【黒の虚像】第二章
前の話のあらすじ
相変わらず結城は諒一に部屋に入り浸っていた。
アカネスミレの修理は思うように進んでおらず、結城は不完全な状態のアカネスミレで『グラクソルフ』との試合に臨むことになる。
1STリーグで初めての試合は勝利したものの、アカネスミレは水没して大破した。
アカネスミレが原因で結城はランベルトと険悪なムードになり、ついでに失言をしたせいでツルカにも見限られてしまう。
さらに諒一にも部屋から締め出されてしまい、おまけにチンピラに絡まれたりと、結城は踏んだりけったりな目に遭う。チンピラに関してはアザムが助けたものの、そのアザムにも叱られてしまった。
これらが原因となり、結城の気持ちは極限まで沈み込んでいた。
第二章
1
海に浮かぶ海上都市群、その中で一際目立つフロートユニットがある……。
それは、結城が住んでいるメインフロートユニットに匹敵するほど巨大な浮島であり、メインフロートユニットをワイングラスに例えるのなら、これは巨大な平皿といったところだろう。
そして、その平皿の中央にそびえ立つ巨大なビル群こそがダグラス社の本拠地である。
海上都市が完成してからしばらくは、その場所はダグラス社の支部として機能していたが、本格的にVF事業に移行してからは本社となっている。
ただ大きいだけではなく、海上都市群の中で一番古いフロートユニットでもあるその場所は、他のフロートユニットから離れた位置に浮かんでいる。
そのため他のフロート間との船の行き来が少ないが、代わりにそのターミナルには大陸間航行用の巨大な輸送船が立ち並んでいた。
なぜそんな船が多くあるかというと、ここにはダグラス社の所有するVFの組立工場があるからで、そこに世界各地で作られたVFの構成部品が集められ、完成品へと組み上げているというわけだ。
フロート中央にそびえ立つ背の高いビルを囲むようにして、その周囲にはVF関連の研究施設などが立ち並んでいる。そこから少し離れた海上には、いつも結城たちが演習の場所にしている実験用フロートの姿もあった。
――そんな荘厳なフロートの景色を本社ビルの最上階から眺めている人物がいた。
その人物は階下に広がる景色に対し、小さく感想を述べる。
「やはり、ここからの景色は素晴らしい……」
その声はしわがれ声であり、それが老いた男性であることがわかる。
……しかしその外見は逞しく、また身長も高い上に老いを感じさせないほど背筋はしゃんとしていた。体の横幅もかなりあり、筋力も老人のそれを遥かに凌駕していることが窺い知れる。
頭部に髪はなく、髭も綺麗にそられているため、一見すると重量級のレスラーにも見えるが、その体は高級そうなスーツに包まれており、それなりの地位にいる人物のようであった。
その初老の男性は大きなガラス窓から外の様子を眺めながら喋る。
「……それで、『七宮』の情報は何かつかめたのか。」
初老の男性は外の景色を見るのを止め、ガラスの面に映る室内の様子を観察する。
ガラスには、こちらのはるか後方で立っているスーツ姿の若い男の姿が映っていた。
スーツ姿の若い男は、こちらが窓の反射を利用して観察しているとも知らず、姿勢を崩して壁にかけられた絵画をぼんやりと眺めていたが、こちらの声を聞いて慌てた様子で駆け寄ってくる。
「『七宮宗生』に関してですが……申し訳ありません。VFBに関する情報以外は全く……」
「何かあるに決まっておるだろうが。もっとよく調べろ。」
そう言って、ガラス窓から目を離して室内に振り返る。
すると、ワインレッドの絨毯の上に佇む若い男の姿が目に飛び込んできた。
窓越しに見ていた時は近くで喋っているような気がしていたが、まだまだ距離があるようだ。
それをじっと見つめていると、こちらに睨まれていると勘違いしたのか、スーツ姿の若い男は苦し紛れに情報を話し始める。
「……実は、タカノユウキと繋がりがあったかもしれないという情報が……」
「なんだ、あるじゃないか。」
「いえ、ですが、これは信頼性にかける情報でして、ご報告に価しないものかと……」
申し訳なさげに言う若い男に対し、初老の男性は叱りつけるように注意する。
「全部、全て、洗いざらい報告しろ。それがお前の仕事だ。……有用な情報かどうかはダグラスのトップである儂が……この『ガレス・ダグラス』が決めることだ。」
「はい、ダグラス社長。……今後は気をつけます。」
スーツ姿の男は伏し目がちに言った後、謝罪のつもりなのか、深く頭を下げていた。
――『ガレス・ダグラス』……彼こそがVF市場をほぼ独占しているダグラス社の取締役であり、VFを世に広く知らしめたVFBの立役者である。
彼の機転がなければ、今でもVFは作業用ロボットとして扱われたままで、それ以上技術が発展することはなかったことだろう。彼の生み出した『VFB』というコンテンツがあったからこそ、海上都市群はここまで規模を大きくすることができたのだ。
そういう意味でも、ガレス・ダグラスという男はこの海上都市群にとってなくてはならない存在であり、彼なくては海上都市群については語ることができないのだ。
そのガレス・ダグラスは現在、俗にいう社長室という場所にいる。そこは社長室という名にふさわしい豪華な内装がなされており、また、無駄に広い部屋でもあった。
スーツ姿の若い男は下げていた頭を上げると、先ほどまでの会話をリセットするかのように、全く別のことを話し始める。
「それと、他にも報告がございまして……先ほどの話で出てきたタカノユウキが所属するチーム、『アール・ブラン』がハイエンドモデルVFを提供して欲しいとのことです。」
「アール・ブラン……」
ガレスはこのチームのことをよく知っている。
今シーズンから1STリーグに昇格したチームの名前だ。
昨シーズンの時にもたまにその名を耳にしていたが、急成長している注目度もそこそこ高いチームらしい。
そして、そのアール・ブランにはダグラス社もスポンサーとしてそこそこの金を渡している。
その理由は“ダグラス企業学校のイメージアップ”である、と報告を受けている。
……直接ガレスが判断を下したわけではないが、ダグラス企業学校の学生であるタカノユウキが活躍すれば入学志願者も増えると考えてのことらしい。その考えに異論なかった。
この他にもスポンサーになることを決めた理由はある。……それは、アール・ブランが金欠で出場不能となってしまえば、VFBを開催しているダグラス社の面目が丸潰れになるからだ。
しかし、だからといって、こうも軽々とVFを寄越せと言われるとは思っておらず、ガレスは思ったことをすぐ口に出して言う。
「アール・ブランは、スポンサーをただの便利屋か何かと勘違いしているようだな……。」
いらついた風に言うと、スーツ姿の若い男がこちらの機嫌を伺う用に、慎重な口調で説明する。
「あのタカノユウキというランナーはそこそこ人気も出てきていますから、さすがに無視は出来ないと思います。若い女性ランナーとあって、新規層の獲得にも役だっているようですし、頼みを無碍には出来ないかと……。」
「まぁ、そうだろうな。」
ガレスはスーツ姿の若い男の言うことに全面的に同意する。
不機嫌にアール・ブランを貶したガレスだったが、その頼みを断るつもりは無かった。
「……よし、構わん。オプションパーツも豪華なものを付けてくれてやれ。ウチの商品で戦うだけでも宣伝くらいにはなる。」
「では、無償で提供するということで構いませんか?」
スーツ姿の男に確認され、ガレスは了承の念を込めて頷く。
「ああ、恩は売っておくに限る。ユウキと七宮に繋がりがあるかもしれないというなら、尚の事だ。」
「承知いたしました。そのように手配しておきます。……少し、失礼します。」
そう言うと、男は携帯端末を取り出し、どこかに連絡し始めた。
……このスーツ姿の冴えない男の名前は『ベイル』という。
ベイルには情報収集の仕事をさせているのだが、元はただの秘書なのでこういうことに関しては全く役に立たない。
やはり、何か専門の教育やら訓練を受けさせて、いろんな技能や知識を身に付けさせるべきだろうか……。
ただ、秘書業務に関しては非の打ち所のない働きをしてくれているので、それがせめてもの救いであった。
通常の秘書よりも高い報酬を払っているのだから、それも当然と言えば当然だろう。
そのベイルがどこかに連絡を入れている間に再び窓の外に目を向けようとすると、不意に社長室のドアが開いた。
「おじゃまするわよー。」
そして、ドアが開くと同時に女性の声が室内に響いた。
(何だ……?)
カレスは、何の断りもなく入室してきた女性に視線を向ける。
目を向けた先、部屋の入口には短めの金髪に銀の髪留めが特徴の艶やかな女性が立っていた。そして、その女性はつい数十分ほど前にもこの部屋を訪れた侵入者でもあった。
ガレスはその時のことを思い出す。
(確か、ミリアストラとか名乗っていたな……。)
いきなり現れて“情報を買わないか”などと怪しいことを言ってきたので、セキュリティに頼んでビルから追い出してもらったはずだが……。
ガレスは、近づいてきたミリアストラに対し、呆れと感心が混ざったような口調で話しかける。
「なんだ、懲りずにまた来たか。」
「ごめんね。アタシ、諦めが悪いタチだから。」
そう言いつつ、ミリアストラは急接近してきてこちらの腹をバシバシと叩いてくる。
「……。」
ガレスは特に抵抗することなく、黙ってミリアストラを見ていた。
先ほど部屋に来た時もそうだったが、この女は礼儀がなってないと言うか、変に馴々しい。
わざとこんな態度を取って、一体何のつもりなのだろうか。……全く意図がわからない。
「それにしても太っ腹ね。VFをまるごと提供だなんて……ダグラスの社長ともなればおごる額も桁違いね。」
「盗み聞きしていたのか。……全く困った女だ。」
ビルから追い出すだけで勘弁してやるつもりだったが、ここまでされると警察を呼びたくなる。
外部の力に頼ろうかとガレスが考えていると、丁度良くベイルが携帯端末を懐にしまった。どうやらアール・ブランに関しての手配が済んだようだ。
ベイルはこちらとミリアストラの顔を交互に見てから、質問してくる。
「……どちら様ですか?」
ベイルは、このミリアストラを愛人か何かと勘違いしているのか、その質問の口調からはこちらを冷やかしているような印象を受けた。
勘違いされているというのはミリアストラにも分かったらしく、本人がベイルの問いに直接答える。
「E4のミリアストラよ。名前くらい知ってるでしょう?」
「あぁ、2NDリーグの……」
ベイルは合点がいったような表情を見せたものの、すぐさまこちらを向いて先ほどと同じ口調で話す。
「……まさかVFランナーを手篭めにするとは……社長も隅に置けませんね。」
説明するのも面倒で、そう勘違いされても特に問題はなかったので、ガレスはベイルにそう思わせておくことにした。
ミリアストラも説明を断念したらしく、こちらに視線をスイッチして話を進めてきた。
「それで、さっきの『情報』は信じてくれた?」
「……。」
ガレスは黙ったままで『情報』について暫く考える。
……数十分前に話を持ちかけられた時には、“そんなことは有り得ない”と思い鼻で笑ったが、先ほどのベイルの話と合わせて考えると、全くの嘘だとは言い切れない。
悔しいが、この女はこちらよりも多くの情報を持っているようだ。
「ああ、信じよう。」
ガレスが渋々そう言うと、ミリアストラはここぞとばかりのしたり顔を見せた。
「それはどうも。……その情報は初回サービスってことにしておいてあげるから、次からはそれなりの“お礼”を……ね?」
このセリフでようやくこの女が愛人でも何でもないということに気づいたのか、ベイルはミリアストラとこちらの間に割って入ってきた。
急に割り込まれ、ミリアストラはこちらから数歩後退して離れる。
こちらを庇っているつもりなのだろう……。頼りになるのかならないのか、よく分からない秘書である。
「……社長、『情報』とは……?」
背をむけたまま問うてくるベイルに、ガレスはすぐに返答する。
「こいつが儂に言った情報でな……『タカノユウキは七宮からVFの操作技術を教わった』という情報だ。」
「それは……!!」
ベイルが驚くのも無理はない。
それは、先ほどベイルが報告した“タカノユウキと七宮は繋がりがあった”という情報と合致していたからだ。
これが確かであるとするならば、ミリアストラの情報も真実に違いない。……ともかく、ミリアストラには有益な情報を得る機会があることに間違いはなかった。
(まさか、VFランナーがこんな事に手を染めているとはな……。)
……VFランナー同士で何か特殊な情報収集方法があるのかもしれない。
少しでも七宮の動向を把握しておきたいガレスは、ミリアストラを情報源としてキープしておくことを決めた。
「……『貸し』はともかく『借り』は好かん。サービスなど余計な気は使わなくていいから、後でこいつからカネを受け取っておけ。」
こういう奴は金が全てだ。
なので、こちらの羽振りがいいと判れば、重要な情報も喜んで提供してくるだろう。
支払いを任されたベイルは「私がですか?」と少々困惑気味のようで、なぜか指を折って何かを数える動作をしていた。
「あの……額はどのくらいで……」
「お前に任せる。」
ベイルが動かせる額くらいなら、いくらくれてやっても構わない。
それに、向こうも取引を続ける気があるなら、そこまで法外な値段は要求してこないだろう。
ミリアストラはと言うと、こちらの提案を聞いてすぐにベイルの元まで移動し、文字通り飛び跳ねて喜んでいた。
「やっぱり太っ腹ね。……こっち側に情報を流せばいい金になるかもなーって、試しに来てみたんだけど当たりだったみたい。」
こういうことには慣れているのだろうか、ミリアストラは早速ベイルに金額を提示すべく、メモ用紙に何かを書き込んでいる。
「“こっち側”だって……!?」
しかし、ミリアストラが漏らした言葉が気に掛かったのか、急にベイルはミリアストラから距離をとって構えた。
「……さてはお前、七宮側の人間だな!! ……社長、こんな奴早く追い出しましょう!!」
「あ、バレちゃった。」
ガレスも薄々はそう思っていた。……が、ミリアストラは事も無げにそれを認め、ただ苦笑いしているだけであった。
そんな軽いリアクションを見て、ガレスはベイルを落ち着かせるように発言する。
「そう慌てるな。むしろ、情報源がはっきりしたと思えばいい。……しばらくは信用してもいいだろう。」
こちらが毅然とした態度を貫いていると、ベイルは「社長がそうおっしゃるなら……」と呟いて引き下がった。
ミリアストラはというと「えへへ、どうも。」と言ってケロリとしており、この発言がデメリットになるとは1ミリも思っていないようだった。
むしろ、七宮との繋がりを逆にアピールしているように思える。
(失言したように見せかけたようだな……)
……直接七宮と繋がっていたのは想定外だったが、だからこそ“使える”というものだ。
ベイルの言うことももっともだが、見たところこいつは金だけが目的で行動しているとしか思えない。だからこそ、信用を崩すような下手な真似はしないだろう。
むしろ、わざとそれらしい発言をして、こちらがどんな反応をするのかを観察して、情報を売るタイミングを見計らっているのかもしれない。
より多くの情報を手に入れるためにも、ここは動揺せずに強気で構えているのが正解だ。
ガレスが色々と思考していると、ミリアストラは不意に質問してきた。
「アタシ、不思議に思ったんだけど……そんなに七宮のことが怖いの? というか、何で狙われてるって思ったわけ?」
こちらからも情報を聞き出すつもりだろうか……。
しかし、七宮と繋がっている人物がそんな初歩的なことを知らぬはずがなかった。
「知っておるくせに白々しい……。」
厭味ったらしく言うと、ミリアストラはあっさりとそれを認めた。
「そうなんだけどね。一応両方から同じ答えが聞けると安心するでしょ?」
何がどう安心するのか理解に苦しむ。
ただ、質問の性質から、ミリアストラには七宮や自分以外にも取引相手が存在するような感じがした。
(まぁ、無闇に指摘することもないな。)
あまり長く話しても情報を与えてしまうだけだと判断したガレスは、早々に切り上げさせることにする。
「……何か動きがあれば教えろ。それ以上は望まん。……一応念を押して言っておくが、くれぐれもこの事は喋るなよ。」
「そんなに信用ないかな、アタシ。」
残念そうに言うミリアストラに対し、ガレスは思ったままのことを告げる。
「そのとおりだ。……儂が七宮なら、こんな簡単に情報を漏らす奴など、とうの昔に切り捨てておるだろうな。」
「面と向かってそんな事言わないでよ。」
ガレスのキツイ言葉に対し、ミリアストラは「うへー」とわざとらしい反応を見せ、コミカルに不快感を表現していた。
そして部屋から出ていくように命令する前に、自ら出口に向けて歩き出す。
「……とにかく、お金さえくれればいいのよ。最終的には報酬が高い方に付くつもりだから。よろしくね。」
背をむけたまま話すミリアストラに対し、今まで黙りこくっていたベイルが忠告の言葉をミリアストラに浴びせる。
「そっちこそ、変な動きをすればすぐに委員会に知らせてやる!! そうなればランナーも続けられないだろうな。」
強気で言ったベイルだったが、ミリアストラが振り返るとたじろいでいた。
ミリアストラは気怠そうに靴の裏で絨毯を擦りながら、飽くまでも軽い口調でベイルに向けて言い返す。
「そっちのお兄さんは全然わかってないみたいね。ダグラスが過去にやったことをバラせば、大変なことになるのはそっちなのよ?」
そう言って。ミリアストラは不敵な笑みをこちらに向ける。
「……脅しか。」
「保険って言ってほしいわね。」
脅しだろうが保険だろうがどっちも同じだ。
ダグラス社が過去にやったこと……それに関しては、こちら側に落ち度があるため言い逃れはできない。
ミリアストラは軽い口調のままで話を続ける。
「それでも知らせたいのならご勝手にどうぞ。アタシは別にランナーに執着があるわけでもないし、どっちがどうなろうと興味ないわよ。」
そこまで言うと、ミリアストラは再び出口に足先を向ける。
「今日の報酬は次にまとめて頂くわ。……それじゃまたね。」
その言葉を最後に、ミリアストラは社長室から出ていった。
(ランナーという立場も、奴にとってはただの金儲けの道具でしかないということか……)
ランナーに憧れるファンがこんなことを知ったら、卒倒してしまうに違いない。
試合に出続けていれば、それだけでもかなりの額を稼げると思うのだが、……ミリアストラにはそんな選択肢は存在していないのだろう。
ベイルはミリアストラが出ていったドアを睨みつけていた。
「あの女、これからもっと金を要求してくるでしょうね……今度現れたらガツンと言ってやりますよ。」
負け犬の遠吠えにも等しい情けないセリフを吐くベイルに対し、ガレスは仕方ないという風に受け答える。
「金に関してはどうしようもない。完璧にこちらが出遅れているからな……このくらいのハンデやコストは負って当然ということだ。」
……それに加えて、このように個人から攻撃を受けるケースには慣れていない。
まだ実質的な被害もないし、あるのは漠然とした不安だけだ。……かといって、VFランナーに復帰までした七宮がこのまま何もしないわけがない。
ベイルはミリアストラの話で気になることがあったのか、会話を思い出すようにしながら、恐る恐る疑問を投げかけてきた。
「それで社長、過去にどんな事をやったんです?」
「……。」
正直なところ、この事は身内であってもあまり知られたくはない。だが、ここまで巻き込んでしまったのだし、状況を把握させるという意味でも、教えておいたほうがいいだろう。
ガレスは意を決して、ダグラスがやったことの概要をベイルに話す。
「数年前、お前が秘書になる前の話だが……VFのパーツの件で七宮重工をグループごと市場から追い出した。」
「その程度のことでしたら別に問題は……」
ガレスは肩の高さまで手を持ち上げ、ベイルの言葉を遮り、話を続ける。
「……いや、他の企業と共に強引にやった上に、当時の七宮重工の社長を自殺にまで追い込んだからな。違法ではないにしろ、その事が知れ渡ればかなりのマイナスイメージになるだろう。」
「自殺ですか……確かにマイナスイメージですね……。」
『自殺』と聞いて、ベイルはこちらに向けていた視線を横に逸らす。
まさか、自分の働いている会社が、ダグラスという大企業にそんな不祥事があったとは思いもしなかったのだろう。
……だが、まだこんなのはマシな方だ。
ただの建設業者としてスタートした会社が、クリーンな手段だけでここまで成長できるはずがない。
今でこそ控えているが、当時は法スレスレの汚い手段を多用してライバルとなる会社を蹴落としていたものだ。
『七宮重工』もその中の1つだったというわけである。
(あれからもう8年……邪魔者を消したと思ったら、今度はその息子か……あの時にVF部門をきちんと潰しておくべきだったかもしれんな。)
たった8年前とはいえ、ダグラス社にとって七宮重工の技術力は脅威であった。
ぽっと出のダグラスとは違い、向こうは遥か昔から精密機械関係から兵器に至るまで、様々なモノを製造してきた、いわば『やんごとなき老舗企業』である。
VF関連の技術に関してはダグラスがかなりリードしていたが、すぐに追いつかれるのは目に見えてわかっていた。
その証拠に、チーム七宮はVFBリーグを順調に勝ち進んでいきいとも簡単に1STリーグに上り詰めた。
当時はただの宣伝目的でVFBチームを立ち上げたのかと思っていたのだが、独自に開発された兵装やフレームはその実力を十分に発揮しており、周囲に性能の高さを見せつけていた。
そして、参入してきて数年もしないうちにVFパーツの販売を開始し、あろうことか新規格のフレームまで開発し始めたのだ。
その時になって、ようやくダグラスが七宮重工を封じ込めたわけである。
……あのまま放置していれば、今頃はシェア争いが激化していたことだろう。
日本ではVFに関する規制が強かったのも幸いしていた。あれがなければ、こちらがいくら手を尽くしても太刀打ち出来なかったに違いない。
「……社長? ダグラス社長?」
その時のことをぼんやりと思い返していると、ベイルの呼びかけが聞こえてきた。……どうやら再び社長室に来客があったらしい。
ベイルはこちらが反応したことを確認すると、手元の用紙をめくって内容を読み上げる。
「社長、ウチのVFチームの契約ランナーが報酬の件でお話があるようでして……」
(またVFランナー……しかも金の話か……)
立て続けにランナーが訪ねてくるのは珍しい。……その上どちらともが金に関する話である。
ミリアストラとの相手で既に疲れていたガレスは、それを追い払うように手をひらひらさせる。
「そういうのはチームの責任者に言え。儂は一切関わるつもりはない。」
「それが……責任者に言っても駄目だったので、ここまで直談判しに来たようです。」
直接グループのトップに交渉しに来るとは、なかなか肝のすわったランナーだ。
ガレスはその行動力に感心し、とりあえず顔だけでも拝んでやることにした。
「……そのランナーの報酬に関する資料はあるか。」
「はい、ここにあります。」
そのランナーの名前と戦歴を確認するために、ガレスはベイルから資料を受け取る。
資料の記載された電子ボードには、そのランナーの顔写真や経歴、そして報酬の項目まで表示されていた。
ガレスは画面をスクロースさせ、資料を斜め読みしていく。
「なんだ、ダグラスには今シーズンから来たのか。」
ランナーの名は『セルトレイ』とだけしか書かれておらず、年齢も不詳で30代から40代と大雑把に表示されているだけで、出身の項目に至っては空白だった。……ただ、写真から男だということはわかった。
顔写真では、前髪が長すぎて顔面の半分が見えず、顔写真の意味を成していなかった。
かろうじて見える口元は、への字になってきつく閉じられている。撮影時に緊張したのかとも思ったが、それにしてはシワがはっきりとしすぎている。普段からこんな感じなのだろう。
胡散臭い奴だと思いつつ、ガレスは資料を読み進めていく。
すると、ようやく経歴の欄にたどり着き、その部分は丁寧に見ることにした。
「ランナー歴は16年か……ベテランだな。それに試合成績も経歴も申し分ない。……少しくらいは話を聞いてやってもいいな。」
「では、すぐに彼を呼んできます。」
ベイルはこちらが了承した途端に、小走りで社長室の出口へと向かっていった。
暫く掛かるだろうと構えていたが、ベイルはドアを開けた所で立ち止まりすぐに引き返してきた。
「なんだ、どうした。」
何か言い忘れたことでもあったのかと思ったが、ドアの外に立つ人物を見てガレスは言葉を飲み込んだ。
そこには資料の写真にある通りの男が立っていた。
写真では分からなかったが、その男は猫背気味だったようで、天井からの電灯の光は頭部に遮られて男の首から胸元にかけて影を作っていた。
「……どうもこんにちは。ダグラス社長。」
セルトレイは、“低い”と言うよりはむしろ“沈んだ”声で挨拶し、そのまま室内に入ってくる。
雰囲気は大人しく一見すると無害な男に感じるのだが、これがベテランランナーかと思うと、途端に貫禄を感じるから不思議なものだ。
ベイルが入り口から数歩先にある来客用のソファに案内すると、セルトレイは2人がけのソファを選んで、その中央に足を組んで座った。
ソファは、2人がけの幅の広いものが向かい合うようにして2つ配置されており、その間にはガラス製の膝丈のテーブルが置いてある。
そのテーブルの短い辺側には一人がけのソファが1つだけ置かれてあり、ガレスは窓際から移動して上座にあるそのソファに腰を下ろした。
結局、ガレスがセルトレイの体の側面を見る形になり、セルトレイは首を横に回転させてこちらを見ていた。
「初めまして、『セルトレイ』です。」
髪に隠れて眼が見えないため、セルトレイが本当にこちらを見ているかどうかまでは判断出来ない。……というか、向こうはそれで視界を確保できているのだろうか……謎である。
「そっちのことは大体知っておるから自己紹介はいい。……早く本題に入れ。」
急かすように言うと、セルトレイは足を組み直して喋りだした。
「……あの七宮も試合に出るようですし、ダークガルムとの試合では勝利ボーナスを倍にしていただけませんか。」
七宮の名前が出て、ガレスは一瞬だけ手をピクリと動かしてしまった。
それを誤魔化すためにガレスは手をゆっくりと顔面まで持って行き、鼻の頭を軽く掻いてみせた。
そして、しばらく鼻の頭を掻きつつ、その要求が妥当かどうかを考える。
「……そのくらいの変更ならいいだろう。2倍でいいんだな?」
七宮から勝利をもぎ取れるかと思うと2倍くらいは何ともない。
そう思って快諾したが、セルトレイはすぐに要求内容を訂正してきた。
「いえ、ただの倍ではなく、イクセルに勝った時の報酬の倍に、という意味です。」
「イクセルというと、キルヒアイゼンか……。」
ややこしい言い方をするやつだなと思いつつ、ガレスは再び詳しい資料を見るためにソファの横で待機しているベイルに手を差し出す。
「……おいベイル、キルヒアイゼンとの勝利ボーナスは通常の何倍だ。」
だが、ベイルはこちらに資料を渡さず、自分でボーナス報酬の項目を読み上げる。
「えーと、ここには『5倍』と記載されています。」
(となると10倍か……。)
ダグラス社にとってVFBは重要な興行なので、惜しみなく金を使いたいところだ。
しかし、それにも限界というものがある。
ガレスは10倍とわかると、すぐにセルトレイと交渉を開始した。
「七宮には7年か8年、ブランクがあったはずだ。せめて、イクセルと同率かそれ以下が妥当ではないか?」
強気に交渉してみたが、セルトレイは落ち着いたまま言い返してくる。
「冗談はよしてください。七宮の強さは身を持って味わっていますから……正直10倍でも少ないくらいです。」
(はて、そこまで強かったか……。)
記憶によれば、イクセルと七宮は同程度の強さだったはずだ。
よく分からないが、このセルトレイという男は七宮の戦い方が苦手なのかもしれない。
「その話し振りからするに、お前は何度か七宮と試合したことがあるんだな。」
「ええ、一度も勝てませんでした。」
そこまで勝てなかったことを自慢げに言われても困るが、やはりこのセルトレイというランナーは七宮が苦手なようだ。
戦法などには詳しくないが、相性が悪いということなのだろうか。
セルトレイはそのまま話し続ける。
「……ですから、自信を付ける意味でもボーナスくらいは多めに出して欲しいですね。」
「ボーナスが上がればやる気も上がるということか。……単純だな。」
嫌みたらしく言ったものの、やはりセルトレイは動揺していなかった。それどころか上手く切り返してくる。
「直接お金でランナーのメンタル管理を行えるのは便利ですよ。……その『単純』という言葉、褒め言葉として受け取っておきます。」
――ミリアストラといい、こいつといい、VFランナーはどうしてこうも交渉に慣れた感じがするのだろうか……。
今ここで考察しても仕方がないので、ガレスは“戦闘時の駆け引きに通じるものでもあるのだろう”と適当に解釈しておき、とりあえず交渉を続ける。
「それで、勝率はどのくらいだと思っているんだ?」
一度も七宮に勝っていないセルトレイが、ボーナスを要求するということは、少なからず勝つ見込みがあるからだとガレスは踏んでいた。
セルトレイは特に考える様子も見せず、すぐに答える。
「多めに見積もっても67%くらいですね。……ダグラスのVF『サマル』はアルザキルと相性がいいのでVF的には問題ないのですが、七宮というランナーはそんな相性関係なく強いですから。」
自己申告の数字なので信頼はできないが、7割近い勝率にガレスは驚く。
せっかく勝つつもりでいるのだから、ここでやる気を削いでも仕方が無いだろう。
「……わかった。8倍で払おう。」
こちらが渋々了承すると、向こうも同じような反応を見せた。
「……まぁ、いいでしょう。約束ですからね。」
とにかくそれで納得したのか、セルトレイは無駄な会話をすることなくソファから立ち上がる。
それが急いでいるように見えたため、ガレスはもう一度念を押す。
「おい、勝てたらの話だぞ。」
こちらの言葉を聞き、セルトレイはなぜかニヤリと笑う。
「大丈夫です。……あなたもダグラスのトップなら、自社最高のVFを信じたらどうなんです。あれほどユニークなのにもかかわらず、高いパフォーマンスを維持しているVFは他にはないですよ。」
その口ぶりから推測するに、セルトレイはダグラスのVFを大変気に入っているらしい。
七宮に勝てると思ったのも、そのVFがあったからなのかもしれない。
飽くまでも落ち着いた口調でそう言われ、ガレスは言い返すことが出来なかった。
……それにしても、自信満々な態度といい、少し上から目線の喋り方といい、報酬優先の考え方といい……やはりランナーという人種はいちいちこちらの癇に障る。
セルトレイは挨拶もなしにその場から立ち去り、ドアも閉めずに部屋から出ていった。
「雰囲気の割には生意気なランナーだったな……。他にもっとマシなランナーはいなかったのか。」
率直な感想を述べると、ベイルもそれに同意してきた。
「確かに鼻持ちならない男でしたが、それも仕方ありません。……資料によれば『サマル』の特殊兵装をマニュアルで操作できたのは彼だけだったようですから……。」
――『サマル』とはダグラスチームの所有するVFの名称だ。
そしてこのVFは、1STリーグ用に開発された特別なVFである。
ガレスとしては、1STリーグの試合でも自分の会社の既製品を使って臨み続けたかったのだが、他のチームが独自にVFを開発し始めたせいで全体的なレベルが上昇してしまい、勝利するためにVFを新たに開発せざるを得なかったのだ。
「今まで通りあんなの兵装は自動で動かしておけばいいだろうに……」
ベテランしか動かせないとあっては、VFとしては優秀でも『製品』としては失格だ。
そもそも、『サマル』が開発されてからずいぶん経つが、パーツや構成部品があまりにも複雑な上に高価であるため、製品化にはありつけそうにもない。
これは、大量生産が売りのダグラスにとって、かなり皮肉な存在であるといえよう。
ついでに、そのせいで部品の流用も出来ず、今やサマルは立派な金食い虫と化している。
「……どいつもこいつも金金金!! ……金がなければ動かんのか!?」
ミリアストラにセルトレイにアール・ブラン、おまけにサマルにまで大量の金が必要だ。
あいつらはダグラス社のことを、勝手に金が湧いてくる泉か何かと勘違いしているのではないだろうか。
いくら大企業とはいえ、VFが売れなくなれば即倒産である。
そんな気苦労も知らないで、ただの金持ち扱いして欲しくはないものだ。
こちらが苛ついていると、ベイルは苦笑いしてその話題をごまかそうとしていた。
「それは……まぁ、やっぱりお金は大事ですし……」
「全く、これだから守銭奴は……。」
金への執着を批判したガレスだったが、セルトレイのボーナスを8倍にまで値引き交渉した本人も、相当な守銭奴だと言えなくもなかった。
2
ダグラス本社の社長室で、ガレスがセルトレイとボーナス報酬について交渉していた頃、……同じフロートユニット内のある場所にて、諒一はコーヒーを啜っていた。
そこはフロートの中央付近の路地の一角にある小さなカフェで、諒一はそのカフェのボックス席でくつろいでおり、視線は窓の外に向けられていた。
視線の先にはダグラス本社の立派なビルがあり、その壁面の一部は太陽光を反射して光っていた。
(まぶしいな……)
諒一は一旦外から目を離し、その視線を手元に落とす。
すると、かすかに湯気を出しているコーヒーが目に飛び込んできた。そしてよく見ると、そのマグカップの中の黒い水面にもビルの姿が写り込んでいた。
だが、マグカップを口元に近づけるとすぐにそれは消え、代わりに天井の模様が見え始めた。
最終的に自分の仏頂面が映ったのを確認すると、諒一は手を内側に傾けて口の中にコーヒーを流し込む。
そんな諒一の向かい側には、制服姿のツルカが座っていた。
ツルカの目の前にはドーナツの盛られた皿があり、一定のペースでそれを口に運んでいる。辛いものとは違い、甘いものはいくら食べても平気なようで、両手を使ってパクパクと食べていた。
……黒い液体がカップの半分ほどまで減ると、諒一は一旦それをテーブル上のコースターに載せて、店内の様子を改めて観察する。
そこは、カフェと言っても特に小洒落た風ではなく、シンプルなテーブルと椅子が並んでいるだけの殺風景な店だった。
申し訳程度に飾られている観葉植物の葉は所々枯れており、飾られている小さな絵に至っては、額が微妙に傾いている。
あまり店内の雰囲気は良くないし、オープン席もないので、カフェと言うよりはコーヒーショップと言った方がいいのかもしれないが、看板にはしっかりカフェと記載されているので、やっぱりカフェなのだろう。
そんな酷い店内の様子とは対照的に、今飲んでいるコーヒーはかなりコクがあっておいしい。
それを再び啜りつつ、諒一は自分の部屋に住み着いている幼馴染に思いを馳せていた。
――結城がグラクソルフのラインツハーに勝利してから2週間が経つ。
あの日の夜、アザムさんに連れられてきた結城は深夜まで泣きやむことはなく、眠りにつく頃には夜が明けていた。
あれから今日までの2週間、結城は部屋から一歩も出ていない。
それどころか自分と会話すらしていない。
週に3度あるはずの演習にも出かけておらず、部屋に引きこもってずっと寝ている。
……ただ、食欲はあるようで三食欠かさず食べている。諒一にとってはそれが救いだった。
今日は一人で留守番させているが、大丈夫なのだろうか……。
そんな事を心配していると、笑顔で走ってくるランベルトさんの姿を店の外に見つけた。
ランベルトはそのままカフェの中に入ってくると、諒一とツルカがいる席のテーブルに両手をついて嬉しそうに報告する。
「やったぞ。大成功だ。」
諒一はカップを手に持ったままそれに応える。
「どうやら交渉は上手くいったみたいですね。」
「おう、直接出向いた甲斐があったってもんだ。しかもタダでオプションも付けてくれるらしいし。……いやぁ、ダグラスさまさまだな。」
……その交渉の内容とは、1STリーグで戦えるVFの無償提供である。
グラクソルフとの試合後、アカネスミレの修繕が不可能だと悟ったランベルトさんは、すぐに新しいVFを調達することを決めた。
そう決めたからには当然、資金を削ってVFを購入するということになるはずだった。
しかし、値段と性能を天秤にかけていた時にツルカから助言があり、それに従った結果、タダで高性能なVFを手に入れることが出来たというわけだ。
こちらの読み通りダグラスはVFを提供してくれたが、ここまですんなり行くと思っていなかったのか、ランベルトさんの喜びようは尋常ではなかった。
タダより高い物はないというが、やはりタダだとありがたい。
とりあえずの報告を終えると、ランベルトさんはツルカの隣に腰を下ろす。
「よいしょ……っと」
その際、ドーナツを咀嚼していたツルカの顎の動きが一瞬だけ止まる。
「……。」
しかしツルカは少し腰を浮かせて奥に詰め、ランベルトから十分距離を取ると、咀嚼を再開し、ついでに新しいドーナツを皿の上からとった。
ツルカは明らかにランベルトを邪魔者扱いしていたが、今更それを指摘しても仕方が無いので、諒一は見て見ぬ振りをすることにした。
そんな些細な仕草に気づくでもなく、ランベルトさんは店内の様子を眺めていた。
「しっかし、地味な店だなぁ。本社ビルの中にもこういう場所はあるんだし、そこで待ってりゃ良かったのに。」
「いえ、ここは客の出入りも少ないですし、時間を潰すのには最適だと思ったんです。」
「そういうことか……」
それらしい理由を言ってみたが、ここを選んだ本当の理由は、諒一がこの店の雰囲気を気に入っているから、という単純なものだった。
エンジニアリングコースの学生は、ダグラス社の工場見学や、研究施設訪問などでこのフロートユニットをよく訪れている。そのため、諒一はこの店に何度も入ったことがあるのだ。
ランベルトさんはともかく、ツルカは何も文句を言わなかったし、この店を気に入ってくれているようだ。
正確には、店ではなく食べ物を気に入っている感が否めないが、満足しているのならどちらでも同じ事だ。
今回、ツルカは『キルヒアイゼンとダグラスが仲がいい』という理由だけでランベルトに無理矢理連れられてきていた。「交渉に行き詰まったら助けてもらう」などとランベルトさんは言っていたが、何をどう助けるのか謎であった。
ツルカもツルカで、一体どう助けるつもりだったのだろうか……。
そんなことを考えながら2人を見ていると、ランベルトさんがいつものように愚痴り始めた。
「あーあ……こうとわかっていれば最初からアカネスミレなんか修理しないで、ダグラスにVFの工面を頼んだのになぁ。」
まるで子供のような物言いに、すかさずツルカが突っ込みを入れる。
「何言ってるんだ? アカネスミレがあれだけ大破したからVFを恵んでくれたんじゃないか。」
「……。」
全くの正論を言われ、ランベルトさんは口ごもってしまう。
すると、先ほどのセリフを無かった事にするかのようにタバコを吸い始め、一息ついた後にあからさまに話題を変更してきた。
「そう言えば、今日も嬢ちゃんは部屋から出てこねーのか。」
話を振られた諒一は嘘偽りなく答える。
「はい、あの日から学校にも行ってないみたいです。」
こちらがそう言うと、急にツルカの表情が曇り始めた。また、大皿に盛られているドーナツの山に伸ばしかけていた手の動きもピタリと止まってしまう。
「いったいユウキは何考えてるんだ。……今はまだ長期休暇期間中だからいいけど、学期が始まってもこのままだとマズイぞ。」
……諒一も、同じ趣旨のことを何度も結城に話していた。しかし結城はだんまりを決め込んでおり、全く効果はなかったのだ。
さらにツルカは結城のことについて、こちらに懇願してくる。
「リョーイチ、なんかいい方法は無いのか? 長い間面倒みてきたんだろ?」
まるで自分が保護者であるかのような言われ方だったが、実際そうなので仕方がない。
しかし、結城の両親よりも結城のことをわかっている諒一も、今回だけはお手上げ状態であった。
「すまない。……今まで何度も不貞腐れたことはあったが、今回みたいに塞ぎこんでしまうのは初めだ。正直どうしたらいいかわからない。」
「そうなのか……。ユウキ自身に任せるしか無いのかもしれないな……。」
ツルカはこちらの返答を聞いてがっくりと肩を落とした。
結城が号泣した夜、ツルカとのことについても何か言っていた気がするし、今のツルカの態度も踏まえると、何かいざこざがあったのだと考えるのが自然だろう。
深刻に考える2人とは違い、ランベルトの考えは単純明快であった。
「お前らなぁ……自然に嬢ちゃんの機嫌がよくなるわけないだろ。……ほらほら、リョーイチが熱く抱きしめてやれば嬢ちゃんなんかすぐ元気に……」
正面に浮かぶタバコの煙を抱きしめるような仕草をして、ランベルトは抱擁のジェスチャーをこちらに見せつける。
「……。」
ツルカと共に非難の目を向けると、ランベルトさんはあさっての方向を向いて頬をポリポリと掻いた。
そして灰皿にタバコを擦りつけると、背筋を伸ばして頭を垂れる。
「すまん、冗談だ。」
そう謝罪しておきながらも、ランベルトさんは懐から2本目のタバコを取り出していた。
「……しかしなぁ、嬢ちゃんがこんなだと、またフリーのランナーに頼るしかないかもな。」
フリーのランナーは基本的に雇った場合のコストが悪い。それが1STリーグで戦えるような優秀なランナーだと尚更のことだ。
つい昨シーズンまでフリーのランナーに頼っていたランベルトなら、そんなランナーは簡単に見つけられるのだろうが、諒一は全く納得出来なかった。
それを代弁するかのようにツルカがランベルトの意見をバッサリと切り捨てる。
「それは無理だと思うぞ。」
「なんでだ?」
いきなり考えを否定され、ランベルトはツルカに説明を求めた。
ツルカはランベルトの要求通り、淡々とその理由を述べていく。
「……だって、ユウキが企業学校の学生だったから、ダグラスはスポンサーになってくれたんだろ……。ユウキが試合に出なかったらすぐにでもスポンサーを降りると思うぞ。」
「まさか、ダグラスがそう簡単に降りるかよ。……な、リョーイチ?」
ランベルトはこちらに意見を求めてきたが、残念ながらその期待に応えることは出来なかった。
「基本的にツルカの意見は正しいと思います。」
「そう……なのか。」
こちらから同意を得られなかったランベルトさんは、残念そうな表情を見せたが、それも束の間のことで、すぐに投げやり気味に暴論を振り回し始める。
「……VFを貰っちまえば最悪スポンサーを降りられようが構わねぇよ。」
「待ってくださいランベルトさん。そんな強引な……」
さすがにそれをやってしまうと色々と不味い。
信頼を失うどころか他のスポンサーも失ってしまうかもしれない。
……冗談で言っているのだと思いたかったが、そうではないようだった。
「おいおい、そんなにフリーのランナーは嫌なのか? ……いくら嬢ちゃんと仲がいいからって、こんな状況になってまであいつの肩を持つつもりか……。」
肩を持つかといわれれば、持つことになるのだろう。
諒一は飽くまでも結城の味方であり、例えチームメンバーの反感を買おうがその姿勢を崩すつもりはない。
「……はい、その通りです。」
「そうか……。でもなぁ、次の試合までもう時間がないのも分かってるだろ?」
やはり、ランベルトさんは結城が次の試合に出られるかどうかを不安に思っているようだ。
結城のことを信じて欲しい諒一であったが、ほとんど根拠が無いので、2人に意見を聞き入れてもらうのはかなり難しそうだった。
「リョーイチ、ここはフリーのランナーしか選択肢がないと思うぞ。……ユウキがあんな態度じゃランナーから外されても仕方ないって……。」
ランベルトさんに続き、ツルカも結城をランナーから外すべきだという旨をこちらに伝えてきた。
やはり、ツルカも次の試合のことを懸念しているらしい。……しかし、不安に思っているというよりは、結城の今後を憂いているような感じであった。
ランベルトは意見を曲げることなく話し続ける。
「なぁリョーイチ、何も嬢ちゃんをクビにしようって言ってるんじゃない。嬢ちゃんの調子が戻ればまたランナーとして頑張ってもらうさ。……戻れば、な。」
同じく、諒一も自分の意見を貫き通す。
「結城なら大丈夫です。いつもの調子で戦うことができます。」
こちらの頑なな態度に参ったのか、ランベルトは疲れた様子で質問してきた。
「何でそんな事がわかるんだよ……。」
「結城のことなら何でもわかるからです。」
自分でも傲慢なセリフだと思ったが、このくらい誇張しないと分かってもらえないような気がしていた。
ランベルトは「言ってくれるなぁ……。」とこちらの恥ずかしいセリフに半分呆れつつ、真面目な考えを話し始める。
「リョーイチ、すまんが俺には嬢ちゃんのことは全く分からねぇ。だから、チームを背負う立場にある俺としては、誰が聞いても納得するような選択をしなくちゃ駄目なんだよ。……わかるよな?」
「……。」
諒一もそれが正しい選択だとわかっている。
しかし、いくら正当性があっても、諒一はそれに納得するわけにはいかなかった。
諒一にとって重要なのは結城を助け、応援し、サポートすることであり、ランベルトの選択はそれを妨げるものであったからだ。
ランベルトの至極まともな判断を覆すべく、諒一は2人にあることを伝えることにした。
「……今から結城のことについて話します。――結城のことを信じてもらうために……」
諒一はそう言うと椅子に座りなおして、テーブルの上で手を組む。
……はっきり言って、結城の過去を話せばかなりの確率で同情を得られる。
汚い手段と言うよりは、いやらしい手段だが、そんな手段に頼らねばならないほどに諒一は切羽詰まっていた。
――いきなり“結城について話す”と宣言され、ツルカとランベルトは鳩が豆鉄砲を食らったような表情を見せていた。
「嬢ちゃんについて……って、何を話すんだ?」
もっともな疑問を言われ、諒一は短い言葉で答える。
「結城の過去についてです。」
「過去っつーと、日本での話か……?」
ランベルトは何かを思い出しているのか、顎のあたりを指先でいじりつつ、視線を上に向いていた。
「……そういえば俺ら、嬢ちゃんのことはあんまり知らないかもな。」
ツルカはと言うと、“過去話”と聞いたせいか、顔から陰りが一気に消え去っており、逆に目を輝かせて身を乗り出していた。
「ボクもあんまり知らないな……。VFBが好きになったきっかけとかは聞いてるけど、日本での話なんかは全くしてなかったし。」
(……話してないのか。)
あれだけ1年も一緒に仲良く過ごしていたのに、結城が自分の故郷のことを話していないというのは意外だった。
しかし、ツルカは特に気にすることなく純粋に問いかけてくる。
「なぁリョーイチ、ここに来る前のユウキはどんなだったんだ?」
ツルカに促され、諒一はいよいよ本題に入ることにした。
……少しだけ俯いて目を瞑り、いつもよりも低めの声で、ややゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「結城は、基本的にいつも一人で行動する……孤独な女の子だった。」
そう自分で言いつつ、諒一自身も子供の頃の結城の姿を思い浮かべる。
よく会っていた家の中では、全く孤独など感じられないほど、毎日のように暴力を振るうやんちゃな少女であった。……が、学校では全く正反対だった。
「……あんな性格だから女の子らしい遊びもせず、ほとんど女の子同士で遊ぶことはなかった。……かと言って、結城は男の子とも遊べなかった。」
小さい頃なのでそこまで確証はないが、自分以外の生徒とは全く交流はなかったように思う。
当時の結城の髪型は今のようにポニーテールではなかった。髪留めなど使わずに綺麗に切りそろえられ、長いブラウンの髪の毛先は少々ウェーブが掛かっていたと記憶している。
また、ラフな格好などしておらず、常にワンピースやフリルのついた淡い色の服を着ていた。……今思えばあれは無理矢理着せられていたのだろう。
あんな格好でスポーツができるわけもなく、周りの子供も服を汚させてはいけないと気遣ってか、気軽に誘うことが出来なかったのかもしれない。
過去から順に記憶を掘り返していると、またしてもツルカが質問を投げかけてきた。
「なんでユウキは男の子と遊べなかったんだ?」
諒一は説明が足りていなかったことを反省しつつ、ツルカに対して丁寧に説明する。
「多分、男の子のほうが恥ずかしかったんだろう。小さい頃は、女子とちょっとでも話すだけで友達に誂われることがよくあった。」
「あー、何となく分かるかも、その複雑な気持ち。」
ツルカの理解が得られた所で、諒一はさらに付け加えて説明する。
「……それに、結城は当時から可愛いかったから、余計に声を掛けづらかったんだろう。」
これを聞いて、ツルカとランベルトは同時に恥ずかしげな表情を浮かべて苦笑し始める。
ツルカに至っては首を横に振ってあきれ返っているようだった。
「なんか普通に可愛いって言ってるな……言ってて恥ずかしく無いのか?」
「可愛いのは事実だ。昔の写真を見ればそれもわかるだろう。」
今手元にないのが残念だが、女子学生寮の結城の部屋を探せばあるだろう。
「あ、うん。あとで見せてもらう……。でも、それだとまるで今のユウキは可愛くないみたいな言い方だな……」
「……。」
諒一はツルカの指摘を無視して、結城について話を続ける。
「……でも気は強かったから、一人でも問題なかった。あの当時の結城は、何も問題も起こさないいい女子生徒だったと思う。」
そんな品行方正な結城を、ゲーセンに入り浸るような不良生徒にしてしまったのは自分かもしれない。
5年前の、いや、もう6年前になるのだろうか。……ともかく、あの時にVFBの試合を見せたせいで、結城は人が変わったようにVFに打ち込むようになってしまった。
目的を持って生き生きしている結城を見るのは喜ばしいことだったが、学業を蔑ろにする結城を放ってはおけなかった。
責任を感じていた諒一は結城に勉強を教える事を決意したのだ。
諒一はそんな結城の過去をマイルドに加工してから2人に話す。
「当時はよくお互いに勉強を教えあったりしていたし……学校ではともかく、家が隣同士だったから毎日のように会っていた。」
あの時、自分が家庭教師をしていなければと考えると恐ろしい。
少しでも判断を誤っていたら結城は企業学校の入学試験に合格しなかったかもしれない。
……というか、企業学校に合格したのが嘘ではないかと思うほど当時の結城の学力は酷かったのだ。
そういう意味では、英語を勉強するきっかけとなった『セブン』には感謝すべきだろう。
七宮が日本語で結城とコミュニケーションを取らなかったのも、こんな思惑があってのことかもしれない。
(……それはさすがに考え過ぎだな。)
これ以上考えるのは止めようと決めると同時に、ツルカが素直な感想を述べだした。
「へぇ、ユウキってその頃から気が強かったのか……。まぁ、リョーイチがいたから寂しくなかったんだろうな。」
「そう言われれば、そうかもしれない。」
ツルカの感想に諒一が受け答えると、ここで今まで黙って聞いていたランベルトが、珍しく真剣な眼差しと共にあることを確認してきた。
「……で、それから海上都市に来るまでずっと一人だったのか?」
「はい、そのまま全く友達は出来ず、ほとんどゲームセンターでシミュレーションゲームを遊んでました。」
「じゃあ、嬢ちゃんが話してた『セブン』っていうのは……」
「そうです。その時に出来た初めての友達です。……あの時は嬉しそうに話していたのを覚えています。」
あれは嬉しいどころの騒ぎではなかった。
やはり、何でも話せる女友達というのは当時の結城にとって憧れだったのかもしれない。
「そうか……初めての友達か……」
そう言ってランベルトは物憂げな表情を浮かべる。
諒一にはランベルトが今何を想っているのか、簡単に予想がついていた。
その気持ちを確認するかのように、諒一は自ら喋る。
「その初めての友達は七宮が作り出した幻だったというわけです。……これはかなりのショックだったと思います。」
「そうだろうな……。」
表情から推測するに、ランベルトは結城に同情の念を抱き始めたようだ。
もう一押しだと思い、諒一はさらに話を進めていく。
「でも、面識がなかったのが幸いしたみたいで、その時はまだ耐えていました。……しかし、その次の鹿住さんの件には流石に堪えられなかったようです。なにせ、鹿住さんはツルカの次にできた友達だったみたいでしたから。」
その言葉に反応したのはランベルトではなくツルカだった。
ツルカは目を丸くしており、その目はこちらに向けられていた。
「え、待って……ということは、ボクは実質的には結城の初めての友達だったのか!?」
ツルカの声は半分裏返っていた。
そこまで驚くようなことだろうか……。
結城の言動を見ていればそのくらい分かりそうなものだが、そこまで観察する余裕がなかったのかもしれない。
諒一はツルカの“初めての友達”について、それを全面的に肯定する。
「セブンが偽物だったから、実質的にはツルカが友達第一号で間違い無い。」
ツルカはこちらの肯定を受け入れるように、自分の胸の前で両手を握りしめ、目を瞑っていた。
そのままツルカは小さな声で意味深に呟く。
「そうか、ユウキもボクと同じだったんだな……。」
「同じ?」
諒一がその呟きに短い言葉で反応してみせると、ツルカはすぐに目を開いて、自分の言葉を取り消すかのように激しく首を左右に振る。
「いや、なんでもないぞ。」
しどろもどろに弁解するツルカを見て色々と質問したくなった諒一だったが、あまり根掘り葉掘り訊くことのないよう、質問は控えた。
それよりも、結城に関して伝えるのが先なので、諒一は話を元に戻すことにする。
「……結城は見た目以上に他人との付き合いに関して不器用だ。……これ以上結城が人間不信に陥らないよう、優しくしてやって欲しい。こう言うと結城を贔屓しているように聞こえるかもしれないが、これ以上結城を孤独にさせないで欲しいんだ。」
諒一は手早く趣旨をまとめて2人に伝える。
「――だから、結城を信じて試合に出してやって欲しい。……VFランナーを続けさせてやって欲しい。お願いします……。」
これだけ伝えれば、ランベルトさんもランナーについて考えなおしてくれるだろう。
……と思っていたのだが、諒一の予想は外れてしまう。
「おいリョーイチ、俺の経験上、優しくしても付け上がるだけだぞ? ああいうのにはガツンと言ってやるのが……」
ランベルトは自分の決定を曲げるつもりはないのか、まだ結城に対して不安を拭いきれていないようだった。
(どうにかしてランベルトさんに結城の出場を認めさせねば……)
ここまで来たら、無理矢理にでもこちらの意見を押し通すしかない。
多少の不安はあったが、諒一は強気に出ることにした。
……そう決心すると、諒一はランベルトの言葉を遮り、真っ直ぐ相手を見据えながら語りかけるようにして話す。
「ランベルトさん、……結城はそこらのフリーのランナーと違って芯がしっかりとしています。約束は必ず果たしますし、不器用だからこそ人同士の繋がりを蔑ろにはしないはずです……これだけは保障します。」
「……。」
ランベルトは諒一の訴えに対して何も言わず、ただタバコを吸い続けていた。
やがてタバコが短くなり、ランベルトはそれを指先でつまんで口元から離す。……その時になって、ランベルトはようやく口を開いた。
「ユウキのこと本当に信じてるんだな。」
「もちろんです。」
こちらが即答すると、ランベルトは何かに納得するように頷きつつタバコを灰皿に擦りつけた。
「リョーイチがそこまで言うなら……。ま、俺らも嬢ちゃんに色々と求めすぎた節はある。……よく考えればランナーになってまだ一年の新米で、しかも女子学生だもんな……。できないことのほうが多くて当然か……。」
ランベルトは俯いたままで自問自答するように呟いた後、いきなり自分の太ももを両手で叩いて結論を出した。
「よし!! ……ここはリョーイチの言う通り、嬢ちゃんを信じてみるか。」
ようやく考えなおしてくれたようだ。
ランベルトの決定を聞いて諒一はほっとしていた。また、ツルカもそれを喜ばしく思っているのか、やけにニコニコしている。
(何とか説得できた……。)
残された問題は、結城がこちらの期待に応えてくれるか……ただそれ一つだけだった。
(結城にも伝えておかないといけないな……)
話がまとまった所で、諒一はランベルトとツルカをそのまま男子学生寮の部屋まで連れていこうと考えていた。
それは、ランベルトさんの口から直接、結城にこの決定を伝えておいたほうがいいと考えてのことだった。
結城に向けてランナー続投決定宣言をしてしまえば、ランベルトさんも途中で考えを変えることはないだろう。
あと、結城もみんなから期待されていることがわかれば、少しは活力が湧いてくるかもしれない。
そうなることを諒一は願っていた。
……諒一はランベルトの気が変わらぬうちに、早速その事を提案することにした。
「……今から結城と会ってくれませんか?」
こちらの提案にランベルトさんは慌てた様子を見せたが、“結城を信じる”と言った後だったため、断ることはできないようだった。
「よし、嬢ちゃんの見舞いに行くとするか……」
その後すぐにツルカも二つ返事で了承し、諒一達はカフェを後にすることにした。
3
「へぇ、ここがリョーイチの部屋か。」
カフェで代金を払い終えてから数十分後、諒一の部屋の玄関にはランベルトとツルカの姿があった。
ランベルトは両手を広げて廊下の両側の壁に手をついており、ツルカは物珍しそうに廊下の奥にあるスペースを眺めていた。
「少しここで待っていてください。」
諒一は自分だけ靴を脱ぎ、廊下を進みリビングへと移動する。
リビングやダイニングには結城の姿はなく、諒一はいつも結城がいる寝室の前で立ち止まり、そこでドアを軽くノックした。
「結城、そこにいるのか?」
部屋の中からは返事がない。ただ、起きているのは確かなようで、シーツが擦れる音が聞こえてきていた。
「結城、ランベルトさんとツルカが来てくれている。……少しだけ顔を出さないか?」
そう言ってしばらく待っていたが、寝室からは何の返事も聞こえてこなかった。
「おーいリョーイチ、勝手に入るぞー。」
どうしようかと迷っているうちに、待ちきれなくなったランベルトさんとツルカが玄関から移動して部屋の中に入ってきてしまった。
2人はリビングに入ってきた途端、驚嘆の声を上げる。
「すげぇ……VFフィギュアだらけじゃねぇか……。」
「ホントだ。ユウキからこの事は聞いてたけど、まさかここまで……。」
ランベルトさんは部屋に飾られたフィギュア達を10秒ほど眺めた後、こちらがいる場所にまで移動してきた。
一方ツルカはというと、こちらの許可無くフィギュアを手にとって遊んでおり、キルヒアイゼンのファスナの頭部から伸びる金属髪を手で撫でたりしていた。
触らないように注意したい諒一だったが、そこそこ大事に扱ってくれているようなので今回は許すことにした。今はフィギュアよりも結城との意思疎通が重要なのだ。
隣に立ったランベルトさんは、こちらが見ている前で比較的強めに寝室のドアをノックし始める。
「嬢ちゃん、入ってもいいか?」
そのままランベルトさんが自然な動作でドアノブを捻ろうとした時、ドアの向こう側から怒声に等しい結城の声が聞こえてきた。
「入ってくるな!!」
久しぶりに聞いた結城の言葉は、強烈な拒絶の言葉であった。
寝室のドア越しだったにもかかわらず、その声を聞いたランベルトと諒一は思わず後ずさってしまう。
……その声はツルカにも届いたらしい。
ツルカはファスナのフィギュアを携えたまま寝室のドアの前までやって来た。
そのタイミングで再び結城の声が聞こえてくる。
「誰も入ってこないでくれ……。」
次に聞こえてきた言葉はトーンは下がっているものの、先ほどと同じく拒絶の意味の言葉であった。
「結城……。」
少し会う程度なら平気かと思っていたのだが、顔すら見たくないということなのだろうか。
いつもの結城からは想像もできないような怖気付き方に、諒一自身も驚きを隠せないでいた。
ここまで幼馴染の人間不信っぷりを見せられると、かなり胸が痛む。
同時に、結城が早くこの状態から脱せられるように願っていた。
「結城、話だけでも聞いてくれないか。」
諒一も何度かノックしたが、やはり、返事は聞こえない。
会話すらできない状況ではどうしようもない。
どうにかして話せないものだろうか……。
「仕方ねぇなぁ……。」
こちらが少し悩んでいると、急にランベルトさんはドアに極限まで顔を近づけ、少し大きめの声で話し始める。
「嬢ちゃん、済まんがアカネスミレは修理出来なかった。その代わりに、ダグラスのVFで試合することになったからな……それだけは伝えておくぞ。」
会話が望めないと踏んで、先に一方的に情報だけを伝えることにしたらしい。……確かに、今の状況だとこれ以外に方法はないように思える。
ランベルトは最低限の連絡を終えると、返事を確認するべく今度は耳をドアに近づける。
「……。」
やはり、寝室から結城の返事は聞こえない。
しかし諦めきれなかったのか、ランベルトさんはもう一度ドアに向けて、優しく励ましの声をかけた。
「嬢ちゃんの活躍、超期待してるからな。」
「……。」
相変わらず反応はないが、こちらの言葉が向こう側に届いていることは確かだ。
一応、次の試合ではアカネスミレではなくダグラスのVFを使用すると連絡したし、目的は果たしたといえるだろう。
だが、満足のいく反応を得られなかったらしく、ランベルトさんは不安をこちらにぶちまける。
「……リョーイチ、嬢ちゃん本当に大丈夫か?」
カフェでは自信満々に結城のことを持ち上げた諒一だったが、こんな反応を見せられた後では首を縦に振れなかった。
「大丈夫……だと思います。」
「おい、今、目ぇ逸らしただろ!?」
やはり不安が挙動に出てしまったらしい。
どうやって誤魔化そうかと考えていると、いきなり寝室のドアからロックを解除する音が聞こえ、ドアノブが回転した。
その音に反応してランベルトさんは不思議そうに振り返る。
「へ? 今ドアから音が……ぶっ!?」
その後すぐにドアは勢い良く開かれ、ランベルトの側頭部にドアのカドが見事に命中した。
ドアによる攻撃を受けたランベルトはヒットした場所を両手で押さえてうずくまってしまった。
寝室から出てきた結城は、ジャージなどのだらしない格好はしておらず、なぜか制服を着込んでいた。どうして着替えているのか疑問に思ったが、結城の顔を見るとその疑問もすぐに忘れてしまった。
それほど、結城の表情は沈みきっていたのだ。
つい最近までキラキラと輝いて活力に満ちていた目も、今は死んだ魚のように生気がない。おまけにその目の周りには隈までできていた。
いきなりの結城の出現に、ツルカはすぐに対応した。
「ユウキ、久しぶり。」
ツルカはおどおどとした態度で結城に話しかけたが、その結城はというと一切ツルカと目を合わさず、無視したままランベルトの方に声をかけた。
「ダグラスのVFって……どのシリーズのなんだ?」
ランベルトはまだ頭を押さえていたが、その質問に対して素早く答える。
「う……確か、一番新しいのをよこすと言っていたからな……NARシリーズ辺りじゃねーか?」
「……。」
結城は教えてもらったことに礼を言うでもなく、3人の隙間を通り抜けて玄関へと歩いていく。
そうやって足早に部屋を出ていこうとする結城の手をツルカがとっさにつかんだ。
「ユウキ、どこに行くんだ。」
ツルカに手を掴まれても結城は目を合わすことなく、淡々と喋る。
「……自分の部屋に戻る。」
「部屋に戻るって、女子学生寮のことか? ……いったいどういうつもりで……ユウキ!!」
結城はツルカの言葉を待たずして、手を乱暴に振り払い、無言のまま玄関へと向かっていく。
……ツルカが本気で引きとめようとすれば、結城を止められるだろう。しかしツルカは、結城に対してはそのような暴力に訴える方法を選ぶつもりはないようだった。
「ユウキ、待ってくれよ……。」
ツルカはなんとか結城を止めようと奮闘していたが、廊下で結城に一度睨まれるとその場で立ちすくんでしまい、それ以上追いかけることはなかった。
その後、結城を止めるものは現れず、結城は一人で外に出ていってしまった。
……そこで、ようやく痛みが引いたのか、ランベルトさんはドアにぶつかった場所を撫でつつ、こちらに説明を求めてきた。
「おいリョーイチ、嬢ちゃんどこに行くつもりなんだ?」
結城の行方を訊かれた諒一だったが、既に見当はついており、その場所をランベルトに伝える。
「多分、ランベルトさんから聞いたNARシリーズの操作感をシミュレーションゲームで確認するつもりだと思います。」
話も聞かず、全てを拒否し続けるのではないかと結城のことを心配していたが、どうやら杞憂に終わったらしい。
あんな状態でも、一応は試合に望む姿勢は失っていないようだ。
それはランベルトさんやツルカにも分かったらしく、部屋に残された3人ともが安堵の表情を浮かべていた。
「なるほど、一応は嬢ちゃんもやる気なんだな……。」
そう呟き、ランベルトさんも結城のあとを追うようにして玄関口へ歩き出す。
そんなランベルトを諒一は引き止めてしまう。
「ランベルトさん、どこに……?」
「ん? ただラボに行くだけだ。……嬢ちゃんの返事も聞けたし、俺はブレードの調整でもやっておく。」
大体の見通しがついてやる気が出始めたのかもしれない。
変に引き止めるのも悪いので、諒一もランベルトに同伴することにした。
「それじゃあ手伝います。」
しかし、ランベルトさんはこちらの手伝いは必要ないのか、力なく首を左右に振った。
「いいよいいよ、一人で十分だ。リョーイチはリョーイチで頑張ってくれよ。」
……結城のことを見守っていろと言いたいのだろう。
男子寮と女子寮の間の距離は短いが、万が一ということもある。いくら確率が低いとはいえ、この間のようにトラブルが発生しないとも限らないのだ。
すぐに結城を追いかけるべく準備を始めた諒一だったが、廊下に差し掛かった所でその行動をツルカによって妨げられてしまう。
「ボクはどうしようか……部屋に戻ったらユウキがいるだろうし……。」
ツルカは狭い廊下をオロオロと歩いていた。
先ほど、結城を引き止める際に徹底的に無視されたことがショックだったらしく、かなり動揺しているように見える。
(どうするべきか。……この部屋に置いていくわけにもいかないだろうし。)
寮に入る際にランベルトとツルカの簡易入館許可はとっているが、飽くまで訪問程度の物なので、一人だけで長い間部屋にいさせることはできない。
そのため、諒一は、『このままランベルトさんと一緒にラボに行く』か、『キルヒアイゼンのビルに戻る』か、どちらかを勧めるつもりだった。
……が、それを決定する前にランベルトが第3の選択肢を用意していた。
「いいじゃねえか、このまま追いかけて行ってパパっと仲直りしちまえよ。」
そんなランベルトの考えに対し、絶対無理だ、と諒一は瞬時に判断する。
ツルカも皆目見当がつかないようで、悩ましい表情を浮かべていた。
「ど、どうやって……?」
仲直りの方法が全く分からないであろうツルカに対し、ランベルトさんはそれが当たり前のように単純な方法を答える。
「どうもこうもねぇって。全く不器用な奴だな……『ごめん』と謝れば済む話だろうが。」
謝れば済む、と簡単に言うランベルトさんだったが、現に結城と険悪なムードにある人物にそんな事を言われても全く説得力がない。
すかさず諒一はツッコミを入れる。
「ランベルトさん。それだけで結城が許してくれるなら、ここまでややこしくなってないはずです。」
こちらがもっともらしい事を言うと、ランベルトさんは気まずそうに笑う。
「はは……それもそうか……。」
それは何とも情けない笑い方であった。
――結局、ツルカは自分のチームが今日試合していたの思い出し、結果を知るためにもキルヒアイゼンのビルに戻ることに決めたのだった。
4
ランベルトとツルカが諒一の部屋を訪れてから一週間後……。
結城は1STリーグのアリーナに立っていた。
そして現在、結城はランベルトから聞いた通り、ダグラスから提供されたハイエンドモデルのVFに乗っている。
アカネスミレ以外のVFで試合に臨むのは初めてであるが、あまり違和感はない。
コックピットやコンソール周りは大体の規格が統一されているので、余程特殊なVFでもない限り、乗り換えることにあまり問題はないようだ。
ましてや、もともとシミュレーションゲームで操作法を覚えた結城にとっては、問題ないどころか、ダグラス純正のコンソールの方が前よりも慣れていると言っていいくらいだ。
そんな真新しいコンソールに指を這わせながら、結城は前を向く。
(いよいよだな……。)
……現在、結城はアリーナ上でダークガルムのアルザキルと対峙している状況にあった。
アルザキルはVFには珍しい逆間接型の脚部を持っており、流線型のボディが特徴のVFである。また、空気抵抗を減らすために加工された装甲は獣の毛並みを連想させ、チーム名と相まって、その外見は『狼』に例えられている。
まだ試合前なのでこちらとの距離はかなりあるが、それでも結城は相手から威圧感を受けていた。
(ついに七宮と『現実』の世界で対決か……。)
やはり、ゲーム上の『セブン』とは違い相手の気迫が空気を伝わってこちらにまで届いているような気がする。
普通のランナーなら萎縮してしまうのだろうが、その張り詰めた空気は結城にとっては喜ばしいものだった。
このおかげで結城は自分でも不思議に感じるほど適度な緊張状態にあったからだ。
また、結城が調子がいいのには、別の理由もあった。
それはいわいる『条件反射』という言葉で説明できるだろう。
――結城は、前の試合が終わってから、諒一の部屋でずっと塞ぎ込んでいた。また、メンバーのみんなに嫌われたと思い込んでおり、そのショックで気持ちも沈みきっていた。
結局、ここに来るまでの間にランベルトやツルカとは話さなかったし、目も合わさなかった。顔を見るだけで相手の気持が分かってしまいそうで、見るのが怖かったからだ。
こんな状態で試合に臨まなければならないかと思い、つい数時間前までは逃げ出したいと願うほど気が滅入っていた。
……が、コックピットに入った途端に不思議と力がみなぎってきたのだ。
むしろ、今まで大人しくしていたぶん、その反動でいつもよりも余計にテンションが高い気がする。
つまり、コックピットに座り、HMDをかぶる行為自体が結城のテンションを上昇させる要因となっているのだ。5年以上もゲームをし続けた副作用なのだろうが、今の結城にとっては神の助けに等しい、ありがたい作用でもある。
自分でも現金な女だと思う。……が、自然とそうなっているのだから仕方がない。むしろ自分の特殊な精神構造に感謝すべきだろう。
今思えば、シミュレーションゲームでNARシリーズの予行演習をしていた時も、そこそこ気分は落ち着いていた。……こんな事だったら学校のVF演習にも顔を出しておけば良かったかもしれない。
(それにしても、よくこんな高そうなVFを提供してくれたな……)
結城は改めてダグラスによって提供されたVFを概観する。
さすがハイエンドモデルというだけあって、コックピットの内装まで豪華である。HMDを被ってしまえば見えなくなるので意味はないが、……まぁそれはいいだろう。
VFによって別段操作方法が変わるわけでもないが、シミュレーションゲームで遊んでいたときは、低クラスの物ながらダグラスのVFを使用していたため、感覚もそれに近い感じがしていた。
(自前で開発しなくてもこれほどのものが出回ってるんだし……みんな喜んでダグラスのVFを買うわけだ……。)
基本的に上位リーグのチームでは、このようなVFをベースにしてチェーンナップしている、と本で読んだことがある。……この間のグラクソルフの『ラインツハー』もそうで、あの分厚い装甲を剥いでいけば、基本的なパーツやフレームなどはダグラスのものなのだ。
ダグラスは、ハイエンドモデルVFの他にも色々な兵装を用意してくれたのだが、それだけは断って、いつも通りの超音波振動ブレードを使うつもりでいる。
何だかんだ言ってこのブレードは強力で使い勝手がいい。それに、何より使い慣れている。
アカネスミレで戦えないのは残念だが、中途半端に機能の使えないアカネスミレに乗るよりも、こちらのほうがかなりマシであるのは間違いなかった。
結城がそのブレードの柄部分を無意識のうちにさわさわしていると、やがてアリーナに実況者の声が響き始めた。
<皆さんこんにちは。今日は待ちに待った七宮選手の復帰戦です。コアなVFBファンの方ならご存知でしょうが、一応説明いたしましょう。――ダークガルムの七宮選手は、7年前まではここで壮絶な戦いを繰り広げていたました。……VFB最強の男『イクセル』とも互角に渡り合えたと聞いています。>
実況のヘンリーはここで一旦言葉を区切る。
その後、紙をめくるような音と共にセリフが再開された。
<自社で開発された様々な兵装を試すべく、毎回違う武器で試合に臨み、それを見事に使いこなすその様に、ファンたちの間では『戦場のテストランナー』と呼ばれていたこともあったようです。……その強さは7年経った今でも健在なのでしょうか……注目の一戦です。>
こちらにとっては健在していて欲しくないのだが、どんなに願っても、願うだけで七宮が弱くなるわけでもない。
そのため、結城は自分がいつも以上の実力を発揮できるように願うことにした。
それに、今回は試合に集中するためにも始めから通信機の電源は切ってあるので、余計な言葉に邪魔されることもないはずだ。
<――それではチームの紹介に移ります。>
いつものように、ファンならば誰でも知っている情報をヘンリーが言い始める。
<まずはアール・ブラン、使用VFはアカネスミレ……ではなく、今回はダグラスのNARシリーズをカスタムした物のようです。やはり、修理が間に合わなかったのでしょうか。前回の試合では豪快に水没したのでやむを得ないでしょう。……そんなVFはさておき、ランナーは前回に続けて現役女子学生ランナーのユウキ選手です。>
実況者から紹介され、結城はVFを操作して手を大きく振る。
……NARシリーズは、ダグラスの製品の中でも一番高価なハイエンドモデルVFである。
バランス性に優れ、その外見も見栄えがいい。言い換えれば特徴のない外見なのだが、どこかの有名なデザイナーがデザインしているらしいので、そんなにケチは付けられない。
本来は白色らしいのだが、いまはアカネスミレを真似てか、赤色でペイントされていた。
カメラに向けて力の限り手を振ってみせたし、これだけアピールしておけば、VFを提供してくれたダグラス社も満足してくれることだろう。
<続きまして、ダークガルムの『アルザキル』、ランナーは七宮です。先ほども言った通りこのチームは……>
ヘンリーの説明を聞き流しつつ、結城は敵の姿を見つめる。
七宮が乗っているであろうアルザキルは微動だにせず、棒立ちのまま待機していた。
ろくな対策もなしにダークガルムと対決することは不安だったが、見たところ銃器の類の兵装は見当たらない。
機動性に優れているアルザキルならば銃器との相性は抜群なはずだが、それを積まない辺り、やはり七宮はセブンだったのだなと実感させられる。
(セブンは刀剣類しか使わなかったからなぁ……)
しかし、アルザキルの手に大型の刀剣類は見当たらず、代わりに両手には刃渡りの短いナイフが握られていた。
舐められたものだ……。私のような雑魚相手にはそれだけで十分だということらしい。
しかし、それは紛う事なき事実なので仕方がない。
ランナーの技量も、VFの性能も劣っているのは明らかなのだ。
……決して、刀身が長ければ長いほど良いということではないが、それにしてもナイフ2本だけというのは、こちらを舐めているとしか思えない。
舐められるほどの実力差があると分かっていても、腑に落ちない結城であった。
悔しがっている間もヘンリーの説明は続いていた。
<アルザキルは昨シーズンから導入されたVFで、その性能は従来の……>
……と、ヘンリーが棒読みで原稿を読み上げていると、いきなりアルザキルの胸部から何か鋭いものが飛び出してきた。
「!?」
結城は我が目を疑ったが、それが錯覚でないことを確認するためにアルザキルに注意を向けて詳しく観察する。
アルザキルの胸部装甲から生えているもの……それは刃の切っ先らしく、緩やかな曲線を描くその刃には美しい刃紋が見られた。
どうやらアルザキルは、背後から鋭い刃物で貫かれている状況にあるようだ。
しかし、結城の注意はアルザキルではなく、その刃物に向けられていた。
やがて刃は音もなくするりと抜かれ、それと同時にアルザキルは支えを失った人形のようにその場に崩れ落ちる。
アルザキルが俯せに倒れたことにより、アルザキルを貫いていた刃の全貌が明らかになった。
(あの形は……)
……その外見はまさに日本刀に相違なく、実物をそのまま拡大したかのような美しさだった。
そして、結城はその日本刀に見覚えがあった。
(あの刀は……まさか……)
ゆっくりと崩れ落ちたアルザキルの背後には、その刀の持ち主であるVFがいつの間にか出現していた。
「……!?」
その姿を一目見て、結城は言葉を失ってしまう。
ヘンリーも同じく絶句しており、実況するのがかなり遅れてしまっていた。
――しばらくの間アリーナは静寂に支配される。
……やがて、刀の持ち主であるVFが納刀すると、ようやくヘンリーが喋り始めた。
<これは、なんという事でしょう。真っ黒なVFが乱入してきました。しかし、この姿はまるで……>
ヘンリーの言葉を受け継ぐようにして、結城は呟く。
「……アカネスミレじゃないか。」
――それは真っ黒なアカネスミレだった。
『似ている』というレベルでは説明できないほどそっくりで、色を黒に塗ったアカネスミレと言っても問題ないほどその装甲や構造は同じ形をしていた。
『機能美』という言葉の似合う徹底的に統一されたデザインに、無駄なく配置された装甲……。
結城は改めて、アカネスミレがどれほど素晴らしいVFだったかを思い知らされる。
またその『黒』は、アリーナに落ちる影の色と変わらぬ程の『漆黒』であった。
VFは全身余すところなく黒にペイントされており、黒くない部分といえば腰に下げている鞘の紐くらいなものだった。
さらに、その黒は全く光を反射しておらず、影との境目も分からないほどだ。
あまりの黒さに、“その空間に暗い穴が開いているのではないか”と錯覚してしまいそうになる……。
闇を体現したかのようなVFに言い得ぬ恐怖を抱き、結城は身を震わせていた。
(あ、鳥肌……)
全身がゾワゾワし、結城は一旦コンソールから手を離し、腕や太ももをマッサージしてみる。
すると、幾分か恐怖が和らいだような気がした。
アカネスミレと似た真っ黒なVFを見ていると、不意にヘンリーが思い出したように実況を再開する。
<あ、……アルザキルの七宮選手は無事なんでしょうか!? コックピットを貫かれたように見えましたが……>
心配そうに言っていたが、ヘンリーの言葉は途中で途切れる。
しかし、数秒後にほっとしたような口調で再び喋り始めた。
<あー、只今ダークガルム側から連絡がありました。……これは新VFお披露目の演出であるとのことです。>
演出ということで、コックピットに人は乗っていなかったようだ。
アルザキルがピクリとも動かなかったのはそのせいだろう。
(演出って……そのせいでアルザキルが大破したぞ……。)
壊されたアルザキルを哀れに感じるが、一体のVFを引き換えにするだけのインパクトは十分にあったように思う。
あと、先ほど感じた威圧感がこちらの勘違いだったことにも気づき、結城は少しだけ恥ずかしい思いをしていた。
<では改めて紹介させていただきます。ダークガルムの新VFの……『リアトリス』です。……それにしても驚きました。今後、こういう心臓に悪いサプライズは控えていただきたいものです。>
結城はヘンリーが紹介したVFの名を吟味するように言ってみる。
「『リアトリス』……」
その声は誰にも届くことなく、結城は一人でその名を反芻していた。
5
結城がいきなり現れた漆黒のVFの名を呟いているころ。
リアトリスのコックピットにはランナースーツに身を包んだ七宮がいた。
そのランナースーツは数年前まで使われていた旧式のものだったが、HMDは最新式のものらしく、その形状はヘルメットタイプではなく、目元を覆うだけのゴーグルタイプのものだった。
その軽そうなHMDを額側にずらしてから、七宮は通信機に話しかける。
「最高だよ鹿住君。まさかこんなにも動きやすいなんて……」
七宮はリアトリスのその性能の高さを肌で感じており、子供のように無邪気に喜んでいた。
「ランナーを引退して、たった数年でここまで進化するとは……VFの技術革新は他に類を見ないくらい速いね。」
べた褒めすると、通信機からは不服そうな鹿住君の返事が聞こえてきた。
「はい……お褒めに預かり光栄です。」
鹿住君には珍しいぶっきらぼうな物言いにどう対応すべきか考えたが、ここは敢えて普通に聴いてみることにした。
「なんだいその言い方は……せっかく褒めているんだから素直に喜べばいいじゃないか。」
「だから“光栄です”と応えたじゃありませんか……」
鹿住の態度を不思議に思っていた七宮だったが、次の言葉を聞いてその理由が明らかになる。
「……それよりも今はその刀の存在に驚いています。強度といい、切れ味といい……私の知っている物理法則を完璧に無視しているように思えるのですが……一体何なんです? それは。」
どうやらアルザキルを貫いたこの刀がとても気になっているらしい。
刀はダークガルムのラボに置いていたので、第2ラボにいた鹿住君が見る機会は一度もなかったはずだ。……つまり、鹿住君がこの刀を目にするのは今日が初めてというわけだ。
鹿住君にしてみれば、特に仕掛けのないただの金属の塊がこれほど異常な切れ味を実現しているのだから、気にならないわけがない。
鹿住君に限らず、あの光景を目の当たりにして興味を抱かない技術者はいないだろう。
……これをネタにして色々とおちょくろうと思った七宮だったが、試合開始まで時間がなさそうだったので、手短に説明することにした。
「これはね、繊細な技術と、不屈の努力と、奇跡的な幸運の産物だよ。」
「どういうことですか?」
通信機からの鹿住君の口調から、もっと詳しい説明を求めているのが分かった。
その期待に応え、七宮は説明を続ける。
「この刀はね……原材料の選定から混合率、加工法、内部構造、重量バランスの緻密な調整、そして職人のセンス……そのすべてが合わさって奇跡的に生まれた武器さ。再現不可能といってもいい。」
「そうなんですか……」
鹿住君の素直に感心している声を聞くのは久々かもしれない。
その声を聞いただけで、鹿住君は本当にモノづくりが好きなんだと実感させられる。やはり、あの時鹿住君への投資を決定したのは正解だった。
過去の自分の判断を自画自賛していると、再び通信機から疑問の声が聞こえてきた。
「鞘はもうひとつあるみたいですけれど……そちらはどうしたんですか?」
鹿住君が指摘したのはリアトリスの腰にある鞘だった。
鞘は実物とは違い、木製ではなく金属製である。また、形状もただの細い筒状ではなく、刃の幅に対して少し太めに作られている。……これは、鞘の内部に刃を正確に保持するための機構があるからだろう。規模が規模なので、このくらいかさばるのは仕方がない。
腰には長い鞘と短い鞘が並んで取り付けられており、その短い鞘には刀が入っていなかった。
鹿住が指摘したであろうその短い鞘をリアトリスの指でなぞりつつ、七宮は話す。
「ここにはもう一振り短めの刀があったんだけど、だいぶ前に壊れてそれっきりさ。……言っただろう? 再現不可能だって。」
こちらの話を聞いて、通信機から鹿住君の無念そうな言葉が聞こえてくる。
「再現不可能ですか……。もう一度その製作者に頼むことはできないのでしょうか。」
「無理だよ。絶対にね。」
すぐに否定すると、鹿住君もすぐに聞き返してきた。
「そんな……どうしてですか?」
「……。」
七宮はその理由をあまり口にしたくはなかった。
しかし、ここまで説明しておいて無視するのも酷いかなと思い、比較的軽い口調で通信機に向けて答える。
「その製作者が僕の父親だからさ……。」
「あ……。」
今、通信機からは声しか聞こえないが、それだけでも鹿住君の思っていることが手にとるようにわかる。
(親の死に関する話はタブーだったと後悔しているんだろうね……。)
……鹿住君は他人に無関心そうに見えて、実は情にもろい一面も持っている。
そのせいで、鹿住君は未だに結城君のことが気にかかっているようだ。アール・ブラン関係のニュースを耳にするたびに憂いの表情を浮かべているのもこれが原因だ。
七宮はあまりそれをよしとは思っていなかったが、そんな人間味のある鹿住の事を気に入っているのも事実であった。
少し遅れて鹿住君はこちらに謝罪の言葉を述べる。
「……すみません。全く気が付きませんでした。」
社長自らがVFの武器製作に携わっているなんて思いもしなかったのだろう。
父親は当時からVFの熱狂的なファンだったのでこういうことにはよく首を突っ込んでいた。
そんな事、普通は気づかないし仕方がない。それに、最初から鹿住を咎めるつもりはなかった。
「いや、気にしていないから安心するといい。……でも、これで再現不可能なわけが分かっただろう?」
鹿住は「はい」と短く答えて、話を続ける。
「確かに、故人とあっては再現が不可能なのも頷けます。……と言いますか、形見のような物を試合で使って大丈夫なんですか?」
思ってもいなかったことを言われ、七宮は改めて刀の存在意義を考えてみる。
大事に扱ってはいるものの、それは『形見』とかそういう理由ではなく、ただ単にそれが『貴重』だから、それにふさわしい扱いをしているだけだ。
それを踏まえて七宮は答える。
「うーん、そうだね……むしろ、僕にとっては会社自体が形見みたいなものだから特に問題ないよ。……それに、その刀も父親が一人で作ったわけじゃないし……よければ後でその時の話をしてあげようかい?」
こういう類の話にはかなり興味があるのか、鹿住君は迷う様子も見せず即答してきた。
「はい、是非とも。」
鹿住君にこういう素直な反応をされたのは久し振りだった。
今まで一定の距離を取っていたが、こうやって色々と話すのも悪くないかもしれない。
――そんな風に呑気に会話をしていると、いつの間にか、目の前からアルザキルの姿が消えていた。
どうやら大会側のスタッフによって運び出されたようだ。
それに気づいてから間もなくしてアリーナの整備完了を知らせるアナウンスが聞こえ、鹿住君も試合に関することを話し始めた。
「そう言えば、事前にリアトリスのテスト操作をしてないようですけど……。」
内容とは裏腹に、鹿住君の声は落ち着いていた。
七宮も、それは全く問題ないという風に言葉を返す。
「自分で言うのも何だけど……僕はVFを操作するのがとても上手なんだ。この試合でうまくテストしてみるよ。」
「試合でテストって……ぶっつけ本番じゃないですか。」
「そうとも言うね。」
こちらの答えを聞いた後、鹿住君は一旦話を区切り、躊躇いがちに言葉をかけてきた。
「あの、結城君のことですが……」
やはり、未だに結城君のことを気にしているようだ。
試合前に相手に同情をしたくはなかったので、釘を刺す意味でも少々強めに注意をしておくことにした。
「鹿住君、先に言っておくよ。……結城君が傷つく所を見たくないのなら、今すぐそこから出ていったほうがいい。」
そう伝えてからしばらく通信機から返答は聞こえてこなかった。
(……あれ? 本当に司令室から出ていったんじゃ……。)
ちょっと言い過ぎたかなと七宮が心配し始めた頃、ようやく鹿住の返事が通信機から聞こえてきた。
「……大丈夫です。結城君ならば乗り越えてくれると思いますから……。」
「そうかい。」
本当に鹿住君は結城君に未練があるようだ。
ここまで露骨に結城君を心配していると、後々鹿住君が私情に走りそうで怖い。
(……ま、その時はその時かな……。)
そこまで深く考えず、七宮はHMDを被り直す。
「さて、アリーナも準備が整ったみたいだし……始めるとしよう。」
……七宮がリアトリスに臨戦態勢をとらせると、同時に試合のカウントダウンが始まった。
6
<それでは試合開始です!!>
結城は試合開始を告げるブザー音を耳にしつつ、相手の出方を伺っていた。
リアトリスのスペックが解らない以上、こちらから仕掛けるのは得策ではない。
アカネスミレと同程度と考えるとわかりやすいかもしれないが、そうと決め付けるのは早計な気がしていた。
それに、相手はあの七宮だ。
何かいやらしい罠でも用意しているのではないかと思うと、余計にこちらから先制攻撃したくはなかった。
……そんなわけでリアトリスから距離をとってじりじり歩いていると、いきなり通信機から男の声が聞こえてきた。
「やあ結城君、久し振りだね。……アカネスミレはどうしたんだい?」
それは七宮だった。
試合中に敵チームと回線をつないでいいのか疑問だったが、結城は七宮に確認したいことがあったのでそれを特に問題だとは思っていなかった。
「……そのVF、鹿住さんが?」
早速質問をすると、それを肯定するようにリアトリスがこちらを指差し、そのまま歩き始める。
「その通り。……姉妹機で対決できないのが残念だよ。」
リアトリスは自らの影を踏むようにゆらゆらと歩行しており、手は腰にあてられていた。
そんな自然な動作を行うリアトリスを眺めつつ、結城も腰にあるブレードの鞘に手をあてがう。
……NARシリーズはアカネスミレよりもハンドの作りが甘いので、結城はいつもよりも余計に神経を使っていた。
そして、リアトリスの動きを注視しつつ、思う。
(鹿住さん、いつの間にあんなものを……。)
アカネスミレとベースは同じで、色だけが違うのだろうか……。しかし、七宮は『姉妹機』と言っていたし、外見が似ているだけで中身は全く違うのかもしれない。
……どちらにせよ、鹿住さんが作ったのならアカネスミレと似ているのも当然だ。
だが黒い色も相まってか、結城はこのリアトリスのことを『姉妹』と言うよりはむしろ『ドッペルゲンガー』だと思っていた。
そのリアトリスはこちらに向けていた指を内側に曲げ、挑発するようにクイクイと動かす。
「そろそろ攻撃したらどうだい? 実はリアトリスに乗るのは今日が初めてで、あまり操作に慣れていないんだ。しかも僕には長年のブランクがある……今なら僕を倒せるかもしれないよ?」
七宮に挑発されたが、結城はそれを軽く受け流す。
「そんな露骨な誘いに乗るわけがないだろ……」
……とは言ったものの、このまま慎重に歩いていても埒があかない。
ダグラスが提供してくれたこのハイエンドモデルは、ボロボロのアカネスミレよりかは動きやすいだろうし、どこまでスピードが出せるか、その性能を確認する意味でも、一度リアトリスに攻撃を加えてみるのもありかもしれない。
(あいつの口車に乗るつもりはないが……やってみるか。)
意を決した結城は歩くのを止め、予備動作なしで一気にリアトリス目がけて駆け出した。
走りだしてから2秒とかからずトップスピードになり、結城はその性能を目の当たりにしてダグラス社を見直す。
(すごい、全くブレない……。)
大量生産と聞くといい加減な作りの物を想像してしまうが、グレードの高いVFはきちんと作り込んで入るようだ。
結城は走りながら鞘から超音波振動ブレードを抜き、切っ先を相手に向ける。
リアトリスはまだ歩いている状態で、体の側面をこちらに向けていた。
「ようやくやる気になったのかい。」
「……。」
通信機から聞こえる七宮の声を無視し、結城は突撃の体勢を取る。
そして、ブレードを両手で持ち、肩の位置で構えた結城だったが、いきなり飛んできた何かに気を取られて体制を崩してしまった。
「!?」
結城は、正面から高速で飛翔してきた物体を反射的にブレードで振り払う。
飛んできた謎の物体はブレードに弾かれ、回転しながら進行方向を真横に変えた。
こちらから離れていくそれを結城は一瞬で判断する。
(……ナイフ!? なんでこんなものが……)
飛翔してきた物の正体は、刃渡りの短いスリムな形のナイフだった。もちろんVF用なので大きさは人間が使うそれとは比べ物にならぬほど大きい。まともに命中していれば装甲を貫通されたかもしれない。
宙を舞うナイフを見て、結城はこれがリアトリスによって投擲されたものだと思い至る。
……確か、これはアルザキルが持っていたものだ。
多分、どさくさに紛れて密かに回収していたのだろう。武器が一つしかないと思い込んでいた私も悪いが、こういうフェイントは掛けられると気分が悪い。
以前、アームに武器を仕込んでいた自分が言えたものではないが、なんとも卑怯なやり方である。
しかし、こんなナイフで牽制した所でこちらのスピードは落ちない。
(……むしろ、投げた後の隙を狙える!!)
結城は、弾かれて宙を舞うナイフから目を離し、視線をリアトリスに戻す。
……こちらの予定では姿勢の崩れたリアトリスが目に映る筈だったのだが、そのリアトリスはいつの間にか至近距離まで迫ってきていた。
全く動きを察知出来なかったことに驚きつつ、結城は超音波振動ブレードを構え直す。
「っ!!」
ナイフは牽制だと思っていたが、ただの囮だったらしい。
だが、そんな囮が不必要と思われるほど、リアトリスのスピードはこちらを軽く上回っていた。
(アカネスミレより速い!?)
1STリーグでレギュレーションが取り払われたとはいえ、それを考慮してもリアトリスは明らかにアカネスミレの性能を凌駕している。
それもそのはずだ……鹿住さんが作ったVFなのだから、アカネスミレに劣るVFが生まれるわけがない。
まだ接触するまでに時間があると思っていたが、この分だと構え直す余裕はないようだ。
(く……仕方ない。)
結城は攻撃を断念し、ブレードを正面に構えて防御の体勢をとろうとする。
しかし、そう判断した次の瞬間には、リアトリスは既にこちらと接触しており、正面に構えかけたブレードはリアトリスによって腕ごと押し下げられてしまった。……その結果、弱点である頭部がノーガード状態になる。
……だが、こちらの防御を解いたリアトリスも、同じく手ぶら状態だ。
リアトリスの唯一の武器である刀はまだ抜かれてすらいないはずなので、今ならばブレードを持ちなおしてカウンター攻撃ができるかもしれない。
なにも慌てる必要はない。武器を手に持っているこちらのほうが圧倒的に有利なのだ。
結城はリアトリスが素手で攻撃してこないか注意しつつ、下方に押し下げられたブレードの切っ先を再び相手に向ける。
「……ん?」
その時、ふとリアトリスの腰の鞘が目に映る。……なぜかそこに刀は収まっていなかった。
(……あれ!?)
一度瞬きしてみるも、相変わらずそこに刀の姿はない。
もともと2つある鞘のうちの1つには刀が入っていなかったことは確認済みだが、今は2つともが空っぽなのだ。
どこに消えたのだろうかと思い、結城は周囲に注意を向ける。
すると、すぐ近くで刀を発見した。
――そこは、こちらのVFの首元であった。
「なっ……!?」
首元で鈍く光る刃を確認し、結城はアームの動きを止めた。
こちらが気づかぬうちに、リアトリスは首元に刀を突きつけていたらしい。
リアトリスは肘を肩の位置まで上げており、逆手に持った刀の刃先が首元に押し当てている状態だった。
……どうやら刀身が真っ直ぐこちらに向けられていたので視認しにくかったようだ。結城にとっては首を斬られるよりも、その抜刀を完全に知覚出来なかったことの方が悔しかった。
さすがにこの攻撃は、アカネスミレでも対応出来なかっただろう。
(強すぎる……)
素早い抜刀もここまで来ると神業である。
イクセルさんと同等に戦っていたというのは誇張でも何でもないらしい。
「……。」
負けを覚悟した結城だったが、何故かリアトリスはこちらの首に当たる寸前で刀を停止させていた。
それを不思議に思い始めた頃、通信機から七宮のため息が聞こえてきた。
「ふぅ……危ない危ない。危うく勝ってしまうところだったよ。」
そのセリフの後、リアトリスはあっさりと刀を引いた。
そして、刀をくるりと回転させ、順手に持ち直しながら七宮は言葉を続ける。
「……とっさに出る癖というものはなかなか抜けないものだね。」
癖、というのは先ほどの素早い攻撃のことだろうか。あれが自然に出るというのなら恐ろしい。
結城が見ている前でリアトリスは後ずさりし、一旦刀を横に薙いでから、おもむろに刃の背を左腰に押し当てた。そして、鞘を持つ左手の甲に刃の根元をあてがい、そのまま一定の速度で鯉口を滑らせていく……。やがて刃先が鯉口まで到達すると、リアトリスは丁寧に刀を鞘の中へ押し込んでいった。
……納刀時の一連の流れるような淀みのない動作は言いようがないほど見事であり、完成された動作であった。
これだけを見ても、自分と七宮の実力にどれだけの差があるかがはっきりとわかる。
そしてついに刀身が鞘に納まり見えなくなると、「きんっ」という金属の部品同士が嵌り合う小気味の良い音が聞こえ、その余韻が終わらぬうちにリアトリスは柄から手を離した。
その音を聞いて、結城は我に返る。
(わざわざ見逃したのか……?)
結城は七宮の考えが分からず、ブレードを構えたまま呆然としていた。
リアトリスはアルザキルが残したであろう2本目のナイフを背後から取り出し、それを軽く宙に投げて遊びはじめる。
「……さて結城君、続きを始めよう。」
先ほどの納刀の所作と言い、そんな七宮の余裕の態度が結城の癇に障った。……また、結城は七宮に舐められるほど弱い自分にも腹が立っていた。
「なめやがって……!!」
結城はその怒りをぶちまけるようにしてリアトリスに斬りかかる。
しかし、リアトリスは小さなナイフでこちらの攻撃をいなし、逆にこちらのボディにキズを付ける。
装甲を抉られたものの、それは全く問題ないほどの浅いキズだった。
七宮は再びナイフを弄びつつ、呑気な口調で話しかけてくる。
「駄目だなぁ結城君。もっとよく考えて狙わないと。」
「うるさい!!」
戦闘中に会話をするだけで、こうもやりにくくなるとは思ってもいなかった。相手が七宮なので余計に集中力が途切れる。
……その後、結城は何度もリアトリス攻撃を加えたが、その全てが回避されていた。
それどころか、攻撃するたびに反撃を受けており、こちらの装甲に傷がつくばかりであった。
そして、とうとう衝撃に耐えられなくなった右肩の装甲が、ボディから剥がれ落ちてしまう。……例えナイフといえど、ここまで連続でダメージを受ければ装甲が壊れるのも無理はない。
(このままじゃ駄目だな……。)
結城はそれをきっかけにして一旦頭を冷やし、リアトリスから距離をとることにした。
(何か別の方法を考えないと……)
こちらがブレードを引き、後ろに重心を傾けると、それを引き止めるように七宮が声をかけてくる。
「なんだ、逃げるのかい?」
「……。」
結城は七宮の言葉を無視して、背後にステップする。
まともに戦えば勝負は絶望的であるが、七宮は完全に油断しきっているので、そこを狙えば勝機はあるかもしれない。
そのためにも、考える時間が欲しかったのだ。
しかし、そこまで七宮は親切な男ではなかった。
「……逃さないよ。」
そう短く言われ、すぐにリアトリスが逃げるこちらを追撃してくる。
さらに最悪なことに、リアトリスは刀の柄を握っていた。
まだ刃は鞘の中にあるものの、この状態は向こうにとっては構えている状態に等しい。……攻撃圏内に入れば、すぐにでもこちらを斬りつけることができるだろう。
(トドメを躊躇ったかと思えば、今度は容赦なく追撃してくる……何のつもりなんだ……。)
このまま退却していてもすぐに追いつかれるのは明白だったので、結城は接近してくるリアトリスに対しロングブレードを突き出した。
……が、またしても、相手の刀がこちらに届くほうが速かった。
リアトリスは、こちらの突きに対して下段からの斬り上げで対抗してきた。
そのまま刃同士が交差するかと思われたが、相手の刃はこちらのブレードをするりと抜けて、それが当然であるかのように、こちらのアームに命中する。
その刃はこちらのブレードの持ち手に接触し、手の甲側と手のひら側に切断していく……。
さらに、腕を伸ばしていたこともあってか、刃は二の腕付近まで斬り進んでいき、アームは竹が割けるようにしてパックリと左右に分断され、綺麗に破壊されてしまった。
「くっ!!」
息をつくまもなく右アームの内部から細かいパーツが溢れ出し、結城は使い物にならなくなったそれをすぐにボディから切り離す。
アームと同じくブレードもこちらの手を離れたが、地面に落ちる前にリアトリスがそれを拾い上げていた。
「フフ……ありがたく使わせてもらうよ。」
自前の刀を鞘に戻したリアトリスは、早速こちらから奪ったブレードで攻撃してくる。
(私のブレードを……とことんムカツク奴だな……。)
結城は尚も後退しながら、残された左腕でショートブレードを抜き、その斬撃に対応した。
リアトリスは、先ほど切り離された右アームの破片を掻き分けながらこちらの頭部めがけてブレードを突き出しており、結城はそれを辛うじてショートブレードで受け止める。
そして、2撃目が来る前に更に後方へと跳んで逃げた。
これでようやくリアトリスと距離が取れたかと思ったが、すぐに結城はとんでもないことに気がついてしまう。
「……あれ? なんであいつがブレードの機能を使えているんだ……!?」
通常の武器とは違い、エネルギーを供給せねば超音波振動ブレードは使用できないはずだ。
しかし結城は深く考えることもなく、すぐにその疑問を自己解決してしまった。
「あぁ……最悪だ……。」
――今回の試合ではNARシリーズでも超音波振動ブレードが使えるようにエネルギーラインを一般的なものに替えている。そのため、リアトリスもブレードの機能を存分に使えるのだろう。
こちらがその失態を悔いていると、七宮は半笑いで慰めてきた。
「何も嘆くことはないさ。おかげでこのブレードの性能を身をもって体験できるだろう?」
その間、リアトリスはブレードをバトンのようにくるくると回していた。……とことんふざけた野郎だ。
「……取り返してやる。」
こちらが強めに発言すると、七宮は上から目線で応援してくる。
「いいね。頑張ればできるかもしれないよ?」
しかし七宮が友好的だったのもそこまでで、しばらくするとリアトリスはブレードを片手で持って、こちらに斬りかかってきた。
「……!!」
結城はそれに対抗してショートブレードを掲げたが、片腕が無いので上手く操ることができない。そのため、ショートブレードは相手の攻撃をいなすための道具に成り下がっていた。
当然、それだけで全ての攻撃が防げるはずもなく、為す術もなくこちらのVFのボディは斬りつけられ、攻撃を受けるたびに深い傷が外装甲に刻まれていった。
ダグラスによってカスタムされていたため装甲は上等なものだったが、その装甲が攻撃を防げていたのも最初の数回だけで、やがてフレームにも影響が出てくる。
同時に、攻撃を逸らしていたショートブレードの限界も近いているのか、動作が不安定になっていた。
<強い、強いです。……7年間のブランクを全く感じさせません。相手の武器をまるで自分の物のように扱っています。>
実況のヘンリーの言葉は、今まさに自分が思っていることと同じだった。
(まさか、自分の武器で攻撃されるとは……)
このまま奪われた武器で止めを刺されでもしたら、目も当てられない。
……それにしてもこの超音波振動ブレードというものは厄介である。
スピードがのっていなくても簡単にダメージを与えられる上、とても扱いやすい。
その性能と引換にそこそこエネルギーを食うので、2NDリーグではアカネスミレの特殊なフレームがないと運用出来なかった。……が、1STリーグではエネルギーの心配が無いので思う存分使えるというわけだ。
七宮の言った通り、結城はブレードの性能を肌で、……もとい、装甲で感じていた。
いつまでも受身だとやばいと思い、結城は果敢にも攻勢に出ることにした。
足技を使い下半身を狙ってみたり、ショートブレードの斬撃を交えながら連続で蹴りを放ってみるも、そのどれもがリアトリスに命中することはない。
(こっちの攻撃が全然当たらない……!?)
必死になって攻撃し続けたが、リアトリスはスイスイ攻撃を避けていく。
「……なんでそんなに当たらないか不思議に思ってるんだろうね。」
「!!」
かなり機敏な動きで回避しているはずなのに、まだ呑気に喋る余裕があるらしい。
七宮はそのまま話を続ける。
「忘れてもらっちゃ困るよ結城君。君にVFのいろはを教えてあげたのは僕なんだよ? ……結城君の動きは手に取るように解るさ。」
「くそっ……」
悔しいが、七宮の言う通りだ。
これだけ強いランナーに教えを受ければ上手くなるのは当然であり、逆にすべての弱点を知られているのも当然のことだった。
七宮にそれに気付かされ、命中しないことを悟った結城は攻撃を中断してしまう。
その隙をついて、リアトリスが再び接近してくる。
「そろそろいいかな……。」
そんな七宮の声がしたかと思うと、いきなりこちらのVFの左肩部分にエラーが発生した。
それと同時にリアトリスに突進され、結城は地面に仰向けになって転んでしまう。
……どうやらブレードをこちらの左肩に突き刺し、そのまま地面に押し倒したらしい。
マウントを取られてはまずいと咄嗟に起き上がろうとした結城だったが、左肩が地面から離れない。
(あれ……!?)
……よく見ると左肩に刺さったロングブレードは装甲をフレームごと貫通しており、ついでに地面にまで到達していた。
つまり、こちらのVFは超音波振動ブレードという強力な楔によって地面に貼りつけられている状態にあるというわけだ。
左肩を刺されたため左手で上手く抜くことが出来ず、そんなこんなでもたついている間にショートブレードも奪われてしまい、左に続いて右肩も同じようにして地面に固定されてしまった。
(しまった、これじゃどうしようも……)
こちらの両肩を完璧に固定したリアトリスはVFの上にまたがり、鞘からゆっくりと刀を抜く。
そして、その切っ先をこちらのコックピット部分にあてがった……。
「そうだ結城君、僕の登場シーンを覚えてるかい?」
いきなりひょんな事を訊かれたが、結城はその時のことを思い返す。
……リアトリスの登場シーン。
確か、アルザキルの胸部を背後から刀で突き刺し、立ち変わるように登場したはずだ。
それがどうしたというのだろう。
「どういう意味だ……?」
「さあ、どういう意味だろうね……。」
七宮は意味ありげに呟き、コックピット部分にあてがった刀をゆっくりとこちらの装甲に突き刺し始めた。
結城は抵抗することが出来ず、金属の塊が装甲をかき分ける際に発する、何かの断末魔にも聞こえる摩擦音を聞くより他になかった。
「一体何のつもりだ。」
「……」
七宮から返事はない。
頭部を破壊しないでこんなことをするなんて、何を考えているのだろうか。
また冗談か何かでこちらをからかっているのだろうか思っていると、不意に、何かがコックピットに接触してきた。
(刀の先が当たってるのか……?)
この音を聞き、結城は七宮の思惑に思い至った。
「……まさか!?」
「やっと思い出してくれたみたいだね。……そう、この刀はね……」
七宮が話している間も、不気味な金属音が止むことはない。
その金属音に混じり、七宮の恐ろしい言葉が結城の耳に届いてきた。
「……コックピットを貫通できるんだよ。」
ここに来て結城はようやく自分の置かれている状況を把握する。
このまま七宮が刀を止めなければ……私は死ぬ。
(……死ぬ?)
結城はそれを想像してみる。
もしも刀がコックピット内に侵入してくれば、それは私の体を貫き一瞬で命を奪うことだろう。
「おい!! 七宮!!」
結城はそれを止めるように名を呼ぶも、七宮から返事はない。
……リアトリスは相変わらず刀をこちらに押し進めている。
(やばい。)
結城は咄嗟にコックピットハッチを開けるべくハッチのレバーを操作したが、ハッチは全く開く気配はない。……どうやら、刀がコックピットを押し付けているせいで開かないようだ。
(嘘だろ……!?)
ダメ元でハッチを蹴ってみたが、足の裏が痛いだけでハッチは全く動かない。
(だったら、こっちはどうだ……)
結城はシートの脇にある緊急脱出用のレバーを引いてみた。
本来ならばこれでハッチが外側へ吹き飛ぶはずなのだが、外からの圧力によってガスが上手く噴射されず、あろうことか内側に噴射されてしまい、コックピット内にガスが充満してしまった。
「うわっ……ケホ……ケホッ!! ……うッ!?」
そのガスを吸い込んでしまい、結城は一瞬意識が飛びかける。
しかし、幸いにもそのガスは有毒ではないらしく、結城は咳き込んだだけで済んだ。
……かと思われたが、咳き込んだ後に結城は意識が朦朧とし始め、また、体にも力が入らなくなってしまった。
「助け……助けて!!」
叫んでみたが、思うように声が出せない。
慌てて通信機を操作してみるも、七宮の妨害のせいか、全く諒一達と通信することができない。
リタイアすれば試合は終わるが、リタイアしようにも、頭部パーツの制御に関してはこちらから操作できない仕様になっている。
それに……例えリタイアしたとしても七宮が刀を止めることはないだろう。
「なんで……誰か、誰でもいいから……気づいて……」
結城はHMDを脱いで、それを両手で持ってハッチに打ち付けようとしたが、握力も失ったのか、HMDは結城の手から離れて太ももの上に落下した。
その間、装甲が貫かれていく不気味な音が消えることはなく……とうとう刀の切っ先がコックピット内部に侵入してきた。
結城はHMDを拾うのを諦め、シートに背中を押し当てて限界まで後ろに下がる。
「ひっ……」
結城が今感じているのは、避けようの無い恐怖であった。
コックピットに出来た切れ目は、刀の太さに合わせてどんどん拡大していき、周囲のコンソール類を破壊していく。
だが、そんな事を気にする余裕はない。結城の心はただ恐怖に支配されていた。
逃げ場のない閉塞空間を迫ってくる巨大な刃……これではまるで原始的な拷問装置である。さながらコックピットは出来損ないのアイアンメイデンといったところだろう。
しかしあんな巨大な刃が刺されば拷問どころの話ではない、いわば処刑である。……こちらの命を奪うモノが視認できるぶん、ギロチンなどの処刑装置よりもよりもたちが悪いかもしれない。
結城は完全に混乱状態に陥っており、視線は刀の先端に釘付けになっていた。
「いや……やめ……」
何とか後ろに下がろうと身をよじるも、コックピット内部が狭いせいでそこまで動けず、それを避けるスペースすらない。
「止まって……止まってよぉ……」
結城は何も出来ず、刃が目の前に迫るのをただただ見つめていた。
やがて刃が肉薄し、結城はダメ元で白刃取りみたく刀の先端を両手で掴んでみたが、当然のごとく全く効果はない。
……と、いよいよ刃の先端がランナースーツの胸部プロテクターに接触した。
瞬時にプロテクターから衝撃緩和のジェルが噴射され、インナーとランナースーツの間に行き渡るも、VF専用の武器による圧倒的な力の前には意味を成さなかった。
結城は胸部にものすごい圧迫を受け、たちまち呼吸困難に陥る。
「か……はっ……」
私はここで死んでしまうのだろうか。
そう思うと、体が死を悟ったとでもいうのか、今まで緊張していた体から一気に力が抜けた。
また、今の今まで上昇し続けていた心拍数も一気に下がり、おまけに体中が弛緩し、一気に体温も下がる。
(終わった……。)
死を覚悟し、結城は目を閉じる。
そして頭の中で走馬灯が回り始めたころ、不意に何かが聞こえてきた。
<………七宮選手の……意図的で執拗な…………悪質な危険行為とみなされ………反則負けとなります。>
そんな途切れ途切れに聞こえてくるアナウンスを耳にしていると、いきなり結城は圧力から解放された。
胸部が圧迫から解放されたことで一気に空気が肺に入り込み、結城は激しく咳き込む。
「ッ……ゲホッ、ゴホッ……!!」
すぐに刀は上へ引き抜かれていき、その時に開いたコックピットの隙間から、リアトリスが鞘に刀を納める姿がぼんやりと見えた。
リアトリスが納刀し終わると同時にジェネレーターからのエネルギー供給がストップしたのか、こちらのVFの駆動音が急に途切れる。
しかし、その中で通信機だけが音を出していた。
「……全く、判定を下すのが遅いよ……。あと少し遅れてたら死んでいたかもしれないね、結城君。」
通信機からは七宮の陽気な声が聞こえていた。
その声を聞いて結城は急に気分が悪くなる。……そして、何かがこみ上げてきた。
「……う……ううっ!!」
緊張から解放された安堵からだろうか……結城は吐いた。
上を向いた状態で吐いたせいで、嘔吐物は口から溢れて顎から首元にかけてを濡らしてしまう。しかし、事前の食事がゼリーだったお陰で、あまり臭うことはなかった。
クラッシュッゼリー状のそれをどうにかしたい結城だったが、体に力が入らないため、身を起こしてうつむくことすら出来ず、とりあえず首を横に向けることにした。
「ん……。」
すると、口の中に溜まっていた嘔吐物が口の端から外へと流れ、何とか楽に呼吸できるようになった。
通信機越しの七宮にそんな事などわかるはずもなく、構わず話しかけてきた。
「それにしてもよく意識を保っていられたね。……まともに話はできないようだけど。」
「……。」
七宮の言う通り、結城は長い間呼吸出来なかったせいで呂律が回らず、意識も朦朧としている状態にあった。
コックピットに開いた隙間からはリアトリスの姿が見えていたが、しばらくすると背をむけて視界から去っていった。
「その勝ちは僕からのプレゼントさ。……せいぜい頑張るといい。フフフ……。」
その七宮の言葉を最後に結城は気を失った。
7
アール・ブランとダークガルムの試合が終わってから3時間後。
……諒一は病院の廊下を歩いていた。
(ともかく、無事でよかった……。)
七宮の反則負けが確定してすぐに、結城はコックピット内から救出されて、そのままメディカルルームへと運ばれた。
諒一はすぐに結城のもとに駆けつけ、目立った外傷もなく命に別状がないと知ることができ、その時は安堵した。……が、応急処置を済ませても、結城は意識を失ったままだった。
その後、そこでは十分な検査ができないと判断され、結城は諒一と共にこちらに運ばれてきたというわけだ。
図らずも、諒一はその時初めてヘリコプターというものに乗った。
ずっと結城を見守っていたので外の景色を楽しむ暇などなかったが、かなりうるさかったのだけは覚えている。
数分間の飛行の後、結城と諒一は病院の屋上にあるヘリポートに降り立った。そこはダグラス社の本社のフロートユニットに属する大病院だった。
なぜそこが選ばれたのかというと、病院自体は各フロートユニットに最低一つは設置されているものの、ヘリポートがある病院は少ないため、一番近くにあったダグラスの大病院が選ばれたというわけだ。
ダグラスが関係しているのなら、VFランナーの結城は手厚い待遇を得られるだろう、と諒一は勝手に思っていた。……そして、その予想通りに、結城はこの病院で一番広い個室を与えられてしまった。
1時間に及ぶ検査の結果、結城は『鎖骨骨折』と診断された。しかし骨折といっても骨にヒビが入った程度の軽いものらしく、簡単な治療ですぐに治るとのことだった。
そんな軽症なのに豪華な待遇を受けて悪い気もしたが、部屋を替えてもらう理由もなかったので有難く好意を受け取っておくことにした。
……今、結城はその広い病室内で複数の看護婦さんによってランナースーツから患者衣に着替えさせられている。
諒一はその看護婦さんに追い出され、廊下にいるというわけだ。
さすがに、家族でもない男を着替えの場に立ち会わせるわけにはいかないらしい。
行く宛もない諒一は部屋のすぐ外で待とうかとも思ったが、変な勘違いをされて部屋のみならず病院自体から追い出されても困るので、取り敢えず体裁を整えるためにも、エレベーター付近にある談話スペースに向かっている。
(10分もすれば着替えも終わるだろう……。)
看護婦さんにランナースーツの脱着方法がわかるのだろうかと心配していると、やがて、案内板の通りに談話スペースが見えてきた。
そこには5人は座れる薄緑色のレザーのソファーが2列に8個ほど並んでおり、その4分の1ほどに人が座っていた。また、談話スペースの端には自販機やウォーターサーバーが設置されていた。
(何か飲み物でも買っておこうか……)
諒一はそのままソファを通りすぎて自販機へ向かおうとしたが、その途中で何者かによって呼び止められてしまう。
「リョーイチ!! 検査の結果はどうだったんだ?」
それはツルカの声だった。
諒一が声の発生源を求めて周りを見ると、ソファに片膝を乗せて半分立っているツルカの姿を確認することができた。ツルカはソファの背もたれ部分を強く握っていて、不安げな顔をこちらに向けていた。
隣にはランベルトさんが背をむけて座っており、首だけ捻ってこちらに目を向けていた。
諒一は進行方向を変え、ツルカ達が座っている場所まで移動する。
そして、2人の近くまで来ると検査の結果を報告した。
「大丈夫だ。鎖骨にヒビが入っていただけだ。」
「そうか……良かった……。」
ツルカは安堵のため息を吐きつつ、ソファに腰を下ろす。
すると、続けてランベルトさんが状況を確認してきた。
「で、嬢ちゃんは?」
「今は病室で着替えさせられています。……でもまだ意識は戻ってません。今日中には起きると言われたので心配はしていないんですが……」
「そうか……。でも怪我自体は軽いみてーだし、とりあえずは安心だな。」
少し話が長くなるかもしれないと思い、諒一はツルカの隣に腰を下ろす。
その際にソファが少し沈んでしまい、隣にいたツルカの体が自然とこちらに傾いてきた。
諒一はそのままツルカにもたれかかられる形になり、ツルカの肩と頭がこちらの腕に密着してしまう。しかし、ツルカはこちらから離れる様子はなく、諒一も無理に引き剥がすつもりはなかった。
諒一はツルカにくっつかれたまま話を続ける。
「その事なんですけど……医者が言うには、鎖骨の怪我よりも精神的なダメージが心配らしいんです。」
まだ詳しく問診したわけではないが、コックピットを攻撃されたのだから、かなりの恐怖を感じたに違いない。その恐怖がどの程度生活に不利益をもたらすかは分からないが、少なくとも何らかの影響があることは間違い無いだろう。
「“PTSD”ってやつか……。」
そう言ってランベルトさんは何かを考えるように顎に手を当てた。
PTSDとは心的外傷後ストレス症候群のことで、命に関わるような状況を経験すると発症する……と習った記憶がある。当時は戦争などで多くの患者が発生したらしいが、今は治療法も確立しているし、専用のリハビリ施設もあるらしい。
そのため、結城ならばそんな物はすぐに克服するだろうと諒一は信じていた。……が、試合直前まで不安定な状態にあったことを鑑みると、必ずしもそうだとは言えない。
PTSDというものが結城にどんな悪影響を及ぼすのか、かなり心配だ。
同じようなことをツルカも懸念したのか、こちらに身を預けたまま恨めしそうに呟く。
「くそ……七宮め……。」
ふとツルカの方に目を向けると、ものすごい表情で歯ぎしりしている横顔が見えた。七宮に対して怒る気持ちもわかるが、これではせっかくの可愛い顔が台無しである。
そんなツルカを見ていると、ランベルトさんが深刻な顔でこちらに話しかけてきた。
「医者が心配してるんだし、早く病室に戻ったほうがいいかもな。……起きた時にリョーイチがいたほうが嬢ちゃんも安心するだろ。」
そう言われ、結城の着替えもそろそろ終わったかと思い、諒一はソファから立ち上がる。
その時にソファの形も元に戻り、自動的にツルカの頭もこちらから離れた。
「じゃあ、二人も一緒に……」
立ち上がった諒一は2人を病室に誘おうとしたが、ランベルトは渋い顔をして小さく首を横に振る。
「こっちは気になくていいから、早く行ってこい。……嬢ちゃんを下手に刺激してもいけねぇし、俺らはここで待ってる……ツルカもそれでいいな?」
同意を求められたツルカだったが、ツルカは不満気な視線を床に向けたままだった。
「ボクは……」
ツルカが何かを言いかけた時、廊下の方から「りょーいちー」という幼なじみの間延びした声が聞こえてきた。
名前を呼ばれ廊下に目を向けると、小走りでこちらに向かってくる結城の姿があった。
結城は水色の無地の患者衣を着ていたが、その軽快な動きや血色の良い笑顔のせいで全く病人には見えない。
あと、結城はこちらが病室に置いていたバッグに気づいてくれたらしく、その中に入っていた髪留めで乱れた髪をまとめており、ついでに入れておいた予備の眼鏡も掛けていた。
結城は談話スペースに到着すると、ランベルトさんやツルカのことを特に気にする様子もなく、普通に話しかけてくる。
「あれ? みんなどうしたんだ? ……こんな所に座ってないで私の個室に来ればいいのに。」
どうやら、着替えの最中に目が覚めたようだ。
医者からは今日中に起きると言われていたが、こうしてちゃんと意識が戻った結城を直に見て、諒一は安堵していた。
結城が来てからすぐに、ランベルトさんは結城に確認を取るように質問を投げかける。
「嬢ちゃん、病室から出て平気なのか?」
「平気平気、ちょっと骨にヒビが入っただけらしいし……。これだけで入院なんて大袈裟だなぁ。」
何事もなかったかのように気さくに話す結城に、ランベルトさんは若干動揺しているようだった。
「あ、案外元気そうじゃねぇか。」
しかし諒一は、その結城の態度が空元気から来るものだということに気がついていた。
そんなふうに気丈に振る舞う結城を見て、諒一は事の深刻さを改めて理解する。
(結城……)
そんな幼なじみの姿を見るだけで辛くなる……。
わざとらしく元気に振る舞う結城が目に映るたび、諒一の心は痛んでいた。
「今さら何言ってるんだランベルト、私はいつでも元気じゃないか。それに、あんなのでへこたれてたらランナーなんか続けられな……」
調子よく話していた結城だったが、急に一点を見つめたまま固まってしまう。
何事かと思い結城の視線を追うと、そこには談話スペース用の大きめのモニターがあり、その画面にはリアトリスの姿が映っていた。……どうやら今日の試合のダイジェスト映像を流しているらしい。
結城の目はそのモニターに……いや、モニターに映るリアトリスに釘付けになっていた。
「あ……う……。」
……早速、悪い予感が的中してしまったようだ。
結城は目を見開いたまま嗚咽を漏らしており、みるみるうちに顔も青ざめ、足もガクガクと震え始めていた。
(やはり無理をしていたんだな……)
そんなふうになった原因は明らかだった。
「……ボク、あれ消してくる!!」
すぐさまツルカはモニターのチャンネルを変えるべくソファから離れた。
諒一も慌てて結城のもとに駆け寄る。すると結城はすぐに諒一にしがみつき、そのままへたり込んでしまった。
呼吸も苦しそうだったので、諒一は結城と同じ位置まで腰を沈めて、結城の背中をやさしく撫でてやることにした。
その有様を見てられなかったのか、ランベルトは目を瞑って悔しげに呟く。
「医者が言ってた“精神的なダメージ”ってのはこういうことか。」
ランベルトの言葉に、諒一はすぐに応じる。
「はい、よほど恐怖を植え付けられたんだと思います。」
結城は相変わらず無言のままこちらに抱きついている。患者衣が薄いせいで結城の体を直に感じることができ、小さく震えているのがわかった。
これではまるで、肉食系の大型動物に怯える小動物のようである。
「くっ……地面に押さえつけられた時点でリタイア宣言しておけば……!!」
ランベルトさんは自らを責めるように、拳を自分の太ももに何度も叩きつける。
諒一は“ランベルトさんに責任はない”“七宮が危険行為を働いたことが悪い”と伝えたかったが、今はそんな事を言えるような雰囲気ではなかった。
……しばらく経っても結城はこちらにしがみついたまま震えている。
諒一がどうするべきかを考えていると、ツルカが談話スペースのモニターの電源を消して帰ってきた。
「ユウキ!!」
ツルカはソファを飛び越えて、そのまま結城のもとに移動してきた。そして、何も言わずにしゃがんで結城の背中にぴったりとくっつく。
「ユウキ……。」
結城は諒一とツルカに挟まれる形になり、ツルカの抱擁の邪魔になると思った諒一は、結城の背中を撫でるのを止めた。
「もう大丈夫だぞユウキ。あの黒いVFはもういないんだ……。」
「……。」
ツルカが何度か結城の耳元で囁いていると、不意に結城の震えが止まった。
しかし、それは恐怖を克服したサインではなく……
「あれ? ユウキが息できてないぞ!?」
……むしろ、症状が悪化していたことを示していた。
呼吸ができていない結城は、なぜ息ができないのか解らないようで不思議そうに首元に指を這わせていた。
そんな、口を小さく開けて首元を触っている結城を見て、ランベルトさんが大声を上げる。
「おい、リョーイチは嬢ちゃんをこのソファに寝かせろ!! ……俺は医者を呼んでくる!!」
「わ、わかりました。」
我に返った諒一は、ランベルトに言われるがまま結城を抱き上げ、ソファまで運ぶ。
「ユウキ……ユウキ!!」
その間ツルカは結城から離れることなく、何度も結城の名を呼んでいた。
――それから数分後、結城の病室の入り口には諒一たちの姿があった。
諒一は結城を体の前に抱えており、右腕は肩あたりを、左腕は膝の裏に通している状態だった。……つまりはお姫様抱っこである。
結城は病室に来るまでは大人しく抱っこされていたのだが、病室に入るとすぐにベッドを小さく指さしてこちらに呟いてきた。
「もう落ち着いたから大丈夫……。早く降ろしてくれ……。」
結城にそう言われ、諒一は病室の中を進んでいき、窓際にある大きめのベッドまで移動すると、ゆっくりと結城をその上に降ろした。
こちらの手を離れた結城は一旦はベッドの上で横になったが、病室に人がいるせいで落ち着かないのか、すぐに起き上がってベッドから足を投げ出す形で座った。
諒一もベッドのすぐ脇にある丸椅子に座り、結城の横顔を観察する。
(今は落ち着いてるみたいだな……。)
……結城が息ができなくなってからすぐに年配の女医さんが駆けつけてくれたのだが、その頃には既に症状は収まっていた。
しかし、治まったとはいえ放っておくこともできず、結城の状態を落ち着いた場所で診るために、諒一が結城を抱き上げて病室まで運んできたというわけだ。
ランベルトさんに連れてこられた年配の女医さんも病室までついてきてくれており、今は病室の入り口付近で待機している。
当然ながらランベルトさんやツルカも病室にいて、誰もが心配の目を結城に向けていた。
結城はそれに応えるようにゆっくりと諦めたような口調で語りだす。
「さっきの見ただろ……もう私は駄目だと思う。……ですよね?」
結城はそう言って年配の女医さんに視線を送った。
年配の女医さんはそれを受けて小さく頷き、肯定する。
「……確かに、このままの状態でVFBのような激しいスポーツに出場するのは難しいですね。ですが、治療を続ければ……」
簡単に諦めないようにするため年配の女医さんは何かを言おうとしたが、結城がその言葉を遮ってとんでもない宣言をする。
「……私、引退する。」
いきなりそんなことを言われ、病室にいる全員が呆気に取られた。
そして、有無をいわさず結城はランベルトに別れの挨拶じみたお礼を言い始める。
「いままでありがとう、ランベルト。2回も1STリーグで戦えたんだし、もうVFBに未練はない……。」
「嬢ちゃん、あのなぁ……」
ランベルトさんは何か反論しようとしたらしいが、すぐに諦めたようで、残念そうな表情をして言葉を続ける。
「そうか、嬢ちゃんが辞めたいんなら……俺が引き止める理由もねーな……。」
結城は淡々と話す。
「これからもアール・ブラン応援するから。……あと、ランナーに選んでくれてありがと。夢みたいだった。」
「ああ、こっちこそいい夢見させてもらったよ。」
アカネスミレも結城も失えば、アール・ブランはすぐに2NDリーグ落ちるという意味で言ったのだろうか。
ランベルトはその場の空気に耐え切れなくなったらしく「じゃあな」と短く言うと、すぐに病室から出て行ってしまった。
それを受けて、ツルカはベッドまで詰め寄り、強い口調で結城を引きとめようとする。
「なあユウキ、さっきの本気なのか? こんなにもあっさり引退を決めるなんて……もっとよく考えたらどうだ……?」
結城はしばらく黙ったまま、ツルカを見ていた。
何も返事をしない結城に対し、痺れを切らしたツルカはさらに結城に詰め寄ってみせる。
「ユウキ、なんとか言ったらどうなんだ……え?」
至近距離で話すツルカに、いきなり結城は抱きついた。
ツルカは結城のその行為に戸惑っているようだったが、何かに気がついたのかその表情はすぐに深刻なものへと変化していった。
「……わかるだろツルカ。まだ怖くて震えてるんだ。こんなので満足に戦えると思うか?」
ツルカは落ち着いた様子その言葉に耳を傾けている。
「ユウキ……。」
抱きつかれて黙ったのは、結城の震えが伝わったからなのだろう。
傍目から見ていても分からないが、結城と密着しているツルカにはそれが痛いほど伝わっているに違いない。
しかし、ツルカは結城の考えに納得できないのか、それを拒否するかのように激しく首を左右に振った。
ツルカはそのまま体も捻り、結城から離れる。
「認めないぞ……ボクは絶対に認めないからな!!」
そう言い捨て、ツルカは病室から出ていった。
すぐに廊下で何かと何かがぶつかる音が聞こえてきたが、気にすることなく年配の女医はこちらに小声で話しかけてくる。
「やはり、精神的に不安定な状態にあるようですね。」
諒一もすぐ近くに座っている結城に聞こえないような小声で返事をする。
「やはり、治療が必要なのでしょうか……。」
基本的に、PTSDの治療には時間がかかる気がする。個人差はあるだろうが、一月や二月では治らないだろう。
年配の女医さんは、それに関しては飽くまで冷静に構えているようだった。
「改めて検査をしてみないことには、治療が必要かどうかまでは断定はできませんが、多分……」
そこまで言った所で年配の女医さんは言葉を濁らせる。
何事かと思い結城を見ると、いつの間にか結城の注意は外に出ていったツルカからこちらへとシフトしており、興味ありげにこちらに顔を向けていた。
女医さんの言葉を最後まで聞くことが出来なかったが、少なからず、結城が心を患っていることは間違いないようだった。
ひそひそと会話していたのもここまでで、年配の女医さんは結城にも聞こえるレベルの声で喋り出す。
「……怪我の方はそこまで深刻ではありませんし、今夜はここではなく彼の部屋で一緒にいるほうがいいかもしれませんね。」
こちらと一緒にいれば、精神的に安定すると思っての提案なのだろう。
そうしたいのも山々だが、なるべく結城を男子学生寮に泊まらせたくない諒一は、年配の女医さんに別の方法を聞いてみる。
「あの、この病室に泊まることはできないんですか……?」
面会時間は決まっているので通常は無理だが、頼み込めばなんとかなるかもしれない。
……しかし、現実はそこまで甘くはなかった。
「残念ながら無理です。……一度特例を認めると後で色々と問題が起こりますから……」
年配の女医さんにそう言われ、諒一は頭を抱える。
しばらく別の方法を思索していると、不意に結城が声をかけてきた。
「諒一、私は一人でも平気だから……。」
気を使っているつもりが、逆に結城に気を使わせてしまったらしい。
諒一は今一度、目を閉じて考えてみる。
「……。」
結城もこう言っていることだし、リアトリスやVFBを連想させるものがなければ大丈夫だろう。……そう判断し、諒一は結城を信じることにした。
そうと決まれば話は早い。
(病院とはいえ、泊まるとなれば色々必要だろうな……)
諒一は着替えや洗顔道具など、何か補充するものはないかを確認するために、バッグの中身を調べるべく、一度ベッドから離れようとした。
(……?)
しかし、隣にいる結城はいつの間にかこちらの服を掴んでおり、まったく手を放そうとしないため移動することができなかった。
そして、諒一の服を掴む結城の手は若干震えていた。
結城は自分でもなぜ服を掴んでいるのかが理解出来ないらしく、自らの手を見ながら苦笑いしていた。
「あれ? おかしいな……はは……。」
一人で大丈夫だと言っておきながら、やはり本心では不安を感じているのだろうか……。
無意識的にこちらの服を掴むほど、結城は孤独になりたくないらしい。
それを目の当たりにし、諒一は先程の決定を撤回することにした。
「……結城、やっぱり一緒に寮に帰ろう。」
こちらを掴む結城の手を握り返すと、結城は力なく頷く。
「うん。やっぱりそうする。……ごめんな、諒一。」
やはり、ここまで弱っている結城を一人にはできない。
つい数十秒前に結城をここに置いていくつもりだった自分を諭してやりたい気分だ。
話を聞いていたのか、それともこうなることを予見していたのか、年配の女医さんは素早い対応を見せる。
「それでは、もう少しすれば病院の送迎スタッフが迎えに来ますから、彼らに家まで送ってもらうといいでしょう。」
「ありがとうございます。」
反射的にお礼を言うと、女医さんは「お大事に」と言ってにっこり笑い、そそくさと病室から出ていった。
病室のドアが閉まると、諒一は結城と二人きりになる。
諒一は早速退院の準備をしようとしたが、相変わらず制服から結城の手が離れない。
無理矢理外すのも可哀想だと思い、諒一は結城に制服を掴まれた状態で帰る支度を進めることにした。
(帰りは送ってもらえるから安全だとして……問題は学生寮か……。)
……諒一はテキパキと動きながらも、男子学生寮の門をどう切り抜けるかを考える。
(さすがにこの状態では、裏から2階まで登れないだろうし……)
かと言って、女子学生を連れて正面を通るというのはかなりのギャンブルだ。
寮長にバレればまずいことになるが、今はそんな事よりも結城の体の方が何倍も大切だと思い直す。
それに、今回のようなケースならば、結城が部屋に泊まる正当性を病院側から説明してくれるかもしれないし、後でなんとでも言い訳はできるはずだ。
そうと決まれば日が暮れないうちに寮に戻ったほうがいい。
「よし、結城も帰る準備をしてくれ。」
そう言って諒一はバッグから予備の制服を取り出し、結城に渡す。
その時に結城は両手でそれを受け取り、ようやくこちらの制服から結城の手が離れた。
最初からこの手を使えばよかったと後悔しつつ、諒一は尚も荷物をまとめていく。
「ここで着替えるのか……?」
結城は予備の制服を胸の前で抱きしめながら、こちらをじっと見ていた。
諒一はその視線を受けて、結城が鎖骨を骨折していたこと思い出す。……多分、骨が痛んで上手く着替えられる自信がないのだろう。
手伝ってやりたいが、時間的にそんな余裕はない。
「着替えるのがつらいなら上に羽織るだけでいい……。とにかく急ごう。」
「……。」
結城が恥ずかしげに諒一を見つめていたのは別の理由からだったのだが、諒一がそれに気づくことはなかった。
――その後すぐに送迎スタッフが病室に現れ、2人は車とフェリーを使って寮まで帰ることとなった。
8
翌日の早朝。
諒一は自分のベッドに違和感を覚え、目を覚ました。
いつもであれば目を覚ますと同時に天井が見えるはずなのだが、今日は横向きになって寝ていたせいか、白い壁紙が視界を覆っている。
そして、なぜかベッドの端ぎりぎりの場所で寝ていた。あと一歩で壁とベッドの隙間に落ちるところだ。
それを不可解に思いつつ、諒一は仰向けになるべく壁から離れるように体を四半回転させる。
……すると、左腕に何かが当たった。
位置的にはベッドの中央付近だろう。諒一はコレのせいで自分はベッドの隅に追いやられたのだと瞬時に理解した。そして、その正体を確かめるべく、首だけをもう90度ひねる。
そこには不自然な形に盛り上がっているシーツがあった。
「……?」
諒一が迷うことなくシーツをめくると、中から身を縮めて眠っている結城が姿を現した。
……どうやら、こちらが眠っている間に潜り込んできたらしい。
諒一の寝床に侵入した結城は腕と膝がくっつくほどコンパクトに丸まっており、その頬には涙の跡がうっすらと浮かび上がっていた。
「……。」
諒一はその顔を眺めながら昨夜のことを思い返していた。
――昨夜、学生寮の正面玄関で運悪く寮長に捕まったのだが、すぐに送迎スタッフが状況を説明してくれたお陰で、難なく結城をこちらの部屋に入れることが出来た。
無駄なことをしないで正当な理由で男子学生寮の門を突破できたは良かったものの、そのせいで寮中にこのことが知れ渡ってしまった。
やはり、学生たちも結城の様子が気になるのか、昨晩などはずっと部屋の外に学生の気配を感じていた。しかし、就寝時間になると寮長が追い払ってくれたようで、落ち着いて過ごすことができた。
こういう時には寮長の存在を有りがたく思える。
前にジクスが言っていた『寮長に従うものは寮長に救われる』という言葉もあながち的外れではないかもしれない。
諒一がシーツをめくったせいで結城は光に晒され、それが眩しかったのか、結城は目を閉じたまま寝返りを打つ。そして結城は枕に顔面の7割ほどを埋めると再び寝息を立て始めた。
寝ている間に枕を奪われた諒一は、その犯人である幼なじみの頭を撫でつつ至近距離からよく観察する。
(……寝ていると可愛いものだ。)
別に、起きている時は可愛くないというわけではない。
ただ、起きている時も今のように穏やかでいて欲しいと思っているだけだ。
しかしそんな穏やかな寝顔も、時折、眉をひそめた苦しげな表情に変化していた。……それ自体は5秒ほどで消えるのだが、その頻度は通常では考えられないほど多かった。
――やはり、試合のときに想像を絶する恐怖を感じていたのだろう。
一応、病院からは軽めの薬を処方してもらっているが、専門の治療やカウンセリングが必要になるかもしれない。
……逆に、結城だからこそこの程度の症状で済んでいると考えることもできる。
(引退すると口走っていたし、どうにかして治療しないといけないな。)
正直、結城にはランナーを続けていて欲しい。
VFランナーとして活躍した一年間、結城はとても輝いていた。活気に満ちた結城を見るのはとても嬉しいし、結城自身も充実していたはずだ。
しかし、『コックピット内は安全である』という概念を砕かれてしまった結城にとって、ランナーを続けることは命を懸け続けるのと同義だ。
さすがに、命を懸けてまでVFBを続け欲しいなどとは言えない……難しいところだ。
「……。」
こう見ていると、結城のことが愛しく思える。
……結城は多分、自分のことを好いているだろう。
実のところ、自分も結城のことは好きだ。
しかし、自分の結城に対する『好き』は、家族愛に等しいものであり、決して恋愛には成り得ない。
結城はどうなのだろう……。
隣で寝息を立てている幼馴染を見ながら考える。
男の寝床に潜り込んできて、安心したように眠っているのだから、結城もこちらのことを家族として好いているのだろう。
例えそうでなくても、諒一はそう考えたかった。
(……でなければ、色々と無用心すぎる。)
今だってそうだ。……例え好きだからといっても、こうも簡単に男のベッドに潜り込むのは女として危機感が足りない気がする。
そんなことを考えながら見つめていると、結城の目がゆっくりと開き始めた。
結城は、寝ぼけ眼で呆けた表情をしていたが、すぐにそれは苦痛の表情へ変化した。
「イタタ……」
どうやら鎖骨が痛むらしい。
先ほど、苦しげな表情を浮かべていたのも、ただ鎖骨が痛かっただけなのかもしれない。……そう思うと肩の荷がひとつ降りたような気がしていた。
結城は楽な姿勢になろうと試行錯誤していたが、全く上手くいっていなかったため、諒一はそれを手伝うことにした。
「無理するな……ほら、力を抜いて。」
「うん……。」
諒一は素早くベッドの上で立ち上がり、結城をまたいでベッドから降りた。そしてベッドの脇で膝立ちになり、結城の両肩を優しく持ち上げて時間をかけてゆっくりと仰向けにさせる。
結城の肩にはたすきがけのような固定ベルトが装着されており、それがきちんと機能し始めると、結城の表情は和らいでいった。
「ありがと……。あ……。」
仰向けになった結城は、いきなり顔を真赤にして、それを隠すように胸元にあったシーツを持ち上げた。
意外に元気そうな結城見て諒一はベッドから離れる。
「朝食の準備をしてくる。……それまでゆっくり寝てるといい。……あと、起き上がりづらいようなら呼んでくれ。」
「……。」
結城から返事はなかったが、シーツの下で頭が縦方向に動いたのを確認すると、諒一はすぐに部屋を後にした。
「ごちそうさま。」
朝食を終え、結城はダイニングのテーブルで膨らんだお腹を撫でていた。
今頃、私の胃は喜び勇んで食べ物を消化しており、腸はそれを首を長くして……ではなく、絨毛を激しく収縮運動させて心待ちにしていることだろう。
やはり、こんな状態にあっても美味しい料理はいくらでも喉を通る。病院で淡白なものを食べるよりもずっと健康に良いはずだ。
諒一は「おそまつさま」とこちらに言葉を返すと食器をまとめ、それをキッチンへと運んでいく。
テキパキと働く諒一を眺めつつ、結城は昨夜見た夢を思い返していた。
内容は詳しくは覚えていないが、巨大で真っ黒な人影に私が為す術もなく襲われるという、恐ろしい夢だったということだけはぼんやりと頭に残っている。
夜中に見たあれがフラッシュバックというものなのだろうか……。あの時はそれが現実なのか幻覚なのか区別がつかず、かなり混乱してしまった。
その結果、恐怖のあまり諒一のベッドに潜り込んでしまったというわけだ。
意外と大胆な行動をとってしまったことを後悔していたが、今朝の諒一の反応からするにあまり気にしていないようだ。これではただの夜這いである……いや、逆夜這いか。
……とにかく、もっと別な反応をしてもいいのではないかと理不尽に思う結城であった。
そんな風に思いながら諒一を目で追っていると、その諒一が手に白い紙袋を持って隣の椅子に座ってきた。
「結城、薬の時間だ。」
短くそう言うと、諒一は私の目の前で袋から薬を取り出していく。
紙袋の中には小分けにされた錠剤が入っており、諒一が手を突っ込むたびにジャラジャラと音を立てていた。
結城は昨晩も夕食後に錠剤を飲んだのだが……なにぶん種類が多すぎる。
しかも、幼少からほとんど薬など飲んだことがないため、こういった類の錠剤に慣れておらず、結城にとって錠剤を飲むのは苦痛であった。
だが、泣き言を言っても始まらない。
結城は手のひらにに錠剤を一粒だけ載せ、それを押しこむようにして口内に入れた。
すぐさま諒一が準備していた水の入ったコップを片手で受け取り、口元にあてがう。
……と、いつもの癖で錠剤を噛み砕いてしまった。
その瞬間、苦味が口の中に広がり、ケミカルチックな匂いが鼻まで届いてくる。
「う、にが……」
小さいアメなどは容赦なくバリバリと噛んでしまう私にとって、この小さい錠剤というものは相性が悪い。かといって、ビー玉のように大きくても飲み込みにくいし……。
色々と悩みつつ、取り敢えず結城は砕かれた錠剤を水で流し込み、一粒目は事なきを得た。
飲み込んでも苦さが解消されることはなく、結城はコップの水をすべて飲み干してしまった。
「もう一杯必要か?」
諒一に訊かれ、結城は返事の代わりに空のコップを手渡す。
すると諒一は卓上にあったボトルのキャップを開け、ミネラルウォーターをコップに注ぎ始めた。
全部の薬を飲むのに何リットル必要になるのだろうかを計算しつつ、結城はぼやく。
「……やっぱり苦いな。というか変な味がする……。」
口の端を広げて舌を出し、オーバーリアクションしていると、すぐに諒一がこちらのセリフに突っ込みをいれてくる。
「だから、噛んだら駄目だと言ってるだろう。噛まずに飲み込むんだ。」
「だって飲むの苦手なんだもん。」
「仕方がないな……。」
諒一は水を注いだコップを一旦テーブルに置き、キッチンへと消えていった。
そしてすぐに黄色い物体を手に持って帰ってきた。
「じゃあ次はこれを使うか……」
結城は久しぶりに見るそのフルーツの名前を口に出して言う。
「あ、バナナ……しかもデカい……。」
バナナをどう使うのか疑問に思っていたが、次の諒一の行動を目の当たりにして結城は驚愕してしまう。
……なんと、諒一は何を思ったか、いきなり錠剤をバナナに埋め込み始めたのだ。
(な、なにやってるんだ……?)
バナナに錠剤を飲ませても仕方ないぞ……と言いたい結城だったが、すぐに諒一の作戦を理解し、「なるほど」という言葉を自然と口から漏らしてしまう。
「……ほら、普通のバナナだと思って一気に呑み込むんだ。」
苦いのが駄目ならバナナの甘さでコーティングしてしまおうという作戦らしい。これならば錠剤の硬い感触も気にならないに違いない。
結城は嬉々として諒一から渡された錠剤入りバナナにかぶりつく。
「んー……ぐ」
あまり噛まずに飲み込もうと努力したのだが、やっぱり噛まないと気が済まない。
「……。」
ちょっとくらい噛んでも大丈夫だろうとタカをくくっていると、早速、ひと噛み目から錠剤に歯が当たってしまった。
同時にガリッという錠剤が砕ける音がダイニングに響き、諒一は呆れたように呟く。
「だから噛むな。噛んだら成分が溶け出して苦くなるのは当たり前だ。」
結局、その錠剤もバナナごと水で流し込む羽目になった。
……2つ目の錠剤を飲んだ時点で結城はかなり疲れていた。
朝食も腹八分目に抑えておけばよかったかもしれない、と後悔しつつ結城は深いため息をつく。
「はぁ……なぜか上手く飲み込めないんだよなぁ……。」
「子供じゃないんだから、これくらい普通に飲み込めるようになれ。」
「ごめん。」
情けなくなってしょんぼりと謝ると、諒一がとうとう最終手段を行使すべく立ち上がった。
「仕方ない、口を開けて……舌も出すんだ。」
最終手段とは、つまりは強制嚥下である。
方法はともかく、昨日はこれで飲み込めたのだから今日も多分いけるだろう。
「あー」
これ以上の苦さを感じたくなかった結城は、諒一の指示通りに口を大きく開ける。
「じゃあ一気に入れるぞ。」
その言葉が終わるやいなや、一気に残りの数粒の錠剤が口の中に放り込まれた。
「んー!!!」
続いてコップから水を飲まされ、有無をいわさず口元を手で覆われてしまう。
「んー……」
さらに顎を下に引っ張られ、強制的に限界まで俯かされる。
「んぐっ……。」
結城は涙目になりながらも口の中にあるものをまとめて一口で飲み干した。
「どうだ、全部のめたか。」
「……うん。」
食道を錠剤の群れが通過していくのを感じつつ、結城は口直しのつもりでバナナを頬張る。
その際、なぜか結城は勝ち誇った顔をしていた。……錠剤を飲むだけで得られる達成感など微々たるものかと思うかもしれないが、結城にとってはそうではないらしい。
しかし、改めて薬の袋見て、結城の顔から笑顔が消えた。
「まだ朝なのにこんなにたくさん……ホントにこれで治るのか? 逆に悪化しそうなんだけど。」
諒一は、残ったバナナとミネラルウォーターの入ったボトルを片付けながら、こちらの言葉に答える。
「“良薬口に苦し”と言うだろう。……昼は少ないが、夜はまたこれと同じ量だけ飲んでもらう。」
「嫌だなぁ……。」
薬をこの袋ごとどこかに隠してしまおうかと考えていると、急に玄関のドアが開く音がした。
そして、廊下をバタバタと走る音も聞こえたかと思うと、ダイニングにピアスだらけの学生が出現した。
諒一はその学生の名前を呼んで、相変わらすの無表情で尋ねる。
「ニコライ、朝から何の用だ?」
ニコライは体に付いている装飾品類をジャラジャラと鳴らせながら身振り手振りをし、諒一に訴え始める。
「リョ……リョーイチこそ朝からユウキにナニを飲ませてるんだ!?」
(……?)
何を言っているのかと不思議に思ったが、よくよくニコライのセリフを吟味し、結城はつい先程までの諒一とのやり取りを思い返す。
(……あっ!!)
どこかで盗み聞きでもしていたのだろうか……確かに、声だけ聞けばニコライが慌てるのも当然な気がしないでもない。
だが、それに全く気が付かない諒一は普通に受け答える。
「ナニをって……薬だ。」
「なっ……クスリも使うのか!?」
ニコライは面食らったようにその場でたじろぎ、「さ、さすがだな……」となどと言いながら動揺してた。
諒一はニコライの反応を無視して、逆に質問を返す。
「それで、そっちこそ朝からなんの用だ。」
「あ、そうだった……。」
諒一に質問されて思い出したのか、ニコライはこちらを見ながら焦ったように話す。
「とりあえず早くユウキを隠せ……寮長がこの部屋に向かってるらしいぞ。」
(……寮長?)
今回は病院側から正当な理由を貰っているし、寮長が来ても何も問題ないと思うのだが、ニコライの慌てようからすると尋常ではないらしい。
とにかく隠れておこうと思い、席を立った結城だったが、既に遅かった。
「おい、旗谷諒一はいるか。」
玄関の外から聞こえてきたのはゴツイ声だった。
こちらの寮長も、女子学生寮と同じような年老いた女性だと思っていた結城はその声に驚き、目を見開いて玄関とダイニングをつなぐ廊下のドアに目を向けた。
ニコライはと言うと、声が聞こえた途端に窓に向けてダッシュしており、寮長とやらが部屋に上がってくる頃には既に室外に逃走していた。
「……やはり、高野結城もここにいたか。」
寮長はダイニングにまで入ってこようとしたが諒一がそれを押し返し、2人は廊下で話し始めた。
結城は椅子から離れ、ダイニングのテーブルの影に隠れつつその会話を聞く。
「……病院から学校側に連絡は行っているはずで……」
「ああ、きちんと許可を取ってあるのも確認した。……が今話しているのはこれ以前の話だ。この休暇中、毎日同じ部屋で過ごしていたらしいな。」
「……確かにそうですけれど」
もう言い訳できるレベルでは無いようで、諒一は素直にそれを認めていた。
「旗谷諒一。……再三の警告を無視し、規則を破って高野結城と同居し続けていたことを認めるな?」
間を置いて諒一は「はい」と答えた。
諒一が寮長の言ったことを認めると、すぐに寮長は処分を言い渡した。
「よし、2名とも謹慎処分だ。……いや、停学処分か。」
寮長は淡々と処分の内容を口頭で説明し始める。
「本来なら懲戒処分が妥当だが、高野結城が旗谷しか頼る相手がいなかったのは事実のようだ。それに、モラルに反するような行為はなかったようだし……処分も2週間と軽めに設定した。」
一息おいて寮長は続ける。
「休暇中は大半が寮を出ていたから良かったものの、学期が始まれば話は違う。このまま女子学生が――しかもVFランナーという有名人が寮に居続けると風紀が乱れるのは明らかだ。」
結城はそれを痛いほど感じていたため、何も反論できそうになかった。
「……このまま同居するつもりなら停学中に寮を出ろ。寮外であれば同棲も問題ないからな。」
「分かりました。」
諒一がそう答えると、それで話は済んだらしく、寮長の「よろしい」という声が聞こえたかと思うとすぐにドアの開閉する音がし、寮長は部屋から出ていったようだった。
結城も寮を出たい気持ちはあった。あれだけ学生にしつこく付きまとわれては落ち着いて生活できないし、ストレスも溜まる。なにより、あそこには逃げ場がない。
(でも、別にその必要もないか……)
だがそれも、私がランナーをやめれば全て解決することだ……。
数カ月前までと同じように、週に一度くらいのペースで諒一が女子学生寮に来てくれればそれで満足だし、問題もないはずだ。
……それはともかく、自分のせいで諒一が『停学処分』という罰を受けるかと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
寮長と話を終えた諒一は、珍しく神妙な面持ちをしてダイニングに戻ってきた。
そして、諒一は開口一番に予想もしなかったことを宣言する。
「いい機会だし……、一度日本へ帰ろう。」
「……。」
いきなり帰国しようと誘われ、結城は口をパクパクさせて何も言葉を返せないでいた。
驚いているこちらを気にすることなく、諒一はそのわけを適当に述べ始める。
「病院に世話になるような怪我もしている。……報告するにしてもただ電話で知らせるだけじゃ不十分だろう。」
結城は、なぜ諒一がこのタイミングでこんなことを言うのかが理解できなかった。
「ただの軽症なんだし、別に帰らなくても……それに、実家に帰った所で何もやることなんか……。」
そう言いかけて、この海上都市でもやることがないということに気付かされる。
(何もやることが……ない?)
VFランナーも辞めると宣言したし、学校が始まっても今の精神状態ではVF演習に参加できるかどうかも怪しい。
もしかして、諒一はこのまま私を日本へ送り返すつもりなのではないだろうか……。
(……そうなってもいいか……。仕方ないもんな……。)
下を向いてそんな事を考えていると、再び諒一が声をかけてきた。
「帰るぞ……いいな?」
「……う、うん。」
有無を言わさないその言葉に、結城は同意するしかなかった。
ここまで読んで下さりありがとうございます。
この話ではダグラスの社長である『ガレス・ダグラス』、そしてダグラスのランナーである『セルトレイ』が新たに登場しました。
そして、結城は七宮が新たに用意した『リアトリス』にボコボコにされてしまいました。このまま結城はランナーを辞めてしまうのでしょうか……。心配です。
次の話では結城たちを追ってツルカが一人で日本へ向かいます。
今後ともよろしくお願いいたします。