5 この身に宿りし総力を
当面やることといえば、この生地を踏みつけてコシを生む作業だった。
ごく単純なものだから、レレイウも簡単にできるだろうと踏んでいた。べつにダジャレじゃない。
実際レレイウは小さくうなずいて、ぼくにならって踏みつけだした。
小さな足でのしのししている様が実にかわいらしい。
と、いうのはまあいいんだけど。
誘って数秒、ぼくはひとつ、致命的な過ちを犯したことに気づいてしまった。
女の子と! 二人きりで!
沈黙するのに耐えきれない!!
しかも、レレイウだぞ。レレイウなんだ! すごくかわいいんだ!
あろうことか気持ち余って抱きついちゃったりしてんだぞこの子に! つい二日前だ!
「ひぇ……」
やばい、刻一刻と恥ずかしさが増してくる……。
鏡なくたって上気してるのがわかる。きっと顔真っ赤だぞいま。
うだうだと考えているうち、うっかり手が止まっていた。
はっと顔を上げると、レレイウが不思議そうに小首を傾げていた。
「顔色が良すぎるよ」彼女が言う。
なんだその表現は。
驚いたもんで、とっさに「面白い」としか返せなかった。
「そうかな」
なんだか満更でもなさそうだ。こういう顔もできるんだなあ。
ぎゅ、ぎゅとまた生地を踏み出すレレイウ。その顔はむしろ、彼女の方にこそ何か言いたいことがありそうに見えた。
たどたどしく、ぼくは尋ねる。するとしばらく間が空いて、たずね返された。
「あなたは、私が怖くないの」
「それは違う!」
反射的なぼくの大声に、彼女は少なからず驚いたらしい。ちょっとのけぞられてしまった。
しかも間の悪いことに、ぼくにはそこから続けるだけのボキャブラリーがなかった。
口がパクパクしてしまう。じれったい。
言葉を知らなければ、こうならざるを得ないのか。
目の前の女の子を元気づけることもできない。沈黙するしかない。
そんな自分が恨めしい。
けっきょく、辛うじてひねり出たのは、「大丈夫」という一言だけだった。
その間、大きな黒い瞳は、じっとぼくを見ていた。
こうも正面切って見返すのは初めてだった。こんなに寂しそうな目をしていたのか、と思った。
「嘘じゃないんだね」
「イエス」
レレイウのまとう空気が、少しだけ優しくなった気がした。
あるいはひょっとすると、笑おうとしたのかもしれない。けれどもう笑い方を忘れてしまったのか。
いつかぼくに笑ってくれる日は来るだろうか。
……なんて。
本人に訊くこともできないのだから、妄想にすぎない。
さっきとは別の意味で、恥ずかしくなってきた。
「水を」
井戸から汲んでくるよ、というつもりで、ぼくは大げさに手をはたいた。
「レレイウはここにいて」
頷いたのを見て、そのままゆっくり、ぼくは炊事場を離れた。
「それにしても、レレイウの笑顔かあ」
本人に背を向けるなり、考えるのはそれだった。
あのフラッシュバックの中では、笑えていたときもあった。幼い頃から感情がないわけではないはずなんだ。
だから経験、後天的なものだろう。ぜんぜん見込みはあると思う。
「逆説的だけど、いまのレレイウが何考えてるかはわかんないからなあ」
具体的に何をしようとかは、なにも思いつかない。
おいおい見つけていくしか、ないんだろう。
とかなんとか、ぼんやりしていたところに。
ドタドタドタっと激しい足音が、後から追いかけてきた。
ぼくはのんびりと振り向いて。
「――ッ」
そこにいたレレイウの表情を見て、すぐに身構えた。
よくないことが起こる。
何も言わずとも見て取れる、険しい顔をしていた。
「誰か来る!」
「ロヴシャじゃないんだね!? なら――」
ぼくが言い切るより先に、レレイウは口を開いていた。
「あと三秒で!」
「レレイウ!」
呼ぶが早いか、ぼくは走り出した。
走りながら、気づいた。己の不明を恥じた。
レレイウが起き次第、すぐにここを離れるべきだったんだ。
アイツらにはこの居場所が知られてる。二日前に来た三人のうち、一人生き延びてもいる!
これ以上ないほど、この場所は危険じゃないか! 二日無事だったのがむしろ奇跡的だ!
つまり!
「なにノンキにうどんなんか打ってんだ、ぼくのバカ!」
走る先はもちろんロヴシャの部屋。イアが寝ている場所だ。
とにかく、この人の安全だけは確保しなきゃいけない!
二秒間の全力疾走で部屋の前まで来る。右に曲がれば、イアが寝ているはずーー!
との矢先。
ぼくの視界は唐突に暗転する。
さらに次の瞬間には、自然に膝をついていた。
「がッ――!?」
遅れて理解が追いつく。腹に一撃を食らったんだ。
一方で視界は戻らない。こっちは相手の魔法か!
「カイガ!」
レレイウの声だ。呼ぶほうへと意識を飛ばす。
「イアが連れられた。さっきの人もどんどん離れてく」
そう言うレレイウの視界もまた、闇に包まれている。
敵の魔法は、複数人の感覚に干渉できるのか。それとも光源に作用しているのだろうか?
でもこの場の光源なんて、太陽しかない。そんなもの、個人がどうにかできるのか。
と思っていたところで、両方の視界が晴れる。
ぼく自身の眼でちらとレレイウを確認して、ロヴシャのベッドを見る。そこにイアの姿は、ない。
「魔法の範囲から外れたんだ」レレイウは普段より早口だった。
「ぼくは行く」
とにかく今、言うことはそれしかない。
脚に力をこめる。一発くらい、たいしたダメージじゃない。
「待って」真剣な眼をしていた。「私を使って」
「使う?」
「恩は、返したい。そのためなら――殺す」
ぼくは一瞬、迷った。
頼もしいと思った。レレイウの力は、殺傷力にかけては最高に違いないから。
けれど。
「いや!」
けれどぼくは、しっかり首を振った。
「ノー。きみは、苦しむ。震えてる」
「――!」
自分でも気づいていなかったのか。レレイウは肩を抑える。それでもまだ、小刻みに震えている。
ああ。なら答えは一つなんだ。
きみにはもう、魔法を使わせるわけにはいかない。
「ノー。ぼくが行く」
一瞬、間があって、レレイウは目線を落とした。
覇気が――というより、虚勢が消え去ったのは明らかだった。
念を押すように、ぼくは強く頷いてみせた。
きっと誰にもきみは殺せない。
触れないから、襲えない。
それだけでも十分だ。安心して一人で行ける。
伝えたいことは半分も言葉にできないけれど、やることは変わらないんだ。ぼくは歩き出した。
「……刻印を」
背中越しに、小さく声が聞こえた。
「意識して。身体中を伝わる魔力。流れる大河。それがあなたの力になる」
「わかった」
刻印。あの輝き。
ロヴシャの橙。イアの花田。レレイウの漆黒。
それはぼくにもあるんだ。いつか、背中に白いものがあると、ロヴシャが言っていたのを思い出す。
背中に集まる気を意識する。掴んだそれを、身体中に広げるイメージをもつ。
そうか、これがぼくの力の源なんだ。
ならばこれに、ぼくだけの名を付けようか。
「――オウビイスケイプ。起動する!」




