第十二話 死別
目覚めてから二週間が経過した。
俺の体は驚異的な回復力で、以前と同じくらいの体型へと戻っていた。
しかも、以前より体重が増えている。
筋肉量が増し見た目も細マッチョのようで強そうだ。
まあ相変わらずもやしなのだが、それでも以前よりはマシなのである。
一度飢餓状態に陥った体が、必死に栄養を蓄えようとした結果なのだろうか?
人の体というのは不思議なものだ。
昔見た格闘マンガの、水の上を走るという偉業も、もしかしたら現実で可能なのかもしれない。
そう思えるくらい、人の体の可能性というものを考えさせられた。
筋肉量が増したのは、美香が探索から持って帰ってきてくれたプロテインを一日に五杯飲んでいるのも影響があるのか。
まだゾンビパニックが起きていない頃、どうしてももやしから卒業したくて筋肉をつけようとプロテインを飲み続けたこともあるが、あの時は全く何にも効果がなかった。
やはり飢餓状態の体のおかげなのかもしれない。
リハビリを兼ねた申し訳程度の腕立てや腹筋やスクワットも、筋肉増量の助けになっているに違いない。たぶん。
美香の持って帰ってくる食料をひたすら食べるヒナ鳥のような生活は、罪悪感がつのる一方だった。
これじゃヒナというよりヒモだ。
もう足腰もしっかりしているし、そろそろここを出て避難所や駐屯地に行ってみるのも良いかもしれない。
近さ的にまずは駐屯地からか。
優子ちゃんたちの両親が見つかったかどうかも聞きたいし。
美香が帰ってきたら相談してみよう。
夕飯はカレーだ。
サバ缶とひよこ豆、それとマッシュルーム缶とカレー粉で作った。
隠し味に、にんにくパウダーを入れたが量が少なかったようで本当に隠れてしまった。
缶詰を作り出した人類は偉い、そしてカレー粉を作ったイギリス人も偉い。
何よりもスパイスを調合してカレーの元となるマサラを作り出したインド人が偉い。
もっと言えば、カレーに関わる全ての人が偉い。
そう思えるような味だった。端的に言えば美味い。
カレーを美味しそうに頬張る美香に、ここを出ないかと提案した。
「うん、そうだね。だけどあと一日待ってもらえる?」
「なんでだ? 何かあるのか?」
「今探索してる場所がようやく終わりそうなの。全部見ておきたいなって」
「だったら俺も一緒に手伝うよ。そのほうが早く終わるだろうし」
「ううん。ちょっと危ない場所でさ、病み上がりの恭平は連れて行けないよ」
「むしろそんな危ないところに美香一人で行かせたくないんだが」
「大丈夫だって。恭平が寝てる間、さんざん一人で探索してたんだから。慣れてるってば」
慣れた頃に事故が良く起きると聞いたことがある。
俺が心配そうに見ていたからか、美香が苦笑いを浮かべた。
「すぐ帰ってくるから、恭平は荷造りをしといてよ。大丈夫だからさ」
「んー、本当に気をつけてくれよ。俺みたいに噛まれるかもしれないんだから」
「私は大丈夫」
美香はそう言って力こぶを見せてくる。
あれ? これ俺より大きくない?
思っても言わないのが気遣いである。
言わないことにより、俺のちんけなプライドと美香の乙女心が守られるのだ。
ここ四日の食事には常にビールがつくようになった。
美香が段ボールで三箱ほど持って帰ってきてくれたからだ。
カレーのスパイスのせいか、酔いがまわってきたからか、体が熱い。
それは美香も同じらしく、だいぶ薄着になっていた。
美香の主張する豊かな胸元に自然と目が吸い寄せられていく。
「んふふ。する?」
「え? あ、ああ、いや、そう、だな」
ついドギマギしてしまった。
童貞の坊やじゃあるまいし、なにを慌てているんだか。
「恭平が起きてからしてなかったね。四ヶ月ぶり?」
「はは、そうなっちゃうのか」
「駐屯地に行ったらやりにくくなっちゃうし、今日はいっぱいしよっか」
「お手柔らかに頼むよ」
「病み上がりだしねー」
どうせ明後日にはここを出て行く。
俺たちは使った食器もそのままに、ベッドのある寝室へと向かった。
「ん、朝か……」
「おはよ、恭平」
「美香、もう準備済んでるのか」
「うん、早く行って早く終わらせてくるから」
「そっか。気をつけてな」
「わかった。じゃあいってきます」
そう言って手を振る美香を、俺はベッドから起き上がることもできずに見送るのだった。
抜かずの三発とか、十代の頃ですらできなかった。
一回死に瀕したことから、俺の体は生存本能がとんでもないことになっているのだろうか。
部屋はにおいがこもっていて、ひどい有様だ。
ベッドが俺と美香のいろいろな体液でグチャグチャなのも、においの原因か。
シーツを洗濯したり取り替える気にもならず、どうせ明日には出て行くのだと放置することにした。
今晩はソファで寝ればいい。
ベタつく体を流すため、風呂へ向かう。
湯を浴槽に溜めているからすぐに入れる。
駐屯地の風呂がどんなものかはわからないが、避難民や自衛隊員が多いだろうしゆっくり入れる気はしない。
一人でゆったりと楽しめる風呂は今日で最後なのかと思うと、少し名残惜しく思う。
まだ電気、ガス、水道といったライフラインが生きている。
そういった施設で働いている人たちが、一生懸命頑張ってくれているのだろうか。
ありがとう、名も知らぬ人々。感謝してお湯に浸かっています。
世界のこのゾンビ騒ぎは収まったのだろうか。
外に出ていないからいまいち状況が把握できない。
ラジオでもあれば情報が入ってくるのか。
駐屯地に行けばかなりの量の情報があることだろう。
他国の妨害工作で無線が使えないと自衛隊員の菊間が言っていたが、四ヶ月も経てば何かしらの対策はしているはずだ。
シャンプーやボディーソープで髪や体を入念に洗う。
ゾンビという非現実的な化け物が溢れた世界で、普通に入浴できる人はどれだけいるのだろう。
こういう日常が続いていると、ついゾンビなど本当はいないんじゃないかと思えてしまう。
だがこれらの物は美香が外で危険を犯して持ってきたものだ。
そうやって俺が現実逃避をするのは、何か違うだろう。
風呂からあがり、髪を乾かすのは自然に任せて荷造りをはじめる。
朝ごはん代わりにビーフジャーキーを齧りながらだ。
顎も鍛えられて良い。なにより美味しいのが良い。
あっという間にビーフジャーキーを一袋たいらげてしまったのでもう一袋あける。
これ、ビールが飲みたくなるな。
飲んだら荷造りなんかできなくなるのはわかりきっているので却下だが。
却下だが、飲みたいのだ。
視界に入るビールの缶が目の毒だ。
ええい、見えなくするために詰めてしまえ。
今夜はビール無しだ。
怒ってくれるなよ、美香。
ビールの段ボールはあと一箱半。
本数で言ったら三十六本ある。
バラバラにしてリュックに詰めていく。
全部を一つのリュックに納めると、結構な重さになった。
米十キロよりは重い。
ビールの上に着替えやタオルなど軽いものを詰めて一つめのリュックは完成。
もう一つには俺の大好きなサバ缶を大量に詰める。
こちらもダンボールで四箱あるのでバラしてから詰めていく。
二十四缶入りのダンボールが四箱で、サバ缶が百缶近くリュックに詰め込まれた。
ビールと変わらない重さになってしまった。
まだひよこ豆の缶詰と桃の缶詰があるが、どちらも大量だ。
残していくしかないのか。
まあまた取りに来れば良い。
俺はサバ缶とビールがあればそれで良いのだ。
荷造りを終わらせると、お昼を過ぎていた。
ビーフジャーキーを齧りながら荷詰めをしていたが、お腹は空いている。
四袋も食べたのに、まだまだ俺の胃には余裕がある。
駐屯地に行ったとしても、食事量が少ないとかで外に探索に出そうな予感がする。
世の食いしん坊たちの苦しみが少しだけ理解できたような気がした。
お昼は昨日のサバカレーだ。
このカレーはひよこ豆もホクホクで美味い。
美香は毎日夕方に帰ってくるから、これは俺が全部食べてしまおう。
カレー鍋にレトルトライスを温めずにそのままぶっこみ火にかける。
カレードリア的なやつだ。
チーズを乗っけてオーブンで焼いたら美味いんだよなあ。
ああ、ピザとかパスタとか食べたい。
夜になり、外が暗くなってきたのに美香が帰ってこない。
オートロックの部屋は、俺が開けないと美香は入れない。
鍵が見つかっていないそうだ。
だから毎日インターホンで帰ってきたことを伝えてくるが、まだその音がしない。
なにかあったのだろうか。
嫌な想像ばかりしてしまう。
大丈夫だ。きっと大丈夫。
くそ、不安を紛らわす何もない。
煙草が吸いたい。
四ヶ月も寝ていて体からニコチンが抜けたのか、目覚めてから今までは煙草を吸いたいとは思わなかった。
だがこの不安感は、煙草を吸わない限り無くなりそうにない。
「美香……。美香、頼む。無事でいてくれ」
俺の願いも虚しく、美香は朝になっても帰ってこなかった。
眠れぬ夜が開け、頭がボーっとしているところに、チャイムの音が聞こえた。
「美香!」
玄関に駆け出しドアを開けると、そこには、美香の姿があった。
「ごめん、恭平。ドジった」
「ああ、美香、嘘だろ……!」
ヘルメットを外している美香は、プロテクターつきのバイクスーツのジャケットではなく、見慣れない白いダウンジャケットを着ていた。
その白いダウンジャケットが血に染まっている。
元は白かっただろうタオルで美香が首を押さえていた。
タオルは雫が垂れそうなくらい血で湿っており、大怪我をしたのだと一目でわかった。
美香を支え、寝室のベットに座らせた。
汚れたシーツや毛布は取っ払い、マットレスの上に直に。
「傷を見せてくれ」
「うん」
タオルを外すと、血がトロトロと流れ出す。
その傷は、まるで何かに食いちぎられたかのようだった。
「美香、まさか……」
「うん、ごめん……噛まれた」
「そんな……」
「でも、治療薬あるから、大丈夫、だと思う」
「マキシーンか! 貰ってくる! 待っててくれ!
俺もゾンビにならずに済んだあの薬があれば、美香は助かる。
すぐに持ってこようと部屋を飛び出そうとしたところに、美香から「待って」と声がかかった。
「なんだ? 早くしないと」
「うん、そうなんだけど、今、マキシーンは部屋に居ないの」
「出かけてるのか? いつ帰ってくる? 間に合わないぞ」
「マキシーンは四ヶ月前、友達を助けに行くと出て行ったきり帰ってきてない」
「部屋の鍵は? 預かってないのか?」
「ないわ……」
オートロックの扉を開ける方法なんて鍵以外にはない。
だったらどうする。どうすればいい。
「……ベランダだ。たしかマキシーンの部屋のベランダは、ハッチと隣への仕切りはふさがれていたが、外はがら空きだった」
「待って、恭平。何をする気?」
「美香、もう少し待っていろ。薬を持ってくる!」
「あ、恭平……!」
玄関へ向かい、美香が意識を失っても帰ってこれるように、ドアを開けU字ロックを倒しドアを閉める。
こうしておけば鍵はかからない。
すぐに戻ってくるから、侵入者の心配は今はしない。
スリッパを脱ぎ捨て靴を履きベランダに向かう。
窓を開けると冷たい風が熱くなった頭を冷やしてくれた。
焦らず急いで行動だ。
仕切りの壁は軽く蹴れば破れた。
まるでせんべいのようにパキリと割れていく。
同じように壁を壊して隣の部屋へ渡る。
目指すは、一〇〇二号室だ。
一〇〇二号室のベランダから身を乗り出して下を確認する。
九〇二号室と九〇三号室の間仕切りが見えた。
九〇三号室の方へ場所を調整し下を見る。
ちゃんと九〇三号室の真上に来た。
「よし……落ち着け、できる、大丈夫だ、俺はやれる……」
自分に言い聞かせる。
俺は一流のスタントマンだ。
香港の某映画スターだ。
これくらい、なんてことない。
「行くか……」
アルミの枠とガラスで作られている手すりを乗り越え、体を外に出す。
手すりを掴む手に力が入っている。
力みすぎるな。失敗するぞ。
手すりの下にあいた空間に手を入れ、懸垂のようにぶら下がる。
下のベランダまでどれくらいかはわからない。
下を見ると落ちてしまいそうだ。
こういう高層マンションではベランダじゃなくてルーフバルコニーとかお洒落な言い方をするんだよな。
と、どうでも良いことを考えて心の平静を保つ。
覚悟は決まった。
あとは手を離すだけだ。
離したくないという本能を無理やり押さえつける。
パッと手を離すと浮遊感、その後すぐに衝撃。
「ぐ、うぐ……」
九階のベランダの手すりに、しがみつくように掴まることができた。
できたが、ガラスがひび割れアルミがミキミキいっている。
火事場の馬鹿力なのか、掴んだアルミ部分が手の形にへこんでいた。
これは、かなりタイミングがシビアだ。
もう一度同じことをできるのか?
下を見れば赤い跡が何個もあった。
あれを増やす結末にはなりたくない。
できるできないじゃなく、やるしかないんだ。
再度、意を決して飛び降りる。
衝撃が強すぎたのか、アルミ部分を掴んだ瞬間ガラスが砕け散り、手すりの支柱が外へと傾いていく。
手すりの一部分が、丸々外へ倒れ始めた。
落ちる。
手すりが完全に水平になり、勢いを増して下へ向かう。
体を引き上げ、手で掴んでいる部分に足をかけ、跳ぶ。
ベランダのふちに手がかかる。
体がずり落ちそうになるが、ふちに両手の爪を立てて必死に掴む。
ガシャンと地面から手すりの落下した音が聞こえた。
ベランダ内に体を引き上げ、下を見る。
この高さから落ちたら、まず間違いなく死ぬだろう。
ベランダのふちに残る爪の跡を見て、俺がどれだけ死に物狂いだったかがわかる。
ドッと汗が吹き出てきたのを手の甲で拭った。
こんなところで放心している場合じゃない。
早く薬を探さなければ。
ベランダの窓の鍵は開いていたのでそのまま開けて入る。
「薬箱……じゃないか。注射の管理ってどこだ……」
マキシーンの部屋は相変わらずとっちらかっている。
訳のわからない工具やクロスボウなどのほかにも、ガスバーナーや丸ノコの刃などが置いてある。
いったい何に使うのかわからないこれらを無視し、薬のありそうな場所を探す。
「ウイルスにはワクチン……? いや、ワクチンは予防接種か? まあいい。ワクチンの保存方法は……」
ピンと来て冷蔵庫をあける。
「あった! これだ!」
頑丈そうなケースの中に、見たことのある注射器が入っていた。
中身は黄緑色の液体で、俺の打ったやつと一緒だ。
絶対に無くしたりはできない、とケースをポケットに仕舞いこみ玄関を出る。
マキシーンの通った道は鍵がないから使えない。
だったら最短で行くしかないだろう。
道を塞いでいるバリケードを壊すのだ。
垂木やロープ、ダクトテープや釘、ビスで補強されているバリケードは撤去をするのに時間がかかる。
それでも急いで美香のところに戻らないといけない。
「おらあ!!」
思い切り蹴りを叩き込む。
少しぐらついた棚を掴む。
「よい、しょおおお!!」
バキバキと棚のベニヤが裂けてしまった。
垂木をもぎ取り隙間に差し込む。
「邪魔だあああ!!」
テコを利用して破壊しようとするも垂木が折れた。
「ざけんな!!」
もう一度蹴り。
棚がボロボロに砕けた。
その後ろに椅子が現れる。
それも蹴る。
何度も何度も蹴ると、椅子が壊れ少しの隙間ができた。
バリケードを屈んで這うようにしてくぐり抜けると、またバリケードがあった。
「くそ、マキシーンめ。優秀なんだよ……!」
二重のバリケード、たしかに侵入者に対してとても有効な手だろう。
だがそれは俺にも有効だ。
「急いでるんだよ!!」
バリケードに悪態をつきつつ、俺の力じゃとても壊せそうにないテーブルに蹴りを入れる。
ベキンとテーブルの木が裂け、足がハマる。
裂けた場所へ手を差し込み、持ち上げるようにして裂け目を広げていく。
ミキミキと音を立てテーブルは半分に千切れた。
火事場の馬鹿力は人のリミッターを外すという。
こんな物凄い力を使った代償は、ひどい筋肉痛だろうか。
俺の筋肉痛で美香が助かるのなら、その程度の痛みいくらでも耐えてやる。
バリケードを抜け、部屋まで戻ってきた。
美香はベッドの上に仰向けに倒れた状態で目を見開き、浅い呼吸を繰り返していた。
「美香!」
「あ、恭平……おかえり……」
虚ろな眼でこちらを見上げる美香。
もう時間がなさそうだった。
「美香、薬を持ってきた。今から打つ」
「あったんだ……良かった……」
ベッド脇に置いてあった薬箱から消毒液を取り出し、美香の腕へとかける。
ガーゼで汚れをふき取り、静脈を探す。太いのが見つかったから多分これだ。
ポケットに入れておいたケースから注射器を取り出し、空気を抜くために少しだけ液体を出す。
「少しだけ痛いかもしれないからな」
「おね、がい……。寒く、なってきた……」
「待ってろ。今打つから。気をしっかり持て」
「恭平……寒い……」
美香は体が小刻みに震えている。
早く薬を打たなければ。
映画やドラマで見た注射のシーンを思い出し、見よう見まねで静脈へと注射する。
薬液をゆっくりと注入し、針を抜く。
「今薬を打ったからな、もう大丈夫だぞ」
「あ、あ、恭、平……。さむ、い……」
美香の体が大きくガクガクと痙攣し始めた。
痙攣を止めようと体を抱きしめると、とても熱かった。
高熱が出ているからか、額には玉のような汗が浮かんでいる。
美香は焦点の合わない目で虚空を見つめている。
「恭、平……どこ……。さむい、よ……」
「ここだ、ここにいる。美香、俺はここだ」
「ごめ、んね……恭平……。ごめん……」
美香の目から涙と一緒に血が溢れ出した。
「が、ふ……ぐ……」
「美香!」
鼻や耳からも血が溢れ、口からは吐血をした。
俺は美香の名前を呼ぶことしかできないでいた。
「美香、横を向いて。血を出さないと窒息する」
「恭平……ごめん……ごめんなさい……」
うわ言のように呟く美香。
美香の血は止まらず、俺の服やベッドが赤く染まっていく。
薬が効かなかったのか?
どうしたら良いんだ……!
「俺の血だ。俺の血にはウイルスの抗体が作られているはずだ……!」
薬箱に備え付けられていたハサミで手の平を切る。
ドクドクと血が溢れる傷口を、美香の首の傷口へと当てる。
「頼む……頼む頼む! どうか、神様、どうか美香を助けてください!」
「恭平……どこ……さむいよ……」
「ここだ!! 美香! 頼む! 美香!!」
美香の体がいっそう激しく痙攣を始めた。
必死にその体を抱きしめる。
「生きてね……恭平……」
そう呟き、美香の痙攣は止まった。
「ああああ! 嘘だ……! 頼む、美香、頼むから!」
美香の脈はなく、息をしていなかった。
「ダメだ! 逝くな!!」
美香を床に下ろし心臓マッサージを始める。
三十回に二回、人工呼吸をする。
「戻って来い! 美香!」
何度も、何度も心臓マッサージを繰り返した。
段々と、美香の体が冷たくなっていくのを感じる。
「ああ、美香……、ああああ……!」
美香にすがりつき、泣き叫ぶ。
何時間そうしていたのかわからない。
気がつけば外は雨が降り始めていた。
まるで、世界が美香を失った悲しみで泣いているかのようだった。
俺の頭が理解したくないと拒むが、それでも理解してしまった。
今日、最愛の人が死んだ。




