毛抜き
チッチッチッチ
時計の針が無情にも進む。
今日、7月28日は俺の60歳の誕生日だというのに、誰からも祝われる事なくあと30分程で今日という日が終わろうとしている。
携帯の画面も開いたままにしているが、誰からも着信もなければメールもない。
ごぉーがぉーー
隣の和室からは獣の唸り声の様な妻のいびきが襖を突き破って俺の耳めがけて飛び込んできた。
「よく寝ていらっしゃる事で」
どうせあの女が俺の誕生日なんて憶えていまいと見切っていたので、この高いびきもいつもの事だ。気になんてちっともしていない。
そもそも隆と理香がこの家を出てからの5年間、誕生日どころかあの女と会話なんて一度もした事がないじゃあないか。
独り言なのか何なのかまるで呪詛の様に毎日飽きもせずに一方的に向こうから投げてくる小言は決して会話とは言わない。
テレビが人の許可なく勝手に思想を押し付けてくるのを右から左へ流す様に、あの女の戯言も聞き流せば良いのだ。
そうやってこの5年間を俺は耐え抜いてきた。
だからこの苛立ちも、じっとりと肌にまとわりつく嫌な汗も誰からも祝われない誕生日の所為でもなく妻の所為でもなく、そう、鏡と毛抜きをそれぞれの手に構えかれこれ2時間ほど格闘しているこいつの所為なのだ。
間違いなくこいつが原因だ。
「くそう、忌々しい」
頭部の毛根達はすっかり疲れ果て抜け落ちたというのに、未だ威厳を忘れずしっかりと生え揃った俺の両眉毛のちょうど真ん中、つまり眉間に、黒々とした毛が一本まるで突き刺さっているかの様にピンと生えていた。
とは言え、表面に出ている部分の長さは1ミリ程度で、使い古したグリップの甘いピンセットでは掴めそうでなかなか掴めない。
タンクトップから出た脂の固まりの様な腕は、長時間の闘いに音を上げ始めプルプルと震え出していた。
「もう諦めて…いや、絶対また明日会社に行けば田上さんから笑われるぞ」
今朝、いつも通りの電車に乗り、いつも通りの時間にタイムカードを押し、いつも通り一番隅の俺の席に座ると今年から新入社員で入ってきた田上さんが俺の顔を見るなりいきなり吹き出したのだ。
娘よりも若い女性に笑われ、さすがの俺も黙ってはいられず問いただしてみると彼女は顔を真っ赤にしながら口元を抑えつつ今にも大爆笑をしそうにこう言ってきた。
『東さん、眉間にシャーペンの芯が刺さっていますよ』
なにをどうしたらこれがシャーペンの芯になるのだ。
そんな物を刺したまま出社する馬鹿がどこの世界に居るというのだ。
だいたいこれが眉間にあるのは今日に始まった事じゃない。
子供の時から、いやお袋曰く産まれた時からあったものだ。
思い起こせば小学校時代クラスメイトにからかわれ幾度となくこいつを抜こうと試みた事があった。
しかし、どういう訳かこいつは断固としてそれを拒否し、まるでUFOキャッチャーのアームを嘲笑いながら躱しその場に居座り続けるぬいぐるみの様にどっしりと俺の眉間に居座っていた。
どうやっても抜けないので当時の俺はお袋に頼んでみた。
するとお袋は
『それは宝毛と言って幸福をもたらす毛だから、無闇に抜いてはいけないよ』
と俺をなだめてきた。
そんな事は子供騙しだったと思うのだが、その会話の翌年お袋が事故で亡くなった為に俺はその言葉を遺言の様に守ってきた。
しかし、しかしだ。
一体俺の人生のどこらに辺にこいつは幸福をもたらしたというのだ。
こいつの所為で同級生にからかわれ、
若かりし頃は髪もちゃんとあったし、体だってもう少し引き締まっていたというのに女子からは一度も相手にされる事なく大学まで卒業し、
社会人になって今の会社に入社したら当時お局と呼ばれ社内から煙たがられていた今の妻を半ば押し付けられる形で結婚させられ、
肩叩きをくらい肩身が狭かったと(本当にそう思っていたのか?)最初は結婚を喜んでいた癖に結婚生活が始まった途端口を開けば愚痴ばかり家事だってろくにしない、
更にゴミ捨てとトイレ掃除と風呂場掃除は俺に押しつけ、
小遣いは毎月3500円しか貰えず、
そんな小遣いだから呑みに行く事も出来ず社内外からは付き合いが悪いと言われ、
何もする事がないので仕方なく真っすぐ帰ればこんなに早く帰ってきたと小言を妻に言われる始末だ。
しかも、隆と理香をちゃんと大学と短大まで行かせたというのに安月給呼ばわりまでしやがって。
そもそも、子供達だって今まで一度だって俺にありがとうなんて言った事がないじゃないか。
携帯の番号だってちゃんと教えてあるのにかけてくるのは自分達が困った時だけ。
俺に用事があるのではなく、俺の「安月給」に用事があるのだ。
「みんな、みんな俺を馬鹿にしやがって!」
積年の恨みが爆発したその瞬間、シルバーの鈍い輝きを放つピンセットが俺の毛をしっかりと捕らえた。
「お前ら全員消えてなくなればいいんだ!!」
力の限りで毛を引き抜くと俺の体内に籠っていた恨みが解き放たれた様に眉間から大量の空気と共に外へと吐き出された気分だった。
「ふぁ、ふぁれ?」
いや、それは気分なんかではなく、俺の体はぐにゃりと原型を保てなくなると空気が抜けた浮き輪の様にしわしわと萎んでいったのだ。
「な…な、ん……」
眩しいばかりの朝日が小さな窓から差し込む頃、襖が開け放たれ中からずんぐりむっくりとした中年の女がパジャマ姿で現れた。
「ちょっと何これ!?脱ぎっぱなしじゃない!」
俺のタンクトップとパンツを見つけるなり妻はきぃぃと悲鳴を上げる。
「しかもこれなによ!?きったない」
脱ぎ捨てた下着の横にある小さな塊を見つけるや否や彼女はまた声を上げた。
完全に空気が抜けシワだらけの野球ボールみたいになった俺の体を親指と人差し指でつまみあげると迷う事なく生ゴミ入れに投げ捨て、勢い良く蓋を閉めた。