11 雪夜の予告と忠告
部屋の明かりはついていない。デスクの背後にある窓から差し込む月明かりだけが室内を照らしている。窓の外では雪が降っている。バルコニーの床にもわずかに雪が積もっているのがガラス越しにもわかった。かすかに漂う紅茶の香りと、窓からにじむかすかな冷気と夜の静けさだけで構成された空間。
探偵事務所の扉を誰かがノックした。コンコンと硬く乾いた音が室内に響く。ほどなくして扉が開き、その隙間から人影がするりと部屋の中に入り込んだ。迷う様子もためらう様子もなく、デスクの傍まで歩いて来てようやく、千野原涼嵐の姿が月明かりに照らされ出した。
「こんばんは」
「……お前か」
「あら、私じゃご不満かしら」
探偵は答えなかった。涼嵐はデスクから離れ、ソファに腰かける。
「今帰ってきたところかしら。捜査のほうは順調?」
「まずまず、といったところだな」
「犯人は?」
「はっきりと断言できる段階ではない」
「目星はついているのね」
「お前も――」
探偵は一旦言葉を区切り、涼嵐を見た。
「気を付けたほうがいい。女ばかりが狙われているなら、絶対に安全とは言い切れん。夜は背後に気を付けることだ」
「あら、心配してくれてるの?」
そう言って微笑む涼嵐は心なしかうれしそうだが、対する探偵は仏頂面のままだ。
「……ただの忠告だ」
「――でももし私になにかあったら、そのときはあなたが守ってくれるんでしょう?」
「バカを言うな。私は戦闘要員ではないのだから、それは管轄外だ。護衛なら他をあたれ」
「もう、こういうときは嘘でも守るって言っておきなさいよ。ロマンがないわね」
「ロマンで事件が解決できるか」
不愛想な探偵に、残念ねと返して涼嵐は笑った。
「これ以上被害が出ないのが一番だけど、もし出てしまうとしたら、いつになるのかしら」
「そればかりは犯人にしかわからん」
「高い頻度で急に怪我人が運ばれてくる状況が続くのはちょっと困るのよね。私だって常に医務室にいるわけじゃないし……」
「だが被害者が増えればそれだけ情報も増える」
「まあ、ひどい人」
「次の犯行がいつになるかなどは知らんが、また近いうちに被害が出るだろうな。私の勘が正しければ」
次の被害者は――わずかに目を細め、探偵はその名を告げた。
*
ギルド三階の廊下は日が暮れてからもにぎやかだ。昼間ほどではないものの眠る様子のない者たちがあちこちで立ち話をしている。午後六時、まだまだこの賑やかな空間は続くだろう。廊下で歓談にふける者たちの中には、自分と同じく今しがた戻ってきたばかりの風音勇來の姿もあったが、鬼礼は声をかけずに気付かないふりをして廊下を進んだ。何度か近くを通りかかったギルド員に声をかけられたが、軽くあしらって自室へ向かう足を速める。
寮の廊下で一人でぼうっとしている者はいない。なにもせずに立っていれば数分もしないうちに誰かしらに捕まって雑談やじゃれあいに巻き込まれるからだ。朝も昼も夜もそんな調子だからこそ、露臥のようにコミュニケーション能力に難のある者には居づらいのだろう。
石材造りのギルドの内部では声や音があちこちに跳ね返って反響し、逃げ場のない音は体感だと本来よりも少し増幅されて聞こえる。壁や扉にはそれなりの防音性が備わっているので、大抵の音は遮断されて部屋の中にまで丸聞こえとはならないが、それでも完全には遮音しきれなかったざわめきが、静かな部屋にいるとかすかに聞こえてくることがある。安眠を妨害されるほどではないので迷惑には思っていないのだが、あのいかにも神経質そうな探偵などは、だからこそ二階に自室を持っているのだ。露臥も彼のように階を変えて暮らせばよいのではなかろうか。二階でも一階でも、はたまた地下でも。他の者と同じ寮にいるよりは気が楽だろう。
ギルドの壁は不思議な色をしている。遠くから見ると青白いが、近くに寄ると灰色だ。どういった材質で、なぜそのような色の変化が現れるのかはわからないが、この色合いはなかなか嫌いではない。
鬼礼の部屋の周辺が寒いからなのか、階段付近にひと気はない。扉の鍵を開け、ドアノブに手をかけたとき、階段の踊り場から雷坂郁夜が姿を現した。短い茶髪に、左の頬には大きな一本の傷痕があり、感情が表に出にくい性質なので無表情が基本だ。ワイシャツの胸ポケットにはいつも一本のペンを挿していて、それは今日も変わらない。
「よう、鬼礼。こんな時間に会うなんて珍しい……いや、三階で会うこと自体あまりなかった気がするな」
「たしかに、君はいつも司令室で遅くまでコーヒーを飲んでいるからね。まだ六時すぎだろ?」
「別にコーヒーのために司令室にいるわけじゃないし、遅くまで部屋に戻らないのはコーヒー飲んでるわけじゃなく仕事をしているからだぞ」
「だいたいいつもその姿しか見ていないからさ」
「俺はいつも五軍の指揮をとっているから、たしかに、お前と顔を合わせるときといえば司令室にいるときくらいしかないが」
「起床時間と就寝時間、あるいは勤務時間の差だろうね。自分は君ほど熱心ではないし」
「自分で言うのか。それはそのとおりだが……事件のほうはどうだ」
「君も來坂礼も、顔を合わせればそればかりだね」
「そりゃあ、早く解決してほしいからな。別に急かしているわけじゃないが、ギルドへの被害が広がっている以上、どうしても気になってな」
鬼礼は少し考える素振りをして、数秒後に答える。
「……少なくとも、まったくなんの進展もないということはないはずだね。探偵の反応を見てのことだけど、彼にはなんとなく見えているものがありそうだ」
「そうか。まったく情報がないと言っていたから、大丈夫なのか心配していたが……」
「どこまで真相に近付いているかまではわからないけどね。彼、そういうことは聞いても教えてくれないだろう?」
「そうだな。あいつにはあいつなりのポリシーがあるから、それも仕方ないだろう。それに今は探偵よりも鬼礼、お前のほうだ。礼もロアもお前がおとなしいのがなんとなく怖いって言ってるぜ」
「自分が?」
「こう言ってもどうせ自覚はないんだろうけど。今おとなしい分の反動がいつかドカンとやってくるんじゃないかと。そのときにいったいなにをしでかすか、考えるだけでもおっかないんだとよ。俺も同意見だ」
「まるで人を爆弾扱いしているかのような意見だね」
「十分すぎるほど危険物だ。頼むから暴れないでくれよ」
「心外だなあ」
鬼礼は薄く笑う。そこまで言われるほどのことをしてきた覚えはないのだが、彼らはいったいなにをそんなに警戒しているのだろうか。討伐任務に出て戦うとき以外で暴れた記憶などはない。単なる印象だけで言っているのだろう。
「それで、お前自身はどう思っているんだ、鬼礼」
「どうって?」
「事件について。探偵はともかく、お前はなにか考えていることはないのか」
「そう……だなあ。どうだろうね? さすがに探偵さんほど核心に迫ってはいないさ。なんとなーくこうじゃないかああじゃないかと考えていることはあるけど。それくらいさ」
「本当か」
「少なくとも風音勇來よりはあれこれ考えてみているよ。他になにもすることがなくて、考える時間だけあるんだから、そりゃあなにかしら考えてしまうものだろ?」
「それはそうかもな」
「でもさすがに、誰が犯人なのかなんてわからないよ。あくまで輪郭を、なぞれる部分までなぞっているだけ」
「人物像は掴めてきた――ということか」
「どうかな? むずかしいことはわからないや。そういうことを考えるのは探偵さんの仕事だし。自分たちはせいぜい彼らの手足となって、言われたとおりに動くだけさ」
「……お前がそう言うとますます怖いな」
「嫌だな。ちゃんと言うことには従っているんだからいいじゃないか」
「他の被害者に話を聞きに行くのをほっぽりだして、途中からは勇來が一人で行くことになったと報告があったが」
「だって息抜きは必要だろ? それに自分が近くにいると寒いらしいし、気を遣ったんだよ」
「白々しい……」
「任務自体を投げ出してるわけじゃないんだから。暴れてほしくないんだったら、たまにこういう形で休憩を挟むくらいは容認してくれよ」
おどけるように肩を竦めて言うと、まだなにか言いたそうな郁夜をよそに、鬼礼は部屋に入っていった。




