水茎の跡それから~如月の海:彰太
「水城…彰太さん?」
知り初めたばかりの僕の名を
戸惑いながら口にする彼女を前に
僕の方がまず 戸惑ってしまった
今でもそんな瞬間を よく思い出したりする
傍らで唇を綻ばせている彼女
引き絞られた光が切り立つ暮れかけの由比ヶ浜で
今 あなたが言うには
なにか思い出さなきゃいけないことがあって
ずっと桜貝を拾い集めていたんだって
あのとき
ただの遠景でしかなかった でも目が自然とそこに留まった
ピンク色に染まった肌に輝く
桜貝の小さなネックレス
しんと澄んだ眼差し
憶えてるから だからたどりつけた
そう言ったら ただあなたは恥ずかしそうに笑って何も答えなかった
あなたに初めて僕の名前を呼ばれたとき
僕の中のイメージがそのまま、動き出したような
そんな気がした
息を呑むのも忘れた
そんな不思議な気持ち
今のあなたにも
伝わるかな
どんな言葉でも言い表せない
どんな絵にも描き表せない
だから正直に言うよ
今でもただただ
不思議な気持ちでいっぱいなんだ
思えばたった一字の勘違い
ほんの些細な悪戯心
電子処理された言葉じゃありえない
やりとりだってままならない
でも 投函された想いだけがつないだ出会い
偶然だけど 偶然じゃない
奇跡が手繰り寄せた気持ち
今度こそ
僕はちゃんとこの手で触れてみたい
あなたがそこにいる
僕と同じ時間を過ごしている
そうやって
僕たちの世界はようやく交錯し始めたんだ
彰大さんの握ったその手を
僕はまだ、触れたことがない
分かっている
あなたはその手に消えない色を 想いを 包んでいた
だからこそ 停まっていた言葉は動き始めた
褪せた色は 再び潤いを取り戻した
「帰ろうよ」
僕は今日 そう言ってその手に触れようと思う
あなたが良ければだけれど
僕も もっとあなたが守った色を感じたい
そして僕があなたから得た 新しい色をきちんと伝えたいんだ
由比ヶ浜の陽が落ちる
スケッチする僕の横でやっぱりあなたは 相変わらず
いつも通る
くしゃみをするセントバーナード犬ばっか おかしがって
でもいいんだ
あなたとこうして過ごす時間が ただただ ずっと流れていくなら
「帰ろうよ」
僕は言う そして君に触れる
そしてこう言うんだ
創ろう
これからも
新しい色を
新しい世界を
そして今度は
僕たちの物語を
また新しい春が来るよ
僕たちはこれからも ゆっくりとお互いを馴染ませていかなきゃ