第二十三話 笑顔でいてほしい。
家に帰ると、悠矢は、玄関で、腕を組みながら待っていた。
「遅い。返すのに、どんだけ時間かかってんだよ」
一瞬、私はムッとした。
私が返してやったのに、その態度は何? 悠矢がやったんでしょ?
……あぁ、悠矢はやっぱり悠矢だ。そう直感してしまう。デリカシーのない義弟なんだ。悠矢は。
ねぇ、晴樹君、悠矢は私のこと、全然好きなんかじゃないよ。
きっと、嫌ってるよ。こんなに、私を怒ってるんだもん。自分がやったくせにね。呆れちゃうよ。
「……ごめんね~、さっきまで晴樹君の家にいたものだから」
嫌味のつもりで言ったつもりだった。何で人の家にいんだよって、少し笑みを浮かべて言うかと思って。
ただ、悠矢は、その言葉に、酷く顔を歪ませた。……何で? 姉が人の家に行くの、そんなに不満なの?
「……んで……いつ……だよ……」
聞き取りづらい。ただ、怒っているのだけはよく分かる。
「……何で怒ってるの?」
私は、訳が分からず、そう尋ねた。悠矢は、私を思いっきり睨みつけた。
「姉ちゃんって、何でそいつばっかなんだよ!? 何でよりにもよらず他校の男子!? 相談事とかするんなら衣織さんとか美玖さんとかでもいいはずだろ!? なのに何であいつなんだよ! 何であいつにだけ頼るんだよ!」
「え……?」
きっと、「あいつ」とは、晴樹君のことだろう。でも、何で晴樹君が一方的に悠矢に責められなきゃいけないのだろう。
でも、答えは決まっている。
好きだから、頼りたい。
それだけの理由だった。好きな人から、守ってもらいたい。……私にも、そんな少女漫画的な発想はあるんだよ。……っていうか、悠矢は何で私のことばっかり突っついてくるんだろう。
「それは……」
「姉ちゃん、姉ちゃんは……」
私が言うと、悠矢は、遮るように言った。
「姉ちゃんは、俺の気持ちなんか、何も分かってない! 俺の好きな人知らないで、勝手に応援して、そんなんで、弟の気持ちを全て分かった気でいて! 馬鹿なんじゃねぇの!?」
図星、だった。
確かに、その通りだった。
私は、悠矢の好きな人なんか、調べようとも、知ろうとも思っていなかった。そんなので弟を守れる私、なんか装っても、全然、悠矢は救われなんかしないってことだろう。
悠矢は、「万引き」のことについても、最後まで「かっこつけて弟を助けた姉」として、私を評価することになるだろう。
それは、少しだけ、悔しかった。
悠矢に言われたことも、少しだけ悔しかったのだ。
「はいはい……。そうだよね。すいませんでした……」
私は、悠矢を横目に、そう言った。明るい声で言おうと思ったのに、何故か、暗く、どんよりした声になってしまう。
すると、途端に、視界が歪んだ。
あれ? 何で?
そう思った矢先、私の目から、水滴が落ちた。
床に小さな水たまりを作り、それはやがて至る所に広がっていった。
私は、地べたに膝から座り込んだ。
「は……?」
悠矢も私の異変に気がついたらしい。呆れたような、情けないような、そんな声が、頭上から聞こえた。
「バッカみてぇ」
ぽつりと呟いたその一言。私は、その一言で、ぽろぽろ涙があふれ出てしまった。
「……っ、……っ」
必死に、泣くまいと口を結ぶ。私、弟の前で、何て情けない格好をしているんだろう。
テレビに映る女優さんの泣き顔が綺麗なのは、演技だから。
本当は、悠矢が「気持ち悪い」ってなるほど、情けない泣き顔なんだよ。
泣き顔なんて、そんなもんだよ。
「姉ちゃん、そんな……」
悠矢の声は、急に萎んだ。
「何で……そんな顔するんだよ……」
え……?
そんな顔? 何でよ。
悠矢は、気にしなくてもいいはずなのに。
何で、そんな悲しそうな顔するの?
「俺、そんな顔させたいんじゃねぇんだよ……」
ぼそぼそと、頭上からそんな声が聞こえる。
「俺は……」
聞こえてきたのは、いつものぶっきらぼうな声じゃない。
くぐもったような、優しげな、けれども、暗い、そんな声。
「姉ちゃん……」
急に。
急に、誰かに、抱きしめられたような気がした。
嗚咽を繰り返し、小刻みに震える私の背中を、誰かが、手で押さえてくれた。
その「誰か」とは、一瞬で分かった。
悠矢、だ。
私は、そっと顔を上げた。
そこには、袖で口元を隠す悠矢がいた。
「悠矢……? 何してんの?」
私の問いに、悠矢は答える様子もない。
しばらく、時間が過ぎた。
つまり、抱きしめられた体勢のまま、しばらく時間が経ったということだ。
「…………ほら、姉ちゃんには、泣き顔なんて、全然、似合わねぇから……」
やっとの声も、そんな、恥ずかしい台詞だった。
「……姉ちゃん、前にも、そんな顔してなかった?」
「ふぇ……?」
悠矢の言葉に、私はしばらく考えた。
そして、思い出す。
「……私がトイレから出てきたとき……?」
「そう」
正解だった。
悠矢は、「正解したらこのハグ状態を解きます」とかそんなことを言うはずもなく、更に、ギュッと私を抱きしめてしまった。正直苦しかったりもした。
「あの時、思ったんだ。……姉ちゃんに泣き顔は似合わねぇって。……俺に文句を言ってるときのような、そんな、意地悪そうな笑顔の方が、もっと似合ってるって」
え……?
嘘、悠矢がそんなこと言うなんて……。
「悠矢……」
私は、思わず悠矢に尋ねてしまう。その声は、思ったよりもか細く、頼りなげな声だった。
いつもは笑っている私のこんなか細い声を聞いて、悠矢は何を思ったのか、私の頭に、そっと何かを乗せた。
「……ん?」
私は、頭の方をちらっと見やった。
悠矢の顎が、乗っている。
「えぇっ……」
戸惑いというものが、私の脳内にあった。
「姉ちゃんってさ、何か、髪からすっげぇ良い匂いするよな」
「……え?」
悠矢は、一瞬、カッコいいことを言ってきた。
何コレ。何でぶっきらぼうな弟がそんなことを言うの? すっげぇ良い匂い? それってシャンプーのこと?
何か、少し恥ずかしいよ。っていうか、悠矢はこういうことに無知なもんだと思っていたから、少し意外……。
「シャンプーなら、悠矢と同じローズのやつ使ってるんだけど……」
すると、悠矢の顎は、頭から離れた。
「……マジで? 俺、いっつも父さんの使ってるから、分かんなかったんだ~」
あ、そうなんだ、お父さんの使ってるんだ。……そう言えば、確かにお風呂上がりの悠矢からローズの香りがしなかったな、なんて気付いた。
「姉ちゃんって、優しいよなぁ」
一瞬、悠矢の言葉とは思えないほど優しげな声が、耳に届いた。
悠矢の言葉の意図を確認する前に、悠矢が徐に口を開いた。
「何事に対しても一生懸命で、自分じゃなくて人のことを助けようって思ったり、人の恋を応援することだって、何でも容易くしてしまうんだからさ。
姉ちゃんには、悲しんでる顔じゃなくて、笑顔が似合ってるんだよな」
悠矢が、一気に別人のように思えてきた。
私の知ってる悠矢とは違う。
私の知ってる悠矢は、ぶっきらぼうで、すぐ暴言を吐く、我がままで傲慢で、万引きの罪を姉一人で片付けても何も言わない、冷たい、けれど少しだけ優しい弟だと思ってた。
でも、今目の前にいるこの子は……?
外見は悠矢だ。でも、中身は別人のように思えてくる。
「人の為に無理するって、もし俺と本当の姉弟だったら、絶対にこんな優しい姉には育ってなかったよ。
きっと、俺の万引きの事実を、調子乗って学年中にばら撒くような、最低の姉気になってたよ。
でも、姉ちゃん、俺とは本当の姉弟じゃないじゃん。……だから、こんなにも俺を守ってくれるような、優しい姉になってくれたんだなって」
「そんな……」
照れる。弟にそんな感謝されていただなんて、私は、何故かこの上ないほど嬉しくなってしまった。
いつの間にか、涙も乾いてしまっている。
だけど、次の瞬間、悠矢は驚くべき言葉を発した。
「俺、姉ちゃんだからこんなに好きになれたんだ」
…………。
何を言ってるんだ、悠矢は。
いつもは、「姉気取ってんじゃねぇよ」ってグチグチ言うくせに、こんなときだけ、そんな優しい言葉なんて。
思わず、くすっと笑う。
悠矢も、「な、何だよ」と笑い気味に言う。
「いやぁ、悠矢から姉が好きだって言ってもらえて、良かったなぁって」
悠矢は、「はぁ?」とさもおかしそうに私の顔を見つめた。
「……あれ、何かマズイこと言っちゃった?」
更に笑う私。
だけど次の瞬間、悠矢は、私が笑えなくなるほどのことを、さも当然かのように言った。
「俺、告白したつもりなんだけど……分かる?」
え?
「告白」……?
「告白……って、何が……?」
訳が分からない。もう笑いは止まっていた。
「告白? そのまんまの意味。姉ちゃんが好きだよって意味」
そこで、分かった。
姉ちゃんが好きだよって、言いたかったんだ。日頃からの感謝の気持ちを伝えたかっただけなんだ。
それを、「告白」と言っちゃうなんて、やっぱり小学三年生、表現に鈍いお子様だなぁ。
「あぁ、ありがとうって意味? 全然平気だよ、そんなの」
私は、やんわりと悠矢に言った。その優しさだけで、もう充分だから。そう言おうとしたけど。
悠矢は、「ははっ、違うんだよなぁ」と前髪をくしゃくしゃにしながら、呆れたように言った。
「じゃあ、誤解しないように、もう一度言っておくね?」
馬鹿だなぁ、悠矢。誤解も何も、それで合ってるじゃない。
っていうか何でこんなときだけ優しくするわけ。
さては。
「もう、悠矢、ゲーム買ってもらおうって言うなら、私じゃなくて、おばさんに頼み……」
「好きだ、遥乃」




