2 無情の夢と無双への夢
フラッシュバック。それは、悲しい心理現象だ。
過去、心に刻みつけられたトラウマが、何かを切っ掛けに思い出されてしまうという。
それは鮮明な映像や音を伴うときもあれば、曖昧な恐怖や痛みだけが湧き出すこともある。そのいずれにおいても、当人の心を苦しめる。
辛い過去やトラウマといえば、児童虐待やいじめ、レイプといったものだ。もちろんそれだけとは限らない。人によって、様々なケースがある。
けれど。
もっとも広く、そして強いトラウマを植え付けるものは。
それはきっと、『死との直面』だと思う。
たとえば第一次世界大戦だ。
この忌むべき戦争は、1914年に始まり18年に終戦、翌19年には講和が結ばれている。
しかし1939年に至っても、二十万もの兵士が英国の精神病院で治療を受けていた。
人の死と直面した心は、二十年という月日をかけても、その衝撃から立ち直りえないんだ。
たとえ、自分が負傷していないとしても。
こんな話もある。
1965年、米国による北爆により本格化した、ベトナム戦争についてだ。
十年弱続いたこの戦争において、米国はおよそ五十五万人の軍を派遣した。そのうち戦死したのは、約五万四千人だった。
その一方で。
1987年の米国政府による発表によれば、十万人以上の退役軍人が、自殺したという。
ベトナムで死んだ人々のおよそ二倍が、心の傷を負って死んだと言っていい。
これらの犠牲者のことごとくが、フラッシュバックに悩まされていたとは限らない。
間違いないのは、他人の死はそれだけ、人の心を苦しめること。
そして心を苦しめる現象の一つに、フラッシュバックがあるということだ。
もっとも、現代人が覚えるフラッシュバックとレレイウのそれが、完全に一致するかは定かじゃない。
イアが懸念していたように、魔法の代償としての、フラッシュバックに似ている何かである可能性はある。
それに関するのかどうか。レレイウの記憶は、すでに場面を切り替えていた。
一転して場所は屋外だ。木漏れ日が差す林の中。
小さな木の実を食べて飢えを凌いでいたレレイウの前に、一人の少女が現れる。
レレイウの手にある青い実を指して笑ったあと、ついて来るように手で招く。
少し歩いた先、太い樹に生った黄色い果実を、彼女はもぎ取り、手渡した。
口に広がる甘さと共に、レレイウの心が少し暖かくなった。
けれど結末は、さっきと変わらなかった。
食べ終えると、二人笑顔で並んで歩いた。
手を繋ぎ、林を抜ける。眩しい陽の光に当てられたとき、少女が不意に足を止めた。
不思議がったレレイウが、顔を覗き込む。その顔は青く、唇は震えていた。驚いたレレイウが手を放すと、少女は脚から崩れ落ちた。
斃れこんだ少女をいくら揺さぶっても、もう口は開かなかった。
そのときようやく、レレイウは自分の魔法の正体を悟った。
それ以上は、もう……見るに堪えなかった。
一人で生きることを決めたレレイウは、たいていの月日を人里離れて過ごした。
それでも人恋しくなり、時には街に出ることもあった。
山や森で、狩人と偶然出会うこともあった。
恐れや恨みから、人に襲われることもあった。
その中で何度も、人を殺した。
何度も何度も何度も。
命まで奪おうと考えたことは、一度だってなかったのに。
何人も何人も何人も、彼女の手で消えていった。
◆
「――ッ!」
ぼく自身、どうにかなりそうだった。
覚悟も抵抗もなく死んでいった人々。
その顔を十人と見ることなく、ぼくは意識をレレイウから剥がしていた。
あの人たちはエンダルと同じであり、ホルトンやベラミアとは根本的に違っている。
自分の意思で戦い、駆け引きの末に負けたわけではないんだ。
人間には――使い手であるレレイウ本人も含めて――どうしようもない力を前にして、突発的に死んでしまう。
その様子は、あまりに惨かった。
だからだろう、近代兵器によってなす術なく同朋を亡くした兵士たちに、近しいものを感じるのは。
あのまま最後まで見届ければ、レレイウを理解する助けにはなったのかも知れない。
でも耐えられなかった。あんな悲劇が、いったいあと何回続くんだ?
その全てを見るまでに、英国の精神病院の二十万人、十万人超の退役軍人と、同じ目に遭ってしまう。
直感的にそう思った。
背後からイアの呼ぶ声がする。ぼくの様子に何かを感じたのか。
「あれ……」
その声ではっとした。ぼくの目は、涙で溢れていた。今も頬を伝っている。もしかすると、肩も震えているかもしれない。
意識を他人の中に潜らせていても、ぼくの体に反応が出るものなのか。少し意外だった。
でもそのおかげで、自分の気持ちに自信が持てた。
これは悲しいことなんだ、と。
だからぼくは、口を開いた。
「レレイウ。ぼくは弱い男だ。きみを恐れてしまったし、きみの過去を直視していられなかった」
日本語だから、レレイウには判るはずもない。けれど言わずにはいられない。
「だからこそきみ自身の辛さを理解できる。そう言うことも出来るかも知れないね。でもそれに甘んじるつもりはない」
すでに恐れを克服した、といえば嘘になる。もう一度レレイウに潜り、あの光景を見ようとは思えない。
けれど、いつかはそう出来るぼくになりたいんだ。
そうでなければ悲しすぎる。
恋をした人が、どうしようもない孤独を抱えたままになるから。
「ぼくはきみのために強くなりたい。そしていつか、きみの死の運命さえ、乗り越えたいんだ」
自分自身に誓いを立てる。
そのためにぼくは、彼女を抱きしめた。




