1 現れたのは孤独の少年
祭囃子が、聞こえた気がした。
慣れない楽器とメロディと、拙く大きな皇帝旗。
この世のモノとは思えぬそれが、目前に立ったように思う。
そんなはずはないと目を擦った。
湯気に包まれていたはずだった。
今日もまた、一日中バイトをしているはずだった。
駅前に佇むうどん屋。その中で、沸き立つ寸動鍋の中に麺を入れたり、丼にタレを入れたり……そうして夜まで過ごしているはずだった。
嫌味な先輩に舌打ちされながら。偉そうな客に睨まれながら。愛想笑いを張り付けて、心で恨めど口には出さず。機械的に、黙々と……まるで仮面を被ってでもいるかのように、働き続けるはずだった。昨日と同じように、……明日も同じように。
そのはずだったんだ。
昼の波が通り過ぎ、客入りがまばらになったところで昼食を摂ろうとした。そこまでははっきり覚えている。
その日は少し贅沢をして、海老天を乗っけようと決めていた。他に具はない、釜揚げうどんだ。うどんは週五で食べるけれど、てんぷらは滅多に乗せないから忘れていなかった。
自分でうどんを茹でた所までは確かだ。けれど、そのうどんをすくい上げたかどうかは曖昧だった。小皿の上に、海老天を乗っけたかも怪しい。
ただ一つはっきりとしているのは、箸をつけてもいないということだった。……折角の海老天だったのに。熱いうどんと、一緒に食べるはずだったのに!
けれど今、ぼくの目の前には。
どこか良い匂いのする、後姿があった。
もっと言えば尻だ。
「…………………………………………は」
まるで意味が判らない。ぼくの釜揚げうどんはドコに行ったんだろう? 麺もつゆも箸も、何一つ手に持ってはいなかった。お盆も無ければテーブルも無い。鍋も無ければレンジも無くて。今ぼくは、さっきとはまるで違う部屋にいた。見たこともない部屋で、横倒れになっていた。
声も出さず、ひたすら呆気に取られてしまう。
いや、声を出すにも手を挙げるにも、身体が重くて出来なかった。頭もぼーっとして、気力を出せなかった。しばらくそのまま、とにかく頭を働かせた。
ぼくの身に何があったんだろう。さっきまで立っていたはずなのだけど、今のぼくは横になっている。
ただ横になっているだけじゃない。周りの音が何でもかんでも理解できなかった。今みたいに、どんな声も識別できなかった。他の誰かが何か言っている気はするけれど、意味が頭に入って来ないんだ。
とそこまで思い出してから、寝床を見る。考えを改めなければならなかった。
今居るのは、どう見てもただの床だ。シンプルだけど生地は良さそうな絨毯の上。でも床だ。ベッドでも布団でもない。
しかも、バイト先のあのうどん屋でこんな絨毯は見たことがなかった。厨房で倒れたのなら、もっと見慣れた……例えば、更衣室なんかに寝かされるはずなのに。
眼前の後姿を確認する。これまた見覚えがない、女性と思しき背中。そして尻だった。
刺繍されたバスローブみたいな服は、今まで見たこともないような仕立てだ。生地は麻だろうか? 毛羽立ちはなく、かなり高級そうに見える……ぼくが着る安物のリネンに比べれば、日本アルプスと鳥取砂丘くらい滑らかさが違うと思う。
もちろんぼくのが日本アルプスだ。
肩まである長さの髪は、艶のある……群青色? そこまで目立たないけれど、明らかに青色が混じっている。ちょっと自然には有り得なそうな色だけど、染めたにしちゃ立派なキューティクルだった。数瞬見惚れる美しさがあった。いくらか眼が釘付けになってしまう。
「はっ」
ふと我に返る。視線を巡らせて、やはり何かがおかしいと再確認する。
少しずつ頭が回り、気力も出てきた。にも関わらず、周囲の声が理解できないままだ。そして急に、何とも言えない不安感が心を埋め尽くした。
本当に、何かがおかしい。
兎にも角にも、と心に決めて、ぼくは上体を起こす。すると音が止み、辺りが静かになった。
声の止んだ部屋。窓がなくて、薄暗い。ただ一つだけある入り口からの光が、強く差し込んでいる。その中心にいるぼくを、六つの瞳が見詰めていた。
二つは、後姿を見せていた女性のもの。ぼくのすぐ側、床に胡坐をかいている。二つは、筋肉質な男性のもの。部屋の入口に仁王立ちしている。そして最後の二つは……よく見えない。入口からの逆光で、顔が判別できない。が、体型からして少女のようだった。
三人が三人共言葉を失って、ぼくを見ていた。驚嘆一色、口を開いて、信じられないものを見るように、ぼくを見ていた。オウ、だか、ヤー、だか、何か呟いて。
それがなんだか大袈裟な反応に思えて、少し面食らってしまう。
最初に口を開いたのは、群青髪の女性だった。どこか見覚えのある立ち姿。
驚きの表情が一転、曇りのない喜びを表していた。ぴぉー、とか、にぁー、とか叫んで、何かを二人にスピーチする。くるくる回りながら、まるで聞き取れない言葉を発して踊る。
「何を、言ってるん、だ?」
不安がさらに募る。もう随分頭もハッキリしてきたのに、女性の言葉が一切判らないのだ。日本語でも無いし、
英語でもない。スペイン語やら中国語やら、聞いたことのある言語とも、語調が違うように感じる。そのことが一層、ぼくを悩ませた。
ただ。
女性の喜び方は、見てて気持ちの良いものではあった。まったく意味は不明だけど、自然とこちらも笑えてくるような。
端的に言えば、屈託のない喜び方だった。
この人に害意はない。
ややもすれば、ぼくが起き上がったことに喜んでくれている。そう思うと、少し混乱が和らいだ。
と、眼が合う。
「……、は…………?」
ぴぉーと叫んだと思ったら、群青髪がぼくの顎下に飛んできた。さっきのいい匂いがふわっと浮かんで、ぼくに絡みつく……その女性は、ぼくを強く抱きしめたのだ。
え、いや、あの。
一瞬で身動きが取れなくなってしまった。
そりゃあ。昇天かくの如しっていうか? なんてーか。背骨に感じる掌の暖かさを感じるだけでも心地良い。アバラのあたりに当たる感触でこれまでの人生を清算出来そうだ。それでなくたって、数秒前に意味不明ながらも喜びを分けてくれた女性と、触れ合える……どころか密着している! それってきっと素晴らしいことで、いやでもこういうのって順序とかさ。あるんじゃないの。ねえ。
ふと、入り口の方に目が向く。
そこでは筋肉質な男性の表情が、驚きから怒りへと! 確実にシフトしていた。自然に上がっていたぼくの口角は一瞬で一文字となって、その端を冷や汗が流れた。その間にも男性の眉は吊り上り、眼が光を失っていく。
ぼくは女性を振り解こうと、震える手を僅かに上げ、……しかしどこを触って良いか判らずにまただらりと下げた。男性の睨みが、またキツくなっていた。
暫くして女性が離れると、今度は頬にキスをしてくる。見かねたのか、男性が何か口を挟む。群青の人は気にする風もなく、ステップを踏み出した。そしてまた何やら、二人にスピーチをする。相変わらず、楽しそうに。
いや、楽しげなのは結構なんだけど。
でも相変わらず、ぼくの判る言葉で話しちゃあくれない。一体何語なんだろう……また逡巡して、頭を振る。
ヒアリング出来ないのだから、いくら考えても判りようがない。まあドコの人にせよ、今こうして日本に渡航して来てるんだから、英語での会話くらい少しは出来るだろう。そう思って、とりあえず声を挙げた。
「えくすきゅーず、みー」
三人が注目してくる。
「めい、あい、あすく、ほわっと、はっぷん、うぃず、みー?」
おかしいな、みんなポケーっとしてるぞ。
「あい、さんきゅ、ふぉ、よ、へるぷ。ばっと、あい、どん、のー、ほわ、ちゅー、でぃど」
そこで群青の人だけ、困ったような笑顔に切り替えた。
「マジか……」
これでも言葉が通じないというのは、予想外で。
正直、気が遠くなりそうだった。
群青の人と筋肉の人は、先ほどよりも大分トーンを落として何やら話し始めた。何やら慌ただしげだ。そして何をどう判断したか一切不明だが、ぼくを部屋の外に出そうとしてくる。意味不明な言葉を発しながら。
筋肉質の人が誘導し、逆光の子が先に出て行き、群青の人が背中を押す。
「……ッ」
一瞬、ぼくは踏みとどまった。ドコに連れ出すんだろう、何をさせるんだろう? そうした疑念が恐怖になって、脚を止めた。この人達に従って良いものかと、訝しんだ。
恐る恐る、眼を後ろにやる。肩の下では、群青色の瞳がぼくを不思議そうに見ていた。
「?」
どうしたのとでも言いたげに、ぼくを見つめ返してくる。
そこに言葉は無く、動作も無かった。
けれどでもぼくは――それを見て、一つだけ決めた。
この人達を信じてみよう。
何を考えているかは判らないし、騙されるかも知れない。
けれどこの真っ直ぐな眼に、どうしても悪意は見えなかった。
女性がまたぼくを押す。今度はされるがまま、部屋の外に出た。
信じようと決め、警戒を解いたまま、光の方へと歩いたのだ。
それゆえ――と言うと、責任転嫁かも知れないけれど。
結果として、ぼくはそこに広がる光景に、肝を潰した。
……そこには。
石造りの街が、広がっていた。
「なんだよ、これ――!」
高校世界史の資料集に載っていた、古代ギリシアの予想図を彷彿とさせた。
部屋の外はバルコニーになっていて、周辺が見渡せる。恐らくこの建物自体が、小高いところに建っているのだろう。見晴らしは良かった。
見える限り、建物は全て白い石造りだった。ほとんどが平屋で、わりかし大きい。道幅も広く、東京のようにゴミゴミとしてはいなかった。
見張り台のような高いものや、屋台、屋根などは一部木造らしい。しかし何にせよ、その文明度は古代のソレだ。甕や天秤棒といった生活具からも、そのことが覗えた。
出店の果物や野菜、魚には、最早見慣れたものが一つもない。
行き交う人々の出で立ちも珍妙で、ジーパンやジャケットのようなよくある格好をしている人が一人もいない。バスローブのようだったり、皮の鎧のようだったり、スモックのようだったりする。
畜産家に連れられ悠々と通りを進む、四足歩行の獣なんかは、豚のサイズながら口が異常に大きい。その口が開いたかと思うと、鋭い牙が何本も揃っていた。そのおぞましさに、身体が竦むのを感じた。
バタンと大きな音がした。背後からだった。あの男の人がドアを閉めたのだ。振りむくと、彼はしゃがみ込んでいた。
間もなく立ち上がると、何かを手に掴んでいるのが判った。引き摺りながら、一歩ぼくに近づく。嫌な予感が、背筋を走る。そして二歩目、ソレと目が合った。
ソレは、あの獣だった。
鋭い牙が、陽に照らされてギラリと光っていて。
「ひっ」
情けないことに、ぼくは小さな悲鳴を上げて。
みっともないことに、そのまま気を失った。
よもや次に目覚めた時、飛ぶことになるとも思わずに。