第二十二話 事情説明。
「お邪魔します」
私は、平野君の家に、足を踏み入れた。
平野君の家は、広くて綺麗な一軒家だった。外に停められている車も、八人乗りの車だった。
二階に続く階段が玄関のすぐそばにある。奥には、部屋が一部屋二部屋ある。
「ひ、広いね……」
「そう? もう慣れちゃったから、あんまり広いって感じはしないけど」
「いや、でも、私にとってみれば広いよ」
私は、スニーカーを揃えて、そっと歩いた。
すると、二階から声がした。
「あれ? 晴樹、もう帰ってたんだ~。お帰り~。……話し声したけど、何? お母さん帰ってきたの~?」
女の人の声。もしかして、平野君のお姉さんかな?
「姉さん、ちょっと友達連れてきてるから」
「は~い」
また声がしなくなる。
「姉さん、今勉強中みたいだから、静かに上がってほしいんだけど、良い?」
「うん」
そんなのいちいち聞かなくても良いのに、平野君は、律儀に顔の前で両手を合わせている。
階段を上がると、ドアがある。ドアを開けると、クーラーの冷風が体に伝わってくる。
ひんやり、気持ち良い。
「あ、こんにちは。君が、晴樹のお友達?」
声がした方を向く。
そこに、椅子に座った女の人がいた。
長い黒髪ストレートに、赤いフレームの眼鏡の、平野君と顔がよく似た美人さん。身長は、中学生の平均って感じ。白の薄手のパーカーに、無地の水色のTシャツに、白のショートパンツを着ていて、部屋着って感じがする。
「あの、私、真城遥乃って言います……」
私は、お辞儀をした。
「遥乃ちゃん? 私、晴樹の姉で、晴華って言います」
ぺこり、と晴華さんは、座ったままお辞儀をした。
「姉さん、今高校の受験勉強してるんだって」
平野君が言った。
「あんまそういう話しないの、晴樹」
「ふい」
何か、和やかな姉弟だな。私と悠矢とは大違いだ。
「ゆっくりしてってね。……あ、そうだ、クッキー出そうか?」
晴華さんは立ち上がる。私は慌てて止めた。私が来たせいで受験勉強を中断してしまったらもったいないからだ。
「いえ、大丈夫です。食べませんから」
「あら、そう?」
晴華さんは、残念そうに椅子に座った。
「じゃあ、ジャスミンティーでも」
晴華さんは、もう一度、立ち上がった。
「え、だから、大丈夫ですって……」
「ん? 私が飲みたいから、そのついでってことだよ?」
晴華さんは、私に優しく言った。その優しさは、私の心を安らかにしてくれるような、そんな優しさだった。
「ありがとうございます。お言葉に甘えて、いただきます」
「礼儀正しいねー。……まぁそれが、晴樹の彼女っぽいけど」
「へっ?」
私と平野君は、同時に肩を揺らした。
「あれ、違った? 女の子だったから、彼女だったのかなって」
晴華さんは、ジャスミンティーをカップに注ぎながら笑った。
「違うよ。……彼女じゃなくて、その……」
「私を救ってくれた、いわば、救世主……みたいな人なんです、平野君は」
私と平野君が必死で説明すると、晴華さんは「そっかそっか」と微笑んだ。
「あ、そうだ。晴樹、私、夏期講習行くから、夕ご飯宜しくね」
「は~い」
えっ? 平野君、家の仕事してるの!?
お父さんとお母さんが、私と一緒で忙しいのかな。
「味噌汁と小魚の佃煮は作っておいたから、あとはご飯と、適当に、冷蔵庫にある食材使って~」
晴華さんは、白いゴムで髪を三つ編みにしながら、平野君に言った。
「オッケー」
え、晴華さん、塾だと三つ編みにするんだ。
てっきり長い髪のまんまなのかと思ってた。
「じゃ、遥乃ちゃん、ゆっくりしてってね」
ジャスミンティーをテーブルに置いた晴華さんが、バッグを持って、ドアを開けた。
「いってきまーす」
「いってらっしゃーい」
平野君が、棚からお米を取り出しながら、言った。
「ね、ねぇ、平野君」
私は、平野君に、何で誘ったのか尋ねようとした。
「平野君、じゃなくて、晴樹って呼んでくれる? その方が慣れてるから」
「えっ?」
平野君は、私を見ている。
「……あ、はい、分かりました」
私が頷くと、平野君、もとい、晴樹君は、歯を見せて笑った。
「嫌なら、呼ばなくても良いよ?」
「あ、別に、嫌ってわけじゃなくて、……晴樹って呼ぶのは、ちょっと馴れ馴れしい感じがするから、晴樹君……で良い?」
私がおずおずとそう言うと、晴樹君は「うん、良いよ」と、えくぼを見せて笑った。
何か、可愛くて、良いな、と感じた。
◆◇
晴樹君は、一仕事終わったらしい。
「ふぅ」と一息ついて、椅子に座った。
「あ、ここ来て、座ってくれる?」
晴樹君は、隣の席を指差して言った。
「へっ、あ、うん」
分かりました、というのも変なので、とりあえず頷いて、隣の椅子に座った。元々、晴華さんが座っていた椅子だ。
「……あ、ねぇ、悠矢抜きで話したいことって、何?」
私は、尋ねた。すると晴樹君は、「あぁ、そうだった」と思い出したように呟いた。
「……あの時、万引きしようとしてたでしょ。僕、遥乃さんが何かを抱えてコンビニに入るところ、見てた。
でも、あれって、万引きしようとした商品を返そうっていう感じだったんだよね」
図星。
「もしかして、悠矢君と、何かあったんでしょ?」
図星。悠矢のことを話題に出す晴樹君は、エスパーなのだろうか。
その時のことを思い出しただけで、胸がキリキリと痛んだ。悠矢のあの顔が、頭の中にへばりついて、離れないのだ。
「……うん」
私が、悠矢のことを思い出しながら頷くと、晴樹君は、「やっぱりね」と苦笑いした。
「そうだと思った。東さんも松宮さんも、遥乃さんとトラブルがあるようにも見えなかったし」
「……う、うん。そだね」
何故か、会話の合間に相槌を挟んでしまう。挟まなくてもいい相槌を。
「何があったのか、教えてくれる?」
テーブルに肘をついた晴樹君は、その顔をこちらに向けた。
綺麗な横顔がこちらに向いて、私は、一瞬ドキッとしてしまった。
綺麗な顔って、やっぱり、どんな顔をしていても、綺麗なんだなぁって、実感してしまった。
でも、今さっき起きた衝撃の事実を、好きな人に打ち明けるのは、少し時間がかかると言うか……。
「あぁ、別に、言いたくなかったら、言わなくてももちろん良いよ」
晴樹君は、私に微笑みかけてくれる。
そういうところが、やっぱり、好きなんだよね……。
「……ねぇ、気付いてるかな?」
「はい? 何が?」
いきなりの言葉。何のことなのか、私にはよく分からなかった。
「あぁ、気付いてないね」
晴樹君はちょっと苦笑しながら、言った。
「僕が、遥乃さんだけ、「遥乃さん」って呼んでることだよ」
「えっ?」
私は、「そうだったっけか……」と思い返してみた。
『そうだと思った。東さんも松宮さんも、遥乃さんとトラブルがあるようにも見えなかったし』
本当だ! 確かに、衣織ちゃんと美玖さんは名字にさん付けだけど、私だけ、名前に、さん付け……。
「僕、遥乃さんを、助けてあげたいんだ。だから、色々、相談に乗るよ?」
晴樹君は、白い歯を見せて、ニッと笑った。笑顔が、やっぱりよく似合う。
「ありがとう」
そして、私は、悠矢のこと、万引きのことを、全て話した。
◇◆
「だから、私、どうしようって悩んじゃって。葵さんが、悠矢に万引きをするよう責め立てて、それで私、また責められて、「被害者面してんじゃねぇ」って、すごく怒られそうだったけど、泣かずにはいられなかったんだよね」
「…………」
私の話を、最後まで聞いてくれた晴樹君。
やっぱり、晴樹君は、すごいよ。
こんな人にまで、親身になってくれるなんて。
そこで、私はちょっと思った。
もしかして、こんなヒロインみたいな話聞いて、呆れてるだろうなって。
「変だよね、私。絶対、被害者みたいな顔してるって、思われてるよね? 晴樹君も、そう思う……」
「うぅん、全然思わない」
晴樹君は、首を横に振った。
「そんな風に弟を守れる遥乃さんは、すごいと思うし、そうやって、悲劇のヒロインに酔いしれずに、ちゃんと現実を見つめてるってことも、多分、他の人には出来ないことだと思うよ。他の女の子は、悲劇のヒロインになったらとことん酔うからね」
その言葉は、私の胸に、ストン、と落ちてきた。
やっぱり、晴樹君って、人の胸に響くことを言ってくれる人なんだ。
それがたとえお世辞であっても、嬉しかった。
「あーあ、にしても、僕にもそんなお姉さんがほしかったな~」
晴樹君は、大きく伸びをしながら言った。
「優しくて弟を守って、そんでもって現実を見れるようなカッコいい姉さんがさ~」
えっ、いや、私なんて全然優しくもカッコよくもないし!
「いや、晴華さんの方が、綺麗で美人で、優しいお姉さんじゃない! 私なんかとは大違いだよ!」
「いやあの人、客が来たら「優しい私」ぶるけど、いつもは鉛筆一本なくすと「晴樹も探せぇっ!」っていう暴君だからね」
「えっ、何それ!」
私は、大人しそうな晴華さんが、鉛筆一本なくしてキャーキャー騒いでいる姿を想像して、噴いてしまった。
「普通はそんな感じだからね。弟を持つ姉ってものは。……僕が女だったら、姉妹で何か変わっていたのかもしれないけどね」
晴樹君は、「でも遥乃さんは」と私を見た。一瞬目が合って、思わず戸惑う。
「優しいよ。多分、義理の弟だからって言うのもあるかもしれないけど、でも、こんなに優しいお姉さん持って、悠矢君、幸せ者だねぇ」
「えぇ……」
私は、思わずそんな声を出してしまった。だって悠矢は、私を良く思ってないもの。
「万引きしたら、お姉さんが解決してくれる。弟にとって、こんなに良いお姉さんなんか他にいないと思うだろうからね。……きっと、惚れることもあるんじゃない?」
晴樹君は、真面目な顔でそう言った。
途端に、私はまた、噴きだした。
「え~、そんなわけないじゃん」
有り得ないよ。そんなこと。弟が姉に惚れる? 漫画とか小説でしか見たことないよ。
「漫画の見すぎだよ~、晴樹君は」
「……だよね~、冗談冗談」
今の間は何だったんだろうと思いながら、私はジャスミンティーを飲んだ。
しかしこのジャスミンティー、美味しい。紅茶なんて殆ど飲んだことがなかったので味がよく分からないけど、何か美味しい。
ジャスミンティーを飲み終わるまで、晴樹君と私は、一言も会話を交わさなかった。
晴樹君は、頬杖をついて、私の方を見ている。
気まずい、という感情が、少しだけ脳裏をよぎった。
「もう、帰るね」
私は、ジャスミンティーを机に置いて、言った。
「えっ、もう?」
晴樹君は、ハッとした様子で、一瞬素早い動作を見せた。
「うん。カップは洗ってくよ」
私が立ち上がって、キッチンの所に向かうと、晴樹君が、「いいよいいよ、僕がやっとく」と私の後についてきた。
「いやいや、私が飲んだんだから、私が洗わないと」
「いいよ、元々は僕の家のものだから。……ね?」
晴樹君は、私の手に握られているカップを、そっと自分の手に移した。
「……う、うん。分かった……。宜しく……」
私は、晴樹君の動作に「おぉ……」と思いながら、ぺこりと頭を下げた。
「じゃあ、もう、帰らせてもらいます」
私は、ダイニングのドアを開けた。
クーラーが効いていた部屋の外に出ただけで、むわん、と熱気が漂ってくる。
「お邪魔しました」
私は、大声で言いながら、靴を履いて、玄関から出て行った。




