衛兵男爵の髭を…
衛兵男爵の髭を引っ張り飽きて、女性店員はルシェを店に招いた。彼女はカウンタ・テーブルから鈍色のトレイを摘んで、広間の奥へと歩いていく。仄暗いランプ明かりの中では、2人の客がそれぞれ別の席で項垂れていた。眠っているのかもしれない。
「どうせ払わないから、アレでいいのよ。あんまり他の人に教えちゃダメだからね、衛兵男爵ってアダ名…あれでも結構気にしてるみたいだし」
ルシェは苦笑いしながら、頷くことしかできない。
彼女はそのまま厨房に繋がる腰扉を抜けて行ったので、ルシェは立ち止まった。手招きされたが、ルシェは猫をちらりと見る。
「前に来た時の小さい子と違って、フワフワねえ」彼女は戻ってきて、長老猫を撫でながら言った。「髭が真っ白ね。おじいちゃん猫かしら」
「はい。私が弟子に入る前から、ずっと師匠についているらしいです」
「へえ、そんなに昔から居るんだ。見たことがあるような、無いような」彼女は瞬きをして、ルシェを覗き込んだ。「あれ?師匠なんだ、あの子が。あなたが一番弟子なのかな?」
「はい」少し身を引きながら、ルシェははにかむ。
「ふうん。ひとまず猫ちゃんはお留守番ね」
ひょいと抱きかかえられて、近くのテーブルへと長老猫は下された。その隣で、静かに寝息をたてて、客が眠り込んでいる。猫は何度か体を舐めて、ふさふさした尻尾を前足に巻き、じっと壁を見つめた。
「おとなしい子。それじゃあ、行きましょうか。ヤエちゃんのお使いでしょう?」
「はい」
そうしてルシェは、この青いバンダナの女性店員がエピナルという名前で、三代目魔女の弟子であり、この小さな宿の酒場でこっそり給仕をしながら、他愛もない与太話を集めているということを教えてもらった。
「うん?ああ…猫か。いつも居る猫とは違うね?」猫の目の前で突っ伏していた男は、手にあたったフサフサした感触で目が覚めた。
「フサフサだな。どこから来たんだ。…君とそっくりな猫を、少し前に見たことがあるなぁ。暑い地方だったし、見間違いかもしれないね」と、彼は話しかけながら猫を撫でる。「シトスだったかな。懐かしい」
撫でるのをやめて、彼は振り返った。遠くの席で突っ伏しているもう一人の男を見る。
「なあ、あいつ、慰めてやってくれないかな」彼は猫の喉を掻きながら、苦笑いした。「顔と首に日焼け止めを塗られて、ああしてずっと突っ伏しているんだ」
猫は首を掻く彼の手を肉球で抑えて、やんわりと断った。




