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治郎

「お前ホモか」


 そんな言葉を投げかけられて、治郎じろうは暗闇に堕ちた。


 終わりだ、何もかも。


 何の覚悟も定まらぬままに投げかけられたその言葉は、治郎から全てを削ぎ落とした。








 一番最初、彼に対する印象は最悪だった。


 まず見た目が怖かったし、醸し出す雰囲気も畏怖を覚えるのに十分であった。


 その感覚が薄れて来たのはいつからだったろうか。


 はっきりとは思い出せないし、彼とは特にこれといって特別なエピソードも無い。


 それでも、それでもいつの間にか、彼はそんなに悪い奴じゃないのではないか、と思った。


 何ならむしろ、実は結構良い奴なんじゃないか、とすら思ったほどだ。


 そんな矢先である。


 その言葉を聞いた瞬間、現実が音を立てて崩れ落ち、無音の世界に放り込まれた。


 見えない視界で、治郎は逃げ出した。


 何も聞きたくなかったし、返す言葉も無かった。


 ただ、そこから逃げ出したかった。


 だから逃げた。


 逃げて、逃げて、逃げた。









 しかし、逃げられなかった。


 覚悟が決まったわけではない。


 諦めるしかないという理屈に支配されたのだ。


 逃げ出した感情は悲鳴を上げた。


 立ち止まった今も、叫び続けている。


 前が見えなくても、聞きたくなくても、何も言えなくても、ここに現実はあった。


 追いかけて来た現実の足音も、すぐ近くで止まった。


 治郎は恐る恐る振り返り、それを見据えた。


 怖い。


 しかし目が離せない。


 怖い。


 怖い。


 怖い怖い怖い怖い。


 出来る事は、ただ震える事だけだった。


 一瞬のような永遠のような時は、不意に終わりを告げた。


 何故かは、分からない。


 現実が遠ざかっていく。


 今ここにある現実が、夢のように思えてくる。


 本当に夢だったら、どんなに良いだろうか。


 これから起こる未知に対し、ただただ震えていた。


 収まる気配はない。








 影が差し、人がいた。


 女だ。


 何故かは分からないが、手を差し伸べている。


 震えは止まらなかった。


 それを確認し、目を背けた。


 治郎は深い傷を負っていた。

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