第十三話 意外な方向へ。
月曜日。
ショッピングモールと悠矢の事件から二日が過ぎ、私は何事もなかったように登校している。
学校の皆はもう半袖ショートパンツの子ばっかりで、たまに長ズボンの人がいるだけだった。
時期は完全に夏。蝉が鳴くのはもうちょっと先だろうか。
しかし、今日は雨。
梅雨時の雨って時々独特な匂いを放つことがある。衣織ちゃんは「ああいうの、むしむしした感じで嫌い」と言っていたが、私は個人的に好きだった。
私が、自分の席で読書をしていると、ふいに、
「あーあ。……今日せっかく水泳があったのに、出来ないじゃない」
教室で、棚にランドセルを入れようとしていた美玖さんが、呟いた。
ベランダの床を濡らすほどに振り続ける雨は、窓を閉めているにも関わらず、「ごおおおぉぉぉ」という音が鳴り響いているのが聞こえる。
「にしても、雨なのに暑いよね~」
衣織ちゃんが、レースのハンカチをパタパタと扇いでいる。衣織ちゃんは、手を拭くとき用と、汗を拭く用と、二つ常備しているらしい。流石に女子力が高い。
「何でこんなに暑いんだろうね」
美玖さんも衣織ちゃんに答える。
「誰かが寒いギャグ言えば少しは涼しくなるんじゃねぇか?」
悪意があるのかそうではないのか、藤沢が衣織ちゃんに近寄りながら言った。
「キモいよ、近寄んないで」
しっし、と美玖さんは手を振る。
そんな露骨にやらなくても、と衣織ちゃんは美玖さんの手を下ろす。
衣織ちゃんの優しい行動に、藤沢は頬を赤らめた。彼の脳内では、衣織ちゃんの好感度パラメーターが更に急上昇しているのだろう(元々好意を抱いていたから)。
「にしても、遥乃。大丈夫? 悠矢君」
「え、美玖さん? 何でそれを?」
急に話題が振られて、私は驚いた。
しかも悠矢のことだ。誰だって驚くだろう。
「何でって。何か、ちょっとした噂なのよ。衣織の塾でちょっとした話題になってるって。悠矢君が同級生の男の子の目殴って、その姉達に詰め寄られたんでしょ? それ目撃した人が話してた」
美玖さんが私に言うと、「あー、言ってた言ってた」と衣織ちゃんが話に乗っかった。衣織ちゃんの気を引こうと話題に食いこんできた藤沢は、完全においてけぼりにされている。
「私、聞いたんだ。それ聞いて、びっくりしちゃった」
私は、言葉も出なくなって、固まることしか出来なかった。
つまり、私が涙ながらに「帰って」と言ったことも。
全部、広まっているということ?
「う、うわぁ」
少しだけショックを受けて、頭を抱える。
「そんなこと、誰が言ってたんだ」
話にやっと乗っかった藤沢が、衣織ちゃんに尋ねた。
「え? 確か、晴樹君がぽろっとそれ言ったのが原因だったんだよね。……それで、皆話を聞こうと必死になっちゃって」
「っは?」
私は思いがけないその言葉に、思わず変な声を出してしまった。
平野晴樹?
顔が一瞬浮かんでこなかった。
最後に話したのは、それほど遠い日の出来事じゃなかった気がする。
「平野晴樹……だったよねぇ。……あの超イケメンの」
美玖さんも同意する。この二人は、平野君を好きな人達だ。
「……平野晴樹って、あの全校朝会の時朝礼台に上がっていった……?」
藤沢も思いだしたようだ。
出来れば思い出してほしくなかった。
「そうそう、藤沢のくせに、よく覚えてるじゃん」
衣織ちゃんが言う。へへへ、と藤沢は照れくさそうに笑った。別に褒めてるんじゃないと思う。
「そいつが言ってたのか。……遥乃のこと、助けたかと思ったらそんな噂流す奴だったんだな。……そんな奴より、俺の方が百倍も良いだろ?」
否定しながらも、すかさず自己主張をする藤沢。
「ちょっと。晴樹君のこと悪く言わないでくれる? あと藤沢より百倍カッコいいから」
すかさず衣織ちゃんが反論する。
あぁ、平野君に恋している衣織ちゃんに片想いしている藤沢には、多分春は来ないだろうな。
しょぼん、とうな垂れている藤沢には目もくれず、「じゃあね、遥乃ちゃん」と自分達の席に戻っていった。
残された藤沢と私は、なんとも気まずい空気となった。
私は、藤沢をじっと見つめ、藤沢は机に突っ伏している。
私はこの空気から逃れるために、椅子から立ち上がろうとした。
「あのさ」
それを、逃がすまいと言っているかのように、藤沢が口を開いた。
小さな声で、呟きとも、独り言とも取れた。
だが、やけに藤沢に興味がわいたので、その話をちょっと聞いてみることにした。
「俺、衣織が好きなんだよな。……遥乃も知ってるだろ?」
良かった、私に尋ねていたみたいだ。にしても藤沢、やっぱり衣織ちゃんのことが好きだったんだ。
「多分周りの奴ら、俺が衣織を好きなの知ってると思うんだ。だから、俺に協力してくる男子もいた。
でも、衣織は俺を見てくれなかった。……それどころか。暇さえあれば晴樹君、晴樹君って。
きっとあいつ、晴樹って奴が好きなんだ。……だから、必死に気を引こうと努力した。なのに、あいつ、何で俺の気持ちに気が付いてくれないんだよって。……思った。
でも、晴樹って奴は、運動会の振り返りを利用して、俺達に向かってあんなこと言ったんだ。……多分晴樹って奴は、衣織じゃなくて、お前が好きなんだ。
何か、情けないよなって。……振り向いてくれないのに、そんな努力するなんて。……やっぱ、俺……。初恋、叶えられねぇのかなって……」
やっぱり、私に言っていたんだ。
でも皆、平野君が私のこと好きって言ってるんだよね。……何でだろう。
でも。
うぅん。藤沢の気持ちは、情けなくなんかないよ。
むしろ、すっごくカッコいいよ。
「そんなわけないじゃん。振り向いてくれないなら、振り向いてくれるまで、努力する。それまでの過程を情けないなんて思っちゃ駄目だよ。むしろ、本当にカッコいいことだよ。
……私、まだそういうこと分かんないけど、藤沢の衣織ちゃんを大切に想う気持ちは、とっても良いことだよ。だから、協力してくれる人もいるんだよ」
私の言葉に、顔を上げた藤沢は、少し、目を潤ませていた。
「……遥乃……」
私は「諦めない方が良いよ」と言った。
「そういうところが、晴樹に好かれるんだよな。……多分」
え?
「今、何て……」
「何でもない。それじゃあな」
何故か元気にスキップを刻みながら自分の席へと歩く藤沢。
私はその後ろ姿を見つめて、「自分良いことしたかな」と呟いた。