2 空中浮遊は刹那の道楽
次に目覚めたとき、ぼくは空を飛んでいた。
ふわふわとして、重力を感じない。天井スレスレの空中に、ぼくは寝ていた。
ベッドなんて無いけれど、空気が柔らかくて心地よい。
あるいは浮足立っているとも言うだろうか。先ほどまでは慣用句的に、今は字面通りに、だけど。
……やかましいわ!
ぼくは一人ツッコミを入れる。誰も言葉が通じないのだからそうする他ない。
いや、それどころじゃねえだろ! なんじゃこりゃあ!
と、叫んだ。叫んだつもりだった。でも、声が出ない。口を開いた、息を吐いた、それでもなんの音も出なかった。
さっきから何が起きてるんだよ! いい加減にしろ!
エア壁ドンしようが。エア腹パンしようが。等しく何の効果もなかった。
音のない溜息を吐く。リアクションは諦めて、ぼくは体を半回転させる。能動的質量移動による自動姿勢制御の要領で、気楽に体が動いた。
下を見ると、さっきと異なる部屋なのが瞭然だった。大きな窓があり、全体的に明るい。家具も調度も、生活感もあった。ただ、テーブルを中心に、四人の姿があることだけは、変わらなかった。メンツはさっきと変わらない。群青の人。仁王立ちの人。黒髪の子……は逆光の子だろうか? ここからも顔がよく判らないけど。
そして最後はぼくだ。
ん。
何かがおかしいので、もう一度数える。バスローブ、筋肉、よくわからんヤツ、ぼく。
……。
え、なんで!?
待て待て、この理屈はおかしいよ!?
ぼくはここに居るんだよ。天井に。なんでそこに座ってるんだよ。今飛んでるのがぼくだよ。
群青のねーちゃんよ、わけわからん言葉で話してもそいつは何も言わないぞ。ぼくはここだ。ぼくの意識はあなたの頭上だ。
その時、はっとした。意識だけが分離して宙を舞う。……そこから、辛うじて「幽体離脱」という単語を思い出した。
意識が身体を抜け出して、空中浮遊する現象だという。これまで体験したことは無かったけれど、……今この状態が、そうだろうか? TVやマンガでの知識を思い起こすと、そんな気がしてくる。
仮説が立つと、少しだけ冷静になれた。幽体離脱なんて、金縛りの親戚みたいなもんだろうと思い込む。金縛りは年一回くらいで遭うし。すると恐怖心は無くなった。いや親戚という根拠はないけど。
落ち着いたところで、ぼく――の意識――が徐々に動いていることに気が付いた。ずるずると引っ張られるように、どこかへ向かっていた。
とはいえ、行先はすぐに知れた。自分の肉体へと一直線だった。掃除機に目をつけられたかのように、今のこの意識体は吸い込まれていく。
まるで幽体離脱が終わり始め、覚醒を促されているかのように。
なんだ、あっけない。そう思った。
折角幽体離脱出来たのに、もう終わってしまうのだろうか。もう少し満喫したかったのに。
恐怖が無くなると、冒険心が顔を出しても不思議はないだろう。もっと知りたい、何か変えたい。少なくとも、ぼくはそうしたくなった。
始めは二メートル以上あった、肉体との距離。それが今や、三十センチまで近づいていた。事ここに至って、ぼくは周りをキョロキョロと探ってしまう。このベッドの下に潜ってみたかったとか、暖炉の煙突を抜けてみたかったとか、群青の人の……とか。いやそれは破廉恥に過ぎるか。
なら、筋肉の人の筋肉動かしたいな、とか。
そう思った瞬間。
ぼくの進路は急に変わり、速度もグンと上がったのが判った。
今度はなんだよ、なんて呆れる暇もない。
そしてその加速に負けたかのように、ぼくはまた失神した。
なんて、情けない。
「……んじられませーん。森にこんな子がいたなんてー」
多分その声で、気が付いた。ゆっくりと、意識が戻ってきた。
「嘘じゃねえよ。そうだろ?」
何やら、騒がしい。起き抜けの頭に、少し響いてくる。
「怪しいなー。こんだけビクつきながら頷くだけじゃなー。ロヴに怯えて、強要されてるようにしか見えませんー」
「強要も何もねえ。ホントのことだっての」
二人の男女が口喧嘩しているのが、耳に入ってくる。男の声は特に近く、ハッキリと聞こえてくる。その割、耳に不快なほど大きくも無い。全身に響き、鼓膜を震わす分量を調整されているようだった。
「でも、この子何も話してくれないじゃん。ロヴのこと怖がってるんだって」
目が開く感覚があった。飛び込んできたのは、あの群青の人。こうして真正面から見て初めて、とても整った顔立ちだということに気が付いた。まだ少女と言ってよさそうだ。くりっとした瞳は爛々と輝いていて、不思議と目が離せなかった。
「それは森でも同じだったっつの。オレもまだ名前さえ知らねえんだ」
「なにそれ。名前も聞かずに誑かしたわけ?」
「オレがんなことするかよ」
「男は狼である、狼は森で強くなる、となれば」
「比喩表現に座標情報を照らすんじゃねえよ」
でも、何かがおかしい――本当に目が離せない。
群青の人が綺麗というのは、まあそうなんだけど。
少し違う。眼球が微動だにしない。もう少し周りを見たいのに、まるで身体が反応しない。
「大体よォ、現にイアだって男連れ込んでるじゃねえか」
「あ、話題そらした」
「先にそらしたのはお前の方だね」
「話題の後先なんて関係ないですー。会話の流れを見なさーい」
「んだよ、流れに沿ってるだろ」
動け、ぼくの眼。動け!
この部屋を見渡せ。ここはドコなんだ、何が起きてる?
「論点をずらしたじゃん」
「なんか悪いかよ。話題は関連してんだから」
「大犯罪ですー!」
見ろ。この部屋を――見るんだ!
「んなアホな……うおッ!?」
その時、視界の隅で何かが動いた。自然とそちらに目が行く。
「あ、起きた?」
そこに居た姿に、ぼくはまた目を疑った。
群青の人が優しく声を掛けたのは――椅子から立ち上がった、ぼく自身だった。