第二話 避難所へ
翌朝、狭いソファで重なるようにして寝ていた美香の下から這い出て、シャワー室へ向かう。
辺りはまだ薄暗い。
壁にかけられた時計を見ると朝の五時だった。
シャワーで汗や汚れを流し、新しい下着に着替える。
四日分の着替えしか持ってきていないから、市役所に入れたら洗濯をさせてもらおう。
窓を開けて一服をする。起き抜けに吸う一本は、至福の味だ。
煙草の煙をくゆらせながら、そういえばと自宅アパートの方を見てみる。
手元から上がる白煙の向こうには、建物群の間から黒煙が立ち上っていた。
車線を埋めていた車に引火し始めたら、この街全てが火の海になるだろう。
そうなったら火事からゾンビから追われ逃げ続けることになる。
現在火の手は見えないので、そんな惨状にならないことを祈るばかりだ。
市役所の方からはゾンビのうめき声が続いている。
人間という餌を前にしてお預けを食らっている怨嗟の声か、はたまた獲物にありつけた歓喜の声か。
前者である事を願うばかりだ。
「おはよ。ちゃんと寝れた?」
「ああ、おはよう。眠気はないな」
「そ。私シャワー浴びるね」
煙草を二本吸い終わる頃に美香が起きてきた。
美香は少しダルそうだったが、シャワーを浴びればすっきりするだろう。
もうすぐ朝の六時になる。
昨晩、何も食べずに寝たから腹の虫がうるさい。
何か食べられる物がないかとキッチンを探す。
ドアがひとつしかない冷蔵庫にはお中元で貰えそうな分厚い塊のベーコンがあった。
他にビールがたくさんと種類がいくつもある缶詰。
このバイクショップの持ち主は晩酌を嗜んでいたようだ。
「すみません。平和になったらお返しするので」
ベーコンと缶詰をいくつか頂戴する。
キッチンの上の棚からは缶パン、いやパン缶が出てきた。
これもお中元で貰うような箱に入っていて、味が五種類もあって驚く。
俺や美香は酒のつまみのような缶詰とベーコンで良いとしても、恵理奈ちゃんのような小さい女の子には不向きに思えて、胃に優しいものが欲しいところだった。
このパン缶はありがたい。
ベーコンを一人分で一センチの厚さに切り分ける。
残りが二十センチ近くあったので、ラップで包んでリュックの中にしまう。
パン缶も二十個あったので、朝食用に一人一缶用意してあとはリュックにしまう。
冷蔵庫の缶詰も詰めると、リュックがパンパンだ。
オイルサーディンとサバ味噌缶をコンロで直接あたためると、あたりにいい匂いが漂った。
「あ、良いね。お酒欲しくなるやつ」
シャワーを終えた美香が髪をタオルで拭きながらやって来た。
「冷蔵庫にビールがあるんだよなあ」
「うわ、その情報はいらなかった。我慢できるかわかんない」
くだらないことを言いながら笑いあう。
「朝飯作っちゃうからさ、子供たち起こしてきてよ」
「ん、了解」
美香が仮眠室に行ったのを見送り、ベーコンを焼き始める。
このベーコンでベーコンエッグを作ったら絶対に美味しいのに、冷蔵庫に卵は無かった。
朝食では予想に反して子供たちの缶詰とベーコンに対する食いつきが良かった。
追加の缶詰とベーコンをペロリと平らげた子供たちは、今はシャワーを浴びている。
俺と美香はバイクショップの屋上に出て、市役所の様子を窺っていた。
「やっぱり囲まれているわね」
「うん。でもバリケードがちゃんとしてある。きっと中に人がいるんだよ」
「でもあれじゃ外からの入り口が無くなっちゃってて入れないでしょ。ゾンビも居るし」
「そうだな。どうやって入るか、か」
市役所のバリケードは、大型トラックや大型バスを並べ、その隙間から単管パイプを突き出す形で補強しているようだ。
あのトラックやバスを乗り越えるのは、できなくは無いが時間がかかるだろう。
もたもたしていたら、ゾンビの仲間入りは間違いなさそうだった。
「とりあえずこの家に使えそうな物がないか探してみよう」
「そうね。バイクでバリケード飛び越えられるかもしれないし」
そんなのスタントマンじゃないんだから、さすがに無理だろう。
美香も本気で言っているわけではなさそうだけど。
「モトクロスタイプのほうが飛べそうよね」
……本気なのかもしれない。
美香は二階の倉庫を、俺は一階の店舗と作業場を探すことにした。
店舗にはバイクの他にヘルメットやブーツなどが置いてあった。
なるほど。身を守るのに使えるかもしれない。
ゾンビが人を食うのは、感染させて仲間を増やそうとしているという説をネットで見た。
ヤツらに噛まれたら絶対に感染して死ぬらしい。
感染した状態で死ぬとヤツらの仲間入りは確定らしいから、なにがなんでも噛まれないように対策をしないと。
続いて作業場に行く。
「これは、すごいな……」
それを見て思わず呟いてしまった。
ワークベンチ横のハンガーに吊るされているそれは、どうやらライダースーツを改造したもののようだった。
肩や背中、腕に足に腹に胸に、あらゆる所にゴツい装甲が取り付けられていたのだ。
明らかにバイク用のプロテクターにしては物々しい。
似ているものを探すとなると、ゴッサムシティで活躍するダークヒーローの着ているスーツが一番近いかもしれない。
これを着れば全身を守れそうだが、コスプレをしているようで着るのに勇気がいる。
結局無難に普通のライダースーツとヘルメット、ブーツを持ち二階へとあがる。
するとそこには、下で見つけたゴツいスーツに身を包んだ美香がいた。
「あ、恭平。これ良くない?」
「あ、ああ。良いと思うよ。このブーツとヘルメットで無敵感が増すんじゃない?」
「良いわね」
美香の着るスーツはレディース用なのだろうか?
体にピッタリ張り付いているように見えて少しだけエロティックだ。
プロテクターの部分は、硬質のプラスチックでできているようだ。
下で見つけたスーツには鉄板がふんだんに使われていたが。
美香がこれまたゴツいブーツを選んで履きコスプレは完成した。
「うわあああ、お姉さん覆面ライダーみたい!」
「かっこいいです」
シャワーから出てきた二人が美香を褒めると、美香は空手の正拳突きのポーズを決めた。
気に入っているようだ。
美香の着ているスーツのグローブには、甲の部分と指の部分に固そうな鉄の補強がされている。
中学高校と空手をやっていた美香にあんなので殴られたら、ゾンビと言わず人間ですらイチコロだろう。
「恭平もこれに着替えようよ」
美香が、俺が面食らって避けたゴツいスーツを手に笑顔で言った。
「ええ……。コスプレみたいで嫌なんだけど……」
「でもほら、バイクで飛んで着地失敗したとき、それ着てれば無事っぽそうじゃない?」
あれ。美香、本当にバイクで飛ぼうとしてるのか?
いやいや。素人には無理だろう。
俺が余程変な顔をしていたのか「冗談よ」と美香が言った。
「うーん、バリケードを乗り越えるときにゾンビと取っ組み合うかもしれないし、この際羞恥心は捨てるか」
「命と天秤にかけられるもんじゃないでしょ。さすがに子供用のスーツは無かったから私たちが盾になって守らないと」
美香が本当にヒーローに見えた。
映画で見たことのある女ダークヒーローのような出で立ちも相まって頼もしさが増す。
スーツを着てみたら、思いのほか軽くて驚いた。
プロテクター部分は動きを阻害しないし、良いかもしれない。
ただフルフェイスヘルメットは慣れていないからか、頭が重く感じて歩きづらかった。
「見てみて。これ可愛くない?」
「かわいい! ねこさん!」
恵理奈ちゃんになにやら自慢しているのは、耳のついたフルフェイスヘルメットをかぶった美香だった。
あんな物もあるんだ、と感心した。
バイクの趣味は俺にはわからない世界だった。
美香はヘルメットの目の部分――バイザーと言うのだろうか――が黒塗りになっていて顔が見えない。
ゴツいスーツと揃うと威圧感がすさまじい。
俺のヘルメットはミラー加工というのがされているらしく、バイザーの部分が反射している。
美香と二人、再び屋上まで出る。
市役所の方を見ると、なにやらバリケードの上に人影が見えた。
「人だ。何をしているんだ?」
「バリケードの補強っぽいね」
トラックやバスの上に単管パイプで骨組みを作っている。
その上にベニヤ板を固定して、壁のようなものができていく。
バリケードの上で働く人たちに手を振ってみる。
「ああ、くそ、気付いてくれない」
「そりゃすぐ下にゾンビがウヨウヨしてるんだもんね。こっちを見るわけ無いか」
「大声を出したらゾンビが反応しそうだ。何か気付かせるものないかな。レーザーとか」
「確か発炎筒があったはず。持ってくるわ」
美香が持ってきた発炎筒に火をつけ、手を高く振り回す。
気付いてくれるか。
「あ、手を振ってる。気付いた」
「よし、いいぞ」
バスの上で作業していた人が、なにやらベニヤを掲げている。
そこには緑のペンキで『少シマテ』と書かれていた。
「待てばいいのかしら?」
「そうだな。オーケー、と」
頭の上に手で大きな丸を作ると、バリケードを作る人たちは撤収していった。
しばらく待つと、市役所の方からエンジン音が聞こえた。
巨大なクレーンが起き上がり、アームをぐんぐん伸ばしていく。
そのクレーンが籠を吊り上げていく。
籠の中には人が一人乗っている。
クレーンはバリケードの外三十メートルくらいのところまでアームを伸ばし止まってしまった。
籠は三階建てくらいの高さに吊ってある。
「あれで入るってこと?」
「そうみたいだ……」
バリケードの上に三人ほどまたやってきた。
三人はそれぞれベニヤ板を持ち上げている。
そこには『コノ距離限界』『来レバ入レル』『来レルカ?』と書かれていた。
「行けると思う?」
「ここから三百メートルくらい? いけるんじゃないかな。バイクですぐでしょ」
「いや、バイクは音がするからダメだろ……」
バリケードの上の人と籠の中にいる人に、手で作った丸を見せてから手を振り家の中に入る。
「優子ちゃん、恵理奈ちゃん。急で悪いけど準備しよっか」
「市役所の中と連絡が取れてね。迎えが来てるんだ」
「迎えですか?」
「そ。高いところ平気?」
「平気だよ!」
「私は少し苦手です」
「そっか。私は好き」
美香よ……。なんのフォローにもなっていないぞ。
使えそうな物いくつかを、店舗にあったバックパックに詰め込み二人に渡す。
恵理奈ちゃんには小さめで軽い物を。優子ちゃんには大人用の大きめな物を。
「重いかもしれないけど、持てる?」
「うん!」
「まだ持てますよ」
「いや、走るのに支障がでるかもしれないからね。それくらいにしておこう」
俺と美香のリュックは登山用の大き目の物。
それ一杯に、ビールを詰め込む美香。
先ほどの探索で、美香が倉庫でダンボールに入ったビールを見つけた。
ビールの箱はあと二箱ほどあったが、俺のリュックはもう食料でパンパンだ。
「頼む。それだけは死守してくれ」
「任せて」
ビールの飲めない生活など考えられない俺と美香は、あえて重い枷を背負うのであった。
玄関を少しだけ開けて外の様子を窺う。
市役所の方から車のクラクションの音が聞こえた。
中の人が音でゾンビを引き付けてくれているのだろう。
「よし、いない。行けそうだ」
「じゃあ優子ちゃん、恵理奈ちゃん。二人は恭平の後ろを離れないように歩いてね」
「は、はい」
「わかった」
「後ろはお姉さんが守るからね」
そう言って美香が耳のついたフルフェイスヘルメットのバイザーを下ろす。
俺もバイザーを下ろして手に持つモップに力を込める。
美香いわく、ゾンビは叩くとか刺すとかよりも押しのけるほうが有効らしい。
なんでもゾンビサバイバルブックに書いてあったそうだ。
こんなゾンビパニックが起きるなんて思ってもなかった頃に出版された本で、美香はその類の本を愛読していた。
そして「もしゾンビに襲われたら」とか「ホームセンターは鉄板」とかを楽しそうに妄想していた。
「恭平は優しいけどヒョロくて頼りがいがないから私が守る」だとか好き勝手言ってくれたものだ。
まさか実践に活かされるとは、その時は思いもしなかった。
そしてこんなにも美香が頼りになるとは。
その本の著者も想像だけでゾンビの対策を考え、それが本当に有効なのだから感服する。
静かに、辺りを警戒しながら歩く。
クレーンに吊られた籠が見えた。
中の人が手を振っていたので振り返す。
よし。あの人も見張りをしてくれるだろうし安全度が増した。
籠が吊られている場所まで三十メートルのところまできた。
「あ、籠が下がってきた」
「ほんとだ。すごいね」
優子ちゃんと恵理奈ちゃんが小声で無邪気にそう話していた。
俺と美香は黙ったまま辺りを警戒する。
「スラー、スラー、はい、ストップ。ちょい待ちで」
中の人がなにやらクレーンに指示をしている。
籠は鉄の網で作られていて、大きさが二メートル四方のものだった。
立ち上がっている部分は一メートルほどある。
その籠からとび職の格好をしたお兄さんがピョンと降りてきた。
「どうも。無事でよかったよ。これで全員?」
「はい、そうですね」
「いや、あんたたちすげえ強そうな格好だね。お嬢ちゃんたちも良く頑張ったな」
「は、はい」
「がんばったよ!」
「はは、元気だ。じゃあ乗せてあげるからね」
そう言って気のよさそうなお兄さんが恵理奈ちゃんを持ち上げて籠の中におろした。
恵理奈ちゃんは嬉しそうにしている。
「ちょっと失礼」
「ひゃ」
優子ちゃんをお姫様抱っこして籠の中に入れるお兄さん。
優子ちゃんは顔が真っ赤になっていた。
「あんたも持ち上げる?」
「やってくれんの?」
「はは、冗談だよ」
気さくなお兄さんに支えられ、籠の中に入る。
美香は綺麗にピョンと飛び乗ってきた。
運動神経が良くてうらやましい。
お兄さんも飛び乗り、無線機をいじる。
「聞こえる? うん、乗った。ゆっくりゴーヘイで」
籠が、ゆっくりと持ち上がる。
「動いた!」
「は、はうう……」
恵理奈ちゃんは嬉しそうにしているが優子ちゃんは怖がっていた。
「あ! 待って!!」
「行かないで!!」
通りの先から声がした。
見れば二人の女子高生がゾンビに追われている。
「恭平! 行くよ!」
「あ、ああ!」
「あ、ちょ、飛ぶな! 待てって! 今下げるから!」
お兄さんが慌てて無線機に指示を出す。
背負っていたリュックを置き、優子ちゃんと恵理奈ちゃんに「ここで待っててね」と告げて籠から飛ぶ。
足にジンとした痛み。
二メートルくらいの高さでも足は痛むようだ。
「走るよ!」
「ああ!」
走り出した美香の後を追うように駆け出す。
女子高生まで百メートルほど。
女子高生の片方は足を引きずっている。
それにもう一人が肩を貸しているせいで歩みが遅い。
距離はあと五十メートルくらいか。
美香の足が速い。
少し距離が開いた。
車の脇からゾンビが。
女子高生に襲い掛かろうとしている。
ダメだ。間に合わない。
「オッラア!!」
美香の飛び蹴りでゾンビが吹っ飛んだ。
今のうちだ。
「おぶるぞ! お前は走れ!」
「う、うん!」
「わかった!」
「美香! 周りよろしく!」
「モップ貸して!」
「そこ置いてある!」
「オッケー!」
女子高生をおぶって走る。
息がきつい。
女子小学生と比べたら、当然のことだが女子高生は重い。
周りから十数人のゾンビが迫ってきている。
まだこんなにいたのか。
「もうちょいだ! 頑張れ!」
少し地面から浮いた籠の中からお兄さんが身を乗り出し、前を走っていた女子高生の手を引っ張り上げた。
「よし! よく頑張った!」
「この子を……」
「任せろ!」
女子高生をお兄さんに預ける。
美香はゾンビをモップで押して転ばしている。
「あんたも乗って! おい、お姉さんも!」
「わかったわ!」
俺と美香がなだれ込むように籠に乗り込む。
もうゾンビがすぐそこだ。
「おい! 上げろ! ゴーヘイ、ゴーヘイ!」
お兄さんが無線機に怒鳴ると、籠がグンっと勢いよく持ち上がる。
鉄の網の隙間から見えるゾンビたちが、悔しそうにこちらへ手を伸ばしていた。
ゴーヘイ = ゴーアヘッド (GO A HEAD) 上げろ。
スラー = スラックアウェイ (SLACK AWAY) 下げろ。