番外編・2/28
ああ煩わしい。
そんな風に思ってはいけない、と自分で自分を窘めてもその感情は一向に消える気配を見せず、むしろ増大していくばかりだ。こうしている間にもまたメールが来る。しぶしぶメッセージを確認して「……やってられるかあああ!」と携帯の電源を落とした。
今はもう沈黙し、ただの黒い画面と化したそこには、あちらの大事な大事な(以下略)大学入試試験が終わった直後から「いよいよ俺たちのバレンタイン、明日だね♡ 俺自由登校だけど学校まで迎えに行きたいなあ。行ってもいい? いいよね!」
「どんなチョコレートなのかなあ。真澄が俺にくれるならどんなのでも嬉しいけど、明日もらったものが一番おいしくて一番好きって知ってるよ」
「なんなら約束の真澄からのキス、前倒しで明日くれてもいいよ!」といった、今日まで受験生だった人とは思えない頭の湧いたメールが、ストーカーレベルで続々と送られてきていたのだった。
やっぱりね。
一夜明けて、登校する為に玄関のドアを開けると、そこにはストーカーではないと言い張る犬が寒さに震えながらしゅーんと立っていた。まあ予想はしていた。前科もあるし。
「真澄―……」
「おはようございます」
「おはよう、あの、昨日はその、」
「先輩がそういう人だっていうのは、もう知ってます」
「ごめん……」
「私がああいったメールが苦手だっていうのも、知ってますよね?」
「ごめん……」
必殺電源落としは、先輩が暴走した――例としては、メールをエンドレスで寄越す・もしくは発言内容に難ありとみなした――際にたびたび発動している(メールのみならず、実際の会話に置いても同様の対応とする)。なのに一向に改めようとはしないのはなんでなんだ。頭がいいのに覚えの悪い犬だなまったく。
ほんとはもっとビシッ! と躾けたいところなのだけど、私はまだまだ甘いみたい。しゅーんと下がってしまっているまぼろしの耳と尻尾を見てしまえば、ついほだされてしまうから。
「――まあ、先輩からのメールを受け止めきれないっていう点は、飼い主として至らないと思ってますけど」なんて、嘯いてしまう。だからってあからさまに耳と尻尾を復活させるなというのに。その上。
「真澄、手を」
「繋ぎません」
「チョコを」
「放課後会った時にって約束ですよ」
私は、ごくまっとうなことを云っているだけなのに、そうやって再びしょんぼりをむき出しにするのはやめて欲しい。はたから見たらまるで私がとても冷酷な人間みたいじゃないか。ただでさえ、『ハチ先輩の彼女さん、もう少し先輩に優しくしません……?』なんて知らない後輩に困った顔で進言されたりもするのに。
だから、ダッフルコートのポケットに、ぽとりと甘やかしの一粒を落とした。
「真澄?」
「今はそれで我慢してください」
「……ん。分かった」
三〇円にも満たないチョコ一つでそんな風にきらきらと微笑まれる。きっと、去年まではおいしい手作りのものも高級なお店のものもたくさんもらっていただろうに『今年は断るよ』と云って、実際にそうしているらしい。そして、私からのチョコをとても心待ちにしているらしい。
――煩わしい。
自分の心が。
本当は手作りをあげたかった。でも、ちゃんと差しあげられるようなものは出来なくて、今年は諦めた次第だ。
母のお菓子作りを何度も手伝っていたから、自分ではなんとなく作れるつもりでいた。だけど、『お手伝い』と『自分で作る』の間には自分がまだ越えられないハードルがいくつもあった。もともと器用な方でもないし。
娘が意気消沈した様子を見かねたらしい母からは『お母さん手伝おうか?』と声を掛けられたけど、お願いしたらきっと『お手伝い』じゃなく『母主導・私手伝い』のものになってしまうと分かっていた。
テンパリングで失敗して、つやがなくモソモソとした食感になってしまったチョコレートは、父と兄高樹へ差し上げた。製菓用のチョコを無駄にしないで済んだ上、思ってたよりも喜ばれたので、沈んでいた心は少しだけ慰められた。
そんな経緯もあって、チョコレートに関して自分が今ちょっと過敏になっていることは否めない。
結局、放課後渡す段になっても、色々と言い訳を連ねてしまった。
「これ」
下駄箱で待ち合わせしてた先輩(この日はわざわざこの為に登校して、一日学校にいたそうだ)は、放課後会った瞬間から『ギブミーチョコレート』モード全開だった。その無言の圧力に負けて、お店の――そこそこおいしいと誰もが知っているメジャーなところのものを、歩きながら「どうぞ」と手渡したら、わざわざ立ち止まって「ありがとう!!」とお礼を云われてしまった。渡す側と受け取る側のテンションの違いっぷりが凄まじいったらない。
「見ての通り、手作りじゃないですからね」
「うん」
「高級品でもないですよ」
「うん」
「……だから、あんまり喜び過ぎないでください」
「うん?」
先輩が、笑ったまま首をかしげる。
「だから! 付加価値がこれといってないので、バレンタインというよりはむしろただのチョコレートとして受け止めてもらえていただきたく!」
「無理だよ」
穏やかに切り返して、あっけにとられている私からそっと小箱を受け取り、その上辺にキスをする。
「付加価値がない訳ない。真澄が俺にくれるんだから。それ以上を望んだらむしろ傲慢じゃない?」
ぱりぱりと、立ったまま包装の薄紙を開いてゆく指。小箱の蓋をあけて、迷いなく一粒つまむ。
「ほら、やっぱり世界一おいしい」
そう云われて、泣きたくなるなんて、私も絶対おかしい。
「食べる?」
「……そう云って『あーん』てさせるつもりなら、お断りします」
「ちぇ、バレたか」
「バレバレですよ」
「じゃあ、バレたところで一つ、改めて『あーん』て」
「しません」
「つれないね、真澄」
「賢くなったと云ってください」
断ると、小箱の蓋はようやく閉ざされた。
「もったいないから、食べるのは一日いっこにしよう」
「ご自由にどうぞ」
「最後のいっこは食べないで樹脂で固めておこうかな……」
「気持ち悪いからやめて変態」
「ご自由にって云ったのにー」
「自由とは何をしてもいいという意味ではない!」
ああ。
せっかく『受験お疲れ様でした』だの『デートいつにしますか』だの、色々と準備していたって云うのに台無しだ。今日くらい優しくしたかったけど、それも昨日先輩がぶちかましたメールのせいで朝から再教育モードになっちゃってたし。でもまあこんなのが私たちらしいかと思いながら、あと何回でもない、駅までの二人での帰り道を噛み締めるように歩く(ちなみに、あと何回でもなかった筈のそれは、先輩が卒業してからも『迎えに来ちゃった♡』という頭の湧いた犬のハチ公的なお迎えのおかげでたびたび辿ることになるのだけれど、この時点の私がそれを予知できるはずもない)。
駅が近付いてきた。すると、先輩が不意に立ちどまり、俯いたまま私のコートの袖口をつまんで引っ張るという女子のようなアピールをして見せた。
「真澄―」
くいくい。
「ねえ、」
立ちどまっているのは、例の、防犯カメラなどがもし設置してあったならば憤死間違いなしなことをしてしまった公園の脇(憤死の詳細についてはノーコメントとする)。
先輩が、決定的な言葉を語らぬままねだっているのが分かる。私からの『能動的』をしろということか。でもそれは合格したらという話だったのでは。
「しませんよ」
「……」
「しません」
あんなのはごくまれなことなのだから。
でも、甘やかして差し上げたい気持ちは、確かにある。もっと素直になりたい自分もいる。だから。
「来年、」
まだつんと唇を尖らせて、分かりやすく拗ねている女子力の高い先輩に、宣言する。
「来年は、手作りのチョコですから!」
三六五引く十四日後にようやく発動するそんな口約束を、先輩がそれはそれは嬉しそうに受け取ってくれる。
「楽しみにしてる!」
そのお返事に、私の心も弾んだ。なのに。
「あ、でもその前に今度は真澄が受験か……」
「そういうの水を差すって云うんですよ、無粋な人だなあ」
「差してないでしょ現実でしょ」
「大丈夫です、きっとその頃までには進路もなんとかなってますから」
私から、手を繋ぐ。先輩が、きゅっと握り返す。
「うん。俺が責任持って面倒見るからね」
「その一点においては頼りにしてます」
勉強の他はあんまり頼りにならないけど。
犬属性だし、私のこと大好きすぎるし、王子ヅラでモテすぎるし、ストーカー気質だし、学習しないし。
「……あれ、先輩のいいところってどこだろう……?」
思わず呟くと、「え、今俺の株上がったところじゃないの???」と先輩がそれはそれは悲壮なお顔で仰る。
「急落しました」
「そんなあ!」
ほら、私の言葉一つでそんなになっちゃって。
もっと自信持っていいのに。先輩は、学力もルックスも何でも手にしているのに。
そうか、飼い主兼彼女としては、もっと自信を付けさせなければいけないな。それに、私の言動でいちいち浮かれて変な風に行動しないようになってもらわないと。これは難しい。もしかしたら、勉強よりもよっぽど。
時間を掛けて、じっくり取り組むとしよう。そうすれば私だってもっと素直に、もっとかわいい女の子になれるかもしれない。私がかわいい女の子に、先輩が賢い犬になる前に恋の終わりが来ることは考えない。この恋の悲しい結末をハナから除外している自分は、もしかしたら自意識過剰かもしれないけれど、どうしても想像つかないのだ。
――だって、こんなに好かれてるし、私だってこんなにも。
この気持ちをそのまま渡せたら、すごく喜ぶって知ってる。でも、心のタガが外れるか、決死の覚悟をした時でもしないと今は無理だ。
ああ、先輩はせっかく高性能のポンコツなんだから、そろそろ私の心くらい読めるようになってくれてもいいのに。そんな風に勝手に恨めしく思いながら隣を見上げると、犬の人は「まあでも今が底ならこれ以上落ちることはないもんね!」と、実に前向きな思考で自分を鼓舞していた。
「今日はチョコありがとう」
「どういたしまして」
いつものようにぶんぶん手を振る先輩に苦笑しつつ別れて、ホームに続く階段を降りた。
先輩と離れた後はいつも、どこかすうすうするような、温度が一、二度下がったような感じになる。それが『寂しい』っていうことなんだと、誰に教わるでもなく私はもう知っている。
電車を待つ間、別れ際の先輩の株急落発言はちょっとかわいそうだったかな、と反省の気持ちがじわじわとこみ上げてきた。あの後、すぐにちゃんとフォローできればよかった。先輩もたいがいだけど、私だってダメダメだ。先輩は立ち直りの早い性格だからってそれに甘え過ぎて、言葉で伝える努力を怠ってる。
ごめんなさいを伝えよう。それから、それだけじゃなくって。
今すぐ、先輩程には糖度の高い言葉は差し上げられないけど、今の自分でも伝えることくらいは出来る。それが、つやがなくてモソモソになった失敗チョコレートみたいだとしても、あの人は大げさに思えるくらい喜んでくれる。そう思いながら、冷たい風が吹き付けるホームで携帯を取り出した。慣れない言葉の組み立てに苦心している間に、電車が滑り込んでくる。
温かい車内に乗る。何度も何度も、読み返しては直す。
なんとか拵えたメッセージを送る。すぐに返事が来る。
『だからなんでそういうの、別れてから送るのー! 会いたさが募るでしょ! ほんと真澄は魔性なんだから!』
ですから、そんな風に思うのは先輩だけですって。
夕方のラッシュで混み合う車内でニヤニヤしないようにするので精一杯。多分、今の私の顔を兄高樹に見られたらなんか腹立たしいことを二つ三つ――もしかしたらそれ以上かも――云われてしまうんだろうな。と思っているうちに、続けて返信が来た。そしてまたひとつ。マナーモードの『ブーン』という音が鳴りやまず、もはや当該モードの態をなしていない。やっぱりどう考えてもストーカーだと断定したくなる勢いで送られて続けているメッセージ。昨日の今日で学習しない犬だな、携帯の電源落としてやろうか。そう思いつつ、とりあえず一度警告メールを送っておくことにする。それでもだめなら今度こそ電源落とす。
幸い、先輩はタチの悪いストーカーではなく聞き分けのいい犬(覚えは悪いけど)だったから、警告を送ったあとに更なる送信を重ねてくるような愚行は働かなかった。
窓際に立って、飛ぶように流れていく景色を眺めながら、二人のことを考える。
今は『別れてからようやく送るメール』が、『まだ隣に先輩がいる時に送るメール』になって、さらに『直接伝える』に進化する日がきっと来る。それをあなたも心待ちにしてくれるといい。
――ああでも今の私が向き合わなくちゃいけないのは、合格確定後の自分からすることになっているごほうびじゃないか。何であんな約束をしてしまったんだ、恋心は恐ろしいな。こんな私でさえもうかうかと唆されてしまうだなんて。未来からやってきた青い猫型ロボットがいるなら、過去に戻れるアイテムを使わせてほしいと切実に思う。
とは言え、いつまでも逃避してはいられないから、とりあえず今夜から唇をケアしよう。
とここまで考えてはたと気づく。
自分は、先輩が落ちることをハナから想定していないことを。
――これも伝えたら、今度こそ発狂したストーカーレベルでメール来ちゃうんだろうなあ……。せっかく『マテ』を覚えた所なので、これはまたいつか話すとしよう。
ちなみに、この日こちらから送ったメールの内容についてはトップシークレットとする。




