ルシェが大木の…
ルシェが大木の根を超えて道に出ようとした時、シャーノに手を引かれた。そのまま大木の裏側に回ってしゃがみ込み、ルシェは頭を押さえられた。
何事かと訪ねようとしたが、それはすぐに解った。荒い足音が聞こえて、男が一人、並木道をつまずきながら走り去っていった。ルシェとシャーノは、走り去る男の背を見届けてため息を付いた。彼は昼間の男だった。
「びっくりした」ルシェは素直に思ったことを言った。
「僕も」シャーノも目を瞬かせている。
「逃げちゃった…のかな?」
「どうだろう。師匠が逃がすわけもないだろうし、それに…」
「それに?」
「いや、うん、師匠に聞こう。僕らじゃきっとわからないから」
二人で考えるのも楽しいんだけれど、とルシェは思ったが、確かに言われたとおりなので黙っていた。それに、理由を早く知りたい気持ちもあった。
「あら、珍しい。寄り道してくるなんて」シャーノが書斎の扉を開けると、ヤエはそう言った。手には真っ黒な柔らかい布を持っている。「弟子の反抗期かしら」
「逃がしちゃったんですか?」ルシェは尋ねる。
「聞きたいことは教えてもらったから、早く帰るように言ってあげただけ」ヤエはいたずらっぽく微笑む。きっと実際にいたずらをしたのだろうし、相当楽しんだに違いないとシャーノは思った。
「しばらくはここに来ないから大丈夫。ああ、でも、ここでじっとしているのもつまらないし、また城下町に行きましょう。今日はもう遅いし、明日は検診があるし、明後日に出発ね」
ルシェは頷いて、検診の準備を始めた。村人たちに処方する塗り薬や、香草を棚から取り出し、奥の実験室まで運び込む。
シャーノもそれを手伝おうとしたが、ヤエに呼ばれた。
「昼間伝えたとおり、シャーノは明日、ペトラ爺さんの所で修行です」シャーノの方を見ずに、ヤエは椅子に座って何か書き物をしながら言った。
「え、と、修行ですか?」
「そう、修行。正直、私はあまり乗り気ではないけれど」ヤエは書き物を止めてシャーノの方を向き、指で自分の髪の毛先をくるくる回した。「いろいろ教えてもらえる。私の師匠でもあるから」
「ペトラ爺さんって、確か、村の入り口よりも街道側に住んでいるんでしたよね」
「元々は他所の人だから、気を使ったらしいわね。…あ、霊標に行ってきたのね?」
「どうしてわかったんです?」シャーノは少し驚き、尋ねた。
「過去を生きた人は、未来を生きる人を羨むものよ」ヤエは答える。
その回答に首を傾げると、ヤエがニコリと笑って、続けた。
「陽が落ちる前と言えばそれを守るような弟子が、それらを守らなかった。並木道では靴に泥が付くことはない」ヤエはシャーノの手を取った。「気づかない内に切り傷を作るのは、もっと何か集中すべきことがあったということ。右手ばかりにそれがあるのは、左手でルシェの手を握っていたから。常にそうしている理由があるのは、行ったことのない場所で、切り傷は低木の葉を掻き分けたから。それでも迷わず進めたのは、行き先がはっきりしているということ…まだまだあるわね」
「はい、よくわかりました」シャーノはコクコクと頷いた。
「素直でよろしい。明日は朝早くから行くから、いつもより早く起きて、いつもより早く私を起こしてね」
シャーノは返事をしたが、あまり自信は無かった。翌日、結局ヤエが起きず、いつもどおりの朝になってしまった。




