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【黒の虚像】最終章

 前の話のあらすじ

 結城が海上都市に戻ると、オルネラによってアカネスミレが修復されていた。

 結城はアカネスミレに乗ってイクセルとの試合に臨む。

 試合の前半は恐怖のせいでまともに戦えなかったが、後半になるとイクセルの手助けもあって、いつも以上の実力を発揮することができた。

 その実力は本気のイクセルとまともに攻防できるほどのものだった。

 結局、結城はイクセルに負けてしまうも、清々しい気持ちで試合を終えることができた。

 しかし、急にイクセルがアリーナ上で倒れて病院に搬送されてしまい、自分の復活を素直に喜べないでいた。

最終章


  1


「心配かけて悪かったね。」

 見舞いに来た結城を待ち構えていたのはにこやかにフルーツを頬張るイクセルだった。

 病室のベッドの上にいるものの、血色は良く意識もはっきりしているようだ。

(あれ? なんかすっごく顔色がいいんだけど……)

 昨日、アリーナでぶっ倒れて、そのまま手術を受けた人物には見えない。

 心臓の手術と聞いて、集中治療室で人工呼吸器やいろんな管につながれている姿を想像したのだが、イクセルは呼吸器どころか点滴すらつけていない。

 ただ、体はまだうまく動かせないらしく、オルネラさんにフルーツを口に運んでもらっていた。微笑ましいというかなんというか、世界中の男が羨むようなシチュエーションであることは間違いない。

 そんなイクセルの意外に元気な姿は結城に安堵の溜息をつかせた。

(なんだ……心配して損した。)

 ――結城は今、一人でイクセルのお見舞いにきている。

 諒一やランベルトもついてくるものと思っていたのだが、彼らが言うには“行っても邪魔になるだけだろう”とのことらしい。

 心配ならば遠慮しなくてもいいのに、変なところで律儀な男どもである。

 安堵した瞬間太ももに痛みが走り、結城は病室の壁に手をついた。……筋肉痛である。

 体中に湿布を貼っているのだが、湿布程度ではどうにもならないほど、筋肉が炎症を起こしているようだ。

 こんな事になるなら、杖替わりに無理矢理にでも諒一を連れてきたほうが良かったかもしれない。

 こちらが苦しそうにしている様子を見て、イクセルは短く笑う。

「ユウキの方が僕なんかよりずっと辛そうじゃないか。ほら、そこの椅子に座るといいよ。」

「……そうさせてもらいます。」

 結城は遠慮することなく、イクセルの提案を受け入れることにした。

 結城は入口付近にあった丸椅子に腰を下ろすと一息つき、改めて病室の中を見渡す。

 病室は広く、一人暮らしならば十分にここで生活できるほどの規模の部屋だった。

 ベッドは頭の部分が壁につくような感じで、病室の中央に配置されており、ベッドを挟んで向こう側にはオルネラさんがいた。

 オルネラさんはベッドの脇に座っており、お皿に盛られたみずみずしいフルーツをイクセルの口元へ運んでいる。

 手術が終わってそう時間も経っていないのに、点滴もしないで食べていていいんだろうか。

 ……とにかく、病室にいるのはオルネラさんとイクセルだけだった。

 結城はあと一名足りていない少女のことが気になり、オルネラに質問する。

「そういえばツルカはどうしたんです? 昨日は一緒にヘリコプターに乗ったと思うんですけど……。」

 ツルカの事を聞くと一瞬だけオルネラさんの手が止まったが、すぐにそれを再開し、目線をイクセルに向けたままで答えてくれた。 

「ツルカちゃんは、今は近くのホテルで眠ってます。手術中はずっと起きていたんですけれど、手術が成功した途端、緊張の糸が切れちゃったみたいで……。」

 その話はイクセルにとっても初耳だったらしく、フルーツをモグモグと咀嚼しながらも、意外そうな顔をしていた。

「へぇ、あのツルカが僕のことを心配してくれてたのか……。」

 食べながら言ったのでモゴモゴした声になっていた。話す時くらい食べるのを止めてもいいのに、イクセルはオルネラさんが運んでくるフルーツを食べ続けていた。

「あの、オルネラさん、こんなことになってごめんなさい。」

 結城は自分にも少なからず原因があると感じ、一応謝った。

 ここでようやくオルネラさんはフルーツ皿から手を離す。

「謝らなくていいんですよユウキさん。いずれはこうなると分かってましたから……。」

(分かっていた……?)

 てっきり、イクセルが激しく操作したせいで心臓発作的なものを起こしたのだと思っていたが、実はそうでもないらしい。

 オルネラの言い方が気にかかり、結城は失礼だとは思いながらも詳しく訊いてみる。

「もしかして、前にもこんな事があったんですか?」

 こちらがそう言うとオルネラさんはイクセルに顔を向ける。

 それは話していいかどうか確認を取るような所作だった。

 ……やがて話すことを決めたのか、イクセルが直接私に答えてくれた。

「持病なんだ。元々心臓が弱くて医者からはVFBを長く続けられないって警告されていたんだけど……あと10年は続けたかったかもね。」

「そんな……」

 いきなりの告白に結城は驚く。

 オルネラさんはその話を聞いて、気を重そうにして俯いていた。

 そんなオルネラさんを慰めるように手を握りつつ、イクセルは話を続ける。

「黙っててごめん。でも、試合前に言わなくてよかっただろう?」

「それはそうですけど、なんでオルネラさんは止めなかったんです?」

 素朴な疑問を投げかけると、オルネラさんは力なく首を左右に振った。

「……あんな笑顔で“平気だよ”なんて言われて、無理矢理に試合をやめさせるなんて私にはできなかったんです。」

 病気のことを知っていながらも、何もできなかったようだ。

 オルネラさんはさぞ辛い思いをしたことだろう。

 それに対し、イクセルは空気を読まずに気楽な口調で話していた。

「最後にユウキと戦えて楽しかったよ。これからはコーチでも始めようかな、ハハ。」

 結城はそんな呑気に冗談を言うイクセルの姿を見て、この人が手術を受けなければならないほど患っている病人には思えなかった。

 明日からでもランナーに復帰できそうに思えてしまい、結城は思わず訊き返す。

「ほんとに……もう復帰できないんですか?」

 こちらの質問に対し、イクセルは首を左右に振る。

「残念ながら無理みたいだ。胸にはペースメーカーを埋めこまれちゃったし、絶対安静って言われてるからね。……心惜しいけれどこればっかりは仕方ないさ。」

 イクセルは自分の胸あたりを軽く撫でながらそう言ったが、すぐに意見を翻した。

「ま、実際はこのままでも何とか戦えると思うけれど……。戦えるというだけで、勝利は望めないだろうね。」

 イクセルはため息混じりにそう言った。

 急に元気がなくなりだしたイクセルに対し、結城は取り繕うように話しかける。

「無理に試合に出ることも無いですよ。それに、ペースメーカー埋め込んでる相手とは誰も戦いたくないと思いますし……。」

 少なくとも私は戦いたくはなかった。試合中に発作でも起こされたらたまったものではない。それに、もしもそのまま死んじゃったりしたらトラウマものである。

 しかし、イクセルには心当たりがあるようだった。

「七宮ならやりかねない。あいつはとんだドSだからね……。」

 イクセルも数年前の1STリーグで七宮に何かをされたのか、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

 オルネラさんも同意見らしく、渋い顔をして深く頷いている。

「た、たしかに……そうですね。」

 ついひと月前、七宮から拷問に等しい嫌がらせを受けた結城もそれに同意した。

 病室にいる3人ともが嫌なことを思い出していると、3人ともが思い浮かべているであろう人物の声が聞こえてきた。

「ドSだなんて、言ってくれるね。」

 声に驚き病室の入り口を見ると、なんとそこに七宮本人が立っていた。

「七宮!?」

 七宮はスライド式のドアを開けたまま、そのドアもたれかかっていた。

 なぜ開けたままにしているか疑問に思っていると、七宮に続いて白衣の女性が病室に入ってきた。白衣といってもそれは看護師や医師のものではなく、研究者が着るような生地の厚い白衣だった。

 そして、それを着ているのは漆のような黒髪を持つ日本人女性だった。

「鹿住さん……?」

 鹿住さんはこちらと目を合わすことなく床の一点を見つめたまま入室してきて、そのまま特に何もせずに壁に背を預けた。

 鹿住さんが入室すると、七宮はドアから身を離した。

 スライド式のドアが自動で閉まると、ようやく七宮は話し始める。

「結城君も見舞いに来ていたんだね……」

「……。」

「昨日の試合は素晴らしかったよ。あのぶんだと他のチームとも十分に渡り合えるだろうね。」

「……何しに来たんだ。」

 睨みつけながら返事をすると、七宮はおどけたような反応を見せた。

「そんなにあからさまに嫌な顔すること無いじゃないか。……つれないなぁ。」

 そして、何事もなかったかのように部屋の奥にむけて歩き出す。

 結城はそれを阻止するべく椅子から立ち上がった。……が、筋肉痛のせいで上手く立ち上がれず、少し腰を浮かせたところで再び椅子に座ってしまった。

 そんな私の様子を見て、イクセルは何でもない風に話す。

「そんなに警戒しなくても大丈夫だよユウキ。一応、七宮とは友人だからね。」

「こ、こんな奴と友達だったんですか!?」

 知り合い程度だと思っていたので、友人と言われて結城は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

「酷い言われようだなぁ。……流石の僕も傷つくよ。」

 “こんな奴”呼ばわりされた七宮は物悲しそうな表情を浮かべていた。

 そのまま七宮はイクセルが寝ているベッドまで移動し、その脇に立つ。

「僕みたいのが友人で悪かったね。」 

 その七宮のセリフをスルーして、イクセルは私を見たまま喋る。

「……ずいぶんユウキに嫌われてるんだな。」

「あんな事をやれば嫌われて当然かな。今さら謝る気もないし仕方ないね。」

 七宮は特に気に留めてないのか、被害者である私の目の前でそんなことを言っていた。 

(なんであんな仲良さそうに話してるんだ……?)

 結城はあのイクセルが七宮みたいな外道と普通に会話しているのが不思議で不思議でたまらなかった。しかもあの様子だとオルネラさんも面識があるらしい。

 当時はライバルみたいな関係だったと聞いていたのだが、今会話している様子を見るととてもそうとは思えない。

(いや、ライバルだったからこそ仲がいいのか……?)

 そんなことも考えたが、とにかくイクセルと七宮はまるで旧友のようであった。

 丸椅子に座ったまま2人の様子を観察していると、不意にオルネラさんが鹿住さんの方を向いて七宮に質問をした。

「ところで、あちらの女性は?」

「ああ、あれは……」

 七宮が紹介を始めたところで、鹿住さんがようやく口を開いた。

「……鹿住です。初めましてオルネラさん。」

 久々に聞く鹿住さんの声は相変わらず透き通った耳触りのいい声だった。

 鹿住さんは軽く会釈をすると、病室の壁際から離れてこちらの近くにまで歩いてきた。

 その際、結城は再び鹿住に目線を向けてみる。

 しかし、鹿住は目線を前方に保ったまま、目を合わすことを頑なに拒否していた。

「そう、あなたが……」

 オルネラさんはしげしげといった感じで鹿住さんを観察していた。

 鹿住さんは観察されてきまりが悪いのか、その視線を避けるようにそわそわしていた。

 しかしそれも長くは続かない。

「ん? どうかしたのかいオルネラ。」

「いえ、何でもないです。」

 イクセルに質問され、オルネラさんはすぐに鹿住さんから注意を逸らした。

 オルネラさんの視線から解放され、鹿住さんは緊張からも解放されたようで、すぐ近くから短いため息が聞こえてきた。

 短い会話を終えると、七宮はすぐにベッドから離れる。

「見たところ元気そうだし……大したことなくて安心したよ。」

 ただ単にイクセルの安否を確認しに来たのだろうか。

 このまま鹿住さんを置いて帰って欲しい気分だったが、そんなことになるはずもない。

 七宮は短い間を置いてイクセルに要求し始める。

「……少し彼女を借りてもいいかな。」

「私はついて行かないぞ。」

 結城は咄嗟に拒絶するも、それに対して七宮は苦笑の反応を見せた。

「いや、結城君じゃなくて……。そちらの可憐な女性だよ。」

 まるで私が可憐な女性ではないような言われようだったが、あまり大手を振って反論できないのが悔しいところだ。

 指名されたオルネラさんは特に迷う様子も見せずベッドの脇から立ち上がる。

 そして、イクセルの耳元に顔を寄せて何やら小声で耳打ちし始めた。

 その耳打ちはすぐに終わり、イクセルが頷くとオルネラさんはベッドから離れる。

「……では、少しソウキさんと話してきます。」

(ソウキ? ……あ、フルネームは『七宮宗生』だったっけ……。)

 名前で呼ぶということは、オルネラさんもイクセルと同様、七宮と交流があったのかもしれない。

 オルネラさんが病室を出る準備をしている間、イクセルは七宮に話しかけていた。

「ここで話しても僕は構わないんだけれど……駄目なんだろう?」

 イクセルの言葉を七宮は肯定する。

「悪いねイクセル。あまり君には聞かれたくない話なんだ。」

「そうなのか……じゃあ、その間僕はユウキとお喋りでもしているよ。」

 私としてはオルネラさんのことが心配なので2人の後を付けたい気分だったが、イクセルはあまり気にしていないようだ。

 オルネラさんはすぐに準備をして、病室の出口に向けて歩いていく。

 その間もオルネラさんは心配そうにイクセルの方を見ていた。

「すぐに帰ってきますから……ユウキさん、少しの間だけイクセルさんのことをお願いします。」

「あ、はい。」

 返事をすると同時にオルネラさんは病室から出ていき、その後を追うようにして七宮も病室から姿を消した。

 オルネラさんにまで話し相手に指名されてしまった結城は、早速何を話せばいいかを考える。

 しかし、無常にもそれは鹿住さんの言葉で遮られてしまう。

「あの、すみません。実は私も結城君に用事があるんです。」

 鹿住さんは私ではなく、イクセルに申し訳なさげに許可を求めていた。

 用事があるなら本人に確認するのが先だと思うのだが……。

(私が鹿住さんの誘いを断れるわけもないし……。)

 私が問題ないとなれば、残る問題はイクセルである。

 オルネラさんに世話を任されたばかりでイクセルを一人にしておくのが憚られた結城は、鹿住に今一度確認する。

「鹿住さん、ここじゃ話せないの?」

「はい、ちょっと……。」

 この時、初めて鹿住さんは私を目を合わせてくれた。

 濃い褐色の瞳はブレることなくこちらの目を捉えており、その話が私にとって重要な意味を持つことを教えてくれていた。

 短いやり取りだったがイクセルにはそれだけで事情がわかったらしい。私がオルネラさんとの約束を破るのを容認してくれた。

「そういうことなら仕方ないね……。ここは病人らしく大人しく寝ていることにするよ。」

「すみません……。」

 こちらの謝罪に対しイクセルは「いいんだ」と応え、枕に後頭部を押し付けるようにして仰向けになる。

「寂しくて堪らなくなったら、このナースコールで看護婦さんに相手してもらうから。」

 そう言って、イクセルは片手を上にあげて赤いボタンのついている装置を軽く振ってみせた。

「本当にすみません。」

 鹿住さんもイクセルに対して断りを入れ、すぐに病室の外へ出る。

「こっちです、結城君。ついてきて下さい。」

 行き先が決まっているのか、鹿住さんは早速私を案内し始める。

「……うん。」

 結城は痛みをこらえながらゆっくりと立ち上がり、鹿住の跡を追うことにした。


  2


「風が気持いいね。」

「そうですね……。」

 七宮はオルネラを連れて病院の屋上にまで来ていた。

 屋上にはヘリポートが併設されており、2人はその手前で周囲の景色を見渡していた。

 七宮から見て左側にはダグラスの本社ビルが、そして右側には港と海が見える。

 正面には緩やかにカーブしている沿岸部が見えている。これはフロートユニットを囲むようにして設置されているので、背後にも同じような景色が連続して見えているはずだ。

 屋上といっても所詮は病院なのでそこまで高くはない。

 リアトリスの跳躍力ならばギリギリ届くくらいの高さくらいだろう。

 そう考えた途端、七宮はそれをおかしく感じてしまった。

(フフ……物を測る基準がVFとは。……いよいよ僕もVFに夢中になってきたみたいだね。)

 まるで、おもちゃのことを四六時中考えて夢中になっている子供のようだな、と七宮は自覚する。

 ここまでVFBを楽しみに思えるのも初めての体験かもしれない。いい年をしてみっともないと思うが、こんな自分も悪くないものだ。

 そんなことを思いながら景色を無言で見つめていると、急に海側から強い風が吹いてきた。

 シャツがはためき、ウェーブのかかった髪が左側へ流れていく。

 ……同時に良い香りがこちらの鼻に届いてきた。

(これは……)

 上品でいてあまり強くない、しかしこんな強風の中でもしっかりと匂いの分かる、特徴のあるフローラル系の香水の匂い……。

 自然と鼻腔をすり抜けて脳を爽やかに刺激してくれるやさしい香り……。

 例えるなら、全くケミカルさを感じさせない高級な石鹸とでも言えばいいだろうか。

 全然例えになっていないと思いつつ七宮は静かに深呼吸する。

(懐かしい香りだ……。あの時から変えていないみたいだね。)

 この香りを匂うと、自然と昔のことが思い出される。

 昔はオルネラと会うたびにこの香りを感じていたものだ。オルネラと会わなくなって数年経つが、やはり匂いというものは人の記憶に残りやすいものらしい。

 七宮はその香りに釣られるようにして右を……海側を見る。すると、オルネラの横顔が見えた。

 横顔の大半はショートヘアーに隠れて見えなかったが、風で髪が揺れるたびに白い陶器のような頬が見え隠れしていた。

(……香水もそうだけれど、美しさも全く変わらないね……。)

 こちらの右に佇むオルネラは視線を前方に向けたまま黄昏ていた。

 今の晴れ渡る空をそのまま写したような青い瞳は前にある空間に向けられている。

 気取ることなく自然体で佇むその様子に、七宮はまるで自分が傍観者であるような感覚に陥る。

 まるで自分がこの女性と別の空間にいるような、そんな不思議な感覚。

 今、屋上にいるのは自分とオルネラの2人のはずなのに、そのオルネラからは“誰かと一緒にいる”という雰囲気が感じられない。

 オルネラただ一人が、その完成された空間に存在しているような気分だった。

 ……と、オルネラに動きがあった。

 オルネラは髪が顔にかからぬように右手を耳元に当てて銀色の髪をまとめる。

 その動きによって七宮が感じていた疎外感のようなものは綺麗サッパリなくなった。そして、いつの間にか止まっていた呼吸を再開させる。

 オルネラはというと、こちらの視線に気づくことなくヘリポートを見ていた。

「こっちに来た時は気づきませんでしたけど、ここってこんなに広かったんですね。」

 七宮はその言葉を受けて、視線を前に戻す。

「確かに、この広さなら軍用のタンデムヘリも発着できるかもしれないね。」

(……って、こんな事を話すためにここまで来たんじゃなかった。)

 七宮はオルネラの姿や香りに見とれていたことを不覚に思いつつ、本題に入るべく場所の移動を提案する。

「ここは少し日光がきついね……。落ち着いて話したいし、やっぱりさっきの階段まで戻らないかい?」

「いえ、ここでいいです。」

 返事と共にオルネラはこちらを向いた。

 そして息を肺に溜め、一呼吸おいて話し始める。

「……計画がうまく進めば、イクセルさんがまたVFBに出場できるようになるっていうのは本当なんですね?」

「本当だよ。今はまだその方法は言えないけれど……。」

 情報を出し惜しみして言うと、オルネラは眉をひそめた。

 そんな拗ねたような顔も魅力的だと思いつつ、七宮は続けて言う。

「まあまあ、僕の言う通りアカネスミレを修理してくれたんだ。ちゃんと約束は守るさ。」

 あまりはっきりとしない約束に、オルネラは不服そうな顔をする。

 しかし、一応はこちらを信じてくれているようだった。

「どんな方法か想像もつきませんけれど、七宮重工の技術力なら解決できそうな気がします……。ソウキさんからその言葉を聞けて安心しました。」

 この言葉を聞き、七宮は今後もオルネラから協力を得ることができると確信する。

 計画を進めることがイクセルの為になるとなれば、賛否はどうであれ、こちらに協力を惜しまないはずだ。

 やはり、夫をダシに使うのはかなり有効な手段だったようだ。

(これでVF技術者2名にランナー兼工作員が1名……。VFB協会にも十分な数の協力者を確保しているし、順調順調……。)

 約束を確認できたところで、七宮は損得勘定抜きにしてオルネラにアドバイスを送る。

「この際、イクセルに話したらどうだい。早めに“VFBに復帰できる”って言ってあげたほうがイクセルも喜ぶと思うよ。」

 そう言うと、すぐにオルネラは慌てた様子でその考えを否定した。

「駄目ですよ。そんな事言ったら根掘り葉掘り聞かれてしまいますし、そうなれば私がイクセルさんを助けるために裏で取引をしたってことが知れて……その……」

 やはりイクセルには知られたくないのか、七宮は端的にオルネラの感情を表現してみる。

「気まずいのかい?」

 こちらの言葉にオルネラは「はい」と小さく答えてコクリと頷いた。

 ――イクセルは汚い手段を好まない男だ。

 これから僕がオルネラにやらせる事を知れば、必ずそれを阻止してくるだろう。

 こちらのとの約束もあるし、オルネラが自ら秘密を暴露することはないと思うが、万が一ということもある。

 イクセルに話が漏れないよう、一策を講じる必要もあるかもしれない。

 この間はキルヒアイゼン邸でイクセル、オルネラ、僕の3人で話し合いをして、アカネスミレの修理に関することや、結城君を立ち直らせるために小型通信装置を使うことを決めた。

 結城君が立ち直った時点で彼の役目は殆ど終わってるので、次からはイクセル抜きで話を進めるのがいいだろう。

 ダグラスへの復讐についてもイクセルは基本的にノータッチみたいだし、オルネラのことさえ露見しなければ問題はないはずだ。

 視線を伏せて考えていると、不意にオルネラがこちらに問いかけてきた。

「ところで、その計画っていうのは何の計画なんですか?」

 その問いを聞いて七宮は左側、フロートユニットの中央部に見えるダグラス本社ビルを睨む。

 やはり心当たりがあったのか、オルネラはこちらのその仕草を見ただけで、その計画がダグラスへの復讐であると気付いたようだった。

「ソウキさん、まだあの時のことを……?」

 まるで事は全て終わったかのような言い方をされ、七宮は少しだけ苛ついた。

「そうだとも。さすがの僕もただの気まぐれでこんな事はしていないよ。あの時の恨みはきっちりと晴らすつもりさ。十分な利子を付けて、ね。」

 少し強めに言うと、急にオルネラがしおらしくなって謝り始める。

「あの時は力になれなくてごめんなさい。まさかあんな事になるとは思っていなかったですし、私もキルヒアイゼンを支えるので精一杯で……。」

 オルネラの言う通り、あの事件にはキルヒアイゼンも一枚噛んでいる。

 だからと言って、オルネラに責任があるわけではない。

 七宮はそのことを伝えるべく、ダグラス本社ビルから視線を離してオルネラに振り向く。

「いいさ。あれは全部ダグラスが仕組んだことなんだから……。」

 そう言ってもオルネラは責任を感じているのか、伏し目がちになっていた。

 こんなことなら、これをネタにして協力を要求すれば良かったかもしれない。……そんなことを思いながら、七宮は暗い話題を変えるべくオルネラの目をじっと見つめる。

「それよりも、まだ“あの時”の返事を聞いていなかったね。……確か君は『また会った時に返事する』って言ってたように思うんだけれど。」

 こちらの言葉にオルネラは「え?」と応えて一瞬戸惑っていたが、すぐに思い出したようで、すぐに呆気に取られた表情から恥ずかしげな表情へと変化した。

「返事って、もしかして告白のことですか?」

 何故か『告白』の部分だけ声が小さくなっていた。

 多分、思い出しただけで恥ずかしくなったのだろう。

 ……あの時は惜しげも無く歯が浮くような台詞を言ったのだから、そんな反応をされても仕方がない。

 そんないじらしいオルネラの反応を見つつ、七宮は話を再開させる。

「覚えててくれたんだね。確か、あの時は結婚を前提としたお付き合いを申し込んだはずなんだけど?」

 遠慮無く話を進めるこちらに対し、オルネラは返答を拒絶するような反応を見せる。

「今さら何を言ってるんですか。私はもうイクセルさんと結婚して……。」

 七宮はその言葉を遮るようにして、ひとまず告白の件は置いておいてイクセルについて意見を述べる。

「そのイクセルも、もう最強のランナーではなくなったんだ。例え約束通りに復帰したとしても満足には戦えないだろうね。」

 オルネラはそれを仕方ないと感じているのか、苦し紛れに答える。

「それでも、イクセルさんがアリーナで戦えるようになるなら……それで私は満足です。」

「なるほど。……それで、イクセルは本当にそれを望んでいるのかい?」

「え……?」

 いきなり根本的な問題を指摘され、オルネラは困惑しているようだった。

 七宮はオルネラに考えさせる暇を与えず、続けざまに言い伏せる。

「イクセルも、もう潮時だと思ってあんな無茶な試合をしたんじゃないかな。VFランナー同士、そういうのは直感でわかるんだ。」

「そんなことは……」

「もしかして、イクセルに最強のランナーで在り続けて欲しいと思っているのは君だけじゃないのかい? 無理してそんなことをイクセルに押し付けたりして、イクセルは喜ぶとでも?」

「そのはずです。復帰できればいいに決まってます……」

 自分の選択に自信を失ってか、オルネラの声はどんどん弱くなってく。

 正直言い過ぎな気もするが、オルネラの困る様子を見るのはまさに快感だ。

 しかし、いつまでも責めるわけにもいかないので、七宮は最後に用意していたセリフを言い放つ。

「そんなに『強いVFランナー』が好きなら、僕に乗り換えたらどうだい? ……現時点で最強なのは僕に間違い無いと思うんだけれど。」

 さすがにこの言葉には我慢ならなかったのか、オルネラは声を荒げて反論してきた。

「わ、私はVFBの強さとか、そんな俗物的な基準でイクセルさんを選んだつもりはありません!! 馬鹿にしないで下さい!!」

 珍しくオルネラは怒りの表情をこちらに向けていた。

 今までそんな表情を向けられたことのなかった七宮は、むしろそんな顔を見ることができて幸運に思っていた。また、感情をさらけ出してくれているということが堪らなく嬉しかった。

 ……一見、オルネラの反論は正当な意見のように思える。しかし、その反論ですら七宮にとっては相手を誂う材料であった。

 七宮はオルネラが言ったある単語について追求する。

「“選んだ”ということは僕もその候補には入っていたんだよね。それってつまり……」

「……昔のことは忘れました。」

 警戒されたのか、すぐに出鼻をくじかれてしまった。

 ただ、『忘れた』という言葉は、言い訳としては最低の部類に入るほど説得力に欠けるものである。

 七宮はそれを皮肉ったらしく指摘する。

「はぁ……。共同開発していたフレームの設計草案を丸暗記できるほどの記憶力があるのに、僕に対する感情を忘れるだなんて……、ずいぶん都合のいい脳を持っているんだね。」

「……!!」

 七宮は容赦なく相手の弱みや落ち度を指摘していく。

「……半ば強引に七宮重工の協力関係を断ってから、まるで独自に開発したかのようにFAMフレームを発表。そのおかげで、それ以降は七宮重工はただのパーツ提供企業としてしか扱われなかったよ。」

 淡々と話すと、オルネラは苦し紛れに言い訳をする。

「あれは、ダグラスの言う通りにやっただけで……あんな事になるとは思ってなかったんです。……本当です。」

 いよいよオルネラが可哀想になってきたので、七宮はこの辺りでオルネラを虐めるのを止めることにした。

「そう、君は全然悪くない。ただ、僕は君の記憶力に関することを話しただけさ。……それよりも、早く『告白』の返事を聞かせてほしいな。」

 ここまでしつこく言えば返事をもらえると期待していたが、オルネラは意地でも答えたくないらしい。

 オルネラはこちらの問いかけを徹底的に無視して話を逸らしていく。

「……確かソウキさんは日本で結婚していたんじゃありませんか。それなのに私に言い寄るなんて、立派な浮気ですよ?」

(そんな事まで知られていたとは……。)

 オルネラの意外な反撃に驚いたものの、七宮にとっては全く問題ないものだった。

「あんなのはただのお飾りだよ。仮面夫婦とでもいうのかな。結婚はステータスとはよく言ったものだ。」

 七宮はありのままの真実をオルネラに話していく。

「アレとは婚姻届に判子を押し合っただけの仲さ。イベントや食事会で僕の最愛の妻を演じてくれる、便利な女だよ。……いや、便利に利用されているのは僕の方か。」

 今思い返せばいい思い出もクソもない。

 トラブルと言えば、『セブン』として結城君とシミュレーションゲームで会話していた時に、一度だけ浮気を疑われたことがある。

 しかし、あれも離婚することによって“社長夫人”の肩書きを失うことがないか、それだけを心配していただけなのだろう。

 思い出したくもない女を思い浮かべつつ、七宮は言葉を紡いでいく。

「もちろんほとんど会話もないし、子供だって……」

 言いかけて、七宮は今さらながらあることに気がつく。

「そう言えば君等にも子供はいなかったね。それで本当に夫婦なのかい? それとも、イクセルは心臓だけじゃなくて別の場所にも持病を……」

「っ!!」

 さすがにこれはオルネラの琴線に触れたらしい。

 こちらがセリフを言い終える前に、右側から大振りのビンタが飛んできた。

 裏拳ともとれるそのビンタは、頬ではなくこちらの右の顎あたりに命中する。そのせいか、ビンタ特有の乾いた音は出ず、代わりに骨と骨がぶつかるような鈍い音がした。

 これがイクセルの裏拳なら泡を吹いて気を失っていたところだが、オルネラのか弱いビンタはこちらの皮膚の表面をヒリヒリさせる程度の威力しかなかった。

「てて……冗談にしてはちょっと言い過ぎだったかな。」

 七宮は一応痛いふりをして頬を押さえてみる。

 しかし、オルネラはそんなこちらの演技を見ることなく自らの手の甲をさすっていた。

 こちらの硬い顎の骨とぶつかったのだ。……かなり痛かったに違いない。

 その白い肌は打撲傷のように赤みがかっていた。

「……ずいぶん変わってしまったんですね、ソウキさん。」

 オルネラは手を押さえたままこちらに背を向け、失望したかのように言葉を続ける。

「昔のあなたは他人を馬鹿にしても、人を深く傷つけるような事は言いませんでした。」

 さりげなくひどい事を言われている気がする。

 それでも、七宮はそんなことは気にせずオルネラに言い返す。

「いや、あの時から変わらないさ。……そして君も相変わらす綺麗だよ。」

「もう冗談はやめてください。聞きたくないです。」

 オルネラは静かにそう言い、もう話したくもないのか、無言のまま屋上の出入り口に向けて歩き始める。

(ま、当然こうなるね……。)

 今さら引き止めるのも無粋だと思い、離れていく様子を眺めていると、10歩ほど進んだ所で急にオルネラが振り向いた。

「頼まれたことはきちんとやります。ですから、ソウキさんも約束は守ってください。」

「わかってるさ。」

 返事をするとオルネラは再び歩き出そうとする……が、半分振り返った所で再びこちらを向いてきた。

「あと、今後一切イクセルさんを――私の夫を貶めるような発言はしないで下さい。またこんな事があったらその時は本気で怒ります。」

 本気で怒るオルネラも見てみたいものだ。

 しかし、今そんなことを言っては何をされるか分かったものでは無かったので、反省していることを伝える。

「すまない、肝に命じておくよ。」

 こちらの言葉に満足したのか、今度こそオルネラは踵を返して屋上から屋内へ消えていった。

「……。」

 オルネラの残り香を目一杯吸い込むようにして七宮は深呼吸する。

 その残り香も潮風によってすぐにかき消され、吐いた息も風に流されていった。

 今更ながら、余計なことなど言わずに率直に思いを伝えればよかったと後悔するも、それが自分の性なので仕方ないしどうしようもない。

(でも、拒絶はされていないようだし、望みはあるかな。……ってこんな事にうつつを抜かしている暇じゃないな。)

 七宮は目を閉じて少しの間情報を整理する。

 しかし、それは急に聞こえてきた声によって中断させられてしまう。

「――オルネラ、清々しいほどイクセルにゾッコンみたいね。」

 近くからした女性の声に反応し、七宮は閉じていた目を開ける。

 すると、こちらの左側にミリアストラが出現していた。

 金髪は光を乱反射して優しく輝いており、こめかみ辺りにあるシルバーの大きなヘアピンはそれ以上に多くの光を反射してかなり眩しかった。

 今まであまり考えていなかったが、ミリアストラもそこそこ美人だ。

 個人の好みの問題なのでとやかく言うつもりはないが、やはりオルネラと比べると見劣りするだろう。

 ミリアストラはオルネラが去っていった方向を見ながらこちらに話しかけてきた。

「あんな事言って焚き付けてホントに子供ができたらどうするの? そんなことになったら余計オルネラに手が届かなくなるわよ?」

「ミリアストラ君……聞いてたのか。」

 どこで話を聞いていたのか見当もつかない。ただ、あんな話を訊かれた所で動揺する七宮ではなかった。

 先ほどの会話を思い出しているのか、ミリアストラはニヤニヤしていた。

「いやぁ、やっぱり他人の色恋沙汰は面白いわね。」

 そう言って嬉しげにこちららの顔を見上げる。

 しかしこちらがノーリアクションを貫いていると、笑うのを止めて普通に話しかけてきた。

「でも、あれも何かの作戦のうちなんでしょ? オルネラを動揺させて何が狙いなの?」

「いやいや、あれは本気さ。」

「アンタ、女を口説くときくらいその嫌らしい喋り方をどうにかしなさいよ。」

 口説いていたつもりはないのだが、ミリアストラにはそう捉えられていたらしい。

 また、そう見られていたことが、七宮にとっては意外に思えていた。

 七宮は短く笑い、愚痴を言うようにため息混じりに話す。

「全く可笑しいよ。オルネラ程度の女なんてたくさんいるのに……、僕はそれを好きなように選べるだけの高い地位にあるのに……。全く、人の心というものはよく分からないね。」

 この七宮宗生が一人の女に一喜一憂するなんて有り得ない……と数年前までは思っていた。だが、今はこの有様だ。本当に情けない。

「あはは、言うじゃない……。」

 こちらの傲慢なセリフに対し、ミリアストラは渇いた笑いを返してきた。

 それを聞いて、今までなんてくだらないことを考えていたのだろうと思い直し、しばらくはオルネラのことは保留にしておくことにした。

 そして、先程ミリアストラに遮られていた思考を再開させる。

「さて、仕事の話に戻ろうか。」

 ミリアストラは小さく頷き、七宮は今の状況を鑑み今後の予定を述べていく。

「結城君も十分強くなったことだし、これからしばらくは手助けをしなくてもいいかな。……僕も、久々のVFBを満喫することにするよ。」

「あれ、まだ何もしなくていいの?」

 何か任されるとでも思っていたのか、ミリアストラは拍子が抜けたような返事をした。

 よほど暇なのだろう。ミリアストラはかなり不満気な表情でこちらを見つめていた。

 しかし、今はやれることがないのだからどうしようもない。無理矢理やらせるとしても鹿住君の手伝いくらいしか思い浮かばない。

「また何かがあれば連絡するつもりだから、それまで自由にやっててくれ。」

 と、ここで七宮はあることを思い出し、さらにミリアストラの仕事を減らしていく。

「それと、向こう側に情報を流すのも控えめでいい。」

 ミリアストラにはダグラス側に情報を売らせているが、それも頻繁にすることもないだろう。まだ向こう側が動くような兆候は見られないし、長い間準備してきたこちらの方が数枚上手であるからだ。

 向こうに動きがあれば、その時にミリアストラを送り込んだので十分だ。

 しかし、これに関してはミリアストラは反対のようだった。

「アタシとしては、早めに大きい情報を売って信頼を獲得しておきたいんだけど、駄目なの?」

 その考えは間違いではない。

 しかし、向こうがなにも策を講じていない今、得られる情報はかなり少ない。……というか無に等しいので行くだけ無駄なのだ。

 しかし、それをストレートにミリアストラに言うと無茶をしかねないので、それらしい理由を適当にでっち上げることにした。

「……それもそうだけど、僕から情報を得難いという演出をしておいたほうがいいだろう。そんなにポンポン重要な情報を売ってたらあちらも不審に感じるだろうからね。」

「確かにそうね。何事にも適度があるって言うし……。」

 ミリアストラは納得してくれたのか、何度も頷いていた。

「そういうこと。……しばらくはVFBを楽しむといいさ。」

 こちらが労をねぎらうように言うと、途端にミリアストラはうんざりした表情をこちらに向けてきた。

「はぁ……。そろそろVFランナーやるの疲れてきたんだけど、代わりのランナーとか用意してくれない?」

 本当にVFBを楽しんでもらうつもりで発言したのに、ミリアストラにとってはVFBはそこまで楽しいものではないらしい。

 その考え方があまり理解できず、七宮はそれを不思議に思っていた。

「そんなにつまらないかい? 『クライトマン』に『トライアロー』に『ラスラファン』……どのチームも強くて戦い甲斐があると思うんだけどなぁ。」

 こちらの言葉に対してミリアストラはひときわ大きなため息を付く。

「……やっぱり、アタシはランナーには向いてないみたい。」

 そんなことは無い、と七宮は思う。

 特に射撃センスに関しては目を見張るものがある。

 基本的にVFBは飛び道具に関して規制が厳しいが、その中でそこそこの成績を収めているのだから、訓練次第ではもっといいランナーに成り得るはずだ。

「ま、仕事は仕事だから。それなりに頑張るかな。」

 こんな事を聞くと金を積みさえすれば訓練でも何でもやってくれそうな気もする。しかし、それだと全く意味が無い。それに、彼女に関しては情熱とか向上心が足りていないので望みは薄いだろう。

 ……とにかく、今はどちらでもいいことだ。計画をスムーズに進めるための駒としては申し分ないのだから。

「さて、そろそろ鹿住君は結城君に事情を説明し終えた頃だろうし……一緒に迎えに行こうか。」

 ミリアストラにそう告げて、七宮はヘリポート付近から屋上の出入り口に向けて一直線に歩いていく。

 やがて出入り口に到着すると七宮はその扉を開けてしばらく待つ。

 そしてミリアストラを先に行かせると、ようやく七宮は屋上を後にした。

 

  3


 病院内の談話室はとても静かである。

 海上都市という特殊な場所に立地する病院だけあって、院内にいる患者の中に高齢の人は見当たらない。

 私が見たところ、そのほとんどが壮年か中年の人で構成されており、病気の種類も外傷によるものが多い印象を受ける。

 ここのフロアがそういう患者専用のエリアなのかもしれないと考えられなくもない。

 しかし、まれに見かける明らかに内蔵を患っているであろう患者の姿から察するに、そんなエリア分けは存在していないのだろう。

(やはり、ここは工場も多いですし労災事故が多いのでしょうか……。)

 そんなことを考えていると、すぐ隣から恥ずかしげな声が聞こえてきた。

「鹿住さん久し振り。」

 今、私の隣に座っているのは結城君だ。

 場所は談話室の奥、隅の方にあるソファで、周囲の半径3メートル以内に人はいない。

 ……2席ほど前でうとうとしている初老男性を除けば、半径5メートル以内に人はいないことになる。

 つまり、あまり会話を聞かれない場所であるということだ。

 それにテレビからの音もそこそこあるので、注意して聞かない限りは会話を把握されることもないだろう。我ながら良い場所に結城君を連れ込んだものだ。

 鹿住は顔を横に向けて先ほどの結城の言葉に対して返事を返す。

「そうですね。元気そうで何よりです。」

「鹿住さんは……ちょっと痩せた?」

 すぐに言葉を返され、鹿住は自分のお腹や頬に手を当ててみる。

 腹部は服越しであまり感触が分からなかったが、頬は以前よりも弾力が落ちている気がする。

(確かに、ちょっと痩せ細っているかもしれないですね……。)

 体重計というものに乗る習慣がないので何グラム減少したかまでは把握できない。

 しかし、減っているのは事実なので、鹿住はその旨を結城に伝える。

「そう言われるとそうかもしれません。なにせ、ここ数ヶ月は休むまもなくリアトリスを作っていましたから。」

 今さら隠すことでもないので遠慮なくリアトリスのことを話す。

 ……外見がそっくりなのだから私が設計したのは自明の理である。

 遠隔操作の件はともかく、VFを作ることは別にルール違反でも犯罪でも何でも無いので全く問題ない。

「今も微調整で忙しいですが、もう2,3試合もすればほぼ完璧に近い形に……」

 リアトリスのことを話そうとすると、結城君は私が作ったもう一体のVFについて話し始める。

「アカネスミレ、オルネラさんが直してくれたんだ。」

 その言い方はどこか物憂げであった。

 さらに、無念そうにこちらを見つめる目と相まって、その感情が伝播してくる。

(そんな風に見つめないで下さい……。)

 まるで、私に修理して欲しかったと言わんばかりのやるせない結城君の表情に、かろうじて返事することに成功した。

「……ええ、そう聞いています。FAMフレームは操作しやすいみたいですね、昨日の試合の動きは素晴らしかったです。」

「うん。でもやっぱり私は鹿住さんのフレームのほうが慣れてるから、そっちの方がいいな……。」

 結城君は甘えるような口調で言って遠慮がちに笑う。

 その一連の動作は激しく鹿住の心を揺れ動かした。

 これが演技ではなくナチュラルな仕草なのだから始末に終えない。

「そう言って頂けると……私としても嬉しいです。」

 今すぐにでも結城君のためにアカネスミレを新調してあげたい気分だが、生憎私にはそんな暇はない。

 七宮さんの計画が終了すれば時間はできるだろう。

 ただ、その時に私がアカネスミレを修繕できる立場にあるのか、そもそもアール・ブランが存在しているのか、もっと言うとVFB自体が存続できているかどうかも怪しい。

 つまり、今後私が結城君の為に働ける可能性は殆ど無いということだ。

 鹿住は前の言葉に続けるようにしてそのことを伝える。

「……でもごめんなさい結城君。私は今かなり特殊な立場に置かれていますから……。」

「そうだよな……。」

 結城君は私の事情を察してくれたようで、それ以上は追求して来なかった。

 ……ここで一度会話が途切れた。

(そろそろ本題に入りましょうか……。)

 30秒ほどの沈黙の後、鹿住は七宮に指示された通りのことを話し始める。

「結城君に話しておきます。……七宮さんについて。」

 いきなりそんなことを言われ結城君は若干戸惑っている様子だったが、まもなく「うん」と言ってゆっくりと頷いてくれた。

 それを見て、早速鹿住は話を進めることにした。

「七宮さんが七宮重工の若社長だということは知っていますよね?」

「うん、ニュースで見た。」

 予想通りの良い返事である。

 もしも私が教師ならばこういう生徒は絶対に贔屓するだろう。

 そんなくだらないことを考えながら鹿住は続ける。

「それでは、前社長の七宮さんの父親が自殺したことは知っていますか。」

「自殺……?」

 相変わらず良い反応である。

 鹿住は一応周囲に注意を配りつつ声の大きさにも気をつけながら話し続ける。

「はい。VFB事業で大失敗し、それを悲観して自殺したと言われています。」

「それだけで自殺するだなんて……ありえないだろ。」

 早速、結城君はこちらの話に異を唱えてきた。

「七宮重工はVF以外にもいろんなモノを作ってるし、VFBで失敗したところで痛くも痒くもないはずじゃ……。」

 まさに正論だった。

 当時の七宮重工におけるVFB事業の展開具合はそれはそれは貧相なもので、宣伝目的にしても有り得ないくらいの規模の小さいものだったらしい。

 その正論を受けて鹿住は話しを次の段階へ進展させる。

「だからこそ、七宮さんは疑っているんです。――自殺する理由がないとすれば、それは自殺ではなく……」

 ここまで言うと、結城君の表情に変化が見られた。

 それは、知ってはいけないことを知ってしまった時に見せる、あの不安と驚きの混ざったような驚愕の表情だった。

「え……誰かに殺されたっていうのか!?」

 鹿住は同意するように僅かに小さく頷く。

「はい。当時の状況から考えても、その可能性が高いんです。」

 そして、続けざまにその理由も伝える。

「七宮重工はダグラスのライバルになり得る企業でした。だからダグラスは七宮重工の頭を潰した……と考えています。」

 まるでフィクションのような話を結城君は受け入れることができないようだった。

 結城君はこちらの話を否定するように首を何度も左右にふる。

「いやいや、そんな、競争相手を殺すだなんて、あのダグラスがそんな汚い真似するわけがないだろ。」

 今やダグラスはその名を知らぬ人がいないほどの大企業だ。

 そんな大それた事をするなんて100人中100人が思いもしないだろう。

(さて、次の段階です。)

 鹿住はそれを裏付けるべく、ダグラスの黒い過去について説明することにした。

「人殺しはともかく、ダグラスが非道な手段でここまで巨大に成長してきたのは事実です。」

 結城君は私の話に夢中なようで、こちらに身を寄せてきていた。

 話は全部七宮さんから聞いたことなので私の成果でないにしろ、あの結城君が興味を持って話を聞いてくれているこの状況はなかなか気持ちのいいものだった。

 更に鹿住はジェスチャーも交えながら説明する。

「……政府高官への賄賂はもちろん、事業を有利に進められるように各方面に圧力をかけて、不利な情報は報道されないようにマスコミも抱き込むという徹底ぶりです。」

 鹿住はどんどんダグラスの汚点を晒していく。

「極めつけはVFです。……本来、VFを開発し、実用化できるまで改良したのはキルヒアイゼンです。ですから、今のダグラスの地位にはキルヒアイゼンがいるのが自然なんです。」

「それは知ってる。でも、キルヒアイゼンが資金難に陥って、それをダグラスが助けたお陰でVFがここまで有名になったんだろ?」

 結城君は学校で教えられたであろう知識を披露してくれた。

 だが、鹿住は結城のその話を完璧に否定する。

「違います。ダグラスがキルヒアイゼンからVF技術を盗んだんです。」

「盗んだ!?」

「はい。――当時のダグラスはキルヒアイゼンに対して資金面で協力すると持ちかけて、海上都市の建設用機器としてVFを一時的に大量借用しました。大半はそのまま建設作業にあてられ、世間からかなりの注目を集めることになります。お陰でVFの知名度は上がり、同時にキルヒアイゼンとダグラスの名も広く知れ渡りました。……が、VFの一部はバラバラに分解されて細かく解析されていたんです。」

 一呼吸おいて鹿住は続ける。

「その後、ダグラスがオリジナルと銘打ったVFを発表したんです。これはまるっきりキルヒアイゼンのコピーでした。」

「そんな、まさか……」

 結城君はそれが信じられないのか、ショックを受けている様子だった。

 私も、七宮さんからこの話を聞いた時はショックを受けたものだ。だが、今もダグラスの企業学校に通っている結城君にとって、そのショックはより大きい物になっているようだ。

 しかし、話を途中で止めるつもりはない。

「……当然、ダグラスがキルヒアイゼンにロイヤリティなど払うはずもなく、キルヒアイゼンは有名になる代わりにVFに関する技術を全てダグラスに奪われてしまったんです。」

 当時のキルヒアイゼンのエンジニアたちが怒り狂わなかったのが不思議だ。

 数十年前ならばまだダグラスに対抗できただろうに、それが残念でならない。

 そんなことを思いつつ鹿住は口を動かせる。

「後は御存知の通りです。キルヒアイゼンがVFを発明し、ダグラスが広めたと認識されています。……が、本来ならばそのどちらともをキルヒアイゼンがやれていたはずなんです。――つまり、ダグラスはキルヒアイゼンが手に入れるべき膨大な利益を横から掠めとったというわけです。」

「でも、企業学校じゃそんなこと一言も……。」

「これは全て事実です。」

 結城君の反論を押さえて事実を叩きつける。

 大体、ダグラスが自社に不利なことをわざわざ学生に教えるはずがない。

 それでも結城君は自分なりの考えで反論してきた。

「もしダグラスが盗んだのなら、きちんと裁判なり何なり起こせばキルヒアイゼンが勝てたはずだ……。それなのに、なんでキルヒアイゼンはダグラスを訴えなかったんだ?」

 なかなかいい指摘である。

 そこまで詳しく七宮さんから説明を受けたわけではないが、鹿住には大体の事情は分かっていた。

「全てダグラスが悪いとは言いません。キルヒアイゼンにも油断していた所があったんでしょう。でも、キルヒアイゼンもただ泣き寝入りするだけではありませんでした。」

「やっぱり裁判とか起こしてたんだな?」

「いえ、キルヒアイゼンはダグラスに打ち勝つべく、すぐに新しいVFの設計に入ったんです。これは完全に極秘に行われ、慎重にゆっくりと創られていきました。……それこそがFAMフレームです。」

「そうだったのか……。」

 FAMフレームと聞いて、結城君はかなり納得している様子だった。

 当時のキルヒアイゼンはダグラスと正々堂々と技術力で勝負することを決めたのだ。企業としてその選択はあまり褒められたものではない。しかし、エンジニアの私からすれば清々しいほど格好のつく選択に思える。

 ただ、いいことばかりではなかった。

「ダグラスがその計画に気が付いたのはだいぶ後のことでした。その時点でFAMフレームは性能や拡張性共にダグラスのフレームを遥かに上回っていましたから、察知してすぐにダグラスはその計画を潰しにきたんです。」

「でも、今もFAMフレームはあるんだし、ダグラスは計画を潰せなかったんだな。」

 結城君は自信ありげに発言してくれた。

 ランナーの視点からすれば計画が頓挫しないでFAMフレームを利用できる時点で十分なのだろう。

 しかし、企業の視点で考えるとまた違った結果が見えてくる。

「結城君、ダグラスは失敗どころか妨害に大成功したんです。FAMフレームが市場に出回っていない時点でダグラスの勝ちだったんです。……今もVFのシェアはダグラスが独占状態ですし。」

「言われてみれば、オルネラさんも“高価で数が少ないのが欠点”とか言ってたような気がする……。」

 ファスナの性能は十二分に証明されているし、大量に出回れば値段もお手頃になってかなり売れることだろう。しかし、キルヒアイゼンにそこまでの体力はなく、だからと言ってダグラスに協力を求めることなどできない。

 ……なので大量生産など夢のまた夢である。

 鹿住はさらに付け足すように話す。

「あと、この件にはFAMフレームの素材で技術協力していた七宮重工も大きく関わっているんです。」

 鹿住は両手を軽く前に出して、それぞれに役割を与えるようにジェスチャーし始める。

「協力関係にあった七宮重工とキルヒアイゼン……。確実に計画を頓挫させるにはキルヒアイゼンを潰すのが定石でした。しかし、ダグラスは当時危険視していた七宮重工を潰すことを選択したのです。」

 結城君は情報を整理しているようで、こちらの両手を交互に指さしながら確認するように問うてきた。

「じゃあ、七宮を潰すついでにFAMフレームの計画も妨害された、ってことでいいのか?」

「その通りです。」

(……理解が早くて助かります。)

 鹿住は大きく頷き、結城に指されていた両手を下げて腿の上に着地させる。

「FAMフレームの情報が漏れたのも、ダグラスが七宮重工を徹底的に調査していたからでしょう。ダグラスにとってはフレームのシェアを奪われるよりも七宮重工に成長されることのほうが危険だったようです。」

 鹿住はさらに詳しく当時のことを解説していく。

「ダグラスはキルヒアイゼンを取り込んで七宮重工への裏切りを演出しました。その後、2つの仲を切り裂いてからは、別の企業にも命令して徹底的に七宮をVF事業から排除したんです……。キルヒアイゼンはその見返りとして資金を手に入れ、フレーム開発での多大な損失を埋めることができました。」

「ひどいな……。」

 結城君の視線は制服の袖にあるカフスボタンのマークに向けられていた。

 そのマークは勿論ダグラスのロゴマークであった。

 企業学校とはいえど、自分がダグラスに属していることに不甲斐なさを感じているのだろうか、結城君はなんとも悩ましい表情を浮かべていた。

「……でもまだこれで終わりではありません。次にダグラスはFAMフレームの技術を狙ってくるはずです。いつまでもキルヒアイゼンがFAMフレームを独占するのは難しいですし、奪われるのも時間の問題でしょう。」

「許せないな、ダグラス……。」

 キルヒアイゼンのオルネラやツルカ君と仲が良い分、ダグラスへの憤りも大きいことだろう。

(これで七宮さんからの指示は果たしたことになるのですが……話して正解でしたね。)

 このことを知れば、結城君が――アール・ブランが今後ダグラス側に付く心配はないはずだ。

 ……ただ、いつまでも結城君を怒らせたままだとこちらとしても心苦しいので、話題を逸らしてみることにした。

「ところで結城君、イクセルさんが元々はフリーのランナーだったという話は知っていますか?」

「イクセルが!? 確かランベルトもそんな事言ってたような……。」

 結城君は先程までの話を忘れたかのように、興味ありげな反応を見せてくれた。

 そのままそのことを話そうとすると、急に口元に手があてられた。

「鹿住君、そのくらいにしておこうか。少し話しすぎだよ。」

 それは七宮さんの手だった。

 七宮さんはいつの間にか私の隣に座っており、右手でこちらの口を塞いでいる状態にある。

 鹿住はその手を両手で押し返しながら七宮に謝った。

「すみません、結城君相手だとつい……。」

 私が話を中断したことを確認すると、七宮さんは私越しに結城君に告げる。

「さっき鹿住君が説明したことが本当かどうか、それを信じるか信じないかは結城君次第だ。これをきっかけに少しでも考え方を変えてくれるとありがたいんだけれど……。」

 七宮さんが話している間、結城君はずっと敵意の目を七宮さんに向けていた。

「こんなこと話したところで私は同情するつもりなんて無いぞ!!」

「それは、話だけは信じてくれたと思っていいんだね?」

「鹿住さんの言うことは信じる。だって鹿住さんはアール・ブランのメンバーだからな!!」

 尚も2人は私を挟んで言い合いを続ける。

「あの時、資料コーナーで鹿住さんが私に酷い事を言ったのも、全部お前の指示だったんだ!!」

「静かに、ここは病院だよ。」

「む……。」

 結城君は七宮さんが来てからずっと声を荒らげていたが、その七宮さんに基本的な事を諌められ、黙ってしまった。

 そんな結城君に対し、私も思っていたことを伝えてみる。

「結城君、言わされていたとはいえ、あんなに酷いことを言ってすみませんでした。……でも、私がアール・ブランに戻ることは無いと思います。」

 戻らないのではなく、戻れない。

 元々、時期が来ればチームから離脱させられることは知らされていたが、やはり辛いものだ。数ヶ月たった今でも名残惜しい。

 結城君はゆっくりと口を開けて、こちらの言葉に応える。

「鹿住さんが私を嫌ってなかったって分かっただけで十分だ。」

 そう言って、結城君はまたしても七宮さんに厳しい目を向ける。

「……リアトリス、絶対倒してやるからな。」

「フフ、頑張るといい。オルネラやイクセルも応援するつもりみたいだし、もしかしたら勝てるかもね。」

 七宮さんが言い終わると結城君はソファから立ち上がる。だがその動作が辛いのか、両手で太ももを押さえていた。

 その状態で結城君は脅しをかけるように言う。

「あと、あんまり鹿住さんを働かせるなよ。もし過労で倒れたりしたらその時は……」

「わかったわかった。気をつけるよ。」

 気迫に負けて七宮さんが折れると、結城君はさよならも言わずに談話スペースから出て行ってしまった。

「なんか、ずいぶん目の敵にされちゃってるなぁ……。」

 その姿を目で追いつつ、七宮さんは呟いていた。

 結城君としては、七宮さんは私をアール・ブランから奪い去った悪人なのだから、そう思われても仕方ない。おまけに色々と騙していたのだから目の敵にされない方がおかしいくらいだ。

(あんな状態だと“実は七宮さんは結城君を応援してる”なんて言っても信じてもらえないでしょうね……。)

 結城君の後ろ姿を目で追っていると、七宮さんが結果を聞いてきた。

「詳しく事情を話しても協力してくれそうになかったかい?」

 今さらながら答えが分かり切った質問に対し、鹿住は無言のまま顎を引くようにして軽く頷く。

 あんなひどい事をしておいて今更協力してくれるわけがない。

 ……そんな事はさっきの結城君の態度を見れば一目瞭然であった。

「ま、結城君には真っ当なランナー人生を進んで欲しいし、僕の復讐に巻き込むわけにもいかないか……。」

「そうですね。取り敢えず今日の目標は達成しましたし、それで良しとしましょう。」

 目標もそうだが、結城君が私と普通に接してくれたことも少し嬉しかった。

 また、着々と実力を身につけていることも大変喜ばしいことであった。

「今日の所はそれでいいか……。じゃあラボに帰ろう。外でミリアストラ君が待ってるよ。」

 そう告げると七宮さんはすぐにソファから腰を上げた。

 鹿住も「はい」と返事をしてすっくと立ち上がる。

 ふと七宮さんを見ると手持ち無沙汰に頬を掻いており、何故か片方の頬だけが赤くなっていた。

「それ、どうしたんですか?」

「……。」

 それを指摘すると、七宮さんは白を切るように何も答えずそそくさと談話スペースから出ていってしまった。

 そんな珍しい反応をおかしく思いつつ、鹿住はその後を追った。


  4


(鹿住さんの言ったことが全部本当なら……ダグラスってとんだ極悪非道企業じゃないか……。)

 結城は鹿住と別れた後、再びイクセルの病室に向けて歩いていた。

 鹿住さんは結局何を話したかったのか、その意図は掴めなかったが、ダグラスが真っ黒であることや鹿住さんが私のことを嫌っていたわけではないということだけは分かった。

 特に後者は私にとって、とても救いになるものだった。

 あの時、資料室での言葉は無理に言わされたものだと薄々は気づいていたが、やはり本人の口から嘘だったと知らされると安心する。

 ダグラスに関しては真偽は怪しいが、話を聞く限りでは矛盾点はなかったように思う。

(確認のためにオルネラさんに訊いてみようか……。)

 昔のことなので詳しくは把握できていないかもしれない。しかし、訊いてみるだけの価値はある情報だろう。 

 何をどうやって話を切りだそうかと考えていると、イクセルの病室の前に到着した。

 そして、そこには新たな見舞い客の姿があった。

「あれツルカ、中にはいらないのか?」

 病室の前、ドアの正面につっ立っていたのは普段着に身を包んだツルカだった。

 声をかけると、ツルカはすぐにこちらを向いた。

 ツルカは眉尻を下げて困った表情を見せており、入室するかしないかについてかなり迷っていることがすぐに分かった。

(顔くらい見せてあげればいいのに……。)

 仲が悪いとは言っても、イクセルは手術するほどの病を患っていたのだ。こんな時くらいはイクセルの事を労ってあげてもいいのではないだろうか。

 ツルカは手首のブレスレットを弄りながら上目遣いで私に質問してきた。

「イクセルはどうだった?」

 わざわざ病院に来るくらいだ。一応イクセルのことは心配しているのだろう。

「案外元気そうだった。果物もパクパク食べてたし……。ツルカも直接確かめてみたらどうだ。」

 容態を伝えると途端にツルカは入り口のドアから距離をとって、ドアの脇の壁に背中を預けた。

 そしてぼつぼつと喋り始める。

「ボク、イクセルが倒れた時に……本気で心配しちゃったんだ。」

 結城も廊下を歩く人のじゃまにならぬよう、ツルカの隣に立ち壁に背を向けた。

 ツルカは俯いたまま、思いの丈をぶちまけるように呟き続ける。

「今までイクセルは強くて、無敵の嫌なやつだと思ってたけど……怪我もするし病気にもかかるただの男だったんだな、って。そしたら今まで憎かったイクセルが急に心配に思えて……。」

 なかなかいい傾向ではないか。

 こんな所で言わないで病室の中で言えばイクセルも喜ぶに違いない。

「……あと、これ。」

 隣で立っているツルカはいきなりブレスレットを外し、こちらに手渡してきた。

 結城はそれを両手で掬うようにして受け取り、まじまじとそれを観察する。

 確か、これはオルネラさんからツルカへのクリスマスプレゼントだったはずだ。

 色は黒く光沢がある。VFのパーツの部品を使って作ったらしく、なかなかオリジナリティのあるデザインである。

 渡された所でどうしていいか理解できず、結城はすぐにそれをツルカに返却しようとする。

 しかし、ブレスレットを差し出してもツルカはそれを受け取らなかった。

 その代わりにブレスレットをよく見るように言ってきた。

「……その内側見てみて。」

 言われた通り、リングの内側を見てみる。

 ブレスレット自体が黒いのでよく分からないが、内側には小さな溝のようなものがあり、それはジグザクに連続して内側を一周していた。

 ――と、その不規則に続いている溝に中にアルファベットらしきものを見つけた。

 どうやら内側にメッセージを彫っていたらしい。

 見たところ英語ではない。しかし、なんとなくその意味は解る気がした。

「ツルカ、これって……」

 その20文字ほどの文字群から目を離しツルカを見ると、ツルカは自分の指を絡ませて弄っていた。

 しきりに指を触りつつも、ツルカははっきりとした口調でその文字の内容を教えてくれた。

「『兄から妹へ』……実はそれ、イクセルからのプレゼントだったんだ。」

「イクセルの……。」

 驚くべき事実を聞かされ、結城は改めてブレスレットを観察する。

(イクセルのプレゼントか……。まぁ、あのオルネラさんがこんな真っ黒でシャープなブレスレットをプレゼントするわけがないもんな。)

 結城がさっきまでの意見を180度変えていると、急にツルカが自分について語り始めた。

「……ボクは、自分がすごいランナーになって、イクセルが必要ないってお姉ちゃんに気づいてもらえるように必死で頑張ってきた。イクセルの代理で試合に出て、3RDリーグまで落ちたキルヒアイゼンを1STリーグにまで昇格させたし、今でも実力は十分あると思ってる。」

 話している間、ツルカは自らの両手を見つめ、開いたり閉じたりしていた。

(やっぱり、諒一から聞いた噂は本当だったのか……。)

 それはツルカが小さい頃からVFBに出場していたという噂のことだ。

 やはり、そのくらい飛び抜けていないと今のVF操作技術の上手さは説明できない。

「でも、危ないからっていう理由だけでお姉ちゃんに禁止されたんだ。」

(そんな理由があったのか……。)

 オルネラさんの判断は姉としては正しい判断だったのだろう。

 今まではずっとイクセルが試合に出てほとんど勝ち続けていたし、それで全く問題はなかった。……だた、これからはそうは言っていられないはずだ。

「お姉ちゃんとの約束を破るのは嫌だけど、イクセルの代わりをやれるのは今回もボクしかいない。」

 ツルカは何かを決意したのか、握りこぶしを作って自分の胸に引き寄せる。

「ボクも勇気を出してみる。……だからその間、それ預かっててくれないか。」

 ブレスレットを押し付けられ、結城は咄嗟にそれを断る。

「いや、私が整理整頓できないのはよく知ってるだろ。……私に預けるより、金庫にでもしまったほうが安全だぞ?」

 こちらの言葉に対し、ツルカは聞く耳持つつもりは無いようだった。

「ボクが試合に出場することがあれば、ユウキに預けるって決めてたんだ。いいから持っててくれよ。そんなブレスレット付けたままだとランナースーツにも着替えられないし……。それにどうせイクセルのプレゼントだからな。」

 イクセルの物だからどうでもいいということだろうか。

 姉との扱いの差が酷すぎてイクセルに同情してしまいそうだ……。

「ツルカちゃん……。」

 そんな時、不安げな声と共に現れたのはオルネラさんだった。

 既に七宮と別れていたようだし、もう病室の中にいると思っていたのだが、今帰ってきた様子だった。

 オルネラさんはツルカの真正面に立ってツルカを引き止める。

「駄目よツルカちゃん、もうあんな危険な事はさせないってイクセルさんと決めたんだから。……それに、ツルカちゃんまでイクセルさんみたいになったら私……。」

 オルネラさんは何故か情緒不安定だった。

 多分、七宮に嫌な事を言われたのだろう、そうに違いない。

 柄にも無くオロオロしているオルネラさんに対し、ツルカは大声で喝を入れた。

「しっかりしてよ!! お姉ちゃん!!」

「……。」

 オルネラさんは妹に怒鳴られ、口をつぐんで萎縮していた。

 それから間もなく、今度は落ち着いたツルカの声が聞こえてきた。

「ボクには持病なんてないし、イクセルよりも強い自信があるんだ。それに、ボク達のファスナをフリーのランナーなんかに任せたくないだろ?」

「……。」

 ツルカにそう言われ、オルネラさんは黙って頷い……たかと思いきや、すぐに首を左右に振る。

「でも、やっぱり駄目。だって次の対戦相手はダークガルムなのよ? どういうことか分かってるの、ツルカちゃん?」

 つまり、対戦相手は七宮のリアトリスということだ。

 かなりの強敵であるにも関わらず、ツルカは自信満々に言い放つ。

「ボクだってこの5年間無駄に過ごしてきたわけじゃない。誰が相手だろうとボクが勝つ。……ついでにユウキの仇もとってやる。」

「仇って……」

 言い方は間違っていないが、何か違和感を感じる結城だった。

 強気で勝利予告したツルカは、その勢いのまま病室のドアを開けた。

「ツルカ!?」

 名前を呼んで呼び止めようとするも、ツルカがこちらに振り返ることはなかった。

 さらに、さっきまで躊躇していた姿がウソであったかのようにずんずんとイクセルに向けて進んでいく。

 そしてとうとうイクセルの目前にまで来ると口を開いた。

「イクセル、七宮のことを教えてくれないか。」

 どうやらアドバイスを求めに行ったようだ。

 イクセルもイクセルで、いきなりの要求にもかかわらず素直にそれに応じる。

「ツルカが試合に出るのには反対だけど、どうせ言っても聞かないんだろうし……、少しでも勝率を上げられるよう手伝えることならなんでも手伝うよ。」

 ベッドの上で呑気にそう言い、イクセルはボサボサの髪を掻く。

 イクセルはツルカが試合に出ることについて賛成しているようで、オルネラさんはそれが不服なのか、困った表情をしていた。

「そんな、イクセルさん……。」

 すぐにオルネラさんも病室に入り、イクセルのベッドの脇まで移動する。

 イクセルはそんなオルネラさんに対して言葉を送った。

「ツルカなら大丈夫さ。」

 ……イクセルは明らかに根拠のない笑顔で適当に返事をしていた。

 そんな笑顔を病室の入り口付近で眺めつつ、結城は思う。

(ほんとに大丈夫かなぁ。)

 イクセルの助言があれば大抵のことは問題ないはずだ。

 しかし、結城は2人の仲の悪さを懸念していた。……が、今はイクセルとも普通に会話できているようだし、ツルカとイクセルの敵対関係も解消されつつあるようだ。

 結城は痛む足を若干引きずりながらツルカの背後まで移動する。

 すると、私に気がついたイクセルが声を掛けてきた。

「ユウキ、こういうことだから……敵チームのランナーと一緒に暮らすことになるけれど、これからもツルカのことよろしく頼むよ。」

「当然です。」

 実際、食堂があるので食べるものには困らない上、健康管理も寮側が行なってくれている。なので、結城は何ひとつとして面倒を見てやれていない。

 ……だが、それを正直に言うと人として駄目な気がする。

 私がいるだけで寂しくならないのだし、それはそれで面倒を見ていることになる、と前向きに考えておこう。

「ん、それは?」

 イクセルは次に、私が手に持っているブレスレットを指摘してきた。

 結城はそれをイクセルがよく見える位置まで持ち上げる。

「これはツルカから預か……」

「それはユウキにあげたんだ。イクセルからのプレゼントなんか必要ないからな。……それはそうと、よくも“お姉ちゃんからのプレゼントだ”とか言ってボクを騙してくれたな……。」

 なぜかツルカは嘘をついた。

 それを真に受けたイクセルは言い訳気味に答える。

「いやぁ、ああでも言わないと受け取ってもらえないと思ったからさ。」

 そう言いつつも、イクセルは少し残念そうな表情をしていた。

 プレゼントしたものが他人に譲渡されるほど虚しいこともないだろう。

「ツルカがあげたのなら仕方ない。売り飛ばされるよりかはまだマシだと思うことにするよ。それに、ユウキなら大事にしてくれるだろうからね。」

「だから、これは預かっただけで……」

 結城は尚も事実を伝えようとするも、それで話は終わったかのようにイクセルが全く別のことをオルネラに聞き始める。

「……ところで、七宮との話はもう終わったのかい?」

「はい。少し話したんですけれど……。」

 オルネラさんの返事は尻すぼみになっていく。

 それを聞いて異変を感じない人間はいない。

 すぐにイクセルはオルネラさんに訊き返した。

「何かあったんだね。」

 オルネラさんは小さく頷いてから事情を話し出す。

「ソウキさんと色々話をしたんですけれど、前に比べてすごく変わってしまってて……まるで別人みたいでした。」

「気にすることはないさ。人間誰だって変わるものだよ。」

(変わるもの、か……。)

 結城もその言葉の意味を深く考える。

 イクセルは単にオルネラさんの言葉とは反対のことを適当に言っただけなのかもしれない。が、そうだとしても、イクセルの発言はなかなかいいところを突いているような気がした。

 ……“変わった”ということは七宮も昔は優しかったんだろうか、などと全く想像できないことを考えていると、さらにイクセルが話を追加してきた。

「それに、僕もオルネラもあの頃からすれば随分変わっているよ。」

「そうですか?」

 オルネラさんはすぐに視線を下に落とし、自らの体を見ていた。

 結城は、そういう外見的なことではなく内面的なことを意味しているのではないかと思っていたが、2人の会話に口を挟んでそれを指摘できる立場にはない。

 イクセルは尚も話を続ける。

「そうそう。僕はすごくVF操作技術が上達したし……」

「もう操作できないけどな。」

「そんな悲しい事言わないでくれよ、ツルカ……。」

 ツルカの言葉で心を抉られたのか、イクセルは項垂れていた。

「私も、変わったんでしょうか。」

 オルネラさんがイクセルに質問し、イクセルはあまり悩む様子もなくオルネラさんの変わったところを挙げた。

「オルネラは……まぁ、少し肌にハリが無くなってきたかもしれないね。」

 ――病室内の時間の流れが一瞬止まる。

(そういうことじゃないだろ……。)

 イクセルを除く女性3人全員が同じようなことを思っていたに違いない。

 それが容易に分かるほど女性陣の視線は冷たかった。

「……もういいです。ふふ……。」

 そんなイクセルの天然の反応にオルネラさんは呆れた様子で笑う。

「やっぱりイクセルさんは変わらないです。出会った時からずっと。」

 そしてオルネラさんはベッドの脇で膝を立ててしゃがみ、イクセルと視線の高さを合わせる。

「私の想いだって変わりません。イクセルさん……。」

「オルネラ……。」

 イクセルもオルネラさんの方を向いて2人は見つめ合う形になった。

(うわ、2人とも顔が近い、近いって……。)

 何というか、流石にこれはかなり気まずい。

 それを察してくれたのか、ツルカが2人の空間に割って入ってくれた。

「ちょっと2人とも、ボクの前ならまだしもユウキもいるんだぞ。」

 ツルカの言葉にイクセルとオルネラさんは反応し、2人同時にこちらに顔を向けてきた。

「っ……!!」

「いやあ、ごめんごめん。」

 オルネラさんはすぐにベッドから離れ、イクセルは後頭部に手を回して恥ずかしげに笑っていた。

 そんな雰囲気を壊すのも野暮だと思い、結城はすぐに病室を出ることにした。

「そろそろ帰ります。私も宿題とか、色々やることが溜まってるので。」

 適当な理由を述べながら結城は病室を移動し、ドアのところまで来るとすぐにドアノブに手をかける。

 そのまま外へ出るつもりだったが、ドアを開けた所でイクセルが背後から声を掛けてきた。

「多分入院も短いだろうし、今度はキルヒアイゼンのビルに遊びに来るといいさ。」

「はい。それじゃあお大事に……」

 返事をして廊下側に出ると結城は体を反転させてドアを閉じる。

 その途中で病室内のツルカの様子を確認できた。

 ……ツルカは2人の間の場所をキープしており、動く気配はなかった。

(あれじゃツルカが帰るのも遅くなりそうだな……。)

 ツルカの労を心の中でねぎらいつつ、最後に結城は軽くお辞儀をして病室のドアを完全に閉じた。

 すると、今まで聞こえていなかった院内のざわめきが聞こえるようになった。

 いろんな方向から聞こえてくるそれらを体で感じつつ、結城は出口に向けて歩き始める。

(はぁ、結局このブレスレット返せなかったな。)

 それに、ダグラスの黒い噂についても確認できず仕舞いだった。

 ダグラスの件はともかく、ブレスレットは無理にでも返しておけば良かったかもしれない。

 しかし、イクセルさんにああ言われてしまっては、むしろ返却するのは失礼のように思えていた。

 結城は手元にある黒いブレスレットをしばし見つめる。

(腕に付けてみるか……。)

 ブレスレットの内側に五指を入れ外側に力を入れると、ブレスレットは簡単に広がった。

 そのまま腕を上に向けるとブレスレットは手首を通過し、肘と手首の中間辺りまで到達する。そして結城は腕を下に向け、肘を軸にして腕を回転させてブレスレットの位置を手首にまでずらした。

「よし……。」

 手首まできた所で再び外側から力を加えると、ブレスレットは手首にぴったりとフィットした。……どうやらこのブレスレットはユニバーサルデザインのようだ。

 これだけサイズが安定しているなら長時間つけていても苦にならないだろう。

 装着に手間取っている間にかなりの距離を歩いていたらしく、結城の耳に雑音ではない、特徴のある声が聞こえてきた。

 それはVFBの実況者、テッドのものだった。

 その声に惹かれるようににして結城は声のする方へ視線をやる。……そこにはテレビモニターがあった。

 談話スペースに置かれているテレビではテッドが緑髪のヘンリーや老人解説者のウォーレンと共に先日の試合について話しているようで、昨日の私とイクセルの試合の映像が流れていた。

 あの時の主観だと普通に殴り合いをしていたように感じていたが、改めて映像を見てみるとその動作の速さや展開の速さに驚かされる。

 本当に私が操作していたとは思えないほどアカネスミレは機敏に動いており、その動作は自分ですら惚れ惚れするほどだった。

 ――あの感覚は既に体に染み付いている。

 次の試合も昨日までは行かずとも、かなり速く動くことができるだろう。そのイメージは私の頭の中で出来上がっている。

 シミュレーターでは決して味わえないあの不思議な感覚……。結城は次の試合がとても楽しみであった。

「結城。」

 談話スペースと廊下の境目で立っていると、急に抑揚のない声が耳に届いてきた。

 結城はテレビから目を離し、わざわざ迎えに来てくれたであろう幼馴染に返事をする。

「諒一、やっぱり来たのか。」

 筋肉痛で歩くのがだるく、病院に到着してからずっと寄りかかれるものが欲しかったのだ。

 結城はすぐに諒一の肩を掴んで体重を預ける。すると、少しだけではあるが足への負担が減った気がした。

「結城、イクセルさんの様子はどうだった?」

 こちらの体重に耐えながら諒一は質問してきた。

 結城は考えることなく有りのままを伝える。

「全然問題なさそうだったな。……イクセルの様子を確かめるよう、ランベルトにでも頼まれたのか?」

 諒一は無表情のまま頭を縦にふる。

「それもある。……手術が成功したことはニュースで流れていたが、容態までは知らされていなかったから気になっていたらしい。」

 私が知らないだけで、ニュースではかなりイクセルのことが取り上げられていたようだ。

 VFBファンならば誰しもが心配していたに違いない。

「……じゃあ、その報告も兼ねて私もラボに行こうかな。」

 結城はランベルトにイクセルの様子を詳しく伝えてあげようと思い、アール・ブランのラボに寄ることを決めた。

 行き先が決まった所で結城は諒一の体を押して前へ進む。

 すると、諒一が私の体を支えるように脇の下に手を回してくれた。もたれ掛かるよりも持ち上げられる方が体が楽だったので、それを素直に受け入れる。

 制服の上着が擦れて上に引っ張られているような気もするが、そのくらいは我慢しよう。

 ……と、不意に口から言葉が漏れる。

「ねえ諒一……私、変わったかな?」

「いきなり何だ、唐突に。」

 イクセルとオルネラさんのやり取りを見ていたせいだろうか、自分でもよく分からない変なことを訊いてしまっていた。

 諒一は質問の意味がよく理解できないようで、追加の説明を求めるようにこちらの顔をじっと見ていた。

 結城は手を使ってその顔を無理矢理前方へ向かせ「いいから」と言って返事を求める。

 諒一は変に小難しく考えているようで、答えもはっきりとしないものだった。

「確実に変化はしているはずだ。だけど変わったかと言われると答えに困る。」

「つまり、どっちなんだ?」

 聞き返すと、またしても諒一は的を得てない答えを返してきた。

「結城は結城だ。変わることがあっても同じように接するつもりだ。」

「えーと、そんな事言ってるんじゃなくて……」

 明らかに説明不足の感が否めなかったので、これ以上この話題を続けるのは止めにした。

 自分から話題を振っておいてなんだが、話を無理やり中断させる。

「もういいよ。……諒一は相変わらず固いなぁ。」

「ごめん、結城。」

 諒一が必要のない謝罪をすると同時に、2人は病院の玄関から外へと出た。

(これからも諒一には苦労をかけるだろうな。)

 諒一だけでなくランベルトやベルナルドさん、それにFAMフレーム関係のことではオルネラさんにまで迷惑をかける事になるはずだ。

 ただ、メンバーとの関係は良好なので、心配することは何も無い。

 ……今ならどのチームにも勝てそうな気がする。

 唯一心配することがあるとすれば、この腕に付けているブレスレットをなくさずにいられるかどうか、それだけであった。


 ここまで読んで下さり誠にありがとうございます。

 意外と長かった【黒の虚像】もこの章で終わりです。

 とうとうイクセルの代わりに、ツルカがランナーとして試合に出場することになりました。

 次の章からは再びアール・ブランがメインとなり、1STリーグのチームとの戦いが描かれていくと思います。

 今後とも宜しくお願いいたします。

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