に手伝ってもらえば乾くのも早いだろう。
「う、わ、すご」
「おぉ……」
二人の視線が俺の全身を舐めまわすように動いていた。
パンイチおっさんの裸なんて見て楽しいか?
「ちょっと二人とも手伝ってくれ。ドライヤー五台でやればすぐ乾くと思うんだ」
「わ、わかった」
「おっけー。てか恭平、こんな筋肉あったんだね。すごいじゃん」
「毎日プロテイン飲んでいるからな」
適当な椅子に座り、ドライヤーの電源をオンにして温風を髪や毛に当てていく。
明穂と深冬の二人もドライヤーをそれぞれふたつ持ち、腕や胸、肩、腹などに温風を当ててきた。
「でさ、さっきのやつなんだったの?」
「いや、わからん。ゾンビだと思うんだけど、俺から逃げなかったり動きが俊敏だったりしてたからな。もしかしたら別種のなにかかもしれない」
「なにかってなんだろうね?」
「なんだろうな。俺や美香みたいな変異した人間とかか?」
「腐ってなかった」
「ああ。知恵もあるように見えたな。死体をミシェルのところに運ぶべきか……? いや、やめておこう」
もし万が一それで二人が感染することになったら目も当てられない。
俺一人で運ぶ機会があればそのときに運ぼう。
二人の協力を得て、俺の毛はふわふわな状態に戻った。
なんだか誇らしい気分になった。
毛を乾かす度に誇らしい気持ちになるのはなんでなのか。
「よし、じゃあ行くぞ」
「え、ちょ、恭平?」
「本気?」
「仕方ないだろ。ほら行くぞ」
「あ、待ってよ」
二月の寒空の下、Tシャツにボクサーパンツにブーツ姿のおっさんが現れた。
仕方ないんだよ。
ジャケットと長袖とジーンズはゾンビの血で汚れちゃってるんだからさ。
捨てるしかなかったんだ。
そんな目で俺を見るなよ。
「とりあえず、そうだな、とりあえず寒いから服屋探してくれ」
「そりゃそうでしょ!」
「あんた、バカなの?」
お前らを守るためなんだよ、と言ってもわかってもらえそうになかったので黙っておく。
こんな姿のときにさっきのゾンビが現れて戦闘になったら酷い絵面になりそうだ。
どうかなにも出て来ませんようにと願いながら服屋を探して歩き出した。
しばらく週一更新が続きます




