パートナーはあなた 2
私は部活をしていないし、先輩もとっくに部活は引退してるし、二人ともバイトはしていいから、ほとんど毎日一緒に帰る。
今は当たり前にしているこのルーティーンが、自由登校や受験シーズンの先輩の三学期には徐々に不定期になって、三月半ばでふつりと終わる。
そこからは、きっと、こんな風に毎日顔を見たりできないんだろうな。
……文化祭までは、一人でいるのが当たり前だったから、一人が寂しいなんてことはなかったのに。
四月から、先輩の環境は大きく変わる。
バイトするだろうし、サークルや部活にも入るかもしれないし、そうしたらただでさえ受験生の私は遠慮されて構ってもらえなさそうなのに、どんどん離れるばかりだ。
不安が募る。
学校でいじわるなこと云われたってへこたれやしない。しょせんは同じ土俵の高校生だから。
でも、大学生の女の人は?
いじわるな事なんか云わなくったって、私が先輩に会えない、大学で過ごす間に掻っ攫われてしまうかもしれない。
私の知らないことを色々知っていて、先輩と話の合う、お化粧が上手な、いい匂いのする、女の先輩。お化粧もまだ初々しい、溌剌とした同級生。つんとしたクールな事務員さん。
会ったこともない、居もしない女の人たちを想像しては、胸が痛む。
だって私じゃ、『体のお付き合い』もまだまだで、手持ちのカードは襲撃後のメンテナンスが出来るって事だけなのに。
駅からうちへの、一五分程度の道のり。
家まで送ってもらったらそれでいよいよバイバイなので、自然と足がゆっくりになる。
それを先輩もちゃかしたり咎めたりしない。空気の読める賢い犬なのだ。
駅でぎゅっと抱き合ったり、その後いつも通りおしゃべりしたのが嘘みたいに、二人ともただ手を繋いで、静かに歩く。
先輩が、前を見たまま、ぽつりと云った。
「真澄さ、そんなに怖がらなくて大丈夫だから。」
「……え?」
「こんなに誰かを好きになったのは真澄が初めてだし、最後だから……って云うには人生経験がまだ足りないから何とも云えないけど、四月になりましたー、いい女がごろごろいますー、君はもう用無しだからポイねー、とか、ほんとないから。そこは信じて。」
「……うん」
信じたいなと思う。
でも、永遠なんてないんだ、なんて悟ったふりもする。多分先輩は、私のイイ子なお返事を信じてはいない。
握った手にきゅ、と力を込められた。
寒いねと云われて、当たり前ですよ冬だもんと答えれば、そうゆうことじゃなくてまったく真澄は情緒がない、と顰め面をされた。よかった、いつもの私といつもの先輩だ。
委員会活動をして駅でやらかしてゆっくりゆっくり帰ってきたから、家に着くころには七時近かった。
「あ、お父さんもう帰ってる」
カースペースに父の通勤用の軽自動車が鎮座しているのを見て、呟いた。
「あ、そうなんだ、」
ラッキ、と口笛を吹いた先輩の、何がラッキーなのかは分からない。
あーあ。家に、着いちゃった。当たり前の事にやけにがっかりしている。
イマドキ珍しく、取っ手部分にライオンの頭がくっついた古めかしい門扉を開けたら、ぎいと一際大きい音を立ててしまった。油を差さなきゃなーなんて考えながら、先輩の方に体ごと向き直る。三段ばかりついているコンクリートの階段を上ったから、先輩を見下ろす格好になった。
「送ってくれて、ありがとう。それじゃ、気を付けて」
「折角だから真澄の御両親に挨拶したいな俺」
「……何を云ってるのかな?」
「ほら、遅くなっちゃったし?」
……あああ、そっちね。
てっきり、「お嬢さんとお付き合いしてます」っていう方面かと勘違いした自分が恥ずかしい。そんな失態を見咎められたくなくて、ついうっかりオーケーしてしまう。
「うちの親、そんなにうるさくないから大丈夫だと思うけど」
「いや、こう云う事がもし続けば、『大事な娘を遅くまで連れまわす悪い彼氏』って思われちゃうからね。第一印象大事」
そう云って、「相馬」と書かれた木の表札の下のインターホンを鳴らす、その人の横顔を凝視してしまう。
……アレ?
結局のところ、
①遅くなっちゃったからとりあえずそこだけは謝りたい
②遅くなったらきちんと送ってきてきちんと謝る彼氏をアピール
③②+『お嬢さんとお付き合いしてます』のご挨拶
のどれだか分からなくなったぞ。
『はーい』と云う母のソプラノな声と、パタパタと近づいてくる御陽気な足音と、がちゃっと開錠する音と、開かれたドアの向こうが明るいのと、
ここに先輩が立っていることが、同一に考えられない。
「あら真澄だったのお帰り、遅かったね」
何インターホンなんか鳴らしちゃって、鍵忘れちゃった?と、いつまでもドアの外から中に入ってこない娘を不思議に思ってまじまじと見つめてきた母が、私の後ろに立っている先輩にようやく気付いた。
「こんばんは、突然すみません。お嬢さんとお付き合いをしています、高梨一臣と云います」
そう云って、奇麗なお辞儀をした。
③か。初球からストレートを投げる先輩に、頭を抱えたくなる。
人づきあいが得意じゃない娘が、いきなり彼氏、しかもイケメンを連れてきたんだから、母は目が真ん丸だ。
「今日は彼女の委員会活動の後、少し遅くなってしまったので送らせてもらいました。僕も受験生なので、今後こんなことはそうそうないと思うのですが、心配をかけてしまったらいけませんのでお詫びとご挨拶をと思いまして」
「は、はい、それはご丁寧に」
母はこの状況にたじたじだ。
先輩はニコッと笑って、「それでは、失礼します。」とあっさり引いた。
今までぐいぐい先輩のペースで押してたのを急に引かれたせいか、母は「高梨君、良かったらうちでご飯食べていかない?」なんて話しかけてる。
「いや、それは、ご迷惑でしょうし」と先輩が遠慮したのがまた撒き餌になったのか、
「いいのよ、もちろん無理にとは云わないけど」と、にっこり笑って招き入れた。
「おとーさぁん、真澄が彼氏連れてきたわよーう」
――先触れをしながら歩かないでくれ、母よ。
いたたまれない私をよそに、先輩は「ママさん攻略は成功」と呟いて、笑って見せた。
リビングには、珍獣を見る目で先輩を見たのち私を見る、を二回した父の姿。気持ちは十分分かるけど素直すぎて失礼だぞ、父よ。
「真澄ー、お前まさかの優良物件釣ってきたなぁ。」
「ちょっと、彼氏を前に第一声がそれってどうなのお父さん……」
かなりのんびりの母に加え、天然の父を見ても噴き出さなかった先輩は正直偉いと思う。父の言葉を微笑むことで流して、さらっと自己紹介をした。
「同じ高校に通っています、高梨一臣です。」
「おお、これはご丁寧に。真澄の父です。」
先輩は玄関先で母にした説明をもう一度父に向かってしてくれた。
「いやあ、こんながっさがさの娘が彼氏に家まで送ってもらえる日が来るとはねぇ……。」
「がっさがさ云うな!」
「だってがっさがさじゃんかよ。ばっさばさと云ってやってもいいぞ?」
何だコラやるか?と、父VS私で戦いが始まりそうな頃合いで「御飯よー」と云うのんびりした母の言葉が聞こえてきたので、舌打ちと共に双方拳を下ろした。
「ナルホド。真澄はお父さん似なんだね」
「嬉しくないことに、そのようですね」
「真澄ィ!聞こえてんぞぉ!」
大人げないんだよアラフィフ。
席に着いた時はまだ臨戦態勢で、何かのきっかけで父とバトってもおかしくない雰囲気だったものの、この日のおかずが豚の生姜焼き(父の大好物)とマッシュポテト(私の大好物)だったので、「「おいしいねえええ」」と仲良くニコニコの二重奏に落ち着いた。
嫌いな食べ物がない先輩は、見た目にふさわしい箸使いで、それでいて高校生男子的食欲を見せつつあっという間に食べ尽くした。「おいしいです」と合間に挟むことも忘れずに、母を随分と喜ばせた。この人たらしめ。
先輩は食後のお皿洗いを志願したものの、「お客さんでしかも真澄の彼氏になってくれてるなんて云う人にそんな事お願いできないわー」とあっさり母に断られた。一度は席に戻って大人しく座っていた先輩だけど、いつものように私がお皿を洗っていると、すっと横に立って布巾でお皿を拭き始めた。
「手慣れてるね」と感心して云えば、「うち両親共働きだから」と、何でもないように答えられた。
「こうして並んでると、俺たち新婚さんみたいだね」
「うっとりすんな変態」
げんなりしていると、さりげないふりしてガン見していた両親にも、先輩の残念ぶりが存分に伝わったらしい。
「……高梨君は、本当に真澄の事が好きなのねえ……」
「アレのどこがいいんだ?高梨君趣味悪いな、てか、目悪いな」
「父ィ!聞こえてんぞぉ!」
「お茶淹れましょうか」
「いいのよ高梨君ありがとう、もう座っててね」
……ともあれ、初めての彼氏は両親に気に入ってもらえたようでほっとした。
母の淹れてくれたお茶を一口飲んでコトリとテーブルの上に置くと、先輩は緊張を帯びた顔をして、父を、次に母を見て切り出した。
「志望校に合格したらお願いしたいことがあります」
「なんだい?」
父が水を向けると、先輩は物おじせずに続けた。
「僕を真澄さんの家庭教師にしてくれませんか?」
「はぃぃぃ???」
聞いてないんすけど、そんなの、ひとっことも。
素っ頓狂な声を上げた私を「ちょっと、黙ってて」と片手で制して、父は先輩にのんびりと話しかけた。
「なんで?大学生になったら、バイトなんていくらでもいいのが見つかるだろ」
「どんなにいい時給といい条件でも、そこに真澄がいません」
恥ずかしさなど微塵も介入させず、先輩は淡々と説明した。
「真澄は受験生で、じきに予備校通いが始まるでしょう。そうすると会える時間は必然的に短くなる。それは俺が苦しくて嫌なんです。」
真澄はどう思ってるのかわからないけど、と、ちらりと横にいる私を見て呟く。
「真澄の家庭教師に雇ってもらえれば、収入を得ながら真澄に会えるし、大切な彼女の役にも立てる。もちろん、自分じゃ教えきれない部分もあるから予備校通いは必要だろうけど、その時間は俺も他でバイトをします。」
まるでこれはプレゼンとか云う奴だ。先輩は今、必死に両親に自分を売り込んでいる。――初めの社交的な『僕』は『俺』に、『真澄さん』は『真澄』になっている。うまいこと取り繕おうとしていない分、本気だって伝わってきた。
「現役で合格すれば、リアルな情報を教えられます。ですが、動機は不純だし、教え方もきっと手さぐりですから、相場よりずっと格安で結構です。思うように成績が上がらなければすぐに解雇していただいて構いません。どうか、ご検討下さい。」
そう云って頭を下げると、さらさらのイケメン髪が落ちた。
父は、珍しくまじめな顔をしている。
「ところで高梨君の第一志望はどこの大学なの」
「キャンパスが点在してますけど、分かりやすく云えば本郷の、赤門のある大学です」
ねみみにみず。思わず、いつぞやのようにひらがな思考になってしまった。
平凡な我が家の面々は、「マジで?」「すごいわあ」「イヤイヤ私も知らなかったし!」と云う会話を目で高速伝達した。
父は驚いたのを一旦脇に置き、念を押すように聞いた。
「合格出来そうなの?」
「一応模試ではA判定です」
「……そうか。じゃ、頑張って。合格したら真澄をお願いするから」
「ありがとうございます!」
先輩はぱっと目を輝かせて満面の笑みを浮かべた。今確実に尻尾をぶんぶんと振ってるな。……何故赤面する父よ。
「イヤー、かっこいい男子にそんな顔されたらおじさん照れちゃうよ」
「お父さんが照れる必要性、まっっっったくないから」
「そうだけど!お父さんだってイケメンに笑顔向けられたら嬉しいしときめくの!」
「人の彼氏でときめくなおっさん。兄で我慢しろ」
「えーだって高樹の笑顔黒いんだもん、ときめかないじゃん」
「だからなんでときめく必要性があるんだよ」
「はいはいおまたせりんご剥いたわよ~」
目の前で繰り広げていた相馬家コントの数々を華麗にスルーしていた先輩だけど、申し出が了承されて気が緩んだのか、とうとう堪えきれずに噴き出した。
九時になる頃、先輩は「そろそろ失礼します」と立ち上がった。
うちの方は駅までバスもないし、ちんたら歩くと二〇分オーバーだから、父の車で駅まで送ることになった。……私も同乗した。
先輩は最後まで遠慮していたけど、「受験生に風邪ひかせたら大変だから」と父が譲らず、珍しく先輩が折れるところとなった。
二人で後部座席に座る。
シートベルトをかちりと装着して、疑問だったことを聞いてみた。
「あの、さ、先輩」
「ん?何?真澄」
車が走り出して、街の灯りが先輩の顔を染めては通り過ぎていく。その顔に、一瞬見惚れた。――これは変質者機能を搭載している残念なイケメンでしかも犬だ!騙されるな!
先輩相手にうっかりときめいたと云う事実をプチプチに包んでガムテでぐるぐる巻きにして心の中の納戸に放り込んで鍵をして、なかった事にした。そして、聞こうと思っていたことを切り出す。
「家庭教師になるって、本気で?」
「うん、本気で。……迷惑?」
「迷惑なんかじゃないけど、でも、……『志望大学に合格したら』だなんて、先輩自分を追い込んでどうするの」
「追い込んでなんかいないよ、むしろ馬の鼻先の人参でしょ?これ位ご褒美ないと頑張れないよ。……お月謝戴いたら、何かプレゼントさせて」
さらっと云われて、顔が赤くなる。でも車内は暗いからバレて無い筈。
私は平気な振りしてさらに聞いてみた。
「うちの両親が先輩にお月謝を払って、先輩がそのお金で私にプレゼントをくれるんだったら、それって親から直接私がプレゼントもらう方がシンプルじゃないですか?」
「経済活動だから。それに、彼氏が彼女にプレゼントしたいって普通でしょ」
「……」
「真澄?」
下を向いてんのに覗き込んでくるな変態。
そう云う事も出来ずにいると、運転席から笑いを堪えた父の声が聞こえてきた。
「高梨君、真澄照れてるから」
「……真澄、かわいい」
「あと、一応俺いるからあんま痒い会話しないで。」
痒いとか云うな父よ。仮にも大人なんだからそこは聞かないふりでもしておけ。
先輩はすいません、と素直に謝った後、――きゅっと私の手を繋いできた。
春になったら。
先輩はきっと第一志望の大学に合格するだろう。
そして、言質を取った通り、私の家庭教師につくだろう。
先輩はきっと人に物を教えるのがうまいだろう。
そして私の成績も、そこそこ伸ばすだろう。
私たちはまるっきり今と同じように、は無理だけど、普通の『片方だけ受験生のカップル』よりは会えるだろう。
それなら。
――もう、怖がる必要なんて、ない、かも。
その『怖がる』の中には、未知なる体験であるところの『体のお付き合い』も含まれている訳で、いやその、次はこっちが受験生だし直近にその予定はないけれど覚悟は出来ましたって事で!……まだ、まだまだ、云わないけど。
そう思って、繋がれた手をぎゅっと恋人繋ぎにした。
先輩がぱっとこっちを向く。
私は知らん顔で窓の外の風景を見ているふりをする。
恋人繋ぎの手は、絶対に離れないと云わんばかりに、ぎりぎりと痛い位の力で私の手を締め上げてきた。恨みでもあるのかと問いたい程だ。
「痛いんですけど変態」
「だだだだって真澄が」
「云うな爆死する!」
「はい高梨君着いたよ駅ださっさと降りたまえ」
「空気読めよ父ィ!」
「だったら二人っきりの時にしろよその甘々モード!痒くて痒くて蕁麻疹が出そうだ!」
それもそうかと二人して肩を竦めて笑った。
笑いながら、運転席の背もたれに隠れて掠めるだけのキスを交わしたのは、二人だけの秘密だ。――秘密じゃなくても、構うもんか。おっさんは勝手に痒がらせておけ。
キャーとキモチワルイ裏声で叫びながら目を両手で覆って――その手はパーに開いてたからバッチリ見られてたらしい――身悶えしている父と云う名のおっさんを車内に捨て置いて、私は先輩と一緒に車から出てお見送りする。もちろん、先輩はちゃんと父に一言挨拶をしていた。父はキャーキャー云ってて気が付いていなかったようだけど。
「それじゃあ先輩、今日はありがとうございました。気を付けて」
「うん、ありがと。パパさんとママさんによろしくお伝えしておいて。夜メールする」
ばいばい、と犬の笑顔で手を振る先輩にこちらも手を振り返した。
同じようなやり取りを夕方の駅でした時とは裏腹に、今は満たされた気持ちだ。
信じられたから、だろうか。先輩の気持ちと、先輩を好きな自分の気持ちを。
何となく名残惜しくてそのまま見上げていたら、階段を昇り切ったところでその姿が見えなくなった。
と思ったら、階段の上から頭だけが再登場した。
何だ?忘れもの?と訝しんでいる私に、先輩はとびっきりの笑顔で、「真澄!愛してるよ!」と叫んで行ってしまった。
……まだ九時過ぎで、帰宅する人たちでいっぱいの駅で、君は何をしやがるかな?
一身に浴びた視線を無視して、私は車に戻った。後部座席のドアを乱暴に閉める。
「駅で別れを惜しむとか青春だね……ヒィ!ちょっと真澄顔怖いってそれさっきまで彼氏といた女の子の顔じゃないって!」
からかってきた父親を一瞥で黙らせて溜飲を下げた。
今日はメール来ても返してやらん。ついでに明日駅で会っても無視してやる。
躾のなっていない犬には再教育を施す事を強く決意して、ニヤリと笑った。
「真澄ぃー……笑顔がお兄ちゃんみたいになってるよー……」
「あ、そう」
父の怯える声と顔を無視して目を閉じた。――動き出した車の揺れが心地よい。
数時間前に泣きそうだった気持ちが嘘みたいに霧散して、私の中には楽しさだけが残っている。
明日も明後日もうんと先も、先輩がいるならきっとずっと、
あの日に二人でダンスを踊ったみたいな気持ちのまま。
これにて本編はおしまいです。お付き合い戴きありがとうございました。
掌編をあとふたつばかり予定しております。
13/9/18一部修正しました。