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木漏れ日の下

 太陽は真上から白い光を降り注ぐ。



 黒い目をした女性が目にかかるほどの前髪を透かして、白い日差しを木漏れ日としてぼんやりと眺めている。

 ものの数秒で彼女の興味は他へうつった。細く白いその腕の先には革張りの古い本が握られていたからだろう。

 彼女の意識は再び本の海に沈んで行く。


 遠くからザクザクと地面の雑草を踏む音が近づいてくる。夏の雑草の良いところだ。

 彼女はまたかと静かに呟き、そうして密かに口角を上げた。本人すら気づかぬほど微かに。


「また本を読んでるのか」

 そう言って木漏れ日の下に歩み寄ったのは、彼女とふた回りは歳が離れているように見える少年だった。

  少年は断りもせず女性の真横にのそりと腰を下ろす。夏の草はもしゃっと潰れた音を出した。

「読書に終わりなんて無いのよ」

  少し楽しげに話す彼女は、少年の教師や母親の様に少年に応える。


「楽しいの?」

「好きなの」

  このやり取りが2人にとっての挨拶だった。


  少年は栗色の髪を触りながら遠くを見て言う。

「本なんか読んでどうなるのさ」

  本を読み続ける彼女は目も上げずに応える。

「そんな馬鹿な質問をしないようにするためよ」


 風が頬を撫でて行く。


  少年は少し怯えた目をして彼女を伺う。しかし彼女は前髪を耳にかける仕草をしただけだった。

「怒ってる……?」

「……怒ってないから安心なさい」

  優しい声で応える彼女は少年から見ると、木漏れ日を肩に光らせながら、少年に何かを伝えるような目をして微笑むいつもの彼女の姿が見えていた。


「僕も本を読もうかな」

「あなたは文字が苦手でしょ」

「す、少しくらいなら読めるさ!」

  強がる彼を横目に彼女は言う。

「明日は図書館から本を借りてきなさい。私が読んであげるわ」

「自分で頑張るさ!」

「応援するわよ」

  優しさと嘲りを含んだその笑みを見て、少年は明日から文字の勉強を始めようと心に誓った。



 次の日も快晴だった



  朝から彼女はいつもの木の下で、木漏れ日と読書を楽しんでいた。

 遠くからその姿を発見した少年は、大きく美しいその木の下へと駆けて行く。空には大きな入道雲が巨人のように張り付いていた。


「本を借りてきたよ!」

 息切れしながら彼女に話しかけると、彼女は本から顔を上げた。その横顔が少年は堪らなく好きだった。

「随分と古い本ね。それに電子板型の書籍じゃないなんて、まるで私の趣味じゃない」

 彼女は技術の発達より、紙と活版印刷を愛していた。

「僕も古い話を読んで見たくてさ」

「私は遥か古代の本が一番好きよ。親近感があるもの」

 少年は本についてよくわからなかったため、彼女の言葉の意味はさっぱりわからなかった。でも、古代の本を読みたかった。


 彼女の隣に座り本を開いた少年は、静かに彼女の助けを待った。

 自分から助けを求め、さらに最初から読めないなんて言うのは彼の中の幼き男のプライドが許さなかったのだ。

「……。」


 彼女は黙って本を読む。


 太陽が真上に来た頃、ようやく彼女は再び顔を上げた。

「読まないの?」

「気付いてるなら助けてよ!!」

 少年は半泣きだった。


 2人は肩を寄せ合って少年の本を開く。

「あ、私この本読んだことあるよ」

 少年は微かに悔しさを感じつつ、会話を続ける。

「どんな話なの?」

「読んで欲しいなら音読してあげるわよ」

「むむむ……」

 悪戯っぽい彼女の顔に少年は勝てなかった。

「お、お願いします……」

 少年は敗北感を感じた。完全敗北である。

「じゃあ始めるわよ。……むかしむかしあるところに……」

「なんで古代文字の資料写真から読めるんだよ!!」


 太陽はゆっくりと首を傾げて行く。



 次の日は雨だった。



 その日、彼女はいつになく上機嫌だった。

 図書館で、素晴らしい本を見つけたからだ。

 彼女はいつも来る少年を待つ気分など忘れて、その本を食い入るように読んでいた。前髪も目にかかったままだった。


 少年は傘をさし、しとしとと降る雨の中を歩く。

 その日、少年はいつになく上機嫌だった。

 図書館で、彼女が好みそうな素晴らしい本を見つけたからだ。

 雨に濡れて喜ぶ夏の雑草の中で、大きな木が傘となって濡れていない雑草の絨毯の上に、彼女が座っているのを少年が見たときその美しさに少年はドキドキしてしまった。少年は歩み寄る。


 しかし、少年は乾いた雑草に足を踏み入れる直前、歩みを止めた。恐怖を感じたからだ。

 目の前の彼女が本を読みながらニマニマと笑っている。いつも無表情で本を読むあの彼女がだ。

 それでも、鞄の中の本を見せたいという欲が勝ち、一歩前へ進む。


「なにを……読んでるの……?」

 おどおどしながら話しかける少年に、彼女は勢いよく振り向いて答える。

「植物図鑑よ!」

 少年は驚いた。そして黙った。

「図書館の図鑑ブースなんて入ったことなかったけど、こんなに素晴らしいものがあるなんて!」

 雨の中でキラキラと光るその笑顔をみて、少年は心臓が高鳴る。

「古代の植物から現在の植物までの進化の過程よ!ぱないわ!」

 少年にぱないという言葉の意味はわからなかった。


 少年は背中の鞄に手をかける。

「図書館ですごくいい本を見つけて、気に入ってくれるかなと思って借りて来たんだ」

「珍しいわね。でもこの本を超えるような本はなかなか無いわよ」

 彼女は嬉しそうにそう答えた。

 その反応は、意図せずして少年の口角を吊り上げる。

「上下巻に分かれてる本でさ。上巻が借りられちゃってたから下巻だけだけど。」

「??」

「ほら」

 そう言って取り出したのは、彼女が開いている本の下巻。つまり、植物図鑑の続きだった。


 彼女の目線は動かない。

 少年は続ける。

「あの図書館は1人1冊までしか借りられないからさ。僕の勘が当たってよかったよ。」

 少年は心の中でガッツポーズをする。

「あ、あ、あ、」

「あ?」

「あああありがとー!」

 そう言って抱きついて来た彼女に少年は倒される。雑草の絨毯が断末魔の悲鳴をあげた。


 少年の喉からぐえっと変な声が出る。当たり前だが、少年は彼女より体格でも負けている。少年は苦しさの中で幸せを感じた。



 図鑑は文字が苦手でも読める。

 2つの本を肩を並べて読み終えたとき、雨は既に止んでいた。


 読み終えた後、少年は会話を切り出す。

「今度、街へ出て新しい図鑑を買いに行かない?この図鑑はもう古いよ」

「それはできないのよ」

 彼女の目線は手元の本から少年へ移る。

「なんでさ」

「みんなが私を怖がるからよ」


 彼女はそう言って、“白い前髪” をかきあげる。

 少年はその美しさに目を奪われる。


「僕は全然怖く無いのに?」

「そうよ。歴史を学びなさい」

「じゃあローブを羽織っていこうよ」

 少年の言葉は正しかった。彼女は下を向いて押し黙る。


 その様子に少年は違和感を感じた。


「まさか。まさかとは思うけどさ」

「……。」

「出かけるのが面倒だとかが理由じゃ無いよね」

 少年は疑うような目つきで彼女を見る。真面目な顔をしようと努力しているが、少年のその口元は笑ってしまっていた。


「そのまさかよ……」

「おい!」

 少年は彼女のこういう所も大好きだった。


「長い間眠っていると身体がだるくなるのよ」

 まるで老婆のような白髪で、老婆のように彼女は言った。

「じゃあお昼から出かけようよ」

「1日の睡眠のことじゃなくて、長期的な話よ」

「??」

 少年はその意味がわからなかった。ジェネレーションギャップだろうと捉え、彼女との時間を楽しむことを優先する。


 日は沈んでいく。



 次の日は晴れていた。



 しかし、少年は昼を過ぎても来なかった。


 彼女は本を読みながら少年を待つ。


 日は傾いていく。


 空が赤く燃える時間になっても、本から彼女の顔が上がることはなかった。




 次の日も晴れていた。



 彼女は朝早く図書館へ行き、気に入った本を借りて、いつもの木の下へ歩いて行く。

 毎日2人が踏んで行く夏の雑草は、獣道のように踏み固められていた。


 目を痛めるような深く青い色の空の下を、本を片手に歩く。

 昨日のように少年は来ないかもしれない。その不安が重い枷として、彼女の歩みを遅らせる。


 それでも彼女の歩みは止まらない。


 大きな木が見える位置まで来ると、木の下に先客が見えた。

 その先客は芸術品を扱うように、慎重に何かを持っていた。


 木の下の先客は声を上げる。

「おーい!」

 彼女はその笑顔を見て、一瞬立ち止まる。

 しかし次の瞬間、足枷が取れたかのように小走りで木の下に歩み寄っていった。



 2人は木漏れ日の下に入る。

 大きな木の上では、太陽が柔らかい夏の日差しを振りまいていた。


 彼女は一言目に少年に問う。

「なんで昨日は来なかったのよ!」

 その自分の質問で彼女は少年と会うのを毎日楽しみにしたいた事に気付き、頬に血液が集まって行くのを感じる。

「前日に何も言わなかったのは謝るよ。昨日は探し物をしててさ」

 彼女の様子に気づかない少年は会話を続ける。

「これを見てよ」

 そう言って彼が見せたものは、植物図鑑に芸術品として載っていた “盆栽” だった。


「これは……」

「図鑑に載ってたから頑張って真似して見たんだよ。1500年も前の資料を真似したから上手くできてるかはわからないけどね!」

「私がこれを好きって知ってたの…?」

 彼女は驚きを込めた声で少年に問いかける。

 彼女の目が少年を射抜く。

「図鑑で食い入るように見てたからさ。……もしかして嫌い?」

 不安そうに呟く少年に、彼女は優しい笑顔で答える。

「いいえ、大好きよ!」

 少年は心の中で小躍りをした。


 木の幹を背もたれに、2人は草の絨毯に腰を下ろす。

 ぬるい風が草木の匂いを運んで来る。彼女はこの風を愛していた。


「それにしてもこの盆栽、素敵」

「丸一日かけたんだから当然さ!」

 少年は自慢気に、そして喜びを隠せぬ表情で目線を太陽へ向ける。

 一方彼女は硬い面持ちで盆栽を見つめる。

「でも……」

「え、何か変なところでもあった?」

「この盆栽は普通ね」

「う、うん。普通だと思うんだけど…」

 少年は先程とは打って変わって、彼女が何を言いたいのかわからず焦り始めた。

「あなたの盆栽での才能は……」

「うん……」

「“凡才”ね!」


 少年は困った。

 人生で初めて、脳みそがフル回転する感覚を味わった。どうすれば良いのか。その答えは少年の頭をいくら使っても出て来なかった。

「あっはっはっは!」


 答えは出なかったが、1人で笑い続ける彼女につられて少年の頬は緩む。

「ふふっ」

「あっはっは!」

 2人の笑い声はしばらく夏空の下に響き続けた。


「あなたやっぱり面白いわね!」

 何が面白いのだ。そんな言葉を喉で抑えて少年は会話をする。

「そ、それよりさ。街で良いものを見つけたから買ってきたんだ」

 彼女の幸せそうな姿は確実に、少年の頬を朱色に染める。


 鞄をもぞもぞと漁る。

 彼女の前に開かれた少年の手の上には、菱形の木片が載っていた。

「大密林の方で取れる香木だよ。本の栞なんかに使うと良いんじゃないかと思ってさ」

 少年はこのプレゼントに自信があった。そして、少年の鞄の底には同じ木片がもう1つ入っていた。

 彼女は興味深そうに木片を眺め、香りを確かめ、言う。

「良い香りがするわ。ありがとう。ネックレスにするわね!」

「今の僕の話聞いてた!?」


 木漏れ日が彼女の首筋を照らす。

 太陽は放物線を描き、沈む方向へ傾いていく。


 少年は勇気を出した。

「ね、ねえ。名前で呼んでもいいかな」

 緊張で声が震えてしまっていないかすら自分ではわからなかった。

「別に構わないわ」

 簡単に答える彼女に少年は拍子抜けした。

 風が足元をくすぐる。


「じゃあ……、カティーアお姉さん……」

 小さな声で呟く。

 驚いた顔で彼女は言う。

「よく覚えてたわね。初めて会った時に一度教えただけなのに」

「そんなこと普通だよ。名前で呼ばれたことないけど、僕の名前は覚えてるの?」

 少年の心は嬉しさと激しさに揺さぶられ、大荒れだった。

「もちろん。ボンサイくんでしょ?」

「さっきのくだりを繰り返すのかよ!」


 幸せな時間は流れる。

 黄色い笑い声は夏の草木を飛び越えていく。


 2人の笑いが止むと彼女は唐突に黙った。

「……。」

「……え、どうしたの?」


 少年はなにかで彼女の機嫌を損ねたのかと心配になる。だが次の瞬間、以前の状況を思い出し、無表情になる。

「まさか……」

「ご、ごめんなさいね……」

「そんな!」

 彼女に自己紹介をするのは、2度目だった。




 日は上り、沈む。

 時間は止まらずに流れ続ける。

 しかし、ときに時間は速度を変える。




 その日は晴れていた。



 大きな木の下に夏の風が通り過ぎる。

 草木の匂いと地面の水分。そんなものと共に風は地面を滑っていく。


 木の下の男性は今まで読んでいた本から顔を上げ、上から注ぐ木漏れ日を眺める。

 その頬を撫でて風は走っていく。

 彼の横には木の幹に寄り添うように置かれた細長い岩があり、その岩の前には小さな木が植えられていた。


 そして、その岩には香木のネックレスが掛けてあった。


 遠くから夏の雑草を踏む音が聞こえる。

 彼は本を開いたまま、自分の首元のネックレスをそっと握る。


 足音が止まる。

「あの、初めまして。毎日ここで本を読んでるのが気になって近づいてきちゃいました。なんの本を読んでいるんですか?」

 彼は目線を本から離さず、答える。

「ずーっと昔の学問の本だよ」


「うーん……難しい本なんですね」

 困ったような少女の声を聞き、彼は顔を上げた。

 少女は問いかける。



「楽しいですか?」

「好きなのさ」



 太陽は真上から照りつけ、今日も木漏れ日を地面に描いた。





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― 新着の感想 ―
[良い点] 名前があまり出てこないのが、良いなぁ〜と思いました。 私は、名前をバンバン使ってしまい…。名前が出にくい(出ない)小説を、いつか書きたいです。 最後がちょっと、悲しかった。
[良い点] すっきりとして読みやすい文章で引き込まれました。 物語が続いていくような期待感が持てる終わり方が良かったです^^
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