【盲目の獅子】最終章
前の話のあらすじ
結城は新兵器『ネクストリッパー』を用いてダグラスのサマルを打ち破った。
その試合の後、ダグラスのVF組立工場でトラブルが発生する。このトラブルは七宮が仕組んだものであり、お陰でダグラスはそのトラブルに徹夜で対処することになった。
そのトラブルにガレスは怒り狂い、秘書のベイルはとばっちりを受けてしまった。
最終章
1
チーム『キルヒアイゼン』……それは、現在VFBリーグで最も強いチームの名前である。
その歴史は古く、VFBリーグが設立された当初から参加しているチームでもある。
当時はVFの性能に殆ど差がなかったため頻繁に順位が入れ替わっていた。しかしここ最近、VFに関する技術が進化し始めてからは、多少の順位の変動はあるものの、技術力や開発能力の高いキルヒアイゼンの独壇場になっている。
ランナーの実力もさることながら、FAMフレームが導入されてからは有り得ないほどの勝率を維持している。
同時にその勝率は、弛まぬ努力で技術革新を続けている証でもあった。
……そんな名門チームのラボラトリー内に諒一はいた。
諒一はラボ内で働いているスタッフに混じり、そのスタッフと同等の仕事……メンテナンス作業の一部を任されていた。
諒一はメンテナンスのための工業機械のコンソールを操作しつつ、目の前に鎮座している最強のVF『ファスナ』を眺める。ファスナは整備用の巨大な籠に固定されていて、その籠から伸びているアームによって関節を保持されていた。
……このファスナという人型の機械を見る度に思う。
間違いなくこれは戦いのために造られたものであって、決して作業用ロボットの延長線上にあるものではない、と。
分解して内部構造を見た時、更にその思いは強まった。
このFAMフレームは明らかに戦闘を目的として設計された物だ。今まで学校で見てきた通常規格のフレームとはわけが違う。
どこをどう見ても全身余すところなく攻撃的であり、小さなパーツ1つだけでも人間くらいなら余裕で破壊できるほどの力を秘めている。それでいて末端部分は繊細で、その構造たるや芸術品に等しいほど美しい。まさに現代工学が、現代科学が生んだ奇跡の機械だ。
さらに、このフレームの上に鋼鉄ならぬ剛性の高い軽量な合金の鎧を纏うのだから、扱う者によってはスポーツマシンにも、殺人兵器にも成りうる。
それが恐ろしくあり、同時にその危うさに心引かれるのも事実であった。
このファスナに限らず、VFは人類が初めて生み出した搭乗型の人型機械として、間違いなく歴史にその名を残すことだろう。
そんなVFの構造を少ないながらも理解し、更にその構成物をこの手で整備しているかと思うと正直興奮を禁じ得ない。今操作しているコンソールは直接ファスナとは関係ない、パーツ洗浄用の機械を制御しているものだったが、それだけでも十分過ぎるほど嬉しい。
ここまでマニア心が行き過ぎると変人に思われるかもしれないが、生憎自分は感情が表情に反映されにくいのでその心配はないだろう。それに、別にVF狂いだと思われても構わないような気もしていた。
しばらくファスナを眺めつつ物思いにふけっているとパーツの洗浄が終了し、諒一はそれらを次の手順に送る。
次は洗浄済みパーツの仮組立て工程だ。
もちろんこれも手作業ではなく、塵埃の入る余地のない密閉された専用の工業機械で行われる。……それほど精度が要求される世界なのだ。
最高の状態で試合に臨むつもりなら、これくらい慎重になるのは当然だ。こういう細かいことの積み重ねが、引いてはVFの性能に直結するというわけだ。
その仮組立て工程もすぐに終了し、諒一は細かいチェックを済ませる。そして、ファスナの構成物に触れるという至福の時との別れを惜しみつつも、それを現場の責任者――オルネラに報告する。
「パーツの洗浄と仮組立て、完了しました。」
オルネラさんは少し離れた場所から作業の様子を監視しており、こちらが報告するやいなや、すぐにパーツをチェックしに来た。
諒一が分解・洗浄・仮組立てしたパーツは、人で言うと股関節に相当するパーツであり、VFの機敏な運動には欠かせない重要な箇所だ。
その形状は人間のそれとは構造も形状もかけ離れており、大きさは自分の腰丈ほどもある。
完璧に戦闘の為にデザインされたもので、可動域の広さと耐久性の高さの両方を兼ね備えている。これは足技、蹴り技の起点となる箇所でもあるので、より慎重に扱わねばならない重要なパーツだ。
……もちろん、ファスナの構成部品の中に重要でないパーツ……無駄なパーツなど存在しない。しかし、少なくとも指の関節よりかは大事な部分だろう。そうなると当然、他の場所よりも一層の精度が要求されることになる。
オルネラさんは厳しい目でパーツをチェックしていたが、数分もしないうちにその目は穏やかなものに変化した。
「ご苦労様です。……もう手順も完璧ですね。」
オルネラさんはパーツの表面を撫でながら言葉を続ける。
「本当に綺麗に磨かれてます……ありがとうリョーイチ君。」
「いえ、教えられた通りにやっているだけです。褒めるべきはオルネラさんの指導力の高さです。」
本心からそう言ったのだが、オルネラさんはこちらの言葉を聞いて気まずそうな顔をする。
「あの、ちゃんと指導するつもりが、途中からこんなタダ働きみたいなことをさせてしまって……ごめんなさい。」
確かにオルネラさんの言う通り、いつの間にか一部の作業を任されていたが、研修とはこんな物だと認識していたし、こちらとしてはキルヒアイゼンのラボに居られるだけで文句はない。
「いえ、そんな事はないです。本来ならこちらが授業料を払う立場ですから。」
というか、この程度の働きではその授業料を賄うことはできないだろう。それほど、ここでの経験は諒一にとって価値あるものなのだ。
「そう言ってもらえると助かります。」
オルネラさんはそう言って苦笑いした後、こちらが仮組立てした股関節部分のパーツを次の工程に送るべく、手元のラボ内専用の特殊な端末を操作し始めた。
その端末に目を落としながら、オルネラさんは呟く。
「それにしてもさすがは学生さん。飲み込みも早かったし、短い期間で殆どの工程をマスターできましたね……。このレベルならアカネスミレのFAMフレームも問題なく整備できるはずです。」
何か普段と異なるオルネラの口調に、諒一は違和感を覚える。
「オルネラさん?」
名を読んでそれを確かめようとすると、急にオルネラさんが予想にもしなかった話を切り出してきた。
「……これから私も忙しくなります。ですから、今日限りでこの研修も終わりにしたいと思います。」
「……。」
オルネラさんのその表情は真剣だ。
もう少しここで学びたい気持ちはあったが、オルネラさんは冗談を言うような人じゃない。それにキルヒアイゼンの責任者でもあるので、こちらが何を言っても無駄だろう。
そんなこちらの考えを読み取ったのか、オルネラさんは申し訳なさげに言葉を続ける。
「まだ不安な点もあるでしょうけれど、リョーイチ君なら大丈夫。私が保証します。……それに、大規模な修理が必要になれば、いつでもアール・ブランに駆けつけるつもりですから。」
これ以上、相手に援助を求めるのは一つのチームとしては情けないことだ。アール・ブランも立派な1STリーグのチームなのだから、いつまでも大きなチームにおんぶだっこ状態ではチームのプライド以前にVFBチームとしての資質を疑われかねない。
「何も、そこまでしてもらう義理は……。」
援助を断るつもりだったが、諒一はそう言いかけて口をつぐむ。……悔しいが、FAMフレームに関してはキルヒアイゼンの支援が必要なのは事実だったからだ。
途中で言葉を切ったせいで、オルネラさんは不審そうにこちらを見ていた。
諒一は先ほどの否定の言葉を取り消すように、改めて言い直す。
「……いえ、その時はよろしくお願いします。」
「はい、任せてください。」
オルネラさんはにこやかにそう言うと、安堵の表情を浮かべる。どうやら研修に関してそこそこ悩んでいたようだ。
本来ならこちら側から……ランベルトさんが責任者として、この研修を切り上げさせるのが真っ当だったのかもしれない。
そんな事を少しの間反省していると、急にオルネラさんが話題を変えてきた。
「……ところでリョーイチ君、学校を卒業したらこのチームはどうですか? ツルカちゃんとも仲が良いみたいですし、来てくれるとうれしいのですけれど……。」
「いえ、それはないと思います。」
こちらが即否定すると、オルネラさんはそれを失言であるかのように、恥ずかしげに頬に手を当て、その白い肌を赤らめていた。
さらに、その失言を取り消すように矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「そうですよね、アール・ブランにはユウキさんがいますし、よく考えなくても移籍は有り得ませんよね。……エンジニアとしてもっと上を目指すなら進学という道もありますし……さっきの話は忘れてください。」
一応、オルネラさんの話も自分がキルヒアイゼンに移籍できない理由に当てはまっていたが、その他にも根本的な理由があった。
諒一はそれをオルネラに伝える。
「あの……移籍とか進学とか、それ以前の問題なんです。」
「……?」
俯き加減だったオルネラさんの顔がこちらに向けられる。
その顔を見ながら諒一は理由を述べていく。
「卒業後はダグラス関連の企業に就くのが決められていて、これを断ると授業料やら全てを負担することになるんです。」
つまり、卒業後の行き先を選択する余地が無いということだ。普通に考えれば学費が掛からない上に就職まで面倒を見てくれるのだから有難いことだ。
しかし、諒一にとってそれは足枷であった。
「酷い仕組みですね……。」
オルネラさんもこの仕組みのマイナス面には賛同できないようだった。
「でも、いざとなったらダグラス系列の企業を辞めればいいですから。実を言うとそこまで問題ではないです。」
苦し紛れに解決策を言ってみたが、あまりいい方法ではないように思われた。
こちらのことを憂いてか、なぜかオルネラさんは謝ってきた。
「……事情も知らないでチームに誘うなんて、変なことを言ってしまってごめんなさい。」
それを訊き、諒一はキルヒアイゼンからスカウトを受けていたことに今更ながら気がつく。
「こちらこそ誘いをあっさりと断ってしまってすみません。大事な時間を割いてまで指導してくださったのに……。でも、お礼は必ずします。約束です。」
決意を持ってそう言うと、途端にオルネラさんの表情が和らぐ。
「約束ですか……。そういうことをサラっと言える所、私も見習いたいです。」
何か思うところでもあったのだろうか……。それを訊こうかどうか悩んでいると、ようやくパーツを回収するための大きなリフトが到着した。
仮組立てが完了した股関節パーツはすぐにリフトに載せられ、次の工程へ運ばれていく。
それを見送りつつ、諒一はオルネラに向けて頭を下げる。
「それでは、今日までありがとうございました。」
これ以上いても作業の邪魔になるし、オルネラさんも無駄話をしているほど暇ではないはずだ。別れのあいさつをすると、オルネラさんもそれに応えてくれた。
「……はい、お疲れ様でした。」
返ってきた挨拶に満足し、諒一はそのままラボから出ようとする。……と、去り際にオルネラさんに声を掛けられた。
「あ、帰りに私の家に寄ってみてください。ツルカちゃんからユウキさんが遊びに来たと聞いてますから。」
結城が遊びに来た……。
その言葉に違和感を覚えつつも、諒一は振り返ってとりあえず返事をする。
「わかりました。行ってみます。」
なぜオルネラさんはその事をわざわざこちらに伝えたのか……。不思議に思いつつも、諒一はそのままキルヒアイゼン邸へ向かうことにした。
2
キルヒアイゼン邸。
チームキルヒアイゼンのビルに隣接して建っているこの家は、数ヶ月前までは人がいることは稀で、昼間などはほとんど空き家状態だった。なぜならば、オルネラはラボでの作業に忙しく、イクセルもトレーニングやらでビルのトレーニングルームで過ごす時間が多く、ツルカも女子寮に入ったせいで週末しか家に帰ってこなかったからだ。
ただ、最近になってこの家にも変化があった。
……それはイクセルが病気になってしまったことである。
ツルカの話によれば、退院してからイクセルはこの家で療養しており、一日中部屋のベッドの上で過ごしているらしい。
本人はもう全快したなどと言っているらしいが、オルネラさんと医者がベッドから離れるのを許しておらず、心臓の調子が安定するまで、あと数ヶ月は絶対安静とのことだ。ツルカの話からは深刻さも感じられないし、イクセルも暇で暇で仕方ないに違いない。
そのイクセルは、今はベッドの上で読書にふけっていた。
(ずいぶん分厚い本だな……。)
現在、結城はツルカと共にイクセルの部屋の中の様子を窺っていた。
様子を窺うと言ってもじっと監視しているわけではない。イクセルに感づかれぬよう、数分おきに部屋の外から中の様子をチラ見する程度であった。
何回目かの偵察を終え、結城は部屋から少し離れた廊下の角でツルカと合流する。
ツルカはというと、最初はやる気を見せていたのに今はもう面倒くさいのか、廊下に座り込んで携帯端末でゲームをしていた。
そのゲーム画面を眺めつつ結城はツルカに話しかける。
「なぁ、本当に来るのか?」
「絶対に来るはずだ。ボクの推理に間違いはない。」
ゲームはシューティング系のものらしく、画面内に敵が頻繁に出現していたが、ツルカは敵が出現するやいなや超人的な反応でそれらを全て撃ち落としており、ゲームとして成立していない気がしていた。
(ツルカの推理に頼ってていいのだろうか……。)
“来る”というのは七宮のことだ。
ツルカ曰く、七宮を目撃したのはイクセルの部屋の中であり、曜日も時間帯も今日この時間あたりだったらしい。もし仮に七宮が定期的にイクセルと会って会話しているのならば、ツルカの言う通り遭遇できる可能性は高い。
しかし、あの七宮がそんな単純な行動パターンで生活しているとは思えなかった。
七宮と合うだけならダークガルムのビルに乗り込めばいいと思うのだが、それでは適当な理由をつけて避けられそうだし、相手のテリトリーに不用意に飛び込むのは危険な気もする。
とにかく、望みは極めて薄いが今日くらいはここで待ち伏せしていても損はない。
現れなければ現れないで、後日改めて会う方法を考えればいいだけだ。
(実は、あんまり会いたくないんだけどな……。)
結城は、もうリアトリスとの試合の時の恐怖は克服していた。しかし、克服したというだけであって七宮が苦手であることに変わりはない。唯でさえ苦手なのに、まともに話せるのだろうか……。
だが、適当ながらも一応は待ち伏せしているツルカを前にしてそんな事は言えず、結城は一人で黙ってもやもやと悩んでいた。
このまま悩んでいても無駄だと思い、結城は間を持たすためにツルカに話しかける。
「……で、会ったとして何を話せばいいんだ?」
「え? それはユウキの問題だろ。ボクに聞かれても困る。」
ツルカは思考するのを放棄しているらしい、ひたすらゲームに没頭している。
その返答に呆れた結城は尚もゲーム画面から目を離さいないツルカの頭の上に手を載せ、それを左右に揺らして嫌がらせをする。
しかし、それでもツルカの手が止まることはなかった。
「あれだけ七宮のことを言ってたのに、そんな無責任な……」
農業実験プラントであれだけ必死に訴えておいて、この仕打ちはひどすぎる。もし七宮と会えても、こちらがこんなやる気の無い状態では向こうも困ってしまうことだろう。
そんな間抜けな絵面を否が応でも見せられるイクセルはもっと困惑するに違いない。
結城はツルカの正面に移動し、改めて真面目に話しかける。
「なあツルカ、私が何を言ってもあの七宮が素直に話してくれる気がしないし、今日は待ち伏せは止めにしないか? やるならやるでちゃんと準備したいし……。」
私が諦めたようなことを言うと、ようやくツルカは携帯端末を懐にしまった。
そして廊下の角からイクセルの部屋のドアを見つつ、代替案を提示する。
「じゃあ、このまま隠れて七宮とイクセルの話を盗み聞きするぞ。それなら問題ないな。」
ツルカの案は七宮が出現することが前提の案だった。
「そうだな……話を聞くだけでも何か分かるかもしれないし。」
他にも色々問題がある気がするが、七宮と会うことに消極的だった結城にとってはどうでもいい問題だった。
計画を変更した所で、急にツルカは立ち上がり宙に向けて凶悪なパンチを繰り出し始める。準備運動のつもりなのだろうか。
……以前にも同じような展開があったような気がする。
嫌な予感がした結城はすぐさまツルカに何をするつもりなのかを問いただすことにした。
「ツルカ、もしかして七宮を……」
こちらが言い終える前にツルカは活き活きとした表情で話し始める。
「その通りだ。……いざとなれば途中で乱入して、無理矢理隠し事を吐かせればいい。」
相変わらず恐ろしいことを考える少女である。
あんな鋭い拳を喰らえば、隠し事どころか胃の中の物まで吐く羽目になりそうだ。
いつも殴る相手がイクセルだったので手加減というものを知らないだろうし、それに、長い間イクセルを殴ってないので、色々と溜まっている分だけ余計に拳に力が入ってそうだ。
こうなると、殴られた相手は血反吐を吐いても不思議ではない。
「“七宮は実は悪くない”とか言っときながら、やる気満々じゃないか……。」
こちらの言葉に対し、ツルカはそれが当たり前のように受け答える。
「それとこれとは話が別だ。まあ、ボクに任せとけって。必要なら首を絞めて落とすから。」
「恐ろしいことをさらっと言うなよ……。」
さすがに七宮の身を案じる結城であった。
ツルカが本気で言っているとも思えないが、いつでも動きを静止できるような心構えは持っておくことにしよう。
そう決めた所で結城はイクセルの部屋のドアを改めて監視する。
すると丁度良くドアが開き、中からイクセルが現れた。
「!!」
イクセルの髪は寝癖だらけで、着ている服も寝巻きのようで、ゆったりとしている。向こう側を向いているので顔は見えないが、いつもの眠たそうな顔を簡単に想像することができた。
そして、その手には本を持っていた。……どうやら読み終えた本を書斎に返しに行くつもりらしい。
進行方向は反対なので姿を見られる心配ないかもしれないが、もしものときの事を考えて結城は一応廊下の角に素早く身を隠す。
……その時に後方確認をしないで後退りしたのがいけなかった。
「あ、ユウキあぶな……」
ツルカの警告を耳にしたときにはすでに遅く、結城はいきなり体に強い衝撃を受けた。
「!?」
それはツルカのパンチだった。
運悪く結城はツルカの拳を横腹に受けてしまったのだ。……てっきり、もうツルカはパンチの素振りを止めたものと思っていたが、それは間違いだったらしい。
不意に衝撃を受けたため、結城は全くそれに対応することができなかった。
「ぐふっ……。」
パンチの衝撃で、肺に溜まっていた空気が声帯を経て変な声になって口から外へ出る。
その声が廊下にいるイクセルに届かないはずもなく、こちらの存在はあっさりとイクセルにバレてしまった。
「……誰かいるのか?」
少し警戒気味のイクセルの声が聞こえる。
しかし結城は横腹の痛みのせいで廊下の角から逃げることができず、崩れるようにしてその場にうずくまってしまう。
すると、下を向いたせいで視界の全てが廊下の絨毯に覆いつくされてしまい、周囲の様子がわからなくなった。……が、うずくまってから数秒後にイクセルが廊下の角に出現したことだけは気配で感じ取ることができた。
「あれ? ツルカじゃないか、それにユウキまで……。一体どうしたんだい?」
(見つかった……。)
せっかくの計画が台無しである。
こうなった原因であるツルカは、すぐに廊下の床に膝をついてこちらに顔を寄せ、小声で話しかけてきた。
「ほら、ユウキが大きな声出すから見つかったじゃないか。」
“殴ってごめん”とか“大丈夫か?”みたいなセリフを予想していたが、ただ単にツルカはこちらに責任を擦り付けただけであった。
「それはツルカが……いててて……。」
反論しようにも横腹が痛くてまともに言葉をしゃべることができない。
いつまでもうずくまっている訳にもいかないし、痛みをこらえながらどうしようかと考えていると、隣から嫌な言葉が聞こえてきた。
「くそ、こうなったらイクセルの首を絞めて……」
「待て待て、それは待て。」
結城はツルカを止めるべく咄嗟に身を起こし、ツルカの体を両腕でガッチリと掴む。
しかし、ツルカはすでに立ち上がろうとしており、その結果、結城はツルカの腰あたりに抱きついたまま、引き上げられるような形で膝立ちになってしまう。
同時に視線も上に持ち上がり、その結果、物珍しそうにこちらを見ているイクセルの顔が目に映った。
イクセルはその表情のまま興味ありげに話しかけてくる。
「ん? 僕に何か用でもあるのかな?」
結城はツルカに体を密着させたまま受け答える。
「いや、ちょっと人を待ってるだけで……、全然気にしなくていいから、はは……。」
わざとらしく笑いながら言うと、こちらに続いてツルカも誤魔化すように言う。
「そうそう。ボクらはリョーイチを待ってるだけだ。いいから大人しく寝てろよイクセル。」
「リョーイチ君を?」
人を待つのになぜ廊下でコソコソする必要があるのか……。結城は自分でも説得性に欠けると強く感じていたが、これ以上の言い訳を思いつきそうにない。
イクセルは明らかにこちらの不自然な態度を疑っていた。……ところが、特に何も追求することなくあっさりと身を引いてくれた。
「そうかい……。」
それだけ言うと、イクセルは本を指の上で回転させながら自分の部屋へと戻っていく。
(何とか凌いだか……。)
結城はツルカの腰から手を離して胸をなでおろす。
監視する場所を変える必要はあるだろうが、作戦自体は続けることができそうだ。
……と思ったのも束の間、廊下を歩くイクセルが急に私にあることを提案してきた。
「そうだユウキ、待ち人が来るまで僕とお喋りしないかい?」
イクセルは踵を返し、再びこちらに戻ってくる。
「最近はトレーニングもできないし、話し相手もオルネラかツルカだけだったからね。悪いけど、病人の気晴らしに付き合ってくれないかい?」
これから私と話す余裕があるということは、今日は七宮と会うつもりは無いのだろうか。
ツルカの推理も怪しいことだし、七宮は来ないと判断していいのかもしれない。
「わかった。私も話したいこと色々あるし……。」
快くイクセルの話相手役を買って出ると、ツルカはふいっとその場から離れていく。
その様子を見て、結城は慌ててツルカを呼び止める。
「どこに行くんだツルカ?」
ツルカは素早くこちらに身を寄せ、早口で耳打ちしてきた。
「こうなると七宮も来ないだろうし、ボクはお喋りに付き合う義理もないからな。……一応そこら辺を見回ってくる。……もし七宮を見つけたらすぐに携帯端末に連絡する。」
イクセルの様子を見た限りでは七宮と会う予定はないように思えるが、万が一ということもあるし、見回って損ということはないだろう。
結城は相槌を打ってそれを了解した。
すると、ツルカも小さく頷き、イクセルが私のところに来る前にその場から去っていった。
――その後、結城の携帯端末が鳴ることはなく、暫くの間結城は待ち伏せの事も忘れて、イクセルとVFBについての話に花を咲かせていた。
3
ラボから徒歩で2分弱。キルヒアイゼンのチームビルに隣接して建てられているその建物は1STリーグフロートの中で最も有名な個人宅、キルヒアイゼン邸だ。
その外観は中世時代の洋館を彷彿とさせるデザインとなっている。
しかし、その建築素材はまるっきり現代のものであり、のっぺりとした壁面にレンガ柄の模様がペイントされているだけだ。また、無数にある少し縦長い窓も強化ガラスでできており、光を遮るカーテンも布ではなく、エレクトロクロミズムを使用した電子カーテンだ。
中の様子は分からないが、前時代の建築素材はほとんど使ってないと考えていいだろう。
……ただ、洋館の玄関付近にある庭園には本物の植物の姿があった。
門から玄関までは10メートルにも満たないが、そこには数十種類の花や見たこともないような植物が整然と植えられているのだ。
一目見ただけで管理が大変なのが分かる。しかし、少しの間見ているだけで心が癒される気がするので、それだけの価値はあるだろう。
諒一はそんな植物たちに囲まれ、木目調の大きなドアを眺めつつ、玄関付近で10分近く悩んでいた。
(勝手に家の中に入っていいものだろうか……。)
ドアのロックは外れているのだが、諒一はそこで躊躇していた。
オルネラさんは結城が遊びに来ていると言っていた。しかし、だからといって勝手に家に侵入するのはどうなのだろう。インターホンを鳴らそうにもドア付近には見当たらず、ドアを直接ノックしようにも、中でイクセルさんが眠っているかもしれない可能性を考えると、下手に大きな音を立てられない。
それに、あの有名なキルヒアイゼンの邸宅だ。足を踏み入れた途端に警報がなるかもしれないし、何かトラップのようなものがあるかもしれない。
(それは考え過ぎか……。)
色々と思い悩んでいると、やがて屋内から廊下を走る足音が聞こえてきた。その足音はみるみるうちに玄関にまで到達し、すぐにドアが勢い良く開かれた。
そこから出てきたのはツルカだった。
ツルカはパーカーにミニスカートとという歳相応の格好をしており、頭にはぶかぶかの大きな帽子を被っていた。
その大きな帽子のせいで視界が悪くなっているのか、ツルカはドアの脇にいるこちらの存在に気づくことなく、玄関から門まで元気に駆けていく。
諒一は結城の事を聞くべく、その背中に声を掛けた。
「ツルカ、どこかに出かけるのか。」
声を掛けられ、ツルカは足を止めてこちらに振り向く。
「……散歩だ。」
答えている間もツルカは後ろ歩きで門に向けて進んでいた。よほど急ぎの用事でもあるのだろうか。
「一人で散歩か? 結城も来てるんだろう?」
結城の事を聞くと、ツルカはようやく足を止め、家に向けて指差した。
「ユウキはイクセルとお喋り中だ。」
その指はキルヒアイゼン邸の窓の一つに向けられていた。……そこでイクセルとお喋りしているということなのだろう。
ツルカが今家から出てきたことを考えると、お喋りが始まってからほとんど時間は経っていないと推測できる。それならばしばらく時間がかかるだろうし……かと言ってお喋りに割って入るつもりもない。
「そうか……一人だと危ないし、散歩に付きあおう。」
あまりキルヒアイゼン邸の中に入りたくなかった諒一は、ツルカに散歩のお供を申し出た。
そう言って玄関から離れようとした諒一だったが、ツルカの返事は予想に反するものだった。
「いや、いい。散歩って言ってもお姉ちゃんに会いに行くだけだし。」
ツルカに同行を拒否され、どうしようかと悩むも、諒一に残された道は『待つ』以外に残されていなかった。
ツルカは返事をしてすぐにこちらに背を向け、門から外へ出る。
その時に今の諒一にとってありがたい言葉が聞こえてきた。
「……ユウキを待つんだったら客間で待ってていいぞ。ボクとユウキの食べかけのお菓子が残ってるはずだから、それでも食べてればいいさ。」
「そうさせてもらおう。」
家の住人から許可をもらったのだから、遠慮無く家に入ることができる。
去っていくツルカを見送りつつ、諒一は玄関のドアノブに手を掛けた。
家の中に入り、客間まではすぐだった。
別にドアに『客間』と表記されているわけではないが、この部屋が客間であることは間違いない。なぜならば、開きっぱなしのドアからテーブルの上に散乱しているお菓子類を発見したからだ。
(あんなに食べ散らかして……)
諒一はすぐさまそれを片付けたい欲望に駆られたが、ハウスキーパーの仕事を奪ってはいけないと思い、その衝動を抑えた。
その広い部屋には円形のテーブルが5つほどあり、また、一人がけ用のシックな色のソファも無数にあり、それぞれが均等にテーブルの周囲に配置されていた。
そんな中、一人の男性がソファに座っているのを発見した。
その後ろ姿からそこそこ若い人であることが分かったが、それがハウスキーパーなのか、客人なのかを判断することはできなかった。
とりあえず諒一はその男性に挨拶してみる。
「こんにちは。お邪魔しています。」
こちらが声をかけると、男性は頭を少しだけ動かして返答してくれた。
「そんなに畏まることはないよ。僕もこのお宅にお邪魔してる立場だからね。」
「……?」
そのセリフから男性が客人ということは判断できた。
しかし、客人にしては妙に慣れている様子だ……。多分、キルヒアイゼンと付き合いが長い人物なのだろう。
さらに諒一は、その客人がイクセルと仲の良いランナーではないかとも予想した。
そしてその予想は全て的中していた。……悪い意味で。
「やあ彼氏君。」
男性は予兆もなくこちらに振り向き、その顔をこちらに晒した。
……それはダークガルムのVFランナー、七宮であった。
「七宮宗生!? 何故ここに……。」
七宮は不敵な笑みを浮かべつつ軽く会釈をする。
「これはこれは、フルネームでどうも。」
……彼が1STリーグのランナーになってから、勝利者インタビューや個人特集で何度も顔を見ている。しかし、今見ている顔はそんな外面のいいものではなく、数年前の日本で見た、そしてVFBフェスティバルの時にミュージアムの資料室で見た、狡猾さを感じさせられる顔だった。
その笑顔の裏にどれだけのドス黒い感情を隠しているのだろうか……全く想像ができない。
「……。」
予想外の来客者に、諒一はその場から動けず固まってしまう。
そんな風に絶句している間に七宮はわざわざこちらに事情を説明し始める。
「今日はイクセルとも話そうと思ってたんだけれどね。……もたもたしている間に結城君に先を越されてしまったよ。」
そこまで言って、七宮はテーブルの上にあるスナック菓子を摘み、口の中に放り込む。
「……おまけにツルカ君と結城君は僕を探しているみたいだし、もうイクセルを誘うのは諦めるしか無いみたいだ。」
固まっていた諒一だったが、その言葉を聞いて自然と疑問が口から出ていた。
「誘うって……イクセルさんに何かをやらせるつもりなのか!?」
「まさか、君が思ってるようなことをやらせるつもりはないよ。」
七宮はすぐに否定し、付け加えて言う。
「イクセルの病気は僕としても想定外だったからね。もともと彼に無茶をさせるつもりはなかったけれど、この調子じゃ諦めるよりほかなさそうだ。彼は腐っても僕の『親友』だし……それに、イクセルが大事になれば彼女が悲しむ。」
今更、何をやらせるつもりだったか聞くつもりはなかった。しかし、諒一は『彼女』という言葉が気にかかっていた。
「彼女って、オルネラさんのこと……」
「それはともかく、こうやって話すのは初めてだね、彼氏君。」
オルネラさんの名前を出した途端、七宮は大きな声でこちらのセリフをかき消してきた。
意外にも子供っぽい方法で言葉を遮られ、諒一の緊張が少しだけほぐれる。
だが警戒を緩めることはなく、諒一は強めの口調で七宮と相対する。
「……確かに、2人だけで会話するのは初めてだ。でも会話するより先にその“彼氏君”と呼ぶのを止めて欲しい。……結城とは彼氏彼女の間柄じゃない。」
「ごめんごめん、仲間内ではいつもこうやって呼んでいるからね……。」
諒一は、七宮が敵だと認識しているのに、案外普通に話せていることに驚く。
害意がないことが解り、諒一は会話しやすいように七宮の座るソファの近くまで移動することにした。
諒一がソファやテーブルの合間を進んでいる間、七宮は違う話題を振ってくる。
「そう言えば、今日まで研修ご苦労様。オルネラに教わったことは役に立ちそうかい?」
その情報を当たり前のように語る七宮に諒一は驚く。
「どうしてそれを……」
この事は公にされていないはずだ。というより、非公式な研修なので公にされるわけがない。もし、この事が学校やスポンサーに知れればきつい追求は免れないだろう。
七宮はこちらをじっと見つめながら言葉を続ける。
「研修のお陰で色々と役に立つ知識と技術が身に付いたみたいだね。そのオイルの染みこんだ手が君の努力を物語ってるよ。」
「……。」
手のことを言われ、諒一は自分の手を目の前に持ってくる。指や手のひらのシワの部分には黒い汚れがこびりついており、爪の間も同じ色で染められていた。
しかもそれは一朝一夕にできる汚れではなく、年季の入った、まるで入れ墨のようなものだった。
毎回きちんと作業用の手袋をつけているはずなのだが、どうにも汚れてしまうのだ。
これからも日常的にVFの整備をするだろうし、この手の汚れが落ちるのは随分先の事になるだろう。そんな事を思いつつこちらが手を降ろすと、同時に七宮が話を再開させる。
「……ところで、疑問には思わなかったのかい? どうしてそんなに手が汚れるまで、君みたいな学生がキルヒアイゼンで研修を受け続けられたのかを。」
確かに七宮の言うとおりだ。それは薄々自分でも感じていた。
キルヒアイゼンが親切心で研修学生を受け入れるにしても、あまりにも期間が長すぎるし、その指導も学校以上の密度だったのだ。
「……まさか。」
七宮が言わんとしていることがぼんやりと解った所で、本人の口からその理由が述べられる。
「そう、オルネラに君の指導を頼んだのは僕だよ。君がFAMフレームを自力で整備できるようにね。ついでに言うと、アール・ブランにFAMフレームを提供するように指示したのも僕だ。……どうだい? 驚いただろう。」
驚くどころの話ではない。あのFAMフレームが七宮からの贈り物だと知れば、結城がどんな行動に出るか分かったものではない。
その息を呑む事実とは裏腹に、諒一の口からは単純な言葉しか出てこなかった。
「そうだったのか……」
「あれ? あまり驚いていないみたいだね。君の驚く顔を拝みたかったのに……。」
ふと七宮の顔を見ると、かなり残念そうな表情を浮かべていた。そんな意外な表情を見て諒一は思わず謝ってしまう。
「悪かった。これでもかなり驚いているつもりだ。」
そう言うと、七宮の表情は元に戻った。
「……本当に噂通りの無表情っぷりだね。鹿住君から聞いたとおりだ。……まぁ座りなよ。」
七宮は微笑した後、隣のソファを指さして座るように指示してきた。
しかし、諒一は不用意に慣れ合うつもりはさらさら無いので、その誘いをキッパリと断る。
「立ったままで構わない。」
「いいから。何も危害を加えようってわけじゃない。そうだ、一緒にお菓子を食べよう。」
そう言って七宮はお菓子をついばみ、それ以降は何も話さなくなってしまう。
このままだと話が進まないかもしれないと感じ、諒一は警戒しつつ、七宮の隣ではなく、テーブルを挟んで正面のソファに腰を下ろした。
すると、七宮はすぐに会話を再開させる。
「む、これ美味しいよ。ほらどうぞ。」
「どうも……。」
諒一は七宮からクッキーを受け取り、それを口の中に放り込む。すると、新鮮なバニラの香りが鼻腔内を刺激した。先程までケミカルチックな臭いの中で作業していた分、余計に新鮮な気分にさせられるのかもしれない。
七宮はそのクッキーの他にもスナックを口に運びながら馴れ馴れしく話す。
「僕としてはツルカ君や結城君に見つかる前にこの家から脱出したいところだけれど、せっかくこうやって2人きりになれたんだ。少し話そうじゃないか。」
話すことに関しては異論はなく、諒一はコクリと頷く。
するとすぐに七宮は余計なことを言わず、本題に踏み込んできた。
「……これからオルネラはチームの運営に加えて、僕が依頼した作業のせいで忙しくなる。だからもう君の指導に手が回らない、というわけなのさ。」
オルネラさんが七宮の協力者だというのは意外な事実だった。……このことを結城は知っているのだろうか。
それを考えるべく諒一は過去のことを振り返る。
すると、スエファネッツとの試合の前の最終調整の時、結城がオルネラさんのことを睨んでいたことを思い出した。もしかして既にあの時、結城は薄々勘付いていたのかもしれない。
それに比べ、オルネラの近くにいて気づけなかった自分を情けなく感じつつ、諒一は七宮に話しかける。
「……ひとつ、訊いてもいいか。」
「手短に頼むよ。」
質問の許可を得た所で、諒一は根本的な疑問を七宮にぶつける。
「……どうしてこんな事をオルネラさんに指示したんだ。」
長い間キルヒアイゼンという場所で研修を受けることができたのだ、ただの気まぐれではないだろう。
どんな答えが来るか予想していると、七宮は小さく笑った。
「フフ……いい質問だね諒一君。僕もそれを君に話すつもりだったんだ。」
七宮は手に持っていたスナック菓子をテーブルの上に戻し、その手を肘置きの上に載せる。
「簡単な話だよ。……ただ単に、アカネスミレの整備スタッフを確保するためさ。」
急にアカネスミレの名を出され、諒一は無表情のまま色々と思考する。しかし、自分が研修を受けた理由と直接結びつけることが出来ず何も反応できなかった。
「……整備なら他にいくらでもスタッフがいる筈……。」
辛うじて出てきたのはそんな言葉だった。
その言葉を否定するように七宮は長々と話し始める。
「現在、FAMフレームをまともに管理できるのはオルネラを含めてキルヒアイゼン内にも数名しかいない。……その内の一人くらいならアール・ブランに送ることはできるけれど、そうなるとキルヒアイゼンのスタッフが納得できないはずだ。……貴重な人材を敵チームに送るなんて、チーム責任者としてまともな判断じゃないからね。」
今まで通りオルネラさんがアール・ブランのラボに来てくれれば問題ない、という反論が頭に浮かんだが、それも先ほどの七宮の論に照らし合わせると無理だということに気づく。
七宮はこちらがそれを口に出す前に説明を続ける。
「もちろん、このままオルネラ本人がアール・ブランのラボに出向くのもリスクが高いわけだ。というのも、既にこのことに感づいているスタッフが何人かいるんだよ。今は口止めできる人数だけれど、これ以上増えるとオルネラが糾弾されかねないんだ。」
そこまで言うと話を区切り、七宮は短く溜め息をつく。
「まあそんな訳で、これからアカネスミレのFAMフレームの管理は諒一君に任せたいのだけれど……いいかな?」
「頼まれなくてもそうするつもりだ。」
七宮の思惑通りに事が運んでいるようで気が進まないが、結城の事を考えるなら七宮の言う通りにするしか無い。今シーズン、ダークガルムと戦うとしてもそれは優勝決定戦の時であり、しばらく七宮が結城に手を出せる機会はない。なので、それまでは七宮に気をかける必要もないだろう。
諒一が不甲斐ない思いを感じていると、それに追い打ちをかけるように七宮が話を持ちかけてくる。
「そうだ。なんなら次は鹿住君に何か教わるかい?」
「鹿住さんに……?」
アール・ブランにいた有能なエンジニアの名前を言われ、諒一は彼女について思い出す。
鹿住葉里……おそらく彼女はオルネラさんよりも多くの技能を習得しており、その腕前も発想力も格上だ。VFエンジニアを目指す学生からすれば、彼女は私財を投げ売ってでも弟子入りする価値のある天才的なエンジニアだろう。
しかし、このまま七宮の言いなりになるつもりはない。
自分のことよりも何より優先すべきは結城のサポートであり、変なことやトラブルに巻き込まれるようなことは避けねばならない。
結城も自分がアール・ブランに居ないことを不満げに話していたし、キルヒアイゼンの研修が終了した今、これ以降は結城の傍にいるべきなのだ。
諒一は固い意志で以って七宮の提案を拒絶することにした。
「……遠慮する。」
「そんな事言わずに。久々に会えるとなれば鹿住君も喜ぶと思うよ?」
「結構だ。」
こちらが拒否の姿勢を貫いても尚、七宮の甘い誘惑は続く。
「諒一君……これは君だけの為だけじゃなくて、アール・ブランの、結城君の為にもなると思うんだけれど。それでも鹿住君と会うつもりはないのかい?」
「自分で順当に学べばいいだけの話だ。これ以上あなたの言うことを聞くつもりはない。」
諒一が若干口調を強めて言っても七宮は諦めず、逆に煽るようにして話し続ける。
「もう既に2ヶ月近くもオルネラから指導を受けている君が言っても説得力がないよ。素直に受け入れたらどうだい。僕にとっても君にとってもプラスになるはずだよ?」
説得力云々の問題ではない。
そんな話を持ち出すのならば、こちらにも誘いを拒絶するに値する単純明快な理由がある。それは七宮に対しての不快感であり、敵対心である。
諒一はその事を含め、諦めの悪い七宮に向けて強い辞退の意を表明する。
「あの時の試合、コックピットへの執拗な攻撃のことを忘れたわけじゃない。あの反則行為が見せかけのものだったとしても、結城に怪我をさせて、更に心に傷を負わせたことは事実だ……。次にあんな事があれば絶対に許さない。それだけは警告しておく。」
「なるほどね。……心に留めておくよ。」
ようやく誘うのを諦めたのか、七宮はこちらの警告を軽く受け流し、『あの時の試合』についで語り始める。
「僕も、結城君にした仕打ちについては反省してるさ。でも、これもVFBの未来を考えてのことだ。」
「未来を……?」
七宮はスナック菓子の袋をテーブルの上に投げ捨て、体を揺らして勢いをつけてからソファから立ち上がる。
「そう、未来だよ。……こんな事をいきなり言われても信じられないかもしれないけれど、時が来ればこの言葉の意味がよく分かるようになるはずさ。」
「何の話だ。」
こちらが訊き返すと、何がおかしいのか、七宮はニンマリとした笑みを浮かべつつ同じ言葉を繰り返す。
「だから、時が来れば分かるさ。」
そう言いながら七宮はテーブルの円周をなぞるようにしてこちらまで移動してくる。
そのまま別の場所に移動するのかと思われたが、七宮はすれ違いざまにこちらの肩をポンと叩いてきた。
「ッ!!」
諒一は再び警戒心を高め、咄嗟にその手を払いのける。
しかし、思い切り手を叩かれても七宮が気持ちの悪い笑みをやめることはなかった。
「詳しい説明は鹿住君に任せることにしよう。……それじゃあ、また会おう。」
そう言って七宮は窓際まで移動し、そのまま窓をあけるとそこを通って家の外に出て行ってしまった。
七宮と入れ変わるようにして部屋の中に吹きこんできた潮風を肌に感じつつ、諒一は呟く。
「鹿住さんに任せるって……どうやってだ。」
またアール・ブランに鹿住さんを派遣するのだろうか。でもそれはメンバーの心情的に辛いものがある。
どうせまた七宮が勝手に適当なことを言っているのだろうと思い直し、諒一は深く考えるのを止めることにした。
4
結城を待つこと1時間。
よほどイクセルとのお喋りは盛り上がっているらしい。結城がイクセルの部屋から出てくる気配はない。やはりランナー同士、話のネタに困ることがないのだろう。
そろそろ夕刻も近づき、部屋の中には赤くて長い西日が差し込んできている。この時間から夕食を準備するのは無理があるし、今晩は食堂で我慢してもらうことにしよう。
そんな事を考えていると、廊下から足音が聞こえてきた。
もしやと思い客間からでると、丁度こちらに向けて歩いてくる結城の姿を確認することができた。同時に声も聞こえてくる。
「あ、諒一だ。」
結城はこちらを見ると歩くスピードを上げ、すぐに言葉を交わせる距離まで近づいてきた。
「……研修はもう終わったのか?」
その結城の言葉に対し、諒一は廊下に体を半分出した状態で受け答える。
「ああ。そっちもイクセルさんとはもういいのか。」
「うん、試合の事とか色々話せた。」
かなり満足できる会話だったのか、結城の目はキラキラと輝いており、それはイクセルさんとの会話の余韻が残っているかように見えた。
しかし、そんな余韻を見ることができたのも数秒のことで、すぐに結城はこちらの事についての話をする。
「なあ諒一、さっきイクセルが“今日でリョーイチ君の研修は最後だ”って言ってたんだけど……本当なのか?」
遠慮がちに言う結城に対し、諒一は事実だけを簡潔に述べる。
「本当だ。オルネラさんの都合でこれ以上続けるのは無理らしい。」
そう答えた途端、結城の表情に笑みが戻る。
「そうか。もっと研修してても良かったのに……オルネラさんが無理だって言うなら終わっても仕方ないよな……。」
言っている内容とは裏腹に、結城はどこか嬉しげだ。
本人はその喜びを抑えているつもりらしいが、仕草の端々からそれがにじみ出ており、こちらからすればバレバレだった。これではまるで、無関心なふりをしつつも尻尾を激しく動かしている犬である。
結城は続けて研修終了に関して付け加えるようにコメントする。
「これでちょっとは諒一の負担も減るな。……というか、これ以上忙しくなってたら過労死で死んでたぞ? 少しは楽したらどうなんだ。」
その言葉を聞きつつ諒一は客間の中に入り、一番近い場所にあるソファに腰を下ろす。
「シーズン中なんだし忙しくて当たり前だ。それより結城も楽ばっかりしてないでトレーニングしているのか?」
結城もこちらに続いてソファに座ろうとしていたが、なぜか途中で行動を中断し、こちらのすぐそばまで移動してくる。そしてこちらに向けて腕をつきだした。
「見くびるなよ? 諒一のメニューは毎朝こなしてるし、学校でも基礎トレーニングで結構きつめの運動もやってる。……ほら、見てみろ。」
結城はつきだした腕をその場で曲げて力こぶをつくり、続いて反対の手でこちらの手を掴み、二の腕を触らせた。
結城としては硬い筋肉を自慢するつもりだったのだろうが、そのような感触は全く得られなかった。むしろ、諒一が感じたのは硬いとは正反対の感触であった。
「やわらかいな。」
こちらがそう言った途端、結城は素早く手を払いのけた。そしてこちらと目を合わせることなく、しどろもどろに言い訳し始める。
「……あれ? 筋肉ついたと思ってたんだけど……。」
心なしかその仕草は恥ずかしげだ。
トレーニングに値するだけの成果を感じることができなくて不満に思っているのだろう。そんな事だけで顔を赤くして恥ずかしがることもないのに……。それだけ結城は真面目にトレーニングをこなしていたに違いない。
そんなふうに結城の気持ちを把握し、諒一はすぐさま論理的にフォローする。
「VFBでランナーに求められるのはアウターマッスルよりもインナーマッスルだ。当然、指示しているメニューはそのためのものだし、育成コースでもそっちに重点をおいた運動をさせているはずだ。……外から見えてないだけで内側にはしっかり筋肉がついてることだろう。体重計に乗ればその変化が簡単にわかるはずだ。」
こちらが説明している間、結城の表情は恥ずかしげな物から興味を失ったような冷めた表情へと変化していく。
「あー、そんな事言ってた気がする。」
さらに感情のこもっていない単調な声でそう言った後、結城は客間から廊下へと歩いていく。
「遅くまでお邪魔すると悪いし、早く帰るぞ。」
急変した結城の態度に戸惑いつつ、諒一も急いでソファから離れて結城の後を追う。
「待て結城、……寮の前まで送ろう。」
先を行く結城の手を掴んでそう言うと、結城は先程言ったことを少し変更した。
「……やっぱりツルカとオルネラさんに挨拶してから帰る。だから先にターミナルに行ってくれ。……すぐに追いつくから。」
結城はこちらの手を覆うようにして掴むと、それをゆっくりと剥がし、一人ラボに向けて移動していく。
諒一はそんな結城を見て気を利かせることにした。
「こっちのことは気にしなくていいからじっくり挨拶するといい。その間ここで待たせてもらう。」
その言葉を聞いた結城は、玄関ホール付近でこちらに振り向いた。
「そうか……。なら後10分だけ待っててくれ。」
1時間も待たされたのだ、今更10分程度何の問題もない。
こちらが了解の意を込めて頷くと、結城はそのまま小走りで玄関ホールから外へ出ていってしまった。
「あと10分か……。」
再び一人になった諒一はふと船の出航時刻が気になり、それを確認するべく携帯端末を取り出す。すると携帯端末以外の物がポケットの中に入っていることに気が付いた。
その手触りからするとどうやら紙切れのようだ。
いつの間にポケットに入りこんだのだろうか、と思いつつ取り出してみると、その紙片にはどこかの住所が書かれていた。
その文字列を見て諒一はその紙は七宮が忍び込ませたのだと予想する。
(これは……鹿住さんの場所か。)
七宮は去り際に鹿住さんに任せるとか何とか言っていたし、ほぼ間違い無いだろう。
詳しくその住所を見てみると、それは工業団地フロート内のどこかであった。……こちらからその場所に会いに行けということなのだろうか。というか、こちら側に住所を教えてもいいものなのだろうか。
それを簡単に渡してくる七宮の思惑が全く理解出来ない。
そもそも、この住所はいつの間に書かれた物なのだろうか……。
「……。」
いち早くこの事を結城に知らせようかとも考えたが、まだシーズン中だし、余計なことで心配を掛ける必要はない。ついでに、今日七宮と遭遇したことも、結城に聞かれない限り話すつもりはなかった。
もちろん鹿住さんの件も秘密にして、後で秘密裏に対処するつもりだ。会うだけなら問題ないだろう。
(鹿住さん……元気にしているんだろうか。)
今後について考えをまとめると、諒一はその紙切れをポケットに戻して携帯端末を取り出す。そして、改めて船の出航時間を調べることにした。
――それから10分後、諒一は再び結城と合流し、そこから女子学生寮に着くまで夕暮れの帰路を2人で歩いた。
ここまで読んで下さりありがとうございます。
この章で【盲目の獅子】は終わりです。
次の話では『クーディン』と『スカイアクセラ』との試合が描かれると思います。結城と諒一のじれったい恋模様も少しは展開していくことと思います。
今後もよろしくお願いします。