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【黒の虚像】第三章

 前の話のあらすじ


 ダグラスからハイエンドVFを提供され、結城はそれで七宮との試合に挑むことになった。

 しかし、試合では七宮の操る漆黒のVF『リアトリス』に全く歯が立たない。

 それどころかコックピットの中まで刃を貫かれてしまい、結城は強烈なトラウマを背負うことになった。

 相手の反則負けで試合には勝ったものの、結城は怪我を負い、病院に搬送された。

 そこで結城は恐怖のせいでVFBを続けられないと悟り、VFランナーを引退するとメンバーに言い出す。

 また、諒一との同棲がバレてしまい、結城と諒一は停学処分を受け、その間日本へ帰国することになった。


第三章


  1


 朝、ツルカは一人、ベッドの上で思い悩んでいた。

(はぁ……なんであの時逃げちゃったんだろ。)

 ツルカは病院での自分の行動を思い返しており、その言動を反省していた。

 結城が“ランナーを辞める”と言った時、ツルカはその言葉から逃げるように結城からも逃げたのだ。

(ユウキ、どうなったんだろうか……)

 あの時、リョーイチみたいにずっとそばにいるべきだったかもしれない。

 しかし、ツルカにはそれが出来なかった。

 ……あれ以上、ユウキの痛ましい姿を見たくなかったのかもしれない。あんなに怯えている病人をユウキだと認めたくなかったのかもしれない。

 理由はどうあれ、ツルカはあの後すぐに自宅に帰り、そのまま自分の部屋で寝てしまった。

 なぜ女子学生寮に帰らなかったかと言うと、長期休暇の間、ツルカは自宅に戻っていたからだ。長期休暇が始まってからはなるべく学生寮にいるつもりだったが、ユウキが全く帰ってこないので、やむなく自宅で過ごすことにしたのだ。

 自宅にはイクセルも住んでいるのだが、前ほど嫌いではなくなっているらしく、ほとんどストレスは感じていない。

 むしろ毎日のようにお姉ちゃんに会えるのでいい気分だ。

 ただ、最近はユウキのこともあってか、あまりいい気分ではない日々が続いていた。

(今も病室で怯えてるんだろうな……ユウキ……。)

 ユウキのふるえる手を、恐怖で青ざめた顔を、弱々しい呼吸を思い出すたびに、胸が締め付けられるように痛む。

「……はぁ。」

 考えれば考えるほど心配になり、呼吸まで苦しくなってきた。

 目を覚ましてすぐにこんな事を考えていては駄目だと思い、ネガティブ思考に嵌ってしまう前にツルカは起きることにした。

 身体を起こしベッドから降りると、足の裏にフカフカとした感触を得た。それは部屋一面にしかれている高級な絨毯の感触であった。

 この感触も今日で最後かと思うと名残惜しい。……なぜなら明日からは学校があるため、女子学生寮に帰らねばならないからだ。

(ユウキ、しばらくは入院するだろうし……寂しくなるな。) 

 また溜息が出そうになったが、何とかそれを飲み込んでツルカはパジャマから室内着へと着替えていく。

 家なのでパジャマのままで過ごしたいのだが、今は家政婦さんもいるし、……それにイクセルもいる。

 特にイクセルにはだらしない格好を見せたくない。

 もっと言うと、イクセルには家から出ていって欲しい。……が、イクセルが出ていくとお姉ちゃんがついて行きかねないので、我慢するしかない。

 ……家自体はそこまで広くはないが、狭く感じることもない。それは、キルヒアイゼンのVFチームビルの近くに家があるからだ。

 チームビルも家の延長線上のような感じで、かなり自由に出入りしている。

 実際、お姉ちゃんやイクセルは地下のラボやトレーニングルームにいる時間が長く、しばしばビルに泊まったりしている。

 シーズン中だとその回数も多くなるのだが、今年は特に多い気もする。

(オフシーズンもちょっと旅行に行っただけで、後はずっとラボ通いだったし……大変なんだろうな。)

 もっと構って欲しいツルカだったが、そんな事を口に出すことはなかった。

 なぜならお姉ちゃんは……オルネラ・キルヒアイゼンは、VFチームだけではなく、キルヒアイゼン本社でも品質管理の仕事を任されているからだ。

 ちなみに、キルヒアイゼンの工場や本社は海上都市群に点在する工業団地フロートのうち、比較的古めの場所に立地している。そして、そこから毎日のようにダグラスの組立工場にパーツを運んでいるらしい。

 VFそのものを創ったキルヒアイゼンも、今やダグラスにフレームパーツを供給する部品会社のようになっている。……少し悔しいが、ニッチな作業用ロボットしか作ってこなかったキルヒアイゼンが今のように存続しているのは、ダグラスのおかげであることは間違いない。

 VFが海上都市建設用に大量投下されていなければ、会社すら無くなっていたらしいし、そういう意味ではダグラスに感謝しなければならないのかもしれない。

(それに、アール・ブランにVFを提供してくれたしな……。)

 昨日の試合、ダグラスのNARシリーズがなければどうなっていたのだろうか……。

 反撃する暇すらなく、もっと酷い形で負けていたかもしれない。

(駄目だ駄目だ。こんなのばっかり考えてたら駄目だ……。)

 色々と考えているうちに着替えは終了しており、ツルカは言い得ぬ不安をこわばった表情ごと洗い流すべく、洗面台に向かうために自室を出た。

 すると、丁度オルネラがツルカの部屋の前を通りかかった。

「あ、お姉ちゃん……」

 ツルカの姉、オルネラもツルカに気づいており、透き通るような声で挨拶を返した。

「おはよう、ツルカちゃん」

 ツルカは耳触りのいいその声を聞きつつ、こちらに笑顔を向けている姉のことを観察する。

 ……お姉ちゃんはいつもの仕事用のスーツではなく、外出用の服を着ていた。

 トップスは、オフショルダーのシルク地のゆったりとした物で、肩先から首元にかけて肌が露出している。さらに、お姉ちゃんはこちらと違ってショートカットなので、髪も邪魔することなく、綺麗なネックラインが現れていた。あと、全体的に紫がかった色合いの服と白い肌のコントラストはとてもいい。

 ボトムスには丈の短い黒のスリムパンツを履いており、生地も薄めで涼しそうだった。

 こちらと同じ色の銀の髪は、今はつばの広い帽子で隠れているが、その帽子によってお姉ちゃんはいつも以上にオトナの雰囲気を漂わせていた。

 今日は2NDリーグで試合があるし、個人的に試合を見に行くのかもしれない。

「お姉ちゃん、すごく似合ってる。」

 いつもなら「お姉ちゃん綺麗!!」とか何とか言いながらベタベタするのだが、今日は気が乗らないし、服にシワを付けてはいけないと思い控えることにした。

 こちらのそんな様子がおかしいと思ったのか、お姉ちゃんはその場に立ち止まって帽子を脱ぎ、質問してきた。

「ツルカちゃんどうしたの? 元気ないみたいだけど……。」

「ちょっと、ユウキのことが……ね。」

「やっぱりユウキさんの怪我は酷いの?」

 結城のこともそうだが、自分のことも変に心配させてはいけないと思い、ツルカは思い切ってオルネラに悩みを打ち明けることにした。

「昨日、ユウキが“ランナーを辞める”って言ったんだ……。」

「ユウキさん、そんなにひどい怪我だったのね。」

 お姉ちゃんは、ユウキがVFBに復帰できないほどの大怪我を負ったと勘違いしているみたいだった。

 その考えを修正するべく、すぐにツルカは言い直す。

「いや、怪我自体は大丈夫。“辞める”って言った原因はユウキの心にあると言うか……なんか、試合がすっごく怖かったらしいんだ。」

「そうだったの……」

 お姉ちゃんは一瞬安堵の表情を見せたものの、こちらが新たな原因を言うと再び憂いの表情に戻った。

 そんな姉の顔を見ながらツルカは言葉を続ける。

「ユウキが辞めるって言った時“辞めないで欲しい”って素直に言えなくて……。それに、ユウキの気持ちも考えずにひどい事言ったもしれないんだ……。」

 病室でのユウキは、何かを悟って諦めたような、そして達観したような表情を見せていた。それはまるで、闘志と共に魂も抜けてしまったかのようにも感じられた。

(……あんなのはユウキじゃない。)

 強気で大胆な、でもちょっと恥ずかしがり屋のユウキはどこに行ってしまったのだろうか。

 少し怖い思いをしたからって、それだけでVFを怖がるほど弱いVFランナーでは無かったはずだ。  

 試合の映像を見ただけでパニックに陥るほどヤワな女ではなかったはずだ。

(今のユウキは……だたの抜け殻だ。)

 一年前、軽い気持ちで付き合いを始めたはずなのに、今ではお姉ちゃんと同じくらいに大事な存在になっている。

 初めてできた友達……。

 初めて、『キルヒアイゼン』のお嬢様としてではなく、『ツルカ』として接してくれた人。

 ――そんな大切な人が朽ちていく様を見るのは耐えられない。

(ユウキ……あんなのは昨日だけだよな? 試合のすぐ後だったから疲れてただけなんだよな? ……だから、あんなのは嘘なんだ。嘘に決まってるんだ……。)

 ツルカは結城がもう試合できないと認めたくなかった。

 俯きがちになってツルカが病院での出来事を思い返していると、オルネラがそれに共感するように言葉を投げかけてきた。

「ユウキさんが辛そうにしてるのが、ツルカちゃんにとっても辛いことなのね……。」

「……。」

 端的に言えばそうだ。

 こちらが黙ったままでいると、お姉ちゃんはあることを提案してきた。

「そうね……それなら、まずは謝ってみたらどうかな?」

 つい最近、ランベルトにも同じこと言われた気がする……。

 既視感を覚えつつも、ツルカは慌てて確認の返事をする。

「謝るって言っても……ボク、病院に行ってもいいのかな。」

 こちらの問いに対し、お姉ちゃんはそれが当たり前のように首を縦に振る。

「もちろんよ。今までツルカちゃんから聞いた限りだと、ユウキさんは謝罪しにきた人を門前払いするような人じゃないと思うし……。まずは謝って、あとはそうね……笑顔かな。」

「笑顔?」

 そこに関連性を見出せなかったツルカは首を傾げる。

 すると、いきなりお姉ちゃんはおでこ同士がくっつくほど顔を寄せてきた。

「ツルカちゃんの笑顔を見ればユウキさんも元気になるはずよ。そうしたらまたVFBに出場できるようになるかもしれない……。ほら、私の元気もツルカちゃんに分けてあげるから。」

 お姉ちゃんはさらにこちら側に顔を寄せると、首筋あたりに軽くキスしてきた。

「あ……。」

 ツルカは自分の胸が高鳴り、一気に鼓動が速くなるのを感じていた。

 姉に軽くキスされただけで暗い気分が吹っ飛ぶのだから、人間の精神構造なんて単純なものだ。しかし、だからこそ、ユウキも案外簡単に元気にさせられるかもしれないと思うツルカだった。

「……わかった。ボク、ユウキを元気づけに行く!!」

 ツルカは張りのある声で宣言し、オルネラのスキンシップの余韻を惜しみつつも、制服に着替えるために自室に戻る。

 こちらが部屋に入るのを見て、お姉ちゃんは帽子を被り直して言った。

「それじゃ、気をつけてね。ツルカちゃん。」

 部屋の中で制服を取り出しているツルカに対し、優しい声でそう言うと、オルネラは玄関のある方に向けて歩き出した。

「お姉ちゃんも、いってらっしゃい。」

 オルネラの言葉を受けてツルカも部屋の中から言葉を発した。

 すると遠くからオルネラの「行ってきます」という返事が聞こえ、続いて玄関のドアが開閉する音が聞こえてきた。

 ツルカが家を出たのは、その音を耳にしてから15分後のことだった。


  2


 ツルカは結城の好きそうなお菓子を買って病院を訪れたのだが、その病院の受付で結城が退院していたことを知らされた。

 また、そこで偶然会った女医さんに「ユウキ選手なら彼氏の家に帰ったわよ」と告げられ、すぐに男子学生寮へ向かったのだ。

 昨日の今日で退院するとは思ってもいなかったツルカだったが、せめて諒一くらいには事前に連絡するべきだったと後悔していた。 

 2時間近くも無駄に時間を食ってしまったツルカは、男子学生寮の入り口で30分もかけて書類を書かされ、諒一の部屋の前まで到着する頃には昼時になっていた。

 ようやく部屋にたどり着いたツルカは、ドアの表面を軽くトントンと叩く。

「ユウキーお見舞いにきた……ぞ?」

 ドアをノックしながらそう告げたが、返事はない。

 それどころか部屋の中からは物音ひとつ聞こえてこない。

「ユウキ? ……リョーイチ?」

 もしかして2人ともどこかに出かけているのだろうか。

 ドアノブにお菓子の袋を引っ掛けて、ツルカは携帯端末を取り出す。

 そして、諒一のアドレスを入力した……が、全く応答する様子はなかった。

 リョーイチが駄目ならユウキにかけようか、とツルカが思い悩んでいると、何者かがこちらに話しかけてきた。

「おお、これはこれはキルヒアイゼンのお嬢様。このようなムサい男子寮に何か御用で?」

 見ると、そこには筋骨隆々の男子学生が立っていた。

 この学生は諒一の友達で、名前は確か……『ジクス』とか、そんな感じだったはずだ。

 ツルカはジクスのそのわざとらしいセリフに対しノーリアクションを貫き、逆に質問する。

「ユウキ達のこと知らないか?」

 ジクスは、思うような反応が得られなかったのが残念なのか、溜息をついていた。しかし、溜息をつきながらもこちらの質問に対して律儀に答えてくれる。

「ん、そういや今朝から見かけないな。今日は2NDリーグやってるし、観戦しに行ったんじゃないか?」

 ジクスは、ユウキがリョーイチの部屋にいたことを知っているようで、驚く様子もなく受け答えていた。……ただ、行方については全く知らないらしい。

(もしかして、また病院に戻ったとか?)

 あのリョーイチが無理矢理にユウキを試合観戦に連れていくとは考えにくい。それに、出かける場所があるとすれば病院くらいしか思いつかない。

 だが、そんなことをジクスに言っても仕方ないので、取り敢えず頷いておく。

「そう……かもな。」

 口ではそう言いつつも、頭の中では“ユウキ達と入れ違いになったのではないか”や“実は病院にはいたけれどボクと会いたくないから女医さんに嘘をつかせたのではないか”など色々な考えが浮かんでは消えていた。

「昨日の試合、ノーダメージで倒されてしまったみたいだな。まぁ、あの七宮相手じゃ負けても仕方ないか。」

 いきなりジクスが喋り出し、ツルカは考えを中断してジクスに注意を向ける。

 すると、ジクスは勝手にお菓子の入った袋の中身を確認していた。

 それをお見舞いの品だと判断したのか、ジクスはこちらの意図を汲むようにして、ユウキについて思うところを話し始める。

「試合の内容はともかく、アール・ブランはまだ一度も負けていないし、そこまで心配しなくてもいいだろう。次の試合まで5週空いてるって言ったし、鎖骨の怪我も余裕で治るんだろう?」

「そうだけど……。」

 この筋肉男は、ユウキの怪我の箇所まで知っていたが、肝心の精神状態が不安定だということは知らないようだった。

 下手に喋って変な噂が流れてもいけないので、ツルカはそれに関しては黙っておくことにした。

「……?」

 いきなり黙ったのを不振に思ったようで、ジクスは不思議そうにこちらを見つめていた。

 それを無視してツルカはこれからどうするかを考える。

(このまま待ってても無駄みたいだし……もう一回病院に行ってみるか……)

 一度入寮の許可は取れたし、次はそこまで面倒な手続きはないと考え、ツルカは一旦寮を出ることにした。

 しかし、お見舞いのお菓子の袋をドアノブから外そうとした所で、またしても男子学生がその場に出現した。

 しかも、今度は2人だった。

「ジクスさん、ニコライさんの準備ができました。」

「わりィな。これだけ付けるモノが多いと着替えるのもしんどいんだわ。」

 それは同じランナー育成コースの学生の『槻矢』と『ニコライ』だった。

 ツキヤとは学校で良く顔を合わせているし、ユウキが演習に参加しなくなってからはそこそこ会話もしている。年も近いのでなかなか話しやすいが、向こうはいつも恥ずかしげに話している。

(VFBについて結構知ってるし、いい話し相手なんだけどなぁ……。)

 こちらがキルヒアイゼンのお嬢様で緊張してしまうのも無理はないと思うが、あそこまで恥ずかしがられると、こちらが悪いのではないかと罪悪感を覚えてしまう。

 今もこちらの顔を見た途端に目を逸らしており、いつものようにおどおどしていた。

 ……そんな反応をニヤニヤ見ているのが諒一の友達のニコライだ。

 ニコライはピアスやアクセサリーを体中にまとっている変な奴だ。それ以外はコースも学年も違うので知らない。

 初めてみた時は“なんて無駄な物をつけているのだろう”と非難の目で見ていたが、今は自分もお姉ちゃんがプレゼントしてくれたブレスレットをいつも腕につけているので、ニコライを馬鹿にできる立場にはない。

 しかし、ニコライのつけているもの全てが思い出の品やプレゼントだとは考えにくかった。

 ジクスやツキヤはそれにはもう慣れているのか、特に指摘することなく話を進める。

「じゃ、こっちもそろそろ観戦しに行かなくちゃならないからな。……何なら一緒に来るか? 向こうでリョーイチ達と会えるかもしれないぞ?」

 こういう知り合いと一緒に観戦するのも悪く無いと思ったが、今はユウキを見つけるのが優先課題だ。

 スタジアムには行ってないと予想していたツルカは、素直に病院に行くことを告げる。

「いや、ボクは病院に行ってみる。」

 病院、と聞いてジクスは納得したように頷く。

「なるほど病院か……確かにそのほうが確実だな。一応、こっちでもユウキ達を見つけたら連絡しよう。そのくらいの協力は惜しまないが……どうだ?」

 その提案を断る理由も無いので、ツルカはありがたくそれを受け入れることにした。

「いい考えだな。……お礼にお菓子を半分やるぞ。」

 ツルカはドアノブから外していたお菓子の袋の中に手を突っ込み、スナック菓子やチョコレート菓子を渡していく。

「おいお前ら、ツルカお嬢様がお菓子を恵んでくださったぞ。」

 ジクスはそれを大きな手のひらで受け取り、順次ニコライや槻矢に押し付けていた。

 後からきた2人はその状況をあまり把握できていないようで、ツキヤはジクスから大量のお菓子を受け取りながらこちらに質問してきた。

「あの、ツルカさん……どうしたんですか?」

 小声で話してきたツキヤに対し、ボクよりも先にジクスが普通のボリュームで答えた。

「ユウキとリョーイチに用事があるんだとさ。」

 正確には、用があるのはユウキだけなのだが、わざわざ訂正する所でもなかったのでツルカは黙って聞いていた。

 ジクスから事情を聞くと、槻矢は何かを思い出したように言う。

「……あ、2人なら見かけましたよ。」

(!?)

 さすがにこのセリフは無視するわけにはいかず、ツルカはお菓子の袋をジクスに押し付けて槻矢に詰め寄る。

「どこだ!? ユウキはどこにいるんだ!?」

 槻矢が驚いたのはもちろん、ジクスやニコライもツルカがここまで必死に結城を探しているとは思っていなかったらしく、ツルカの切迫した様子を見て呆気に取られていた。

「あの、その……ツルカさん、近いです……。」

 ツキヤはこちらに詰め寄られて顔を赤くしていた。

 その意味が分かったツルカは「ゴメン」と告げて、槻矢が落ち着いて話せるよう、数歩下がって距離をとった。

 ツキヤは自分の胸に手を当てて深呼吸してから話し始める。

「僕が見たのは朝のことで、諒一さんは大きいカバンを持ってました。多分あれは……」

「あー、昨日は寮長に色々注意されたらしいからな。2人で住める物件でも探しに行ったんじゃないか?」

 槻矢が話している途中で、いきなりニコライが割り込んできた。

 その話も興味深かったので、ツルカは思わず聞き返してしまう。

「注意って……?」

 すると、ニコライではなくジクスがそれに答えた。

「お、ツルカお嬢様はご存知無いようだな。……あいつら2週間停学処分受けたんだよ。」

「停学!?」

 一体どういうことなのだろうか。新学期早々2週間も停学させられるなんてタイミングが悪すぎるにも程がある。

 さらにジクスの言葉を補足するようにニコライが説明する。

「あれだけユウキを自分の部屋に泊めてりゃ当然だな。俺らは2人の邪魔しちゃ悪いと思って黙ってたんだが、やっぱりあの寮長が気づいてないわけないもんな……。」

 それを聞いて、ツルカの頭の中に素朴な疑問が浮かび上がる。

「部屋に入れちゃ駄目なのか? だってこの間までリョーイチも女子寮に来てたじゃないか。」

 それを耳にしたニコライは「何をいまさら……」とこちらを見下すように前置きし、こちらの論を真っ向から否定する。

「あれはだな、許可貰ってた上に泊まってなかっただろ。対してユウキは毎日のように泊まってたんだ……。『通い妻』ならまだしも完璧に『同棲』状態だったからな。そっちとは次元が違うんだよ、次元が。」

「そうなのか……。」

 ツルカにとっては結城と諒一が一緒にいることは珍しくなく、むしろそれが自然で当たり前だと思っていた。しかし、よくよく考えるとニコライの言う事ももっともだ。

 それはそれで仕方ないと割り切り、ツルカは本題に戻るべく槻矢への質問を再開する。

「……それでツキヤ、2人をどこで見かけたんだ?」

 早速場所を聞くと、ツキヤはある場所に顔をむけた。

 ここからは見えないが、確かその方向には寮の正門があったはずだ。

(正門……いや、学生寮にいないんだし、正門を通ったのは当たり前だろ。)

 ツルカはもっと具体的な行き先などの詳しい情報を聞きたかった。

 そのためツルカは、“ツキヤは寮の外のどこかでユウキ達を目撃したのかもしれない”とポジティブに考えて期待していたが、その期待は外れていた。

「えっと、早朝ランニングしてた時に寮の門付近で見かけたんです。……でも、あれは部屋探しと言うよりは、むしろ旅行というか……」

「――旅行か。どこか泊まりがけで観光にでも行ったんじゃないか?」

 今度はニコライではなくジクスがツキヤの話に割って入ってきた。

 ツキヤは話を中断してジクスの言葉に反応する。

「2人きりで観光旅行ですか……。諒一さん、ああ見えてグイグイ行きますからね……」

 ニコライも、部屋探しよりも旅行のほうが説得力があると考え直したらしい。

 それに同意するように喋りだした。

「ま、最初から夫婦みたいなもんだったし今更驚かねーけどな。……それにしてもこの時期に観光旅行かぁ。俺らは明日から学校だってのに、うらやましいぜ……」

 悔しげに言うニコライに対し、ツキヤはフォローを入れるように話す。

「結城さんも諒一さんもこの長期休暇中はVFBでかなり忙しかったみたいですし、旅行くらい良いじゃないですか。」

「しかし、どこに行くかくらいは言って欲しかったなー。おみやげ頼めなかったじゃん。」

 おみやげはともかく行き先に関してはツキヤも気になっているようで、悩ましい表情を浮かべながらも自らの推理を淡々と話す。

「確かに、行き先が気になりますね。あの時間帯だと大型客船は運行してませんし……飛行機を使ったのかもしれないです。」

 ジクスも勝手にユウキとリョーイチの行き先を予想していた。

「アール・ブランのバイトで金結構溜まってたみたいだし……案外、2週間フルに使って観光地めぐって豪遊するつもりなのかもな。」

 ……そんな感じで楽しそうに話している3人を置いて、ツルカは色々と一人で考えていた。

 試合観戦、部屋探し、旅行、病院と複数の可能性は出てきたが、やはり最初に思った通り、病院にいる可能性が一番高いだろう。

 ツキヤが先ほど指摘していた大きな鞄も、リョーイチが入院用に準備したものに違いない。

(さっさと病院に行くか……)

 談話している3人組を放置して、男子寮から出ようとしたツルカだったが、運悪く何者かに注意されて足が止まってしまった。

「おいお前ら、廊下ではあまり騒ぐなよ。」

 それはゴツい男性の声で、その声がした途端3人組は驚きの声を上げ、その男性の方向に体をむけて姿勢を正した。

「す、すみません寮長。」

 ジクスの言葉から考えると、どうやらこの人が噂に聞く寮長らしい。

 見るからに優しそうな顔をしているが、怒ると怖いのだろうか。3人ともピクリとも動かず直立不動を保っている。

 寮長は部屋の番号を確認すると、こちらに対して訊いてきた。

「なんだ、停学させられた旗谷のことがそんなに気になるのか?」

「……。」

 3人は視線をまっすぐむけたまま硬直している。

 喋ってはいけないルールがあるのかもしれないが、これは情報を得るチャンスだと思い、ツルカは特に構う様子もなく寮長に話しかける。

「ハタヤって、リョーイチのことだよな?」

 ツルカの質問に対し、寮長は「そうだ」と短く答えた。

 確認が取れたところで、ツルカは質問を続ける。

「リョーイチの居場所が知りたいんだけど……外出の連絡とか受けてないのか?」

 ダメ元で訊いてみたのだが、寮長はすんなりと情報を提供してくれた。

「ああ、今朝早くに帰国すると連絡を受けたな。」

「帰国……。」

 予想外の言葉にツルカは動揺する。

 移動範囲的には旅行とさほど変わらないかもしれないが、ツルカにとっては帰国は別のことを意味しているように思えていた。……なぜならそれは、ユウキが言っていた『ランナーを辞める』という言葉を裏付ける情報だったからだ。

 リョーイチはユウキを日本へ返すために同伴しているのだろう。

(なんで日本へ連れて帰ったんだ……)

 こちらが引き止める前に結城に帰国されてしまい、ツルカは自分の行動が遅れたことを悔やみ、項垂れる。

 せっかく元気づけようと思っていたのに、肝心のユウキがいなければどうしようもない。

(少しくらいボクに相談してくれてもよかったじゃないか……)

 リョーイチは、ボクに話しても引き止められるだけだと考えて、わざと連絡しなかったのかもしれない。

 それでも、例え帰国することが決まっていても、ちゃんと伝えて欲しかった……。 

(……。)

 ツルカが肩を落としている間、寮長は3人組に向けて注意を促していた。

「……アイツらと仲のいいお前らだから教えたんだ。他には絶対にしゃべるなよ。」

 寮長にリョーイチの行き先を口外しないように釘を刺され、3人は声を裏返しながらそれを了解する。

「はい、分かりました。」

「……よし。解散。」

 寮長はそう告げるとすぐに踵を返し、階下へと消えていく。

 やがて寮長の姿が見えなくなると、3人組は姿勢を崩して安堵の溜息を付いた。

「なんだ、詰まるところ里帰りというわけか……。ってことは……」

 ジクスの言葉を続けるようにして槻矢が答える。

「日本ですね。地図で言うと東の端ですよ。」

 それを聞いてニコライはなぜか嬉しそうにしていた。

「つまり……おみやげはかなり期待できるってことだな。」

 何を呑気なことを言っているのだろうか。

 ユウキが日本に帰ってしまったということは、リョーイチだって海上都市群に戻ってこないかもしれないということだ。

 それを知らせるため、ツルカは3人組に向けて話しかける。

「おみやげなんか無いかもしれないぞ……。」

 こちらの言葉の意味が分からないのか、3人は不思議そうに顔を見合わせていた。

 そんな態度にいらついたツルカは、考えうる最悪の事態を3人に告げる。

「ユウキとリョーイチがもう帰ってこないかもしれないってことだ!!」

 そう叫び、ツルカは寮長のあとを追うようにして階下へ向かう。

 上の階から「ツルカさん!!」と、ツキヤの呼び止める声が聞こえたが、無視して寮の玄関から外へ出た。

 そして、どうすればいいか姉に助言を求めるべく、ツルカは一旦家に帰ることにした。

 ……そのオルネラが既に出かけていたことを思い出したのは、ツルカが家に戻ってからのことだった。


  3


 ――休日はいつも昼まで眠っている。

 オルネラからは“だらしないから止めたほうがいい”と言われているが、ほぼ習慣化しているので起きようにも起きられない。

 無理矢理目覚まし時計で起きるのも手ではあるが、それだと寝覚めが悪い。

 ……やはり人間、自然に起きるのが一番いいし、健康的なのだ。

 そんなすっきりとした気分で目を覚ましたイクセルは今、かなり遅めの朝食を頬張っていた。

 イクセルがいる場所はキルヒアイゼンのチームビルのすぐ近くにある住宅で、ここには4年くらい前からオルネラとツルカと一緒に住んでいる。

 もともとこの家にはオルネラの家族全員で住んでいたのだが、両親は仕事の関係で海上都市外へ、オルネラ自身も勉強や研究のため大陸で過ごす時間が多く、長い間家にはツルカとハウスキーパーしかいなかった……と聞いている。

 その後、オルネラがキルヒアイゼンのチーム責任者となって、ツルカと一緒に暮らせるようになった瞬間に僕が現れたわけだ。

 姉と一緒に暮らせると思った途端に見知らぬ男が姉を奪ったのだから、ツルカが起こるのも当然のことだ。

(それに、いろいろあったしなぁ……)

 昔を懐かしみつつ、イクセルは一人、食堂で黙々と朝食を平らげていく。

 食堂はまさに食べるだけの部屋であり、大きめのテーブル以外目立ったものはない。

 部屋の両端には酒の入った棚やレトロチックな暖房具が置いていたらしいのだが、ツルカが勝手に触るといけないとのことで酒は全て撤去され、一年中暖かいので暖房はいらないとのことで、暖房もすぐに取り払われてしまったらしい。

 ……イクセルはハーフパンツにTシャツという極限までラフな格好をしていた。また、頭には無数の寝癖が発生しており、それぞれが四方八方好き放題に跳ねていた。

 そんな寝癖を気にすることなく、イクセルは片手で情報タブレット端末のページをスクロールさせ、もう片方の手でロールパンをスープに浸して口に運んでいる。

 朝食はハウスキーパーが用意してくれたもので、毎度のことながらかなりおいしい。オルネラもこのくらい作れたらいいのにな……と、たまに思うのだが、ただでさえ仕事が忙しいのだから、彼女にそこまで求めるのは酷というものだろう。

 自分も人生の殆どをインスタント食品や外食で済ませていたので料理は苦手だ。全くできないし、そもそも調理器具を上手く扱えるかどうかも怪しい。

 VFでも刃物を扱うのは苦手なので、生身でも包丁は上手く扱えないだろう。

 色々と考えているうちに食卓からパンが無くなり、スープも綺麗に皿から消えていた。

「ごちそうさま……っと。」

 十分に食欲も満たされたところでイクセルはタブレット端末から手を離し、両手を上にあげて背中を反らせる。

 そして、家の中がとても静かだということに今更ながら気がついた。

(今日はツルカも家にいないのか……。)

 オルネラについては“今日は旧友と会いにスタジアムに行く”と聞いていたので心配していなかった。

 しかし、ツルカに関してはどこに出かけたのか少しだけ気になっていた。

 ツルカはここ数ヶ月は家によく帰ってくるようになっていたので、一度は減少していた家庭内暴力も最近は増加している。

 4年前にこちらに住むようになってからは、いつもツルカから攻撃を受けていたので、その程度のことは慣れっこなのだが、最近はその暴力にもキレがなくなってきており、少しだけではあるが心配していたのだ。

 別に、もっと強く暴力を振るってくれることを望んでいるわけではないが、なんというか、やはり少しでも変調があると義理の兄としても気になる。 

「ただいまー!! ……お姉ちゃん!!」

 ツルカのことを考えていると、早速そのツルカが帰宅してきたらしく、玄関の方からオルネラを呼ぶ声が聞こえてきた。

 その後、「お姉ちゃんお姉ちゃん!!」と連呼したかと思うと、勢い良くドアが開く音がして、ツルカが食堂に出現した。

 イクセルは部屋の入り口から近い位置に座っていたため、ツルカに殴られるのではないかと身構えた。……が、逆に近いせいでツルカはこちらに気づいていないのか、視線を遠くにして部屋の中を見回していた。

 イクセルは、肩で息をしながら慌てた様子でオルネラを探す義理の妹に声をかける。

「どうしたんだツルカ……?」

 この一声でツルカはこちらの存在に気がついたらしく、あからさまに嫌な顔をこちらに向けた。

「う、イクセル……。お姉ちゃんの場所知らないか?」

 会話すらしたくないのだろうが、それよりもオルネラの所在が気になるようだ。

 イクセルはツルカの質問にすぐに答える。

「オルネラなら出かけたと思うよ。昔の友達と会う約束をしてたみたいだし。」

「あ、そういえばそうだった……」

 ツルカは何かを思い出したのか、目を見開いた後すぐにガクリと肩を落とし、そのままこちらの隣の席に腰を下ろしてきた。

 いきなり隣に着席され、柄にも無くイクセルは動揺してしまう。

「……。」

 自分のことをまるで親の敵のように嫌っているツルカがここまで接近するのは珍しい。

 こちらのことが気にならないほど動揺しているのは、何か大きなショックを受けたからに違いないと勝手に予想し、イクセルは慎重に事情をうかがってみる。

「えーと、何があったのか話してくれないか?」

 下手に出て丁寧な口調で聞いてみると、ツルカはすぐにその理由を話してくれた。

「ユウキとリョーイチが日本に帰国したんだ……。」

「……?」

「どうしよう……ランナーを辞めるって言ってたのは本当だったんだ……。」

 今にも消え入りそうな声でそれだけ言うと、ツルカはテーブルの上に突っ伏してしまった。

(なんか、かなり深刻なことになっているみたいだ……。)

 タカノユウキが病院に運ばれたということは知っていたが、ランナーを辞めるような事態になっているとは思ってもいなかった。

 怪我自体は軽いと大会側から聞いているが、その反則行為については映像がカットされていたので何があったかは当事者に聞く以外にない。

 ……ただ単に、七宮が規格外のオーバースペックな兵装を使用したのだろうかと思っていたのだが、どうやら違うらしい……。

 あの子がVFランナーを辞めたいと言うほどだ。……十中八九、七宮に強烈なトラウマを植えつけられでもしたのだろう。

 七宮の、相手に対するプレッシャーのかけ方は半端ではないことはよく知っている。

 これはただの怪我とは違い、克服するのにかなりの労力が要るので厄介だ。 

(あの子はVFランナーになってからまだ一年のルーキーだし……受けたダメージは尚更のこと大きいだろうね……。)

 イクセルは結城のことを心から心配しているツルカを見て、自分もその助けになりたいと感じ、少しでもその気持ちが伝わるようにと、ツルカの頭に手を載せてみる。

 ツルカはこちらの手に反応してピクリと身を動かしたが、テーブルに俯せになったまま何も反撃してこなかった。

 それに安堵しつつ、イクセルはゆっくりとした口調で語りかける。

「ツルカ……。僕もあの子にはランナーをやめないで欲しいと思ってる。」

「……。」

 黙ったままのツルカに向けてイクセルはさらに続ける。

「それにオルネラから聞いたけど、ツルカはあの娘の親友なんだろう?」

「!!」

「それなら出来ることは自ずと決まってくるはずだよ。」

 そこまで言うと、ようやくツルカは頭を上げた。

 そして、こちらの目をまっすぐ見て、教えを乞うように迫ってくる。

「ボクに何が出来るんだ……?」

 ここまで近くでツルカの顔を見たのは久し振りだ。

 やはりオルネラと瓜二つだなと思う。

 オルネラと同じ銀の髪、オルネラと同じシャンプーの香り、そしてオルネラと同じ青い瞳……。年を追うごとに、ツルカはどんどんオルネラに似てきている。

(性格は正反対だけどね……。)

 初対面で「お姉ちゃんを返せ!!」と顔面を蹴られてから早数年。

 成長期ということもあるのだろうが、ツルカも綺麗になったものだ。

 特に、ここ1年は会うたびに成長しているような気もする……。

(おっと、いけないいけない……。)

 5秒くらい見つめていたらしく、その間もツルカはじっとこちらの目を見ていた。

 イクセルは少し開いてしまった間を誤魔化すべく、わざとらしく寝ぐせを手で触りながら答える。

「えーと、そうそう、つらい時にはすぐそばで支えてあげるべきだ。それが親友ってものさ。」

「そばで支えるのが親友……」

 ツルカは何かを納得したかのように小さく、何度も頷く。

「ランナーの気持ちが解るツルカなら、必ずあの子の力になれるはず。……もし説得できなくても、そばにいるだけであの子も気持ちが和らぐと思うよ。」

「……そうか、ユウキを説得できる人間はボクしかいないんだな……。」

 こちらの言葉でいよいよ決心がついたのか、ツルカは椅子を後方に跳ね飛ばしながら勢い良く立ち上がった。

 そしてツルカは声高々に宣言する。

「ボク、ユウキを追いかける……!!」

 どうやら日本まで行くつもりらしい。

 ツルカは明日から学校もあるし、色々と心配だが親友を助けるほうが大事に決まっている。

 が、そのまま空港まで直行しそうな勢いで部屋を出ていこうとしたので、イクセルは慌ててツルカを引き止めた。

「ちょっと、もしかして今から行くつもりかい?」

「もちろんだ。」

「……よし、そうと決まれば僕も……」

 自信満々にそれを肯定するツルカを見て、イクセルもついていくことにした。

 しかし、こんなラフな格好では出かけられないと気づき、イクセルはすぐに自室に戻ろうとする。

 すると、ツルカがこちらに注意してきた。

「ついてくるなよ!! 一回行ったことがあるから一人でも大丈夫だ!!」

「……。」

 ひとりで大丈夫なわけがない。

 そもそもタカノユウキが日本のどこに住んでいるのかすら知らないだろうに、探す手段は持っているのだろうか。

 ツルカはこちらの準備を待たずして、一人で部屋から出ていこうとする。

「あ、ツルカ……」

 こちらの呼びかけに反応し、ツルカは部屋の出口で止まって振り向いた。

「……イクセルは人気ナンバーワンのVFランナーなんだし、いるだけで動きが取りにくくなるだろ。あと、次の次にはグラクソルフとの試合があったはずだ。ボクについてくる暇なんて無いだろ。」

「確かにそうだけど……ツルカ一人じゃ危ない気が……」

 こちらの心配をよそにして、ツルカは部屋から出ていく。

「一応お礼は言っておくぞ。……ありがとうイクセル。」

「……あぁ、うん。」

 その言葉を最後に、ツルカはイクセルの前から姿を消した。

 本当なら無理を言ってでもついていくべきだったのかもしれないが、そうなると再び攻撃されそうだったので止めておいた。

 それに、先ほどツルカの言ったことも一理ある。

 自分がいたところで日本の地理に詳しいわけでもなし、タカノユウキにも気を使わせてしまうだけだろう。できることといえばボディーガードくらいなものだが、ツルカにはボディーガードが必要である気がしない。

(オルネラはいつもツルカに連絡用端末とカードをもたせていると言っていたし……あまり心配することもないか。……あと、日本人はやさしいと聞いたことが……)

「む……。」

 すぐに七宮の顔が思い浮かび、イクセルはその考えだけは否定する。

(……と、とりあえず、オルネラには知らせておかないとね。) 

 オルネラはこれを聞いてどう反応を見せるのだろうか。

 多分心配するだろうなと思いつつ、まずは食べ終わった食器を片付けることにした。

「よいしょ……っと。」

 イクセルはお皿を重ねて手で持つと、食堂から出てキッチンルームへ向かう。

 ……今頃、ハウスキーパーはキッチンルームで昼食の準備をしていることだろう。

 わざわざ僕一人のために、しかも起床時間に合わせて作ってくれているのだから、皿を下げるくらいの手伝いは当然だ。

(それに、今日のは特段おいしかったし……)

 ボーナスの一つくらいあげようかと思いつつキッチンルームに入ると、こちらの予想通り、ハウスキーパーは昼食の準備をしているようだった。

 イクセルはキッチンルームの入口近くにあるステンレス製の台の上に食器を置いて声をかける。

「……ごちそうさま、スープとっても美味しかった。」

 こちらの言葉を聞いて、キッチンの奥で作業をしていたハウスキーパーが振り返った。

「……満足してくれたようでうれしいよ。」

「!!」

 イクセルはその男がハウスキーパーで無いことに今更ながら気づき、警戒したものの、それがすぐに自分の見知った人間だということがわかり、確認するようにその男の名前を言った。

「七宮か……。」

 キッチンに立つ七宮はエプロンを装着していた。

 コック以外に男のエプロン姿を見たのは初めてだが、こうして見るとなかなか様になっている気がする。

 七宮は手に持っていたおたまを持ち上げ、こちらのすぐ近くにある空の食器をさして言う。

「僕の料理の腕もなかなか捨てたものじゃないだろう?」

 先ほど食べたスープは七宮が料理したものらしい……。

 よくあんな料理が作れるなと感心しそうになったが、イクセルはこの状況を七宮に説明させるべく口調を強めて問い詰める。

「どうしてこんな……ゴホッ!! ゴホッ……いつからここにいたんだ……。」

 意気込んでしまったせいか、不意に咳が出てしまった。

 七宮は一旦コンロの火を落とし、エプロンを脱ぎながらこちらに近づいてきた。

「まぁまぁ、そんなのは気にしなくてもいいじゃないか。……それにしても酷い咳だね。どこか悪いのかい?」

「大丈夫。驚いて息が詰まっただけで……。」

 イクセルが苦し紛れに言い訳をすると、それを遮って七宮が深刻そうに呟く。

「隠さなくていいよ。全部知ってるからね。」

「なんのことかな? ……ゴホッ……」

 イクセルがごまかしの姿勢を崩さないでいると、七宮はあっさりと追求するのを止めた。

「君がそういうのなら、そういうことにしておくよ……」

 やがて咳も止まり、イクセルは作りかけの料理や、調理台の上に置かれたエプロンを見ながら七宮に説明を求める。

「で、何の用で来たんだ?」

「少し大事なことを話したくてね。2人きりになりたかったんだ。……それに、いつでも来ていいって言ってただろう?」

(“いつでも来ていい”って、あの時か……)

 確か、VFBフェスティバルの時にそんなことを言ったような気がしないでもない。……ただ、あの時に金髪の女の子に容赦無く関節をキメたことはよく覚えている。

 攻撃されたからとはいえ、女性相手にひどい事をしてしまったものだ。

「急に来てお邪魔だったかな?」

 さらに話しかけられ、イクセルは思う所を遠慮無く話す。

「邪魔と言うより……ちょっと驚いたね。次からはちゃんと事前に連絡してくれないか。」

 この七宮という男は、なぜわざわざ手の込んだことをするのだろうか……。

 普通にインターホンを押して正面の玄関から入ってこれないのだろうか……。

 何か深い事情でもあるのかとも考えてみたが、全くその事情が想像できない。

「……努力してみるよ。」

 七宮はというと、まるで無理難題を押し付けられたかのような表情を見せていた。

 その反応に呆れつつ、イクセルは代わりにいなくなった本物のハウスキーパーのことを考える。

 何か言い含めて追い払ったのだろうか。それともどこかの部屋で監禁されているのではないか。……今どうしているのか微妙に心配だ。

「ところで、妹さんを一人で行かせていいのかい? 海外旅行にしてはすいぶんと軽装だったように思うけれど。」

 予想はしていたが、やはりツルカとの会話を聞かれていたらしい。

 ツルカに見つかったらどうするつもりだったか訊きたい所ではあったが、まずは七宮の質問に答えてあげることにした。

「ついてくるなと言われたんだから仕方ないよ。それに、ツルカは日本には何年か前に行ったことがあるみたいだし大丈夫……というか、元はといえば七宮のせいじゃないか。」

 話の途中でイクセルが矛先を変えると、七宮は素直に謝ってきた。

「その点については謝るよ。まさか結城君が日本に戻っちゃうなんて思いもしなくてね。」

 イクセルは軽い謝罪を無視し、根本的な原因についてさらに七宮を責め立てる。

「……前に言ったはずだ。何をするにしても他人を巻き込むな、って。なんであの子にトラウマを植えつけるような真似をしたんだ? 事と次第によっては……ゴホッ……」

 イクセルはまたしても咳き込んでしまう。

 七宮はこちらの様子を心配するように見守っていた。

「ほら、無理しない無理しない。というか本当に酷いね。そんなので試合出られるのかい?」

「試合の日までには治しておく。……それよりも、さっきの質問に答えてくれ。」

 七宮に話を逸らされそうになったので、イクセルはすぐに話題を修正する。

 すると、とうとう七宮は危険行為をした理由を話し始めた。

「あれは、そうだな……ちょっとした『教育』ってところかな。」

「教育って……そのせいであの子はランナーを辞めるなんて言ってるらしいじゃないか。」

 反論すると、逆に七宮がこちらに質問してくる。

「君は本気で結城君がランナーを辞めると思ってるのかい?」

「それは……。」

 辞めないことを踏んで、トラウマを植えつけたとでもいいたいのだろうか。

 しかし、現にあの子は日本に帰ってしまうほど気が滅入っており、ツルカの話も合わせると復帰できるかどうかも怪しいところだ。

 だが、七宮の言う通り、自分としてはタカノユウキがそう簡単にランナーを辞めるとは想像できなかった。

 ツルカが説得すればすぐにでも復帰するだろう、と心のどこかで確信しているのだ。

 そんな根拠のない理屈に頼っている自分を不可解に思っていると、七宮がさらに言葉を続けてきた。

「……ここ最近の結城君は惰性でVFBをやっているようだったし、それじゃ駄目だと思ったんだよ。結城君にはもっと成長して欲しい。そういう意味でも、ああいう通過儀礼はやっておくべきさ。」

「ひどい通過儀礼だ……。」

 実際に何をしたのか知らないのであまりよく分からないが、七宮の言いようからすると、タカノユウキに対してかなりひどい事をしたようだ。

 七宮はステンレス台に腰掛けており、その上にある食材を撫でながら話し続ける。

「自分で道を拓くためにも、困難を乗り越えるという経験は必要だよ。……今回は乗り越える壁が少し高かったような気がするけれどね。」

 ……あの七宮がこれほど言っているのだ。克服さえ出来れば並大抵の恐怖は苦にならないだろう。

「でも、それにしたって他にも方法はいくらでも……」

 イクセルにはこの方法がリスクが高すぎるように思えていた。

 それに、いくら成長させるためとは言え、一人の女の子を命の危険に晒すような真似をしていいわけがない。

 七宮もそれは重々承知だろうが、いろいろと訳があるようで、それについてこちらに説明してきた。

「そりゃあ、他にもいろんな方法はあるさ……。でも、そんな余裕が無いんだよ。今シーズン中に僕らとおなじ『域』にまで来て欲しいと思ってるんだし。」

 ……わざわざこんな手段を取らなくても、あの子は必ず強いランナーになる。

 七宮もそれをわかっているはずなのに、いったい何を焦っているのだろうか。

 ただ、七宮が執着するほどタカノユウキの存在は重要であるようだ。

 その事情を知ることが出来ればもっと状況が理解できると確信し、イクセルは遠慮もしないで七宮に質問を浴びせる。

「ちょっと待ってくれ……そもそも、あの子をどうするつもりなんだ? あの子に構ったせいで反則負けしたら元も子もないじゃないか。」

 七宮は食材を手にとって、それを弄りながら答える。

「元も子もなくないさ。アール・ブランに負けるのは初めから決めていたことだし。……でも、ただ単に無様に負けてあげるより、少しでも結城君のためになることをしてあげようと思ってね……。まぁ、君の言う通り反則はやり過ぎだったかもしれないけれど。」

 イクセルはある言葉に引っかかり、それについて聞き返す。

「勝ちを譲るつもりだった……?」

「そうだよ。そっちが本来の目的さ。」

 その本来の目的の意味が理解できず混乱しかけていると、七宮がステンレスの調理台から降りてこちらに迫ってきた。

「で、今日の本題なんだけれど……君も一緒にどうだい?」

 何について誘われているか分からず、イクセルはしどろもどろに答える。

「一緒にって……何をするつもりなんだ?」

「手を組もうってことだよ。何をすればいいかは詳しくは言えないけれど……きっと気に入ると思うよ。」

「……。」

 詳細も分からないのに無条件に首を縦に振るわけにはいかない。

 こちらが黙ったままでいると、七宮は過去の話を持ちだしてきた。

「前に言ったじゃないか。“困っているなら何でも手を貸す”と。……僕は今とても困ってるんだよ。それに、僕から誘うなんて珍しいだろう?」

 どこからどう見ても七宮が困っているようには見えない……しかし、VFBフェスティバルの日に、そんなことも言った気がする。

 自らの言葉に責任を持てと言われて育ってきたが、まさかこんな事で困っているとは想像もしていなかった。

 友達の頼みといえど、危険な行為に手を貸すような真似はできない。

 どう答えていいか分からず沈黙を保っていると、七宮が諦めたように首を左右に振った。

「……返事はまた今度でいいさ。僕はそろそろ行くよ……女性を待たせちゃ悪いからね。」

 女性と聞いて、イクセルの頭の中で点と点が繋がる。

「オルネラが言ってた『旧友』……やはり七宮だったのか。」

 オルネラの旧友は数えるほどしかいないはずだ。しかも、行き先がVFBスタジアムともなれば、相手は自然と限られてくる。

(それに、わざわざオルネラが合う相手を僕に知らせるくらいだ……。僕とオルネラの共通の友達なんてこいつ以外にいない。)

 こちらの予想は的中していたらしく、七宮はなぜか嬉しそうにしていた。

「『旧友』って、彼女がそう言ったのかい? ……『取引相手』なんて言われない辺り、一応僕も信頼されているみたいだ。」

「取引?」

 何の用事で会うのか訊こうとすると、その前に七宮がそれについて答える。

「取引っていうのは別に裏取引とかそういうことじゃない、VFの技術的な話だよ。こっちも腐っても七宮重工の社長だからね。……法に則ったギブアンドテイクを心がけるつもりだよ。」

 こちらが口を挟む暇なく、七宮はさらに続けて言う。

「あと、彼女にもさっきの話を持ちかけるつもりなんだけれど……。君に許可を取ったほうがいいかな?」

 自分ばかりでなく、オルネラまでも巻き込むつもりのようだ。

 駄目だといっても意味がないのだろうなと思い、止む無くイクセルは七宮の要求を呑むことにした。

「……とりあえず話を聞かせてくれないか?」

 敗北を感じつつ話しかけると、七宮は満足気に頷いた。

「そうそう、その答えを待ってたんだ。」

 七宮は続いて携帯端末を取り出し、それを操作し始める。

「そうと決まれば、とりあえずスタジアムにいる彼女をここに呼び戻そう。……外よりも落ち着いて話せそうだしね。」

 最初からここで話し合いをせず、わざわざオルネラだけをスタジアムに行かせたのは、こちらを誘える確証がなかったからなのかもしれない。

 そして、自分が断ればオルネラも断ると危惧していたに違いない。もっというと、オルネラが賛成すれば僕も賛成せざるを得ないと分かっていたのだろう。

(はぁ、なんか都合よく操られてる感じがするなぁ……。)

 5年経っても七宮は全く変わらないな、と思うイクセルであった。


  4


「――どこだここ……。」

 日本に来たはいいものの、ツルカは一人で夜の空港の前で立ち尽くしていた。

 外は真っ暗で、近くにある時計を見ると既に日付も変わっている。

 夜遅いのにもかかわらず人通りは結構多く、空港付近はざわざわとしていた。

(なんか、結構見られてる気が……。)

 3人に1人くらいの割合で通行人の目がこちらに向けられている気がする。

 それも当然のはずで、外人の女の子が一人でつったっていて注意を引かないわけがないのだ。……しかも、ダグラスの制服はデザイン性に優れているせいで、向こうからすればコスプレにしか見えないだろう。

(ユウキも、初めて袖を通した時は恥ずかしかったとか言ってたしなぁ……。)

 8時間前には、なるべく早くユウキ達を追いかけたほうがいいと考え、そのままの格好で飛行機に乗り込んだのだが、せめて制服くらいは着替えたほうがよかったかもしれない。

 日本に来て、今さらながら後悔するツルカであった。

 ……今から8時間前。

 ツルカはイクセルからアドバイスを受けてすぐに空港へ向かい、何の準備もすることなく飛行機に乗り込んだ。

 ツルカは、なるべくなら高速旅客機を利用したかったが、そちらは満席だったので止む無く普通のジェット機のチケットを買ったのだ。

 すぐに旅客機は海上都市を後にし、まずはそこから4時間でタイまで移動。

 その後、ツルカは係員に指示されるまま別の旅客機に乗り換え、そこから3時間で日本に到着した。

 乗り換えのロスを含めてもツルカは合計8時間ほどで海上都市から日本へ移動することができたというわけだ。

 まぁ、無計画に乗り込んだ割には、結構上手くいった気がする。

 こっちに到着してからも問題なく入国手続きが進み、税関では指紋や網膜チェックだけで済んだ。担当の人も笑顔だったし、あまり怪しまれなかったように思う。

 多分、一度日本に来た時にここで登録していたので、チェックも甘くて済んだのだろう。

 しかし、上手くいっていたのもここまでで、空港から出たツルカは何をすればいいかわからず、今は一人で立ち尽くしていた。

 ……というか、ここが日本のどこであるかもわからない。

 着陸寸前に見た景色から、この空港が湾岸部の人工島のにある物だとは分かったが、それ以外は全く不明だ。

(『セントレア空港』とか言われても全くわからないぞ……。日本のどの辺りなんだ……?)

 空港名前の中に“中部”とあったし、一応は日本の真ん中辺りなのかもしれない。

(これほど地図が欲しいと思ったことはないな……。)

 ……ツルカは早く日本に行くことを重視し、どの空港に行くかまでは考慮していなかった。なぜなら、日本に到着してしまえば携帯端末で諒一と連絡を取れるようになると思っていたからだ。

 しかし、その肝心の携帯端末は日本に来てから通信不能状態になっている。

 どこにも繋がらないので、これは通信環境の規格が違うせいだとツルカは考えていた。

 規格が違うななら、新しいのをこっちで買えばいいとも思ったが、何も端末で調べることができないので、それがどこで売られているのかも分からない。

 そんな役立たずの携帯端末をポケットの中で触りながらツルカは周囲に目を向ける。

「……まずは宿を探すか。」

 ここに留まっていても何も始まらないと思い、ツルカはひとまず人工島を出るべく送迎バスに乗ることにした。

 こういう空港の近くや駅の近くにはホテルが集まっているはずなので、泊まる場所くらいすぐに見つかるだろう。

 そう気楽に考え、ツルカは停留所に向けて歩いていく。

(それにしても、ユウキの家ってどこにあるんだろ……)

 確か、5年前の試合の時に七宮と会ったと言っていたし、家もそのスタジアムの近くなのかもしれない。

 そのスタジアムの場所を推理しようとしたツルカだったが、長旅の疲れのせいか、あまり頭が働かなかった。

 ……その後、ツルカは無事に人工島から出ることができ、バスから出たところで観光案内所を発見した。

(探すよりも、ここで聞いたほうが早いな……。)

 ツルカはその案内所で適当なホテルを紹介してもらうことにし、中に入る。

 中に入ってその旨を伝えると案内所の人はホテルのデータがズラリと並んだパンフレットをこちらに提示してきた。

 パンフレットにはホテルの外観や場所を示すマップなどが併記されており、観光用の冊子らしかった。

 どうやらこの中から好きなものを選べということらしい。

 少しでも早く眠りたいツルカは、あまり悩むことなく一番最初のページにあった見栄えのいいホテルを指さす。

 ……そこは、この界隈で一番高級なホテルであった。


  5


 ――次の日、ツルカは昼過ぎになって目を覚ました。

 寝過ぎた気もするが、これも時差ボケのせいなのだろう。

 ツルカは結構旅行するのでこういうのは何度も経験したことがあるのだが、大抵は一晩眠ればリセットされるので、あまり悩んだことはない。

 しかし、一人旅に関しては悩むことばかりであった。

 そのうえ、無計画に海外に行くのは未経験だったので、異国に一人でいるこの状況に若干の不安を抱いていた。

「日本に来ちゃったんだよな……。」

 一人寂しくつぶやくと、ツルカは身を起こしてベッドから降りる。

 ツルカは制服を脱いでベッドで寝ていたので、今は下着だけしかつけていなかった。

 こんな格好で眠ったのは初めてだったが、制服を着用したままだと寝心地が悪かったので、仕方なく脱いで寝たのだ。

 そのおかげで制服にシワが付くことがなかったことに今になって気が付き、ツルカは自分の就寝前の行動を自賛し、少しだけ得した気分になっていた。

 ツルカは早速その制服を着るべくクローゼットに向かう。

「……。」

 しかし、すぐに自分が汗をかいていることに気が付き、進路をシャワールームへ変更した。

(シャンプーどんなのだろうな……。)

 ツルカはそんなことを思いつつ、シャワールームへ続く薄い扉の手前で下着を脱ぐと、のそのそとシャワールームへ入っていった。

 ――それから約10分後。

 シャワーを浴びて完全に目が覚めたツルカは、備え付けのバスローブを着てシャワールームから出た。

 そのままベッドの上に座り、これもまた備え付けのドライヤーで髪を乾かしながら、これからの予定について考えることにした。

(……まずはリョーイチと連絡をとるべきだな。)

 これが一番いい方法だ。リョーイチに詳しい場所さえ教えてもらえれば、あとは鉄道やら車やらで目的地まですぐに移動できるだろう。

 お金には困らないので移動手段で悩むこともないはずだ。

(そのためにも、新しい携帯端末を手に入れないといけないな。)

 当面の目標が決定した所で、ツルカは髪を乾かすことに集中する。

 ……やはりこれだけ長いと乾かすのは面倒だ。

 お姉ちゃんのように短くしてみたい気持ちもあるが、そうなるとお姉ちゃんやユウキに髪をといてもらえなくなるのが悩みどころだ。

 自分の髪を見知らぬ他人に触られるのは嫌だが、気の知れた人に優しくとかれるのは気持ちがいいし、心が落ち着く。

 ただし、ユウキについてはそうだと言い切れなかった。

(ユウキは下手だからなぁ……。)

 ユウキは、まるで動物の毛並みを整えるかのごとく勢い良くブラッシングするのだ。

 大雑把ここに極まれりとはああいう事を言うのだろう。

 ……何度かユウキの代わりにリョーイチにやってもらったことがあるのだが、リョーイチは一度も引っかかることなくスムーズにといてくれて、とても上手かったのを覚えている。

 ずっと昔からユウキのをやっていたから、その分上手いのだろう。

(今もどこかで苦労してるんだろうな……)

 そんなことを思い返しているうちに髪は乾いており、仕方なくツルカは自分で髪をセットすることにした。



 身支度の整ったツルカは、部屋を出て5階から1階のロビーへ向かっていた。

 もちろん移動にはエレベーターを使っており、その内装は色の濃い木目調で構成されていた。それは人工物では無いようで、なんとも言えぬ高級感が漂っている。

 ツルカは、その木目調の板に挟まれるようにして設置された鏡で自分の姿を見ながら思う。

(荷物も何もないのがこれほど楽だとは思わなかったな……。)

 見事なまでに手ぶらである。

 身軽すぎて逆に不安になるくらいだ。

 身につけているものといえば、手首にある黒いブレスレットくらいなものだった。

 お姉ちゃんからのクリスマスプレゼントであるこのブレスレットは、先ほどのシャワーを浴びる時のように、水に濡れる場合を除いてはほとんど外すことはない。

 むしろ、今となっては外すことのほうが珍しい。

 お姉ちゃんのことだから防水加工なんかもぬかりないとは思うのだが、それでも水に濡れるといつかは絶対に錆びてしまうので、その時だけは外すようにしているわけである。

 ……こんな感じで四六時中つけているので、大袈裟な表現かもしれないが、もう体の一部になっている気がしている。

 あのニコライがあれだけアクセサリーを付けていられるのも、こんな感じで慣れてしまっているからに違いないだろうな、と思っていると、すぐにエレベーターは1階に到着した。

 ツルカは自動的に開いた扉をを抜けてロビーへと足を踏み入れる。

 昨日は眠たくて意識が朦朧としていたため、あまり1階のことは記憶になく、ツルカはその場でロビーを含めた1階部分を改めて観察する。

 ……ロビーは吹き抜け構造になっているため開放感があり、正午の太陽光が程よく建物内に取り入れられていた。

 また、入り口の大きな硝子扉の前には高級感あふれる絨毯が敷かれており、それは外から中にかけての広い面積を覆っていた。

 昨日は深夜で気が付かなかったが、実はそれなりにいいホテルだったらしい。

 自分でパンフレットを指さして選んだものの、別のホテルを紹介しなかった辺り、案内所の人もちゃんと商売しているようだ。

 昨日に関して覚えていることといえば……ホテルのフロントの人の如何わしい表情と、こちらがクレジットカードを見せた時の驚嘆の表情と、その後のカードキーを受け取った時のにこやかな表情だけである。

 キルヒアイゼンの銘の入ったクレジットカードはかなり効果的だったらしい。これには快く未成年の少女を泊めさせてもらえるくらいの効力はあるようだ。

 ツルカはそんなことを思い出しつつ、チェックアウトするためにフロントへ向かう。

 そしてカウンターの前まで来ると、ルームキーをフロントスタッフに差し出した。

 女性スタッフはそれを笑顔で受け取り、こちらに質問してきた。

「お出かけですか? いってらっしゃいませ。」

 こちらが手ぶらなので、ちょっとした外出と間違われたらしい。

 それが誤解だと伝えるべくツルカは女性スタッフに訴える。

「いや、ボクはもうチェックアウトするつもりで……」

 そこまで言うと、女性スタッフは慌てた様子で手元を動かす。

 背が足りないのでこちらからは見えないが、たぶん記帳しなおしているのだろう。

「すみませんでした。……お預けになった荷物などはございませんか?」

「無いと思う。」

 短く返事すると女性スタッフは「はい」と言って再び手元を動かし始める。

「それではチェックアウトの手続きをいたしますので、少々お待ちください。」

 料金は先払いしているし面倒な事はないだろうな、とツルカは思っていた。

 カウンターの端を掴んで手続きを待っていると、隣のカウンターに身なりの整った中年男性が来て、別のフロントスタッフと話し始めた。どうやら日本語らしく、全く内容がわからない。

 ツルカは暇だったので何気なくそちらの方に顔を向ける。

 中年男性は痩せ型の体型をしており、服の色はおとなしめであった。手にはビジネスバッグが握られており、靴は綺麗に磨かれていた。……多分それなりに大きな企業に勤めるビジネスマンか何かだろう。

 ……と、ぼんやり眺めていると、目立つものを1つだけ見つけた。

(あのバッジ……)

 ツルカが見つけたのは襟元に付けられている金のバッジだった。バッジは隣から見上げても十分に見える位置にあり、それには見覚えのあるロゴが刻まれていた。

(あれ、キルヒアイゼンのロゴバッジじゃないか……?)

 見たところ作りは精巧で、それが公式のグッズであるということがすぐに分かった。

 大きさは硬貨くらいで、年月が経っているせいか、所々潰れている箇所が見えていた。

 デザイン的に見てもかなり古いもののように思えるし、結構昔に販売されていたものなのだろう。

 ただ単にカッコいいから適当に付けているだけだと思ったが、いい年した男が、しかもビジネスマンがあんな目立つ場所にわざわざバッジを付けるとは考えにくい。

 ……ということは、やっぱりキルヒアイゼンのファンなのだろうか……?

 例えその中年男性がキルヒアイゼンのファンでないにしても、異国の地で自分のチームのロゴを発見できただけで十分に嬉しい。

 チームであんなものを売っていたんだなぁ……としげしげと見つめていると、その視線に気づいたのか、細身の中年男性もこちらを向いた。

 ツルカはその中年男性と目が合わないように視線を正面に戻したが、無理に真正面を向いたせいで動きがとても不自然になっていた。

「……オルネラ?」

 姉の名を呟かれ、ツルカは反射的に中年男性に顔を向けてしまう。

 中年男性はこちらの顔を数秒見つめた後「いや、違うな……」とぶつぶつ言い、すぐに謝罪してきた。

「人違いをしていたようだ。でも、あまりにも似ていたものだから……」

 その反応に、ツルカはこの中年男性がキルヒアイゼンのファンに間違いないと確信する。

(むしろ、お姉ちゃんのファンって感じだな……。)

 ツルカはその中年男性に興味が湧き、一般人の振りをしてわざとらしく聞いてみる。

「オルネラって……キルヒアイゼンのオルネラのことか?」

 こちらがVFBについて話しかけてきたのに驚いたのか、中年男性は若干動揺しつつも「その通りだよ」と答えてくれた。

「オルネラには年甲斐にもなく夢中になってしまってね……。彼女の結婚の知らせを聞いた時は落ち込んだものだよ……。それで、きみもVFBのファンなのかい?」

 ツルカはコクリと頷き、思ったことを正直に言う。

「あー、ボクもお姉――オルネラに憧れてるんだ。だから、似てるって言われて嬉しい。」

 やはり、お姉ちゃんに似てると言われると、それが誰であれ嬉しい。

 でも、ボクの顔を知らないということは、ここ数年はあまりVFBに関する情報を見ていないのかも知れない。

 日本はVFコンテンツの量が少ないので、自ら海外のサイトにアクセスしない限りは、得られる情報も少ないのだろう。

 ……ボクのことをキルヒアイゼンのファンだと思ったのか、中年男性は馴れ馴れしく話しかけてきた。

「君みたいな若い子がVFファン……しかも私と同じキルヒアイゼンのファンだなんて……やっぱり外国はVFBは盛んなんだね。」

 盛んと言うか、VFBの聖地に住んでいる。しかし、それを言うと話がややこしくなりそうだったので、ツルカは適当に同意する。

「そうだな。結構盛んだぞ。」

 そう言うと同時にチェックアウトの手続きが済んだようで、女性スタッフは「またのご利用をお待ちしております」と定型句を言って、大きくお辞儀をした。

 ツルカはそのスタッフに携帯端末の販売店の場所を聞こうとしたのだが、中年男性の言葉によって妨げられてしまう。

「……私の息子も君と同じくらいの歳なんだ……。あぁ、今もVFBファンでいてくれてるかなぁ。息子は最後までキルヒアイゼンの良さをわかってくれなくて……。」

 何やら語り始める中年男性に、隣のカウンターのスタッフも困っている様子だった。

 そんなことに気づくはずもなく、中年男性はさらに話し続ける。

「まだVFBは好きだったから良かったものの、小さい時に親権を妻に取られてしまって、もう何年もあってない。最近はどこかに留学したって聞いたし……ああ、心配だ……。」

 スタッフは客を注意するわけにもいかないのか、愛想笑いをしながらそれをおとなしく聞いていた。

 もう無視しようかなとツルカが思い始めた頃、不意にお腹が「ぐぅ」と鳴り、ツルカは慌てて自分のお腹を両手で押さえてしまった。

 その音はそこそこ大きかったようで、咄嗟にお腹に手を当てたこともあり、ツルカは周囲にいた人の視線を集めていた。

(あ……。)

 そう言えば、海上都市を出てから飲み物以外何も口にしていない。

 なぜこのタイミングで鳴ってしまったのか、自分の胃の間の悪さを恨みつつ、ツルカは失態を恥じていた。

 その音を聞いてか、細身の中年男性は一旦話を中断して何やらこちらに提案してきた。

「折角だし、ホテルのレストランで食事でもどうかな? もちろん、親御さんも一緒に……。」

「連れはいないぞ。ボク一人だ。」

 キルヒアイゼンのファンとは言え、いきなり見知らぬ人間に食事に誘われ、ツルカは不信感を抱いた。

「誘ってくれてありがたいけど、ボクは今から携帯端末を買わないといけないから……」

 あまりその中年男性と関わらないよう、言い訳をしてホテルから出ようとしたツルカだったが、次の言葉を耳にして足を止めてしまう。

「きみは……見たところこっちには慣れてないようだし、日本語も喋れないんだろう。ケータイを買うにも色々手続きが必要だし、外国人だと買えないかもしれないよ。」

「買えないのか……?」

 代金さえ払えばいいと気軽に思っていたが、意外に複雑なのかもしれない。

 振り返りフロントスタッフの顔を見ると、その話は本当のようで小さく頷いていた。

 中年男性はキルヒアイゼンのロゴバッジを触りながら言葉を続ける。 

「その点、私がいれば購入の手伝いもできるし、最悪、私名義でケータイを買うこともできる。食事に同席してくれれば、そのお礼にショッピングのお供くらいしてあげようと思うんだけれども……どうかな。」

 ここまでしつこく誘われ、ツルカは不信感を募らせていく。 

「なんか怪しいな……。」

 何か食べたいのは山々だが、こんなおじさんと食事をするのは気が引ける。

 それに、何か企みがあってこちらを誘っているのは明白だった。

 ツルカが色々とリスクを考えていると、いきなり中年男性が本音を告げはじめる。

「……私はただ単に最近のキルヒアイゼンのことを教えて欲しいだけなんだ。……個人サイトの情報にも限界があるし、生の声を聞きたい。……こんなおじさんに誘われて不安なのはわかるけれど、お願いだ。最近仕事も忙しいし、こんな機会は滅多に無いんだ。」

 ツルカはその話を黙って聞いていた。

 ……一人旅している外国の女の子を連れているだけでかなり怪しまれるはずだ。しかし、それだけのリスクを背負ってまで、このおじさんはでVFBの話を聴きたいらしい。

 ツルカはそんな中年男性の情熱に感心していた。

「教えるくらいなら別にいいけど。」

 ちょっと話すだけで携帯端末を手に入れることができると考えれば、案外悪くない提案かもしれない。それに、いざとなれば殴り倒せばいいだけだし、ホテルのスタッフもこの話を聞いているから、怪しい動きがあればすぐに通報してくれるだろう。

 そんな損得勘定も踏まえて渋々了承すると、おじさんは早速フロントのスタッフに荷物を預け始めた。

「それじゃあ、チェックインして早々で悪いけど、このお嬢さんと一緒に上のレストランで食事することになったから。あと、この荷物は部屋に運んでおいてくれ。」

「かしこまりました。……それでは、別の者がレストランまでご案内いたします。」

 フロントのスタッフがそう受け応えると、どこからともなくスリムスーツを着た女性が現れ、こちらを案内し始めた。

 いわいるコンシェルジュというものらしく、他のホテルスタッフと違いユニホームは着ておらず、胸には大きめの名札が付けられていた。

 ツルカはその女性の後について行き、エレベーターに乗り込んだ。

 少し遅れておじさんもエレベーターに乗り込み、3人は上階にあるというレストランに向けて移動を開始した。



 昼時とあってか、レストランに案内された時にはそれなりの人がいたのだが、ツルカが食事を終える頃にはすっかりと数が減っていた。

 レストランがあるフロアは壁一面ガラス張りになっており、海側の景色がよく見えた。

 海は特に面白みもないが、ここからは空港の滑走路がまる見えだった。発着する飛行機も種類がわかるほどくっきりと見える。

 そんな景色がよく見えるようにするため、全ての席はそのガラスに沿う形で配置されていた。そして現在、ツルカと中年男性は向かい合うようにして2人掛けのその席に座っていた。

 ツルカの前には空になった白い陶器の皿が3枚ほど並べられており、さらに手前にはデザートであるショートケーキが置かれていた。

 ツルカはデザートを頬張りながらも、その視線を中年男性に向けていた。 

 中年男性はというと、初めから話を聞くのが目的だったようで、最初に頼んだアイスコーヒーはまだ半分も減っていない。

 ツルカが食べている間、ずっと質問し続けていたので、それを飲む暇もなかったようだ。

 詳しく質問されることもあったが、その時は自分がキルヒアイゼン関係者だとバレぬよう、適当にごまかして答えたりもしていた。

 かなり情報は間引いたつもりだったのだが、それでもこのおじさんにとっては有益な情報だったらしい。

 あらかた質問が終わると、おじさんは満足そうにしていた。

「……なるほど、さすが海上都市に住んでるだけあってかなり詳しいんだね。時間がとれたら私も海上都市群に行ってみたいものだよ……。」

 結局、ツルカは自分が海上都市群から来たことを話してしまい、そのせいで余計に質問されてしまった気がしていた。

 しかし、その質問の内容はどれも受け答えに悩む内容なものではなく、キルヒアイゼンやアール・ブランに出入りしているツルカにとっては即答できるものであった。

 腹も満たされデザートを頬張っていると、今度はVFBに関することではなく、こちらに関することを質問してきた。

「それで、日本には何しに来たんだい?」

(ホント、何しに来たんだろうか……。)

 おじさんに質問されて改めてそう思う。

 出発前に、もうちょっと考えてから日本に来るべきだったかもしれない。あの時もっとよく考えれば、ユウキの家の住所くらい学校側に問い合わせれば教えてもらえたことに気づいていたはずだ。

 なるべく早く行動したつもりだったが、結果的にはかなりのロスを生んでいる。

 そして今もそのロスは大きくなるばかりである。

「日本に来たのは……」

 ツルカは“友だちに会うため”と当たり障りのない答えを用意していたが、それを言いかけて一旦考えなおす。

 その間を誤魔化すために口にショートケーキを運び、なるべく時間を稼ぐために咀嚼するスピードを遅くした。

(このおじさんVFBファンだし、あの時のスタジアムの場所くらい知っているかもしれないな……。)

 あの時というのは、ユウキが初めてVFBの試合を見た時のことである。そしてその場所はユウキが七宮と会ったスタジアムのことでもある。

 その場所が分かっていれば、ユウキの居場所を突き止めるのも楽になるはずだ。

(情報は多いほうがいいからな……。)

 携帯端末を買えたとしても諒一と連絡が取れない場合もあるし、企業学校に連絡がついても個人情報なのでユウキの住所を教えてくれないかもしれない。

 そんな不測の事態のことを考え、一応その場所だけでも確認してみることにした。

「えーと……日本のVFBスタジアムを見てみたかったんだ。でも詳しい場所がわからなくて……おじさんは何か知ってるか?」

 以前、リョーイチから日本では数えるくらいしかスタジアムがないと聞いている。

 となれば、特定するのも容易なはずだ。

 ……しかし、そううまくはいかなかった。

「さすがに日本にはVFBスタジアムなんて無いよ。試合するにしても田舎の多目的スタジアムで細々とやるか、採掘場跡だったり山奥だったり……しかも飛び道具は禁止さ。」

 スタジアムが無いときっぱり言われ、ツルカは少々混乱してしまう。

「あれ? 6年前にキルヒアイゼンが試合したはずじゃ……?」

「あぁ、あそこは最近潰れて、代わりに陸上競技場になってるよ。」

 スタジアムが潰れたと聞き、改めてツルカは日本のVF後進っぷりを確認する。

 おじさんはその時の試合を見てくれていたらしく、遠い目を外に向けていた。どうやらその時のことを思い出しているようだ。

「……未だにあれ以上の試合を生で見たことはない。時間さえあればすぐにでもVFB観戦ツアーにでも参加するつもりなんだけど……難しいよ。」

 そんなおじさんを憐れむことなく、ツルカはその競技場の場所を聞き出すべく、先程の質問を続ける。

「なぁおじさん、その陸上競技場ってどこにあるんだ?」

 なぜそんなことを聞くのか、おじさんは不思議がっていたがすぐに答えてくれた。

「うーん……ここからだと結構遠いかもしれないなぁ。さっき言った通り、田舎も田舎だよ。」

「田舎でもいいから、どうやったら行けるか教えてくれよ。」

 矢継ぎ早にこちらが催促すると、おじさんはアイスコーヒーから手を離して代わりにこめかみに指をあてる。

「観戦したのも結構昔だし……でも、大きな駅が近かったから新幹線に乗れば楽に行けるだろうね。駅を出れば案内も出ているし迷うこともないだろう。」

 新幹線を使えばいいということは分かったが、それから先はやはり自分で調べるしかないようだ。

 ツルカはいい情報を得ることができ、早速、新幹線の路線についても聞いてみる。

「どこでその新幹線に乗れるか教えてくれないか? 理由は言えないけど、ボクはなるべく早くそこに行きたいんだ。」

 こちらがそう言うとおじさんは手を肩口まで上げてひらひらとさせる。

「いや、私に聞くよりもケータイで時刻表を検索したほうが……」

 喋っている途中で合点がいったらしく、おじさんは大袈裟に頷く。

「あー、それでケータイを買うと言ってたのか……。さすがにあのスタジアムまではエスコートできないし、確かにケータイは必要だな……。」

 おじさんから理解を得たところで、ツルカは食べかけのショートケーキを一気に口の中に放り込み、席を立つ。

「そういうことだ。……じゃあ今から携帯端末を買いに行くから、約束通りついてきてくれるよな? 日本語わかんないし。」

 おじさんもアイスコーヒーを飲み干し、椅子を引いて席を立った。

「それなら駅前のショップで買うといい。新幹線に乗る前の空き時間で十分買えるはずだ。」

「わかった、そうと決まれば早く行くぞ。」

 その案に反対する理由もなく、ツルカはすぐに駅前に向かうことにした。


  6


 ツルカはおじさんに案内されるがまま駅前まで行き、まずはそこで新幹線のチケットを入手した。おじさんはチケットを買うのに結構慣れているようで、ものの数分で手続きが完了した。

 そして次に、そこから近い携帯端末販売店に行った。

 そこではツルカは気に入った携帯端末を選んだだけで、購入時の面倒そうな手続きは全ておじさんに任せた。

 手続きに関しては全面的に協力すると約束していたとはいえ、ここまで面倒を見てもらうと悪い気さえしてくる……。

 とにかく、全く苦労することなく新しい携帯端末を手に入れることができたので、ツルカはおじさんに感謝していた。

 新しく買った携帯端末は、自分が持っているものよりも大きくて重かったが、ちゃんと使えるのならば問題ない。

 そしてツルカは今、新幹線が来るまでの間の待ち時間を適当にお喋りして過ごしている。

 ホームのベンチには他にも同じ新幹線に乗る乗客がたむろしていたが、同じ年代の乗客は全く見当たらなかった。

 ……話した感じだと、おじさんはグローバル展開しているそこそこ大きな会社のビジネスマンのようで、国内外問わず飛び回っているらしい。

 そして、離婚の原因もそこにあるようだった。

 そこらあたりを詳しく聞こうかと考えていると、それを察知したのか、おじさんはわざとらしく話題を無理やり変えてきた。

「あ、そうだ、現金は持ってるかい?」

 ツルカはその質問で、今までカード頼りでここまできた事に気付かされる。

 今ならばお姉ちゃんが常にこれを持たせていた意味が解る気がする。

(そう言えば、ここしばらく現金見てないな……。)

 海上都市群でもあまり現金を使わないツルカだが、今はもっと酷い状況にあり、日本の通貨がどんな形をしているかすら分からない状態だった。

「いや、カードしか持ってないけど……」

 ツルカは恐る恐る答え、もしかして現金がないと駄目なのだろうかと考えていると、いきなりおじさんが財布を取り出し、中身をこちらに渡してきた。

「これから先は現金がないと不便だし……少しくらいは持っていたほうがいいだろう。」

 咄嗟に渡されたこともありツルカはそれを受け取ってしまう。

 しかし、それは量的に見ても『少しくらい』の範囲を大きく超えていた。

 約10枚ほどの紙幣を受け取り、ツルカは見たこともないその紙幣をじっくりと至近距離から観察する。

 片面には大きく人の顔が、もう片面には建物やら鳥やらの美しい絵がプリントされていた。

 そして、次に目に入ってきたのは通貨の単位だった。

「……イェン? なんかオモチャみたいだな。」

「私も海外の紙幣を見た時は同じ事を思ったよ。」

 おじさんの説明を聞いて“そんなものか”と思いつつ、ツルカは現金を持ったまま、迷うように手をひらひらとさせる。

 あまり札束を見られるのは良くないことだと思うのだが、ツルカはそれを受け取るべきかどうか悩んでいた。

「ホントに、こんなにもらっていいのか? なんか悪い気がするぞ……」

 そんなこちらの様子を見かねたのか、おじさんは交換条件を提示してきた。

「それなら、その代わりにサインを貰えないかな?」

「!!」

 そのおじさんセリフは、こちらが一般人でないと気づいていたことを示していた。

 言葉には気をつけたし、バレないように努めたつもりだったが、よくよく考えてみると、キルヒアイゼンのファンがボクのことを知らないというのはあり得ない話だ。

「……やっぱり気づいてたんだな。」

 こちらの言葉に対し、おじさんは申し訳なさそうに肯定する。

「先ほどケータイを買った時にカードに書かれた名前が見えて、それで確信したんだ。ツルカ・キルヒアイゼン……確か、オルネラの妹さんだったね……似てるはずだよ。」

 どうやら初対面の時から正体を疑われていたようだ。

 こちらの名前を聞かなかったのも、既にボクのことがわかっていたからに違いない。

 バレたことについては仕方ないと割り切り、ツルカはサインについて確認を取る。

「サインでいいのか? ボクのサインなんてもらっても仕方ないぞ……。」

 本音から出た言葉だったが、おじさんの考えはこちらとは全く違っていた。

「食事に談話にショッピング……キルヒアイゼンのお嬢様とデートさせて頂いたんだ。これでも足りないくらいだよ。」

「デートって……」

 それは言いすぎだと思うが、ファンにとっては……特におじさんのようなオルネラのファンにとっては、その妹であるボクと話すだけでも貴重な体験なのかもしれない。

 現に、おじさんは満足気な顔で内ポケットからメモ帳を取り出しており、本当にサインを欲しそうしている。

 そんな様子を見て、むしろこのお金をもらっておかないとおじさんの格好がつかないと思い、ツルカは札束をポケットの中に押し込んだ。

「……有難くもらっとく。」

「それでいい。それじゃあ、さっそくサインを……」

 おじさんが差し出したメモ帳を受け取ろうと手を伸ばすツルカだったが、メモ帳はこちらの手に届く前にベンチの上に落ちてしまった。

 どうやら、おじさんの背中に誰かぶつかったせいらしい。

 ツルカがその人物に抗議しようと後ろに顔を向けると、そこには青系の制服に身をまとった男性が立っていた。

「すみません、ちょっといいですか?」

 男性はおじさんの肩に手をのせており、その白手袋の手を辿っていくと、胸辺りにでかでかと書かれている『POLICE』という文字にたどりついた。

 ツルカはそれが警察官であることを理解した。

 しかし、なぜ警察官が声を掛けてきたのかは全く理解できなかった。

 警察官はおじさんの肩をつかんだまま一方的に話し始める。

「えー、ケータイショップの店員から外国の少女を連れ回している男がいると知らせを受けまして……。」

 警察官はこちらとおじさんを交互に見ながら言葉を続ける。

「見たところ親子ではないようですが……どのようなご関係で?」

「それはですね……」

 おじさんが説明しようとした時、警察官の視線がこちらのポケットに向けられた。

「ん? ……そのお金は?」

 どうやらお札がはみ出ていたらしい。

 ツルカは慌ててポケットの中に手を突っ込んで、お札を奥へと押し込んだ。

「……。」

 しかし、警察官にじっと見つめられ、ツルカは諦めたようにポケットからお札を取り出す。

 警察官はこちらの手にあるお札を見て、より一層疑いを深めたようだった。

「財布にも入れないで……これはどうしたんですか?」

 もしかして、ボクがおじさんからお金を盗んだと勘違いされているのではないだろうか。

 そう思い込んでしまったツルカは、潔白を証明するため、ありのままを正直に話すことにした。

「これは、その……デートしてくれたお礼にって、おじさんから貰ったんだ。」

「デート……なるほど、そうでしたか。」

 それを聞くやいなや、警察官は日本語でおじさんに何かを伝え、そのまま手を強く掴んで拘束してしまった。

「え?」

 ツルカはなぜそうなっているのかが分からず、ただその光景を見ているだけだった。

 おじさんは激しく首を左右に振って何かを訴えていたが、すぐに駆けつけてきた応援隊によってどこかに連れていかれてしまう。

 そんな様子をポカンと見つめていると、別の警察官がこちらに手を差し伸べてきた。

「お嬢さんも一緒についてきてくれるかな?」

「……。」

 ツルカは直感的に面倒な事になっていると判断し、その場から逃げることにした。

「ごめんおじさん!! また今度サイン付きでお金も返すから!!」

 遠くにいるおじさんに向けてそう叫ぶと、ツルカはベンチの上に足を載せ、そのままジャンプして警察官を飛び越える。

 警察官は反応しきれていないようで、手を差し伸べたままの体勢で固まっていた。

 その後すぐにツルカは駅の出口に進路を向けて走りだす。

 途中、ツルカは周囲から多くの視線を感じるも、あまり気にすることなく駅の構内から外へ飛び出した。

「あっ、こらきみ、待ちなさい!!」

 駅構内を振り返り見ると、数名の警察官がこちらに向けて走ってきていた。

 その誰もが本気で走ってはおらず、女の子であるこちらを舐めているのが見え見えだった。

(これだとすぐに逃げられるな……)

 ツルカは警察官の制止を無視し、人ごみのある方向に向けてダッシュする。

 5分もすれば完璧に追跡を絶つことだできるだろう……。

 ……逃げたのは誤りだったかもしれないとツルカは少し後悔していた。

 しかし、今はこんな所で時間を取られるわけにはいかないと思い直す。下手をすれば海上都市群に送り返される危険もあるのだ。

 あと、新幹線のチケットを無駄にしたのは痛かった。隙を見て出発時刻ギリギリに駅に戻ってみたい気もしていたが、安全策をとるならば戻らないほうが賢明だ。

 それに、今のボクには新しい携帯端末があるので問題ないだろう。……チケットに書かれた行き先さえ分かれば、あとは端末で検索すればいいだけだ。

(まずは、目的地までの行き方を決めないと……)

 ツルカは警察官から逃げつつ、鉄道か飛行機かバスか……呑気にルートを検索していた。


  7


(別に新幹線に乗らなくても良かったかもしれないな……)

 おじさんと別れてから約2時間後、ツルカは内陸部にある別の駅から新幹線に乗ることに成功していた。

 新幹線に乗車できる駅は決められているようで、ツルカは仕方なくタクシーに乗って別の駅までわざわざ移動したのだ。

 そして今、ツルカは車両を前に進みながら、チケットに書かれている英数字と合致するシートを探していた。

 結構後ろの車両から乗り込んだせいか、席を探して前の車両に進むに連れ、座席のグレードがどんどん上がっているような気がしていた。

(1の15のD……ここだな。)

 ようやく発見したそのシートは一番前の車両にあった。そこは窓側の席で、シートはなんとも座り心地のよさそうな形状をしていた。

 チケット販売員に言われるまま高いチケットを買って正解だったかもしれない。

「ふぅ……。」

 ツルカはシートに座って一息つくと、先ほど購入した携帯端末をポケットから取り出す。その画面には先程まで見ていたナビ情報が表示されていた。

 そのナビによれば、あとはここから目的地まで1回乗り継げばいいだけのようだ。乗り換えのタイミングも通知してくれるのでゆっくり休むことができるだろう。

(せっかく新しく買ったし、一応、リョーイチに連絡してみるか。)

 ツルカは、元から持っていた携帯端末を取り出してリョーイチのアドレスを表示させた。そして、そこにある文字を新しい端末に手動で入力していく。

(規格が違うと不便だな……)

 約1分掛けてアドレスを打ち込み、ツルカはさっそく諒一と連絡をとるべく通話ボタンを押す。

 そのタイミングで新幹線の発車を知らせるアナウンスが鳴り響き、ツルカはその音に邪魔されぬよう、携帯端末を当てていない方の耳を押さえる。

 そのまま、窓の外の景色がゆっくりと後ろに流れていくのを見ながら、ツルカはしばらく端末を耳に押し当てていた。

 ……が、応答する様子は全くない。

「出ないな……。」

 やはりあのおじさんにスタジアムの場所を確認しておいて正解だった。

 近くにいるのがわかりさえすれば、後は聞き込みなりなんなりで居場所を突き止められる。

 ツルカは携帯端末を再びポケットにもどすと、頭をシートのヘッドレストに預けて目を閉じた。

(なんだか疲れたな……)

 そう思ったのも束の間、数秒もしないうちにツルカは眠りに落ちた。

 


 ――それから数時間後。

 何か柔らかい物が体に触れ、ツルカは目を覚ました。

「ん……?」

 目を開けるといつの間にか車内は明かりがついており、そのまま視線を右に向けて外を見ると景色がはっきりと判断できないほど真っ暗だった。

(もう夜か……)

 一体どのくらい眠っていたのだろうか。

 窓には自分の眠たそうな顔が映っている。長い間頭をシートに押し付けていたせいか、後頭部の髪が盛り上がって変な形になっていた。

 ……同時に、隣のシートに見知らぬ女性が映っていることにも気がつく。

 いつからそこにいたのだろうか。

 女性は体の正面をこちらにを向けており、その視線は下方に向けられていた。

「!?」

 ツルカが慌てて通路側へ視線を向けると、女性は「起こしてしまいましたか……」と申し訳なさげに謝った。

 そして、その女性はシートから立ち上がり、通路に出ると改めて頭を下げる。

「すみません、その……お見苦しい格好で寝ていたものですから……」

 何のことか全く分からないが、その姿をよく見ると、どうやら乗務員のようだった。

(何だろうか……。)

 ツルカは、その乗務員が切符を確認しに来たのかと思い、切符を取り出すべくポケットに手を入れようとした。……が、それは何か柔らかいものによって遮られてしまう。

 不思議に思い視線を下に向けると、こちらの下半身に薄いブランケットが掛けられていた。それは新幹線のマークが散りばめられた可愛いらしいもので、明らかにキッズ用だった。

 これは乗務員の人が掛けてくれたのだろうか……。

 なぜそんなことをしたのか理由はわからなかったが、そのブランケットの端をつまんで持ち上げてみるとその理由がすぐに分かった。

 なんと、その下にあるスカートが盛大にめくれて、太ももが丸見えになっていたのだ。

 ツルカはすぐにブランケットの中に手を突っ込み、スカートの裾を直す。

(……“見苦しい”って、このことか。)

 いつからめくれていたのか分からないが、周囲にはあまり乗客の姿はないので、見られた可能性は低いだろう。そして、見られたのがこの乗務員さんだけであることを願うばかりであった。

 はしたない姿を晒してしまい赤面していると、女性の乗務員が再び声を掛けてきた。

「そのブランケットは差し上げますので、ご到着までひざ掛けとしてご利用下さい。」

 なんて親切な人なのだろう。

 ツルカはありがたくブランケットを利用させてもらうことにした。

「ありがとう……ございます。」

 そう言ったのも束の間、すぐに停車駅を知らせるアナウンスが聞こえてきて、同時に乗り換えを知らせるアラームが携帯端末からも聞こえてきた。

 


 ――乗り換えを無事に終えてから更に1時間……ツルカは、普通の電車に乗って最終目的地であるスタジアム近くの駅に到着していた。

 相変わらず駅名は不明だが、携帯端末のナビ通りに来たのだから間違いないはずだ。

 ツルカは駅構内から出て、そこから数秒ほど景色を観察する。

(田舎って言ってたけど……そこまでじゃないな。)

 確かに、空港があった場所と比べると全く近代的な要素は見られないものの、田舎と呼べるほど閑散としていなかった。

 建物やビルの壁面は色がくすんでおり、そこから年代を感じられるが、だからと言って別に活気がないというわけではなく、看板は元気に光を発しており、多くの人影を確認することができた。

 駅のすぐ前には円状のターミナルがあり、そこにはタクシーが5台ほど止まっている。

 また、すぐ近くにはバス停があり、そこには数名の人が列を作っていた。

(バスもタクシーもあるし……道路も結構広いじゃないか。)

 ツルカの視線の先、ターミナルの向こう側には四車線の大きめの道路が伸びていた。

 その道路の中央には市内電車用のレールが敷かれており、はるか遠くにレトロチックな電車が見えていた。先程から聞こえる重いモーター音もその市内電車が発しているものだろう。

 自分が海外から来たからそう思えるのかもしれないが、こうしてみると、なかなか魅力のある街のように思える。

 おじさんからすればただの田舎かもしれないが、ボクからすれば今からでも数日掛けて観光してみたい街だ。

 ツルカはそんなことを思いつつ、携帯端末を取り出す。

 ……その際、手に持っていたブランケットが邪魔になったので、ツルカはそれをストールのように肩に巻きつけることにした。

 ツルカは、それを巻いてすぐに暑苦しさを感じたが、これ以外に持ちようが無いので少々の暑さくらいは我慢することにした。

 ブランケットを捨てるという選択肢もあったが、せっかくもらったものなので捨てられない。

 とにかく、ツルカは携帯端末でスタジアムの詳しい住所を検索していく。

(VFB……スタジアム……住所……っと)

 するとすぐに結果が画面に表示された。

 ……続けてその情報を元にして地図を確認してみると、おじさんの言った通りこの駅から徒歩でいける距離にあるようだった。

(場所も一応わかったことだし……スタジアムに行くのは明日でいいな。)

 夜に行ったところでスタジアムは閉まっているだろうし、聞き込み調査も捗らないだろう。

 また、警察官に声を掛けられでもしたら面倒な事になるのは身を持って体験していたので、ツルカは夜に行動するのを控えることにした。

(まずは、どこかの店で食べ物買って……それをホテルで食べればいいか。)

 車内ではほとんど寝ていたため、あまり眠たくはなかったが、そのかわりにとてもお腹が減っていた。

 その後、駅前のコンビニで食料を購入したツルカは、駅のすぐ近くにビジネスホテルを発見し、迷うことなくそこに泊まることにした。


  8


 次の日の夕刻、今は陸上競技場になった元スタジアムの客席にて、ツルカはぼんやりとトラックの白線を眺めていた。

 白線は幾重にも重なっており、グラウンドが茶色いこともあってか、チョコレートスポンジに挟まれているホイップクリームのように見えなくもない。

 そんなファンシーな例えからは想像できないほど、ツルカは疲れ果てた表情をしていた。

 現在ツルカが座っている簡素な椅子は、客席のエリアごとに色が変わっており、ツルカは出入り口から最も近いエリアの緑色の椅子に座っていた。

(結局収穫はなしか……。)

 ここに来ればなんとかなると思っていたが、あまり手がかりは得られていない。……というか、言葉が通じる人が少なく、聞き込み調査も全く進んでいない。

 昼過ぎから始めた調査も行き詰まり、今は休憩中という感じだ。

 ……大体、ユウキという名前を知っている人間がいない。

 地元のVFランナーが1STリーグで活躍しているのに、誰一人として知らないというのは想定外だった。

「はぁ……ありえないぞ……。」

 こちらが思っている以上に日本人はVFBに興味関心がないようだ。

 ため息を付くツルカの視線の先、トラックでは中学生くらいの年の選手が練習で走っており、聞こえてくるのはコーチの掛け声と地面を蹴る音くらいなものだった。

 ここもずいぶん様変わりしたもので、VF同士が戦っていた痕跡すら無い。

 6年前に自分があの場所で戦っていたのがまるで嘘のようだ。

(あの試合、ユウキはどこで見ていたんだろうか……。)

 まだユウキには話していないが、ボクはここでイクセルの代わりに試合したことがある。

 何を隠そう、イクセルがいなくなったせいで3RDリーグまで落下したキルヒアイゼンを再び1STリーグにまで押し上げたのはボクなのだ。

 ……その話はともかく、ツルカは微かな記憶を頼りに観客席を舐め回すように観察していく。

 あの時はスタジアム中に観客がいたが、今は殆ど使われていないのか、椅子に上には雨の後が残っており、紫外線のせいで色もあせている。 

 そのまま視線をぐるりと移動させ、向こう側の客席を見ると陸上競技関係の人が結構いるようで、何やら会話しているようだった。

 さすがのツルカも、その人達にまでユウキのことを聞く気力は残っていなかった。

(こんな事ならもっと早くここに来るべきだったな……。)

 本来なら朝からスタジアムに来るはずだったが、色々とあって昼過ぎになったのだ。 

 ……実際には色々と言うほどのことでもないが、ホテルのコインランドリーで制服を洗濯したのが遅れた原因だった。

 別に洗わなくても香水などでごまかしたので良かった。

 しかし、朝起きて制服の匂いが気になったのだから仕方が無い。

 それに、コインランドリーというものにも興味があった。

 海上都市群では洗濯は全て家政婦さんがやってくれるので、一度自分でも洗濯してみたいという欲望に駆られたわけである。

 かなり手間取るのではないかと危惧していたが、説明の絵の通りに制服を投げ込んで洗剤を入れて蓋を閉じるだけだったので案外簡単だったような気がする。

 そして、洗濯が完了するまでの間、ツルカは唯一残されたブランケットを体に巻いて漫画雑誌を読んでいた。

 そこに書かれていた文字は全く分からなかったが、イラストだけでもそこそこ面白かった。

 初めてにしては問題なく洗濯でき、なかなか有意義な時間を過ごせたように思う。

 ……で、乾燥が終了する頃には昼を過ぎていたというわけだ。

(まぁ、昼間のほうが人も多かったみたいだし、結果オーライだな。)

 結果的に情報はゼロなので、朝から来ても昼から来てもあまり変わりなかったとも言える……。

 これから先は変に聞き込み調査をするよりも、素直に住宅街などを一軒一軒しらみつぶしに探していくほうがいいかもしれない。……効率的ではないけれど、発見できる確率はそちらのほうが高そうだ。

(でも、住宅街に行くのは明日だな。)

 今から行っても向こうに着く頃には夕方で、昼間ならまだしも夜に住宅街を独りきりで歩くのは怪しすぎる。

 しかし、このままホテルに帰るのも癪だったので、ツルカはダメ元で諒一に連絡してみることにした。

 ダイヤルを終えてしばらく待っていると、不意に付近から端末の呼び出し音が聞こえてきた。

(あれ……?)

 それは右前方から聞こえてきており、そこには地味な色のシャツを着た男性がいた。

 ボクみたいにここをベンチがわりに使っているのだろうか、とぼんやり眺めていると、こちらの携帯端末からリョーイチの受け答えの声が聞こえてきた。

「――はい、旗谷です。」

 それは、前方にいる男性が携帯端末を耳に当てるのとほぼ同じタイミングだった。

(……?)

 もしやと思い、すぐにツルカは携帯端末の通話終了ボタンを押す。

 すると、その男性は携帯端末から耳を離し、怪訝そうにそれを見つめていた。

 ……どうやら、リョーイチで間違いないようだ。

(さすがボク……。ここに来て正解だった。)

 ついさっき捜査方法を変更したのも忘れて、ツルカは素直に喜んでいた。

 一応客席の人間は全員確認したつもりだったが、いつもとは違って私服だったせいで気が付かなかったのかもしれない。

 ツルカは席から立ち上がると、両手をメガホンのように口元に当てて名前を叫ぶ。

「リョーイチ!!」

「!?」

 背後から名を呼ばれてさぞ驚いたことだろう。

 リョーイチはこちらに振り向いた。そして驚いているのか、その目は見開かれていた。

 そんな諒一の珍しい表情を眺めつつ、ツルカは客席を華麗に飛び越えて諒一が座っている場所にまで移動する。

 こちらが移動し終えると、早速リョーイチは質問を投げかけてきた。

「ツルカじゃないか。なんでこっちに……まさか一人で?」

 なんの連絡もなしにいきなり現れたのだから、リョーイチが疑問を持つのも当然である。

 しかしその質問を無視し、ツルカは自分が今諒一に伝えねばならぬことを声に出して言う。

「ボクはユウキを連れ戻しに来た。絶対ユウキはランナーを続けるべきだ!!」

 こちらの言葉に対し、諒一はしどろもどろに答える。 

「ああ……。」

(……?)

 こちらとしては、リョーイチがユウキを日本に連れ帰ったというイメージがあったのだが、今のリョーイチの様子をみると、このまま日本に居続けるつもりはないように思える。

 結城の処遇に関して、諒一がそれを決めかねていることにツルカは安堵し、より詳しい話をするために諒一の隣の席に腰を下ろした。

「リョーイチはどうしてここにいるんだ?」

「……。」

 リョーイチは何も言わず、黙ってこちらを見つめていた。

 久しぶりに見るが、リョーイチの顔は相変わらず無表情だ。そして、ここがリョーイチの故郷だということもあってか、周囲の風景によく馴染んでいる気もする。

 しかし、いつになっても向こうがこちらから目をそらす様子はなく、ツルカもそれを見つめ返していた。

 今の今まで全く意識していなかったが、改めてじっくり見るとなかなかいい面構えをしているではないか。……これが表情豊かにアプローチしてきた日には冷静でいられる自信がない。

 そんなことを思っていると、いきなりリョーイチがこちらに手を伸ばしてきた。

(な、なんだ……?)

 ツルカは若干どきどきしつつその手を見つめていたが、こちらの予想に反し、その手はツルカの体ではなく、ツルカが座っている椅子の背もたれに載せられた。

 一体何のつもりだろうか。

 ツルカが文句を言おうとすると、それより先に諒一が喋り始める。

「ここは……結城が初めてVFBを観戦した席なんだ。」

「あ……。」

 その憂いの混じった声を聞いて、ツルカは何も言えなくなってしまった。

(あの時、ユウキはここからボクの試合を見てたのか……。)

 ツルカは、6年前に同じ場所に座っていた結城の姿を思い浮かべる。

 全く想像できたものではないが、VFランナーになるきっかけになったのだから、その時のユウキは夢中になって観戦していたのだろう。

 ……目を閉じればあの時の歓声が聞こえてくる気がする。

 一体ユウキはどんなふうに観戦していたのだろう。周りの観客と同じように大きな声を出して楽しんでいたのだろうか、それとも、黙って食い入るように見ていたのか……。

 そう思っているうちに、本当にこの場所に結城がいるような気がして、ツルカは席から立ち上がるべく上半身を前に傾け足に力を入れた。

 しかし、こちらが少し腰を浮かせたところで、リョーイチのほうが先に席から立ち上がっていたことに気がつく。

 リョーイチの顔は競技場側に向けられており、そのまま続けて語り出す。

「あの時、結城をVFB観戦に誘って良かったかどうか……今でも時々考える。」

 リョーイチもこちらと同じく昔のことを思い出していたらしい。

 ツルカは一度は立ったものの、色々と長くなりそうだったので再び椅子に腰を下ろし、落ち着いて話を聞くことにした。

 リョーイチは向こうを向いたまま話を続ける。

「もしあの試合に誘っていなければ、結城はVFに興味をもつことなく普通に高校生になって、そのまま大学生になって、どこかに就職して、恋愛して、結婚して、子供を産んで……そんな人生も選べたはずだ。」

「……。」

 常に刺激を求めているツルカにとって、そんな生き方はつまらないように思えた。しかし、人として普通の幸せを求めるのならば、VFランナーという仕事は向いていないのは事実だ。

 ただ、結婚や出産に関しては全く想像ができないツルカであった。

 諒一は間を置いてさらに続ける。

「……だが、VFBという道を選ばせてしまった以上、もう結城はそんな普通の人生は歩めない。」

 リョーイチもリョーイチなりに悩んでいたらしい。

 そのネガティブな発言に、ツルカはすぐに反応してみせた。

「確かに普通じゃないけど……それならそれでいいじゃないか。」

 諒一の言っていることは分からないでもないが、ツルカには結城と諒一の幸せな未来しか思い浮かばなかった。

 結構理想的な夫婦のように思えるのだが、本人達はあまりそこまで将来のことを考えていないみたいだ。

 リョーイチはこちらの言葉に同意するように「そうだな」と短く答え、その言葉の余韻を残しつつゆっくりと振り返る。

「ツルカの言う通りかもしれない。……でも、だからこそ、本当にそれでよかったのか、もう一度ここでゆっくりと考えたかったんだ。」

 ユウキの人生にひとつの選択肢を与えてしまったことを後悔しているのだろうか。

 話を聞くと気負い過ぎのような気がするが、それだけユウキのことを真剣に想っているのだろう。

 ツルカはそんな考えは間違っていることを伝えるため、自らの意思で席から立ち上がり、諒一に詰め寄ってストレートな思いをぶつける。

「ボクはリョーイチに感謝してるぞ。ユウキを海上都市まで連れてきてくれたのはリョーイチなんだからな。」

 海上都市に来てからも、リョーイチの助けが無ければユウキは何もできなかっただろう。

 ついでにツルカは、諒一が責任を感じすぎていることに関しても注意する。

「それに、今ユウキがあんな状態になっているのはリョーイチの責任じゃない。……全部七宮のせいだ。辞めるだ辞めないだの議論の前に、ユウキを元の状態に戻すのが先なんじゃないか?」

「……。」

 リョーイチは目を閉じてこちらの話を聞いていた。

 こちらが言いたいことを伝え終えてから約十秒後、リョーイチは目を閉じたまま、ぼつぼつと話し始める。

「ここでVFBを辞めて日本で普通の人生を送るか。それとも、再び海上都市に戻ってVFBを続けるか……。選ぶのは結城だが、確かに、あんな状態じゃ正しい判断はできないだろう……。」

 言い終えるとリョーイチはおもむろに目を開け、先ほどまでボクが座っていた椅子に……6年前にユウキが夢を決めた場所に視線を向けた。

「VFBで戦っている時の結城はとても……楽しそうで幸せそうで、エネルギーに満ち溢れていた。あれ以上結城が夢中になれるものは他に無いし、結城もそれをわかっているはずだ。それに、結城にきっかけを与えたからこそ、俺には最後まで結城の面倒をみる義務がある……。」

 今日はよく喋るなぁと思いつつ、ツルカは返答がわかりきった問いを諒一に投げかける。

「それで、答えは出たのか?」

 そのシンプルな問いに対し、リョーイチは飽くまで冷静に、それでいて情熱的に自分の意志を表明した。

「ああ。……ここで結城を終わらせるつもりはない。VFBを辞めるとしても、それは結城が恐怖を克服してからだ。」

 そう言ってリョーイチはこちらに視線を戻す。 

「協力してくれないか、ツルカ。」

 もともとそのつもりだったので、ツルカは力強く頷く。

「もちろんだ。」

 ……これで、ユウキを連れ戻せる確率も上がったはずだ。

 幼馴染という強力な武器があれば、ユウキに元気を取り戻させるのも容易い。

 いざとなればリョーイチをけしかけてユウキを……いや、それだけは止めておこう。

 話がついたところでツルカは再び椅子に体重を預けた。

 そのまま何気なく競技場に目を向けると、ほとんどの練習生がストレッチ運動をしていた。……多分、練習後のケアストレッチか何かだろう。

(あ、あれならボクにもできるな。)

 ツルカもその一部を真似てみることにした。

 まず腕を内側に曲げて指の先を肩にくっつけて三角形を作り、次に三角形を保ったまま肩を支点にしてグルグルと大きく回転させる。

(駄目だ……。)

 しかし、余計に疲れるだけで2回転しないうちに腕をだらりと下におろした。

 そんなこちらの疲れ果てた様子を見て、リョーイチがあることを提案してきた。

「長旅で疲れただろう。今日はウチに来るといい。」

 願ってもない提案に喜びつつ、ツルカは携帯端末で現在の時間を確認する。

「まだ夜まで時間あるし、今から一緒にユウキに会いに行かないか? 会わないにしても、先にユウキの家を見ておきたいし……。」

 こちらの言葉にリョーイチは「それなら心配ない」と答え、一人で先に観客席の出口に向けて歩き出した。

 ツルカがそれを不思議に思っていると、諒一は先ほどの言葉に付け足すように告げる。

「結城とはお隣り同士だ。」

(なるほど……。)

 幼馴染だからそれもそうか、とツルカは妙に納得し、観客席を後にする。

 ようやく結城のいる場所を把握できて、どんな状態にあるのか心配になってきたツルカだったが、同時に、こんなにも心配してくれる異性がいることを羨ましくも思っていた。 


  9


 ホテルでチェックアウトを済ませたツルカは、諒一と共に諒一の自宅を訪れていた。

 諒一の家は住宅街の中でも奥のほうに位置しており、おかげでツルカは他の家を何軒も観察することができた。

 日が落ちるにつれ、その家の窓に次々と明かりがともされていく様子は、どこかのイルミネーションを彷彿とさせるほど幻想的な光景であった。

 ――今、ツルカは諒一の家の門の前で待機している。

 留学するくらいなのでもっと大きい家に住んでいるのかと思っていたが、そうでもないらしい。

 家は2階建てで屋根の部分は平たく、全体的に立方体状の形をしている。また、壁面はグレーで冷たい印象を受けた。

(明かりもついてないし……だれも居ないのか?)

 ツルカの予想は当たっており、諒一はズボンのポケットから金属製の鍵を取り出し、ドアの上下にある錠を上から順に解除していた。

 そんな諒一の背中を眺めつつ、ツルカは門を抜けて玄関まで歩く。

 リョーイチもさすがにその作業には慣れているようで、鍵はこちらが門から玄関まで歩く間に解除されていた。

 こちらがドアの前まで来ると、リョーイチはドアを開けてこちらが入るのを待っていてくれた。

 それを見て、ツルカはドアが閉まらぬうちに急いで家の中へ入る。

「おじゃましまーす……」

 玄関でブーツを脱ぐと諒一に案内されるまま家の中へ上がっていく。

 やはり家には誰もいないようで、部屋の明かりはリョーイチが手動で点灯させていた。

 慣れないこちらとは違い、リョーイチは迷うことなく奥へと進んでいく……。

 それを追いかけつつ、ツルカの意識は足元に集中していた。

(床、冷たくて気持ちいいな……。)

 蒸し暑いブーツを脱いだことも相まってか、足がひんやりして良い感じだ。

 このままソックスも脱いで裸足になりたい気分だったが、さすがにそこまでだらしない格好をするのははばかられた。

 ニーソックスの薄い生地越しに足の裏で木のフローリングの感触を楽しんでいると、やがてツルカは広い居間に到着した。

 居間は整然としており、家具は指で数えられるくらいの物しか置いておらず、花やぬいぐるみなどの余計な物は一切見当たらない。

 その中で唯一、手の平サイズの写真立てだけが腰くらいの高さの棚に飾られていた。

(……?)

 気になって近くで見てみると、今よりちょっと若いリョーイチが映っており、その左右には両親と思わしき男女が映っていた。

 両親は気恥ずかしそうな表情を浮かべており、それぞれの手がリョーイチの両肩に載せられている。

 リョーイチの性格からして、両親も素っ気ない性格をしているのかと思ったが、これを見るかぎりでは優しそうな親のように思える。

 しばらくそれを眺めていると、不意にキッチンの方からリョーイチの声が聞こえてきた。

「……2人とも家を空けることが多い。」

 2人、とは両親のことだろう。

 仕事が忙しいのか、それとも特殊な事情があるのか、ツルカはそこまで詳しく訊くつもりはなかったので、「そうなんだ」とだけ言って写真から視線を離した。 

 ツルカ自身も両親に逢えるのは年に数回程度なので、あまりその話題には触れたくなかったのだ。

 しかしこちらの思惑に反し、リョーイチは過去を思い出すように話してきた。

「両親がいない間、よく結城の家で預かってもらっていたんだが……。」

 そこまで言って、なぜだかリョーイチは言葉を濁した。

 ツルカはその言葉の続きを予想し、試しに言ってみる。

「いつの間にかユウキの世話役になっていた……と?」

 こちらの予想は的中していたらしく、リョーイチはこちらを向いて無表情で頷く。

「……まぁ、そんな感じだ。」

 そんな会話をしている間も諒一はキッチンあたりで何か作業をしており、ツルカは何か手伝えないかと思ってキッチンに移動する。

 すると、リョーイチは飲み物を準備しており、透明なグラスにお茶を注いでいる最中だった。

 ……毎週リョーイチが女子寮に来て家事をしているのを見て常々思っていたのだが、やはりその動きはテキパキとしていて無駄がない。

 お茶と一緒に氷もグラスに入れられ、準備ができるとリョーイチは2つのグラスをお盆に載せていく。

 しかし、こちらがキッチンにいるのに気がつくと、リョーイチはお盆から1つだけグラスをとって手渡してきた。

 グラスを受け取ったツルカは、ひんやりとした感触を手のひらに感じつつ適当に話題をふる。

「そういえば、停学処分で怒られたりしなかったのか?」

 リョーイチは「いや……」と前置きをしてから質問に答える。

「退学でもないし、成績は問題ないのを知っていたから怒られはしなかった。……というか、ツルカこそ無断欠席なんじゃないか?」

「う……。」

 諒一に切り返されてしまい、ツルカは狼狽える。

 あまり学校のことは考えないようにしていたのだが、やはり無断で休むというのは色々とまずい。今からでも連絡をしたほうがいいかもしれない。

(あ、そういえばお姉ちゃんにもボクが日本にいるって連絡しておかないと……。)

 多分、お姉ちゃんにはイクセルが事情を説明してくれているはずだ。……しかし、何事も無く無事にリョーイチやユウキに会えたことはしっかり伝えておいたほうがいいだろう。

 ……ユウキにはまだ会っていないが、隣の家にいるのだから会えたも同然である。

 リョーイチは自分で注いだお茶を飲みつつ、こちらを急かすように言う。

「一応、連絡したほうがいいんじゃないか?」

 こちらも冷たいお茶を一口のみ、同意するように頷いてみせる。

「そうだな、今は仕事中だろうしメールで伝えておく。」

 そう言ってツルカはグラスをキッチンのカウンターの上に置き、携帯端末を取り出して文字を入力し始める。

 ボイスメッセージを入れたいところだが、国際間通信なのでなるべくデータ量は少ないほうがいいはずだ。

「えー、『お姉ちゃん、今ボクはリョーイチの家にいます。ユウキを説得できたらすぐに帰るから、心配しないでね。』……よし、送信。」

 新しい端末から送ったが、文面を見ればボクだと分かってくれるだろう。そして、これを見れば学校にも体の良い理由をつけて連絡してくれるに違いない。

 ひとまず姉への報告を終え、ひと安心したツルカはグラスのお茶をぐびぐびと飲む。

 そのまま一気に飲み干し、ツルカは空になったグラスを諒一に手渡した。

 諒一はそれを受け取ると、どこからか取り出してきたエプロンを腰に巻き始める。

「まだ夕食の準備ができてないから、先に風呂に入っておくといい。」

(夕食……。)

 久々に手作りの料理が食べられるかと思うと、自然にお腹がすいてきた。

 しかもそれを風呂上りに食べられるのだ、リョーイチの料理の腕はお墨付きだし、最高の御馳走になるだろう。

 こちらが夕食に胸ときめかせていると、リョーイチが唐突に信じられないことを口にした。

「……ところで、替えの下着はあるのか? サイズさえ教えてくれれば、昔の結城の下着から適当なのを準備してもらえると……」

 普段と変わらぬ口調で何気なく言われたため、ツルカは反射的に「必要ない」と言ってしまいそうになった。……が、ツルカは一歩手前で言葉を呑み込み、慌てて修正して言う。

「か、軽々しく女の子にバストサイズを聞くな!! ……ボクはユウキじゃないんだから、ちょっとは遠慮してものを言え!!」

 ……付けてないなんて口が裂けても言えるものではない。

(大体、なんでリョーイチがユウキの下着を……、まさか……!?)

 一瞬のうちにツルカの脳裏にピンク色の妄想が展開され、ツルカは無意識のうちに諒一から距離をとってしまう。

 リョーイチはと言うと、こちらの注意を聞いて素直に反省しているようで、すぐに代理案を用意してきた。

「変なことを聞いて悪かった……。久恵ひさえさんには、フリーサイズのものをいくつか準備してもらうことにする。」

「ヒサエサン……?」

 知らない単語が耳に飛び込んできて、不思議に思って訊き返すと、ようやくリョーイチはこちらが身を引いた理由がわかったらしく、眉間あたりを指でつまんで悩ましげに顔を逸らした。

「ごめん、説明が足りてなかった……。久恵さんというのは結城のお母さんのことだ。」

「あ、そうなんだ。」

 ユウキの家族のことをすっかり忘れていた。

 家族同士で付き合いもあるみたいだし、ボクがユウキの友達だと分かれば向こうも快く服を貸してくれるだろう。

 リョーイチもリョーイチでそういう所はちゃんと考えてくれているようだ。

(まさかリョーイチがユウキの下着を持ってるわけないし……早とちりだったな。)

 リョーイチへの疑いが晴れて胸をなで下ろしていると、いつのまにやらリョーイチは冷蔵庫から野菜を取り出しており、それを水で洗っていた。

「あと、着替えは脱衣所のタンスに結城の服がたくさん残っていたはずだから、遠慮なくそれを着てくれ。」

 ユウキの服がリョーイチの家にあるということは、ユウキもよくこっちの家で過ごしていたみたいだ。

 これで、同じ制服を何度も着ずに済むようになったのだが、問題は下着をどのようにして受け取ればいいか、その方法である。

 なるべくなら、風呂にはいる前に着替えは確認しておきたい。……となると、ボク自らユウキの家に貰いに行ったほうがいいのだろうか。

 しかし、そこでユウキと鉢合わせすると気まずいし、しかも下着を借りるとあってはこちらの面目が立たない。

「それで、その……肝心の下着は?」

 恥ずかしげに訊くと、リョーイチは野菜から手を離して、代わりに携帯端末を手に持つ。

「向こうに連絡すれば、すぐに久恵さんが脱衣所まで持ってきてくれると思うが……今すぐ連絡しようか?」

 ……よくよく考えれば、幼馴染の下着をリクエストして、それをすぐに持ってきてくれるという自信があるのだからリョーイチの信頼構築能力は半端ではない。

 余程の信頼がないと娘の下着を持ってきてくれる母親などいないだろう。

(まぁ、ユウキもリョーイチもお互いの家でよく過ごしてたみたいだし……兄妹みたいに思われてるんだろうなぁ……。)

 そんなことをぼんやりと考えていると、諒一が携帯端末を操作し始めていたので、ツルカは諒一にそれを仕舞うように指図した。

 そして、ツルカは数秒ほどで脱衣に掛かる時間を計算し、連絡するタイミングを諒一に伝える。

「そうだな……5分後くらいにしてくれないか。」

 5分もあれば余裕だろう。

 ツルカの要求に対し「わかった」と返事すると、諒一は本格的に料理に取り掛かるべく包丁やピーラーなどをまな板の上に並べ始める。

 それを見て、ツルカは自分の中で5分のカウントダウンをスタートさせ、居間から脱衣所に向けて移動を開始する。

 ……その後、脱衣所を発見するまでに2分を要してしまい、多めに時間を設定してよかったとツルカは思っていた。 



「あー……。きもちいいー。」

 こんなに暑いのに、わざわざ熱いお湯に入るのはおかしい。

 ……と思っていたのも入る前までで、肩までお湯に浸かるとツルカはその爽快感に酔いしれていた。

 髪を熱いお湯に浸けるのはあまり良くないみたいだが、今日くらいは別にいいだろう。

「ふいー……。」

 気の抜けた声が発せられるたび、その声は浴室内で反響し、最後には湯気に吸い込まれていく。

 シャワーとは違い、体中の毛穴から汗や余分な物質が搾り出されていく気分だ。

 温水プールには何度も入ったことがあるが、あれとは全く違った気持ちよさがこの湯船には存在している。

「……。」

 しかし、長く居過ぎるとのぼせそうだったので、ツルカは早々に湯船から出ることにした。 


 ――入浴後。

 火照った体をバスタオルで拭いていると、入ってきた時にはなかったビニール袋が脱衣かごの中に鎮座していた。

 どうやら、気づかぬ間にユウキのお母さんが下着を置いてくれたようだ。

(あ、……声、聞かれたかもな……。)

 息を吐く度に思うままの声を出していたので、こちらのだらしない声は多分聞かれているだろう。

 しかし、その声は『ツルカ・キルヒアイゼン』というユウキの友達がちゃんと存在するという証拠にもなったはずので、そのくらいの恥は見過ごすことにした。

 ビニール袋の中から適当なものを見繕って身につけると、次にツルカはユウキの服を探すべくタンスに向かう。

 5段あるタンスを上から順に開けていくと、4段目に女の子らしい服が出現した。

 それと同時に防虫剤の匂いも周囲に広がり、ツルカは一旦タンスから離れる。

(う……。)

 独特の嫌な匂いであったが、このお陰で服たちは綺麗な状態を保っていられるのだろう。

 鼻を押さえて再びタンスを覗くと、いつもジャージで寝ている……というか、ほぼ半裸で寝ているユウキからは想像できないほど可愛らしい服が目に飛び込んできた。

「こんなの着てたのか……。」

 そのどれもがフリルが付いた、ドレスと見紛う服だった。中にはギリギリ着られるレベルの物もあったが、そんな服に限ってブカブカだったりして、どれ1つとしてサイズが合うものがなかった。

 多分、ユウキは気に入らない服をリョーイチの家に押し付けたのだろう。

「仕方ないな……。」

 ツルカは諦めて、再び自分のダグラスの制服を着ることにした。

 一応これも朝にコインランドリーで洗濯したのだし、まだまだ大丈夫なはずだ。

 なるべく早く脱衣所に漂う防虫剤の匂いから脱するべく、ツルカは急いでシャツ、プリーツスカート、上着の順に着替えていく。

 ソックスはどうしようかと一瞬迷ったが、暑いだけだと思い、裸足になることを選択した。

 そして、バスタオルを頭に被せ、最後にブレスレットを手首に嵌めるとツルカは脱衣所を後にする。

(さて、次は夕食だ。)

 ツルカはテーブルにどんな料理が並んでいるのかを想像しつつ、バスタオルに髪の水分を吸収させながら居間に戻る。

 すると、その想像通り、居間に入った途端に美味そうな匂いがツルカの鼻孔をくすぐった。 

 また、居間にはツルカが想像していなかったものも存在していた。

「ツル……カ?」

 こちらの名を呼ぶその者は……ユウキだった。

 ユウキはリョーイチと共にキッチンに立っており、その手に鍋を持っていた。

 身だしなみはあまり整のっておらず、栗色の髪は後ろで適当にまとめられていて、メガネも普段とは違って縁が大きい物を付けていた。

 ――ツルカは結城としばしの間見つめ合う。

 しかし、目と目が合っていたのもほんの数秒ほどで、ユウキはすぐにこちらから目を逸らす。……その表情から、ユウキが苦悩や恐怖に苛まれていることがよく分かった。

 そんな反応を見てツルカはいたたまれなくなり、思わず声を掛けてしまう。

「ユウキ……」

「……っ!!」

 だが、こちらが話しかけようとすると、ユウキは鍋をリョーイチに押し付けて、一目散に居間から飛び出していった。

 そしてすぐに玄関のドアの開閉の音が聞こえ、自宅へ戻ってしまったようだった。

 タイミングが悪かったのか、それとも良かったのか、今のツルカには判断しかねた。……が、結城がここにいるということを確認できたのだから、案外よかったのかもしれない。

「なぁ、ユウキはここで何してたんだ?」

 何気なく聞いてみると、リョーイチは鍋の中身をこちらに見せてくれた。

 ……その中には根菜の和え物がびっしりと詰まっていた。

「高野家からのおすそ分けを持ってきていた。……これで夕食のメニューが増える。」

 ユウキと出会う前のボクならいざ知らず、リョーイチの料理で好みが変化した今のボクにはそれがとても美味しそうに見えた。

「……。」

 ツルカは先程から良い匂いを発している夕食に目を向ける。

 どれも美味しそうで今すぐにでも食べたかったのだが、その折角の料理も、あんな状態のユウキを放置したままでは美味しく食べられない気がした。

(ユウキ……。)

 もともと、ボクはユウキを元気づけて海上都市に連れ帰るため、遠路はるばるここまで来たのだ。

 むしろ、呑気に夕食を食べている暇など無いはずだ。

「……追うぞ。」

 ツルカは頭からバスタオルを除けて、隣の家に向かうべく諒一のエプロンを引っ張る。

 リョーイチはユウキから受け取った鍋をキッチンカウンターに置いてから、渋々こちらについてきた。

「今から行くのか?」

「ああそうだ。一秒でも早くユウキを楽にしてやりたいからな。」

 楽にするといっても、具体的に何をどうすればいいのか検討もつかない。

 しかし、何とかできる自信がツルカにはあった。



 ――リョーイチに案内させてユウキの家に入ると、一人の女性が玄関で待ち構えていた。

「あら、さっき言ってたゆうちゃんのお友達ってこの子だったのね。」

「はい、わざわざあんな物を持ってきていただいて……すみませんでした。」

「いいのいいの。」

 女性は日本語でリョーイチと会話した後、こちらに握手を求めてきた。

「初めましてこんばんは。……ごめんね、おばさんあんまり英語喋れないの。」

「……?」

 何を言っているのか分からなかったものの、取り敢えずツルカは笑顔でその差し出された手を握った。

 そして、言葉の中から聞こえてきた単語について考える。

(『ゆうちゃん』……多分ユウキの愛称だな。)

 年齢やリョーイチへの態度から察するに、この人はユウキのお母さんだろう。顔に多少のシワが見られるものの、体型だけを見れば20代と言っても通用しそうな感じではある。

 兎にも角にも、どうやらユウキのお母さんはボクを歓迎してくれているようだった。

 握手を終えると、今度はその手をリョーイチに掴まれてしまう。

「……久恵さん、結城は部屋にいるんですよね?」

「そうなのよ。帰ってくるなり2階に行っちゃって……。こっちもそろそろお夕飯だし、もし用事があるならついでに呼んできてくれないかしら。」

 何やら会話した後、リョーイチはツルカを連れて階段を登り始めた。

 ツルカは裸足でペタペタと階段を一段づつ登りながら諒一に確認する。

「なあリョーイチ、ユウキは2階にいるんだな?」

「そうだ。」

 どうやらユウキは自室に篭っているみたいだ。

 このままリョーイチと一緒に行けば、上手くユウキを言いくるめることができるだろう。

 ……しかし、それではユウキを完全に治せないような気がする。

 結城がこんな事になった原因は七宮の暴力であり、根本的な治療は同じ暴力でしか成し得ないとツルカは本能的に感じていたのだ。

(……。)

 ツルカは階段で立ち止まり、諒一にその旨を伝える。

「なあ、ボク一人に任せてくれないか。」

 決意の目をリョーイチに向けると、リョーイチはこちらの考えが解かったのか、すぐに手を離してくれた。

「……部屋は階段を登って左側だからすぐに分かるはずだ。」

「わかった。……絶対に途中で入ってくるなよ。危ないから。」

 ツルカは諒一の横を通り抜けて2階に到達する。

 そして、これから起こることを想定し、階下に向けて先に謝っておくことにした。

「ごめん、おばさん。……もしかしたらドア壊すかもしれない。」

 結城の母親、久恵は物々しい雰囲気を感じ取ったのか、一階でオロオロしていた。

「え? ……え? なんかさっきから『デンジャー』とか『ブレーク』とか聞こえてるんだけど、大丈夫よね、りょうくん?」

 リョーイチは階段を降りていき、上へ登ろうとするおばさんをガードしていた。

「大丈夫ですから安心して下さい。ちょっと喧嘩するだけだと思います。」

「け、喧嘩!?」

 おばさんの素っ頓狂な声が聞こえてきたかと思うと、不意に男性が現れた。

「……結城が塞ぎ込んでいることと関係あるんだな?」

 ユウキのお父さんと思わしきその男性は、飽くまで落ち着いた雰囲気でリョーイチに話しかけた。

 それに対し、リョーイチは力強く答える。

「はい。それも後でちゃんと説明します。」

「……それならいい。」

 意外にも、たったそれだけの言葉でお父さんは引き下がった。

「ほら、諒一君がああ言ってるんだ。……結城のことは諒一君に任せて、我々は事が済むまでテレビでも見ていようじゃないか。」

 そのままユウキのお父さんは、心配そうにしているお母さんを連れて居間の方向へ歩いていった。

 ついでに諒一も階下で待機しているのを確認すると、ツルカは結城の部屋のドアをノックすることにした。


  10


(なんでツルカが諒一の家にいるんだ……)

 結城は一人、暗い部屋の中でベッドに潜り込んで考え事をしていた。

(もしかして、諒一が呼んだのか……? でも、諒一はそんなこと一切言ってなかったし……。)

 薄々は気づいていたのだが、やはり諒一も私のランナー引退については反対らしい。

 自分だけでは私の意見を曲げられないと思って、ツルカに助けを求めたに違いない。

 ただ、それに応じるということは、ツルカも本気で私の引退に反対しているということになる。

 ツルカに会えたのは嬉しいけれど、こんな事になってしまってツルカに合わせる顔がない。

 それに、ツルカが私のことをどう思っているか考えると、情けなくて何を話せばいいかすらわからなくなってしまう。

 いつかツルカには日本に遊びに来て欲しいとは思っていたが、こんな形で、しかもこんな時にそれが叶うとは……最悪だ。

(もう、放っといてくれよ……。)

 試合ではもう戦えないというのは自分が一番良くわかっている。

 何を言われたって前のように戦える自信はないし、VFに乗ることさえできないだろう。

 もう私は『VF』を捨てて、普通に生きるしか道はないのだ。

「嫌だなぁ……。」

 本音が声となって口から漏れる。

 私だって、好きでVFBを辞めるわけではない。

 ……折角VFランナーになれたのに、折角1STリーグにまで進出できたのに、折角自分の一生を捧げられるモノが見つかったと思ったのに。

 折角、一生付き合える仲間に出会えたと思ったのに……。

 それが全て消えると考えると、残念で悔しくて仕方がない。

「でも、もう終わりなんだ……。」

 日本でこれからどうしようか。全く思い浮かばない。

「いやだなぁ……。」

 あまりの無念さに、自分の情けなさに泣いてしまいそうになる。

 ……しかし、その涙が出るか出ないかのタイミングで、ドアの向こうからツルカの声が聞こえてきた。

「ユウキ!!」

 それと同時に激しいノックが開始される。

 結城は反射的にシーツに包まって身を隠し、両手で耳を塞いだ。

 それでノックの音が消えるはずもなく、すぐにバキンという音がしてドアが開いた。

 どうやら無理矢理鍵を壊したみたいだ。古いタイプのドアとは言え、相変わらずの豪快さに驚かされる。

 部屋に侵入してきたツルカは、何も言わないままベッドの前まで移動してきた。

 シーツに包まっているせいで何も見えないが、このまま何を言うつもりなのだろうか。

 説得のセリフを予想していた結城だったが、それは見事に外れ、代わりにツルカはボディプレスをかましてきた。

 体重が軽いので全く痛くも痒くもなかったが、それはフェイントだったようで、ツルカは続けざまにこちらの脇腹を殴ってきた。

(痛っ……)

 結城はその不意打ちに無言で耐えてみせたが、痛いものは痛い。

「ユウキっ!!」

 ツルカはこちらの名前を叫びつつ、ひたすら私の脇腹にフックを入れてくる。

(痛い……)

 説得したり慰めたりするのかと思っていたのだが、一体これは何のつもりなのだ。……仮にも鎖骨を骨折している怪我人にしていい仕打ちではないはずだ。

 もしかして、これは俗にいう『お礼参り』というものではないだろうか。

 もう2度と会わないつもりで今までの鬱憤を晴らしに来たとでもいうのか……。 

「バカユウキ!!」

 言っている言葉からもそうとしか思えない。

 いい加減頭にきた結城はツルカに反撃することにした。

「痛いって言ってるだろ!!」

 結城はいきなりベッドの上で立ち上がり、ツルカを跳ねのける。

 部屋が暗い上にメガネもどこかに飛んでいってしまい全く見えなかったが、跳ね飛ばされたツルカがベッドから転げ落ちて床に尻餅をついているのだけはわかった。

 ツルカが怯んだ隙に結城は説明を求めて叫ぶ。

「何なんだよ!! 連れ戻しに来たんじゃなかったのか!?」

 しかし、ツルカはそれに答えることなく再びこちらに向けて飛びかかってきた。

 VFでの戦いならツルカにボロ負けなのだが、実際に戦うとなると話は別だ。

 いくらツルカが格闘に長けているといっても、ウェイトの差は如何ともしがたい。

 結城はぶつかるのを覚悟で、ツルカ目がけてジャンプする。

「!!」

 2人は空中でぶつかり合い、ツルカは再び床に落下することとなってしまった。

 結城はツルカの上に乗る形で着地しており、ツルカの背中が床につくのと同時に、その両腕を掴んで羽交い絞めにした。

 動きを止めるのにはかなりの苦労が必要かと思ったのだが、案外簡単に拘束できた。

 やはり、ツルカは華麗に身をこなせるだけで、腕力自体はそこまで強くないようだ。

 ……よく考えれば、この腕の太さで私以上の力が出せるわけがない。しかも、手首を掴まれて床に押さえつけられているとあっては尚更のことだ。

 結城はそのままの体勢でツルカにもう一度話しかける。

「急にどうしたんだ、ツルカ……え!?」

 ツルカの顔を見ると青い瞳が潤んでおり、その目には涙が溜まっていた。

 目線はまっすぐこちらに向けられ、唇はぎゅっと噛み締められている……。

 ツルカが泣く所をは見たことがあるが、こんな表情を見るのは初めてだ。

 これは痛さのせいで泣いているのだろうか、それとも……

 ……そんな流暢なことを考えている間に力が緩んでしまい、ツルカはこちらの手からするりと抜けた。

(しまった!!)

 ついでに結城はツルカに胸を蹴り飛ばされてしまう。

 結城はその勢いで立ち上がり、そのまま後ろによろけてベッドに仰向けになって倒れてしまった。

 すると、今度は逆にツルカがこちらの上に覆い被さってきた。

 結城はツルカの攻撃が来ると思い腕を前に構えてガードの体勢をとったが、あろうことか、ツルカはこちらの髪の毛を思い切り引っ張り始めた。

 頭に激痛が走り、結城は急いでツルカの両手を掴んだ。

 しかし、ツルカの力は緩むことはない。

(こうなったら……!!)

 結城は最後の手段である関節技を用いてツルカの手を髪の毛から引き剥がす。

 ツルカの手を外側へ無理矢理捻ると、ようやく髪から手が離れ、ツルカは捻り技に耐えられず、頭部をこちらの胸元に押し当てるようにして身を曲げた。

 勝利を確信した結城だったが、その認識は甘かった。

 なんと、ツルカは怪我をしている肩口に噛み付いてきたのだ。

 姿勢固定用のベルトのおかげで直接肌を噛まれることはなかったが、その容赦無い反撃に結城は激昂してしまう。

「いい加減に……しろッ!!」

 結城は力づくでツルカを体から引き剥がし、そのまま蹴っ飛ばした。

 ツルカは少しの間宙を飛び、ベッドと反対側の壁にある本棚にぶつかってしまった。

 そこでようやくツルカの動きが止まり、結城は一息つく。

(いきなり襲いかかってくるなんて……何があったんだ?)

 全くもって暴力の意図がわからない。

 戦闘には慣れているから良かったものの、一歩間違えれば傷害事件である。

 ……と、ツルカがぶつかった衝撃のせいで本棚がベッド側に向けて倒れ始めた。

 しかし、ツルカはそれに気づく様子はなく、頭をたれたままぐったりとしている。

 このままでは本棚の下敷きになってしまうだろう。

 いくらツルカが頑丈だとはいえ、本の詰まった本棚に押しつぶされて無事でいられるわけがない。

「ツルカ!!」

 結城はベッドから飛び降りてツルカのもとに向かう。

 そして本棚を押し戻すべく腕に力を込めたが、肩の痛みのせいでうまく力が入らず、全く押し戻すことができなかった。

 瞬時にそれが不可能だと判断した結城は、すぐさまツルカを抱きかかえ、本棚から逃げるようにしてベッド側に跳んだ。

「く……!!」

 しかし、先ほどツルカに噛まれた肩に痛みが走り、結城は十分に跳ぶことが出来ない。

 ここで、真横に逃げればよかったことに思い至ったが、今更もう遅い。

 結城はせめてツルカだけでも守ろうと自らの背中を上に向けて、ツルカを強く抱きしめる。

 ――その後、すぐに本棚はこちらに向けて倒れてきた。

(……あ……れ?)

 しかし、いつまで経っても強い衝撃はこない。

 確かに背後に大きな本棚の存在は感じているものの、背中には本がぼとぼとと落下してくる感触しかないのだ。

 その本だけでも十分に痛いのだが、あの木の塊が倒れてくればこれの数十倍の衝撃が私とツルカを押しつぶしているはずだ。

(……?)

 どうなっているのだろうと思い顔を上げると、本棚はこちらにぶつかる直前で止まっていた。

 ……というのも、本棚の上の部分がベッドのマットレスにぶつかっており、結城たちはわずかにできた隙間のおかげで助かっていたのだ。

(狭い部屋でよかった……。)

 ベッドと本棚の距離が近かったことを幸運に思いつつ、結城は腕の中に抱き抱えているツルカの状態を確認する。

 どうやらツルカは頭から血が出ているようで、銀色の髪の一房が紅色に染まっていた。

「ツルカ!?」

 自分の腕の中にいる少女を心配する結城だったが、体の前面同士をくっつけた状態で倒れているため、ツルカの鼓動は胸を通してこちらに伝わっており、生きているということだけはしっかりと確認できた。

(よかった……。)

 安心したのも束の間、ツルカは生きているだけではなく意識もあったようで、いきなり強い口調で話し始めた。

「……そうだ!! こうやって七宮にもやり返せよ!!」

「え……?」

 いきなり近くで言葉を発せられ驚いたものの、結城はこの言葉を聞き、先ほどのツルカの表情の意味がわかった。

 ツルカは自らの意に反してこちらを攻撃していたようだ。

 ――ただ、私に反撃をさせるためだけに……。

(ぶっきらぼうと言うか、ストレートと言うか……。)

 呆れるほど単純明快な方法なのだが、それに引っかかる自分も単純思考の持ち主であることに違いない。

 ツルカはと言うと緊張の糸が切れたのか、既にきつい表情を保てなくなっており、とうとう目に貯めていた涙も頬を滑り落ち始めていた。

「ユウキも……やれば、できるじゃないか……。う……うぅ……あああぁぁん!!」

 そう言うと、ツルカはこれまでの私への想いをぶつけるかの如く、まるで赤子のようにみっともなく大声で泣き始めた。

 ツルカは口も上手くないし、性格もガサツだからこんな事しかできなかったのだろう。

 もっとよく考えれば別の方法もあっただろうに、これではただのショック療法だ。

 ただ、その方法は私には効果テキメンだったみたいだ。

「……ごめんツルカ。すごく心配かけてたみたいだな。」

 こちらが優しく話しかけると、だんだんツルカの泣き声が収まってきて、その代わりにすすり泣く声が聞こえてきた。

 間を置いて、結城はツルカにささやくようにして話しかける。

「私だって七宮に仕返ししてやりたい。……でもまだ怖いんだ、あの時の事を思い出すだけで体の震えが止まらなくなる……。」

「……。」 

「情けないなぁ、私。」

 VFランナーが試合の恐怖に怯えるのは情けないことであるが、何より情けないのは、年下の女の子にこんな事をさせてしまった自分である。

 自分の過去の言動を悔いていると、ツルカが鼻をすすりながら言ってきた。

「情けなくなんか、ないぞ。」

 ツルカも辛いだろうに、まだこちらのことを心配して励ましてくれている。

 ……本当に私はいい仲間を持ったものだ。

「大丈夫か!? 結城!!」

 不意に近くから諒一の声が聞こえてきた。今頃になってようやく助けに来たらしい。

 取り敢えず、自分とツルカが無事であることだけは伝えることにした。

「諒一、私もツルカも大丈夫だ。」

「わかった。いまから本棚を立たせるからじっとしていてくれ。」

「うん。ゆっくり頼む。」

 本棚を退かさずとも横に開いている隙間から脱出できそうだったが、生憎、大量の本が邪魔で抜け出せそうにない。

 やはり、諒一に本棚をどうにかしてもらうより他無いようだ。

 脱出の目処が立ち安心していると、ツルカがこちらに対していきなり謝ってきた。

「こんな事になった責任はボクにもあるんだ。ユウキの気持ちも考えないであんなひどい事言って……ゴメン。」

 いつどこでひどい事を言われたか記憶になかったが、こちらにも思い当たるフシはあったのですぐに謝罪を返す。

「私こそごめん。もっとみんなの気持ちを理解するべきだった。」

 鹿住さんがいなくなったり、七宮に嫌がらせされたりと、私の心を乱すことがたくさん起きたのは事実だ。……しかし、だからこそ、周囲に配慮するべきだったのかもしれない。

 ツルカとやり取りしている間にも本棚は上に引き上げられていき、結城はなるべく体重がかからぬよう、ツルカから徐々に身をはがしていく。

「今ならわかる。あの時の自分には心に余裕がなかった、って。」

 そう言い終える頃には、結城とツルカの間に、自由に手を動かせるくらいのスペースができていた。

 結城はツルカの額についていた血を、近くに垂れているベッドのシーツの端で拭いてやり、ついでに涙も拭いてやりながら短い決意表明をする。

「……だから、これからは自分に自信を持って大きく構えていようと思う。……あのイクセルさんみたいにね。」

 至極真面目に言ったつもりだったのだが、ツルカはこちらに顔面を拭かれながら笑っていた。

「はは、“イクセルみたいに”って……。あれは、ただ単に抜けてるだけだと思うぞ?」

「……そうかもしれないな。」

 ツルカの言う通りだったとしても、余裕が感じられるというのは大事な事だと思う。その余裕の態度が、チームメンバー全体の安心に繋がる気がするからだ。

 完璧に真似をしようとは思わないが、参考にできる所はいくつもあるだろう。

 そんなことを考えながらツルカの顔を拭いていると、いきなり背中から圧迫感が消えた。

 どうやら本棚の撤去作業が終わったらしい。

 結城はベッドの縁に手を置いて立ち上がり、続いてツルカの手をとって立ち上がらせる。

 立ち上がった途端、重力によってツルカの髪の隙間から再び血が流れてきたが、ツルカ自身はそれを気にすることなく、諒一に自慢気に話しかけていた。

「どうだリョーイチ。ボクがユウキを立ち直らせたぞ!!」

「ああ、ツルカに任せて正解だった。」

 果たして本当に私は立ち直れたのか、それは実際にVFに乗って確かめるしか無い……。

 ただ、ツルカと仲直り……というか、絆を深めることはできたように思う。

(殴り合いをした後に仲良くなるなんて……一昔前のドラマでも有り得ないような話だな……。)

 この考えで行くと、いつも殴られたり蹴られたりしているイクセルさんとツルカも仲良くなりそうなものだが……あれはあれで色々事情があるのだろう。

「ありがとう、ツルカ。」

 改めて礼を言うと、ツルカは親指を立ててニコリと笑う。

 その笑顔と顔面を流れる紅い血はなんともアンバランスだった。

「ツルカ、取り敢えず手当をしよう。……血やら涙やらでめちゃくちゃだ。」

 ここでようやく諒一がツルカの治療を提案し、3人は一緒に1階に降りていった。


 11

 

 ――ツルカの手当は意外にも長引いた。

 幸いなことにツルカの頭部の出血はすぐに収まっていたが、問題は髪に付着した血だった。

 髪の色が銀であるが故に、少しの血の付着でも目立ってしまい、全てを拭き取るのに時間を要したというわけだ。

 ツルカだけではなく私も少々鎖骨が痛んでいた。しかし、怪我をしている状態であれだけやれるようなら、ヒビも既に無くなっているのかもしれない。

 今回激しく動いたせいで固定バンドを外せる時期が遅れるかもしれないが、どちらにせよ完治は近いだろう。

 ……今はツルカの髪を整えている諒一を除いて、全員が居間のテーブルについている。

 父さん母さん共に無言でツルカの方を向いており、なんだか空気が重い感じだ。

 見られているツルカはと言うと、椅子に座った状態で目を閉じており、完全に諒一に頭を任せていた。上着も私のお古に着替えており、血のついた制服は洗面所で要所を洗われた後に洗濯機に放り込まれていた。

 やがて、諒一による髪とき作業も終わり、一息つくと、今まで黙っていた父さんが重々しく喋り始めた。

「さて、そろそろ説明してくれるかな……?」

(いよいよか……)

 さすがに、いきなり外国の少女が家に来て、私の部屋に押し入ったかと思うと血まみれになって1階に現れたのだから、家の主として無視しないわけにもいかないだろう。

「この子は私の友達のツルカで……」

 こちらに紹介されたツルカは無言でお辞儀をし、少しだけ首を傾けて好意の表情を両親に向ける。……さすがお嬢様だ。

 しかし、父さんが聞きたかったのはそんなことでは無いようで、ツルカには目もくれずじっとこちらを見ていた。

 ……ウチの父さんは結構厳格だ。

 若いころはどこかの実業団チームでスポーツをやっていたらしく、今では若干メタボ気味だが比較的ガッチリとした体格を保っている。

 諒一と一緒に留学することに関してはあまり口出ししてこなかったが、心のなかでは反対していたに違いない。

「……鎖骨の怪我について、父さんに言うべきことがあるんじゃないか?」

 やはり、ツルカの件は全く気になっていないらしい。

(まぁ、こっちに帰ってきてからほとんど何も話してなかったしな……。)

 話したことといえば、自分と諒一が2週間の停学処分を受けたということくらいだ。

 怪我のことも、さらには自分がVFランナーになったということも全く話していない。

「……。」

 結城が答えあぐねていると、助け舟を出すように諒一が会話に割り込んできた。

「実は結城は……」

「諒一くんは黙っていてくれないか。」

 しかし、すぐに父さんによって諒一の言葉は遮られてしまった。 

 その言葉の後、諒一は再び何かを言おうとしていたが、今度は結城がそれを制止した。

「父さんの言う通りだ。……自分で言う。」

 そう伝えると諒一は口を閉じ、小さく頷いた。

 結城は意を決すると、今までずっと親に隠していた真実を告白し始める。

「……私、この一年間VFに乗って試合に出てた。……で、この怪我は試合中に受けたものなんだ。」

 ――とうとう言ってしまった。

 結城はこの後にくるであろう非難に耐えるため身をすくめていたが、父親から帰ってきた言葉は非難でも何でもなかった。

「そうか。……それで、その試合には勝ったのか?」

「え……?」

 結城としては、「なぜ黙っていたんだ!!」とか「そんな危険な事は辞めろ!!」など、きつい言葉を浴びせられると思っていた。

 それ故に、平然と試合結果を訊いてくるのは想定外だった。

「試合に勝ったかと聞いてるんだ。」

 もう一度言われ、結城はおどおどとした感じで素直に結果を述べる。

「一応勝ったけど、これは相手が反則負けしただけで……。」

「そうか、勝ったんだな……。」

「……うん。」

 一体何がどうなっているのだろう。

 一人娘が、怪我を追うような危険なスポーツをやっているというのに、それを止めるどころかその詳細すら聞いてこない。

(まぁ、止められるとかなり困ったことになるんだけど……。)

 肩透かしを食らったような感じで、結城がふわふわとしていると、父親が何かを語りだした。

「試合に出る以上は勝て……と言いたいところだが、試合には負けてもいい。ただ、自分には負けるな。……お前は強い子だ。己に勝ち続けて信念を貫けよ。」

「……。」

 何か名言っぽいことを言われた気がする。

 どうやら父さんは私がVFBに出場することに賛成してくれているようだ。

 結城は初めて自分のことが認められた気がして、急に誇らしくなってきた。……親に認められるというのはこういう事を言うのだろうか。

 予想が予想だっただけに、その言葉は結城の身に深く染み渡った。

「とにかくお前の人生だ。お前の好きなようにやってこい。……以上だ。」

「うん。わかった。」

 こちらが返事をすると、続いて父さんは諒一の方に体を向けた。 

「諒一君、娘のことをよろしく頼む……。」

 まるで私を嫁にやるみたいな言い方だった。

 ……それだけならまだ良かったものの、諒一も「任せてください」などと受け答え、急に恥ずかしくなった結城はその場で俯いた。

 大体の話が終わると、今度は母さんが興味ありげにこちらに聞いてきた。

「それで、VFなんとかとか言うのはどんな競技なの?」

 VFBが何かも知らずに私をダグラス企業学校に留学させたのか……。

 とりあえず結城は簡単に説明することにした。

「VFBっていうのは大きなロボットに乗って戦うスポーツなんだけれど……詳しいことはネットで調べればすぐに分かると思う。」

 父さんもこの話を聞いていたのか、私が説明を終えるとすぐに「仕事を片付けてくる」と言って自分の書斎へ移動してしまった。

 ……多分、情報端末でさっき言ったことを調べるつもりなのだろう。

 その間、ツルカは全く状況が理解できてなかったようで、こちらや諒一の顔を見つめて不思議そうな顔をしていた。

 結城たちは夕食をまだ食べておらず、ツルカにも状況を分からせる必要があったため、3人だけで諒一の家で夕食を食べることにした。

 


 ――諒一の家に移動すると、冷めた料理が結城達を出迎えてくれた。

 ……やはりというかなんというか、諒一の料理もここまで冷めるとあまり美味しくない。

 しかし、ご馳走になっている以上文句など言えるわけもなく、結城はそれを有りがたく食べていた。

「良かったな、ユウキ。全然怒られなかったじゃないか。」

 何があったのかをひと通り話すと、ツルカはうれしげに話しかけてきた。

 結城は一旦箸を止めてツルカに応じる。

「うん。やる気は出てきたけど……」

 停学に関しても、怪我に関しても咎められなかったのは良かったものの、逆に少しだけプレッシャーを感じていた。

(これから先試合に勝てなかったら、結局VFランナーを辞めることになるんじゃ……。)

 そうなれば、あれだけ応援してくれた親に申しわけが立たない。

 うんうん唸りながらお箸で料理をつついていると、こちらの気持ちを察したのか、ツルカ再び声を掛けてきた。

「……次の試合。」

「え?」

「とにかく次の試合には出てみないか? VFに乗るのは辛いかもしれないけど、やらないことには始まらないぞ。」

 急に真面目な声で話され、結城は顔を上げてツルカを見た。

 ツルカは手にフォークをもっており、それを上下に振りながら話し続ける。

「それに次はイクセルだ。イクセルなら面識もあるし、怖くないだろ?」

 確かにイクセルさんとは知り合いだ。……が、それだけで私の恐怖が紛れるかといえば、必ずしもそうとは限らない。

 それに、戦う前から結果はわかりきっているような気もする。

「私がイクセルさんに適うわけ……」

 思っていたことを言おうとすると、すぐにツルカがフォークの先をこちらに向けた。

「だから、適う適わないじゃない!! いいから、お願いだ。」

「そう言われても……。」

 こちらが答えあぐねていると、とうとう諒一がツルカに助け舟を出し始めた。

「今回ばかりは意見を言わせてもらう。……もっと自信を持て、結城。あの程度でVFに乗れなくなるほど、結城は弱くなかったはずだ。結城なら、これくらい簡単に乗り越えられると信じてる。」

 諒一も言うようになったものだ、と幼馴染の顔を見ながら思う。

 ……でも過去の試合を思い出してみると、諒一の言うこともまんざらでもない。

 なぜなら、最初の2NDリーグでの反則負けを除いて、私は一度もVFBの試合に負けていないからだ。今回だって勝負には負けたけれど、試合には負けていない。

 これは、VFランナーとしてはすごい事なのではないだろうか。

(一回負けたくらいで何をくよくよしてたんだ……。)

 ……試合に出て、自分がどんな風になるかは予想できない。しかし、恐怖で動けなくなったとしても、また助けを求めればいいのだ。

 それはとても簡単なことだ。

 なぜなら、そのための仲間は私の周りにいくらでもいるのだから……。

 そう思うと、とても気が楽になってきた。

「2人ともありがとう。……頑張ってみる。」

 こちらが試合に出る旨を伝えるとツルカは上機嫌になったらしく、冗談を言ってきた。

「辛い時はすぐに言うんだぞ。またさっきみたいに喝を入れてやるからな。」

「あれはもう勘弁してほしいな……。」

 ツルカの笑えない冗談に対し、苦笑いで応える結城であった。

 ――やがて結城は食事を終え、自宅へ帰ることにした。

 もう少し長居したい気持ちもあったが、ぐちゃぐちゃになった自室をあのまま放置するわけにもいかない。

 頭を怪我したツルカを手伝わせる訳にはいかないし、かと言って、夜遅くに自室で諒一と二人きりで作業するのもはばかれる。

 一人でやるのは辛いが、本をまとめるくらいは今夜中にできるだろう。

「……さて、そろそろ家に帰るか。」

 結城はテーブルから離れて居間の出口に向かう。

 すると、諒一がいきなりこちらにあることを要求してきた。

「結城、ツルカに合いそうな寝間着を貸してくれないか。」

 結城はそれを了解しそうになったが、その言葉の意味を理解すると急いでテーブルまで戻ってきた。

「まさか諒一、ツルカを自分の家に泊めるつもりじゃないよな?」

 諒一は「そうだ」と前置きしてその理由を述べる。

「こっちは空き部屋もあるし、親のベッドも使える。効率的に考えて……」

 結城は、平然とした態度でツルカを泊めようとしている諒一の頭に軽くチョップを入れ、真っ向からその考えを否定する。

「そういう事言ってるんじゃないって……当然、ツルカは私の所に泊めるからな。」

 肝心のツルカはと言うと、どちらでも構わないのか、黙ってこちらの会話を聞いているようだった。心なしかその表情は眠たげである。

 結城はそんなツルカを自宅へ連れて行くべく、有無を言わさず起立させた。

 しかし、ここで結城は諒一が家に独りきりになってしまう事に思い至り、すぐにフォローを入れる。

「あ、でも朝はこっちに来てもいい。みんなで食べたほうが……効率的、そう、効率的だからな!!」

 そう言い捨てて居間から出ようとすると、諒一がぽつりと呟いた。

「……よかった。」

「何がよかったって……え?」

 何のことか分からず結城が振り返ると、諒一はテーブルに座ったままこちらを見つめていた。

「やっといつもの結城に戻ったな。」

 そう言うと何を思ったか、いきなり諒一は微笑んだ。

「――っ!!」

 不意打ちを受け、慌てて結城は諒一から距離をとる。……近くにいたままだと何をしてしまうか自分でも予測できなかったからだ。

 いつも表情の変化が乏しかった分、その微笑の破壊力は抜群だった。

(あ……。)

 結城は我を失いそうになったがなんとか理性を保ち続け、よたよたしながらも居間から出ることに成功した。

 そして、これ以上変な気持ちになる前に、結城はツルカの手を引っ張って自分の家に駆け込んだ。

(やばかった……。)

 表情のギャップが激しいゆえに、結城の動揺も大きかった。

 いつも結城は、微妙な表情の変化を読み取って諒一の感情を判断していた。なので、ああやってダイレクトに感情を表現されると、どう対応していいかわからなかったのだ。

(……。)

 そのまま玄関でぼーっとしていると、隣にいたツルカがニヤニヤしながら言葉を発する。

「お熱いねぇ。」

「……うるさい。」

 ツルカに対しては強気の姿勢を見せたものの、結局、その晩は諒一の笑顔が目の裏に焼き付いたかのごとく、頭から離れることはなかった……。

 第三章ではイクセルと七宮の繋がり、ツルカの一人旅、そして結城の微復活が描かれました。

 一番気になるのはツルカに親切にしてくれたおじさんですが、警察に変な勘違いをされていないことを願うばかりです。

 次の話では結城はイクセルと試合をすることになります。気力が回復したとはいえ、結城は自らの恐怖を克服することができるのでしょうか。

 今後とも宜しくお願いします。

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