15 目撃と赤い雪の積もる道
礼の一日の活動時間はあまり長くない。いつもだいたい午後十時ごろには眠りについているし、もっと早い日もある。朝は早くからの予定がなければ午前九時ごろに起床。当然のように、それより遅い日もある。それだけ寝ていても、朝から夜まで一度も仮眠をとらずにすごす日はまれだ。
彼の目に宿るエスパー系の能力は、あの眼鏡がその効力をさえぎっているおかげで、眼鏡をかけている間は他人の思考などを見ることはできない。見落としやすい点として、礼は能力の発動自体を制御できておらず、眼鏡をかけている間も、ただ遮断しているだけで、そのレンズの向こうにある瞳は常に能力を発動している状態にあるのだ。
眼鏡をかけていようがいまいが、彼の視神経と脳は常人の何倍もの負担を受けており、そのせいか人より疲れやすく、多くの休息を必要とするのだ。礼がいつもだらしのない体勢でソファに腰かけたり、そのままの体勢で居眠りをしたり、夜、司令室の奥にある自分の部屋のベッドまで辿りつけずに床で力尽きて寝ていることも、その体質ゆえのことだ。
カップに残っていたコーヒーを飲み干し、ロアは立ち上がった。礼は既に部屋に戻った。彼の部屋に入ったことはないが、覗いてみればまだかすかにあどけなさの残る寝顔が見られることだろう。司令室にいるのはジオとロアの二人だけだ。ジオは部屋の奥で書類の整頓をしている。もっとも、途中からは手元の資料を読みふける作業に移行していたのだが。
「ジオ、君もずっとそうしているのは退屈だろう。そろそろ解散しようじゃないか」
「また出かける気か」
ジオが静かに問う。ロアは図星をつかれて数秒黙る。
「やめておけ。黄ノ原紅音が被害にあった夜は平気だったようだが、次はどうなるかわからないぞ。俺が一緒ならともかく、一人で出歩くのは危険だ。祖国、お前はもっと、自分が国の象徴として民の上に立つ主であるという立場に自覚を持て」
ロアはときどき夜に出かけることがある。定期的な外出ではなく、その日の気分次第で、一か月出かけないことがあれば十日ほど連日で出ることもある。ジオはそこに同行することを禁じられているため、ロアは必ず一人で出かけるのだ。ロアには義理の妹がおり、彼女もこのギルドで暮らしているのだが、その義妹ですらもロアの夜の散歩に同伴したことはない。
「バレたか……なら、今夜はやめておこうかな。でもまあ、かといっても今日はこれ以上することもないし、私はもう部屋に戻ろうかな。君も休むといい」
「ああ」
司令室を出ようと扉のほうに足を踏み出したとき、開けっ放しにされた扉の向こうから、小柄な少女が現れた。独特な色合いの青髪に紫の目をしたロアとは反対に、青色の吊り上がった目に紫の髪を側頭部でまとめた、どことなく気の強そうな少女だ。
ロアの義妹であり、現在では亡国となっているリワン国の化身――リン・ヴェスワテル。ジオより三百年は多くロアと一緒にいる化身だ。ジオもリンもロアにとっては弟と妹のような存在なので、つまりリンはジオの義理の姉にあたるはずなのだが、どうもジオのほうがリンの兄のように見える。見た目のせいだけではない。
「あら、礼はもう寝たの?」
「ああ、とっくにね。なにか用でもあったのかい? なんなら起こしてくるよ。……まあ、起きるかどうかはわからないけれど」
「いいわよ起こさなくて。いつもここにいるから、いないと違和感あるだけ。夜だものね、そりゃ寝てるわ」
ぽすん、とソファに腰かけるリンに、ロアは一旦座りなおす。
「コーヒーでも淹れようか?」
「いらないわ。寝れなくなるじゃない。苦いし」
「君らしいな。ああ、そうそう。わかっているだろうけれど、夜は一人で外出しないようにね。私も人のことを言えた義理じゃないけどさ」
「行くわけないじゃないの、こんな事件が起きてて――あ、べ、別に怖いってわけじゃないけど……あんたがいないと、その、なんだっけ? 犯人に出くわしても勝てないし」
「君なら後れを取ることはないさ」
「もう、買いかぶらないでよね」
こと戦いにおいて、彼女はいつでも自分が負けることを前提に、そしてロアがいれば勝てることを大前提にして話をする癖がある。たしかにリンは争いごとには弱いのかもしれない。ただ、それは戦力としてではなく精神的に、という意味でだ。世界中のあちこちで戦争が起きていた大戦時代には、泣き言を言いながらも参戦していたリンは、争いの時代が終わり、強敵と戦う機会の減った今となってはすっかり腑抜けてしまった。基本的にはロアの背中に隠れている。それは昔からそうではあったのだが。
「まあ、出かける気がないならいいんだ」
「ないわよ。痛いのは嫌だもの。出歩くくらいならギルドにこもってるほうが百倍マシ」
リンは眉間にしわを寄せる。相変わらず堂々とした臆病者だ。ロアはテーブルの上のカップに手を伸ばそうとしたが、中身がカラであることを思い出して引っ込めた。
「あ、外と言えば、さっき玄関ロビーのほうで勇來を見かけたわよ。背の高い男と一緒に出かけていったわ」
「背の高い男?」
「お前からすれば男は全員背が高いだろう」
ジオが指摘する。リンはむっとして彼を指さす。
「んなことないわよ。少なくともあんたの背が高くないってことくらいはわかるもの」
「それはこの身体が契約時のまま維持されているからで」
「どうでもいいわ。そのまま大きくならないことに変わりはないじゃない」
「それはお互い様だ」
いつもの小競り合いがはじまりそうな気配にロアが割って入る。
「さっきっていつだい?」
「さっきはさっきよ。たぶん十分くらい前? ギルド員じゃなかったわ。背中しか見えなかったから顔はわからないけど、藍色の髪よ。背はたぶん郁と同じくらいかしら」
「なら或斗か……ほら、前に話した警備隊の。紺色の服を着ていただろう?」
「そこまでしっかりとは見てないけど……たぶんそうだったかしら。たしかロワリア部隊の隊長なんでしょ? 思ってたより若いのね」
「そりゃあ、まだ二十五歳らしいからね。二人はどこに?」
「さあ? 声かけたわけでもないし、ほんとにたまたま見かけただけだから、そこまでは知らないわ。まあ例の事件は女の子ばっかり狙われてるって話だし、ほっといても大丈夫でしょ」
「いいや、さっき礼架と琳架も被害にあった。礼架のほうが重傷だったから、もしかしたら今回は礼架が本命だったのかもしれない」
「えっ、そうなの? あ、だからその或斗って隊員が来てたのね」
「ああ。もう男は安心、なんて悠長なことは言っていられない状況だ」
「それを知ってたら止めたんだけど……探偵に知らせておくべき? 知らせたところでなにかしてくれるとは思えないけど」
腰を浮かせたリンを手で制する。
「既に露臥が知らせていると思うよ」
*
小路に積もった雪が靴の裏で音を立てて圧縮される。雪は止んでいる。白い息は吐いたそばから闇に溶け込み、地面にはただ二人分の足跡だけが残っていた。ロワリアからリワンに行く途中には小さな林があり、或斗の家に行くにはその隣を通らなければならない。あたりは静かで、出歩いている住民はいない。
「今さらだが、本当に出てきてよかったのか? 俺の家、昼間でもひと気のない場所にあるんだけど」
「だったらなおさら一人で帰るのは危ないだろ。ギルドに泊まる気はないって言うし、一人で帰ってもしまた襲われて怪我したり死んだりしたら、止めなかった俺のせいみたいになるだろ」
「能力者がそう簡単に死ぬかよ」
或斗は軽く笑って流す。勇來のポケットにしまってあった携帯用端末が震えた気がしたので、取り出して確認すると露臥からの着信だった。外で連絡を取り合うために支給されているこの端末は、もともとタッチパネル式だったのだが最近になってボタン式の折りたたみ型に仕様が変更になった。これにより耐久面や操作面が向上した。通話ボタンを押して端末を耳に当てる。
「露臥? どうかしたのか?」
『勇來! お前なんで外にいるんだよ!』
耳元で怒鳴られ、勇來は思わず端末を耳から少し離した。音が割れるほどのその声は或斗にも聞こえていたらしい。
「なんでって、或斗が帰るから、一人で行かせるのも危ないと思って……大人だからって大丈夫とは限らないし、男も被害にあうなら用心して損はないだろ? 心配しなくても、或斗を送ったら俺もすぐ帰るから平気だって。そんなに遠くないみたいだし」
『あのな、それはつまり、お前はそのひと気のない道を通って或斗さんを家まで送って、また同じひと気のない道を通って帰ってくるつもりってことだろ?』
「そうだけど。なんだよ、まわりくどいな」
『馬鹿野郎が! なんで鬼礼でも空來でも、誰か一緒に連れて行かなかったんだよ! それじゃあお前が帰りに一人になるだろ!』
「……あっ」
『そもそも玉城兄妹は二人一緒にいても問答無用で襲われたんだぞ! つまり今のお前らだって安全じゃないし、無事に或斗さんの家に辿りつけるかどうかもわからない! っていうかそいつ警備隊だろ!? 元セレイア部隊だってのに危機管理能力なさすぎるんだよ。ここがロワリアだからって平和ボケしてんじゃねえよ!』
或斗がぎくりとして苦笑いを浮かべる。露臥は本人には聞こえていないと思って好き勝手に言っているが、おそらく面と向かって同じことは言えないだろう。
「は、走る! ダッシュで或斗んち行って、今日は泊めてもらう!」
「俺は最初からそのつもりだったんだけど……さすがに一人で帰らせるわけにはいかないし」
隣で或斗が呟く。音が漏れて露臥の怒声はすべてしっかりと或斗にも聞こえている。
「ええっと、とにかく急いで家に行くから、まわり見といてくれ。もし近くでなんか変なものとか映ったら――」
なにか来る。
「伏せろッ!!」
或斗に向かって叫びながら、さっと地に膝をついて身を低くする。髪の毛先になにかが触れた気がした。それと同時に、一瞬大きな物体が頭の上をよぎった気がした。どすん、となにかの物音が聞こえる。
勇來の指示に反応が遅れた或斗の身体が、なにかに突き飛ばされたようにうしろに仰け反った。青い目が見開かれ、彼は自分の右肩を手で押さえると、薄く開いた唇から白い吐息をもらし、よろめいたまま体勢を持ちなおすことなく雪の上に倒れていく。胸元から肩にかけて衣服が裂けており、その隙間からみるみるうちに赤い染みが広がっていくのが暗い夜道の中でもわかった。
「或斗!」
端末が手から落ちたことにも構わず、勇來は弾かれたように雪を蹴り上げ、すぐさま或斗に駆け寄り傍に屈んだ。背中を支えて抱き起そうとする勇來を、或斗はべったりと血のついた左手で押しのける。傷の痛みのせいで力が入っておらず、勇來は上半身がわずかにうしろにかたむいただけだったが、或斗にとっては十分だったのだろう。
或斗に押された瞬間、背筋にぞくりと悪寒が走り、勇來はしまったと思った。またなにか来る。避けなければ――そう直感しているものの、腰を下ろした今の状態では回避できない。
右側からなにかが迫ってくる気配。
しかし斬り裂かれたのは勇來の体ではなく、道端の藪の中から飛び出してきた枯れ枝の塊だった。幾本もの枝々が絡まり合ってひとつの物体になったそれが、勇來のすぐ横で派手にはじけ飛び、粉々になって雪道に散らばったのだ。気配は勇來のすぐそばを通って左側に通過し、雪道の上をすべって木の陰に隠れたのがわかる。或斗が震える右手を低く挙げていることにようやく気付く。彼が自分の能力を使用したのだ。
或斗の手が力を失いぱたりと雪道に落ち、勇來ははっとして立ち上がる。いつの間にかあたりには風が吹いている。勇來の手元に小さな光が灯り、その光は棒状に伸びて槍の形になっていく。いつも一秒とかからない武器の召喚が、このときばかりは恐ろしく長く感じられた。
周囲の暗闇に目を凝らす。聞こえるのは自分自身の心音と、或斗のうめき声と荒い呼吸。それから木々のざわめく音のみ。雪を踏みしめる音も、草木を掻き分ける音も、その気配がすぐ近くを通過した際かすかに聞こえた苛立った息遣いも、今はなにも聞こえない。
二度。
二度かわした。生き物だ。飛び道具や、魔力によって作られた刃などではない。手に持った凶器か、あるいは牙や鋭い爪の類で直接斬りかかってきたのだ。人間なのか魔獣の類かはわからない。わからなかった。気配はある。しかし見えなかったのだ。
肌のひりつく感覚。近くにいる。じりじりと近付いてくる。つい先ほどまでは身も凍るほど寒かったはずの冬の風が、今は涼しいと思えるくらいに全身が暑い。コートを脱いでいる暇はない。汗が額を伝っていく。
突風。
同時に、再び気配が迫った。白い大きな影。真正面だ。咄嗟に槍を体の前で斜めに構えた瞬間、ずしんと重たい感覚が柄の部分に圧し掛かり、あまりの衝撃に雪を踏みしめた足がうしろにずりさがった。かろうじて構えは崩されなかったが、その重い一撃と、己の予想を裏切る想定外の事実に勇來は愕然とする。
最初と二度目は視界の外からの攻撃だった。なので相手が見えなかったのも無理はない。勇來は能力の恩恵か、生まれつき他の人よりも反射神経と動体視力に優れている。なので攻撃を視界の内に捉えた状態ならば、相手の容貌を確認できると思っていたのだ。だが真正面から突進を受け取めたにもかかわらず、またしても相手の姿が見えなかった。影として認識するのがせいぜいだ。
実体はある。透明でもない。ただ、あまりにも速い。暗さのせいもあるだろうが、特徴として認識できるものを、なにひとつ視界に捉えらえないほどに速い。とんでもない怪物だ――そう息をのんだとき、左脚に鋭い痛みが走った。思わず目線を落とすと膝の外側が斬られている。
いつの間に――勇來の動揺は次の瞬間、新たな悪寒にかき消された。振り返ろうとした時にはもう手遅れだ。
背後から襲いくる強い衝撃。
ざくん、と音がして、背中が熱くなった。




