【空の支配者】第三章
前の話のあらすじ
ジンとアザムの意外な関係が明らかになり、ジンはラスラファンに移籍するようにアザムから要求される。
結城はクーディンの雷公と試合をし、矢の嵐を何とか凌いで見事に勝利を収めた。
結城はチームの負担が諒一に集中していることを不安に思うも、なかなか解決策を見いだせないでいた。
第三章
1
ダグラス社保有の実験フロートユニット。
本社フロートユニット近海にあるここはVFランナー育成コースの演習場にもなっている。
何も障害物が無いため広いし、訓練用VFもたくさんある上、訓練用の兵装も十分な数だけ用意されていて、ついでに、フロート内の基地にはシャワールームまで完備されている。なかなか充実した場所だ。
世界広しといえど、ここよりもVFの操作訓練を快適に行える場所はないだろう。
ただ、難点を挙げるとするならば、それは気温の高さであった。さすがにこれは気候的な問題なので解決しようがない。
実際、VFのコックピット内部は一定の温度に保たれているので、演習中はあまり問題ない。
問題は準備運動と待ち時間の間に肌に降り注ぐ太陽光線だ。演習場は年から年中日光によって照らされ身を隠す日陰もないので、否が応でも照り焼きにされてしまうのだ。
たまに教官が海水を濾過して淡水化した水を撒いてはくれるが、焼け石に水といった感じであまり効果はない。
そんな中、演習場において唯一暑さから守ってくれるのは退避エリアに建てられている大きめのテントだけだ。
――結城はそんなテントの中で順番を待つために地面に座って待機していた。
VFを使った演習が始まって既に30分。まだ順番は回ってきそうにない。
それにしてもテントは素晴らしい道具だ。日光を遮ってくれる上に、四方から風も入ってくることができる。寒い地域ならまだしも、この海上都市群においては最高の日除けツールだろう。
しかし、現在テント内は男子学生共で溢れかえっており、風通しは最悪だった。なぜなら、男子学生が日影を求めてテントの中央に集まっているからだ。
広いテント内において最も涼しいのは外側から一番離れている中央部分である。そのため、彼らは日光からの放射熱から逃れているようだが、そのせいで逆に熱が篭ってしまい、蒸し暑くなっているのだ。
テントから一歩でも外に出れば刺すようなヒリヒリとした暑さが肌を襲う。しかし、全員で真ん中に寄れば鍋で煮られるようなムシムシとした暑さに苦しめられる。こうなるとどう足掻いても暑さからは逃れられない。
そう悟った彼らは潔く後者を選んだというわけだ。そんな男子学生の気持ちもわからないでもない。私も、肌を焼かれるくらいなら蒸し暑いほうを選ぶだろう。
だが流石は男子、文句も言わずに顔面の汗をタオルで拭って暑さに耐えている。
高温多湿に慣れているアジア系ならまだしも、低温乾燥にいるような白い肌の学生も文句ひとつ言わずに待機している。なんとも素晴らしいことだ。
私の考えだと、不良学生なんかはすぐに文句を言いそうな気もしたのだが、そんな予想に反して大人しくしていた。人間、慣れると不快を不快と思わなくなるのかもしれない。
しかし、私はその不快に全く慣れなかった。
(あっち、凄く蒸し暑そうだな……。)
これでも一応女子学生なので、結城は男子学生の集団に埋もれたくはなかった。
訓練用のランナースーツに守られているとは言え、なるべく肌は焼きたくない。かと言って、日光を避けるためにあのサウナに等しい空間に入りたくもない。……その結果、結城は今、2種類の暑さを感じられる境界部分で暑さに耐えていた。
そんな感じで結城は、日光があたっている地面から届く放射熱を感じつつ、ひたすら交代の時を待っていた。
(暑い……。いつまで待たせるんだ……。)
汗をダラダラ流しながらゼーゼーと呼吸していると、男子学生の集団の中でフラフラしている少年の姿が見えた。
周囲と比べると一際小さく見える男子学生、クラスの中でもツルカと並んで最年少の学生、それは槻矢くんだった。
蒸し暑い集団から逃れようと歩いている彼に向かって、結城は声を掛ける。
「槻矢くん、こっちこちっち。」
私が声を掛けると、槻矢くんはふらふらとした足取りでこちらに近づいてきた。
今すぐ体を支えてやりたい所だが、あいにく私も暑さのせいでその気力がない。代わりに近くに座るように提案してみる。
「ここに座ったらどうだ? あっちよりはましだと思うけれど。」
「あぁ、はい。」
槻矢くんはこちらの言葉に反応したのだが、あまり頭が働いていないようで、なぜか私の前で正座した。
「失礼します……。」
かなりシュールな絵面だったが、わざわざ指摘するのも面倒だったので、結城はそのまま槻矢と話を続けることにした。
「それにしても、あいつらよく我慢できるよな……。やっぱり槻矢くんにはつらい?」
男子学生の集団に目を向けながらぼやくと、槻矢くんからまたしても的を射てない答えが返ってきた。
「はい、このランナースーツだとつらいです。」
「ん? スーツがどうかしたのか?」
一体何のことかと思い短く聞き返すと、槻矢くんは息苦しそうな声で説明してくれた。
「みんな……自前で体温維持機能とかが強化されたランナースーツを買ってるんです。……いまだに訓練用のを着てるのは僕くらいです。」
槻矢くんのその言葉を聞き、改めて男子学生達のランナースーツを観察してみる。すると、デザインが少し違うことに気が付いた。
あまり男子学生の体をジロジロと見る機会がなかったので、今の今までそれが訓練用のスーツではないと判断できなかったようだ。
微妙に異なるデザインのスーツが気になり、結城は頭に思い浮かんだ疑問を槻矢に投げかけてみる。
「ちなみにさ、そのランナースーツっていくら位するんだ?」
暑さのせいで苦しいだろうに、槻矢くんは律儀にも答えてくれた。
「グレードによって違うみたいですけど、……あの人達が着てるのはかなりの高級品だと思います。日本のサラリーマンの平均年収くらいするんじゃないですか。」
「そんなに!?」
値段を聞いて思わず声を裏返らせてしまう。
槻矢くんは私のそんな素っ頓狂な声に驚いているようだった。
「す、すみません。ブランド品な上にオーダーメイドですから高くて当然というか……。」
そんな槻矢くんの言葉を遮るかのように教官の大きな声がテント内に響いた。
「あと1分だ!! 気合入れろ!!」
その声は教官の目の前にある通信機器に向けられたものであり、少し遅れて演習場内のスピーカーから同じセリフが復唱された。
フロート内に響く怒声は結城の不快指数を更に上昇させる。
「やっぱり暑いな……」
結城はそう言ってメガネを外し、顔面の汗をスポーツタオルで拭う。
するとようやくここで気が付いたのか、槻矢くんは恐る恐るこちらに確認してきた。
「あの、もしかして結城さんも最初に配られた訓練用のスーツを……?」
「見れば分かるだろ。」
メガネをかけ直すと、槻矢くんの微妙に喜んでいる顔が見えた。
自分と同じ暑さを共有しているというだけで仲間意識というか、その類の感情が芽生えたのだろうか。しかし、槻矢くんはその表情をすぐに隠してしまう。
「……いや、結城さんそこまで暑そうに見えなかったので。」
「そう?」
なるべく暑さを表情に出さないようにしているのは事実だが、だからと言ってスーツの中の湿気が吹き飛ぶわけでもない。中はかなり蒸れ蒸れ状態だ。インナースーツの吸水放熱機能も追いついていない。
しかし、ランナースーツを見ればすぐに訓練用に配布されたものだと分かりそうなものだが……。その疑問については、私が訊く前に槻矢くんがわざわざ説明してくれた。
「……あと、あんまりランナースーツをジロジロ見るのも悪いかと思って……。それで気が付かなかったのかもしれないです。」
「そんな卑屈にならなくても……。」
槻矢くんは正座の姿勢を崩すこと無く、俯いて恥ずかしげにしていた。かなり緊張しているようだ。
そんな緊張を解すべく、結城は面白い物を槻矢に見せることにした。
「槻矢くん、これ見て。」
そう言って結城は胸部プロテクターを外して脇に置く。そしてランナースーツのネック部分を摘んで、前方斜め下に引き下ろした。
伸縮性に優れたスーツは拳ひとつ分くらいの距離だけ伸び、結城の首から鎖骨にかけてを露出させる。そのまま、ネック部分を持ってパタパタさせると、蒸気となった汗がその隙間から上昇し、結城の顔に掛かったメガネのレンズを白く曇らせた。
……これはメガネを掛けている者だけに許される一発芸である。アツアツの丼物やラーメンやうどんでもできるが、実際はあまり使いどころがない。
しかし槻矢くんの反応は薄く、私がネック部分を引き下ろした時点で視線を逸らしていた。当然、私のメガネの曇りも見ていなかっただろう。
――せっかく体を張ったのだから見て欲しい。
「ほらほら槻矢くん、メガネが……」
「駄目です、結城さん。」
2回目をやろうと首元に手をやった途端、とうとう槻矢くんは両手で自らの目元を覆ってしまった。そして、小さな声で呟く。
「……そういうのは諒一さんだけにしてくださいよ……もう。」
若干不貞腐れたような、恥ずかしさと怒りが混じったような口調で諌められ、結城は自分が今どんな状況にあるのかを冷静に考え直す。
――今の私は胸元をおっぴろげて少年に迫るただの変態だった。
「あっ……ごめん。」
気を和ませるつもりが、逆にあらぬ誤解を植えつけてしまったようだ。
結城はすぐに謝り、ネック部分を押さえて胸部プロテクターを装着しなおす。
暑さのせいで色々と気が緩んでいたようだ。今後は気をつけよう。
それにしても、先ほどの槻矢くんはなかなか可愛い反応をしてくれた。ツルカと同じ13歳とは思えないほどの慎み深さだ。
ツルカもこのくらいシャイな性格ならばいくらか可愛げがあるのに、なぜあんなサバサバした性格になってしまったのだろうか。
……やはりイクセルのせいだろう。
詳しい経緯は知らないが、イクセルがオルネラさんをツルカから奪ったからこんなことになったのは間違いない。
だが、今更性格を矯正する必要もないだろう。大人になれば自然とお淑やかになるはずだ。姉のオルネラさんがそうなのだから、当然妹もそうなれるはずだ。
(私も人のこと言えないけれどな……。)
因みにツルカは現在VFに乗って演習中だ。先ほどの教官の言葉が本当なら、もうそろそろ交代の時間である。
そんな事を考えていると、すぐに交代を告げる笛の音が鳴り響いた。
「交代だ!! 次の班は前に進め。」
「はい、教官……。」
すぐにテント内から複数の不抜けた返事が聞こえ、学生たちがだるそうに立ち上がる。
教官はそんな学生の態度が気にくわないようで、ボリュームを上げて怒鳴りつけた。
「おい、早くテントから出ろ!! のろのろしてるとテントを取っ払うぞ!!」
「すみません、教官!!」
教官に急かされ、次の班はダッシュでテントの外へ駆けていった。
それに遅れて槻矢くんも正座を崩して立ち上がった。
「それじゃ僕も行ってきます。」
「じゃあね、槻矢くん。」
結城は座ったまま、激励のつもりで槻矢の太ももの側面をばしばし叩いた。
すると、槻矢くんはその場所をさすりながらもじもじと喋り始める。
「あの、さっきはいきなりあんなことを……」
「おいツキヤ!! さっさと交代しろ!!」
「は、はい、教官!!」
槻矢くんは最後までセリフを言えないまま、慌ててテントの外へ走っていった。
ちなみに私の班の番はこの後だ。
さっきみたいに怒鳴られないよう、返事をしっかりしておこう。
「ユウキー。」
槻矢くんがいなくなると、それと入れ替わるようにテント内にツルカが入ってきた。
呼びかけに応じて手を振ると、ツルカとすぐに目が合った。そしてツルカは私と目を合わせたままこちらに向けて一直線に歩いてくる。
ツルカはやがてテント中央あたりの男共のサウナ空間に差し掛かったが、本人はそんな事を気にする事無く堂々と横切っていく。
ツルカが通り過ぎた後、男子学生の何人かが何かに釣られるようにツルカに視線を向けていた。しかし、通りすぎるとその男子学生は我に返ったように正面を向きなおす。
なぜそんな現象が発生するのか不思議に感じたが、ツルカが近くまで来てその理由が分かった。潮風に乗ってほのかに花の香が漂ってきていたのだ。
ツルカが私の隣にちょこんと座ると、その香りも一層強くなった。
「ツルカ、どしたんだそのいい匂い。」
結城は香りの元をたどって、ツルカの腕やうなじあたりに鼻を近づけ匂いを嗅ぎ、とうとうツルカの頭にたどり着いてしまった。
「ちょっと、どしたんだユウキ……?」
「……。」
結城はツルカの困惑気味の言葉を無視し、人目を気にする事無くそのままがっしりとツルカの頭を掴んで引き寄せ、銀の髪に軽く鼻頭を押し当てて匂いを鼻腔に溜める。
それはとても心地の良い、神経をリラックスさせてくれるような香りだった。男子学生が匂いに釣られて振り返るのも無理はない。
「香水……いや、シャンプーか?」
何度か匂いつつ独り言を言っていると、ツルカがそれに答えてくれた。
「あー、昨日はお姉ちゃんとお風呂に入ったから、そのせいかもな。お姉ちゃんと一緒だと色々顔に塗りたくられたり、シャンプーとかリンスとかも5種類くらい使ってくるんだ。迷惑だって毎回言ってるんだけどなぁー……。」
迷惑そうな口調で言いつつも、ツルカの表情は幸せそうだ。
よほど高価な物を大量に使ったのだろう。ツルカのロングヘアーも相まって、広範囲に香りが発散されている。
そんな香りを嗅ぎ、結城も自らの体臭が気になってしまう。
「なぁ、私汗臭くないか?」
ツルカの頭から顔を離して訊いてみると、ツルカは困った顔を見せた。
「ボクにそんな事聞くなよ……。ちゃんと着替える前にデオドラントスプレーしてたんだし問題ないだろ。」
ツルカの言う通り、制汗スプレーを使ったのは事実であるが、スプレーの消臭効果にも限界がある。こんなに大量の汗をかいて、その臭いを全て防ぐことは難しいはずだ。
ツルカにとっては些細な問題なのかもしれないが、私にとっては死活問題なので、無理を言って協力してもらうことにした。
「いいから、一応嗅いでみてくれ。自分の匂いって自分じゃわからないだろ? ……お願いだ。」
こんな事を頼めるのはツルカ以外にいない。
結城が両手を合わせてお願いすると了承したのか、ツルカは「仕方ないなぁ」と言いつつ顔を結城の体に近づけた。
ツルカは数回ほど鼻から息を吸い、すぐに結果を報告してきた。
「……大丈夫、全然臭わないぞ。むしろ良い匂いだ。」
「よかった……。」
その言葉に胸をなで下ろしていると、ツルカは「気にしすぎだぞユウキ」と前置きして、臭いについて語り始める。
「体臭きつい人なんてそうそういないだろ。さっきも男子たちから嫌な匂いなんてしなかったし、……トレーニングの後とかはちょっと臭うけどさぁ……。」
結城はツルカの意見に同意する。
「確かに、年中暑いのに海上都市には汗臭い人少ないよな。こっちに来てからエレベーターとか電車で一度もそういうのに遭遇したことないし。日本ではそこそこいた気もするけど……何でだろ。」
原因を探りながら少しの間考えていると、不意にツルカが朧気な表情を浮かべつつ言葉を発した。
「あ、前に料理してる時にリョーイチが何か言ってたな……。」
「なんて言ってたんだ?」
こちらが訊くと、ツルカは不鮮明な記憶を思い出しているのか、ゆっくりとした口調で話す。
「えーと、海上都市は基本的に三色共に魚と野菜がメインだから、動物性脂肪をほとんど取らずに済む、とかなんとか……。」
動物性脂肪というキーワードは結城の記憶を刺激し、結城にあることを思い出させた。
「そういや家庭科の授業で習ったかもしれないな。動物の肉は悪玉菌を増やして、植物の肉は逆に減らすって。」
「植物の……肉?」
ツルカが不可解そうに言っているのを聞き、結城はすぐに言い直す。
「あー、油だ油。油って脂肪だろ? ……つまり、私たちは諒一の作ったおかずのおかげで臭わずに済んでるってことになるな。」
「なるほど、そういうことになるのか……。」
こちらが結論に至ると、ツルカはそれに納得したように何度も頷いていた。
しばしばファストフード店に寄ることがあったが、ここにいる間は控えることにしよう。
「あと5分だ!! 模擬戦だからって気を抜くんじゃないぞ!!」
ツルカとやり取りしている間に結構時間が経ったらしい。またしてもいきなり教官の声が聞こえてきた。
そんな野太い声に釣られて結城は遠くで組み手をしているVFの集団に目を向ける。
訓練用のVFはお互いが剣と盾を持って攻防していた。
その速度は非常にゆっくりだ。だが、ゆっくりでもVF自体が大きいので、その迫力は十分にあった。
(剣と盾を同時に使うのは今回が初めてだし、遅くても仕方ないか。)
手順を確認するためにはこのくらいのスピードが丁度いいのかもしれない。
そんなVFの集団を通り越してさらに視線を奥へ向けると、そこには青い空があった。テントの屋根のせいで上空までは見えないが、それでもかなり広く見える。
また、日本にいた時とは違ってこの空の青はより深く感じられた。というか、実際かなり青い。何一つないのは見ていて清々しいが、直射日光はその清々しい気持ちを打ち砕いてしまうので何か存した気分になってしまう。
(今日も相変わらずの快晴だな……。雲の1つや2つくらい出てくれてもいいのに。)
そんな事を思っていると、不意にその青の中に白い点を見つけた。
始めは小さい雲が白い鳥かと思ったが、その移動スピードは自然現象にしては速すぎるどころか、生物でも成し得ないほどのスピードであった。そのため、結城はすぐにそれが飛行機だと判断することができた。
そう判断すると同時に、結城はそのままのことを口に出していた。
「あ、ヒコーキ。」
「どしたんだユウキ?」
短い呟きにすぐにツルカが反応し、結城はそれに応えるべく空を進む白い物体を指で指し示す。
「ほら、あそこ。」
「どこだ……?」
こちらが空の一点を指さすと、ツルカは空に向けた私の腕に頬をぴたりと付け、まるでライフルを構えるように指先にも手を添えてきた。
するとようやく飛行機を発見したらしい。ツルカは「ホントだ」とつぶやいた。
暫く2人でその飛行機を観察していると、数分経った所で白い飛行機がこちらに上面を向けながら大きく旋回し始めた。そのお陰で結城はようやく飛行機の大雑把な形状を把握することができた。
「どう見ても旅客機じゃないよな。……戦闘機?」
あんなきついバンクで旋回する旅客機など見たことがない。
また、次の飛行機の動きはそれが旅客機でないことを決定づけることになる。
「おお……。」
その飛行機はロールしたりループしたりターンしたりと、短い時間に何度もアクロバットな軌跡を描いたのだ。間違いなくあれは戦闘機だ。
「ボク、たまに見かけるんだけど……何なんだろうなあれ。」
そう言いながら、ツルカもその戦闘機の動きをじっと観察していた。
……そんなこんなでしばらく見ていると、急に戦闘機がこちらに進路を向けて、段々この演習場にに接近してきた。
しかし、戦闘機特有のジェットの音はまるで聞こえてこない。結構離れてるし、ここまで音が届いてこないのだろう。最近の戦闘機は静音性にも優れているのかもしれない。
音が聞こえぬまま、戦闘機はどんどん演習場の上空付近に接近してくる。
小さな点がどんどん大きくなり、戦闘機のシルエットが段々正確に把握できてきた……と思った瞬間、戦闘機は演習場の真上を一瞬で通過し、背後へと抜けていった。
まさに電光石火である。
結城は戦闘機の姿を追うべく、慌てて背後に上半身を倒し、仰向けになりながら後方の空を見る。しかし、戦闘機の本体は見えず、凄まじい速度で遠ざかっていくアフターバーナーのオレンジだけしか確認できなかった。
それは背景の空の青の中で綺麗に輝いていた。
そのオレンジを見つめていると、ようやくエンジンの甲高い音が聞こえてきた。それは飛行場で聞くような旅客機の音とは全く違い、周囲の空気を揺さぶるような大音量だった。
またそれは、戦闘機が音速を超えて飛行していることを示していた。
「すごいな……。」
さすがは戦闘機だ。
私の想像を遥かに越えるスピードである。
あれに狙われて逃げられる生物はこの世に存在しないし、対抗できるものといえば、同じ戦闘機か対空ミサイルくらいだろう。
結城はVFでもそれが可能であるか、しばらく考えてみる。
(銃は当たらないだろうし、そもそもあそこまで届く武器は電磁レールガンくらいしかないよな……。でも、撃つ前に先制されたらどうしようもないし……。)
短い間、仰向けになって空を見上げつつ頭の中で戦闘シミュレーションをしていると、やがて唯一確認できていたオレンジ色も見えなくなった。
(返ってこないな……どこ行ったんだろ。)
次こそは戦闘機の形を見てやろうと意気込んでいた結城だったが、そのチャンスは訪れそうにない。戦闘機が視界から消えたこともあり、探すのを諦めた結城は腹筋に力を入れて上半身を起こした。
すると、前に座っている大勢の男子学生と目が合った。
「……?」
どうやら、不自然な体勢で仰向けになっていた私はかなり目立っていたらしい。
――いきなり空から大きな音がして、気になって振り向くと足を組んだまま仰け反って倒れている女がいた。……という状況に遭遇すれば男子学生でなくても不審に思う。しかも、それが1STリーグのランナーとなれば、注目されて当然である。
(あぁ……。間抜けに思われたかもな……。)
乙女にあらざる体勢を見られたことを恥ずかしく思いつつ、結城は後ろに倒れた際の衝撃でおでこ寄りずれてしまったメガネの位置を修正する。
すると、こちらの取り繕うような行動を察してくれたらしく、男子学生もすぐに私から視線を逸らしてくれた。
後ろを向いていなかった学生はと言うと、まだ先ほどの音が気になるのか、テントに遮られた狭い空を眺めていた。しかし、その方向はまばらであり、正確な場所は掴めていない様子だった。
「ふあぁ……。」
ツルカはそこまで興味がないらしく、耳を塞いだまま欠伸をしていた。
何回か見たと言ってたし、ツルカにとっては騒音以外の何物でもないのだろう。
……やがて、戦闘機に遅れてやってきた音もすぐに消え去り、そこでようやくツルカは耳から手を離した。
声が聞こえる状態になり、結城はさっそくツルカに戦闘機についての話題を振る。
「なぁ、あれってパトロールしてるのかな。レーダー設備もあるし、わざわざ飛ばさなくてもいいと思うんだけど……。」
結城はあの戦闘機が海上都市側のものだと勝手に決めつけていたが、実はあれが侵入してきた戦闘機である可能性も否定出来ない。しかし、領空を侵犯してアクロバット飛行するような輩がいるとは考えにくいし、やっぱり海上都市側の戦闘機でいいのだろう。
ただ、この海上都市はいろんな国が集合している場所なので、どこの国や企業や団体が先ほどの白い戦闘機を所有しているのかは全く判断出来なかった。そもそも戦闘機にも詳しくないのに分かるわけもない。
そんな感じで思考を巡らせていると、ようやくツルカの答えが返ってきた。
「レーダーに頼るのもいいけど、やっぱり今みたいに一応は飛ばしといた方がいいんじゃないか? ステルス戦闘機とかがいたら困るし、目でも確認したほうがいいだろ。それに、定期的に飛ばせば敵も迂闊に手を出せないって。」
「そうか、抑止力か……。」
ツルカの言葉に納得しかけた瞬間、近くから反論の声が上がった。
「目視で哨戒したところで、そう容易く敵を発見できるわけがないだろう。」
それは教官の声だった。いつの間にか近くまで来ていたらしい。というか、知らない間に話しも聞かれていたようだ。
教官は腕を組んで続けて話す。
「……それに、複数国家のプロジェクトで造られた海上都市群を攻撃するほど馬鹿な奴もいない。ここを攻撃しただけで一気に十数か国を敵にまわすことになるんだからな。」
「じゃあさっきのは……?」
パトロールしているわけでもなく、敵の戦闘機でもない。となれば、なぜあの白い戦闘機は飛んでいたのだろうか。
そんな意味を込めて結城が訊くと、教官は空に目を向けながら答えた。
「さっきのは……大方どこかの航空機研究グループのテスト飛行だろう。この演習場と同じく、何もない海上ほど兵器テストに適した場所はないからな。」
流石は教官だ。テスト飛行という答えは考えもしなかった。やはり、長い間海上都市に住んでいる分、色々と知っていることも多いようだ。
ツルカも納得したようで、教官の言葉に大人しく耳を傾けていた。
「そう言われるとそうだな……って、ちょっと、ボクらの話に割り込んでくるなよ。」
我に返ったのか、ツルカは自然に会話に参加してきた教官に突っ込みを入れる。
しかし、教官は動じることなく私達を叱り始めた。
「お前らこそ何だ。さっきから聞いていれば『飛行機がすごい』だの『臭いが気になる』だの……。演習に関係のない話をするな。」
(ん……?)
結城は教官のセリフに引っかかり、言葉を頭の中で繰り返す。
すると、結城はある事実に至ってしまった。
(まさか、ツルカの匂いの話からずっと聞こえてた……?)
教官がいたのはテントの前方、通信機材が置かれているあたりだ。となると、当然テントの中ほどにいる男子学生にも会話が聞こえていたことになる。
……その事実に結城は狼狽えてしまう。そして、恥ずかしさのあまり赤面してしまった。
しかし、教官は私が顔を赤くしていることに気付くことなく、首に下げている笛を口元に持っていき、それを口に含む。
すると、すぐに交代を知らせる笛の音が周囲に響き、続いて教官の怒声も聞こえてきた。
「交代だ!! 次の班は前に進め。」
その合図に「はい、教官」と返事をすると、男子学生はテントの外へと走っていく。
結城は、ツルカとの会話がいつから聞こえていたのか気になっていたが、それを確認するよりも先に教官に命令されてしまった。
「何してるんだタカノ、さっさと交代しろ。」
「は、はいっ、教官。」
若干疲れたような口調で命令され、結城は反射的に返事をする。
そしてとうとう教官に質問できないまま、結城はテントの外へと向かって走りだした。
2
演習が終わると、学生たちは全員ダグラス本社があるフロートまで移動する。
なぜなら、メインフロートユニットに帰るためには必ずここを経由しなくてはならないからだ。
フロートのターミナルに着くと学生たちは教官の前で整列し、そこで教官が解散宣言をすればようやく演習は終わりだ。
結城とツルカは演習が終わってすぐににターミナル内の待合室に移動しており、そこにあるベンチに腰を下ろして次の便を待っていた。
中央フロートユニット行きがターミナルに到着するまであと15分。
それまで体を休めようとベンチに座り直した時、不意にツルカが話しかけてきた。
「あ、言い忘れてたけど、ボクはこのまま家に帰るから。」
唐突にツルカに告げられ、結城は待合室にある電子時刻表を見てみる。
すると、1STリーグフロート行きは5分後で、船もターミナルで待機状態にあるようだった。
それを確認し、結城はツルカにアドバイスを送る。
「あと5分で出るみたいだし、もう乗船しといたほうがいいんじゃないか?」
乗り遅れたら次は30分近く待たねばならない。
しかし、ツルカは慌てる様子もなく私を誘ってきた。
「あのさ、ユウキも一緒に来ないか? 汗が気になるならボクの家にはおっきい湯船もあるし、シャンプーとかも使っていいぞ。」
まだツルカは私の匂いのことを気にかけてくれているらしい。
変な気の遣い方をされ、結城は半笑いでそれに答える。
「いや、そこまで深刻に悩んでないって。基地内でシャワーも浴びたし十分だ。」
「遠慮しなくていいのに。」
後5分もしないうちに出航だというのに、まだツルカはベンチに座ってのんびりと私と話している。このまま問答を続けているとツルカが出航に遅れそうだったので、結城は適当な理由をでっち上げることにした。
「私は学校に置きっぱなしの教材があるから、取りに帰らないと駄目なんだ。だから付き合えない、ごめん。」
「そうか……なら仕方ないな。」
こちらが嘘の予定を告げるとようやくツルカは腰を上げ、待合室の出口に体を向ける。
「夕御飯までには寮に戻るから、一緒に食堂でなんか食べよう。」
「分かった分かった。また後でな。」
こちらが了承するとすぐにツルカは待合室を出て、乗船ゲートをくぐっていった。
ツルカの姿が見えなくなると結城は再びベンチに座り直し、小さくため息を付く。
……先程は誘いを咄嗟に断ってしまったが、実は結城もアール・ブランのラボがある1STリーグフロートユニットへ行くつもりだった。しかし、あの時ツルカの誘いを受け入れていれば無理矢理湯船に体を沈めることになっていただろう。それを回避できたのだから、次の便が来るまでの30分くらいは浪費しても仕方がない。
(そうだ、ここの所諒一大変そうだし、何か差し入れでも買ってやろうかな……。)
空き時間ができたので、おみやげを買う時間は十分に確保できる。それに、少しターミナルから離れても平気だろう。もしこのことがツルカに知れたら恥ずかしかったし、そう考えると先に行かせて良かったのかもしれない。
30分もあれば、近くの店で軽食なり何なり買えるし、露天でアイスも買い食いできるはずだ。
そんなことを考えているうちに、今度は中央フロートユニット行きの便がターミナル内に到着したらしく、時刻表の文字が点滅していた。出発は10分後のようだ。
それを見た男子学生達が乗船ゲートを通っていくのを見届けつつ、結城は差し入れの食べ物を買うためにターミナルを後にした。
――ターミナルを出てから20分。
結城は近場で買ったフライドポテトをつまみ食いしながら歩いていた。諒一に持っていくつもりだったのに、既に中身は半分以上減っている。
これは美味しそうな匂いを漂わせているフライドポテトが悪いのであって、私は悪くない。
そこにフライドポテトがあれば食べてしまうのは当然であり、空腹の結城がその誘惑に打ち勝てるわけもなかった。
でもそれは問題ではない。船が出発する前に、また買い足せばいいだけの事だ。
そうなると、問題は船の中でフライドポテトに手を出すかどうかであるが、気をつけていれば何とかなるだろう。
(……喉乾いたな。)
フライドポテトを食べているうちに口の中が油っぽくなってしまったので、結城は近くにあった自販機で炭酸ジュースを購入することにした。
結城はコーラを選択してボタンを押す。すると自販機のモニターに代金が表示された。
それを見て結城はフライドポテトの入った紙袋を脇に抱え、懐から取り出したカードを自販機の精算部分に押し当てる。すると小気味の良い電子音が聞こえ、取り出し口に缶ジュースのコーラが落ちてきた。
それを取り出すとさっそく結城は蓋を開け、コーラを飲み始める。
その時結城の頭は上に傾き、空に伸びる背の高いビルが視界に映り込んだ。
高いビルはいくつも見えたが、その中でも一際高いのがダグラスの本社ビルだ。海上都市群を建設した企業に相応しい立派なビルである。だが、鹿住さんから聞いた黒い噂のせいであまりいい印象を持つことができなかった。
もう少しそんな光景を見ていたかったが、炭酸のチクチク感に耐えられなくなり、結城は口元から缶を離す。
すると今度は歩道を歩く人々の姿が目に入った。
全員がスーツなどのビジネスに適した格好をしており、また、全員が明確な目的地があるらしく、余裕のなさそうな雰囲気を放っている。
見たところVFBファンの姿は全くない。ほとんどがダグラスに関係する企業に務める社員なのだろう、みんながみんな時間に追われてせかせかと歩いていた。
こんな感じなのでファンに囲まれることもないと思うが、一応結城は帽子を被って変装していた。これならば全く問題ないはずだ。
(おっと、こんな場所で立ち止まってる場合じゃないな……。)
船が出るまであと10分弱。少し早足で移動したほうがいいかもしれない。
そう思い歩き出そうとすると、視界に映るスーツ姿の人の群れに混じって、かなりラフな格好で歩いている男性を見つけた。
その男性は道路を挟んで反対側の歩道を歩いており、スーツの群れの中でとても目立っていた。
結城はその男性に気付かれぬよう、帽子のつばでこちらの目元を隠して格好を観察する。
その男性は真っ白いカッターシャツにジーンズという服装をしており、顔にはスタイリッシュなサングラスをかけていた。至って普通な格好であるのだが、ただ、この状況では目立っていると言わざるを得なかった。
結城はしばらくその男性を見て、自分も変装用にサングラスでも買おうかと考えていた。
しかし、そんな事を思っていたのも束の間、男性に対して真横の位置に来た瞬間に見えた横顔によって結城はその男性が自分のよく知る人物であることに気がついてしまった。
(……七宮!!)
ウェーブのかかった黒髪、常に冷笑しているように見える口元……間違いなく七宮宗生である。最初見たときは分からなかったが、サングラスの隙間から見えたどこか醒めたような目を見て七宮であると確信したのだ。
(なんでこんなところで会うかなぁ。)
思わぬ偶然に、驚きを通り越して呆れていた結城だったが、それよりも何で七宮がこんな場所で歩いているのか、その理由が気になっていた。
「んぐ……!?」
七宮に気を取られて深刻に考えながらフライドポテトを頬張ったのがいけなかったらしい。結城は食べかけていたフライドポテトを喉につまらせてしまった。
「が……ごほっ……。」
ここで大きな咳を出すと七宮に発見されてしまうかもしれない。結城は極力咳を押さえて物陰に隠れ、そこで喉に詰まったポテトをコーラで胃の中へ流し込んで事無きを得た。
(危ない危ない……。)
咳がおさまった所で結城は物陰から七宮の様子を窺う。七宮は私とすれ違った後も淀みなく歩いており、その後姿からはこちらの存在を気取られたような気配は感じられなかった。
後ろ姿を観察していると、七宮の隣を同じペースで歩いている男を発見した。
その男は七宮よりも長身で、白髪の混じり具合や首の後ろのシワの具合から、七宮よりも一世代くらい年上だと判断できた。彼は薄いみどり色の半袖シャツにカーゴパンツというスタイルで、履いているブーツも重厚な感じであった。
また、男は七宮と楽しそうに話をしており、2人は頻繁にお互いの顔を見ていた。話の内容は聞こえないが、なかなかその会話は弾んでいるように思える。
そんな様子を観察している間にも2人はこちらからどんどん遠ざかっていく。
(これはチャンスだな……。)
諒一には悪いが、せっかく偶然遭遇できたのだ。このチャンスを逃すわけにはいかない。
急遽予定を変更することを決定した結城は、急いでポテトを口の中に詰め込むと、それとコーラを口の中でかき混ぜるようにして飲み込み、空になった容器と紙コップを道路脇にあったゴミ箱に投入する。
そして、結城は進行方向を逆転させて2名の尾行を開始した。
――その後も2人は会話を続けており、背後など気にしている様子もなかった。
尾行し始めてから十数分経っても会話が弾んでいるようで、かなりの頻度で笑い声が聞こえてくる。これだけ会話が続いているのだし、この男は七宮の友達か何かだろうか……。しかし、友達にしては年齢が離れすぎている気もする。
様々な憶測が思い浮かんでは消える。
何も変化が見られないまましばらく尾行していると、ついに北側のターミナルに到着してしまった。
2人は進路を変えることなくそのままターミナルの構内に入っていき歩道上から姿を消した。
ターミナル入り口の扉によって視界が遮られ、七宮から見られる心配がなくなると、結城は駆け足でターミナルの目前まで移動する。
(ここからどこかに行くのか?)
ここは行き先がかなり限定されており、結城が乗る予定だった南側のターミナルよりも人が少ないはずだ。同じ待合室にいればすぐに見つかってしまうだろう。
そう考えた結城はすぐさま外側の階段からターミナルビルの2階のテラスに移動し、そこから湾内の様子を確認することにした。七宮たちが船に乗るのを確認した後で急いで下に降りて同じ船に乗る、という寸法だ。
それに、もし同じ船に乗れなくても出航の時間さえ把握できれば行き先が分かるので、それだけでも十分だろう。
作戦を考えつつテラスを移動していくと、やがて結城は船着き場が見渡せる位置に到着した。現在船着き場には2隻の客船が停泊しており、数名の人が乗降場付近でたむろしていた。
その中に2人の姿がないかテラスから見下ろして確認すると、まだ船が来ていない船着き場に2人の姿を見つけることができた。どうやらそこに船が来るのを待っているようだ。
結城は早速携帯端末を使ってどこ行きの船に乗るのかを検索することにした。
(えーと、この時間帯にあの乗り場に到着する船は……)
テラスの手すりにもたれかかって時刻表を調べていると、結城が調べ終わる前にその船着き場に新たな船が入ってきた。
船を見れば行き先がわかるだろうと船自体に注目した結城であったが、すぐにそれでは行き先が特定できない事に気づく。……なぜならそれは普通の客船ではなかったからだ。
(なんだあれ……?)
“運賃もたかが知れているし、ここまで尾行したのだから同じ船に乗り込もう”と気楽に考えていた結城だったが、新たに現れたその船を見て絶句してしまう。
結城の目に映った船は中型のボートであり、船体が濃いグリーンでペイントされている、明らかに軍用のものであった。
七宮たち2人は、その船が停泊するやいなや迷うことなく乗り込んでいく。
「……。」
こんな軍用のボートの行き先など調べて分かるものではない。しかし、数日後にはダークガルム対グラクソルフの試合が控えているし、七宮がそこまで遠出するとも考えられない。なので、行っても精々日帰りできる距離だろう。
軍用のごついボートを目の当たりにして腰が引けてしまったが、ここまで来て引き返すわけにもいかない。何としても七宮の後を追うのだ。
……相変わらず自分の無謀さには呆れてしまう。
尾行を続行することを心の中で決め、改めてボートの姿形を観察していると、後方のスペースに荷物が積まれていることに気が付いた。それは規則的に並べられ大きなシートで包まれており、さらに詳しく見てみるとそのシートの下に身を隠せそうな隙間があるのを発見した。かなり狭いが私ならなんとか入り込めそうだ。
(よし、行くか。)
結城は七宮たちがボートの船内へ入ったのを確認すると、再び周囲に目線を巡らせる。テラスにも船着き場にも人はほとんどおらず、こちらを気にしている人はいない。
それを再認識すると、結城は意を決してテラスから飛び降り、海に突き出している桟橋のような所に着地した。その際に足に生じた若干の痛みを無視して結城はダッシュし、やがて目標のボートまで近付くと桟橋ぎりぎりでジャンプして船体後部の縁を両手で掴んだ。
「うぐぐ……。」
結城はそのまま船体部分を足で蹴ってよじ登り、なんとか船内に乗り込むことに成功した。後部から乗り込んだので、ボートの中にいる人間にはバレなかったはずだ。
ここまで上手く乗り込めると思っていなかった結城は、多少のスパイ気分を味わいつつ、周囲の音に神経を集中させる。
……大丈夫だ。気付かれた気配はない。
(上手くいったな……。)
ひとまずの安全が確保できた所で、結城は船後部のシートがかかっている場所まで素早く移動し、隙間を改めて見てみる。
自分の見立て通り、そこには人ひとりがなんとか隠れられそうな隙間があった。男だときつそうな高さであるが、女の私なら隠れることができるはずだ。……今回ばかりは自分の胸板の薄さに感謝しておこう。
ここに入ってしまうと外の様子が確認できなくなるし、当然逃げ場もない。だが、万が一見つかっても七宮が何とかしてくれるだろう、と敵に自分の安全を託しつつ、結城はシート下部の隙間に身を滑り込ませた。
3
ボートの揺れは1時間ほどで収まった。
どうやら目的地に到着したらしい。つい先程、ボートから降りる数名の足音が聞こえたし、どこかの船着き場に停泊しているのだろう。
乗り込んでから全く何も把握出来なかったが、ボートの速度はかなり速かったように思うし、結構遠くまで来てしまったみたいだ。
どこまで来たのか気になるが、結城はシートの隙間から出ることなく、体勢を維持したまま待機していた。なぜなら、七宮たちに発見されないように15分くらいはじっとして様子を窺おうと決めていたからだ。
……そう決めていたのだが、5分経っても何の音も聞こえてこないので、結城はシートの隙間から顔だけを出して外を見ることにした。
(ちょっと位なら大丈夫だよな……。)
結城は自分にそう言い聞かせ、頭だけを隙間から外に出す。うつ伏せ状態だったため上の様子は把握できないが、結城は無理矢理首を横に向けて周囲の様子だけ確認することにした。
すると、まず金属製の壁が見えた。その壁にはいろんな道具が掛けられており、近くには机なども見られる。どうやらここは屋内のようだ。
陽の光も届いていないし、天井がある船着場に違いない。
(人は……いないみたいだな。)
結城は改めて人の気配が無いことを確認すると、頭に続けて体もシートの外へ移動させる。
そうすることで、結城はその場所の様子を完璧に把握することができた。
……そこは船着場と言うよりはドックに近い場所だった。
そこには同じようなボートがあと3隻ほど待機状態にあり、波に揺られてかすかに上下していた。その波の発生源を追って背後を向くと、海に向かって大きく開けたゲートがあった。そこから侵入した波が船を揺らしているようだ。
また、ドックの天井からは鎖やらクレーンが吊るされており、さらに周囲に目を向けると船体のパーツらしきものもある。
寂れた雰囲気はないし、そこまで人里離れた場所でもないらしい。
(ここ、どこだろ。)
結城は安易に船の外に出ることはせず、中にとどまって携帯端末を取り出し、今の居場所の位置情報を取得することにした。
しかし、携帯端末の画面には圏外で通信不可能であることを示すマークが点滅していた。
……だが心配はいらない。
こんな事もあろうかと、毎分位置情報を記録する地図ソフトを起動していたのだ。これは遠出しても迷子にならないようにするソフトで、来た道を正確に帰ることができる便利なツールである。
地図ソフトを見てみると、まず始めに緯度経度を示す数字が表示された。しかし、それだけで分かるわけもないので、続いて結城はそれを付近のマップと照合させる。
すると、移動の跡を示す線が地図上に表示された。それはダグラス本社ビルがあるフロートの北の先端から伸びており、途中まで順調にマーキングされていた。……しかし、なぜか地図上の移動線はある場所を境にして途切れていた。
それどころか、その先の場所の地図さえも表示されていない。地図の画像は基本的に衛星写真によるものであるが、線が途切れた地点の周囲数キロは『非表示区域』を示す灰色の斜線で埋め尽くされていたのだ。
(あれ、ここって結構ヤバイ場所なんじゃ……?)
もしかして、機密扱いの場所なのかもしれない。そして、周辺で機密扱いの場所なんて軍事施設以外に考えられない。
午前中も教官が『海上ほど兵器テストに適した場所はない』と言っていたし、冗談抜きで重大な機密のある場所に来てしまったのかもしれない。これはかなり危ない状況だ。
(七宮はこんな場所で何をするつもりなんだ……?)
結城は自分の身の危険よりも、七宮が何を企んでいるのか、それが気になっていた。
まだ七宮たちが船から降りて5分強しか経っていないし、急げばすぐに見つけることができるだろう。
そう思い、結城はボートから降りてドック内の桟橋に立った。
そうすると、先ほどは視界に遮られていた場所に、別の場所へ続いているであろう細長い通路を見つけた。この他にもドックの中には他にも通路らしきものがあるが、電灯が付いているのはその通路だけなので、七宮たちはそこを通ったに違いない。
ただ、何も遮蔽物がない細い通路を進むのは気が引ける。
そのため結城は一旦海側に移動し、今いる場所の外観を確かめてみることにした。どのくらいの規模の場所なのか、何か特徴的なものはないか、それが分かるだけでもぐっと調べやすくなるはずだ。
とりあえずの今後の行動を決定した結城は海側に向かって進んでいく。
ドック内に私の足音が反響し、ゲートから海へと抜けていくのが分かる。
(いきなり撃たれたりしないよな……。)
そんな大袈裟な心配をしつつゲートを跨ぐと、すぐに反響する足音も聞こえなくなり、その代わりに波の音が強くなった。
また、海側に出て天井がなくなると、今まで遮られていた日光が降り注いできた。その眩しい日光を手で遮りつつ結城は左右に目を向ける。
すると、そこにはかなり遠くまで伸びる壁があった。その壁には不規則に波が打ち付けており、白い飛沫を上げている。そしてその白い飛沫は壁沿いにかなり遠方まで続いていた。
それを見て、結城は今いる場所が巨大なフロートであると判断する。
(やっぱり、何かの軍事施設なんだろうか……。)
疑問を抱きつつも結城はフロートの外側、海面から数メートルの高さに設置された金属板の上を進んでいく……。
すると、外周部の壁が大きくへこんでいる場所に到達した。
何があるのだろうかと思い覗いてみると、そこには排水用の巨大なパイプがあった。パイプ自体は海の中にあったのだが、付近の海中からは轟々とした不気味な駆動音が聞こえてきていた。……落ちれば無事ではすまないだろう。
「……。」
結城は生唾を飲み込むと、足元に気をつけつつ再び外周部を歩き始める。……と、排水パイプから数十メートルの位置に上に続く梯子を見つけた。
その梯子は外縁部に備え付けられているもので、コの字型のパーツが規則的に取り付けられており、それが延々と上まで続いていた。外周部の壁自体はそこまで高くないのですぐに上に上がることができるだろう。
このまま周りを歩いていても仕方ないので、結城は上に登ってみることにした。
まずは梯子の持ち手を強く引っ張って抜けないかどうか確かめてみる。持ち手部分はきちんと溶接されているようで、私が引っ張ってもひねっても全くぐらつくことはなかった。
「よし。」
確認を終え、結城は梯子を掴んで登りはじめた。
登りはじめてから数段目、中腹辺りに来た所で、不意に遠くから聞き覚えのある甲高い音が聞こえてきた。それは今日の午前中、テント内で待機中に聞いたエンジン音に間違いなかった。
(戦闘機……ってことは、ここって飛行場……?)
地図に表示されない機密の場所となれば、どこかの航空基地なのかもしれない。
それを確かめるべく、結城は梯子を登るペースを上げる。するとエンジン音もだんだん大きくなってきた。
とうとう梯子を登り切ると、途端にエンジン音も大きくなり、同時に開けた景色が結城の視界に飛び込んできた。結城は梯子に手足をのせたままその景色を眺める。
……結城が見たのは綺麗に舗装されただだっ広い地面と、その上に乗っかっているように見える青い空であった。地面には白やら橙色のラインが描かれていて、それが滑走路だということが一目でわかった。
ただ、一番近くに見える白のラインが、こちらに対して垂直方向に引かれているのが問題だった。
「……?」
ふと気がつくと、エンジン音は加速度的に大きくなっており、視界の中にこちらに超高速で接近してくる物を見つけた。
――それは離陸しようとしている戦闘機だった。
「うわっ!!」
結城は咄嗟に頭を下げ、梯子にしがみつく。すると同時に轟音が頭上を通り過ぎ、遅れて暴風に等しい衝撃が結城を襲った。
危うく梯子から手を放してしまいそうになるほどの衝撃だったが、私の握力が風圧に勝ったようだ。あの時梯子を完全に登っていたら間違いなく海に飛ばされていただろう。
事故を回避できて安心したが、轟音のせいで耳がキンキンしている。しばらくは治らないかもしれない。
戦闘機が飛び去った所で結城は改めて梯子を上り、周囲を見渡す。すると、右手側に基地らしき建物を発見した。いや、基地と言うよりは詰所といったほうがいいだろうか、とにかくそこにはどこにでも普通にあるような背の低いビルが建っていた。
距離にして500メートルくらいだろう。自分が歩いてきた距離を考えると、あの建物の地下部分に先ほどのドックがあったようだ。
他にも建物はあった。それは、屋上にレーダーらしきものが設置されている司令塔と、ピラミッドの形をした大きな建物、そして戦闘機が格納されているハンガーだ。
ピラミッドのような形状の建物はかなり大きく、結城の視界の約2割ほどを占めている。結構遠くにあるのにこれだけ大きく見えるということは、実物はとんでもないほど巨大に違いない。フロートユニット自体の大きさも気になる所だ……。
ハンガーからは戦闘機やトラックが出入りしていた。戦闘機が入っていくのはハンガー以外にありえない。なので、そこがハンガーだと判断したというわけだ。
しかし、それにしては規模が小さいように思える。あれだけ小さいとほとんど格納できないのではないだろうか。
その小ささに疑問を覚える結城だったが、それよりも考えるべきことが他にもあった。
(……さて、今からどうしようか。)
ここでじっとしていても仕方が無い。せっかくこんな場所にまで来たのだから、七宮を探し出してやろうではないか。……というか、七宮を探し出せないと、ここから無事に帰られる自信がない。
圏外なので携帯端末で連絡もできないため迎えも呼べない。呼んだとしてもこの区域に侵入できる気がしない。不用意に接近すると何をされるか分かったものではない。
七宮を探すにしても、この広い場所でどうすれば探し当てられるのだろう。大声で名前を呼びながら歩くわけにもいかないし……。
そんな事を考えていると視界の中に動くものを捉えた。それは戦闘機ではなく車であり、滑走路を横切るように移動していた。形からしてジープだろうか、その座席に白いものが見えた。
(あれは……!!)
結城はメガネを少し斜めに構えて一時的に視力を上昇させる。すると、その白いものが七宮のカッターシャツであり、本人がジープに乗っていることを確認できた。他に乗っているのは運転席に一人だけであることから、あの時の男も一緒に行動していると予想できる。
やがてジープは滑走路を渡り終え、そのまま格納庫の中に消えていった。
見つけてしまった以上、七宮を追いかける以外に選択肢はない。
結城はジープが向かった格納庫まで移動することを決め、身をかがめながら滑走の脇を移動していった。
「――どこに行ったんだ……?」
結城は戦闘機のハンガーまで、誰にも見られることなくすぐに移動できていた。
しかし、そこで問題が発生した。遠くから見ていたのと角度的な問題で分からなかったが、七宮が乗っていたジープはハンガーの中ではなく、その脇に停められていたのだ。
今結城はそのジープの外側から中を観察しているのだが、中には誰も乗っておらず、痕跡も残っていない。
ハンガーの中に入ったと考えるのが自然だが、私が移動している間、ハンガーに人間がで入りすることはなかった。つまり、七宮たちはこの付近にいるということである。
(ちょっと探してみるか……。)
結城がしばらくその付近を捜索しようと思った矢先、急に遠くから笑い声が聞こえてきた。それは尾行していた時に聞いた物と全く一緒だった。その笑い声のお陰で結城はすぐに七宮の場所を特定することができた。
……その場所は格納庫の裏、海と建物に挟まれた狭いスペースであった。
結城は身を屈めてそのスペースを覗き込む。すると、会話をしている2人の後ろ姿が見えた。色々と話し込んでいるらしく、2人は海を向いたままほとんど動いていない。
格納庫の裏の壁の角付近で身を潜めているので、頑張れば会話の内容が聞こえそうな距離なのだが、生憎、先程の轟音のせいでまだ聴力が正常に戻っていないため、全く内容が把握できない。聞こえてくるのは耳鳴りだけだ。
近づけば聞こえるのだろうが、ここから2人までの間には身を遮るものは何も無いので迂闊に接近できない。
(くそう……折角見つけたのに……)
七宮は一体何の話をしているのだろうか、もしかして、この基地で開発されている秘密兵器を使って何かとんでもないことを計画しているのではなかろうか。
2人の背中を眺めながらそんなこと考えていると、今まで何の素振りも見せなかった半袖シャツにカーゴパンツの男が、急にこちらに振り向いた。
「!!」
結城は咄嗟に壁に身を隠し、息をひそめる。
――見られただろうか。
いや、見られなかったはずだ。会話中に何気なく後ろを向いただけだろう。そうでなくてもストレッチのために腰を捻っただけなのかもしれないし、見つかったと判断するのは早計すぎる。
(結構距離もあるし、あの一瞬で私の場所が分かるわけがない……。)
なるべく結城は前向きに考え、間を置いてから再び2人の様子を窺う。すると、今度は七宮も振り返っており、ばっちり目があってしまった。
「あ……。」
目が合った途端に七宮の顔が変化し、恐ろしいほどの笑顔になる。そして口元が動いた。声は聞こえないが、口の動きで何を喋っているのかは容易に理解できた。
『――見ぃつけた』
理解した瞬間に結城の体に悪寒が走り、七宮の底知れぬ笑顔のせいで全身が総毛立つ。
笑って会話をしていたが、実はとんでもない裏取引をしていたのかもしれない。それこそ、少しでも話が漏れたら死人が出てしまうなほど危険な取引を……。
(やばいやばい……)
結城は再び身を隠し、ハンガーの裏側のスペースに注意を向けつつ後退りする。
……いきなり銃を持った七宮が出てきたらどうしよう。いきなり私の名を呼んで襲ってきたらどうしよう……。
そんな最悪の自体を考えつつ、結城は足音を立てぬようにハンガーの外壁沿いにゆっくりと歩を進めていく。この際基地の人に見つかってもいい。自分の命の安全が保証されるのなら身柄を拘束されたって構わない。むしろ誰も入れない安全な場所に監禁して欲しいくらいだ。
……永遠に続くと思われたハンガーの外壁もすぐに終わり、結城は格納庫の入り口の角まで到達した。そして十分に距離を取ったと判断した結城はそこで身を翻し、格納庫から遠ざかるようにダッシュする。
が、そのダッシュもすぐに終わってしまう。
「おいッ!! 止まれ!!」
走りだした途端にそんな叫び声が横から聞こえ、結城はその声に反応して反射的に制動をかける。すると、すぐ目の前を車が……トラックのような大きな車両が通り過ぎていった。
速度自体はそこまで速くなかったが、目の前を通り過ぎて行ったタイヤは大きく、轢かれていたら大怪我をしていただろう。
耳鳴りのせいで音が聞こえなかったのと、七宮に気を取られていたせいで注意が散漫になっていたようだ。
「危なかった……。」
車から警告の声が聞こえなかったら、間違いなく轢かれていたに違いない。
多分車に乗っているのは基地の人だろうし、警告してくれたことに感謝を言ってから、保護してもらおう。これで一安心だ。
だが、そんな風に安心したのも束の間、ふと横を見ると何か大きなものが迫ってきているのを感知した。何だろうかと思い顔を横に向けると、それは先ほど私が轢かれそうになった車が牽引している物の一部で……どうやら戦闘機の翼のようだった。
それが把握できると同時に、その出っ張りが容易にに避けられるほど小さくないことも分かった。
「離れろッ!! ぶつかるぞ!!」
またしても警告を受け、結城は咄嗟にしゃがむ。……が、その動作の途中で頭部に鈍い衝撃を感じた。
「……あぅ。」
意図せず口から言葉が漏れたかと思うと、すぐに目の前が真っ暗になり、私の意識はそこで途切れてしまった。
4
――場所は変わってアール・ブランのラボ。
結城と時を同じくして、ここでも頭部に衝撃を受けている者がいた。
「う……。」
それは諒一であった。
諒一の控えめなうめき声と共に周囲に響いたのは、硬いプラスチック製のヘルメットに何かがぶつかる時に発生する独特のこもった音だ。
その音はうめき声と混じってアール・ブランのラボ内部に響く。
音の発生源はラボの中央辺り……アカネスミレのすぐ近くだったので、その反響具合は凄まじいものだった。そして、その音は諒一の頭部の重い痛みを増幅させていた。
(かなり痛いな……。)
当然ながら、その痛み原因はヘルメットに衝突した物体であり、その正体はクレーンで吊り下げられている金属製の大きな部品だった。ぶつかってから暫く経った今も衝突の時の衝撃でゆらゆらと揺れている。
この衝突は完全に諒一の不注意によって起きたものであり、いわいる事故というものだった。諒一はぶつかる寸前まで部品の存在を忘れており、そのせいで思い切り頭からぶつかってしまったのだ。
……頭に物をぶつけたのは今日だけで何度目だろうか。
いくら寝不足だとはいえ、上方不注意という初歩的なミスを連発していては、例えそれが見習いでもエンジニアとしては失格である。
やがて痛みの波が引き体を動かせるようになると、諒一はすぐにヘルメットを脱いで頭を片手で抑える。そして近くに配置されているコンソールの椅子に座った。
痛みが治まるまで作業の手を休めることにした諒一は、ラボ内に横たわっているメンテナンス中のアカネスミレを観察する。
アカネスミレは股関節部分の保護リングの交換中で、今はそれを固定している特殊なパーツを取り外す作業を行なっている。ちなみに、人力で外すことができるのはその固定具だけであり、本格的に保護リングと脚部パーツを分離するのにはロボットアームが必要だ。
諒一はそのロボットアームでなければ運べないほど重い部品……交換用の新品の保護リングにぶつかったのだ。痛くないわけがない。
ヘルメット越しでこれだけ痛いのだから、もしヘルメットを被っていなければたんこぶでは済まされなかっただろう。
諒一はアカネスミレから目を離すと、今度はコンソールの上に置かれた電子ボードを手にとって見る。そこには現在の作業状況と作業予定のリストがずらりと並べて書かれていた。
アームパーツと頭部パーツ、それにコックピット周りの修理は終了している。後は内部機構のチェックと腰部パーツ、そして脚部パーツの修理と外装部品の交換だけだ。特に腰部パーツや股関節あたりはVF全体のバランスの要になる部分なので絶対に手を抜けない。
手を抜いてもいいのはコックピット内の掃除くらいなものだ。
……とにかく、これでも全体の25%も進んでいない。圧倒的に時間が足りないのだ。
その理由は単純だ。自分がFAMフレームに慣れてない上、メンテナンスの手順がかなり複雑だからだ。そのため、作業速度がいつもより遅れている。
そんな遅れを取り戻すべく、慎重かつ素早く行なっているのだが、なかなかうまくいかない。
あと、遅れている原因は他にもある。
それは、矢によって穴だらけにされ、修繕不能だった右アームである。
右アームはフレームパーツごとイカれていたので、キルヒアイゼンに新品を発注することになった。“優先的に製造する”とオルネラさんが配慮してくれた上、発注したのも右アームと肩付近の構成パーツだけなので週末には届くだろう。
これがダグラスのフレームなら3時間と待たずして新品のフレームが届くところだ。やはり、生産力の差は如何ともしがたい。
これが鹿住さんが開発したフレームだとどうなっていただろうか。……あれは市場に出回っていないワンオフのフレームなので発注以前の問題だ。おまけに構造が複雑なので一週間やそこらで準備できる代物ではない。しかし、鹿住さんならばごく短期間でどんなに破壊されたパーツも瞬く間に修繕してしまうはずだ。……しかも、前よりも改良を加えて。
その事を考えると、FAMフレームは曲がりなりにも一応技術が確立されているので、その分だけましである。
とにかく、新品の右アームが届くまでに本体の方を完璧にメンテナンスしておこう。少しでも疲労した部品があれば遠慮無く交換だ。こんな所で材料をケチって、それが元になって試合に負けたのでは冗談で済まされない。
(いけない、そろそろ作業に戻らないと……。)
こんな事を考えているせいで普段よりも不注意になっているのかもしれない。痛みも引いてきたことだし、余計なことは考えず、手順に従って無心に作業を進めよう。
そう心に決め、ようやく作業に戻れると判断した時、急に声を掛けられてしまった。
「今ものすごい音がしたが……何があったんだ。」
そう言って心配そうに駆け寄ってきてくれたのはベルナルドさんだ。
諒一はその言葉に対し大きな声で返事する。
「心配掛けてすみません、ちょっと頭をぶつけただけです。」
「頭か……。怪我はないのか?」
「平気です。」
まだジンジン痛むが、わざわざ心配をかけることもない。
こちらが何ともないことを伝えると、ベルナルドさんは「そうか。」と呟き、ラボ内の壁際にある長椅子に戻っていった。あそこはベルナルドさんの定位置だ。
――今、ラボ内にいるのは自分とベルナルドさんだけだ。
ベルナルドさんは特に作業をすることなく携帯端末を弄っている。だが、流石は熟練工といったところか、そんじょそこらの老人とは違ってその操作はスムーズだ。大方、誰かとチャットでもしているのだろう。
ラボの中にベテランがいてくれるだけで安心して作業ができるというものだ。
時たま画面を見ながら微笑むベルナルドさんを視界の隅に捉えつつ、自分もメンテナンスを再開させることにした。
「――これで工程8の手順61を終了。次にジョイントリングを交換して……」
股関節部分の固定具を取り外し終え、次の作業を再確認して復唱していると、またしてもベルナルドさんが声を掛けてきた。
「おーい、そろそろ休んだらどうだ。」
ありがたい気遣いだが、メンテナンス作業が遅れてる今、休む暇など無い。
諒一はその事を伝えるべく返事をする。
「さっき休憩したので問題ないです。」
「“さっき”って、もう3時間も前の話だろうに。疲れておるんだろう?」
ベルナルドさんはラボ内にある大きな時計を指さしていた。確かにベルナルドさんの言っていることは事実であるが、今は休む時間が惜しい。
「午後の休憩で十分休めましたし、まだ2時間くらいは休憩なしでもいけます。」
「その午後の休憩でもコンソールとにらめっこして碌に休めてなかっただろう。」
「それは……」
それも事実だ。ずっと携帯端末を見ていたのによく観察している。
「……でも、水分補給もエネルギー補給もちゃんと……」
なんとか言い訳を捻り出そうとするも、なかなかいい言い訳が思い浮かばない。そしてとうとうこちらの言葉は途中で遮られてしまった。
「補給しても頭までは休まってないみたいだな。……危なっかしくて見てられんから休めと言っておるんだ。」
ベルナルドさんの言う事にも一理ある。
今日は時に不注意による事故が多いのだ。このまま小さい事故が続くと、いずれは大きな、取り返しのつかないような事故に発展する可能性もある。
命令口調で言われたこともあり、諒一は素直に従うことにした。
「……はい、少し休みます。」
そう返事をし、諒一はヘルメットを脱いで脇に抱え、作業用のグローブをその中に入れる。
そのまま近くの椅子に座って一休みしようとしたのだが、諒一はベルナルドに手招きされて壁際にある長椅子まで移動し、そこに腰掛けた。
すると、隣に座ったベルナルドさんが優しい声で忠告してきた。
「ワシが言うのも何だが、働くのも程々にしておけ。お嬢さんもかなり心配しておるみたいだし、無理しているのが丸わかりだぞ。」
「結城が心配を?」
「気づいておらんかったのか……。」
諒一はベルナルドから新事実を聞き、それを意外に思っていた。
“休め”といった類の言葉は何度か掛けられているが、それは結城自身がこちらと会う時間を増やしたいが為に言っているのだと思っていた。なので、まさかこちらの身を案じて言ってくれていたとは考えてもみなかったのだ。
その事実に少々驚いていると、ベルナルドさんが何やら語り始める。
「ワシも若い頃からVFの研究開発に関わっておったから、お前の気持ちはよく分かる。特に、今みたいに責任のある仕事を任された時の気持ちはな。」
「分かるんですか?」
「ああ分かるとも。」
そう言ってベルナルドさんはこちらの肩を数回叩く。意外にも力強く叩かれてしまい、諒一は椅子の上で転けそうになってしまった。
その後すぐにベルナルドさんの口から、こちらの核心をつくようなセリフが飛び出してきた。
「……VFを自分の好きなようできるのが楽しくて仕方が無いんだろう?」
そこで一旦言葉を区切り、ベルナルドさんは続けて言う。
「お嬢さんのためにVFを早く整備してあげたい、という気持ちももちろんあるだろう。だが、何よりも先にくるのはVFを通じて感じられる喜びや興奮だ。ワシもそうだったからよくわかる。……どうだ? 当たらずといえども遠からず、と言ったところか?」
ベルナルドさんに言われてみて、そんな気がしてきた。
諒一は遠くに横たわるアカネスミレを眺めつつ、ベルナルドの問いに答える。
「……多分、図星なんだと思います。」
諒一は遠くに視線を向け、更に続ける。
「ここ2,3年で多くの知識がついて、それを実物のVFで実践できる状況が堪らなく幸せなんだと思います。ラボでVFを整備するのが夢でしたから。……でも、自分の念頭にあるのは結城のことです。結城が最高のコンディションで試合できるよう、1秒でもはやくアカネスミレを仕上げたいんです。頑張っているのはただそれだけのためです。」
言い終えるとベルナルドさんの目を真正面から見る。
ベルナルドさんはこちらの言葉を聞いて、呆れたような感心したような、はたまた恥ずかしいような、そんな複雑な表情を見せていた。
「……まぁ、それならそれでいいだろう。」
ベルナルドさんはその言葉に納得したように思われたが、こちらが休みなしに作業することについては否定の姿勢を保っていた。
それを証明するように、ベルナルドさんはその旨を話題を変えて説明してくる。
「ところで、七宮の件も忘れてはおるまいな? いつでも不測の事態というのは起こりうるものだ。それに対応できるくらいの余裕は残しておいた方がいい。」
そう言えば七宮の事を忘れていた。
七宮とはつい一月前にキルヒアイゼン邸で直に話したが、実際は何を画策しているのかまでは把握できていない。あの時は『VFBの未来の為の計画だ』と言っていたが、いくら考えても何をするつもりなのかわからない。
あと、『鹿住君に会うといい』と言われて住所が記載された紙切れも渡されたが、未だに放置したままだ。もし会うとしてもそれはシーズンが終わって時間ができてからの事になるだろう。
(あ、卒業試験もあったな……。)
学業のことも考えると、鹿住さんに会うのはかなり後になりそうだ。七宮の提案を無視して会わないという選択肢もあるが、自分自身も鹿住さんのことは気になる。
それに、鹿住さんに会えば、彼女がどんな状況にあるか結城に知らせることもできる。
そんな事を思い出していると、隣からベルナルドさんの声が聞こえてきた。
「……聞いておるか? 悪いことは言わんから、ここは素直に年寄りの言うことを聞いておけ。」
ベルナルドさんにここまで言われて無視出来るわけがない。
しかし、だからと言って言われるがまま休憩できるほどの余裕もなかった。
「……分かりました。でも次の試合も近いですから、せめてアームパーツが届くまでにはメンテナンスを完了させておきたいんです。」
「だからこそ休憩して体を休めろと言っておるんだ。」
事情を説明しても、ベルナルドさんは休憩するように求めてくる。
何か嫌な思い出でもあるのだろうか。……疲れによるミスのせいで仲間を怪我させてしまったとか……。スタッフが過労死してしまったとか……。
いくらでもそう言う事例を想像できる自分が過労状態にあるのは明らかだった。
「程良く休憩したほうが作業効率も上がる。あの馬鹿息子の真似をしろとは言わんが、もっと休憩の回数を増やせんか……。」
そう言えばランベルトさんの姿が見えない。
あそこまで休憩しているのに武器兵装類は完璧に整備しているのだから逆に凄い。
「ほれ、リングの取り外しが終わったら休憩だ。ワシも手伝ってやるからさっさと済ませるぞ。」
「そんな、一人で大丈夫ですから……」
「いいや、手伝う。」
そう言ってベルナルドさんは長椅子から立ち、アカネスミレに向けて歩き始める。こうなると素直に従ったほうがいいかもしれない。
諒一も先に行くベルナルドに続くべく、ベンチから腰を上げた。
「あっ」
しかし、立ち上がった途端に足元に置いていたヘルメットに足を取られてしまい、諒一はすぐ近くにあった支柱に抱きつくようにして正面から頭をぶつけてしまった。
それを見てベルナルドさんは額に手を当てていた。
「……もういい、今すぐ休憩しろ。茶菓子を持ってきてやるから、それまでぶつけた頭でも冷やしとけ。」
ここまで醜態を晒してしまってはもう言い訳のしようがない。
「……すみません。」
足にぴったり嵌ったヘルメットを剥がしつつ、諒一は小さな声で返事をした。
5
(あ、冷た……。)
不意に胸の辺りに生じたひんやりとした感触によって結城は目を覚ました。
だが、その寝覚めはとてもじゃないが良いものとは言えず、結城は軽い前後不感覚に陥っていた。多少頭が混乱していることが自分でも解る。
今私は仰向けになって寝かされている。後頭部には柔らかい枕の感触、背中や腰あたりには適度に弾力があるマットレスの感触。……多分ベッドの上にいるのだろう。
周囲は静かで温度も心地いい。と言うことは、空調の効いた室内にいるみたいだ。
そこまで分かると、結城はまだ覚醒しきっていない脳を稼働させ、自分の中にある最後の記憶を思い出すように努める。
(えーと……。)
しかし、その途中でいきなり頭に痛みが走った。それはズキンとした痛みであり、普通の頭痛ではなく外傷による痛みだと判断できた。そして、この痛みのお陰で自分がどうして寝かされているのかも把握できた。
……やはり、避けきれずに牽引中の戦闘機の翼に頭をぶつけてしまったようだ。
その時に気を失い、親切な誰かがベッドに寝かせてくれた、といった所だろう。また、頭をぶつけた時の状況を思い出していると七宮の不気味な笑顔も思い出された。元はといえばアレのせいで頭を怪我したとも言える。
前もよく見ないで飛び出したのも悪いが、あんなのを見せられて気が動転しない者などいない。
色々と思い出しながら結城はゆっくりと目を開ける。
瞼がくっついているのではないかと思われるほど開け難かったが、またしても襲ってきた頭痛の反動で一気に開いてしまった。そして悪いことに、目に飛び込んできた眩しい明かりによってさらに頭痛が激しくなってしまう。
(くぅ……。)
ちなみに、痛いのは側頭部だけであり、他の部分は全く正常だった。
やがて痛みも治まり、目を開けて周囲の景色を見始めると、視線の下側に何か動くものを見つけた。
それが何かを確認するため、結城は顎を引いて見る。すると、そこには忙しなく動く人の腕が見えた。また、その腕の動きに合わせて、私の胸からお腹にかけてひんやりとした物が這いずりまわっていた。
この感触は目を覚ました時からずっと続いている。何だろうかと疑問に思いつつも放置していたのだが、改めてそれを意識すると急にくすぐったくなってしまい、結城は自らのお腹を隠すように両手を乗せた。
すると、ひんやりとした感触も消え去った。
(……あれ?)
隠すついでに自分のお腹を触ってみると、それが素肌であることに気づいた。確か私は制服を着て、更にその下にはブラウスも着ているはずだ。つまり、本来なら手に感じるのは布地の感触であるはずなのだ。
「……!?」
結城は慌てて自分の体に手を這わせる。しかし、手には全く服の感触は得られず、その代わりに手に伝わってくるのは、弾力のある肌の感触だけだった。
どうなっているのかを視覚でも確認するべく、結城は更に視線を下に向ける。すると、まっさきに目に飛び込んできたのは、毎日お風呂や着替えの時に目に映る見慣れた自分の体であった。
下に履いているスラックスは辛うじて脱がされていなかったものの、ベルトが外されて緩められていた。
そこで結城はようやく、自分の服がはだけられていることを理解した。
「やっ……。」
その事がわかり、意識もはっきりしてくると、結城は腕で体を隠して横向きになって体を縮こまらせる。
もしかして、私が気を失っている間に何かするつもりだったのだろうか。それとも、もう既に何かされてしまったのだろうか……。
先ほどのひんやりとした感触も妙にやらしかったように思うし、もしかして……。
そんな風に事を深刻に考えていると、体が何か柔らかい物に包み込まれた。
どうやらタオルケットを掛けられたようだ。押し出された空気がタオルケットの隙間から風になって、結城の顔を撫でていく。
とりあえず体が隠れたことに安堵していると、女性の声が聞こえてきた。
「驚かせてしまってごめんなさい、寝ている間に聴診を済ませておこうと思って……。」
(聴診……?)
詳しく訊こうと思い、結城はタオルケットの端を持ったまま上半身だけ起こす。するとすぐ近くに女性の姿があった。女性の首には聴診器らしきものが巻かれており、清楚感のある白い服には、医者であることを示す赤い十字マークのワッペンが縫い付けられている。
だが、結城は彼女から女医の雰囲気を感じ取っておらず、むしろ保健の先生という印象を受けていた。
また、ここにきてようやく結城は自分が看病されていることにも気が付いた。
……なるほど、先ほどの私のお腹を這いずりまわっていたひんやりしたものの正体は聴診器の先端部分だったようだ。
とんだ早とちりをしてしまい恥ずかしくなった結城だが、すぐに違う疑問が浮かび上がってきた。
「あの、ここは?」
結城は女性に質問しながらベッドから降りようとする。……が、結城は女性にその行動を止められてしまい、優しくベッドに押し倒されてしまった。
そして、女性はこちらの側頭部に冷たいものを押し当てる。それは氷嚢であった。
その気持ちよさに負けてしまい、結城は素直に枕の上に頭を着地させた。
「まだ駄目です。……気を失うくらいの衝撃だったんですから、もうしばらく寝ていてください。」
有無を言わさぬ女性のセリフに、結城は小さくコクリと頷いた。
そんな素直な反応に満足したのか、女性はにっこりと笑い、そのまま視界の外へ消えてしまった。しかし遠くに行ってしまったわけではなく、近くから何かの作業の音が聞こえていた。
どうやらここは病室か何からしい。ベッドの周囲には個人用の簡易カーテンがあり、今はそれが完璧に閉じられていた。そのせいで周囲の様子が全く把握できないが、焦ってベッドから降りることもないだろう。
結城は先ほど掛けられたタオルケットの内側でブラウスのボタンを留めながら、部屋の中にいるであろう女性に向けて再び同じ質問をする。
「あの、ここってどこなんですか?」
少し大きめな声で言うと、すぐに簡潔な答えが返ってきた。
「ここは英国空軍第九航空戦闘機実験開発施設、その基地内の医務室です。」
長々と名称を告げられその半分も理解できなかったが、ここがイギリスの基地の医務室であることだけは理解できた。
私の予想通り、今いる場所はどこかの基地だったが、よりによって軍の基地に連れてこられるとは予想だにしていなかった。……いや、まだ怪しい団体ではない分だけいくらかよかったのかもしれない。
これなら無事に返してくれるだろう、と思っていると、食欲をそそる香りが漂ってきて、すぐに食器がのったトレイを持った女性がベッドまで戻ってきた。そしてベッド脇まで来るとそのトレイをこちらに差し出してきた。
「……はい、どうぞ。」
結城は身を起こして、さほど疑問を抱くこと無くトレイを受け取る。その上にはこんがり焼けたパンと半熟の炒り玉子、そして表面を黄金色に焼かれたパイがあった。切り口からは柔らかそうなリンゴの果肉が見えている。
小麦の焼ける芳ばしい香りに反応したらしく、すぐに私のお腹の虫が鳴いた。ついさっきLサイズのフライドポテトを食べたはずなのに、私の胃袋はそれで満足できていなかったようだ。
その音を聞き、女性はくすりと笑う。
「手当中もずっとお腹がなっていたんですよ。遠慮しないで召し上がってください。」
「ありがとうございます。」
――食欲は全てにおいて勝る。
結城はあらゆる疑問を思考の隅っこに追いやり、手づかみでアップルパイを手に取った。指に蜜が付いたが関係ない。結城がそのままアップルパイを口の中に入れたその時、ドアが開く音がして、すぐに男性の声が聞こえてきた。
「メイ軍医少尉、先ほど運ばれてきたお嬢さんの容態を聞きに……おや、食事中でしたか。」
言葉の後半部分で既に男性は個人用のカーテンの内側に侵入していた。
(この人……七宮と話してた男か。)
こんな近くで正面から見るのは初めてだが、相変わらず半袖シャツにカーゴパンツというアクティブな格好をしていたのですぐに思い出すことができた。さらにもっとよく男性を見てみると、首の筋肉がかなり発達しており、その首の上には至って端正な顔があった。目元や頬のシワも相まってか、いかにも『おじさま』という印象を受ける。
そんな外見に即して声も紳士的というか、とにかく丁寧な喋り方であった。
その男性にメイ軍医少尉と呼ばれた女性は、先ほどの言葉を受けててきぱきと返事をする。
「はい、キャニングフィールド大尉。彼女が空腹だと判断しましたので勝手ながら食事を与えました。今食べ始めたところですが、確認したほうがよかったでしょうか……?」
喋り方から察するに、この男は女性よりも上の立場にある人間のようだ。キャニングフィールド“大尉”と呼んでいたし、私が思っている以上に偉い人物なのかもしれない。
しかし、男性は気取ることなく飽くまで丁寧な姿勢をとっていた。
「構わないですよ。それより彼女の怪我の具合はどうなんですか?」
「はい、触診と聴診の結果、特に目立った異常はありませんでした。頭部打撲の痣もすぐに消えると思います。……ですけど、軽いとは言え脳震盪ですから、きちんとした医療機関で診断してもらったほうがいいと思います。」
(そんな大袈裟な……。)
話を聞いていた結城は軍医の女性の提案を心の中で遠慮する。このくらいの痛みなら慣れっこだし、一晩寝れば痛みも治まることだろう。
そんな提案に対し、大尉と呼ばれた男性は別の案を持ちかける。
「わざわざ病院へ行かずとも、ここのスキャン装置を使えばいいんではないですか? 診断だけなら総合病院にも引けを取らないと聞いていますよ。」
その案に対し、女性はすぐに申し訳なさげに言葉を返す。
「大尉がそう仰るならスキャン装置を使います。ですが、そうなると診断結果が記録に残ってしまいます。それでもよろしいですか?」
「そう言えばそうですね……。」
部外者の記録はなるべく残したくないということなのだろうか。
ふと女性の言葉に疑問を感じた結城は、アップルパイをトレイの上に置いて会話に割り込む。
「あの、記録に残ると駄目なんですか?」
控えめに質問すると、軍医の女性は男性から目を離してこちらに視線を移し、その理由を丁寧に教えてくれた。
「込み入った事情があると見受けましたので、なるべく医療設備は使用せず最低限の処置しかしなかったんです。……すみません。」
その女性の返事に対しどう答えたらいいか悩んでいると、私よりも先に男性が受け答えた。
「いえ、良い判断です。感謝しますよ。」
そう言って女性を褒めると、大尉と呼ばれた男性は続いて私にも言葉を掛けてくる。
「送迎用の船も手配しましたし、メイ軍医少尉のアドバイス通り、そのまま直に病院までお送りさせましょう。……この基地で起きた人身事故が原因で死なれたら弁解のしようがありませんからね。」
「死ぬって……流石に有り得ないって。」
どこまでも自分の身を心配され申し訳なくなり、結城は病院への送迎を遠慮しようとしたのだが、そんなこちらの考えを矯正するべく軍医の女性が釘を刺すように話しかけてきた。
「いえ、自覚症状無しで脳溢血が徐々に進行し、何かのきっかけで半身麻痺を引き起こしたりする事例もありますし、油断してはいけません。……いいですね?」
「……わ、分かりました。」
きつく言われた上に、もともと基地に無断で侵入した自分がどうこう言える立場では無い。そのため、結城は強く頷いて病院に行くことに同意した。
今後のことが決まった所で大尉と呼ばれた男性はベッドの足側の柵に手をつき、ため息を付いた。
「……それにしても豪気なお嬢さんですね。ボートに潜んで基地に侵入するとは……。あなたが1STリーグの有名人だったから良かったものの、スパイだと勘違いされていたら只事では済みませんでしたよ。」
「本当にごめんなさい。こんな場所に着くとは思ってなくて……」
結城は本気で謝罪をし、ベッドの上に座ったまま深く頭を下げる。その時、結城の脳裏にこの基地にいるはずのもう一人の1STリーグのランナーの名前が思い浮かんだ。
「そうだ、七宮は? まだこの基地にいますか?」
顔を上げて七宮のことを訊いてみると、軍医の女性、大尉の男性共に困った表情を見せた。
「七宮というと……ダークガルムの七宮選手のことですか? そんな有名人が来るとなれば私達が知らないはずがありませんし、勘違いではないでしょうか。」
軍医の女性は全く知らないようだったので、結城は改めて、七宮と会話していた男性に問い詰めることにした。
「あの、ダグラス本社のフロートで七宮と話してましたよね? あと格納庫の裏でも2人きりで会話したと思うんですけど。」
こちらがはっきりとした記憶を頼りに質問すると、大尉の男性は軽く首を捻り、その後手のひらを拳でポンと叩いた。
「ああ、確かに話していましたね。ですが、彼は七宮ではなくここの新人スタッフです。悩みがあるというので相談に乗ってあげていただけですよ。多分見間違いでしょうね。」
「そんな……。」
嘘を付いているとも思えないし、もしかして全ては私の勘違いだったのだろうか?
ということは、勘違いで基地に不法侵入してしまったことになる。これは私の人生の中でも稀に見る大失態になるかもしれない……。
俯いてがっくりと項垂れていると、それを慰めるように大尉の男性が優しく声を掛けてくれた。
「まぁまぁそう気を落とさないで、誰にでも勘違いや間違いはあるものです。」
そこまで言うと、何かを思い出したかのように急に背筋を伸ばして礼儀正しいお辞儀をしてきた。そして、こちらが何だろうかと思う間もなく、男性は自己紹介を始めた。
「申し遅れましたが、私はこの基地に所属しているテストパイロット、『ローランド・キャニングフィールド』です。」
ローランド・キャニングフィールド……どこかで聞いた名前だ。
続いてローランドさんは左腕を動かして軍医の女性に向け、紹介していく。
「そしてこちらがこの基地のお医者様、メイ軍医少尉です。ちなみに私の階級は大尉ですが、給料は彼女のほうが上です。」
紹介されたメイさんはこちらに対して軽く会釈をしていた。
それに応じるようにして結城も自己紹介し返す。
「アール・ブランの高野結城です。」
短く名前を言いつつ、結城はローランドの顔を見ながら悩む。
たしかにどこかで聞いたことがある名前なのだが、全く思い出せないのだ。……そんな風に思いながら相手の顔を見つめていたせいか、すぐにローランドさんが自らの顔を触りながら不思議そうに聞いてきた。
「どうしたんですかミス・タカノ……? レディに見つめられると恥ずかしいのですが。」
口ではそう言いつつも、全く動揺していないローランドの顔を見ながら結城は呟く。
「ローランドって名前、どこかで聞いたことがあるような気がしてて……。」
こちらのこの言葉でローランドさんは合点が行ったらしい、含み笑いで以って衝撃の事実を告げてきた。
「なるほど。あなたの場合は『テストパイロット』と説明するよりも『スカイアクセラのVFランナー』だと説明したほうが解りやすかったかもしれませんね、ミス・タカノ。」
「あ、そうだ!! ……そうだった。」
恥ずかしくも、ローランドさんが言ってくれてようやく思い出すことができた。
ローランド・キャニングフィールド。彼はスカイアクセラ所属のVFランナーで、槻矢くんがゲームで得意としている『エルマー』を完璧に操作できるランナーなのだ。
(空軍のテストパイロットだったのか……あのエルマーを操作できるのも頷けるな。)
退役した軍人がランナーになるのはよく聞くが、現役の軍人がランナーをしてもいいものなのだろうか。また新たな疑問が湧いてきたが、これ以上何か言うとどつぼに嵌りそうだったので、結城はそれを押し殺した。
「思い出して頂けましたかな? ミス・タカノ。ちなみにスカイアクセラはアール・ブランの次の対戦相手でもありますよ。」
「流石にそれは知ってます……。」
とんだ恥をかいてしまったが、試合前に相手ランナーと会えてよかった。彼は優しそうだし、反則ギリギリの手を使うようなえげつないことをすることもないだろう。
自己紹介が終わると、医務室内に呼び出し音が鳴り響いた。内線だろうか。
メイさんはその音に反応してすぐにカーテンの外側に消えていった。……だが、戻ってくるのもすぐだった。
「ユウキ選手、迎えが到着するまで1時間は掛かるそうですから、それまでゆっくりと体を休めていてください。その間、医務室には誰も入れませんので。」
1時間と聞き、結城は対応が遅いのではないかと思ったが、口が裂けてもそんな事は言えなかった。
迎えが来るまでの1時間、大人しくベッドで横になっていようと決めたのだが、ローランドさんがその1時間の別の利用法を私に勧めてきた。
「せっかくです。食事が終わったらうちの戦闘機とVFを見ていくといいでしょう。案内しますよ。」
結城がその申し出を断るはずがなかった。
これはまたとないチャンスだ。エルマーの兵装をこの目にしかと焼き付けてやろうではないか。
「見てもいいんですか? ……というか、ここにエルマーを置いてるんですか。」
「ビルの地下ラボは何かと手狭ですからね。それに、ここなら思う存分テストが出来ますから。」
もっともな理由に結城は納得する。それにそのことを羨ましく思っていた。私も広い滑走路で思う存分アカネスミレを操作してみたいものだ。
「それじゃあ、案内お願いします。」
迷うことなく結城はローランドに案内を頼む。すると、ローランドは満足気に首を縦に振った。
「では、食事が終わったら出発しましょう。」
そう言われ、一秒でも時間を無駄にできないと思っていた結城はトレイの上の物をものの数分で平らげた。
6
ローランドに案内されてハンガーに入った結城はその広さに驚いていた。
基地内のハンガーは地上ではなく地下に配置されており、私が格納庫だと思い込んでいたあの建物はただのリフト施設だったらしい。冷静に考えればあんな狭いハンガーがあるわけがない。
(それにしても静かだな……。)
地下……というか、海面下の施設にはライトに照らされた大きな空間が広がっていた。
基本的にその空間には遮るものは何もなく、邪魔になるものといえばそのエリア自体を支える太い支柱だけであった。その支柱も何十本と設置されているので、邪魔だと言われればそうかもしれない。
床面積だけでもチームビルのラボの10倍以上はあるだろう。これが後何階層もあるのだから、その広さは軽く50倍を超えるかもしれない。また、高さも十分にあったので容積で考えればもっと数字は大きくなるはずだ。おまけに、作業している人も全くいないので、余計にその空間は広く感じられた。
「ここがエルマーを置いているエリアです。一番下の階層ですが、このリフトがあれば数分で地表に運べるので問題ないわけです。」
結城は各階層を貫いている巨大なリフトの上で説明を受けていた。床面積に比例してリフトもかなり巨大で、戦闘機なら4機くらい楽に運べそうなくらい広い。
流石に結城たちは人間用のエレベーターでここまで来たのだが、一度はこのリフトで上まで運ばれてみたいものだ。
「エルマーは向こうにあります。今は戦闘機に隠れて見えませんが……。」
真上に続いているリフトの竪穴を眺めているとローランドに声を掛けられ、結城は視線を前に戻し、ローランドの指さしている方向を見る。
そこにはローランドさんの言った通り、VFではなく普通の戦闘機があった。それらはそれぞれ形が違っており、そんな戦闘機が10機近く等間隔に並べられていた。
どれも見たことがない形だし、実は極秘開発中の高性能な戦闘機なのではないだろうか。
「こんなの見せていいんですか?」
急に不安になった結城はローランドに今一度確認を取る。しかし、ローランドは結城の心配そうな言葉に笑いながら受け答える。
「大丈夫ですよ。この階層にあるのは全て旧タイプのものです。……それに、週末には学生どころか一般の観光客まで見学に来るくらいです。」
「なんだ、普通の人でも入れる場所なんですね。」
「そうですよ。……一応、事前の予約が必要ですけれどね。」
ローランドさんの答えを聞いていくらか気持ちが落ち着いた気がする。この基地も自分が思っているほど物々しい施設じゃないのかもしれない。
短い確認の会話を終えると、ローランドさんは先ほど指さした方向に向けて歩き出す。私も巨大なリフトから降りて後を追うことにした。
しばらく会話もなく床に設置されたライトで照らされた場所を歩いていると、急に沈んだ口調でローランドさんが語り始めた。
「……開発研究施設とは名ばかりで、実際はお払い箱なんですよ。」
「はい?」
いきなりそんな事を言われ、結城は前を歩くローランドを見る。
ローランドさんの視線はハンガー内に並ぶ戦闘機たちに向けられていた。
「この基地があるのはインド洋の真ん真ん中。戦略的な位置としてはなかなかいいですけれど、海上都市群という場所の特殊な状況を鑑みると、本格的な基地を置くのは不可能です。外交上色々な問題が起こるのは必至ですからね……。そのため、開発研究なんていう肩書きが乗っかった中途半端な基地ができたというわけです。」
「あの、ローランドさん……?」
何か様子がおかしいと感じた結城は背後からローランドに声を掛ける。
すると、ローランドは足を止め、結城の呼びかけに応じて振り返った。
「なんでしょう、ガイドのつもりだったんですが、要りませんでしたか?」
いきなり説明口調になったので驚いたのだが、どうやら見学者向けのガイドのセリフだったようだ。
それがわかり、結城は安堵する。
「いえ、ぜひ聞かせてください。」
「では続けます。――要するにここは英国空軍屈指の左遷基地というわけです。もちろん基地職員の仕事っぷりも適当です。労働時間に対して職務内容が薄すぎますからね。みんな暇を持て余しているというわけです。……あと、ここに回ってくるのは優先度の極めて低い実証実験だけです。VFの研究もその内の一つなんですよ。VFBに『スカイアクセラ』というチーム名で参加することになったのも、全ては実証実験の一環なわけです。」
聞いたこともないウラ話に、結城は思わずローランドのガイドを中断させてしまう。
「実験のためにVFBに……。何か凄いですね。」
エルマーは、基本的な設計思想が他のVFと異なると聞いていたが、どうやらこういう事情があったようだ。普通のVFが建設機械から発展したのに対し、エルマーは純粋な兵器として開発された、まさに戦うためのVFである。戦闘性能が高いのも当然な話なのかもしれない。
ローランドさんはこちらの言葉に対し「その通りです」と言ってから言葉を続ける。
「……VFBに参加したのも、戦闘データを取ろうとしてのことだったんです。ですが、私が勝ち進んだせいでこんな事になってしまって……。」
「……。」
ただの実験のために負けたチームのことを考えると何か物悲しい気持ちになってしまう。
何とコメントしたらいいものか、言葉が思い浮かばなかった結城は「なるほど」とだけ言って頷いてみせた。
それからさらに歩くとようやくエルマーの姿が見えてきた。しかし、ローランドさんはなぜか途中で進行方向を変え、ある戦闘機の前で足を止めた。
そして、その戦闘機の鼻の先を撫でながら懐かしげに喋り始める。
「これは私が操縦していたのと同型の戦闘機です。最高速はいまいちでしたが、小回りのきくいい戦闘機でした。」
結城は遠くに見えるエルマーから目を離し、ローランドが触っている戦闘機を見る。
その戦闘機は黒っぽい灰色にカラーリングされており、翼とコックピット部分が一体になっているような、ずんぐりむっくりな外観をしていた。お世辞にもかっこいいとは言えないが、ローランドさんが操縦するシーンを思い浮かべるとベストマッチしているように感じられた。
ローランドさんはその戦闘機から離れることなく、過去のことを話し続ける。
「紛争時代には敵領空内で21機撃墜しました。陸戦部隊の支援で空爆も数十回と行いましたし、いやぁ、いつ見ても懐かしい。」
21機と言うと少ない気がするが、ローランドさんの口調からすると、それでも結構いい戦績なのだろう。
「ベテランなんですね。……でもどうしてVFに乗るようになったんですか?」
何気なく話しかけたつもりだったが、ローランドさんは「色々あってね。」とだけ言って戦闘機から離れた。
「さて、寄り道はこれくらいにしてエルマーの場所まで行きましょう。あと40分くらいしかありませんからね。」
元気良く言うとローランドさんは若干早足でハンガーの奥へと進んでいく。
その後をついていくと、ものの数十秒でエルマーが置かれている場所に到着した。
エルマーはハンガー内の端の端、ライトの当たらない暗い場所に鎮座しており、VF用の運搬コンテナに固定されて姿勢よく座っていた。
「お待ちかね、これがN-01R『エルマー』です。」
正式名称で紹介され、結城は真正面からエルマーの姿を観察する。
ゲームとは違い、実際に見るエルマーからは兵器独特の重量感というものがそこはかとなく感じられた。
まず目につくのは腰のすぐ上にある2つの対になった大きなエンジンだ。あれがエルマーに圧倒的な推力をもたらしている。エルマーの機動力はあれによって支えられているといっても過言ではない。
同じようなエンジンは両脇にもある。少し小さめではあるが、VFを浮かせるだけの推力があるのは間違いなかった。
他にもボディの至る所にスラスターが取り付けられており、角張ったノズルが機体の後方に無数に伸びていた。これを全て全開で噴射すれば、冗談抜きで音速を超えて飛行することができるだろう。ただ、戦闘エリアが定められているVFBにおいては少し無理があるかもしれない。
(これだけ推進機があると操作するのが難しそうだな……。)
そんな事を考えつつ、結城は別の場所も観察していく。
ボディ全体は流線型であり、特に頭は禿頭を連想させるほど綺麗にのっぺりとしていた。それに、あの形状だと攻撃を受け流しやすいだろう。ボディの前面には重厚な装甲が取り付けられている。真正面からダメージを与えるのは難しいかもしれない。
一応エルマーの観察を終えると、すぐ近くのラックに固定されてある武器が目にとまった。
そこにはショットガンが、いわいる散弾銃が2丁ほど置かれていた。これは手に持って使うタイプのものなので反動が大きい高威力のショットシェルは使えないはずだ。余程の近距離で撃たれない限り致命傷にはならないだろう。
しばらく無言でエルマーの周囲を歩いていると、ローランドさんが声を掛けてきた。
「せっかくなので色々教えてあげましょう。……こちらにどうぞ。」
その言葉を聞いてローランドさんに視線を向けると、ローランドさんはエルマーから離れて別の場所へ移動し始める。
なんだろうかと思い、結城はすぐにその後を追った。
ローランドさんは説明しながら歩いていく。
「言い忘れていましたが、実はエルマーは可変型戦闘機として設計された兵器なんです。つまり、航空戦闘機にもなれるし、人型戦闘兵器にもなれるというわけです。」
いきなりそんな事を言われ、結城はエルマーの姿を改めて見てみる。しかし、どう考えてもあれが戦闘機に変形するシーンが思い浮かばなかった。
背後に振り向いたまま歩いていると、急に何かとぶつかってしまい、その反動でよろめいてしまう。……どうやら途中で止まったローランドさんの背中に衝突してしまったようだ。
しかし、ローランドさんはそんな事を気にする様子もなくある戦闘機を紹介する。
「ちなみに、あれが飛行形態に変形した姿です。」
ローランドが指さした方向を向くと、エルマーと同じカラーリングの戦闘機の姿があった。
通常の戦闘機とは違い殆ど翼らしきものは見当たらず、機体の前部にもスラスターのような物が見られた。これが宇宙人の乗り物と言われても信じてしまうほど、奇抜で未来的なデザインである。
よく見ると、前部だけでなく機体の至る所にスラスターがあり、一撃でも被弾すれば途端に爆散しそうな、そんな危険を孕んでいるようにも見えた。
ぐるりと周囲を回って観察したが、メインエンジンらしきものは見当たらない。代わりに少し小さめのエンジンが4つほどあり、それぞれが短い翼に2つずつ取り付けられていた。
本当に特殊な戦闘機らしい。あのエルマーがこれに変形できるか疑問である。……エルマーの外装甲をひっぺがえせば変形できそうな気がするが、とにかく一度実際に変形する所を見てみたいものだ。
「こちらの飛行形態の方はN-01F……基地のみなさんは『ボリス』という愛称で呼んでいます。なかなかの暴れ馬ですよ。いえ、暴れ竜と言ったほうがいいでしょうね。」
変形に関してかなり気になってしまった結城は、尚も説明を続けているローランドに対して疑問をぶつける。
「あの、本当にこれがエルマーに変形できるんですか……?」
すると、ローランドさんはあっさりと首を左右に振った。
「いえ、VFBで使われているのは無変形のテストタイプです。変形機構を組み込むと耐久性が一気に下がりますからね。それに、試合中に変形する暇があるとは思えませんし、それ以前に、人の形を脱するのはルール違反ですよ。」
そんなルールがあったのか、と結城はいまさらながら思う。
……そう考えるとサマルの背中から生えている4本の腕はルール違反なのではないだろうか。でも、周りは何も言っていなかったし、色々と条件があるのだろう。
そんな事を考えている間にもローランドさんは語り続ける。
「二兎追うものは一兎も得ずともいいます。空も飛べて地上戦もやってのける戦闘機なんてのは詰め込み過ぎなんです。私はこれでも十分な性能があると思ってるんですが、まだ研究を続けるつもりらしいですね。結局どっちつかずの性能になるのは明らかなんですが……。」
ローランドさんの話を聞くと、私もそんな気がしてきた。
特に、変形機構を組み込んだロボットが脆い、というのは1/16スケールのプラモデルで実際に体験している。変な位置に関節があったりするので、ちょっと衝撃を加えただけで簡単にパーツが外れてしまうのだ。
実際の戦闘兵器をプラモデルに置き換えるのはナンセンスかもしれない。だが、考え自体は間違っていないだろう。
そんなくだらないことを思い出している間もローランドさんは話を続けていく。
「あと、コストも跳ね上がるでしょうし、第一にコレを操縦できるパイロットもそうそういないでしょう。育成するにしてもVFと戦闘機の両方を学ばないといけませんし、かなり数が限られるはずです。つまり、永遠に実戦配備されることはないということです。……あんな中途半端な兵器、実戦でも使えそうにありませんからね。」
そこまで自国の兵器を貶めることはないだろうと思いつつも、結城はローランドの意見に賛同する。
「そうですよね、エルマーはVFBでは一二を争うくらい高速戦闘が可能なんだし、わざわざ変形する必要もないですよね。」
ローランドさんと同じ意見をいったつもりだったが、ローランドさんは一瞬きょとんとした表情をこちらに向け、その言葉を訂正してきた。
「私が言っているのはこちらのボリスの方ですよ。これはこれで完成された戦闘機なんです。それをわざわざVFというただの大きな人型の玩具に変形させるという考え自体が愚かだと言ってるんです。」
「玩具だって?」
飛行機から人型ロボットに変形するのが非効率的なのは分かる。しかし、VFを玩具呼ばわりされるのは納得いかない。構造的には戦闘機よりもVFのほうが複雑だと思うし、それに使われている技術もVFのほうが高度だ……と思う。
そんな私の抗議の意を汲み取ったのか、ローランドさんはいきなりひょんな事を訊いてきた。
「ミス・タカノ。君はVFと航空戦闘機のどちらが強いと思いますか?」
結城は迷うことなくすぐに答える。
「VFに決まってるじゃないですか。戦闘機は腕も足もないし、使える武器といったら機銃とミサイルだけ。その点VFはどんな種類の兵器だって装備できます。あと、機動力だって……」
まだまだ言いたいことがあったが、考えている間にローランドさんの厳かな声が聞こえてきた。
「では、VFは1000キロメートル先の目標を20分以内に破壊することができますか。」
「それは……」
1000を20で割ると50だ。毎分50キロは……だいたい毎秒800メートルくらいになる。1秒間に800メートルも移動するのはVFでは絶対に不可能だ。
結城はそれは無理だと言おうとするも、更にローランドに同じような質問をされてしまう。
「海上の軍用艦を補足から10秒以内に撃沈することができるでしょうか。」
「無理です……。」
いちいち考える必要もない。どちらも空を飛ぶ戦闘機でなければ成し得ないだろう。
ローランドさんは勝ち誇ったような口調で更に話す。
「ほらね。玩具と呼ばれてもしかたがないんです。大体人の形をしている時点で汎用兵器の域を越えられません。……確かに便利かもしれませんけれど、戦争には向いてませんよ。」
「VFは戦争兵器じゃないんだからそれでいいと思うんですけど。」
「実用性は認めましょう。でも、戦闘機と比べるとあれは玩具ですよ。」
そう言ってこちらの反論を認めたものの、ローランドさんはVFが玩具であるという意見を曲げることはなかった。
「パイロットだった私にとって、VFBはただのおままごとですよ。……例えて言うなら実銃ではなく水鉄砲で水を掛けあって遊んでいるようなもの。緊張感の欠片もありません。」
「……。」
もはや何も言うことはない。ローランドさんはガイドの役割を果たしておらず、ひたすら愚痴のような話を続けていた。
「でも、こんなゴッコ遊びで我慢するしか無いんです。本国に戻っても待っているのは事務職だけ……。今まで国に身を粉にして貢献してきたのに、たった誤射一発でお払い箱。もう通常任務どころか、戦闘機にすら乗れやしない……。やってられないですよ。」
ローランドさんはとても辛そうに過去のことを語っている。戦闘機に乗れないことがかなり心惜しいみたいだ。
私も、もし明日からVFに乗るなと言われたら絶望してしまうかもしれない。
「“ミス”って……誤射一発だけでパイロットを辞めさせられたんですか?」
一呼吸置いて質問すると、ローランドさんはボリス翼に手を置き、そのコックピットに切なげな視線を向けて答える。
「……そうです。たった一発誤射しただけです。しかも、命令に従って攻撃しただけなのに、トリガーを引いた私が全責任を負わされたというわけです。……まあ、除隊されずに済んで良かったとも言えるでしょうね。エルマーのテストパイロットとして働けているだけでも幸せと思っていますよ。」
何やら複雑な過去があるみたいだ。これ以上話を聞くと同情しかねないので、結城は質問を控えることにした。
だが、ローランドさんの言葉が途切れることはない。
「戦闘機を降ろされて、その代わりに先見性のない戦闘兵器を操作……。もちろんエルマーに乗るのは楽しいですよ。しかし、あんなスピードでは物足りません。あの程度のGじゃあ気を失いたくても失えない。」
本当に戦闘機を愛しているようだ。
許可がなければ乗れない上、個人所有も困難な戦闘機に対し、VFは自由に操作できる上に値段もそこまで高くはない。そう考えると私は恵まれているのかもしれない。
ローランドさんは既に過去の思い出に浸っており、私のことなど気にも留めていなかった。
「大空で命を懸けてのドッグファイト……あの快感と興奮はヤクやアルコールなんかでは得られない、何物にも代え難い感覚です。まるで脳味噌が溶けたような気分になれるんですよ。あの時の事を思い出しただけで……。」
そこまで言うと、急にローランドさんは私に話を振ってきた。
「そうだミス・タカノ、君も一度戦闘機に乗ってみるといい。私の云わんとしていることが一瞬で理解できるでしょう。」
そう言うローランドの目は爛々と輝いていた。結城はその目に狂気を感じ、すぐに否定の言葉を口にする。
「いえ、遠慮しときます……。」
最初は紳士に見えたけれど、話を聞いてみるとただのスピード狂の戦闘機マニアではないか。どうしてこう……ランナーには変人しかいないのだろうか。
結城は若干ローランドと距離をとりつつ、全く関係のない話題を持ちかけた。
「ところで、本当に七宮と会ってないんですか?」
そんな質問をされて我に返ったのか、ローランドさんは気まずそうにボリスの翼から手を離した。そして、先ほどまでとは打って変わって落ち着いた口調で答える。
「ミス・タカノ。あの時はメイ軍医少尉がいたから誤魔化すしか無かったのですが、実は私は七宮と会っています。」
「やっぱり……。」
私が七宮の顔を見間違うはずがない。幻覚で七宮のことを見たとなれば、それこそ有り得ない話である。幻覚ですらあいつの顔は見たくない。
事実確認ができた所で、結城は更に詳しく訊いてみる。
「それで、どんなことを話したんですか?」
しかし、簡単に答えてくれるはずもない。ローランドさんは目を閉じて力なく首を横に振る。
「よく考えてご覧なさい。君に話せるくらいの内容ならあんな人目のつかない場所で会うわけがないでしょう。」
「それもそうか。」
これ以上納得できる説明もないだろう。ここに七宮がいたという事実が分かっただけでも、今日の収穫としては十分だ。
新人スタッフと話した、なんて嘘をついてまで七宮のことを隠したのだから本当に秘密にしておきたいのだろう。基地に侵入した自分が厳しく追求できる立場に無いことは百も承知だったため、それ以上は何も言わなかった。
「……さ、見学はここまでです。そろそろ医務室に戻りましょう、迎えが来る時間です。」
その言葉に促され、結城はローランドと共にハンガーから出て、基地内部へと戻っていった。
7
医務室まで戻ると、そこには人だかりができていた。
格好からして基地の職員だろうか、その人達は医務室の扉から通路にかけてを埋め尽くしており、これでは医務室までたどり着けそうになかった。
「一体何なんだ……?」
疑問をつぶやくと、すぐにローランドさんが答えてくれた。
「どうやらVFランナーがいるみたいですね。」
背の高いローランドさんにはハッキリとその人だかりの原因が見えているらしい。
背の低い私は飛び跳ねても全く先の様子を確認する事が出来なかった。
「ランナーがいるんですか?」
「そのようですね。ミス・タカノと同じく女性のランナーのようですが……。」
女性、と聞いて結城の脳裏に真っ先に思い浮かんだのはツルカであった。
もしかして、私の後を追ってここまで来たのだろうか……。
(それは有り得ないな……。)
ツルカが定期船に乗ったのは確認しているし、それにこんな場所にまで単独で来れるわけがない。いよいよ気になった結城は足に力を込めて思い切り飛び跳ねる。
すると、視界の中に金色の髪を確認できた。
「……ん?」
さらに跳ぶと、今度は銀色の髪留めを見つけることができた。
「まさか……。」
結城はその人物が本当に今思い浮かべている人なのか、それを確かめるべく人だかりを掻き分けて前へ進む。
人だかりといってもそれほど数は多くなく、結城は数十秒ほどで女性ランナーの所まで到達できた。
すると、予想通りの人物の顔がそこにはあった。
結城は間髪入れずその人の名前を呼ぶ。
「ミリアストラさん!?」
彼女は多くの職員に囲まれサインを求められていたが、私の言葉に反応してこちらに笑顔を向けてくれた。
「や、カノジョ。迎えに来たよ。」
思いもよらぬ人物の出現に結城は戸惑う。
(あれ? なんでミリアストラさんが迎えに……?)
先ほどローランドさんは七宮が迎えを手配したと言っていた。と言うことはミリアストラさんは七宮と知り合いなのだろうか……。
そんな疑問を感じつつその場で佇んでいると、やがて結城も気づかれてしまう。
「あれ、ユウキだ。ユウキもいるぞ。」
「マジか、1STリーグのランナーまで訪問してくるなんて、何があったんだ?」
「別にいいだろ、とにかくサインもらおうぜ。」
そして間もなく、結城もミリアストラと同様にして周囲を囲まれてしまった。
「ユウキ選手!! こっちにサインください。」
「握手もお願いします、ユウキ選手ー。」
こういう事は何度も経験しているが、やはり未だに慣れない。
「ごめんなさい、今はちょっと忙しくて……。」
身の危険を感じた結城は断りを入れ、押し寄せる人達を避けるようにして医務室の中に逃げこむ。だが、医務室の中に入ると、職員はこちらを追いかけるように医務室の中に雪崩込んできた。
もう逃げ場はないのか、諦めてサインに応じようかと考えていると、医務室の奥から心強い声が聞こえてきた。
「今すぐここから退去しなさい!! ……これは命令です。」
それはメイ軍医少尉の凛々しい声だった。彼女はかなり憤怒しているらしく、手にはなぜか金属製のハサミが握られている。そして、彼女が声を上げると途端にその場が静まり、職員たちの動きも完全に止まっていた。
その現象を不自然に思い、職員たちをよく見てみると、ほぼ全員が驚きを感じているようで、ぽかんとした表情を見せていた。……多分彼女がこのように大声を出すのは珍しいことなのだろう。
「聞こえませんでしたか? 私は出て行きなさいと言ったんです。」
2度命令すると、職員達は先ほどまでの騒ぎが嘘であるかのように、あれよあれよという間に部屋の外へ出ていく。やがて通路からも職員の気配が消え、その場が落ち着くとメイ軍医さんが私に謝罪してきた。
「すみません。VFBはこの左遷基地でも数少ない娯楽ですから。……この通り、ファンの数も多いというわけなんです。」
「そうなんですか……」
基地でなくてもミリアストラさんと私がいればそれなりの騒ぎにはなるだろう。
メイ軍医さんは更に謝罪の言葉を述べ続ける。
「それに、ミリアストラ選手をこの部屋に留めておけなかった私にも責任があります。不快な思いをさせてしまってごめんなさい……。」
「いやそんな、もともとは私が勝手に基地に侵入したのが悪いんだし……。」
そんなやり取りをしていると、職員たちに代わってミリアストラさんとローランドさんが医務室の中に入ってきた。
それに反応し、結城はメイ軍医少尉との会話を中断し、挨拶もほどほどにミリアストラに問い詰める。
「あのミリアストラさん、あなたも七宮の仲間だったんですね?」
急に質問されたミリアストラは、それが当たり前であるかのように結城に言葉を返す。
「そうだけど、……あれ、言ってなかったっけ?」
自分で言って、ミリアストラさんは大きな髪留めを指で触りながら視線を斜め下に向け、しばらく考えていた。
それから約10秒後、ミリアストラさんはため息混じりに返答する。
「……言ってなかったわね。」
一体いつからこの人は七宮の仲間なんだろうか。
エンジニアだけでなく、VFランナーまで巻き込むなんて……。もしかするとローランドさんも七宮に誘われているのかもしれない。
(でも、何のために……?)
ミリアストラさんを見ながら考えていると、こちらに帰るように促してきた。
「別にアタシが七宮とつるんでても問題ないでしょ? とりあえずその話は置いといて、早く帰らない? 遅くなるとあのカレシも心配するわよ。」
この基地から外に出るためにはミリアストラさんに頼る以外に方法はない。
色々と言いたい気持ちを抑え、結城はミリアストラの意見にひとまず同意し、こくりと頷いた。
「それではドックまで案内しましょうか。」
やり取りを聞いていたローランドさんが率先して医務室のドアを開けてくれたが、ミリアストラさんはそれをバサリと断る。
「いいわよ。アタシだけで大丈夫。」
ローランドさんは「そうですか」と言ってあっさりと引き下がり、医務室の扉から離れる。
ミリアストラさんはその扉に手をかけると、そのまま勢い良く開けて外に出て行ってしまった。
結城も後に続こうとしたが、その前にメイ軍医少尉に礼を言うことにした。
「あの、介抱してくれてありがとうございました。」
扉のあたりで振り向いてお辞儀をすると、メイ軍医さんは手を振ってそれに応えてくれた。
「はい、試合がんばってくださいね。陰ながら応援しています。」
ランナーであるローランドの真ん前でそんな事を言ってもいいのだろうかと思いつつ、結城は更に言葉を続ける。
「あと、アップルパイも美味しかったです。」
「コックにそう伝えておきます。……お大事に。」
その返事を聞いて、結城はようやく医務室から通路へ出た。すると、まだ少数の職員たちがそこでたむろっていた。
ミリアストラさんはその集団に足止めを食らっているみたいで、握手したりサインを書いたりしていた。やっぱりその容姿もあってか、かなり人気があるみたいだ。
もちろん結城もすぐにサインを求められてしまったが、すぐにその集団に向けて、医務室の中からローランドさんが声を掛けてきた。
「君たち、ちょっとは私のことも応援して欲しいわけだが。」
それはさっきのメイ軍医さんとは違い、冗談交じりの注意の掛け方だった。そんなローランドさんのセリフに、すぐに集団から楽しげな声が返ってくる。
「何いってんだ。試合に勝った日にはパーティー開いてやってるじゃねーか。」
「あのねぇ、何かにかこつけて騒ぎたいだけでしょうが。」
「違いねぇ。ハハ。」
途端に小規模な笑いが通路の中で巻き起こった。
流石大尉というだけのことはある。人の扱いになれているというか、何かフレンドリーな感じだ。職員たちもローランドさんのランナーとしての実力を高く買っているのだろう。敬意のようなものが感じられる。
「それより道を開けてあげたらどうです。レディ達が困っていますよ。」
「はいはい大尉殿。」
職員たちは素直にローランドさんの言うことに従い、その場で解散した。
職員たちから解放された結城は、早速先を行くミリアストラの後を追い始める。すると、去り際にローランドさんが言葉を送ってきた。
「ミス・タカノ……私はVFBをお遊びだと言いましたが、私は遊びにも全力で力を注ぐ人間です。エルマーをどこまでボコボコにしてくれるか、楽しみにしていますよ。」
「お手柔らかにお願いします。」
こちらの返事に満足したのか、ローランドさんは特に反応を示すことなく医務室の中に戻っていった。それを見届けると、結城は改めてミリアストラの後を追うことにした。
8
――海面が近い。
結城はミリアストラと2人でゴムボートに乗り、そのまま一番近くのターミナルへ向かっていた。出発してから20分は経っているし、前方に映るフロートの影も段々と大きくなっている。……後10分もしないうちに到着するだろう。
結城は前に乗せられているおかげで、頻繁に水しぶきが顔にかかっていた。そのたびにメガネを袖で拭いていたのだが、数回も拭かないうちにその作業が面倒になり、結城は既にメガネをポケットに仕舞っていた。
だが悪いことばかりではない。水しぶきの混じった風はかなり涼しく、心地よさが不快感を大きく上回っていた。揺れも激しいといえば激しいが、何かのアトラクションに乗っているようで面白い。海面とボートの底がぶつかる感触が直に感じられるのでスリルも申し分ない。
ただ、ゴムボートと言っても、操舵用の座席がついている大きめのもので、かなりしっかりとした造りをしている。結城が座っているすぐ前にも銃座のようなものがあるし、多分軍用のゴムボートなのだろう。
ちなみにミリアストラはその操舵用の座席に座り、舵をとっていた。
出発してからほとんど会話をしていなかったが、別にミリアストラさんも私と会話をしたくないわけではないはずだ。そう思い、結城は前を向いたまま話しかけることにした。
「ミリアストラさん……?」
「何?」
風を切る音に混じって背後から返事が聞こえ、結城はすぐに振り返る。
「あの、鹿住さんって元気にしてます?」
そんな質問をくだらないと感じたのか、ミリアストラさん呆れたように笑いながら答えてくれた。
「なんだカノジョ、そんなこと気にしてたわけ? 心配しなくても元気よ元気。今も新しいフレームを開発して……」
そこまで言って、急にミリアストラさんは声のトーンを下げる。
「あー、ナシ。今のは聞かなかったことにしてね。」
何か秘密でもあるのだろうか。もちろん結城がその願いを簡単に聞き入れるわけがなく、そのフレームの開発について質問をする。
「フレーム開発って……? じゃあバリアブルフレームみたいなのをまた作ってるんですか?」
「そうよ。3年もしないうちにまた新しい規格のフレームを……じゃない、お願いだから誰にも言わないでね。」
ゴムボートを操舵していて会話に集中できないのか、ミリアストラさんはあっさりと重要そうな事を漏らしてしまった。
新しい規格のフレーム、多分私が想像もできないような凄い物を作っているのだろう。
(やっぱり凄いなぁ、鹿住さん……。)
しかし同時に、それを七宮に使われるのかと思うととても腹立たしくなってくる。
こちらが黙っているのを不審に思ったのか、ミリアストラは焦ったように懇願してきた。
「ねえカノジョ、いいこと教えてあげるからさっきまでの話を無かったことにしてくれない? 情報が漏れたって七宮にバレたら絶対に報酬減らされちゃうわ……。」
そんなに重要な情報なのだろうか。
もしダークガルムと再戦することがあれば、ちょっとは相手のVFを警戒できるかもしれない。……が、別に詳しい仕組みとかを聞いたわけではないし、あまり問題無いと思う。
私がその申し出を断る暇もなく、ミリアストラさんは懇願し続ける。
「お願い、あのローランドって奴についてとっておきの情報教えてあげるからさ。」
(ローランドさんの?)
彼は次の対戦相手だ。……聞いておいて損はない。
「わかりました、誰にも言いません。」
そう誓うと、結城は大人しく次の言葉を待つ。すると、すぐにミリアストラがローランドについて話しだした。
「いい? とにかくおしりに気をつけること。……いや、背中かしら。ローランドは戦闘中に相手の背後を取る癖が抜けてないって言ってたわ。だから、相手を見失ったらまずは背中に注意することね。」
「なるほど……。」
試合中に相手を見失うなんてことは無いと思うが、万が一ということもある。一応心に留めておこう。
ミリアストラからアドバイスを貰い、結城はふと思ったことを訊いてみる。
「こんなこと教えてもいいんですか? こっちのほうが鹿住さんのフレームよりも重要な情報な気がするんですけど。」
「いいのよ。試合に勝ってもらわないと困るんだし。」
「え?」
私を応援しているという意味なのだろうか。
その言葉もミリアストラさんにとっては失言だったらしく、苦虫を潰したような表情を見せ、がっくりとうなだれていた。
「ごめん、これ以上喋っても失言しかしない気がするから、もう喋らないわ。」
「……?」
一体なにが失言なのか、結城はその意味を理解できないでいた。また、ミリアストラはその宣言通り、病院に到着するまで何も喋らなかった。
9
「――さて、お嬢さん方もお帰りになられましたし、話の続きと行きましょう。」
英国空軍第九航空戦闘機実験開発施設、その海面下にあるハンガーで、ローランドの声が響く。すると、それに応じるように別の声も聞こえてきた。
「そうだね……。でも、結城君と戦闘機の激突音を聞いた時には本当に冷や汗が出たよ。」
……その声の持ち主は七宮だ。
ハンガー内が静かなこともあってか、その声はよく響く。
だが、そんな声以外にある音がハンガー内に響いていた。それは何かを磨くような音で、一定のリズムで聞こえている。
会話の邪魔にはならないが、かなり耳につくその音の発生源はローランドが持つブラシであった。
ローランドは特徴的なフォルムを持つボリスという戦闘機の上に乗って無心にブラシを動かしており、その音が響く度に水と洗剤を含んだブラシが戦闘機の表面の汚れを落としていた。
彼曰くあの戦闘機を磨くのが日課らしい。洗浄しながら実際にボリスに乗って飛べる日を楽しみにしているんだとか。フライトシミュレーターでボリスの操作性や加速性に惚れてしまい、以来こんな感じらしい。
そして現在七宮は、ローランドによって洗浄されているボリスを広い通路を挟んで向かい側から眺めている。そんな単調な作業を視界の隅に捉えながら、七宮はつい2時間前のことを反省していた。
(ちょっと脅かすつもりだったんだけど、やりすぎだったかな。)
実を言うと、結城の尾行には最初から気付いていた。フレイドポテトを喉につまらせてジュースで押し流したのも、ショーウィンドウに反射した景色を見て分かっていたし、ターミナルのテラスから飛び降りたのも見えていた。
特に、船に乗り込んできたときは笑い出しそうになるのを我慢するのに大変だった。
……しかし、戦闘機の翼とぶつかるのは予想していなかった。
そして今、七宮はその時に結城と事故を起こした戦闘機を背にしてもたれかかっている。
結城君の頭がぶつかった箇所は別段変化はない。むしろあの程度で何かあるような強度ならば、戦闘機とは呼べないだろう。
「あの速度でぶつかってこぶ一つで済ませたんだから、結城君もなかなかなものだね。」
呟くと、向かい側にいたローランドもブラシを動かす手を止め、同じようにこちら側にある戦闘機を眺める。
「はは、ミス・タカノが石頭で良かったです。あれくらい頑丈だと逆に戦闘機がへこんでいないか心配になるくらいですよ。」
ローランドは冗談を言って笑っていたが、結城君に怪我をさせてしまったことは笑えない。本当に大事にならなくて良かった。病院でも検査を受けるみたいだし、そこまですれば安心だ。
しかし、そのせいで新たな不安材料が増えてしまった。
(ミリアストラ君が僕の仲間だって知られてしまったね……。)
でもこれも仕方のない事だ。
――すぐに連絡がつき、僕の頼みを聞いてくれて、結城君がこの場所にいたことを秘密にしてくれる上に、眠っている結城君を安全に送り届けられる人物。
あと、結城君が気が付くことを考慮してなるべく顔見知りの人物を、緊急事態に備えて最低限の医療知識のある人物を、さらに安心感を与えるために結城君と同姓の人物を……と考えると、ミリアストラ君以外に頼れる人物がいなかったのだ。
僕自身も結城君に見られないように身を潜めていたのだが、ローランドはあっさり僕がここにいた事をばらしてしまうし、誤魔化しきれなかったようだ。
(でも、結城君も不法侵入したことはそう簡単に言えないだろうし、そこまで心配することはないかな。)
とりあえずはそう楽観的に捉え、七宮は本題に移ることにした。
「それで、あの時の返事は本当なんだね?」
「ええ、聞き違いでも何でもないですよ。そんなことに参加できるのなら無償で協力します。」
“そんなこと”とはもちろん僕の計画のことだ。
ついこの間はクーディンを首にされたランナーとも話がついたし、その上ローランドも賛同してくれるとなると心強い。実質的なリスクも無いので、こちらも気楽に誘えるというものだ。
しかし、“無償の協力”という点については些か不安だった。
「本当にタダで働いてくれるのかい? ……こっちとしてはそれ相応の対価を受け取ってもらえるほうが安心できるんだけれど。」
自己保身のために金の流れを生まないという考えは理解できる。
こちらから報酬を受け取ってしまえば、追求された時に言い逃れのしようがないからだ。
ただ、それだと、本当にこちらの指示に従ってくれるのか、途中で投げ出したりしないか……、あらゆる面でローランドを信用することが困難になる。
しかしローランドが意見を変えることはなかった。
「安心してください。詳しく計画を聞き出してから密告するような三流スパイみたいなことをするつもりはありませんから。」
なにやらあちらはあちらで考えていることがあるらしい。
ちょっと話した感じだと彼は戦争狂な上にスピード狂みたいだし、計画自体を楽しむつもりだとも考えられる。僕の2倍は歳を取ってそうなのに、お盛んなことだ。
ここで疑っていても話は始まらないので、七宮はローランドの言う事を信じることにした。
「そうだね。信用しないことには始まらないし、その言葉を信じさせてもらうことにするよ。」
こちらがそう言うと、すぐにローランドはボリスの上から降りて、こちらに近寄ってきた。
「……では、タダ働きする代わりに1つだけ条件があるんですが。」
なるほど、報酬を受け取らない代わりに別の条件を飲めということらしい。だったら最初からそう言えばいいのに……。もしかして、よほど難しい条件なのだろうか。
「なんだい?」
早速その条件とやらを伺おうとした時、ハンガー内に自分たち以外の声が響いた。
「おーいローランド、こっちに来てくれー!!」
声のした方を向くと、ハンガーの端にある階段付近に人の姿があった。……その人物はかなり汚れた作業服を着ており、戦闘機の整備スタッフだと判断できた。
その整備スタッフがローランドの名を呼びながらこちらに歩いて来たので、七宮は彼から身を隠すべく戦闘機の裏側に身を潜める。
ローランドもそれを助けるべく、整備スタッフが近づけないように階段付近まで小走りで移動していった。
するとすぐに整備スタッフがローランドに馴れ馴れしく話し始める。
「あんな所で何してたんだ?」
「いやなに、ボリスを磨いていただけですよ。」
「許可が降りるまであれには乗れないんだし、わざわざ磨かなくても……。まあいいか、とにかくこっちに来てくれ、俺は残業したくねーんだ。」
「わかりましたよ。バケツとブラシを片付けたらすぐに行きます。」
そんな短いやりとりを終えると、ローランドがボリスの元へ返ってきた。
「なかなか慕われてるみたいだね。」
早速話しかけると、ローランドはバケツの中にブラシやら雑巾などを投げ込みながら返事をする。
「有難いことですよ……それじゃあまたの機会に。」
七宮はそう言って立ち去ろうとするローランドを呼び止める。
「次はいつになるかな?」
「何時でも構いませんよ。それほど無茶な要求でもありませんから。」
できれば今すぐに条件を聞かせて欲しいところだが、あいにく今は落ち着いて話せる状況ではないらしい。
「大尉殿ーッ!!」
ローランドを呼ぶ声も聞こえてきたし、これ以上はゆっくり話していられない。
「待たせるとうるさいのでね、そろそろ行きます。……それではまた。」
整備スタッフに怪しまれてはいけないと判断したのか、ローランドはこちらに目をくれることなく階段のある場所まで行ってしまった。
(また会うのは面倒なんだけどなぁ……。)
彼が戦闘機の洗浄なんかに時間を取られていなければ最後まで話せただろう。そう考えると僕も掃除を手伝ったほうがよかったのかもしれない。
しかし、彼が計画に参加してくれることは間違いないので、それが分かっただけでも良しとしよう。
条件については暇な時に聞けばいい。どっちにしろ受け入れるしか無いのだから。
「ま、大方の予想はついているんだけどね……。」
綺麗に磨かれたボリスを見て、ため息をつく七宮だった。
ここまで読んで下さりありがとうございます。今回は少し長かったです。
元戦闘機のパイロットのローランドはそこまで勝つことに執念はなく、むしろ気楽に試合を楽しんでいるようにも思えます。対戦成績的にはスカイアクセラは中堅クラスのチーム。ですが、アール・ブランは苦戦を強いられることになるでしょう。
次の話では結城がローランドと試合をすることになります。
今後とも宜しくお願いします。