四月を巡る攻防
「もう先輩じゃない」
先輩のその言葉に、冷たさはない。でも、云われてみるとうっすら傷ついてる自分がいた。
先輩はこの春ご卒業あそばされて、御無事に第一志望の大学――生活拠点はこのまま――に合格あそばされて、今はバイトに勤しんだり、入学準備をしたり、私と遊んだりと、長い春休みを満喫あそばされているところだ。
私の言葉が分かりやすくとげとげしいのは、入れ替わりにこちらが受験生になるから、だろう。
数か月前、先輩の志望校と、私の家庭教師になりたいと云う希望を事前に聞かされていなかった為、その『お願い』には親と一緒に驚いた。驚いたけどそれだけで、腹を立てる程の事でもなかった。なのにあれ以来、先輩は予備校通いや模試の合間を縫ってデートするたび、全部負担してくれている。
『黙ってたお詫びをさせて』と云う割に、先輩の顔は嬉しそうだからそれもしかして先輩的にはお詫びじゃないんじゃ?と邪推したりしなかったり。でもまあ、せっかくの申し出なのでずるずるとお言葉に甘えちゃっている、今日この頃。
それでも、大学合格を二人でお祝いする今日は、私の強い希望で私がお財布を出すことにした。だって、先輩の進学祝いなのに先輩にご馳走してもらうっておかしいじゃないか。
と云う事を頑固なわんこに納得してもらうまで随分かかったけど。
おいしいと地元で評判の、こぢんまりとしたそのレストランのメニューを見ながら、「先輩は、注文決まりました?」と聞いて、返ってきたのが冒頭の言葉。
心が、冷えた。
――え?どういうこと?
革張りで重たいメニューを、よくバターン!と倒さなかったもんだ。えらいぞ私。
固まってしまった私の顔を見て、先輩は『失敗した』と云う顔をした。
「違う違う、そうでなく。俺は、あの高校を卒業したから、もう真澄とは先輩後輩の仲ではないでしょ。」
「……そう、です、ね」
同じ部活動や生徒会なら、その絆は卒業しても生きるんだろう。私たちにはそれがない。
「真澄に『先輩』って云われるの好きだけどね、いい機会だから、呼び方変えてもらおうと思って」
「としうえの人を呼びつけにする文化はありませんよ」
と、先回りしていってみる。
たまに、たまーに、勇気を振り絞って、呼んでみることはあるけれど、それを常用するのは無理だ。
「うん、真澄には無理だよね。だから、考えてみて?それで、次会った時、呼んでみて?」
いたずらっぽく、でもはにかんで、先輩が云った。
ああもうかわいいなあ。
この人を、うんと喜ばせたい。
なんて呼ぼうか。お料理を戴いている間、もうそればっかり考えてた。
次の約束は、一週間後だった。
先輩は待ち合わせ場所である駅に早々と到着していた。そのハチ公のような風情をかなり遠くからでも分かってしまう、残念で特殊な機能搭載の私の目。
改札の方を向いて、私がホームから来るのを待っている。ただ、今日はとある目的を果たす為に私の方がもっと早く着いていた。
それを実行すべく、先輩に気付かれないようにそっと近づいて、
後ろから、手を繋ぎながら囁いた。
「かずさん」
「!」
急に話しかけられたからだろうか、先輩はびく!っと体を固まらせた後、恐る恐るこちらに振り向いてきた。
「ますみ…?」
「ごめんなさい、驚かせちゃいましたね」
予想以上のリアクション。
ちょっと驚いてくれたら面白いのにと思っていたずらしたけど、確かに自分がされたら心臓に悪そうな行為だ。次からはもうしない事にしよう。
「ごめんなさい、もうしないから、許して」
「や!やめないで!また是非して!」
慌てる先輩が可笑しい。
「顔、赤いですよ、かずさん?」
「!それ……」
繋いでいない方の手で自分の顔を覆いながら、私の方を向く先輩。――あれ。
「気に入らなかったですか?じゃあ、他の呼び方に」
「変えないで!」
「?分かりました」
今日は先輩の奇行がいつにもまして激しいなあ。まあ仕方ないか、変態だし。
「リクエストしたのは確かに俺だけどさ、破壊力ありすぎだろそれ……」
とぶつぶつ文句を云っているのが聞こえた。
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俺の彼女はそっけない。会っている間にアハハと笑い声が聞けたら一週間は思い出だけで飯が三杯食べられる程のレア度だ。
やきもちを妬かない。むしろ俺が『襲撃』された後、慰めてくれる。
痛みに強い。図書室業務で紙に触れる機会が多いせいか、よく手をスパッと切っては血をだらだら流している。びっくりした俺の視線でようやくそれに気が付き、「なんか痒いと思ったら」と傷を舐めてしれっと云い放ったりする。
そんな、物事に動じない彼女が、突然素直になる瞬間がある。
涙をこぼしたり、好きだと云ったり。
それがどれだけかわいいかだなんて筆舌に尽くし難い。
尽くす必要もない、俺だけ知ってればいいんだそんなの。
真澄に、名前を呼んで欲しいとおねだりしてみた。
たまに「一臣」と呼ばれると、それはそれは天にも昇る心地だけれど、「先輩」じゃなく親しみを込めた呼び名でいつも呼んでもらえたら、なんて、欲が出た。
……そうしたら。
律儀な彼女は、こちらの要求をきちんとクリアした。
それどころか、それは俺の想像の数倍上の破壊力で。
「かずさん」
恥ずかしさで下を彷徨っていた視線を俺に向けて、頬を赤くしてはにかみながら小さく呼ぶとか、もう……!俺をどうしたいの、と云うよくあるフレーズが、ものすごい実感を伴って頭の中にガンガンと響き続ける。
真澄は、俺をどうしたいの。
「かずさん」と呼ばれるたびに理性が激しく摩耗していく音が聞こえる。
擦り切れたら、どうなるかな。
ああでも真澄受験生だしな、擦り切れてもぶっちぎれても、来年の四月までは我慢してみせるさ。
俺は君の自慢の、おりこうな犬、だからね。
あっさり風味ですがこれにて幕引きです。ご精読戴き、ありがとうございました。
13/9/19脱字修正しました。