3 幽世にはまだほど遠く
ぼくは必死だった。それだけは確かだ。
なにかの論理があって、そんな行動に走ったわけじゃなかった。
そう、完全に直感だ。
思いもよらず人を殺し、はばかることなく絶叫し、辛い過去を見せられているレレイウ。
彼女には言葉なんて届かないと思った。
かといって放っておくわけにもいかない。
どうしても彼女を止めなければと思ったら、自然と身体が動いていた。
けど決して、格好のいいもんじゃない。予想が悪い方向に当たっていたようなものだ。
肩が触れた瞬間、ぼくは自分の意識が薄くなるのを感じた。
腕が回ったかどうかさえ曖昧だ。力なんて籠もっていなかった。
視界が妙に暗くなる中で、ぼくはようやく、自分の死を意識した。
それもいいかとすぐに肯定した。
恋した人のために、死ねるのなら。
◆
「……あれ?」
だから。
また目が開いたとき、ぼくは呆然とした。
眩しい光がいつか見た天上を照らしている。
ここはロヴシャの部屋じゃないか。どういうことだろう、なんて。
「バカあーーッッ!!」
思っていたそばから、叫ばれた。
憑依しようか躊躇うほどの剣幕で、イアがそばに立っていた。怒髪天を衝くように思えた。
「自分が何したか判ってる!? レイちゃんに触ったら危険だって、あんたも気づいてたんじゃないの! あと一秒でも気づくの遅れてたら、どうなってたか」
ピシャっと言い放たれて、思わず彼女から目を逸らす。
何を言われるかと肝を冷やしたまま、ぼくは次の言葉を待った。
けれどいつまで経っても次は来なかった。
「……?」
もう一度目を向けたとき。その表情は思っていたのとはまったく違っていた。
イアは怒るように、泣いていた。
思えば初めてのことだった。乱暴な言葉だって、彼女の涙だって。どちらも見たことがなかった。
彼女が愛するロヴシャが決闘を挑まれようが、彼が不在の内に襲われようが、泣かなかったっていうのに。
一滴ならず、赤らんだ頬に筋を作っていた。
だからその泣き顔を見て良いものなのか、まるで掴めず。
ぼくは自分でもわかるくらい、目が泳いだ。
どうもそれがまた、彼女の気に触ったらしい。
彼女は手を振り上げると、ぼくの頬を思い切りひっぱたいた。
短く響いた音のあと、静けさが続いた。
少し伏せていた目をまたイアに向けた。また一つ、涙が筋を伝って落ちていた。
「死ぬかもしれなかったのよ」音程もあべこべだったが、はっきりとそう言った。
「ぼくは……」
口を開いた瞬間、言葉に詰まった。単語力の不足ではなく、感情がいくつか溢れていたからだ。
心配をかけて悪かったとか。
いまになって怖くなってきたとか。
泣いてくれて嬉しいとか。
もう何年も忘れていたような思いが、急に顔を出してきた。
けれどそれに追いつくものもあった。
感情を表してもいいことがない、気持ちは殺すべきだと。
ずっと居座る諦観が、またぼくを支配した。
結局口を衝いたのは、いちばん冷たい思いだった。
「……思う。一度死んで、ここにいる」
「カイガ、あなたは」
くしゃくしゃの顔のまま、ぼくの言葉を噛み砕いてくれている気がした。
「元の世界での人生が、終わったものだと?」
その通りだった。ぼくはイエスと答える。
「つまり、――すでに一度死んでいるから、自分がどうなってもいい?」
「それは」
はっとした。
イアの言葉は図星だったけど、不思議と否定したくなるものだった。
確かにぼくは、自分がどうなってもいいと思っていた。でも今はどうなんだろう。
好きな人ができて、友人ができて、見習いたい人ができた。
未知の力も手に入った。過去を清算できるとも思った。
だったらぼくは、死んではいけないんじゃないだろうか!
「イア、ぼくはそう思ってた。でも」
彼女は真っ赤な目のままで、ぼくを見てくれていた。
だからだろうか、蓋をしたつもりの気持ちが、飛び出してきた。
「ごめん。いま、怖い。あと、――ありがとう」
自然と頭が下がった。
イアには意味が判らなかったようで、目線を合わせるまできょとんとしていた。
でもまたぼくの顔を見ると、ただにっと笑った。いや、笑おうとした。
力なくぼくの名前を呼ぶと、イアはぼくにもたれかかってきた。
いっそ崩れかかってきたと言っていいと思う。すっかり力が抜けていた。
「良かったよぉ、カイガ」うわごとのように繰り返しながら、今度は堰を切ったように泣き出した。
こんなになるほど、イアはぼくを心配してくれたのだろうか?
疑う気持ちも無いではなかったけれど、なんだかどうでもよくなった。
床に突っ伏して泣く彼女に、いつもの落ち着きなんかなかった。
それだってのに、どうしてだろう。ふと覗く横顔が、いつもより綺麗に見えて。
やっぱりこの人のようになりたいと、改めて思わされた。




