7 命運を分けし一手へと
ぼくは油断していた。
必死に走って追いついた。思いつきの賭けにも勝った。殴り合いも負ける気がしなかった。
もう障害はない、と安堵していたんだ。これが油断でなくて何か。
加えて疲労も頂点に達している。
それで周りを見る余裕が、いつの間にかなくなっていた。
「カイガぁ!」
もう一度イアがぼくを呼ぶ。はっとして、脚に力をこめる。その場に踏みとどまる。即座に構える。まだ左の肘から先の感覚がにぶい。
気が付くとぼくの視界がまた暗転している。イアの五感に注意をもどす。
「おまえは……」
二日前に逃げたひょろい男が、赤毛と並んで立っていた。
「どこほっつき歩いてたんだよ、このウスノロ。いつまで担がせる気なんだポンコツが」
「あ、あんたが速すぎるんだ! 一人で先行されたらたまったもんじゃない!」
「にしたって遅すぎるだろうが! 私は行って戻ってきたってのに、まだこんなところにいるたあ」
「暗殺者と比べられちゃ困るんだよ」
「ピーピーうるさいんだ情けない男だね」
イアにもはっきり聞こえる大声で、二人は罵りあっている。
「話は後にしてくれリズ。それでどうする」
「縁者はどうやらロクに動けないようだね」
それだけ言うと、二人は目くばせをする。
縁者? 誰だろう。イアだとすれば、赤毛の言うことは正しい。
確かにイアは動けない。目こそ覚ましたけど、まだ疲労も負傷も残っている。いまも気を失いそうなほどだ。これらはイアに憑依しているから、正確に把握できている。
この状況で、この二人はどう動くんだ?
目的がイアだと仮定すると、行動は絞られそうだ。
つまり、二人がかりでぼくを倒しにくるか。
あるいは片方がイアを抱えて逃げ、片方がぼくを足止めするか。
少なくとも、二人で強引にイアを抱えて逃げる、なんてことはないだろう。
タイマンで脅威になるぼくを無視するとは考えにくい。
この場を離脱するのに有効な魔法を隠し持っている、という線も薄すぎる。赤髪の魔法は知れているし、細い男のはさっきの、ぼくの腕が伸びなかったやつだろう。
その上イアの魔法もある。あたり一面は畑つづきとはいえ、一、二回なら彼女が≪距離≫を≪削除≫できるだけの対象があるはずだ。
無理矢理突破するには、敵にとって不利な要素が多すぎるはず。
となると、カギは細い男の能力だ。具体的にはいったいどういうものなのか。
そういえば、もう左腕は自由だ。力もこもる。
もちろんイアがぼくを助けたり、一人で逃げることは、期待できそうにない。
コンディションもさることながら、やはり場所が悪い。移動先に選べる物が少なすぎる。一定の時間稼ぎはできても、長引けばけっきょく捕まる可能性の方が高い。
彼女の魔法は二人にもうバレているだろう、というのもあるから、なおさらだ。
「だから一人でやらなきゃ」
ぼくには。
この場を凌ぐ義務がある。
命に代えてもイアを守る。それがイアへの恩義、ロヴシャへの責任だ。
ほんの少し足幅を広げて、腰を落とす。
一人で二人には突っ込めない。足回りの早さよりも、一撃の重さだ。
「かかって、こいよ」
自然と言葉が漏れた。
その瞬間、二人は動いた。
両方が、イアへ!
「くっ……!?」
迎え撃つ構えに入ったのを読まれたか!?
数瞬遅れて、ぼくもイアの方へと身体を向ける。一、二メートルだが、イアへは二人の方が近い。
二人で向かって、どちらがイアを抱えるのか攪乱する気か――
「落ち着いて、カイガ」
イアが、つぶやいた。
「――ッ!」
ぼくははっとした。
そうだ。この状況で、敵が本気でこんな手段を取るはずはない!
これはこいつらの賭け。
二人がかりのフェイント――!
踏み出していた左足は、もう前に出さない。そのまま軸に。
赤髪がこっちに向き直る。
その間にぼくの右脚にはもう、速度が乗っている。
「この状況で!」
振り向いたばかりの赤髪は、右手を懐に突っ込んでいる。
でももう遅い。
きっと何も見えないままで。
「背を向けるわけがあるか!」
ぼくは腹に飛びげりを喰らわせた!
赤紙の身体が少し浮く。
ごふっ、と息と血を吐いて、その場に倒れる。
「リズ!」
とっさに細い男が振り向く。右手をかざす。
瞬間、伸びきったぼくの右脚が、こんどは縮まなくなる。
「≪関節≫の≪削除≫……!」
残心の途中で気づいても、なにも出来ない。
左脚だけでどうにかなるものでもなく、無防備にスライディングしてしまう。
その上に、細い男は肘を立てて倒れこんでくる!
「が、は……」
肺から空気が押し出される。今度こそ、痛みに意識が落ちそうになる。
ぼやけた視界に、拳を握った細い男の姿が見える。
あ、やばい。
これはもう耐えられない。
でもなんとか赤髪は倒したよ。なんとか逃げてくれ、イア――
「カイガぁ!」
それでもイアは、ぼくを呼んでくれていた。
その声が辛うじて、ぼくの意識をつなぎとめた。
「イア……」
魔法を通じて、身を乗り出してくれているのが判る。
全身痛んで、いつ気を失ってもおかしくねいほどなのに、飛び出そうとしている。
そうか、あなたは。
そんなになっても、まだぼくを呼んでくれるんだね。
なら――ぼくも少し、信じていいかな?
頬に殴打を喰らう。
細い男はぼくに追撃をかけようと、また拳を振り上げる。
その隙を見て。
ぼくは右のポケットに入っていたガラケーを、手首の力だけで放り投げた。
「それだよ!」
ガラケーに魔法がかかる。瞬時にイアが飛んでくる。
そして男の肩口に、ナイフを突き刺した!
イアが受け身をとって地に倒れる。
同時に男が醜く叫びをあげる。
ふらついたところを、ぼくは跳ね除けて、逆に押し倒す。
「逆転……だ」
最後の力を振りしぼって、刺さったままのナイフに力をこめる。
男はほどなく気絶した。
今度こそ、勝ったか。
息も絶え絶えに、イアの目を見る。
「ありがとね、カイガ」
「イエス、イア」
疲れ切った顔で、イアは薄くほほえむ。
顔の筋肉が正常なら、ぼくも同じ表情をしていると思う。
「カイガ! イア!」
そこに誰かの声が届く。
「あ、レレイ……ウ……?」
同時にふっ、と気合が尽きたのが判った。
すっかり見えるようになった目で、レレイウの姿を確認するより先に。ぼくは、倒れるように眠ってしまった。




