1 一晩明かした男の胸中
朝、目が覚めたら皆、遅かれ早かれ身を起こすと思う。あーかったりー今日も一日メンドクセーと思いながら、立ち上がるはずだ。少なくともぼくはこれまで、そうして一日を始めてきた。
でも今日は、上体を起こした反動で意識が天井まで吹っ飛んでってしまった。
……。
まあ、なんて言うのかな。またしても、だ。
そんなつもりは毛頭なかったのに、ぼくの幽体は体の外へスポーンと抜けてってしまった。
もっとも二回目の体験だから、大して驚くこともない。何かが起きてるわけでもなし、ぼくはのんびりと空中浮遊を楽しむ。
ただ、欲張りな話だけど……楽しむというほど、ここは見た目の派手な空間じゃあない。
石造りの、シンプルな白い部屋だ。はめ殺しの大きな窓からは十分な光が入っていて、生活品がほとんど無いことが判る。
薄い布団の他にあるのは、ダンベルと思しき金属の塊と、小さな本棚、ダンベル、木刀、ダンベル、机、ダンベル、椅子、ダンベル、サンドバッグ代わりらしき土嚢袋、ダンベル。あとはダンベルだけだった。
……ここの部屋の持ち主を、ぼくは十中八九知っているな。
そうこうしている内に、幽体はぼくの身体へと戻る。ある意味当然だけど、身体が重くなったような感覚を覚える。
立ち上がり、まず伸び。手を握って開いて。
ぼくが今、ぼく自身の身体の中にいることを再確認する。昨日のように、ロヴシャや他の誰かの中に居ないことを実感する。間違いなく今ぼくはぼくの中に居て、他人の中には居なかった。
――けれど。
自分の身体の中に居るにも関わらず。
あの感触……素手で、人の身体を貫いた感触は。ぼくの身体に、染みついていた。
二十人の男達を、殴り倒した感覚も。棒と鞭の使い手、《硬度》の《削除》の魔法使い――ホルトン=セルモンを、殺した感覚も。
まるで自分で手を下したかのように、鮮明なイメージとして! 五体に強く、焼き付いていた。
考えるほど、不思議なものだ。
ロヴシャに乗り移っていたのはあくまでぼくの意識であって、肉体じゃない。それなのに、身体で感じたことがフィードバックされている、なんて。イマイチ道理が通っていない。
でも、本来の道理を捻じ曲げるのが――魔法、なんだろうな。
「ははッ」
もうすでに、魔法というものを受け入れつつある自分が可笑しかった。本来なら一笑に付すような話じゃないか……人間が、魔法を使えるなんて。子どもじゃあるまいし。
でも、実際に見てしまった。
ホルトンの魔法――《硬度》の《削除》を。
ロヴシャの魔法――《呼吸》の《削除》を。
こうなればもう、信じる他にない。この世界には魔法がある。人間が、それを使えるのだ。
「そして多分、ぼくも……」
この世界の住人ではないけれど、例外ではないかもしれない。
恐らく、何かの魔法を得ているはずだ。
昨日立て続けに発生した、超常現象――幽体離脱、他人への憑依、そして感覚の共有。二つはともかく、三つ目は、魔法の影響だとしか考えられない。他人と自分の視覚を同時に受容したなんて話、今まで聞いたこともないからだ。
尤も、現時点ではこれ以上のことは判らない。
他の人々……例えばイアや、あの黒髪の子も、魔法を使えるのかどうか。
二人の魔法は何かを《削除》するという点で共通していたようだけど、他の人もそうなのか。
ホルトンが口走った単語……刻印とは何か。あの発光のことなのか。何か意味があるのか。
そして――元の世界に帰れるのか、どうか。
他にも気になることは沢山ある。しかしどれも、今考えたところで解決しそうにはなかった。
言ってしまえば、判らないことだらけだ。
文化も、言葉も――聞き取りは出来るとはいえ――通じない世界へ、単身放り込まれたのだ。ある意味では無理からぬものも感じる。
でも、正直なところ。
ぼくはそのことを特に悲観していなかった。
それどころか、期待しだしている。
この新天地でなら、何か特別な生き方が出来るんじゃないか、と。
少なくとも――元の世界への未練はない。
何故あの世界で生きているのか、とっくに判らなくなっていたから。
「……ああ、いけない」
起き抜けからこんな込み入ったこと、考えるもんじゃない。少し、頭がクラっとした。
二度寝をしようかと悩んで、ひとまず椅子に座る。
「ん?」
ジーパンのポケットに異物感。そうか、ケータイ持ってきてたのか。
取り出して、起動する。傷のないガラケー。バッテリー残量は十分にあった。バイト中はずっと電源を落としていたおかげだろう。ただまあ、当然のように通信圏外だったので、使い道はなさそうだった。とりあえず、もう一度電源を落としておく。
他に持っているのは、ポケットサイズのオーダー表と、ボールペン。それだけだった。しょーもねーな、と溜息を吐きかけたが、すぐに思い直す。
街の風景からして、この世界の文明度は著しく低い。ボールペンはおろか、この薄い西洋紙さえ貴重品かもしれないのだ。大事にしておいて損はないだろう。
服装に特徴はない。七分袖のカットソーの上に、昔のバンドのロゴTシャツ。リジットのジーパン、そしてローテクスニーカー。朝だからかほんのり肌寒いけれど、これといって問題はなかった。
「……よし」
セルフ持ち物検査、終わり。
これからどうしようか。イアかロヴシャが、呼びに来てくれるのだろうか?
ていうかそもそも、どんな経緯でぼくはここに寝ていたんだっけか。ロヴシャとホルトンが戦った後のことが、よく思い出せない。
まあ、いいか。散らかったトレーニング道具はきっとロヴシャのものだし、待ってれば呼びに来てくれるだろう。
ぼくは考えるのをやめ、特にすることもないため、少し体を動かすことにした。
立ち上がると不思議と、昨日のロヴシャの動きが呼び起される。気付くと後屈立ちになり、拳を握っていた。突き、払い、躱し、蹴る。ごく自然に、身体が一連の動きを取っていた。そして、やればやるほど無心になっていく。いつの間にやら汗をかき、頭がクリアになっていった。
扉が開いたのはそんな時だった。
ロヴシャは初め唖然として、すぐに目を輝かしたのだった。