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耀紅のヴァイキャリアス  作者: イツロウ
空の支配者
39/51

【空の支配者】第一章

 前の話のあらすじ

 化粧品のCMへの出演の依頼を受け、スタジオで撮影されていた結城であったが、その時に諒一に恥ずかしいセリフを聞かれてしまい、商業エリアのどこかへ逃亡してしまった。

 ツルカと諒一とランベルトは結城を追いかけることになる。

 ……しかし、商業エリアでは結城には関係のない、別の出来事が起こっていた。

第一章


  1


 室内射撃場。

 そこは銃で標的を狙い撃つための場所であり、これ以外の用途で使用されることはない。

 20あるレーンの前には人がまばらに立っており、それぞれが思い思いのタイミングで銃を撃っている。不規則に響く銃声は室内で反響し、かなりの騒音を発生させていた。

 そのせいか、その場にいる全員が耳栓を装着している。

 耳栓があるのでみんなお構いなく銃声をまき散らしているわけだが、そんな中、一人だけ騒音を発生させていない男がいた。

 しかし、それはその男が射撃をしていないというわけではない。

 ただ単に、その男が銃以外の武器でターゲットを狙い射っているというだけであった。

 ――その男が構えているのは『弓』だった。

 射撃場内で唯一銃以外の武器を構えつつ、男は不快感を露わにする。

(パンパンうるさいなぁ……。朝っぱらから何やってるんだこいつらは……。)

 ……これだから銃は嫌いだ。

 イヤーマフを付けていても不快な音が鼓膜を振動させる。

 シューティングレンジだから銃声が聞こえて当たり前だということは重々承知だ。でも、それにしたってうるさすぎる。

(こんな中で誰もキレないなんて……全員耳がイカれちゃってるんじゃねーの?)

 ……トリガーを引く度に下品な音を立てる銃であるが、それを扱うのはとても簡単だ。

 構えて、狙って、撃つ。

 ただこれだけだ。

 しかし、弓矢は違う。

 それを実践するべく、男は弓矢を握りしめ、射つ体勢に移行する。

「よいしょ……っと。」

 弓矢の場合はこうだ。

 足を適度に開いて体の力を抜き、ターゲットの位置を確認し、矢をつがえ、弦を引き、狙いを定め、放つ。

 この時、弦の張力が矢に伝わり、それが推進力となって矢は飛翔する。

 同時に聞こえてくるのは心地の良い冴えた弦音だ。

 ……何度聞いてもこの音には惚れ惚れする。

 弦から離れて飛翔した矢はその後部に付いている羽によって回転し、それにより矢本体の安定性が上昇する。

 そして矢は弓なりに飛翔し、離れた場所にあるターゲットに命中する。その際、金属製の矢尻がターゲットに突き刺さり、矢は弾かれること無くターゲットを貫いた。

 木の板でできた人型のターゲットには既に数本の矢が突き刺さっており、その全てが頭部に集中している。先ほど放った矢もその集団に合流しており、衝突の際の衝撃によってそのシャフトを震わせていた。

 止まっている的が相手なのでこのくらいは当たり前だが、我ながら良い腕だ。


 ――手軽に遠くの敵に攻撃することができる武器、それが弓だ。


 この武器は太古からある有名な武器で、今までの争いで殺傷した人数は銃には劣るものの、剣や斧には勝る、と思う。

 それなのに、VFBに於いて弓を武器に使うチームは1チームしかいない。

 わざわざ弓を武器に選んだ物好きとも言えるそのチームこそが俺の所属しているチーム、『クーディン』である。

 現在、クーディンは1STリーグで活躍中のそこそこ人気のあるチームだ。

 なぜそのクーディンがライフルや刀剣類や打撃武器を使うチームを差し置いて1STリーグにまで上り詰めることができたのか、それには特殊な事情がある。

 それは、火器類の制限というルールが関係している。

 すなわち、使用できる弾薬の制限だ。

 2NDリーグ以下のリーグにおいて、銃器はVFの装甲に傷をつける程度の威力しかなく、牽制にしか使えない。しかし、この弓には制限するべき弾薬など存在しない。その強度が許す限り、いくらでも弦を強く張ることができるのだ。

 クーディンはその『弓』という武器に将来性を見出し、VF専用の弓と矢を、そして弓の攻撃を最大限に活かせるVFを独自に開発した。

(よくあんなデカイ弓を作ろうって気になったよな……。まぁその判断は正しかったわけだけど……。)

 それらの開発後、クーディンの目論見通り、張力に制限のない弓は下位リーグでは絶大な威力を発揮した。遠くからでも十分に頭部パーツを破壊できるほどの威力を持っていたのだ。

 ……しかし、その弓の開発は簡単なものではなかった。

 軽くで剛性の高い弓や、飛翔能力と衝撃力に優れた矢、そして弦を引くことに特化したVFはすぐに開発できた。

 しかし、弦……ストリングに関してはその研究と開発に長い月日を要したと聞いている。それほど、巨大弓に合う弦というのはそうそう簡単に作れるものではなかったらしい。

 結局、クーディン自前の技術でその弦を実現するのは難しく、最終的にはワイヤー開発で有名な企業に協力を依頼するしか無かったようだ。

 そこは特殊金属を用いたワイヤーを専門に作っている企業であり、現在、弓に使用している弦はこの企業が作った特殊なワイヤーを幾重にも編み込んだものである。

 凄まじい張力を発揮するには、ワイヤーの素材だけではなく編み方にも秘密があるらしいのだが……、まあ、ランナーの俺がそこまで把握する必要はないだろう。

 とにかく、その弓のおかげでアジア大陸のリーグでは敵なしだった。

 遠距離から一方的に相手を狙える上、その威力も高く、おまけにランナーである俺の弓の腕もいい。

 相手から距離を取り、弓矢を浴びせ続けるだけで勝てるのだ。勝って勝って勝ちまくり、こんなに勝っていいものかと不安を感じることさえあった。

 ……だが、それも長くは続かない。

 1STリーグの昇格リーグで格の違いというのを見せつけられたのだ。……トライアローという海上都市群のチームによって。

(……思い出したくもないな。)

 あのチームは今までの雑魚チームとは比較にならないほど強かった。何せ、この俺が矢筒から矢を取る前に負けてしまったのだ。

 その対策の完璧さには戦慄を覚えたほどだ。

 しかし、トライアローは1STリーグへの昇格を辞退し、クーディンは屈辱の1STリーグ進出を果たすことになった。

 悪いことは続いて起こるものだ。この1STリーグでも予想していなった事態が発生した。

 それはそれまでクーディンに有利に働いていた弾薬の制限の問題だった。

 1STリーグでは遠距離武器の火薬制限がないに等しいため、こちらの弓の有用性が低くなってしまったのだ。

 威力だけで見ると弓のほうが高いものの、弾速や連射性や携帯性は銃器のほうが断然的にいい。それに、コックピットの分厚い装甲を破壊できない限り、重火器はいくらでも火薬の量を増やすことができる。

 というか、戦車並みの火力を完全に防ぐことのできるコックピットの頑丈さにも脱帽だ。

 しかし、そのコックピットの安全神話も崩れつつあると聞く。

 話によれば海上都市の2NDリーグに高威力の電磁レールガンを使うチームも現れたらしい。そんなチームがエネルギー供給制限のない1STリーグに来るかと思うと末恐ろしい。

早く大会側も制限をかけるべきだ。死人が出てからでは遅いのだ。

 とにかく、そんなこんなで苦戦しつつも、クーディンは『グラクソルフ』『スエファネッツ』『スカイアクセラ』の3チームに勝利し、現在は3勝3敗だ。

 グラクソルフの能なし熊とスエファネッツの鞭使いに勝てたのは当然だとして、スカイアクセラのエルマーに勝てたのは運が良かった。相手の銃口に矢が突き刺さるラッキーショットがなければ通年通りボコボコに負けていたに違いない。

 ……『キルヒアイゼン』『ダグラス』『ダークガルム』には呆気なく負けたので、わざわざ思い出すこともないだろう。ああいう酷い試合は早く忘れるに限る。

(今シーズンも、あと残り1試合か……。)

 これで残すは『アール・ブラン』との試合のみだ。そして、この試合には俺のランナー人生が賭かっている。

 今シーズン、俺は勝率5割以上を達成せねばならない。そうでなければランナーを降ろされる。つまりそれは解雇宣告と同じだ。

 せっかくここまでクーディンに尽くしてきたのに、これではあんまりだ。だが、ランナーの立場でオーナーに歯向かうことはできないし、大人しく言うことを聞くしか無い。

 これから先、俺はどうなってしまうのだろうか……。

 俺がランナーを辞めれば、クーディンは銃器に頼る戦法に移行するだろう。

 それに合わせてVFも……『雷公ライコウ』もお払い箱にされるかと思うと、悲しいと言うよりも腹が立ってくる。

 VFBでは珍しい『弓』で試合してるからこそ、それなりに注目されているのに、普通の武器を持ったらそれこそ普通のチームに成り下がってしまう。

(チームの連中は何考えてるんだか……。)

 そんな苛立ちや不安な気持ちを晴らすべく、クーディンのランナー『ジン・ウェイシン』はひたすらターゲットに向けて矢を放っていた。

 憂さ晴らしの場は最近発見した場所で、商業エリアにある小さなシューティングレンジだ。本来ここでは銃を使うのだが、それについては店主に了解をとってあるので問題ない。

 そんな無理が通るほどこじんまりとした射撃場ではあるものの、ターゲットまでの距離は申し分ない。

 本当は屋外で射ちたいが、海上都市群においてまともに矢を射ることができるのがここしか無いので仕方がない。チームビルのトレーニングルームで射ていた時期もあったが、安全性を考えると一人の時にしか練習することができず、長時間練習することができなかったのだ。

 その点、ここだと人を気にすることなく料金を払い続ければ何時間でも利用可能だ。

 問題があるとすれば、今日は普段よりも客の数が多いということくらいだろう。

 ……射ち始めてから数十本目の矢が人型のターゲットの頭に突き刺さるのを見届けると、ジンは間髪入れず腰の後ろに提げた矢筒から新しい矢を取り出す。

 そしてすぐに矢をつがえ、弦を引き、狙いを定める。

 ここまでにかかる時間は1秒を切る。

 もっとスピードを上げれば半秒にまで縮めることも可能だ。 

(我ながら完璧なリロード……惚れ惚れするねぇ。)

 この技をVFでも実現できるのだから、やはり俺の腕の良さは弓だけに留まらない。それだけVFの操作性がいいとも言えるが、操作しているのは俺なのだし、やはり俺が凄いということでいいだろう。

 そんな事を考えつつ、ジンはボロボロになった人型のターゲットを新しいものと交換することにした。


 ……5度目の交換が済み、引き続き問題なく無心に矢を射ていたジンだったが、やはりシューティングレンジで銃を使わずにいるとトラブルが発生する。

 それは使っている道具のトラブルではなく、人同士のトラブルであった。

 ――そのトラブルは1発の銃弾から始まった。

「……ん?」

 順調に矢を放っていたジンのターゲットに、不意に小さな穴が一つ追加されたのだ。それは明らかに銃弾によるものであり、誤射によるものだった。

 ジンは何が起こったのかを確認するためにレーンから離れ、隣のレーンを覗いてみる。すると、隣の利用客と目があってしまった。

 その客はスキンヘッドが特徴の、かなり屈強そうな男だった。手も大きいせいか、拳銃が小さく見える。

 スキンヘッドの男はその拳銃をこれ見よがしに見せつけ、挑発するように、再びこちらのレーンのターゲットを撃ってきた。

(なんだこいつ……?)

 一体何のつもりか解らないが、ナメられたままで我慢できるジンではない。

「おいオッサン、自分のターゲットがわからないくらい目が悪いのか?」

 ジンはイヤーマフを取り、それを投げ捨てた。するとスキンヘッドの男も耳栓をとり、こちらを睨みながらシューティンググラスも外した。

 お互いの声がはっきり聞こえるようになった所で、スキンヘッドの男は喧嘩口調で言葉を返してくる。

「ごちゃごちゃうるせえんだよ。ここはお子様が来る場所じゃねぇんだ。」

 そう言いつつも、スキンヘッドの男は尚もこちらのターゲットを撃ってくる。その乾いた銃声を不快に思いつつ、負けじと言い返す。

「だからなんだよオッサン。自分のターゲットも判らないのか? ……これだけ外れてると視力よりも頭の病気を疑ったほうがいいかもな。」

「黙れ!! ……ここは『射撃場』だ。銃を撃たないんなら邪魔になるから帰れ!!」

 どうやら……というか、やはり俺が弓を使っているということが許せないらしい。

 今まで珍しい目で見られることはあったが、ここまで不快感を露わにしてくる客と出会うのは初めてだ。

 ジンは自分の正当性について説明してやることにした。

「あのなオッサン。こっちは許可も取ってるし金も払ってる。おまけにうるさい銃声も立ててないし迷惑はかけてない。それでもまだ文句があるのか?」

「そういうことじゃねぇよ。」

 ここまで説明すれば押し黙ってくれるかと思ったが、一筋縄では行きそうに無かった。

 スキンヘッドの男は俺を睨みつけながら言葉を続ける。

「こっちが銃撃ってる隣でそんなしょぼいおもちゃを使われるとなぁ、気分が悪いんだよ!!」

 なんて我が儘な男なんだ。

 ここまで正直に胸中を打ち明けられると逆に清々しい気さえしてくる。

 スキンヘッドの男は全く説得力のない理由を喋り続ける。

「いちいちターゲットに刺さる矢を見てるとこっちの集中力が途切れるんだよ……。分かるか!?」

 全く分からない。

 まともに相手するのが馬鹿らしくなってきたジンは、適当にあしらうことにした。

「じゃあわざわざこっち見るなよ。気持ち悪いオッサンだな。」

「あぁ?」

 スキンヘッドの男の迫力のある顔に負けず、ジンはあしらい続ける。

「どうせオッサンもストレス発散のために撃ってるんだろ? ここでストレス溜めてどうすんだよ。……ほら、さっきのは水に流してやるから。今度はちゃんと自分のターゲットを撃つんだぞ?」

 これでも精一杯やさしく言ったつもりだったが、スキンヘッドの男の怒りは静まるどころか、更に悪化していく。

「お前のせいでストレス溜まってるって言ってんのがわかんねぇのかァ!?」

 スキンヘッドの男はこめかみに青筋を立てていた。その上茹でダコのように顔を真赤にさせている。……もうこうなったら手に負えない。

(もう相手するのやめよ……っと。)

 怒り狂う男を無視して弓射ちを再開させようとしたジンだったが、それも怒声によって遮られてしまう。

「だから、今すぐ止めろっつってんだろ!! 止めねえと無理矢理にでも追い出してやる……。」

 そう言うと、スキンヘッドの男はこちらのレーンまで移動してきて、胸ぐらを掴んできた。

 ここまでされると無視し続けることもできない。

「はいはい、もういいから黙ってろって。」

 ジンは男の太ももを足で押し返し、男を元の位置まで押し戻した。

 その時、スキンヘッドの男の手が台の上に置いていた銃に触れ、その銃は地面に落下してしまった。

 それを見て、ジンは思ったことを遠慮無く口に出す。

「あーあ。オッサンみたいな単細胞に扱われて、銃も可哀想だな。」

 ……この言葉が引き金になってしまった。

「この餓鬼ィィィ!!」

 スキンヘッドの男は一際大きな声を上げ、床に落ちた銃を拾うと、そのまま銃口をこちらに向けてきた。おまけに、安全装置を外す「かちり」という音も聞こえた。

 それで優位に立ったと思ったのか、スキンヘッドの男はニヤリと笑う。

 しかし、それは勘違いだ。

「おいおい、オッサン。危ないから銃置けって。」

 ジンは軽い口調で行った後、弓の先端――弦を固定している付近を左手で持ち、逆側の先端を男の手にある銃めがけて突き出した。そして器用に弓を操り、弦とフレームの間に銃を挟み込んで外側に捻る。

「……!?」

 すると、男が面食らっていた事もあってか、いとも簡単に男の手から銃を奪い取ることができた。ジンはその絡め取った銃をすぐさま弦から外し、弓と一緒に左手で確保する。

 そして、間髪入れず空いている右手で矢筒から矢を引き抜き、その矢尻を素早く男の首筋に当てた。

 ……この間、スキンヘッドの男は全く動かなかった。いや、全く動けなかったと言ったほうが正しいだろう。

 ジンは矢尻を男の首筋にあてがったまま説教臭いセリフを放つ。

「オッサン、マナー違反だぞ。人に銃口を向けるな……って学校で習わなかったか?」

「く……。」

 男は悔しげに歯を食いしばっていた。だが、首筋に鋭いものを突き付けられているせいか、動くことも喋ることもできないようだった。

 それを見つつ、ジンはさっきの自分の言葉を思い返す。

(いや、銃の扱いは学校では習わないか……。)

 心の中で自分の言葉に突っ込みを入れつつ、ジンは弓のフレームと弦の間に腕と頭を通し、そのまま弓を肩に掛ける。そして、自由になった左手で奪った銃を構えた。

 もちろん、銃口の先にあるのはターゲットである。

「それに……」

 ジンは短く言うと、そのままの体勢で銃を自分のターゲットに向けて連射した。

 ……数回の銃声の後、人型ターゲットの胸のあたりには綺麗にまとまった穴の集団が発生していた。それは、隣のレーンにあるスキンヘッドの男のターゲットよりも明らかに狙いが正確であり、ジンの射撃能力がどれほど高いかを物語っていた。

 それを鼻にかける様子もなく、ジンは淡々と告げる。

「……銃はつまんねーんだよ。ほら、返すぞ。」

 ジンは銃を返却し、同時に男の首筋から矢尻を引いた。

 スキンヘッドの男は銃を持った途端に自分のレーンに戻り、台の上に手を這わせ始める。

「クソッ……弾が……。」

 どうやら俺を撃つための弾を探しているらしい。しかし、台の上にあるのは空の箱と、空の薬莢だけだ。

「さっきので最後だったのか。……代わりに弓使ってみるか?」

 哀れに思いつつ何気なく声をかけると、不意に男の動きが止まった。

 そして、体が震え始める。

 それは明らかに怒りによる震えだった。

「てめぇぇぇ!! ぶっ殺す!!」

 銃に頼るのを止めたのか、スキンヘッドの男はいきなり殴りかかってきた。

 ジンはそれをひらりとかわし、男の背後に回りこむ。

 その時、ジンは男が持っている銃に関する情報を思い出した。

「そういやその銃、ここで貸し出してない種類の銃だよな。……もしかしてオッサン、軍人か何か?」

 スキンヘッドの男は鼻息を荒くして応じる。

「だったらなんだ!?」

 そう言ながら、男はタックルしてきた。……が、ジンはそれを上に跳んで避ける。

 そして、先ほどの話を続ける。

「……だとしたら一般人相手に恥ずかしいねぇ。というかこんな場所で撃たなくても自前の射撃場があるだろ。……もしかして、わざわざ自慢しに来たの? あの腕前で?」

「ッ……!!」

 男は顔を真っ赤にする。それはさっきみたいな怒りによるものではなく、羞恥によるものだった。

 これでいよいよ後に引けなくなったのか、男は銃を持ったままカウンターに向けて走りだした。

「クソ……そこで待ってろ!!」

 弾でも補給しに行ったのだろうか。それとも仲間でも呼びに行ったのか。

 どちらにしてもこれ以上相手をするのは危険だし、それに面倒だ。

(……逃げるか。)

 ジンはほとぼりが冷めるまでシューティングレンジから離れ、しばらく商業区を散策して時間を潰すことにした。


  2


 商業エリアの大通り。

 多くの観光客が行き交い、活気のあるその道で一人の女性が何かを探していた。

 その女性の姿は道を歩く人とはだいぶ差があり、特にその大きなフード付きの白衣はかなり目立っていた。そのせいか、女性は多くの人の視線を集めていた。

 しかし、女性自身にその自覚はなく、通りに目を向けて目当ての物を探し続ける。

「次はどこに行きましょうか……」

 つぶやいたその言葉は商業エリアの賑やかな音にかき消され、その女性以外に届くことはない。

(カフェって、甘い物もメニューにありましたよね……。)

 現在、私……鹿住葉里は甘いものを探して商業エリアを歩いている。

 いつもだいたいラボの中で過ごしている私にとって、これは久々の外出だ。

 これだけ久々だと少し歩いただけで太ももが張ってしまう。既に足首辺りも疲れているし、明日か明後日には微妙に痛い筋肉痛が襲ってくることだろう。

 そういうことを想定してウォークングシューズか何かを履いてくればよかったかもしれない。……今履いているパンプスが長時間の歩行に適していないのは明らかだった。

 外出の準備中も頭の中がVFフレームのことでいっぱいだったので、そこまで気が回らなかったようだ。

 そもそも、こんな場所にまで足を運んで甘いものを追い求めているのも、その考えごとのせいである。

 その考えごととは、『バリアブルフレーム』や『FAMフレーム』を越えた、いわば第3世代型フレームについてのことだ。

 別に必要に迫られて開発しているわけではないが、ぱっと新しいアイデアが浮かんだのだから仕方がない。浮かんでしまった以上は形にしないと気が済まないのが私の性である。

 しかし、思いついたはいいものの、それをどうすれば上手くフレームに取り込めるか、そのアイデアが湧いてこない。

 いつもなら簡単に思いつくのだが、今回は3日以上ろくに寝ることなく思考し続けてもいい案が思い浮かばないのだ。ここまで肝心なアイデアが思い浮かばないというのはかなりストレスである。

 七宮さんの計画の準備もだいたい済んで、しばらくは開発に専念しようと思った矢先にこれである。幸先が悪いにもほどがある。

 こんなままだと七宮さんの計画に支障をきたしかねない……。

 ――こういう時に必要なのは息抜き、そして糖分補給である。

 それを同時に実現できるのが、今私が実行している『甘味処巡り』というわけだ。

 つまり、思考に必要な糖分を十分得るため、今日一日は甘いものの摂取に専念することにしたのだ。……もっと簡単に言うと、憂さ晴らしである。

 このために七宮さんには必要なパーツの買い出しと適当な嘘を付いている。

 ……一応帰る前に適当な部品でも買っておこう。

 そんな事を考えつつ、鹿住は大通りを歩きながら左右に視線を向ける。

 鹿住は、商業エリアに来てから既に4店はお菓子屋を回っていた。そこでシュークリームやジェラートやクレープを買うたびに歩き食いをしたり、ベンチに座って頂いていたのだが、そろそろ落ち着いた店内で冷えたジュースやパフェなどを食べたい。

(やはりカフェが狙い目ですね……。)

 だが、大通りから見る限りではどのカフェも人で溢れかえっている。休日の昼時なのだから仕方が無いといえば仕方がない。

 こうなると居住エリアまで上って、そこで店を探してもいいかもしれないが、そうなると結城君と会ってしまう可能性が高くなる。

 この商業エリアも言ってしまえば居住エリアに近いが、流石に結城君に会うことはないだろう。結城君はそこそこ有名になっているし、みだりに人の集まる場所に出向いてくることもないはずだ。

 少々探すのに手間と時間が掛かるが、裏通りなどの静かなカフェに入るしか無いだろう。

 そう決めた鹿住は大通りから横道に逸れて、人通りの少ない道へ入っていく。

 ……と、その時近くから物々しい怒声が聞こえてきた。

「待てェこのクソガキィ!! 撃ち殺してやる!!」

 真っ昼間から物騒なセリフである。

(引き返しましょうか。)

 鹿住はトラブルを避けるべくその道を引き返そうとした……が、振り返ろうとしたその瞬間に曲がり角から綺麗なフォームで駆ける青年が出現した。 

 追われているらしい青年は背後を確認するために後ろに顔を向けており、進行方向にいる私の姿を全く確認していない。

 このままでは確実にぶつかる。

「!!」

 ぶつかると分かっていても、人というのは迫りくる物体に咄嗟に対応できないものである。体術に心得のある人ならともかく、私は素人以下なのだ。

 そのため、私はその青年とぶつかる寸前に声を出すことくらいしかできなかった。

「危ないですっ!!」

「あっ。」

 その声が届いたのか、青年は顔をこちらに向ける。

 しかし、青年の声が聞こえる頃には、私はその青年と衝突していた。

 見事なまでに青年と正面衝突した結果、私は単純明快な物理法則に従って背後に跳ね飛ばされてしまう。

「うっ……」

 そして、その勢いのまま押し倒され、背中を地面に強打してしまった。

 だが、強打してすぐに私は青年によって無理矢理引き起こされ、近くの建物の隙間に半ば強制的に押し込まれてしまう。

 そこは光の届かない暗い場所であり、急な光の変化に対応できない私は周囲の様子を把握することができなかった。

 青年は私をそんな暗がりに押しやった所で一息ついていた。

「ゴメン、おねえさん。」

 そう謝っているものの、視線は通りの方に向けられたままだ。

 追って来ている人のことが気になっているのだろう。 

「いてて……。もう、一体何なんですか。って、うわっ」

 事情を聞こうとした所で青年はいきなり私に覆いかぶさってきた。そして、更に暗がりの奥へ私を押し込んでいく。

 その間、通りからは先ほど聞こえた物々しい怒声が聞こえていた。

 しかしその怒声も長くは続かず、すぐに遠くへ行ってしまった。……どうやら隠れてやり過ごすことができたようだ。

(見つかっていたらどうなっていたんでしょうか……撃ち殺す、とか言ってましたし……。)

 と、ここで鹿住は自分の体が青年に密着している事実にようやく気がついた。

 ……どさくさに紛れて女性の体を触ろうなど、不届き千万な青年である。隠れるだけなら自分だけ隠れればよかったのだ。

 好意的に捉えると私に被害が及ぶかもしれないと、親切心で身を隠してくれたと考えられるが、目撃者である私に喋らせ無いようにするため連れ込んだと、解釈することもできる。

「……。」

 しかし、結局何も言えないまま、鹿住は青年に抱きつかれ続けていた。

 過去にリゾート施設で誘拐された時も何も言えなかったし、相変わらず私はトラブルにめっぽう弱いらしい。あれは勘違いだったからいいものの、今回は勘違いでも何でもない。

 出来るだけ早くこの状況を把握し、脱する必要があるだろう。

(お……見えてきましたね。)

 そのまましばらくすると暗闇に目が慣れてきて、ようやく青年の姿がはっきりと浮かび上がってきた。

 まず目に飛び込んできたのは靭やかに鍛えられた腕だった。が、それ以上に褐色の肌が印象的だった。単に日焼けしているだけなのかとも思ったが、その色合いは表面だけ変色した感じではなく、肌の深くまで染み込んでいるような、そんな濃い褐色であった。

 あと、目立っていたのは弓なりに構成されている長い棒のようなものだった。

 ……よく見るとまさにそれは弓でありボウであった。弓は青年の肩に掛けられて固定されており、腰には筒のようなものもある。これはよく考えなくても矢筒だろう。

 半分抱きつかれている状況にある今、分かることといえばそのくらいの情報だけだった。

「ふぅ、助かった……。」

 褐色の青年は本気で安堵したように言うと、途端に体の力を抜いた。そのせいでこちらに体重がかかり、鹿住は背中の痛さと相まって余計に苦しくなってしまう。

「ちょっと……退いてくれませんか。」

 その旨を伝えると、すぐに青年は「わりーわりー」と言いながら体を離してくれた。

 青年が離れた所で鹿住はその顔を見る。

 年は十代の後半……いや、二十歳くらいだろうか。その顔からは活発な印象を受ける。むしろ、生意気と言っていいかもしれない。

 そしてその顔には見覚えがあった。

(あれ、この人は確か……クーディンのランナーでしたか。名前は……)

 名前を思い出そうとした所で首に痛みが走った。

「う……」

 地面に腰を下ろした体勢で上を向いたのがいけなかったのか、背中に続いて首にまで痛みが這い上がってきたようだ。俗に言うムチ打ちというものだろうか、背中から転けたのだからこんな症状が出たとしても不思議ではない。

(ほ、本気で痛いですね……。)

 痛みのせいで体が固まってしまい、おまけに涙まで出てきた。

 顔を上に向け、青年を見上げたままの体制で痛みに耐えていると、それを勘違いしたらしい青年が慌てた様子で優しく声を掛けてきた。

「あー、ごめん。……でもそんなに怖がることないだろ。このくらいで泣くなよ。」

 何故か馬鹿にされたような感じがして、鹿住はすぐに反論する。

「怖がってませんし泣いてもいません。私はちょっと押しに弱いだけで……じゃない。押されたときに背中をぶつけて痛かったんです。」

 こちらが強く言うと青年の態度は一変し、急に馴れ馴れしい態度になった。

「へぇ、押しに弱いんだ。なら、今からどっかで遊ばない? おねえさん俺の好みだし。」

「あのですね……。」

 いきなり何を言い出すかと思えば、呆れてものも言えない。

 こちらがじとっとした、さげすむような目で見ても、構うことなく青年は言葉を続ける。

「まずは自己紹介しなきゃな。俺はジン・ウェイシン。……おねえさんは?」

 聞かれて素直に自己紹介するほどの仲ではないし、これ以上関わるつもりもない。

 背中の痛みに若干イライラしていた鹿住は態度を変えることなく青年を追求する。

「ぶつかった上に押し倒して、その上ナンパですか。普通は謝罪をすべきだと思いますが。」

「さっきちゃんと謝っただろ?」

 あんな軽く「ごめん」と言っただけで謝罪が成立するなら、世界中の紛争問題の9割以上が既に解決しているはずだ。

 もしそうだと仮定しても、鹿住はその9割の中に入っていない。

 青年の態度が気にくわないこともあってか、鹿住は柄にも無く追求し続ける。

「あれで謝罪したつもりなら貴方の常識を疑いますよ。それに、いくら1STリーグのVFランナーでもそんな誘いにはのりません。」

「あれ、おねえさん、俺がクーディンのランナーだって知ってたんだ。VFBには詳しいの?」

「ええ、VFに関しても貴方より詳しいと思いますが?」

「へぇ、俺のこと詳しく知ってるのか……。」

「違います。VFに関して貴方よりも知っていると言ったんです。」

「そうか……へへっ。」

 こちらの言うことは既に彼の耳には届いていないようだ。

 そんなに知られていることが嬉しかったのか、青年は……ジンは慢心と恥ずかしさが混じったような笑顔を見せていた。

 彼はアジア圏では有名なのだが、海上都市においてはあまり知名度は高くない。下手をすれば2NDリーグのリオネルにも劣るだろう。

 しかし、一応は1STリーグのランナーなので、少し知識のあるVFマニアなら誰でも知っている。『最高』とまではいかないものの、自他ともに認める『優秀』なランナーだ。

(それにしても、なぜ追われていたのでしょうか……。)

 事の成り行きが気になる所だが、それと同じくらい肩に掛けている弓のことも気になる。

 依然もじもじしているジンを無視して色々と考えていると、不意に携帯端末から着信音が聞こえてきた。

「少し失礼します。」

 鹿住は一応断りを入れてから携帯端末をポケットから取り出し、電話に応答する。

 ……こちらの予想通り、まず聞こえてきたのは七宮さんの声であった。

「買い物にしては随分遅いね。何かトラブルでもあったのかい。」

 毎度、七宮さんの勘の良さには戦慄を覚える。

 実はどこかで監視しているのでないかと疑ってしまうほどだ。

「いえ、買い物ついでにちょっと甘味処めぐりをしているだけです。帰りも遅くなりますが、心配は無用ですので。」

「そうかい。」 

 そんな感じで七宮さんと通話していると、急にジンが耳を近づけてきた。

 ふざけた態度をとるジンの頭を鹿住は片手だけで何とか押し返す。しかしジンは通話の内容が気になるのか、こちらから離れても耳の裏に手を当てて聞き耳を立てていた。

「……ちょっと、盗み聞きしないでください。」

 鹿住はそう言ってから暗い通路を奥へと進み、ジンから距離を取る。

 もちろんその注意の声は七宮さんにも届いていた。

「ん? 誰か居るのかい?」

 携帯端末から聞こえてきたのは七宮さんの疑い深い声だった。

 バレてしまっては仕方ない。それに、よく考えてみると別に隠すような事もなかったので、素直にありのままの状況を説明することにした。

「……実はクーディンのランナーにナンパされまして。」

 簡潔に説明すると、途端に七宮さんの吹き出す声が聞こえてきた。

「ぶはっ……フフフ……。」

 確かに、私自身も信じられないような特異な状況に陥っていることは自覚している。だからと言って、そこまで面白い状況ではないと思うのだが……。

 鹿住はどう対応していいか分からず、黙って七宮が笑い終えるのを待っていた。

 ……やがて笑いが収まると、七宮さんは嬉しげに話し始める。

「いやあ、こんな偶然もあるものなんだね。特に忙しい用事もないみたいだし、今から鹿住君の好きな店にでも連れて行けばいいさ。」

「連れて行けって……もしかして、彼の相手をしろってことですか?」

 まさか七宮さんにナンパに応じろと指示されるとは思っていなかった。普通に考えればトラブルを避けるために無視しろと命令されそうなものだが……。

 先ほども『偶然』という言葉を使っていたし、やはりクーディンのランナーに何か思うところでもあるのだろう。

(一体何を……?)

 それを詳しく訊こうとした時、七宮さんはそこで通話を終わらせようとしてきた。

「悪いね鹿住君、詳しくは後で話すよ……。じゃあ、邪魔にならないうちに切るからね。」

「ちょっと七宮さん!!」

 鹿住が引き止めるも、その声は既に向こう側に届いていないようで、

「それにしてもナンパかぁ……フフ。」

 七宮の独り言のようなセリフを最後に、すぐに通話は終了してしまった。

(……切られてしまいました。)

 鹿住はうなだれながら通話の終了した携帯端末をポケットにしまい、そして、離れた場所で待っているジンに視線を向けた。

 あまり気は進まないが、七宮さんに指示されたのだ。このまま彼を無視して帰るわけにはいくまい。

 通話が終わったことが知れると、ジンが早速話しかけてきた。

「最後に『七宮さん』って聞こえたけど、もしかしておねえさんダークガルムのチームスタッフかなにか? それなら俺よりもVFに詳しいのは納得だな。」

 やはり聞かれていたらしい。と言うより、私が大声で七宮さんの名を呼んだのだから聞こえて当然である。こういうことも危惧して七宮さんは早めに通話を終わらせたのだろう。

 それに、彼の相手をしろと言われたし、このくらいの情報なら喋っても問題ない。

「スタッフと言いますか、これでも一応エンジニアです。」

 役職まで言うと、ジンは意外そうな顔をこちらに向ける。

「へぇ……と言うことは、その白衣って作業着だったのか。」

「なんだと思ってたんですか。」

 ジンの言葉で、自分が白衣のまま外出していたのを思い出す。よく考えると、こんな格好でお菓子を買い漁っていたのだから、かなり目立っていたことだろう。

 ジンはこちらの白衣をジロジロと見ながら受け答える。

「いや、珍しいファッションだなーとか思ってたんだけど。結構似合ってるぜ、『カズミ』。」

 急に名前で呼ばれ、鹿住は先ほどの通話で七宮の声まで盗み聞きされたのかと考えたが、視線を自分の体に向けるとすぐにその理由が判明した。

「名前……IDカードを見てたんですか……。」

「悪いね、俺って目がいいから。」

 これは不覚だった。

 ダークガルムのスタッフと隔絶されて作業しているとは言え、一応はメンバーなので日頃から白衣に付けていたのだ……。今度からは気をつけよう。

「……カズミじゃなくて鹿住です。」

 鹿住は微妙なアクセントの違いを訂正し、続いて話題をジンが持っている弓に向ける。

「私が珍しい格好をしているのは認めます……が、そういう貴方も珍しいものを持ってますね。そういうのはケースか袋に入れて持ち歩くものだと思いますけれど。……それも流行りのファッションか何かですか?」

「確かに弓を持ち歩くのは目立つけどさぁ。何もそこまで言わなくたっていいだろ……。」

 鹿住に言い返され、ジンは弓の弦を指で弄っていた。

 更に鹿住は詳しい事情を訊いていく。

「それに、やたらとゴツイ声の男共に追われてましたね。どんなトラブルを起こしたんです?」

 それを話した途端、ジンは弓から手を放して通りの方に目を向ける。

「別に俺が何かをやらかしたわけじゃないさ。あれはちょっとした意見のすれ違いってやつで……。ああいう手合いは逃げるに限るわけ。」

「どんなすれ違い方をしたら銃持った相手に追われるような事態になるんですか……。面倒事はごめんですからね。」

「だから本当にごめんって。」

 ジンは態度を変えることなくまた謝ってきた。

 それにしても銃を持った相手に追われてもここまで平静でいられるとは、毎度毎度ランナーという人種の神経の図太さには呆れてしまう。

 このジンというランナーは、“この暗がりから通りに出た瞬間に撃たれるのでは……”などと想像できないのだろうか。

 それを承知の上でこんな呑気にナンパしているのだとしたら、逆に尊敬したいほどだ。

 そして尚もジンはこちらを誘い続けていた。

「……そうだ、綺麗なおねえさんを転ばせてしまったお詫びに、どこかで紅茶などをご馳走させてもらえませんか? ……なーんて。」

 綺麗なお姉さんなどとよく言ったものだ。

 気取っているつもりらしいが、本人の雰囲気がセリフの内容に追いついていなかった。鹿住はその事を指摘する。

「ナンパ、……慣れてるようで慣れてないみたいですね。」

「え? 今の誘い方の何が駄目だった?」

 それ以前に、よく敵対チームのスタッフを誘えるものだ。

 別に情報を聞き出すつもりはないようだし、単純にナンパをしているのだとすれば、これほど『脳天気』という言葉が似合う男もそうそういないだろう。

 そんな事を思いながら、鹿住はすぐに受け答える。

「誘ってる相手にそれを聞いてどうするんですか……。」

「いいじゃん。今後の参考にするからさ。」

 ここまでの会話で、どうして彼が追われていたのかが少しだけ分かったような気がする。

(七宮さんには相手をしろと言われていますし……仕方ありませんね。)

 鹿住は色々と諦め、ジンの誘いに乗ってやることにした。

「……いいでしょう。ちょうど甘味処を回っていたところです。女一人だと寂しいですし、話し相手も欲しいと思っていました。……しばらく付き合ってもらいましょうか。」

「そうこなくちゃ。」

 こちらからイエスの返事を聞けて嬉しいのか、ジンは満足気に笑っていた。

(……本当に憎たらしい笑顔ですね。)

 こんな男に七宮さんは何の用事があるのだろうか、疑問しか思い浮かんでこない鹿住であった。


  3


 鹿住がジンと衝突してから数分後。

 鹿住はぶつかった場所から数十メートルの距離にあるカフェの中でくつろいでいた。

 そのカフェは2階のテラスにも席があるというなかなか凝った趣向の店で、おまけに客の数も少ない。

 店内に聞こえているのはジン君の愚痴のような身の上話と、カフェの奥から聞こえてくるキッチンの音くらいだ。

 しかも、出されたケーキや紅茶は業務用のものではないらしく、ケーキは他のものと違って優しい甘さがあり、紅茶も――紅茶には詳しくないのでなんとも言えないが、とにかくケーキの甘さと程良くマッチしていた。

 どちらも値は張るが、それ以上の価値があるように思える。

 ここにいる客は、値段を気にせずおいしい物を求める、言わば選ばれた客と言ってもいいだろう。

(本当においしいですね……。徹底的に成分分析したい気分です……。)

 少し大通りから逸れるだけでこんな静かでいい店があるとは……。機会があればまたこの店に来ることにしよう。大通りにあるキツイ原色のデザインのカフェより絶対にこちらの方が落ち着いてお菓子を楽しむことができるはずだ。

 お菓子はもちろん、テーブルや椅子もなかなか味のあるアンティークな物を使っている。

 ほぼ歩きっぱなしだった上に背中まで強打した鹿住にとって、かなり楽な体勢で座れるそのゆったりとした椅子は有難いものだった。

 こんな大きな椅子、普通の喫茶店ではスペースの問題で置くことすらできないだろう。客が少ないからこそ出来る芸当なのかもしれない。

 テーブルも、古いながらも表面は綺麗に磨かれていた。木目調の色合いは、今私が食べているケーキの白を引き立てている。例え店側にそういう意図がなかったとしても、私がケーキをより美味しく感じているのだから、そういう効果があるのは間違いない。

 そのテーブルの上にあるケーキの最後の一口を口の中に入れると、ようやく鹿住はジンの愚痴話に応じた。

「……なるほど、勝率50%以下で契約非更新で解雇ですか。……なかなか厳しいチームですね。」

「だろ? カズミもそう思うだろ。」

「まあ、そうですね……。」

 店に入ってすぐにケーキを食べ始めたせいでもあるのだが、すっかり私は聞き役に回っていた。私は彼のチーム内の愚痴話にたまに相槌するだけで、実を言うとあまり真剣には聞いていない。

 だが、聞こえてきた言葉をそのまま訊き返すくらいの対応はできる。

 会話の流れを保つため、鹿住は適当に会話をつなげていく。

「それで、その鬱憤を晴らすためにシューティングレンジでアーチェリーですか。銃声が煩くて逆にストレスが溜まりそうな気がしますが。」

「慣れればそうでもないさ。それにちゃんと耳栓も付けるし、外と違って風も……」

 鹿住はその話を聞き流し、空になったケーキ皿をぼんやりと見つめる。

(美味しいケーキでした。手作りのケーキがここまでおいしいとは……。私も試しに作ってみましょうか。)

 ケーキを食べ終え、紅茶を飲みながら一息付いていると、それから間もなくして新たなお菓子がテーブルに運ばれてきた。

「お待たせしました。タワーパフェでございます。」

「ありがとうございます。」

 ウェイターによって運ばれてきたのはメニューの中で一番グラムあたりの値段が低かった“タワーパフェ”だ。その名の通り、海上都市の中央フロートユニットの中央タワーを模したガラス製の容器の底には、真っ白いバニラアイスが詰められている。中間層には農業エリアを模しているのか、数枚のウエハースの間にそれぞれ違う色のアイスが敷き詰められており、上部には数種類のフルーツが載せられていた。

 グラムは目算であるが、カロリーで計算するならこのパフェはダントツの一番だろう。

 ちなみに、一番グラムあたりの値段が高かったのは、一番初めに食べたチーズケーキだった。何でも、そのチーズはこの海上都市で作られたものらしい。牛は飼育していないと記憶していたのだが、おいしかったので別に良しとしよう。

「まだ食べるのか……。」

「何か問題でも?」

「ちょっと手持ちの金が……いや、何でもないです、はい。」

 どうやら彼の持ち合わせは少ないらしい。この程度の代金を払えないような懐の寒さで、よく『奢る』などと言えたものだ。

「……安心して下さい。元より奢ってもらうつもりはありませんから。」

 鹿住はジンにお金の心配をしなくていいことを伝えた。

 そして、既にケーキを5種類ほど胃の中に収めたにも関わらず、鹿住は更に50センチはあると思われるパフェを食べ始める。

 私は基本的には少食だが、甘いものだといくらでも入りそうな気がする。実際にたくさん入るのだから、女の胃袋が糖分に強いうという都市伝説もあながち間違いではないかもしれない。

 持ち手の長いスプーンを使って上層のフルーツを切り崩していると、またしてもジン君が話題を持ちかけてきた。

「それで、ダークガルムはどんな感じなんだ?」

 鹿住はフルーツを一口だけ食べてから聞き返す。

「……なんの話ですか。」

 こちらが何を答えればいいのか迷っていると、ジン君は繰り返し説明した。

「だからランナーの話。……七宮の待遇について聞かせて欲しい、ってことだよ。」

 どうやら、私がパフェを観察している間にそんな事を話していたらしい。

 なるべく食べることに集中したかった鹿住は、当たり障りない事実だけを淡々と述べていく。

「ジン君も知っているでしょうけど、七宮さんは現時点で最強のランナーです。むしろ勝敗関係なく、いくらお金を払ってでも専属ランナーでいて欲しいでしょうね。」

 言い終えるとすぐに鹿住はスプーンを容器の中に突っ込み、何層にも連なっているウエハースの壁を突き破る。そのウエハースの中にはチョコが仕込まれており、鹿住がスプーンで突き破った途端にそれが周囲の物と混ざり、アイスやクリームの白の中に黒の模様を描いていた。

 鹿住は無心でそれを口の中に運んでいく。

 ジン君はそんな私を見ながら、七宮産についてコメントをしていた。

「最強のランナーか……確かにあれは強かったなぁ。――と言うかカズミ、よくそんなに甘いもの食えるな。」

「んぐ。」

 鹿住は口の中の物を飲み込むと、すぐにジンの言葉に対応する。

「私の場合、補った糖分は全てきっちりと消費されますから問題ないです。……それよりさっきからカズミカズミって……早速呼び捨てですか?」

 こちらがスプーンの先で指しながら指摘すると、ジン君は言い返してきた。

「別にいいだろカズミ。それとも……呼び捨てにされると恥ずかしいのかな? ん?」

 それは私を小馬鹿にするような言い草であった。

 向こうがそういう態度を取るのなら私にも考えがあるし、今すぐにでも立場を分からせる事もできる。……が、そんな大人気ない事をするのもこの店に悪いと思い、鹿住はジンの挑発を受け流すことにした。

「まあいいでしょう。……どうせ苗字ですし。」

「え!? ……そうだったの。」

 得意顔だったジン君の表情がどんどん萎れていく。

 そんなにショックを受けるようなことだろうか。確かに名前っぽい苗字ではあるし、日本人でも漢字を見なければこれが苗字だと分からないだろう。名を呼ばれても別に違和感もないので気にしていなかったが、彼にとっては結構な問題らしい。

「……別に名前を知りたいほど興味ないし、苗字で十分だな。うん。」

 辛うじて聞こえてきたのは、そんな言葉だった。

 そんな感じで勢いを失ったジンに、鹿住はさらに追い打ちをかける。

「男の強がりほどみっともないものもありませんね。まぁ、私もジン君にはそれほど興味が無いので別にそれでも構いません。好きなだけ呼び捨てるといいです。」

「興味が無いって……、勘弁してくださいよカズミさん……。」

 そう言ってジン君は力なく俯く。

 しかし、その顔は光沢のある木目調のテーブルに映っていた。そしてそれは本気で参っている表情であった。

 そんな表情を肴ににパフェを食べていると、諦め切れない様子のジン君が再び話しかけてきた。流石、VFランナーだけあってメンタルの強さは半端ない。

「俺、これでも1STリーグのランナーなんだからさ。ちょっとは興味持たない?」

 さっきは“興味はない”と言ったが、全く興味がないわけでもない。中でも、彼が操っているVFには以前から興味があったし、出来る限りのことは調べてあった。

 雷公……確かそんな名前だったと記憶している。

 私のリアトリスには遥か及ばないが、なかなか個性的でいいVFだと思う。

 鹿住はそのことを口に出して言う。

「そうですね、クーディンのVFには興味があります。弓だけで1STリーグに残れているのは凄いことですから。」

「お、雷公の良さが分かるのか? うれしいなぁ……。」

 私が少し良い事を言うと、ジン君は態度を急変させて恥ずかしげにニコニコしていた。

 その勘違いを訂正するように鹿住は注意を付け加える。

「私はVFを評価しただけで、別にジン君を褒めたわけじゃないんですけれど……。」

 しかし、彼はポジティブに思考しているようだ。めげることなく言葉を返してくる。

「いやいや、俺あっての雷公だぜ? 俺以上に上手く雷公を操れるランナーはいないと思うし、ちょっとは俺のこと褒めてくれてもいいじゃん。」

「……。」

 自画自賛しているランナーの彼はともかく、この設計を担当したエンジニアには敬意を表せる。VFに於いて最も重要なのは『強さ』であることは間違いないが、この雷公はそれ以外の価値を見出すことのできるVFだからだ。

 挑戦的な設計でありながらも試合で必要な性能を兼ね備えている。これはなかなか簡単に実現できることではない。

 鹿住はジンではなく、雷公を褒め続ける。

「なんにせよ、ああいう風に一つの機能に特化された機械というのは美しいですね。しかも実力が伴っているかと思うと感服させられます。……ただ、腕の機能が弓を引くことだけに偏っていますから、戦闘方法も特殊にならざるを得ないようですけど……。」

 自分で言ってみて気が付いたが、そう考えるとあのVFを上手く操れるのは確かに彼以外にいないだろう。

「……一応、ジン君もVFランナーとしては優秀な部類に入るのでしょうね。大したものです。」

 先ほどまでの意見を撤回して素直に褒めると、褒められたジン君は豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていた。

「あ、どうも……。」

 そんな呆気に取られた表情を見つめつつ、鹿住は言う。

「どうしたんです? 褒めてあげましたよ。」

 こちらの言葉を受けて、ジン君は神妙な面持ちで呟く。

「いや、まじめに褒められると意外とリアクションできないものなんだな、って思ってさ……。」

「何を新しい発見してるんですか……。」

 ――あれだけ神がかり的にVFを操作できるのだから、VFランナーという人達も超人か何かと思われがちだが、普通の人となんらかわりはない。

 結城君だって少し気の強い女の子だし、七宮さんだって意地悪をするのが大好きな、ただの大人気ない青年である。落ち込むことだってあるし病気にもなるのだ。

 彼と会話をしてみてそういうことがよく分かった気がする。

 ……だからと言って、彼に好意を持っているというわけではなかった。

 鹿住は自分のパフェを黙々と食べながら、ジンの前にあるシャーベットアイスのことを指摘する。

「ジン君もはやく食べたらどうです。かなり溶けてますよ。」

「そうだったそうだった。」

 ジン君は思い出したようにスプーンを握り、ようやくそれを食べ始める。

 それから2人は特に話すこともなく、食べることだけに集中していた。



 ――店に入ってから約1時間後。

 あらかたのメニューを食べ終えた鹿住は、背中を背もたれに預けて足を組んでいた。

 どのお菓子も美味しくて、値段以上の満足感を私に与えてくれた。更に、食後にサービスしてくれたレモンティーも申し分のない爽やかさだ。

 まるで胃の中がリセットされるような、すっきりとした風味を感じさせられる。

(いけませんね……また甘いモノが欲しくなって来ました……。)

 流石にこれ以上食べると健康にも体重にもよくない影響が出る。何か他のことに注意を反らせたほうがいいかもしれない。

 そう思っていた鹿住の目に、丁度ジンの弓が映り込んだ。

 ……ちなみにジン君は私とは違って甘いものは苦手なのか、アイスを2つ頼んだだけでそれ以降は何も食べておらず、今も一杯の紅茶をちびちびと飲んでいる。

 鹿住はジンが紅茶を口から離すと同時に、肩に掛けている弓に関して話題を振ってみた。

「ところでその弓、邪魔にならないんですか? ……椅子も空いていますし、置かせてもらったらどうなんです。」

 ジン君は私に指摘されると肩から弓を外し、それを手に持ってみせた。

「いっつもこうやって弦を引っ掛けて背負ってたからな。全然邪魔にはならないわけ。」

「そうでしたか……。」

 いつも、と言うことはVFランナーをやるまでは弓の選手だったのだろうか。しかし、彼の場合は弓自体を楽しんでいるようにも思える。

 ジン君の持つ弓を何気なく見ていると、ジン君は急に弓のパーツを動かし始めた。

「一応、こうやって……コンパクトにもできるんだけどな。」

「おお……。」

 弓は簡単に折りたたまれ、携帯に問題ないレベルにまで小さくなる。

 不要な時は肩に掛けられるし、コンパクトにすれば場所も取らない。……確かに、これほど携帯性に優れていれば不便ではないだろう。

 そして、鹿住はその機構に興味を示した。

「ちょっと触ってみてもいいですか。」

 こちらがテーブル越しに手を前に差し出すと、ジン君は数秒足らずで再び弓を元の形に展開させ、それをこちらの手の上に置いてくれた。

「……ほらよ。」

「どうも。」

 受け取ってみてまず驚いたのはその弓の軽さであった。まるで、その弓自体が浮力を有しているのかと思われるほどの軽量さだ。

「かなり軽いですね……。これなら邪魔にならないのも頷けます。」

 鹿住が手の上に載せたまま細部まで観察していると、ジンがそのわけを話し始めた。

「今は軽量の金属フレームを使ってるからな。ここまで軽いともう俺の体の一部みたいなもんだ。しかも、このテストモデルだと色々と調整ができるから便利なわけ。」

 ジン君は言い終えると、こちらを覗き込むように身を乗り出してくる。

「……そんなに俺の弓が気になる?」

 私がこの弓を真剣に見ているのがおかしいのか、ジン君は不思議そうに訊いてきた。

 ……向かいに座っている男がこんな弓を持っていて気にならないわけがない。それに、その他にも理由はあった。

 鹿住はそれをジンに伝える。

「生まれてこの方、弓というものに触れる機会に恵まれなかったものですから、……少し興味があったんです。」

「なーんだ、単なる好奇心ってわけか。」

 理由が解って満足したのか、ジン君は身を引いて椅子に座り直した。

 しかし、鹿住の好奇心は止まらない。色々と触っているうちに自分でも弓の弦を引いてみたくなってしまった。

 鹿住は弓を勝手にいじってもいいものかと思い、一応ジンに確認をしてみることにした。

「あの、もう少し触っていてもいいですか?」

 鹿住はシャフトの部分を握って、弦を引くような動作を見せて言う。すると、ジンは何かを思いついたような顔をして、条件を提示してきた。

「いいけど……その代わり、弓のレンタル代としてここの代金を……」

「ええ、そのくらいなら構いませんよ。私が全額持ちましょう。」

 VFランナー所有の弓をベタベタと触れる機会なんてそうそうない。それに、向こうが食べたのはシャーベットアイス2つと紅茶だけだ。

 多分、彼は冗談のつもりで言ったのだろうが、先にこちらが有無をいわさず了承したので、無駄な会話も減らせたことだろう。

 ジンは私との会話が呆気なく終わってしまい、少し残念そうにしていた。

「冗談だって。……なあ、もうちょっと駆け引きというか、会話を楽しもうよ?」

 そんな事を言うジンを無視して鹿住は椅子に座ったまま左手で弓を構え、右手で弦を掴む。

 そして、徐々に力を入れて弦を引いてみた……が、どんなに頑張っても水平距離にして15センチくらいしか引けず、鹿住は10秒と経たずに弦から手を離した。

「これ、硬いですね……。」

 私が率直な感想を述べると、ジン君は首をかしげていた。

「あれ? かなり軽く調整した筈なんだけど……。」

 弓に慣れている者の言う『軽い』という言葉は全く信用出来ない。しかし、ジンの物言いから推測するに、一応は素人でも用意に引くことのできるレベルの張り具合なのだろう。

 鹿住は今一度ジンに確認する。

「これ、思いっきり引いても壊れませんよね?」

「おいおい……これでも一応武器なんだし、そう簡単には壊れるはずないだろ?」

「ですよね。」

 ジンのお墨付きをもらった所で鹿住は背筋をピンと伸ばし、再び腕に力を込める。

「ん……」

 しかし、弦は殆ど動くことなく、先ほどと同じ事を繰り返しただけだった。

 その時“もしかしてジンが私を誂うために弦を強く張っているのではないか”という疑念が浮かび、鹿住はジンに手本を求める。

「ちょっと引いて見せて下さい。参考にしますから。」

 こちらが求めると、ジン君は何も言わず椅子から立ち上がり、それに応じてくれた。

 まず弓を受け取るとジン君はそれを虚空に向けてまっすぐに構える。……もう既にこの時点で様になっているのだから驚きだ。

 しかし、学生の時に見かけた弓道部の動きとは似て非なる所作であった。弓の大きさも関係しているのだろう。

 続いてジン君は矢をつがえる動作をし、その架空の矢ごと弦を素早く引く。私の時とは違い弦はスムーズに引かれ、同時に弓の両端も緩やかにしなる。

 その体勢が3秒キープされた後、弦はジン君の指から放れて「ひゅっ」という音を店内に響かせた。それは空気を切り裂く音でありながら、何かの余韻すら感じさせる、心地の良い音でもあった。

 その音のせいか、周囲の客の何人かがジン君に目を向けていた。もともと客が少ないので気に留める程ではないが、ジン君は少し恥ずかしげにしていた。

「……こんな感じだ。」

「なるほど、だいたい理解しました。……ちょっと立ちます。」

 先ほどは座っていたから上手く力が入らなかったのだ、と鹿住は結論付け、再び弓を受け取るとその場で立つことにした。

 鹿住はジンの動きを真似るようにして架空の矢を弦につがえ、それごと地面に対して水平方向に引く。すると、なんとか自分の顎の位置くらいにまで弦を引くことに成功した。

 腕がプルプル震えているが、引けたという事実には変わりない。

「あっ……。」

 やがて張力に抗えなくなった鹿住は、弦から手を放す前に腕から力が抜いてしまい、ジンのような弦音を出すことはできなかった。

 しかし、それでも鹿住にとっては満足のいく結果であった。

「そんなに気に入ったのか? 何なら今度暇な時にレクチャーでもしようか?」

 ジンのそんな誘いを無視して、鹿住は自分の胸筋が熱を持っているのを感じつつ、手の中にある弓への認識を新たにする。

「興味深いですね……。」

「え、つまりそれはオッケーってことでいいの? じゃあ次の休みにでも……」

 興味深い……。昔の人はよくこんな武器を思いついたものだ。

 タイムマシンなるものが発明されたとしたら、是非ともその発明なり発見の瞬間に立ち会ってみたいとさえ思えてくる。

 それに、弓の使い手に関しても同じように思っていた。

「こんな大雑把な作りなのに射てばちゃんと的に命中する……。ランナーに限らず、熟練者の技術というものは凄いものです。」

 鹿住は弓を眺めつつそんな事を考えていた。

 これを聞いてようやくジンは、自らの話が鹿住の耳に全く届いてないことを悟ったらしく、呆れたように首を左右に振っていた。

「駄目だ、聞いちゃいない……。」

 ジン君の誘いにこれ以上応える義務も理由もないので、別に聞いていなくても良かっただろう。彼もそれが解ってか、それ以上は何も言うことなかった。

「これ、お返しします。」

 弓に満足した鹿住はそれを持ち主に返すと、椅子に座って一息つく。

 ジン君も、受け取った弓を肩にかけると紅茶を口に運んでいた。

(さて……これを飲み終えたら店から出ましょうか。)

 そう言えば、いつまで彼と一緒に居なければならないのだろうか。七宮さんは後で連絡すると言っていたが、あの電話の後から連絡どころかメッセージすら届いていない。

 終日連れ回すとなると、彼の弓のレクチャーを受けるのも悪い話ではないのかもしれない。

 そんな感じで今後の予定を考えていると、不意に視界に赤いものが映った。

(……ん?)

 鹿住はそれを見逃さぬよう、顔を上げて赤いものに注意を向ける。

 それは店の外に存在しており、よく見ると道を往く人の服の色であった。

 その赤い服を着ているのは若い女性であり、その姿は……

(結城君!?)

 栗色の髪に、スレンダーな体……おまけにメガネまで掛けているし、あれは間違いなく結城君だ。

 しかし、結城君はいつものダグラスの青い制服ではなく、赤の洋服を着ている。その色のお陰で気が付くことができたのだが、何故そんな服を着ているのだろうか……。

 私が店の外に視線を向けていると気付いてか、ジン君も窓側に振り向いた。

「何、知り合いでもいたの?」

「はい、あそこに……」

 真面目に受け答えようとしたが、そう喋っている間にも結城君は店の前を通りすぎていく。

 珍しい洋服を着ているだけでも気になるのに、結城君は一人ぼっちで元気なさそうにトボトボと歩いている。ここまでくるとかなり気になるどころか、とても心配になってくる。

 鹿住は居ても立ってもいられなくなり、すぐに結城を呼び止めることにした。

「すぐ戻ります。ここで待っていてください。」

「え、何、ちょっとカズミさん?」

 ジンの情けない声を聞きつつ、鹿住は急いで店から出る。

 そして鹿住は結城の通り過ぎていった方向に目を向けた。

 すると、赤い服を見にまとった結城君の後ろ姿を確認することができた。

 ストレートヘアーにセットされている栗色の長い髪は若干乱れているものの、何か特殊なスプレーでもかけているのか、いつもに増してキラキラと輝いて見え、何とも艶やかであった。

 そんな髪に隠れて深紅のシャツが見え隠れしており、更に視線を下に向けるとチェック模様の短いスカートがあった。

 こんな大胆な物を履いて街を歩くなんて、余程の事情があるに違いない。

 もしかして今になってグレたのではないか……などと有り得ない予想をしつつ、鹿住は前を歩く結城に声を掛けた。

「結城君。」

 こちらの呼びかけに反応し、結城君はすぐに振り返る。

 結城君はこちらと目が合うと、一瞬だけ目を見開いて笑みをこぼした。しかし、その表情もすぐに消え去り、結城君はその場から動かずにおずおずと挨拶を返してきた。

「久しぶり、鹿住さん……。」

 そのぎこちない声を聞きつつ、鹿住は結城に近づいていく。

 歩いている間、頭の中には色々と話したいことが浮かんできていた。しかし、今はそんな事よりも事情を聞くのが先だ。

 やがて鹿住は結城と向き合うと、単刀直入に質問をする。

「結城君どうしてこんな所に……。昼間とは言え、女一人でエリアをうろつくなんて危ないですよ。……諒一君はどうしたんですか。」

 そう言って保護者兼幼なじみの諒一君の姿を探していると、結城君は重いため息をついた。

「諒一か……はぁ……。」

 もうこの反応だけで8割方の理由が解ってしまった。

「もしかして、諒一君と何かあったんですか?」

「……。」

 諒一君の名前を出して訊いてみると、結城君はコクリと頷いた。

 暴力事件や金絡みの事件などの深刻なものではなく、それが諒一君絡みの事情だったことに鹿住は安堵し、ほっと胸を撫で下ろす。

 ただ、結城君の場合はその深刻さが逆転してしまう場合もあるので、一応はフォローしておいたほうがいいだろう。

(このままの結城君を放っておくと、何か別の厄介ごとに巻き込まれてしまいそうですからね……。)

 そう結論づけ、鹿住は結城を一旦店の中で保護することにした。

「とにかく店の中に入りましょう。こんな姿、ファンに見つかったら大騒ぎになってしまいますよ。」

 鹿住は結城の手を掴もうとしたが、結城は胸の前で浅く手を組んでそれを拒絶した。

「でも、鹿住さん……。」

 結城君は私と普通に会話をしていいものか、困惑しているようだ。

 しかし、鹿住は有無をいわさず結城の腕をつかむ。

「いいえ。見つけてしまった以上、このままの結城君を放ってはおけません。気持ちが落ち着くまで私と一緒にお菓子でも食べましょう。この店のお菓子はとても美味しいんですよ。」

 そう言うと、結城君は私の目を見て首を縦に振ってくれた。

「……わかった。」

 ようやく踏ん切りがついたらしい。

 同意を得ることができた鹿住は、遠慮することなく結城を店の中に引っ張っていった。



「――改めて、お久しぶりです結城君。」

「うん……。」

 店の中に連れ込んだはいいものの、結城君はこちらと目を合わさずに気まずそうにしていた。諒一君のことで悩んでいるせいか、どこか物憂げだ。まさに恋する乙女といった感じである。

 せっかく頼んだチーズケーキにも全く手を付けていなかった。

 まだ私と話すことに抵抗があるのだろうか、そう考えた鹿住は結城の疑念を取り払うべく、今感じている正直な気持ちを言ってみることにした。 

「……また会えて嬉しいです、結城君。」

 率直に伝えると、ここまであまり反応のなかった結城君から返事が返ってきた。

「私も、こんな所で会えるなんて思ってなかった……。」

 表情もいくらか和らいだ気がする。

 そんな短い言葉をきっかけに、ようやく結城君は目の前にあるチーズケーキにフォークを突き刺した。

 これで少しは場の空気も和らぐというものだ。

「あの、そちらの女性はカズミさんの知り合いの方ですか?」

 不意に聞こえてきたのはジン君の声だった。なぜ敬語で話しているのだろうか……。心なしか表情にもキレがない。

 そんなジンに、面倒くさいと思いつつも鹿住は説明する。

「そうですね。親友かどうかと聞かれると微妙な所ではありますが、……結城君が私にとって大事な存在であることは間違い無いです。」

 そう言って、結城君の反応が気になって横目でちらりと見るも、結城君はチーズケーキに夢中になっており、話を聞いていないようだった。

 しかし、こちらの視線には気がついたようで、結城君はケーキをモグモグと食べながら不思議そうな目をこちらに視線を返してきた。

 それを見て、鹿住はまた新たな事実を発見する。

「……服も大胆ですが、よく見ると顔も綺麗に化粧してますね。これは誰かにメイクしてもらったんですか?」

 こちらの質問に対し、結城君は苦笑いしながら受け答える。

「これには色々と深い事情があって……」

「話してもらっても構いませんか? かなり興味があります。」

 間違いなくこれは諒一君とのトラブルに関係しているだろう。是非とも知っておきたい情報だ。

 半ば強引に話を聞き出そうとすると、結城君は渋々了承してくれた。

「うん、それは構わないけど……」

 そう言ったものの、結城君は視線をこちらから離してジン君の方をチラチラと見ていた。

 ……どうやら部外者には聞かれたくない話のようだ。

 今から彼を紹介するのも面倒だし、彼がランナーだと知れると話題がそれてしまう可能性もあったため、ここは無難に離席してもらうことにした。

「ジン君、邪魔なので席を外してくれませんか。」

「邪魔って、そんな……。」

 ジン君は私に退席を強制されて納得いかないような態度を見せる。

 急にこんな事を言われれば、そう反応するのも無理はない。

 しかし、そんなことに構うことなく鹿住は話を進めていく。

「そうですね……。テラス席でケーキでも食べていてください。数十分で話は終わりますから。」

 まるで決定事項であるかのような口調で言ったのだが、ジン君はそれを受け入れることを頑なに拒否し続ける。

「何で俺だけ仲間はずれなわけ? 俺も彼女の話聞きたいんだけど……。」

 別に彼がいても、結城君と私が日本語で会話をすれば内容を聞かれることはない。だが、さっきのセリフといい、会話の内容がわからずとも邪魔になるのは火を見るよりも明らかであった。

 彼をどう処理しようか考えあぐねていると、結城君が逆転の発想で解決策を提示してくれた。

「ごめん。……私達がテラスに行けば済むことだよな。ちょっと暑いかもしれないけれど仕方ないか。」

 結城君が残念そうに言った途端、ジン君の態度が急変する。

「あ、やっぱり俺がテラスに行く。そうそう、ちょうど日光浴したい気分だったんだよ。そう、日光浴。」

 そんな事を言いつつジン君は席を立ち、そのまま2階のテラスへ行ってしまった。

「鹿住さん、あれで良かったのか?」

「彼がテラスに行きたいと言ったんです。問題ないでしょう。」

 厄介払いができた所で、早速鹿住は結城から事情を聞くことにした。 



 ――事情を聞き始めてから20分後。

 結城から話を聞き終えた鹿住は、諒一とのトラブルのことよりも、CM撮影があったことを知らなかった自分を不甲斐なく思っていた。

 しかしその事を悔やむのは後にして、まずは諒一君とのトラブルを解決するのを優先することにした。

「なるほど、CM撮影でそんなことが……。」

「そう、それでそのままスタジオから出て……どうしようか考えながら歩いてたら鹿住さんに会って……。」

「そして今に至るわけですね。」

 結城君は無言のまま小さく頷く。

 私が結城君を発見していなければどうなっていたことか……。

 大体のことを話し終えた所で、結城君は思い出したように私に質問してきた。

「ところで鹿住さん、私とこんな場所でのんびり話してていいのか? 七宮に私とは会話禁止とか命令されてたりしないのか?」

「いえ大丈夫です。心配は無用です。」

 結城の心遣いを有りがたく思いつつ、鹿住は続ける。

「それに、私たちは偶然会っただけです。私が結城君を探していたわけでも、結城君が私を探していたわけでもありません。全く問題ないです。」

「そう……かなぁ……。」

 結城君はなんとなく納得のいかない表情を浮かべていた。

 そんな表情を見つつ、鹿住は逸れてしまった話を軌道修正する。

「話を戻しますけれど、とにかく恥ずかしいセリフを諒一君に聞かれてしまい、耐えられなくなってスタジオから逃げてしまったということですね。」

「……うん。」

 まあ、話を聞いた限りだと、そんな状況に陥って上手く事情を説明できる人もそうそういないだろう。結城君が逃げてしまったのも無理はない。

 こうなると、もはや最終手段を使うしか道はなく、鹿住は早速その手段を結城に伝えることにした。

「でしたら話は簡単です。……すべて無かったことにすればいいんです。」

「へ?」

 結城君はこちらの案を聞いてきょとんとしていた。

 そんな結城に対し、鹿住はより詳しく説明していく。

「いいですか? 何を聞かれてもとぼければいいんです。無視しても構いません。とにかく、その事実を否定し続ければ無かったことになります。……変に訂正しようとするから駄目なんです。結城君はいつも通りに対応すればいいわけです。」

「そんなのでいいのか。」

「いいんです。」

 他にも色々と方法はあるのだろうが、その出来事をなかった事にしてしまえば手っ取り早い。少々乱暴なやり方だが、その効果は絶大だろう。

 さらに鹿住は付け加えるように言う。

「相手が執拗にそのことを問い詰めてくるとどうしようもありませんが、あの諒一君がそんな事をするわけがありませんし、大丈夫でしょう。」

「それもそうか……」

 ここまで説明すると結城君も納得したのか、今まで口を付けなかった紅茶に手を伸ばし、それをグビグビと飲み始めた。

 ……心なしか表情にもいつもの明るさが戻っているような気がする。

 結城君は紅茶を飲み干すとカップをお皿の上に置き、その花柄の入ったカップを指でなぞりながら話しかけてきた。

「なんか意外だ。……鹿住さんってこういうのに慣れてるんだな。」

 そう言うと結城君はカップから目を離し、テラスへ続く階段へ視線を向ける。

「今だって男の人……連れてたし……。」

 男――多分ジンのことだろう。鹿住は一瞬それが誰であるか考えてしまったほど、ジンのことが頭から離れかけていた。

「あれはただの……いえ、説明すると面倒な事になりそうなので遠慮しておきます。」

 危うく彼がクーディンのランナーであると話してしまう所だった。

「ただの……何なんだ?」

 結城君はなぜか興味津々に問い詰めてくる。ただの男ならまだしも、カフェの中で弓を肩に掛けている珍しい男だ。気になるのも当然かもしれない。

 しかし、先ほどの彼に対する扱いを見れば私と彼がそういう関係にないことは明らである。わざわざそれを聞いてくるとは……結城君も言うようになったものだ。

「彼はただの……」

 取り敢えずそう言って語尾を伸ばしていると、不意に店内に鐘の音が響いた。

 それは古めかしい控えめな音であり、連続して鳴り響いていた。鹿住はすぐにそれが時計の音であると悟り、時間を確認するために音のしている方に顔を向ける。

 知らぬ間に結構話し込んでいたらしい。時計はちょうど午後三時を示していた。

 その鐘の音のせいで気が削がれたのか、結城君は話を中断して急に椅子から立ち上がった。

「みんな心配してるだろうし……スタジオに戻る。」

 良い判断だ。もう少し会話していたい気持ちもあるが、今の私に結城君を引き止める権利はないし、結城君にとってもそうするのが一番だ。

「そうするといいでしょう。」

 快くそう答えると結城君はこちらに笑顔で応じ、そのまま店の出口へと向かう。

 鹿住はその背中に最後の言葉を送る。

「また会いましょう。……結城君。」

 この言葉が届いたのか、結城君は歩みを止めてこちらに振り向く。

「鹿住さんも元気そうでよかった。……またね。」

 結城君は小さく手を振り、すぐに店の外へ出ていってしまった。

 私と一緒に入店した時とは違い、その足取りはとても軽そうだった。

(たまには外出するのも悪くありませんね……。)

 偶然の出会いに満足しつつ見送っていると、店の外で急に結城君が足を止めた。

 何があったのだろうかと思い店の中から結城君の進行方向を見てみると、そこには諒一君の姿があった。やはり結城君を探していたようだ。諒一君もその場で止まって結城君をじっと見ていた。

 これで一件落着かとおもいきや、結城君はさっきの私のアドバイスを無視して諒一君を避けるように逆方向へ走り始めた。

 しかし、そのダッシュもすぐに終わってしまう。

 なぜならその先にツルカ君が待ち構えていたからだ。

(見事な挟み撃ちですね。)

 結局、結城君はツルカ君によって捕獲され、最終的に諒一君、ツルカ君の2人に挟まれて連行されていった。本人達は真面目にやっていたのだろうが、見ていた鹿住はそれを微笑ましく思っていた。

「さてと……」

 3人による寸劇を見届けると、鹿住はジンを呼ぶために2階に移動することにした。

 足を乗せる度にいい音を出して軋む階段を登りテラス席に移動すると、空の青が鹿住の視界に飛び込んできた。年から年中雲ひとつ無い綺麗な空だ。

(海は……流石にここからだと見えませんね。)

 テラスは海の方向へ解放されているものの、建物群のせいで海は見ることができない。

 しかし、そこからは屋内からは見えないような綺麗な青空が広がっているので景観的には全く問題ない。空だけでも景色としては十分な価値があるのだ。

 この場所で食べると、お菓子もまた違った味に思えることだろう。

 そんな空から視線を下げてテラス席を見ると、一番奥の席……通りに一番近い席にジンの姿を発見した。

 ジンはテーブルの上にあるケーキに全く手をつけておらず、空を眺めてぼんやりしていた。

「どうしたんですジン君。ぼーっとして。」

 声を掛けながら同じテーブルに座ると、ジンは我に返ったのか、急に質問してきた。

「……さっきの女性は誰なんだ?」

 ジンがぼんやりとしていたのは結城君のせいだったようだ。見覚えはあるものの、はっきりと思い出せない……という感じで悩んでいたに違いない。

 彼にとって結城君は次の対戦相手であるのに、それを思い出せないとは何とも情けないことだ。

「とうとう思い出せなかったのですね……。あれは高野結城、貴方の次の対戦相手ですよ。」

 結城君がアール・ブランのVFランナーであると伝えると、ジン君は驚きを隠せない様子で狼狽えていた。

「あれがユウキ? 嘘だろ……。」

「まぁ、あれだけ気合が入った格好だと逆に結城君だと判断できないかもしれませんね。」

 鹿住は一応慰めの言葉をかけつつ、全く減っていないケーキを自分の目の前までスライドさせる。そして、ジンの許可を得ること無く、そのケーキを口に運び始めた。

 ジン君は私がケーキを奪っていることにも気付かないで頭を抱えていた。

「あんな可憐な女性と戦わなければならないなんて……」

 鹿住はこのセリフを聞いて、ジンがぼんやりしていたのは『結城君の名前を思い出せなかった』からではなく、『結城君の可愛さに心を射抜かれてしまった』からだということに気が付いた。

「……惚れっぽいんですね。ジン君は。」

 別に嫉妬を感じているわけではないが、ナンパをした相手を前に別の女性にうつつを抜かすというのは、どう考えても常識に反している。

 鹿住はそんなジンに呆れつつも、ジンの憂いが無用であるということを本人に伝える。

「安心して試合をしてください。結城君は貴方よりも断然強いですから。」

「なんだと……?」

 ジン君は表情を一変させ、挑戦的な目をこちらに向けた。

 鹿住はその目線を軽く受け流し、ケーキを咀嚼しながら更に言う。

「試合に勝てるかどうか、ランナーを解雇されないかどうか……ただそれだけのことで一喜一憂しているジン君とはランナーの質が違います。技量の差は歴然ですし、VFの性能もアカネスミレのほうが圧倒的に上。ジン君が本気を出しても勝てない相手ですよ。」

 事実を淡々と述べると、ジン君は真剣な、険しい表情をこちらに向けてきた。やはり、腐っても1STリーグのランナーである。貶められて黙っていられるほど安いプライドは持ち合わせていないらしい。

「言ってくれるじゃないか。確かに俺は他と比べると弱い部類に入るかもしれない……が、ルーキーの女に負けるほど落ちぶれてるつもりはないぜ。」

 そう言った所でケーキが奪われたことに気が付いたのか、ジン君は私の手から食べかけのケーキを取り上げた。

 鹿住は咄嗟にそのケーキ皿を手で掴み、言葉を続ける。

「結城君に勝つつもりなんですか? 笑わせないで下さい。だいたい、『女』とか『ルーキー』とかそんなちっちゃな枠で結城君を判断している時点で駄目なんです。……あと、そのケーキ返してください。」

 鹿住はジンに負けじとケーキの皿を手前に引いたが、ジンはケーキ本体を手で掴むとそれを一口で食べてしまった。

 短い攻防の末、鹿住の手に残ったのは空になったケーキ皿とフォークだけであった。

 鹿住がそれらから手を放すと同時に、ジンが急にあることを提案してきた。

「そうか、ユウキの方が俺より強いって言うんだな? ……だったら、もし俺がユウキに負けたらカズミの言うこと何でも聞いてやるよ。」

 急にそんな事を言われても困る。

 しかし、万が一にも結城君が試合に負けことはないにしても、ここまで結城君のことを推してしまった以上、申し出を断るわけにもいかない。

「別にいいですよ。ジン君がそう言うなら受けて立ちます。」

 なぜダークガルム所属の私がこんな約束をしなくてはならないのだろうと思いつつも、鹿住はそれを了承した。

 すると早速ジン君は自分の条件を提示してくる。

「よし。……その代わり俺が勝ったら、その……」

 なぜかジン君の言葉はだんだん勢いを失っていき、小声になっていく。

 そして、間を置いて恥ずかしげな声が聞こえてきた。

「ユウキさんを俺に紹介してくれ……ませんか?」

「……。」

 心を射抜かれるどころか、結城君に一目惚れしてしまったらしい。

 結城君は大人しくしているだけで可愛さがアップするので、しょんぼりしている結城君を見て心ときめかせてしまったのだろう。

 こちらが黙って悩ましい表情をしていると、それを不可のサインだと勘違いしたのか、ジン君は条件のレベルを引き下げた。

「いや、連絡先を教えてくれるだけでいい。これならいいだろ?」

「まぁ、そのくらいなら構いませんけれど……」

「よし!! 忘れるなよ!!」

 鹿住は、そんなジンの必死さにすっかり毒気を抜かれてしまう。

 ジン君は連絡先を教えてもらえるだけでも嬉しいのか、約束を取り付けて満足気にしていた。

 ……そんな姿を見て、鹿住はだんだんジンのことが可哀想になってきた。

(意外と初心なんですね……。)

 こんな男まで心惹かれるほど、結城君には人を惹きつける何かがあるのかもしれない。

 かく言う私もその一人だし、七宮さんもそうに違いない。

 そして、七宮さんが結城君を計画の要に選んだ理由も少しだけではあるが分かったような気がしていた。


  4


 ダグラス本社ビルの最上階。

 このフロアにあるのは社長室のみだ。

 その社長室の中、ダグラスの社長である『ガレス・ダグラス』はガラス張りの壁付近から外を眺めていた。

 ここからの見晴らしはいい。

 やはり、グループのトップたるもの、その居場所も常にトップでなければならない。頂きにいるからこそ、周囲の様子を満遍なく見渡せるというものだ。

 そのガラスには外の景色だけではなく、儂の姿も映っていた。

 自分で言うのも何だが、若い頃には現場で作業していたこともあり、未だに体力は衰えず、その体格も維持されたままだ。この大きな体は儂の威厳を保つのにも一役買っている。

 もし儂がひょろひょろのジジイならば、少なからず舐められていたに違いない。

 やはり、健全な精神は健全な肉体に宿るとも言うし、儂がこれだけ剛気でいられるのも、この衰えを知らぬたくましい肉体のおかげだ。

 こんな体に産んでくれたことだけが、唯一儂が親に感謝できることだ。

 ……現在、儂はガラスに映る自分を眺めつつ受話器を耳に押し当ており、電話の向こうにいる相手の応答を待っている。

「……まだか。」

 待ち始めてから既に1分が経とうとしている。

 普通なら10秒と待たずに受話器を放り投げるのだが、今回の相手は忙しいということ分かっていたので、仕方なく待っているというわけだ。

 そんな事を思っていると、すぐに回線がつながり、「お待たせしました。」という声が聞こえてきた。

 ガレスはその言葉に応じること無く、早速状況を聞き出す。

「工場に異常は無いな?」

 こちらの言葉に、向こうは自信満々に答える。

「はい、ライン速度100%でも異常は見当たらないと報告を受けています。」

「いい答えだ。」

 ……通話の相手は生産関連部門を統括している役員だ。

 今回の工場のトラブルでは一番大変な思いをしたに違いない。今でも事後処理に追われているようだ。あんな大規模なトラブルを世間に知られぬように処理するのは骨が折れたことだろう。

 そのトラブルの原因が七宮であると儂が知っているからいいものの、それを知らなければ儂はその事故をただのトラブルとみなし、最終的にはこいつの役職は2ランクくらいダウンしていたはずだ。

 それにしてもこの役員はいい働きをしてくれた。

 後でそれなりの褒美をやろう。

「急にラインが停止して、どうなることかと思いましたが、迅速な対応が功を奏したようです。これも社長の素晴らしい御指示のおかげです。」

 報告が済むやいなや、役員は儂に媚を売り始める。媚を売られるのはあまり好きではないが、それだけ儂に忠誠心があると考えられる。

 だが今は、そんな媚にいちいち応えていられる余裕はなかった。

「そんな世辞はいらん。……ラインのスピードを10%上げるように指示しろ。事故のせいで落としていた生産速度分の遅れを取り戻せ。いいな?」

 増産を指示すると、役員はすぐにお世辞をやめて対応する。

「了解しました。工場の監督者にはそう伝えておきます。」

 その言葉の後、すぐに受話器越しに役員が誰かに指示を出す声が聞こえてきた。この役員なら生産の遅れもすぐに取り返すことが出来るだろう。

 増産を命令した後、ガレスはもう一つ気がかりだったことを質問する。

「それで、ネットワークの防衛システムはどうだ。そっちも異常はないか。」

 ガレスが危惧しているのは、再び工場のシステムに不正アクセスされないかどうかであった。VFの生産状況も気になるが、やはりあのような事態を2度と起こさぬようにするのが最も重要だ。

「問題ありません。事故以来一度もアタックを仕掛けられた形跡もない、とのことです。」

 遅れて聞こえてきた役員の口調に淀みはなかった。

 今までケチれるところは徹底的にケチってきたが、このシステムには、今後も十分な金を確保しておいた方がいいだろう。

「大丈夫ならいい。……報告ご苦労だったな。」

「はい。それでは業務に戻ります。」

 役員の返事を聞き、ガレスはすぐに通話を終了させた。これで、工場の件については一件落着だ。

 そう思うと重荷が一つ減らされたような気がして、ガレスは深いため息を吐いた。


 ――工場でのトラブルから3週間。

 ようやく事態も収まり、これまで様子見で落としていたライン速度も今日からは平常通りに運転することができる。

 事故に関しては、システムのトラブルだけで済んだと聞いている。組立中のVFに何かが起こっていたら再開にはもっと時間がかかっていたことだろう。

(後は詳しい原因の解明だけだな……。)

 結局、調査委員会はあれから全く連絡を寄越さず、ベイルの調査も全く成果を上げていない。どちらにせよ、あれだけ堂々と工場のシステムに介入してきたのだ。調べられて尻尾を掴まれるようなヘマはしていないと簡単に推測できる。

 何のために七宮はシステムにトラブルを発生させたのか、とても気になる所だが、今は工場が平常通りに運転を再開したのでいいとしよう。

 調査する時間はまだまだあるし、それにミリアストラの情報さえあれば、七宮が何かを仕掛けてくる前に対策も取れるというものだ。

 やはり、戦いにおいて情報は最大の武器であるということを思い知らされる事件だった。

「社長、失礼します。」

 役員との連絡を終えて一服していると、社長室にベイルが現れた。

 ベイルは儂の秘書だ。先ほど言った通り、事故の調査では全くそれらしい情報を掴んでいない。だが、今は少し慌てているようだ。何か重要な証拠でも見つけたのだろうか。

「なんだベイル、何か事故について分かったのか。」

 ベイルは首を左右に振り、社長室の出入り口付近をチラチラと見ながら答える。

「いえ、お客様がお見えになられたので、会われるかどうかの確認を……。」

「何だ、そこまで連れてきているのか。」

「はい、すみません……。」

 儂と面会するならば事前に連絡するというのが筋だ。急に来られて会うわけにはいかない。それがルールなのだ。

 大方、儂に取り次いでもらえるようにベイルに頼みこんだのだろう。

 ……こういうルールだけはきちんと守っていたベイルにしては珍しい。

 しかし、だからと言って儂の対応が変わることはない。

「きちんと事前に連絡しろと言っておけ。……誰だそいつは?」

 一応名前を聞くと、予想だにしない名前が返ってきた。

「それが……キルヒアイゼンのオルネラ様でして……」

「馬鹿者ッ!! キルヒアイゼンのご令嬢となれば会わないわけがないだろう!! さっさと通せ!!」

 先にそう言っていればゴタゴタせずに済んだのに、変な所で融通の利かない男である。

「は、はい、すみません。」

 儂の言葉を聞くと、すぐにベイルは社長室の扉を開け、中に客人を通した。

 ベイルに案内されて中に入ってきた客人……銀の髪が特徴の美しい女性は誰がどう見ても間違いなくオルネラだった。

「これはこれはオルネラさん。……こちらへどうぞ。」

 ガレスは部屋の奥から入り口付近にまで移動し、ベイルに代わって来客用のソファまでオルネラを案内していく。また、口調も仕事用の丁寧なものへ変化させていた。

「お久しぶりですね。こうやって合うのも5年、いや6年ぶりですかな? ますますお綺麗になられましたな。」

 その言葉に、オルネラはソファに座りながら言葉を返す。

「そんな、社長も相変わらずお元気そうで。先程も大きな声が廊下にまで響いていましたよ。」

 オルネラが座ったことを確認すると、ガレスも向かいのソファに腰を下ろした。

「これはお恥ずかしい……。それはそうと、すぐにお通しできずにすみません。できの悪い秘書でして。」

「そんな事はありませんよ。急にお話ししたいと無理を言ったのは私の方ですから。」

 ベイルを見ると、オルネラに擁護してもらえて嬉しいのか、ニヤニヤとしていた。

 オルネラは、ソファに座っても姿勢を崩さず、まるでデッサンのモデルのように微動だにしないで毅然とした姿勢を保っていた。

 そんな気品すら感じさせる佇まいを見ながら、ガレスは早速用件を聞く。

「それで、どういった御用で?」

 やや前屈みになりながら訊くと、オルネラはこほんと咳払いをした。

「そうでした。それでは本題に入ります。」

 そう言ったものの、オルネラは何かを迷っているらしく、なかなか話が始まらない。

 相当に重い話だと判断したガレスは、ベイルに席をはずすように目配せした。

「ベイル。」

 儂が名を呼ぶと、ベイルはすぐにそれを察して部屋から出ていこうとした。たが、それはオルネラによって止められてしまった。

「いえ、構いません。秘書の方も聞いていてください。」

「あ、はい。分かりました。」

 それがきっかけになったのか、オルネラは間を置くことなく本題を話し始めた。

「今日は……FAMフレームをそちらの工場で生産させて頂けないか、その相談に来ました。」

「!!」

 思いもよらぬ話に、驚く暇もなくガレスはすぐに飛びつく。

「ほう、いよいよ経営が辛くなってきましたかな? ……で、いくらでお売りいただけるんです? そちらの言い値で買いますよ。」

 てっきりFAMフレームのライセンスを売りに来たのかと思ったが、それは儂の勘違いだったらしい。

 オルネラは儂の考えを慌てた様子で訂正してきた。 

「いえ、FAMフレームの技術を売ろうという話ではありません。……プライバシーの関係でここでは申し上げられませんが、ここ数ヶ月で急にFAMフレームの大量注文があったのです。それを生産するためにそちらの工場のラインを一時的にお借りしたいというわけです。」

 どれほどの注文があったかはさておき、FAMフレームの注文があるという事にガレスは驚いていた。

「大量注文ですか……。FAMフレームはダグラスのハイエンドモデルの5倍は高価だし、その上管理も整備も難しいと聞いております。いくら性能が良いとは言え、そんな高価なフレームを買う酔狂なチームもあったものですな……。」

 純粋な疑問から出たセリフだったが、オルネラはその疑問に答えてくれた。

「多分、アカネスミレやリアトリスの影響もあるんだと思います。」

「影響……?」

 ガレスが訊き返すと、オルネラは「はい」と言って説明を続ける。

「あの二体には、FAMフレームと似たようなフレームが使用されていますから……。その宣伝効果のせいだと思います。」

「なんと、FAMフレームと似た物を……」

 VFにはそこまで詳しくないが、あのオルネラがそう言っているのだからそうに違いない。

 リアトリスやアカネスミレがあれほど強いのにはちゃんとした理由が、FAMフレームという理由があったわけだ。

(七宮め……やはり、自力で次世代型高性能フレームを完成させていたか……。)

 数年前にその計画ごと完璧に七宮を潰したつもりでいたが、あれだけでは不十分だったらしい。しかし、キルヒアイゼンでさえ苦労していたフレーム開発を七宮は一体どうやって完成させたというのだろうか。

(やはり、あの後再び共同開発を……いや、それはありえん。)

 七宮とキルヒアイゼンに接触がないということは調査で明らかになっている。

 ……と言うことは、やはり七宮が独自に開発したことになる。

 つまり、七宮重工はキルヒアイゼン以上の開発力があったということなのだろうか……。そう考えると、あの時七宮を潰しておいてよかったと思える。

 あのままVF産業に大きく展開されていたら、ダグラスの立場はかなり危うくなっていたことだろう。

(それに、アール・ブランもFAMフレームを……。七宮と繋がっているのは間違いないな。)

 スポンサーになれば牽制できると考えていたが、あまり効果はなかったようだ。

 今後どうするか考えなければなるまい。

 ……それはともかく、ガレスはオルネラの意を汲み取る。

「つまり、他のチームが偽物のFAMフレームを市場に流す前に、キルヒアイゼン本家のFAMフレームのシェアを拡大させたいわけですな?」

「もちろんそれもありますけれど、やはり注文に対応できる生産力が欲しい、というのが本音なんです。」

 オルネラ自身はFAMフレームに類似している高性能フレームにあまり関心は無いらしい。

 それならばわざわざ話題に上げることもないと思い、ガレスはその問題を後で考えることにした。

 そう決めると、ガレスは本題に戻る。

「なるほど生産力ですか、……それで合計で何体の注文があったのですかな?」

 ラインを借りたいというのだからそれなりに多くの注文があったのだろう。

 20……いや30くらいか、この程度なら数日稼働させるだけで十分だ。

 その程度だと予想していたが、オルネラの口から出てきた数字は予想を遙かに上回っていた。

「……200です。」

「な……200ですと!?」

 予想が外れた……それどころか桁数まで外れている。

 その数の多さに驚いている間も、オルネラは言葉を続ける。

「個人チームからも注文を頂いたのですが、その中に大きな取引口があるんです。その団体の名称は伏せさせてもらいますが、そこだけでも160体の注文が……。すべて合わせると202体の注文をいただいています。」

 一体どこの馬鹿の金持ちが160体も注文を出したのか……。意外とどこかの組合が共同で購入しているだけなのかもしれない。……しかし、それにしたって数が多すぎる。

 そして、この数字を聞いてオルネラがダグラスの工場を頼った理由がよく理解できた。

「確かに、キルヒアイゼンの規模の工場では200体作るとなると数年は掛かってしまいますな……。」

 その指摘にオルネラは無言で頷き、儂に頭を下げてきた。

「……取引先から確実な信用を得るためにも、すぐにFAMフレーム搭載のハイエンドVFを生産する必要があるんです。……お願いします。」

 キルヒアイゼンのご令嬢に頭を下げられて、断るわけにはいくまい。

 それに……FAMフレーム技術を外に持ちだしてくれるのであれば、こちらとしても願ったり叶ったりである。こんなチャンスを逃すわけがない。

「そういうことでしたら、ラインの一つくらい喜んでお貸しいたしますよ。」

 快く引き受けると、オルネラは頭を更に下げた。

「……助かります。」

 相当に切羽詰まっていたようだ。

 ここ数ヶ月、そんな動きはキルヒアイゼンに無かったように思うが、こうなると、余裕を見せられぬほど苦しい状況に陥っていると考えることもできる。

 それに、オルネラを交渉役に回してくるあたり、同情を得ようという魂胆が見え見えである。こういうのは媚を売ってくる輩以上に気に食わない。

 もしこれがオルネラ以外の人間だったなら、もっと疲弊したキルヒアイゼンから安くFAMフレーム技術を買い叩いていたことだろう。

(……もちろん、FAMフレーム技術を奪うという事に変わりはないがな。)

 その考えを表情に出さぬよう、ガレスは穏やかな表情を保ちながら話をすすめる。

「それで、具体的には何をどうすればいいのですかな? こちらはFAMフレームを扱える技術者もいませんし……」

 話を振ると、オルネラはFAMフレームの扱いについて説明し始めた。

「それは問題ありません。生産の時点でフレームの設計データと、技術サポート要員を工場に送ります。これで生産に関しては問題ないと思います。もちろん、ラインの管理は我が社のスタッフが全て行い、生産が終わり次第FAMフレーム設計データは消去させて頂きます。」

 この程度の対策であれば簡単に盗める。

 向こうのスタッフに金を握らせば、それだけで容易にFAMフレームの設計データを手に入れることができるはずだ。

 いくら握らせようかと考えている間もオルネラは喋り続ける。

「あと、200体分のフレーム部品もこちらが全て準備しています。足りないのは生産力と外装パーツ……そして運送手段だけなんです。」

 オルネラが言い終えると、ガレスは渋い表情を見せ、おまけに顎に手を当て、少しだけ悩むフリをする。ここですぐに了解してしまうとこちらの魂胆がバレるかもしれない、と直感で感じたからだ。

 昔から直感は大事にしている。だからこそ儂はここまで上り詰めることができたのだ。

「ふむ……ダグラスとしてはラインが一つ減るのは痛手ですが、その程度でしたらなんとかなるでしょうな。急げば明後日からでも作業に取り掛かることもできるでしょう。それに、稼働率を少し上げれば、200体くらいなら2ヶ月で……いや、1ヶ月半で生産可能でしょう。」

「そんなに早く……やはりダグラスは凄いですね。」

 別に凄くはない、キルヒアイゼンの生産能力が低すぎるだけだ。

「それでは早速値段交渉をしますかな。」

 ガレスが工場の使用料の話に入ると、オルネラは姿勢を正した。

 それを見ながらガレスは話をすすめる。

「ただでさえ今は生産が遅れている状況ですからな。……一部ラインが使用不能となるのはこちらとしても辛いわけです。」

「はい……。」

 オルネラはこちらが値段をふっかけてくるとでも思っているのだろう。

 しかし、そんな下手なことをしてこのチャンスを逃すわけにはいかない。確実にFAMフレームを儂の工場で作らせるためにも、策を講じる必要はあるだろう。

 そんなキルヒアイゼンにとって魅力的な条件をガレスは提示する。

「……ですが、お金の心配をする必要はありません。2ヶ月程度であれば無償でお貸しいたしましょう。もちろん、組み立てや運送にかかった費用もこちらが負担しますぞ。」

 かなり良い条件を提示したが、オルネラは儂に借りを作りたくないらしい。

 オルネラはこの申し出をすぐに断った。

「いいえきちんと払います。200体が売れて、取引先と継続契約を結ぶことが出来れば安定した利益を得ることができます。ラインの使用料も十分に払えるはずです。」

 素直に儂の提案を受け入れればいいものを、強情な女だ。

 そんな事を思いつつ、ガレスは笑顔を崩さずに主張し続ける。

「いえいえ、諸々の必要経費はダグラスが全て持ちます。キルヒアイゼンのFAMフレームが世間に認められるのは、ダグラスとしても嬉しいことなのです。……何なら、先にその200体分の代金を丸々工面して差し上げますよ。」

「そんな……いいんですか?」

 オルネラは儂の言葉に驚きを隠せない様子だった。

 流石に『代金の建て替え』は大きく出すぎたかもしれない。FAMフレーム200体分というとかなりな額になる。

 ……だが、儂のポケットマネーでも十分に払える額だ。

 こういう時のためにプールしておいた金が役に立つ時が来たようだ。

 ガレスは余裕の表情で首を縦に振る。

「ええ、困ったときはお互い様です。キルヒアイゼンには儂もこの会社も世話になりましたからな。」

「しかしそれでは……」

 口では遠慮しているが目が迷っている。オルネラが儂の申し出に魅力を感じているのは明らかだった。

 ガレスは更にもうひと押しする。

「キルヒアイゼンがダグラスにとってそれだけ大事なパートナーだということですよ。恩を売るつもりもありませんし、それだけの価値がキルヒアイゼンにあるとお考えになるといいでしょう。」

 ここまで言って、ようやくオルネラは同意してくれた。

「そうですか……でしたら遠慮なくご好意に甘えさせて頂きます。」

「……それでいいんです。」

(儂に要らぬ見栄を張らせおって……)

 しかし、これでFAMフレームの技術を手に入れることができると思えば、そんな怒りもすぐに収まってしまう。

 そして、ガレスは代金建て替えについて付け加えるようにオルネラに言う。

「そうなると、取引先に代金の振込先をダグラスに変更するよう通知しておくといいでしょう。そちらのほうがそちらの手間も省けますからな。」

「分かりました。そうするように伝えておきます。」

 オルネラはそう受け答えた後、ソファから立ち上がり、またしてもお辞儀をする。

「ありがとうございます。とても助かりました。」

 そして、儂の座るソファまで移動し、握手を求めてきた。

「……それでは早速明日からそちらの工場にFAMフレームのサポートスタッフを出向かせます。」

 ガレスはオルネラの白く美しい手を握ると上下に軽く数回振り、言葉を返す。

「こっちも十分な準備を整えさせておきましょう。シーズン中で忙しいことでしょうが、応援していますぞ。」

「はい。……では、早めにこのことを上に伝えたいので、これで失礼します。」

 そう言うとオルネラはソファから離れ、ベイルに案内されて出口に向けて歩いて行く。

 ベイルはオルネラを出口まで案内していたが、ビルの玄関まで案内することを拒否されたらしい。オルネラはそのまま社長室を後にしたが、ベイルは社長室から出ること無くUターンして帰ってきた。

 その様子を観察しつつ、ガレスは今後どうやってFAMフレームを展開させていくかを考える。

 問題はFAMフレームをどれだけ自然にダグラスのものにできるか、その一点に限る。

(ん? ……待てよ、もしかして……。)

 しかし、その問題も呆気なく解決することにガレスは気付いてしまった。

 この200体分の金の流れで、オルネラから技術を買ったと言い訳することができるかもしれない……。

 そうなると、今後送金するときにその用途を極秘扱いにしておいた方がいいだろう。そのほうが説得性が増すというものだ。

 おまけに、取引先の代金の振込先はこのダグラスになる予定だ。この証拠があれば、始めからダグラスがFAMフレームを販売したと言うことができる。

 これだけ条件が揃えば誰も何もダグラスに文句は言えないし、疑われることもない。

 ……まさに完璧だ。

(代金の建て替えは思いつきだったが、こうも上手く事が運んでくれるとは……やはり、直感は大事にしておくものだな。)

 偶然とは言え、儂の商才は恐ろしいほど冴えているようだ。

「……どうされたんです社長?」

 儂がニヤニヤしながら考えごとをしていたのを不振に思ったのか、ベイルが声を掛けてきた。

 今後、複雑な手続きが立て続けに必要になればベイルの秘書としての能力も必要になると思い、ガレスは今からベイルに今後の計画を話しておくことにした。

「……FAMフレーム技術を奪うぞ。」

「はい?」

 ベイルは目をまん丸にして儂を凝視していた。多分、こちらの言葉を理解できていないに違いない。しかし、色々と話している間に勝手に理解していくだろうと思い、ガレスは構わず話を続ける。

「それに、キルヒアイゼンの取引先も全て奪う。……ダグラスのほうが生産力もあるし、値が下がればもっと多くの注文が来るだろうからな。」

 ガレスは喋りながらソファから立ち上がり、社長室に備えられたワインセラーに向かう。

 そして、そこから2つのワイングラスを手に持ち、脇に古い紙ラベルが貼られている高級そうなボトルを挟むと、再びソファの元まで戻ってきた。

 そのグラスとボトルをガラス製の膝丈のテーブルの上に置いて、ガレスは話を再開させる。

「そろそろ従来のフレームの売れ行きも伸び悩んでいた所だ。これを機会に一気にFAMフレームに移行する。」

「そんな、じゃあさっきの約束は……。」

 ベイルはこちらに近づき、非難の眼差しを向けてきた。まるで儂のやり方が卑怯だと言わんばかりだ。

 ……若い。考え方が若すぎる。

 だが、ワインと同じで、儂は若いモノは嫌いではない。

 それに、このベイルは熟す価値のある男だ。じっくりと儂がこの手で熟してやろうではないか。

 ガレスはワインのコルクを抜くと、それを2つのワイングラスに注ぎ始める。

「……約束はもちろん守る。あれだけ親切にすればガードも緩くなるからな。そうなれば技術を盗むのも簡単になるというものだ。」

 答えると、珍しくベイルが儂に反論してきた。

「私が言っているのはそういうことではなくて……」

 その反論を抑えこむように、ガレスは真っ赤なワインの入ったグラスをベイルに差し出し、短く命令する。

「飲め。」

「……。」

 ベイルは口を閉じると恐る恐るワイングラスを受け取り、それを両手で持った。

 それを確認すると儂もグラスを手に持ち、ワインを一気に飲み干す。

 程よい酸味に、濃厚なコクが……ブドウの圧縮された甘みが味覚を襲い、同時に周囲に濃密なアルコールの香りを漂わせる。

 やはり、ワインは酸味と甘味のバランスが重要だ。

 甘いだけでは駄目、酸味が強くても駄目……。

 ――人というものもそれと同じだ。

 特に、立派な人間というのは善悪の両面を持っているものなのだ。そしてそれを状況によってうまく使い分けている。……そう、儂のように。

 こちらがワインを飲みほすと、ベイルもワインに口をつけた。

 ベイルは酒に慣れてないのか、一口飲んだだけでグラスから口を離し、少し咳き込んでいた。

 ガレスは自分のグラスに2杯目のワインを注ぎながら、有無をいわさずベイルに説明する。

「まずは……取引先に“FAMフレームを生産したのはキルヒアイゼンではなくダグラスだ”と説明する。不審がられても“キルヒアイゼンがダグラスに技術を売った”と言えばいい。それに、代金の振込先は儂の会社だ。後から何を言われても問題ない。」

 そこまで言って、ガレスは2杯目を飲み干す。

「……それにしても他人の庭でFAMフレーム技術を見せびらかすとは……。盗んで下さいと言っているようなものだな。……くくく。」

 段々饒舌になってくるのが自分でも分かる。

 分かっていてもやめられないのが酒の魔力というものだ。それに、とても心地が良い。

 ……ガレスの話は止まることなく続く。

「まったく、キルヒアイゼンのご令嬢は商売というものを知らんらしい。潰れたラインの分だけ利益は減るが、今後の儲けに比べれば微々たるものよ。……これだから商売は止められん。」

 ほろ酔い気分で喋っていると、またしてもベイルから儂を咎めるようなセリフが聞こえてきた。

「社長……もしかして以前もそんな汚い真似を……?」

 まだ理解できていないベイルに向けて、ガレスはとうとう怒鳴ってしまう。

「今更何を言っているんだ!? どの企業も少なからずこういうことをやっている。商売は戦争だ、肝に命じておけ!! ……それにFAMフレームはもう儂のものだ。技術さえ奪ってしまえばキルヒアイゼンなど敵ではない。儂の勝利だ!!」

「しかし……」

 まだ何か言うことがあるのか。

 いい加減頭に来たガレスは、ベイルに警告することにした。

「黙れベイル。儂の秘書を続けたいのなら大人しく儂の言うことに従え。分かったな?」

 ガレスがきつく睨みつけるとベイルはソファから離れて、目を逸した。

 ベイルは良心の呵責に苦しんでいるようだったが、しばらくすると頷いた。

「……はい。」

 そして、そのまま黙りこくってしまった。

 まだ儂の考えを理解出来ないのは仕方ない。儂の傍で仕事をし続ければいずれ分かることだろう。

 とにかくそれはそれとして、まずはFAMフレーム技術を奪えるということを喜ぼうではないか。FAMフレームさえあれば、ダグラスの未来は明るい。

「幸先がいい。シーズン最後の試合で大々的に発表するぞ。“ダグラスの”新フレームをな。……ククク。」

「……。」

 ガレスは突拍子も無いことを立案するも、ベイルからは何の反応も得られなかった。

 また、話が上手く行きすぎていると微塵にも思わないガレスであった。


  5


 ダグラス本社ビルに面する歩道。

 その東側、ビルによって太陽の光が遮られている歩道を歩く人影があった。

 それは女性であり、影の中でも銀色に輝くヘアピンはよく視認できた。

「……本当に救えない野郎だわ。」

 そして、その女性はダグラス本社ビルの社長室内の会話を盗聴している真っ最中であった。

 金髪によってギリギリ耳が隠れているため直接見ることはできないが、その人物の耳には小型イヤホンが装着されている。

 そのイヤホンは懐にあるレシーバーとつながっており、そのレシーバーは社長室内に仕掛けられた盗聴器とつながっているというわけだ。

 それを仕掛けたのはミリアストラであり、今その会話を聞いているのも彼女であった。

(あの秘書の人もかわいそうね……。さっさと辞めちゃえばいいのに。)

 そんなことを思っているミリアストラの隣には、同じくイヤホンを耳に装着している別の女性がいた。

 アタシよりも少し背が高くて容姿端麗な彼女の名前はオルネラ・キルヒアイゼンだ。隣を歩いて分かったが、彼女は何と言うか、仕草や歩き方までも美しい。

 あの七宮が好きになるのも頷ける女性である。

 その彼女は先程ダグラス社のビルから出てきたばかりで、アタシと同じく、社長室内の会話を注意深く聞いていた。 

 その表情は真剣だ。しかしアタシとは違い、時間が経つに連れてその白い肌はどんどん青ざめていっていた。

(これ以上は聞かせないほうがいいかもね。)

 アタシはこういう話には慣れっこだが、根っからのお嬢様の彼女には辛いのだろう。

 ミリアストラは盗聴器の調子が悪くなった風に装い、音量スイッチを切ると、わざとらしくイヤホンを弄ってみせた。

「あれ? おかしいわね……。」

 そう言ってミリアストラは自分の耳からイヤホンを外した。

 するとオルネラもあっさりとイヤホンを耳から外し、それをこちらに返却してきた。

 ……本人もあまり会話を聞きたくなかったのかもしれない。アタシの判断は正しかったようだ。

 だが、なおも青ざめているオルネラに、ミリアストラは慎重に声をかける。

「大丈夫? 社長室で何かされたの?」

 盗聴していた限りでは普通に会話していたが、カメラまでは仕掛けていないので、実際には何があったのか把握できていない。

 以前情報を売りに行った時もアタシのこともやらしい目で見ていたし、セクハラじみたことをされたのかとも思ったが、オルネラはそれを否定するように首を左右に振った。

「いえ、大丈夫です。……私、ダグラス社長のことは知っていましたが、ここまでひどい人だとは思ってませんでした……。」

 ミリアストラもそれに同意する。

「あのジジイ、表ヅラはいいけれど、裏では相手の骨の髄までしゃぶり尽くそうと考えてる正真正銘のクズね……。声を聞いてるだけで腹が立ってくるわ……。」

「そうですね。……七宮さんの怒りも分かった気がします。」

 少し話したけれどオルネラの顔色はよくならない。

 初めてオルネラを見た時は鼻につく女だと思ったが、今こうやって彼女のことを知ると、正直同情を禁じ得ない。彼女も七宮と同様、ダグラスに人生を左右された被害者なのだ。

 いつまでもこんな顔をされていてはこっちまで悲しい気分になってしまう。

「……そうだ、ジュースでも飲まない?」

 何か飲み物でも飲めばいいかもしれないと思い、オルネラは前方に見える自販機まで小走りで移動し、そこでジュースを買った。

 そして急いでオルネラの元に戻り、それをすぐに飲める状態にして手渡す。

 オルネラはこちらのジュースを受け取ると「ありがとう」と小さく言って、それを一口、二口、時間をかけてゆっくりと飲み込んでいた。

 ……その時、歩きながら飲んでいたのが悪かったらしい。

 オルネラは何も無い場所で躓いてしまった。

「!!」

 ミリアストラはオルネラの体が傾き始めた段階で素早く支え、転倒を防ぐことに成功した。しかし、ジュース缶は中身を散らせながら歩道に落下してしまった。

 ミリアストラはふらふらとしているオルネラを抱えたまま注意を促す。

「ちょっと気をつけなさいよ。ホントに平気なの?」

「すみません、気分が悪くて……。」

 立っているのにも耐えられないのか、オルネラは体重の大半をこちらに預けている。

 信頼されているのは嬉しいが、この体勢のままだと長く耐えられそうにない。

 取り敢えず共倒れを防ぐべく、ミリアストラは自販機の横にあるベンチまでオルネラを連れていくことにした。


 ……オルネラをベンチに座らせると、ミリアストラも隣に座り、自販機で新たに買ったジュースを飲んで一息ついていた。

 一応オルネラにも同じ物を渡しているが、オルネラはそれを手に持っているだけで口をつけようとはしなかった。

 そんな感じで落ち込んでいる彼女に、ミリアストラは話しかける。

「……まあ、あんなの聞いてしまったらたまらないわよね。」

 すると、意外にもすぐに言葉が返ってきた。

「はい、人の悪意というものに触れたのは多分初めてのことだと思いますから。……それで少し気持ちが動転してしまったんだと思います。」

 その視線は缶ジュースに向けられたままだ。

 そんな姿を見て、ミリアストラは思ったことを普通に述べる。

「チームの責任者もやってるし、昔はVFBのアイドルだったって聞いてたから結構神経図太い人なのかなと思ってたけど……案外ナイーブなのね。」

「お恥ずかしいです……。」

 オルネラは照れたように苦笑いしていた。どうやら気分もそこそこ持ち直しているようだ。

 少し回復したことにほっとしていると、急にオルネラはこちらを向いてお辞儀をし、礼を言い始める。

「先程はありがとうございました。えーと……」

 オルネラはこちらの顔をじっと見て悩んでいたが、すぐにまた頭を下げた。

「ごめんなさい、よく考えたらまだ名前も聞いていませんでした。」

 ……そういえばそうだった。

 アタシは何度も彼女のことを観察していたが、面と向かって会うのは今日が初めてだ。

 ミリアストラは自分の名を簡潔に伝える。

「ミリアストラよ。」

 すると、オルネラの御礼の言葉がすぐに再開された。

「体を抱えてくださった上にジュースまで頂いて……ありがとうございました、ミリアストラさん。……それにしても綺麗な名前ですね。」

 綺麗と言われ、ミリアストラはそれに同意する。

「アタシも気に入ってるわ。……まぁ、偽名だけどね。」

 偽名と口にするとオルネラは微妙な表情を見せた。別に想定の範囲内の反応だったので、どうということもないだろう。

 さらに調子が良くなったのか、オルネラは七宮についての話題を振ってきた。

「それで、ミリアストラさんはどうして宗生さんの計画に?」

 これは裏表のない、純粋な好奇心による問いかけなのだろう。

 オルネラには別にこちらを探るような気配はなく、ただ単にアタシと談話を望んでいるようだ。

 少しでも彼女の気がまぎれるなら……と思い、ミリアストラはその話題に参加することにした。

「計画ねぇ……。今のところアタシはアイツに従ってるけど、別にアイツの理想とか考えに賛同しているわけじゃないわよ。」

「それじゃ、もしかして宗生さんに弱みでも握られて……」

 オルネラは本気で心配しているのか、アタシの顔を真剣に見つめてくる。

 その視線を遮るようにミリアストラは顔の前あたりで手を左右に振り、オルネラの予想を否定する。

「いやいや、そんなのは有り得ないわ。こう見えてもアタシはプロだし、アイツに遅れを取るようなヘマはしないわよ。それに、アイツの言う通りに動いているのは単に報酬が高いからってだけの話。……つまりアタシはお金の為に働いてるだけなのよ。」

「そうなんですか……。」

 オルネラは納得したのか、こちらから目線を外して、向かい側の歩道に見える街路樹を眺めていた。その横顔を見つつ、ミリアストラは付け加えて言う。

「ぶっちゃけ、ランナーの報酬よりも多いわ。……まぁ、あのダッグゲームズを買収できるくらいなんだし、そのくらい払えて当然って所かしら。」

 シミュレーションゲームの運営会社、ダッグゲームズの話が出ると、再びオルネラが食いついてきた。

「買収? そんな話ありましたか?」

 そう質問され、間違いに気がついたミリアストラは訂正して言い直す。

「ああ違う。独立だっけ……。でも、ダグラスから部門ごと子会社化した時には既にアイツが関わっていたらしいわよ。」

「宗生さん、そんな前から……。」

 驚いたような口調で反応を見せたものの、オルネラの表情には驚きの感情は見られなかった。むしろ、感心と言うか腑に落ちるというか、それが当たり前であることを受け入れているような表情であった。

 そして、その時に見た彼女の顔色からは、青みのようなものはすっかりと消え去っていた。

「結構顔色良くなってきたんじゃない?」

「はい、だいぶ楽になってきました。」

 オルネラは元気をアピールするかのごとく、片手でガッツポーズを取ってみせた。

 ようやく心配がいらなくなったかと思うと、そのタイミングで話題にしていた人物がその場に出現した。

「やあやあ2人とも、ダグラスとの交渉は終わったみたいだね。」

 もちろんそれは七宮である。

 七宮はダグラス本社の真ん前だというのに変装も何もしておらず、堂々と素顔を晒して道を歩いていた。

 見つかったからといって、ただ単にVFのランナーが道を歩いているだけなので咎められることもないが……それにしたって肝が座りすぎている。

 そんな七宮の呑気さにめまいを覚えそうになりつつも、ミリアストラはしっかりと事の成り行きを報告することにした。

「……そうね。アンタの予想通りダグラスの野郎は自分の社名義でFAMフレームを売りつけるつもりみたいよ。取引先が全てダミーだとも知らないでいい気なものね。」

 ダグラス社長の言動は全部お見通しだったと言わんばかりに七宮は「うんうん」と頷く。

「予定通りだね。ここで真面目に取引すればちょっとは加減してあげようかとも思ったんだけど……。そんな良心があるのならそもそも僕はこんなことをしていないだろうね。」

 淡々と喋りながら七宮はオルネラとアタシの間に座り、肩に手を回してきた。

 ミリアストラはその手を弾き、オルネラはその手を掴んで七宮の膝の上に返却していた。 

 そしてオルネラは七宮から少し距離をとりつつ、今回のことについて話す。

「言われた通りに交渉しましたけど……これでいいんですか?」

「構わないさ。200体をあの工場で作ってくれるだけでいいからね。それが本来の目的なわけだから、作戦は大成功というわけだよ。」

 七宮はオルネラを盛大に褒め、労をねぎらう。

「とにかくご苦労様。これでもう僕からお願いすることは何も無いよ。」

「そうですか……。」

 それを聞いて、オルネラはほっとしたような表情を見せた。

 アタシとしてもこれ以上オルネラに何かをさせるのは忍びない。それに、彼女が計画に参加することで、どこからか綻びが生じそうな予感がする。

 やはり、必要だったとはいえ、彼女を巻き込んだのは不正解だった気がしていた。

 深刻にオルネラについて思っていると、そんな空気を吹き飛ばすような軽いセリフが隣から聞こえてきた。

「そうだ、今から暇かい? 少しお茶でも……」

 それは、男が女を誘うセリフであり、七宮は顔を体ごとオルネラの方に向けていた。

 七宮はそんなセリフと共に再度オルネラに手を伸ばそうとしたが、オルネラはそれを避けるように慌ててベンチから立ち上がった。

 そして、七宮から逃れたオルネラはこちらに向けてぶっきらぼうに一礼する。

「宗生さん、私は言われた通りのことをきちんとこなしました。……ですから、イクセルさんのVFB復帰の件、ちゃんと約束を守ってくださいね。」

 オルネラはそれだけ言い残すと、ベンチを離れてターミナルに向けて去ってしまった。

 そんな後ろ姿を見つめつつ、七宮はがっくりとうなだれる。

「あー、またふられちゃったみたいだ……。」

 つくづく懲りない男だ。

 オルネラにはイクセルという立派な夫がいるし、それ以前に七宮はかなりオルネラに避けられている気がする。

 アプローチを変えれば何とかなりそうだが、どんなに努力した所で望みは少ないだろう。

 そんな七宮を見つつ、ミリアストラはふと思いついた言葉を口にする。

「アタシ、暇なんだけどなー」

 七宮はこちらの遠まわしの誘いの言葉に反応したのか、ゆっくりとこちらに振り向いた。

「……仕方ない。ミリアストラ君で我慢しますか。」

 ため息が聞こえてきたが、聞かなかったことにしておこう。

 七宮はベンチから立ち上がり、こちらに手を差し伸べてきた。

 ミリアストラはその手を遠慮無く掴んで、ベンチから腰をあげる。

 こちらが立ち上がると七宮はあっさりと手を放し、西の方へ……飲食店が集まっている場所にむけて歩き出した。

「今後、ダグラスの動向を詳しく探ってもらわないといけないからね。お茶を飲みながらその話でもしよう。……あ、そういえば、鹿住君も迎えに行かないといけないね……。」

 そんな事を喋りながら先を行く七宮を追いかけつつ、ミリアストラは言い返す。

「カズミの迎えも付き合うわよ。……その代わり、お茶代はアンタのおごりね。」

「もちろん。」

 そう軽く答えた七宮に追いつくと、ミリアストラはその隣に並び、暫くの間だけ七宮の歩幅に合わせて歩くことにした。

 ここまで読んでくださり、誠にありがとうございます。

 この章ではクーディンのVFランナーであるジンが登場しました。彼とは次の章で試合をすることになります。

 また、七宮の計画がどのようなものか、その片鱗が明らかになってきた気もします。

 次の話では結城がジンの操る雷公と対決することになります。

 今後もよろしくお願いします。

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