番外編・2/14
私達の最初のバレンタインは、正規の日時から約二週間ほど後ろにずれこんだ。
その提案をしたのはもちろん私で、それを最後まで渋っていたのは先輩。
せっかく一次試験を突破したというのに、大事な二次の試験前にチョコを渡したり恋に浮かれたりっていうのはどうにもよろしくないのではないか。(私)
大事な試験前だからこそ糖分は必要だ。物理的にも精神的にも。(先輩)
――というバカップル的やりとりをメールで幾度か戦わせたものの一向にらちが明かず、「一次の試験前日の、あれじゃ役には立たないってことですか?」と、私からの能動的キスに至るまでの一連のアクション――詳細は伏せるものとする――を盾にとって聞いたところ、先輩がしぶしぶ白旗を上げた格好になった。
『卑怯だ。
俺は深刻な真澄不足に陥ってるっていうのに。あそこで『うん』って云っちゃったらせっかく真澄からしてくれた事に対して失礼になっちゃうじゃないか。卑怯だ。』
何だそれ。
電話のあと、恨みがましいメールが即届いて思わず吹き出す。まったくあの犬は、どれだけ私を好きなんだか。頭はいいのに残念な人だなあと、付き合い始めてからもう何十回も思ったことを今日もしみじみと噛み締めた。
先輩がいつもこんな調子だから、会えない時間に不安を覚える暇なんてない。だって毎日メールで私を好きだと分かる言葉を送ってくれる(それが具体的にどんな内容なのかは明言を避けるものとする)。だから、先輩に思いを寄せている人の中でも一部過激派の方の『私、彼の本命なの』も『あんた遊ばれてるよ』も『そうですか』と軽く流すことが出来ている。あ、ほらまたメールが。
『でもチョコレート、期待してるよ!!』
そう言われても、チョコ作りやラッピングは不得手なので、おいしさと予算が合致したお店で買うだけなんだけどなあと思いつつ、受験生の心をへし折ってはならぬと思い『楽しみにしていてください』と返すと、数秒後ハートの絵文字が気持ち悪いくらい敷き詰められて戻ってきたので『勉強しろ』と送って即座に電源を切る。まったく。
先輩とのメールのやりとりは楽しい。そう思う気持ちとは別に、メールの文字ではなく、電話の声ではなく、画像の中の姿ではなく、生身の先輩に会いたいと思う気持ちもあったりする。でも。
『会いたいよぉ』
『夢でデートしたから頑張る』
『試験終ったら絶対デートして』
なんてメールを先にもらっちゃったら、『あ、はい』っていうテンションになっちゃっても仕方がないだろうと思うのだ。元々、『会いたいぞ♡』なんて口に出来る人間でもないし。
さて、そんなわけで今年の二月一四日は特に予定もなく、友人らとささやかにチロルを交換し、母に感謝のチョコレートを献上し、やけにカッコつけた父が母から『はい、今年の分』とチョコをもらったとたんに溶けたチョコよりもデレデレになる瞬間に立ち会うといういつも通りの一日になる筈、だったのだけれど。
ご機嫌な兄の操るハンドル操作を後部座席に腰かけつつ何とはなしに眺めているその横で、後夜祭の日の図書室で般若のようだった美人先輩改め、尾藤先輩が、「これどういう状況なのよ……」と頭を抱えている。
なぜか、元・恋のライバルと、その兄の車でドライブに連れ出されている美人先輩の心中やいかに。
美人先輩とはあの文化祭から浅からぬ縁がある、と一方的にそう思っている。
無駄に目立つ高梨先輩と朝も放課後も一緒に歩いていれば、『つきあっている』という噂(まあ、真実になってしまったけれど)なんて私が否定する前に校内を最大瞬間風速で駆け廻ってしまっていた。
いろんな人がいろんな風にこちらを見て、ひそひそと話していた。単純に興味本位の目もあったし、そうじゃないのもあった。私を遠巻きにしていた人達をよそに、美人先輩は行き会った廊下でスッとこちらに近づくと、「あの時はよくも嘘ついてくれたわね」と、奇麗に笑った。それに見惚れて赤くなりつつ、「――すみません」と謝った。
「まあ今更謝られてもねえ」と流し目を一つ。そして。
「せいぜい頑張んなさい」と、私の頬を軽くつまんで、それだけで行ってしまった。
もっと、詰られると思ったのに。後夜祭の日、高梨先輩は図書室にはいないと嘘を吐いたこと。彼女の好きなその人と、お付き合いするようになったこと。
あの時は般若だったけど、今は、ただ美しい人。整った造作は見慣れている筈なのに、何故かその凛とした後ろ姿から、目を離せなかった。
美人先輩――名前を知らないので、勝手にそう呼ばせてもらっていた――は、荒っぽいエールをくれた割に、面倒見がよかった。
私が高梨先輩関連で過激派の方に絡まれていると、「図書担当の先生が呼んでいたけど」とありもしない用事をでっち上げてその場から逃してくれたり、それもかなわなくなると「こんなことして何になるの? 高梨君は、この子を選んだの、私達の中の誰かじゃないのよ」と、ヒートアップしていた面々を諭してくれたり。
「どうしてこんなによくしてくれるんですか?」
解せなくて、一度聞いたことがある。すると美人先輩はふっと陰のある笑い方をして、「嫌がる一臣……高梨君を追いかけ回したってことはもう消しようがないけど、好きだった人には少しでもいい印象を残したいじゃない。だからあなたの為じゃないわ。私が、自分の為にしてるの」と教えてくれた。
「なるほど」
合点がいった。おまけに、すっきりした。疑問を解消してくれてありがとうございますとお礼を口にしようとすれば、当の美人先輩は「……なんでそこで納得するわけ。あなたを利用してるって云ってるのよ私。怒りなさいよ」と当惑している。美しい人が惑っている様は何と尊いのだろうと感嘆してしまうことよ。
「ヘンな子」
ニヤついていたら、美人先輩は今まで見た中で一番キュートで美しい笑顔を私にくれた。ますます好きになってしまったことはいうまでもない。
だからといって、連絡先を交換、というように関係が進展することもなく、学校で目が合えば会釈をしあったり軽く挨拶する程度だったのだ。今日までは。
兄高樹が学校に来るまでは。
本来は平日の午後、放課後の校門脇にいる筈もないその姿を発見してしまった私の心中を、正しく述べられる人は恐らくいないだろう。
あれはまさかの幻覚パートⅡではあるまいな。てかⅠは幻じゃなかったしそもそも。というかなんでここにいるんだこの人。
バレンタインの日、これ見よがしにスポーツタイプの乗用車の横で、無粋なスーツじゃなく(スーツ姿もむかつく程にあってる人だけど)こじゃれたカジュアルな服に身を包み、人待ち顔で立っていやがって。ゆるく首回りに纏っているあのマフラー一つで私のひと月分のお小遣いが吹っ飛ぶんじゃなかろうか。むしろ足りないかも。
スルーして駅まで全力でダッシュ、なんて手も思いつかず、素直に「……なにしてんの」って無表情で聞いてしまった。でも兄のリアクションが若干悲しげだったから、いいか。
「会社はどうしたの」
「有給使えってせっつかれてたから取ったんだよ」
「わざわざ、今日?」
そしてわざわざ、妹を迎えに来るために?
「いやがらせとしては確かに最高に手が込んでるけど……」
兄の腹黒度合いに感心して思わずそう呟くと、ますます兄は悲しげな顔になった。
「さすがにバレンタインデーをそんな風に使うつもりはなかったよ、でも、ちょっと急にね」
「ああ、彼女さんに断られたんだ」
ハハハ、いい気味。
「……彼女の用事を尊重しただけだ」
バレンタインに彼氏より用事を優先するって素敵な人だ。そんな人に私はなりたい。――自分の受験が理由でもキャンキャン無駄吠えしてくるのが相手じゃ、むつかしいか。
ともあれ、思ったよりきちんと彼女を大事にしているような兄に少しだけ同情したので、優しくしてやることにした。
「かわいそうだからお茶くらいなら付き合ってあげてもいいけど?」
「是非お願いしたいね」
わっざわざ助手席のドアを恭しく開くとか、ほんとやめて欲しい。無駄に注目されるじゃないか。ほら、やけに厳しい視線の人も――って、
「違いますから!」
私は、乗りかけていた姿勢から一転、慌てて車から降りて、氷の女王めいた冷徹な表情だった美人先輩にそう弁明した。
「浮気じゃありません! コレはただの兄です!」
「――お兄さん?」
まだ疑わしいまなざしで私を見て、兄を見て――兄は無駄に愛想を振りまいて、ニコッと笑いかけた。
この人にだけは、そんな疑いを持たれたくない。嘘を吐いてしまったから、ライバルのような関係だったから、助けてもらったから――どれでもなく、純粋に私はこの美しい人を好きだからだ。その思い一つで、私はなおも言いつのった。
「先輩、もしお時間あったら私たちと一緒にお茶しに行きませんか? 兄がご馳走しますから」
で、いいでしょ兄。私が勝手にそう云っても、兄は『もちろん』という笑顔を崩さない。その余裕が憎たらしくも、今だけは頼もしい。
さあさあと美人先輩の背中を押して、半ば強引に乗せてしまう。私も一緒に後部座席へ。そして、あの『これどういう状況なのよ……』という台詞な訳だ。
「まああまり深刻に考えないでくださいよ」
「あなたは物事を安易に考え過ぎよ!」
好ましく思っている美人に怒られても、かわいいばかりだなあ。ニヤニヤしていたら、兄に「ところで、連れてきてしまった彼女を紹介してくれないか?」とそう云われて我に返り、――ようやく私は美人先輩の名前を知らないことに気付いたのだった。
「び……」
「び?」
「美人先輩と勝手に呼んでいただけで、……大変失礼ながら名前までは存じ上げず……」
そう答えると、前からと横から、引かれてしまった雰囲気を感じ取った。
横にいる美人はため息を一つ吐いて――そんな仕草一つまでもが美しい――「頭は『び』で合ってるわよ。尾藤 瞳です」
「きれいな名前だね。君にぴったりだ」
「ありがとうございます。よくそう言われます」
兄のトークに赤面などせず、ニコリと笑ってそう言い放つ。それがまた絵になるほど美しい。間近で見られて眼福この上ない。
――そういえば。
「尾藤先輩は、どうして今日学校にいたんですか?」
今は自由登校だし、三年生は殆ど出ていないし、この人は早々に指定校推薦を決めていた筈なのに。
「生徒会に顔を出していたのよ、ちょっと後夜祭のダンスのことで」
「ダンス?」
「そ。例の後夜祭のダンス、同性同士は駄目っていうのがLGBTの人たちへの配慮に欠けているって意見があってね。現役の子たちからアドバイスが欲しいって云われて、それで」
「じゃあ、来年からは……」
「そこは撤廃になるかもしれないわね。今の段階ではまだ決定ではないけど」
一応伝統校の伝統ある行事なので、意見を詰めてからOGOBの方にも報告するのだという。その報告会のセッティングと一部の有力なOGOBへの根回しと開催のお知らせの送付などは、確かに現役の生徒会メンバーだけでは手が足りなさそうだと、私にも容易に想像がつく。
「やることいっぱいで、しばらく卒業どころじゃないわよ」
「じゃあ、これからも学校に来るんですね!」
会えるかもしれない喜びで思わず弾んだ声で云うと、美人はくしゃっと眉を顰めて――でも口は笑って、「人の不幸を喜ばない」と私の頬を軽くつねった。
「パンケーキがうまいらしいんだよ」と兄の車が向かったのは、郊外の小さなカフェ。
そこでやはり私以外の二人は存分に衆目を集めつつ、ご飯代わりになりそうにボリュームのあるパンケーキを注文した。私は、母の作ったガトーショコラとバレンタインスペシャルな夕食が控えているのでココアだけで我慢。それをみた兄高樹は、いやがらせか妹への情けか(もしくはその両方)、やってきたほかほかのそれを「一口どうぞ」とフォークに刺してこちらに差し出してきた。『あーん』しろと言わんばかりのものを無視していたら、尾藤先輩が「シスコン」と小さく、けれど絶大な威力のある言葉を放ってくれたので、私としてはとても気分が良い。
「ほんとおいしい。連れて来て下さってありがとうございます」とお礼を口にする美人と、「どういたしまして……」と微妙にテンションが落ちたままの兄と、そんな二人を見てニヤニヤが止まらない私。この奇妙な三者面談を高梨先輩にも教えようかなと思ったけど『俺以外の人とバレンタインにデートするなんて!』とキャンキャン吠える駄犬が容易に想像出来たのでやめた。
「今日は俺の我儘に付き合ってくれてありがとう」と兄がお会計を持ち(当然だ)、いざ車に乗らんとした時。
「あの、ね、」
尾藤先輩が言いにくそうな様子をみせつつ私に向かってそう切り出した途端、兄高樹は「あ、ごめん電話」とスマホを耳に当てながら、早足で少し離れた、声の届かないところに行ってしまった。――つまり、こちらの会話も聞こえないということ。まったく、よく気の付く兄だと今だけは褒めてやろう。
「なんでしょう」
私が云うと、彼女は彷徨わせていた視線をまっすぐこちらに向けて、そして口を開く。
「私が云えた義理じゃないけど、高梨君をよろしくね」
その言葉で、まだこの人はあの犬を好きなんだと、分かった。
それなのに、過激派から私を庇って、こうして先輩の未来も託して。自分が同じ立場だったら、きっと同じようには出来ない。まあ、造作にそもそも天と地ほどの開きがあるんだけれど。
私は、自分がこの人よりも先輩を好きかどうかなんて分からない。この人よりも先輩を幸せに出来るか、ということも。それでも。
「任せてください」
飼い主になったのだから、責任は当然持つ。不器用な私だけど、自分なりに。
だから、はっきりと答えるのだ。『私でよければ』でも、『そんなそんな』という謙遜でもなく。
「うん」
尾藤先輩は、私の言葉を受け取って、しっかりと頷いてくれた。このやり取りはなんだか、野球の応援のエール交換のようだ、なんて思った。
家まで送るという兄高樹の申し出を「ありがとうございます。でも、最寄りの駅までで結構です」と断り、駅に着くと「じゃあまたね」と手を振って降りて行った尾藤先輩。その颯爽と歩く背中に、兄も「どこで見つけてきたんだ、あんな奇麗な子」と呟く。
「文化祭」
「文化祭? そもそも真澄とどういう繋がりなの」
解せないと云った顔の兄に、私はにやりと笑ってみせる。
「恋のライバルだったんだよ」
それを聞いた兄は、数秒悩んだのち、「……高梨君の美的センスはどうなってるんだ……」と呟いたので、私の中で兄高樹の株がストップ安一歩手前まで急落したことは言うまでもない。




