【黒の虚像】序章
続きを読んで下さりありがとうございます。
第5編【黒の虚像】です。
-ここまでのあらすじ-
ふとしたきっかけで2NDリーグに出場することになった結城は、チームメンバーを含む、様々な人の手を借りて、見事に優勝することができた。
さらに、苦戦はしたものの、2NDリーグの上位リーグである1STリーグへの出場権も手にすることができた。
しかし、喜ばしいことばかりではなく、悲しい事件も起こる。
それは、結城が心から信用していたメンバーである鹿住の裏切りであったり、長年ゲーム内で付き合っていた親友が、実は七宮によって演じられていた仮想の女性であったりと、……どれも結城の心に大きな傷を残すようなものだった。
序章
1
VFBフェスティバルが終了してから2ヶ月が過ぎた。
結城の通うダグラス企業学校は学期末を迎えており、長期休暇まで一週間を切っていた。
学期末はゆっくりと過ごす印象があったのだが、この学校ではカリキュラムの設定に無理があったようで、生徒よりも教師や講師の方が慌ただしくしていた。
特に、ランナー育成コースはVF演習のせいで、必然的に変則的な時間割になってしまうので、スケジュール調整に苦労したに違いない。
学校ではそこそこ忙しかったが、VFBについては、この2ヶ月、特に何もなかった。
ランナーとしてイベントに出たりすることもなく、ただ、学校と寮とを往復するという緩慢な日々を送っていたのだ。
「ユウキ、……タカノユウキ。」
「……ん?」
誰かに名前を呼ばれ、結城は机に突っ伏したまま目を開ける。
今は企業学校の教室にいるのだが、まだ休憩時間のはずである。
ただでさえ座学は得意ではないのだ。……次の授業が始まるまでゆっくりと休ませて欲しい。
(応えるのも面倒だし……無視して寝るか……。)
結城は再び目を閉じて眠ろうとしたが、次のセリフによって完璧に目をさますこととなる。
「起きなさい。もう授業は始まっているのですよ。」
「!?」
それは一般教養の授業を受け持っている女性講師の声だった。
結城が慌てて顔を上げると、周囲の学生は全員が机に着席しており、机上には学習用端末が載っていた。
それに対し、結城の机には何もない。
(やばい……準備しないと。)
結城は急いで端末を取り出し、授業を受ける準備をする。
その途中、女性講師はこちらに向けてため息混じりの注意を放つ。
「これで何度目ですか……VFランナーが大変なのは理解しているつもりですが……いい加減、授業に集中してください。」
「すみません……。」
結城は今までに何度も同じ事を注意されており、今回も同じように謝った。
こちらが謝罪するとすぐに授業は再開され、こちらを見ていた学生たちも再び教室の前方に視線を戻した。
(またやっちゃったな……。)
反省しつつ端末をいじっていると、近くからツルカの声が聞こえてきた。
「本当に大丈夫なのか? ユウキ。……ここ最近ちょっと変だぞ。」
ツルカの席は結城の隣にあるので、小声で会話することができる。
このくらいのボリュームなら講師にばれないだろうと思い、結城はチラチラと講師の様子を伺いつつ、ツルカに返事をする。
「そんなに……変か?」
こちらの言葉に対し、ツルカは口調を強めて話す。
「そうだ。事あるごとにため息はつくし、授業中も演習中もぼーっとしてるし……。ボクで良ければ相談にのるぞ。」
「いや、大丈夫だ。」
確かに、ため息を付いたり居眠りもしたりするが、それは以前にもあったことだ。今更心配されるようなことではない。
しかし、ツルカはそうとは思っていないようだった。
ツルカは更に口調を強めて訴える。
「大丈夫じゃないから言ってるんだ。……やっぱりカズミのことで……」
ツルカの口から鹿住の名が出てすぐに、結城は反射的に反応していた。
「鹿住さんは関係ない!!」
その声が少し大きかったのか、前の席に座っている男子学生の端末を操作する腕の動きが一瞬だけ止まった。
すぐに動きは再開されたものの、その学生が聞き耳を立てているのではないかと警戒した結城は、更に小さな声でツルカに話すべく、ツルカに顔を近づける。
「ごめん……色々あって疲れてるだけだ。オフシーズン中には治ると思う。」
こちらが机から少し身を乗り出して喋ると、ツルカはこれ以上はもう言わないことにしたのか、視線を逸らして端末に目を落とした。
「そうか、無理に元気出せとは言わないけど……困ったことがあったら何でも言うんだぞ。」
「うん。ありがと、ツルカ。」
「はぁ……その返事からして生気がないもんなぁ……。」
やはり、こちらに元気が無いのが不満らしい。
結城自身も、昔のように脳天気にしていたいのだが、あんな事があったのに、元通りにするというのは難しい相談だった。
(こんなに悩んでるの、私だけなんだろうな……。)
2ヶ月も経っているし、私以外のメンバーは全員気持ちを切り替えていることだろう。
それもそのはずだ。いつまでもグダグダしていたら1STリーグで戦えないとわかっているからだ。
結城も早く気持ちを切り替えたい願望はあったが、情けのないことに、2ヶ月経った今でも鹿住のことやセブンのことを引きずっている状態だった。
事件が起こってすぐ後は、こんなことは自然に忘れて、勝手に前へ進んでいくものだと思っていた。……が、それができないほど、私にとってあの事件は大きなショックだったらしい。
(どうにかしないといけないよな……。)
このままシーズンが始まるのはとてもまずい。
今の自分には『闘志』と言うか『やる気』と言うか……そういったポジティブな感情がほとんど存在していない。
こんなままで勝てるほど、1STリーグはぬるくないはずだ。
……眠気は吹き飛んだものの、逆に授業に集中できない状態になっていた。
「――で、あるからして、現在使用されているVFのフレーム基礎技術は……」
耳から入ってくる講師の声を聞きつつ結城は自分のことについて考えていた。
……授業が全て終わると、結城はすぐに帰宅の準備を始める。
端末を片付けている間、結城には周囲の学生の様々な雑談が聞こえていた。
そのほとんどが長期休暇に何をするか、どこに旅行に行くかなどの話だった。
(やっぱりツルカも旅行にいくんだろうか……)
いつも忘れそうになるが、ツルカはキルヒアイゼンのお嬢様であり、世間で言う上流階級に属している。
旅行もさぞ豪華なものになるであろう。
どのあたりに行くのだろうかと勝手に予想していると、ツルカがこちらに話しかけてきた。
「今日もなのか?」
「うん、夜には帰るから。」
……“今日も”とは、今日も諒一の部屋に行くということである。
ここ2ヶ月間、結城はほぼ毎日、休日も含めて諒一の部屋を訪れている。
今では自分の部屋にいる時間のほうが短いくらいだ。
ツルカも諒一の部屋に遊びに来ていたのだが、それは5,6回だけで、今は全く来ようともしない。
「じゃあ暇だし、ボクはアカネスミレの様子を見にラボに行ってみる。……ユウキも気が向いたらラボに来るんだぞ。」
そう言うと、ツルカは先に教室から出ていってしまった。
特に焦る事も無いので、結城はゆっくりと帰宅の準備をすすめることにした。
2
女子学生が何の許可もなく男子学生寮に入る事はできない。
しかし結城は、“変装”と“別ルートからの侵入”によってそれを可能にしていた。
変装では、大きめの帽子をかぶり、そしてエンジニアリングコースの学生に支給されているジャケットを上に着る。
特にジャケットはそれを着るだけで体の体積を増やしてくれるので、これだけで十分ごまかせるのだ。
さらに男子学生寮に入ってからは、屋内を通らず、外から諒一の部屋に入るルートを選んでいる。
諒一の部屋は2階にあるため、窓側から侵入することは簡単だ。
……しかし、最初からこの方法を取っていたわけではない。
初めは正式な手順を踏んで、許可を得てから諒一の部屋を訪れていたのだ。
だが、その手続きがいちいち面倒になったため、こういう手段を選んでいるというわけだ。
……学校側にバレれば諒一も処罰は免れないが、今のところそのようなことはなさそうだ。
「ただいまー。」
先程の手順どおり、首尾よく諒一の部屋に侵入すると、結城は変装用の帽子を脱ぐ。
すると、帽子の内側からブラウンの髪がするりと溢れでてきた。
帽子に引っ張られるようにして髪は揺れ、同時にその髪が結城の頬を擦る。
そのくすぐったさに結城は思わず声を漏らしてしまいそうになったが、すぐに髪を掻き上げて何とかそれを抑えた。
「ふぅ……」
その帽子内に収まっていた髪を手で整えながら、結城は部屋の中を見渡す。
「……諒一はまだ帰ってないのか……。」
例によって、諒一は実習で忙しいようだ。今頃どこかの実習施設で汗水流していることだろう。
学期末だし、ランナー育成コースとは違って、余計に忙しいのかもしれない。
(ま、帰るまで自由にさせてもらいますか。)
結城は侵入経路であるベランダ側の窓を閉めると、そのままリビングにある座椅子に座って足を伸ばした。
近くにある足の短いテーブルにはテレビ用のリモコンが置いてあり、結城は何気なくそれを手にした。
(……テレビでも見ようかな。)
今までは部屋に置いているVFグッズや、VFのデータブックなどを見て時間を潰していたのだが、体を動かすのが面倒だったので、今日はそれで我慢することにした。
諒一の部屋でTVをみるのは初めてかもしれない。
(普段、どんな番組見てるんだろうか……)
色々と期待しつつリモコンでテレビを起動させる。
すると、まず最初にVF専門チャンネルが映し出された。
(ま、こんな事だろうと思ってたんだけどね……。)
もしかして、諒一からVFを奪うと死んでしまうのではないだろうか……。
これだけVF漬けだと逆に不安になってくる。
諒一の事を心配していると、テレビの画面にある人物が写っていることに気がついた。
それは、ダークガルムの新人ランナーとして復帰した、七宮の姿だった。
「七宮……。」
復帰を宣言してから2ヶ月経つが、未だに注目を浴びているらしい。
七宮はどこかのスタジオでインタビューを受けているようで、にこやかな表情で受け答えをしていた。
「……。」
今までの結城ならばすぐにテレビを消しただろう。
だが結城は、ツルカに心配されたこともあり、なんとかトラウマを克服せねばならないと決心し、テレビの向こうにいる七宮に目を向けることにした。
画面の中の七宮は男性リポーターの質問に耳を傾けていた。
「それで……なんでまたVFBに戻ろうと思ったんです?」
……よく見ると、そのリポーターは2NDリーグで実況をしていたテッドだった。
テッドのあの質問の仕方にはよく腹が立ったが、今は七宮相手とあって丁寧に質問しているようだった。
やがて、テッドの質問が終わり、七宮の声がテレビのスピーカーから発せられる。
「……みんな知ってると思うけど、僕がVFBを離れたのは家庭の事情のせいなんだ。……でも、最近になってやっとそれが落ち着いたから、またVFBにチャレンジしようと思ったというわけさ。」
(……嘘だ。)
そんな健全な理由であるはずがない。
しかし、七宮の本性を知らぬ人達は、これが嘘だと夢にも思ってないだろう。
テッドもその一人だった。
「なるほど、家庭の事情で……しかし、お父様に関しては本当に残念でした。」
(お父様……七宮の?)
テッドの控えめな喋り方から推測するに、七宮の父親は死んでしまったのだろうか。
それは本当だったようで、七宮は隠す様子もなく、そのことを笑いながら話す。
「いきなり倒れちゃってそのまま昇天さ……ほんとうに大変だったよ。」
そんな陽気な反応に安心したのか、テッドはそれに関する話を深く掘り下げていく。
「……お父様が亡くなられた時、お父様が結成したVFチームも解体されていますが……今回の復帰にあたり、そのチームを再結成するという選択肢はなかったのでしょうか?」
結城はこのチームを知っている。……この間、諒一の部屋の本棚にあるVFデータブックで見たのだ。
チーム名はそのまま、『チーム七宮』。
七宮重工という会社がVF産業に進出した際に立ち上げたチームということだ。
活動していた期間は短いものの、成績についてはダグラスやキルヒアイゼンにも劣らない、かなり優秀なチームだったらしい。
今思えば、セブンがよく好んで使っていたVFはこのチームと同じものだった。……あの日本刀のような武器もあとで調べた所、七宮重工が作ったVF専用武器だと判明した。
あの時、セブンと初めてネットワーク対戦をした時……私にもっとVFの知識があれば、もっと早い段階で七宮のことを見抜けていたかもしれない。
そう思うと残念でならない。
テレビでは、七宮が先ほどのテッドの質問に対して受け答えしていた。
「再結成か……数年前ならいざ知らず、今は新しくチームを作る余裕も体力も無いからね……。僕を迎え入れてくれたダークガルムには感謝しているよ。」
大体、ダークガルムも怪しいものだ。
ダークガルムも七宮と黒い繋がりがあるのは間違いなかった。
そんな事とは露ほども疑わないテッドは七宮に同意していた。
「我々VFファンとしても、七宮選手の活躍が再び見れるとあって、ダークガルムには賞賛の拍手を送りたいところです。……ところで、ランナーとしての実力は申し分ないと思いますが、会社の方は大丈夫なんでしょうか。……今はお父様の跡を継いでおられるとか……。 」
(跡を継ぐ……?)
「社長なんて言っても、ただの肩書きだけだよ。僕はまだ若造だし、7年経った今でもわからないことの方が多い。それに僕がいなくても父と共に会社を支えてきた優秀な社員がまだ大勢いるからね……。僕がいなくても問題ないよ。」
(……ってあいつ社長なのか!?)
七宮ということで、薄々は予感していたものの、まさか七宮重工のトップだとは思わなかった。
実質はトップではないかもしれないが、それにしたって社長ともあろう人物が、あそこまで大胆な妨害を行うとは考えてもいなかったからだ。
結城が驚きの表情でテレビ画面を見ている間も、七宮は得意げに語り続ける。
「……だからこうやって社長自らVFBに出場して自社の製品を宣伝してるほうがよっぽど会社のためになるのさ。」
テッドは話を遮って確認するように七宮に対して質問する。
「製品のアピールというと……七宮重工は再びVF事業に参入するということでしょうか?」
「再びも何も、VFに関しては一度も中止した覚えはないよ。」
「そ、そうでしたか、失礼しました……。」
七宮に一蹴され、テッドは謝罪の一礼をしていた。
するとすぐに番組の終了を告げるBGMが流れだした。
それを受けて、テッドは姿勢を正して番組のまとめに入る。
「えー、来シーズンのVFBでの七宮選手の活躍が待ち遠しいです……本日は七宮宗生さんにお話を伺いました。貴重なお話、ありがとうございました。」
そのセリフを最後に番組は終了し、すぐに結城はテレビの電源を切った。
(……チャンネル変えずに見ておいて良かった。)
七宮の話を聞けたのは偶然だったが、これで、敵の情報を少しでも知ることができたように思う。もっとよく知れば相手の目的も分かってくるというものだ。
「疲れた……。」
番組を見ている開いたほとんど瞬きをしていなかったらしく、目が乾いていた。
結城は目を休めるためにメガネを背の低いテーブルの上に置き、しばらく目を閉じることにした。
先程までテレビをつけていたせいか、目を瞑ると周囲がとても静かに感じられる。
「……。」
……少し目を閉じるつもりが、結城はそのまま深い眠りに落ちてしまった。
ふと気がつくと、足先を誰かに触られていた。
「ん……」
足の裏に何かが触れており、少しくすぐったい。
何事かと思い、目をこすりつつ足下に視線を向けると……そこには諒一がいた。
諒一はこちらの靴を脱がしている真っ最中だった。
これが初めてならばそのまま諒一を蹴り飛ばしていたかもしれない。しかし、これにはちゃんとした理由がある上に、落ち度も結城側にあった。
「あ、ごめん諒一……。」
「……。」
自分の部屋とは違い、諒一の部屋では靴を脱がねばならない。しかし、結城は毎度ベランダから侵入しているせいで、毎回それを忘れていた。
いつもは部屋に入る前に諒一が注意してくれるので問題なかったが、今日は不在だったので履いたままだったのだ。
諒一は無言でこちらの靴を脱がしており、しばらくすると片方が外れた。
そこで結城は、もう片方の靴を脱がされる前にその足を自分に体に引き寄せる。
「こっちは自分でできるから……。」
結城は、硬い素材でできている、パッと見ローファーのような靴を履いていた。大きなガードが内部に入っているので履き心地はいいとは言えないが、安全性を確保するためには仕方がない。
その靴のかかと部分をつまむようにして足から外し、それを諒一に手渡した。
「はい、これ。」
諒一は今更注意するつもりもないらしく、左右の靴を持って、それを玄関まで持っていった。
その無言で働く諒一の後姿を見ながら、結城は今の状況を確認する。
……どうやら座椅子に座ったまま少し眠っていたらしい。部屋は明かりがついており、窓の外はすでに真っ暗だった。
「諒一、もしかして……」
「そうだ……とっくに門限は過ぎている。」
「あれ、おかしいな……。」
感覚としては眠っていたのは30分くらいだと思ったのだが……時計を見て改めて時刻を確認すると3時間以上も夢の中にいたらしい。
門限も過ぎたし、どうしようかと考えていると諒一が隣に座って問いかけてきた。
「いつまでここにいるつもりだ。結城。」
「……。」
どうやら諒一は、早く私を部屋から追い出したいらしい。
諒一に退去命令を出され、結城は泣く泣く部屋から出ていくことにした。
「わかった、もう帰るよ。」
こちらが立ち上がり、玄関口に向かおうとすると、諒一は座ったままこちらの手を掴んで引き止めた。
「待て、そういう意味じゃない。……こうも頻繁に部屋に来られたら困ると言いたかったんだ。この事が学校側に知れたらまずい。せめて週末に一回程度にしてくれないか。」
(なんだ、そういうことか……。)
それを聞き、結城は再び座椅子に腰を下ろして、諒一のとなりに座る。
「別に毎日来てもいいじゃないか。……だって、こっちにいるほうが落ち着くんだもん。」
語尾を可愛くしたのだが、諒一には全く効果が無いようで、逆に諒一の表情は深刻になっていった。
「……。」
結城も諒一には悪いとは思っているものの、どうしてもこの部屋に来るのを止められない。
なぜなら、ここ以外に身の置き場がなく、一人でいるだけで底知れぬ不安にかられてしまうからだ。
シミュレーションゲームで遊ぼうにもセブンはもういないし、
ラボに行ってもランベルトはアカネスミレの解析で忙しいので、話すこともないし、
女子学生寮に帰っても、毎日のようにVFBファンの学生たちが部屋の前で待ち構えているし、
そうでなくても寮にいるだけで常に視線を感じる。
……つまり、唯一ここだけが結城がゆっくりと過ごせる場所というわけだ。
しかし諒一にとっては、この部屋は体を休める場所だ。
私がいるとその疲れも取れにくいことだろう。
「男子学生寮に女子学生がいるだけでも問題だ……後、結城は自分が注目されているVFランナーだと自覚しているのか?」
諭すように言われ、結城は若干不貞腐れたように答える。
「自覚くらいしてる……。」
普通に注目されればいいものを、女子学生寮から姿を隠していることによって、余計にファンの注目を浴びてしまうことになっているとは、全く想像もしていない結城だった。
諒一はさらに説教じみた言葉を続ける。
「ラボにも顔を出さないし、学校が終わればすぐにここに来る……最近どうしたんだ。」
(ツルカと同じようなこと言ってるな……。)
学校でツルカに言われたことを思い出していると、次のセリフもそれに当てはまった。
「やはり、あの時の鹿住さんのことがまだ気になっているのか。」
「……。」
ムキになって否定しても仕方がないので、結城は無言で頷いた。
すると諒一は無表情の顔をまっすぐとこちらに向けて話し始める。
「もうすぐ長期休暇に入る。いつまでもツルカにテスターを頼むわけにもいかない……まずは顔を出すだけでもいい、ちゃんとラボに来るんだ。」
「……うん。」
まるで不登校児を説得する教師のようである。
(みんなにここまで心配されるなんて……情けないな、私……。)
ここ2ヶ月の私の行動は、それこそVFに乗る前の私と同じだった気がする。
平日は学校と寮の往復のみで、休日はずっとシミュレーションゲーム……あの頃はそれでもよかったが、今はそれでは駄目だ。
諒一の言うことを呑んだ所で、結城はしみじみとした様子で語り始める。
「なぁ諒一、この一年でだいぶ変わったよな。」
「ああ」
去年の今頃はゲームに明け暮れ、まさか自分がVFランナーになろうとは微塵にも思っていなかった。
そして、来年にはいよいよ企業学校のカリキュラムが全て終了する予定だ。
「来年で卒業か……諒一はどうするか決まってるのか?」
結城は諒一の進路を何気なく訊いてみたが、諒一は違うことが気にかかっているようだった。
「卒業……? こっちはともかく、結城はまだ違うはずだ。」
「へ?」
一体何を言っているのだろうか。
……私と諒一は同じ年に入学したのだから、当然卒業も同じに決まっている。
しかし、こちらが反論する間もなく、虚しい現実をつきつけられてしまうことになる。
「……マネジメントコースからランナー育成コースには『コース変更』じゃなくて、『コース編入』という形になっているはずだ。」
結城は、あの時の手続きのことを全く覚えていなかった。
諒一の言葉の意味する所が理解できず、結城は控えめに説明を要求する。
「えーと、それはつまり……?」
「今年はツルカと同じく1年生だったということだ。……卒業は一年遅れることになるな。」
「そ、そんな……」
一年無駄にしてしまったということなのだろうか……。
少しやる気が失せてしまった結城は、やけくそになって冗談で愚痴をこぼす。
「どうせVFランナーも忙しいし……学校やめようかな……。」
その大袈裟な冗談に対し、すぐに諒一のツッコミが入る。
「……それは無理だ。」
(……無理?)
“駄目”ではなく“無理”らしい。
どういうことだろうかと考えるも、結城には全く思いつかず、またしても諒一の言葉を大人しく待つことにした。
こちらの期待通り、諒一はその事について話し始める。
「結城が企業学校をやめてしまうと……ダグラスからの資金援助の話が無くなってしまう。アール・ブランにはスポンサーが片手で数えられるくらいしか付いていない。ここでダグラスに見放されたら……。」
こちらの知らぬ間にダグラスからの援助の約束を取り付けていたらしい。
アール・ブランのランナーであるはずなのに、いよいよ置いてけぼりを食らっている気がする……。
ラボにいかない私も悪いが、そんな大事なことはその時に教えて欲しかった。
(まぁ、私が知った所でどうこうできる話でもないんだけど……)
それを話してくれなかったのは、こちらに気を使ってくれているからだと解釈し、結城はそれなりの言葉を返す。
「そうだったのか……。いろいろ大変なんだな。」
……よくよく考えれば、あの1STリーグの上位チームであるダグラスと関係を持てたのはすごいことのように思える。
(ランベルト、珍しく頑張ってるみたいだな……。)
普段はあまり役に立たないチーム責任者を見直していると、諒一が先ほどの卒業について話を掘り返す。
「進路についてだが……しばらくはアール・ブランで経験をつむつもりだ。……どこにも行くつもりはないから、結城も卒業が遅れるのを気にするな。」
「……うん。」
諒一と一緒に卒業できないのは残念だが、ツルカと一緒にできるなら、それはそれで悪くない気もする。
(ツルカ……。そういえばラボに行くって言ってたよな。もう女子学生寮に帰ってるんだろうか……。)
ここ最近、ツルカからもアール・ブランについての話を聞いていなかったことに気づく。
ダグラスの資金援助の話を聞き、急に結城は他のことについても気になり始めた。
「……なあ諒一、アカネスミレはどうなってるんだ?」
隣に座る諒一に訊くも、諒一はそれに答えることなくこちらを焦らす。
「気になるならラボに来るといい。結城がいない間に協力者も増えている。」
「協力者……?」
メンバーやスタッフと言わないあたり、その人物は容易に想像できそうだ。
誰だろうかと考えていると、すぐにその候補が頭の中に浮かんできた。
「じゃあ明日辺り、久しぶりにラボに顔出してみるか。」
こちらが決心して宣言すると、諒一は頷いてみせた。相変わらず表情に変化はないが、その頷きの素早さが諒一が喜んでいることを示していた。
話がまとまると諒一は立ち上がり、座っているこちらに手を差し伸べてきた。
結城は自然にその手を取り、諒一に引き寄せられるようにして座椅子から立ち上がった。
そのまま諒一は部屋の時計を確認し、部屋のベランダ側の窓を開ける。
「さ、女子寮に戻ろう。あっちの寮長さんは優しい。……一緒に謝れば許してくれるだろう。」
「……だといいんだけどなぁ。」
あの寮長さんが優しく思えるほど、男子学生寮の寮長は厳しいらしい。
その寮長は一体普段どんな罰を与えているのか……想像したくもない結城だった。
3
翌日、学校が終わると、結城はラボを訪れるべく2NDリーグフロート内を移動していた。
この道を歩くのも久しぶりである。
……その道の途中で、結城はビルにいろんな資材を運びこんでいる現場を見かけた。
どうやら、3RDリーグから昇格してきたチームらしい。
昨シーズンの最下位チームはイストスだったので、その代わりにこちらに来たのだろう。新しく来たチーム名も気になったが、自分には関係ないと思い調べるのはやめた。
(引越し大変そうだな……)
機材を移動させるのは面倒極まりない。しかし、VFBの大会委員会の計らいでビルの使用料はほぼタダ状態なので、その面倒を差し引いても十分な恩恵を受けられる。
(……ってウチもそうじゃないか!!)
結城は今更ながら、アール・ブランでもチームのビルを2NDリーグフロートの物から、1STリーグフロートユニットに移らなければならないことを思い出した。
……確か、1STリーグで最下位だったのは『ALPHA・R』というチームだったはずだ。
アール・ブランでも引越しの準備を進めているのだろうかと思ったが、ビルの前まで来てもそのような気配は全く感じられなかった。
(……あれ?)
もしかして、すでに引越しは終わったのかとも思ったが、実際中に入るとそこはアール・ブランのビルで間違いなく、そのロビーには“優勝おめでとう”と書かれた横断幕がだらしなく飾られていた。
「……。」
結城はそのまま地下のラボに向かったが、ラボにいたっては2ヶ月経っても全く何も変化していなかった。
引越しに際してはダグラスが面倒を見てくれると予想しているので、問題はないと思うが、最低限の準備をしておく必要はあるだろう。
(やっぱり、1STリーグに進出するのは早すぎたんじゃないか……?)
金もなければ独自の技術もないアール・ブランは、他の列強と比べてかなり見劣りする。
しかも、こんないい加減な運営方法でこの先うまくやっていける気がしない……。
ラボ入り口で立ち止まり、そんな事を考えていると、遠くからこちらを呼ぶ声が聞こえてきた。
「ユウキ!! 来てくれたのか。」
それはツルカの奇声ならぬ喜声だった。
ツルカはすぐに作業を中断し、入り口まで移動してきた。
「うん、さすがにアカネスミレが気になって……ほんと、久しぶりだな……。」
結城は出迎えてくれたツルカに返事をして、ラボの様子を観察する。
目の前にいるツルカは、こちらよりも遥か早くにラボに来ていたらしい……というより、補習を受けさせられた私が遅れただけなのだ。
かなり遅れたので、諒一もラボにいると思ったのだが、諒一はまだ来ていないようだった。
こちらと同じ補習を受けていることはないだろうが、学校の用事で遅れていることは間違いなかった。
「久しぶりに来てみたけど……全然変わってないな。」
機材の配置は変わっておらず、それどころか、まだあの寝心地の良い梱包材に包まれたままの機材もちらほら見られる。
(作業、捗ってないのか……?)
不安を感じた結城が、早速アカネスミレの調子を伺おうとした瞬間、ツルカの背後からランベルトが現れた。
「嬢ちゃん、久しぶりだな……その、体は大丈夫か? ゆっくり休めたか?」
ランベルトは柄にも無く、心配そうにこちらに話しかけてきた。
久しぶりに見るランベルトはフラフラしており、少し痩せているように見えた。
……これでは、ランベルトのほうがよっぽど体が悪そうである。こちらを心配する前に自分の体を心配して欲しい。
結城は気を遣って、ランベルトに自分の元気っぷりをアピールする。
「体はどこも悪くないし、今はちょっと気が滅入ってるだけで、休めばそれもすぐに良くなるはずだ。」
「そうか……オフシーズンは長いし、十分休むといいさ。」
それだけ言うと、ランベルトはアカネスミレの元に戻っていく。
足元がおぼつかないランベルトを眺めていると、ツルカが事情を説明してくれた。
「ランベルト、ほとんど休まずにアカネスミレの解析をしてるらしいぞ。やっぱり、カズミがデータを残していないせいで、かなり苦労してるみたいだ。」
話によれば、2ヶ月経ってもアカネスミレのフレームは解析できそうにないらしい。
(あのフレーム、かなり珍しい機構だとは思ってたけど……そんなに難しいのか……?)
もっと詳しく状況を知るために、結城は直接ランベルトに話を聞いてみることにした。
ランベルトとは遠く離れていたため、結城は走ってその後を追う。
やがて、アカネスミレに向けて歩くランベルトに追いつくと、結城は後ろから声をかける。
「なぁランベルト、アカネスミレはどんな状態なんだ? 元通り使えそうか?」
その質問が終わると同時にアカネスミレの下に到着した。
アカネスミレは解析されているという割にはどこも分解されておらず、綺麗な状態でVF用の固定具にその身を預けていた。
装甲の表面には傷ひとつ見当たらず、修理は済んでいるようだった。
ランベルトは付近にあったコンソールを操作しながらこちらの質問に答える。
「フレームの構造が複雑すぎてな……特に特殊な素材を使ってるわけじゃないんだが……。最高の状態で戦うのは無理かもしれねえな……。」
その答えに納得できず、結城は素人ながらも考えたことを提案してみる。
「……一度、分解したほうが解析しやすいんじゃないか?」
こちらの提案に対し、ランベルトは首を横に振って答える。
「バラしても駄目だった……設計図も何も無いし、バラした所でパーツの相互関係やシステム自体が解析できないと何も解らねぇんだよ……。」
そう言って、ランベルトは悔しげな表情を浮かべていた。
(もう分解していたのか……。)
仮にも、キルヒアイゼンで働いていたエンジニアをここまで悩ませるなんて……アカネスミレにはよほど難解なシステムが組み込まれているのだろう。
「そんなにすごいのか……。」
思わず言葉を漏らすと、ランベルトはそれに同意した。
「ああ。本当にこれが一人で作られたシステムだとしたら……間違いなくカズミは天才だ。」
鹿住さんのことを話すランベルトは、悔しいと言うよりは無念そうだった。
そして、一度コンソールから離れると、腰に手を当ててアカネスミレを見上げる。
「このままだと来シーズンに間に合いそうにねーな……。下手をすればフレームの特殊機能を封じた状態で試合に出る羽目になるかもなぁ。」
フレームの機能が使えないということは、戦闘能力の低下を意味する。
試合に勝つためには、ランナーである私がより頑張らねばならないということだ。
まだオフシーズンは長いからと言って、楽観視している場合ではなさそうだ。
「とにかく、手探りでいろいろ試してみるしかないか……。」
ランベルトは再びコンソールと向き合い、何やら操作し始めた。
それと同時にツルカがこちらに戻ってきて、アカネスミレのコックピットへとよじ登っていく。
そのままコックピット内へと消えていき、すぐにアカネスミレのアームが動き始めた。
どうやら、ツルカはランベルトの作業に協力してくれているようだった。
結城も何かできることはないだろうかと思い、ランベルトに協力を申し出る。
「なんか手伝おうか?」
ランベルトはコンソールを操作しながら、こちらの提案を断った。
「いや、間に合ってる。……それより、リョーイチが呼んでくれた応援の相手をしてやってくれ。アイツら、今は何もやることがなくて暇だろうからな。」
「応援? ……協力者のことか?」
結城がラボ内を見渡すと、いつもの作業台付近に2つの人影を発見した。
(もしかして……)
ランベルトに言われた通り、結城はその人達と会ってみることにした。
一旦、アカネスミレの元を離れ、結城は作業台のある場所に向けて歩く。段々近づいていくと2人の容姿がはっきりと分かるようになった。
……そこには、結城が想像した通りの人物が座って待っていた。
「ようユウキ、久しぶりじゃないか。」
まず話しかけてきたのは、筋骨隆々の大男、ジクスだった。
作業用のつなぎを着て座るその姿は、エンジニアと言うよりもむしろ鍛冶職人を連想させる。
どちらにせよ、職人としてのイメージはあるものの、繊細な作業には向いてないような印象を受けた。
結城は軽く手を上げて「久しぶり」と挨拶して、作業台に座る。
すると、もう一人の協力者、ニコライも話しかけてきた。
「お邪魔してるぜ、ユウキ。……にしても、結構大変なことになってるみたいだな。リョーイチも心配してたぞ?」
「……そうみたいだな。」
「“そうみたいだな”って、感想はそれだけか? ……それ聞いたら愛しのリョーイチが悲しむぞ?」
「……。」
ニコライは、こと諒一と私の関係についてはしつこくからかってくる。
体中についているピアスをひん剥いて、首に下げているチェーンのようなネックレスで何も喋れなくなるまで締めあげてやりたいものだ。
そんなこちらの不穏な空気を感じ取ったのか、ニコライは慌てた様子で取り繕い、話題を変更してきた。
「そ、それにしても、よくこんな少ないスタッフでやっていけてたよな……修理やらメンテナンスやら大変だったんじゃないか?」
「そこら辺は全部鹿住さんが一人でやってたから……。」
ニコライは鹿住さんのことをおぼろげながらも覚えていたらしく、目線は泳いでいたものの、何度か頷いてみせた。……男子学生寮のパーティーで見たのを辛うじて覚えていたに違いない。
「へぇ、あのVF開発者が一人で……え、一人で!?」
鹿住さんのことはともかく、それをたった一人でやったというのは信じられないらしく、ニコライは目をパチパチさせていた。
実のところ、結城も鹿住さんの働きっぷりには一目も二目も置いていた。
鹿住さんはこのアール・ブランに来た時に、“整備も含め、VFに関してはすべて自分一人でやる”と宣言していた。
実際その通りにやっていたのだから、すごいとしか言いようがない。
(鹿住さん……)
いつまでも鹿住のことを思い出していても仕方がないので、結城はそれを頭の外へ出そうとしたが、その前に、ジクスがそれについて質問してきた。
「部外者だからあんまり詳しく訊くつもりはないが……そのカズミさんはいないのか?」
「それは……うん……。」
結城が俯いて小さな声で返事をすると、その暗い雰囲気を打ち消すようにニコライが陽気な声でジクスに話しかけた。
「その人がいたら、リョーイチも俺達を呼んだりしてないだろうよ。」
「それもそうか。」
ジクスは納得したようで、そのまま太い両腕を組んでアカネスミレの方を向いた。
それにつられて、結城とニコライも同じ方向を向く。
「いろいろと手伝ってはみたが……アカネスミレの分析は手詰まりみたいだ。ダグラスの量産フレームならまだしも、あれは一点物で、しかも次世代のVFだからなぁ……。俺たち学生にできることといえば力仕事くらいなものだ。」
ジクスは自分の力が及ばないことと、そのせいで力になれないことを残念に思っているようで、重い溜息をついていた。
ジクスに続いてニコライもアカネスミレについて言及する。
「それにしてもすごいフレームだよな、アレ。あれが市場に出回ったらすごいことになるんじゃないの?」
「例えすごくても、ランナーがそれを扱えないと意味が無いだろう。結局恩恵をうけるのは一部のハイレベルのVFランナーだけだろうな。」
結城はそのジクス話を聞いて、自分がハイレベルのVFランナーに分類されていることを、少しだけうれしく感じた。
……と、ここで結城は唐突に、ある人物がこの場に欠けていることに気がつく。
結城は、アカネスミレを眺めながら話す二人にその人物のことについて聞いてみることにした。
「そういえば、槻矢くんは?」
この2人が来ているのだ。最近はいつも一緒にいる槻矢くんが来ていないわけがない。
その予想は当たっていたらしく、ニコライが槻矢くんのいる場所に目を向けて答える。
「ああ、ツキヤはツルカと一緒にラボに来て……今は向こうでベル爺と話してるよ。」
「ベル……なんだって?」
私の知らない間に誰かチームに入ってきたのかと思い、その名前を聞き返すとジクスがその名前を正確に教えてくれた。
「……ベルナルドさんのことだ。あの人には色々教えてもらって助かってる……学校で習うのよりよっぽど実践的で役に立ってるよ。」
「なんだ、そういうことか……。」
ベル爺……これは呼びやすいし、親しみの湧く愛称な気がする。
そんなベルナルドさんはジクスやニコライに評判がいいようで、ジグスは更にベルナルドさんを褒め称える。
「それだけじゃなく、お菓子も美味い。……『技工に長ける者は、料理にも通ずる』とも言うし、技術者としても一流なのかもしれないな、いや、間違いない。」
「どこの国の格言だよ、それ……。」
ジクスいい加減なことわざはともかく、ベルナルドさんが熟練工であることに違いはない。
あと、すぐ近くから甘い香りが漂ってきていた。
(この匂い、はちみつか……?)
久しぶりにベルナルドのお菓子の匂いを嗅ぎ、結城の口内は唾液で大変なことになっていた。
その唾液をごくりと飲み込み、結城はすぐに席から立ち上がる。
「……ちょっと槻矢くんにも挨拶しに行く。」
「ほんと、ユウキは欲望に素直だな。」
「……。」
今さらジクスに何を言われようが、ベルナルドさんのいる場所に行くのを止めるつもりはなかった。
……すぐに作業台を離れ、結城は少し離れた位置にある休憩用のベンチへと近づいていく。
ベンチまで残り10歩くらいの所で槻矢くんがこちらの存在に気づき、お辞儀をしてきた。
「あ、結城さんこんにちは、お邪魔してます。」
ベルナルドさんと槻矢くんは一つのベンチに2人で仲良く座っており、2人の間にはお菓子の乗った白い陶器の平皿が置いてあった。
槻矢くんの挨拶に反応し、ベルナルドさんもこちらに声をかけてきた。
「久しぶりだな、お嬢さん。」
「お久しぶりです。」
挨拶を返すと、結城はベンチの前で足を止め周囲を見渡す。
そして、近くにあったよく分からないプラスチック製の箱を取って、それを椅子がわりにして、2人と向き合う形で座った。
しかし、少し距離が遠かったのか、ベルナルドさんが手招きして言う。
「ほら、こっちにこい。今日も色々とお菓子を作ってきておる。……ワシらと一緒にお茶でもせんか?」
「お菓子……」
結城はその手招きに応じてプラスチック製の箱を引きずって更にベンチに近づく。
そして、お皿に乗ったお菓子を近くで見ると、はちみつの甘い香りが強く感じられた。
(あ、美味しそう。)
そこに盛られていたお菓子は平たい正方形の形をしたウエハースのようで、上には金色のハニーシロップがたっぷりと塗られていた。
表面の蜂の巣状の模様はそのシロップをしっかりと捕まえており、ウエハースの上面全体にはちみつを行き渡らせていた。
じっと見ているとベルナルドさんが「どうぞ」とすすめてくれたので、結城は「いただきます」と言ってそのお菓子を掴み、上にのっているはちみつが垂れないように、一口で一気に食べた。
(……お、おいしい。)
まずウエハースのサクっとした食感が感じられ、すぐにはちみつの濃厚な甘さが口の中に広がる。そのまま、そのはちみつはウエハースの欠片と絡み、何ともいえない味と食感を結城に与えてくれた。
簡単なお菓子だが、それゆえにシンプルな美味しさを楽しむことができた。
結城は幸せを感じつつ、ジクスやニコライ同様、槻矢の協力にも感謝する。
「槻矢くん……作業手伝ってくれてありがとうね。」
しかし、槻矢くんはこちらのお礼に対し、首を横に振って応えた。
「いえいえいえ、僕はただ2人について来てるだけで……実は何も手伝えてないんです。」
「へー……。」
……言われてみれば、槻矢くんだけが制服のままで手も汚れていなかった。
結城も手は汚れていなかったのだが、早速、お菓子についたはちみつで汚してしまっていた。
今度は逆に、槻矢くんが質問を投げかけていきた。
「ここひと月くらい来ていませんでしたけど……やっぱりオフシーズンになるとラボには来ないんですか?」
「いや、そういうわけでもないんだけど……」
咄嗟に否定の言葉を言ってしまった。
本当はあの日からラボには足を運んでいないので、正確には2ヶ月来ていない。
結城はしどろもどろになりつつも言葉を続ける。
「なんというか、今はみんな忙しそうだし、こっちに来ても仕方が無いかなって思ってたんだ。」
そう言って苦笑いするも、槻矢くんは真剣な表情で訴えかけてくる。
「仕方なくなんてありません。……みんな結城さんのこと心配そうにしていました……。今日だって、結城さんが来てくれてみんな喜んでるはずです。」
「そうなんだ……。」
みんな顔には出していないが、私のことを心配してくれていたのだろうか。
(いや、ツルカは結構顔に出てたような気がする……。)
2ヶ月というのはそのくらいの感情を起こさせるほど長い期間だったのかもしれない。
そう思うと、急にみんなに対して申し訳ない気持ちになってきた。
「この坊ちゃんの言う通りだ。ワシも気にかけておったんだぞ?」
ベルナルドさんも心配してくれていたらしい。
「すみませんでした……。」
「いやいや構わん。2ヶ月前に起こったことを考えれば、これでも短いくらいだ。」
「……。」
槻矢の言葉によって、結城は自分の行動を反省することができた。
……とりあえず、2ヶ月間顔を出さなかったことを謝るために、結城はランベルトのもとへ行くことにした。
その前に、箱から立ち上がりベルナルドに向けて一礼する。
「お菓子、ご馳走様でした。」
そう言うと、結城はすぐにランベルトのいる場所に向けて駆け出す。
……アカネスミレ周辺ではランベルトとツルカの声が飛び交っており、アカネスミレの状態を確認している様子だった。
(ランベルト、忙しそうだな……。)
近くまで来たものの、こちらにも気がついていないようだったので、結城は作業が一段落着くまで待つことにした。
ランベルトはコンソールから目を離すことなく、大声を出してツルカと会話していた。
「どうだツルカ、フレームの機能回復してるかー?」
そこそこ距離もあるし、無線通信で会話すればいいとも思ったが、通信機が必要かと言われると微妙な距離でもあった。
ランベルトの掛け声の後、しばらくアカネスミレのアームが動き続ける。
ようやくアームの動きが止まると、コックピットの中からツルカの声が聞こえてきた。
「うーん……よく分からないけど、一応は動いてる気がする。」
それはつかみ所のない報告だった。
続けてツルカはコックピットから顔を出してランベルトに文句を言う。
「ボクで調整してもしょうがないぞ? こういうのは直接ユウキでやらないと駄目だ。」
“結城と交代しよう”、という意思表示だったのか、ツルカはこちらに向けて手を振っていた。
その仕草に目をくれることもなく、ランベルトはひたすらコンソールの画面と睨めっこをしていた。
「めんどくせーな……。この際ツルカがアカネスミレで試合に出てみるか?」
(……!?)
ランベルトから信じられないような台詞を聞き、結城は自分の表情が凍りつくのを自覚した。
「あのなランベルト、ボクは試合には出られないって何度言ったら……あ。」
ツルカの言葉も途中で止まり、気まずそうな視線がこちらに向けられた。
言葉が途切れたのを不審に思ったのか、ランベルトはコンソールから顔を上げた。そのまま周囲を見、すぐにこちらと目が合う。
結城はその目を見ながら、先ほどのランベルトの言葉を繰り返して言った。
「私の代わりに……ツルカを?」
ランベルトはすぐにコンソールから離れ、こちらの元まですっ飛んできた。
そして、必死に言い訳し始める。
「違う、違うぞ嬢ちゃん。さっきのは単なる冗談で……そう!! ジョーク!!」
ランベルトは焦りと不安の混じった笑顔でそう言ったが、結城は俯いており、その顔を見ることが出来なかった。
ツルカもアカネスミレから降りて、ランベルトを擁護する。
「ユウキ、さっきのは本当に冗談だぞ?」
「分かってる、冗談だって……。でも……。」
話し方や、会話の流れからも冗談だとはわかっていた。
だが、結城の心臓は不気味なほど速く脈打っており、冷や汗もじんわりと出てきていた。
ランベルトが本気でそんな事を言うはずがないと分かり切っていても、今の結城は自分で自分の感情を抑えることができないでいた。
このままでは余計な心配を掛けるかもしれないと思い、結城はランベルトとツルカを振りほどき、ラボの出口に足を向ける。
「来て早々で悪いけど……もう帰る。」
「ごめん、悪かった、だから拗ねるなよ。」
「……。」
背後から聞こえてくるランベルトの謝罪を無視し、結城は俯いたまま、そそくさとラボから出ていった。
ランベルトはラボの出口の前で止まり、両手で自らの頭を抱える。
「……どうすりゃいいんだ。」
そんなチーム責任者の様子を見て、ベルナルドも目頭を押さえてため息を吐く。
「あぁバカ息子が……余計なことを……。」
先程まで明るかったラボの雰囲気も、一気に暗くなってしまった。
――私はどうしてしまったんだろう。
ビル内の通路を歩きながら結城は自問自答する。
あんな冗談、少し前なら全く気にしなかったはずだ。
だがさっきは、本気でアカネスミレから外されると思ってしまった。そして、ランベルトに強烈な不信感を感じてしまった。
(どうかしてるぞ……私。)
まさか、ここまで過剰に反応するとは思っていなかった結城は、自分のメンタルの弱さに呆れていた。
そして、こんな状態でまともに戦えるのだろうか、と1STリーグに対して不安しか感じられない結城であった。
ここまで読んで下さり誠にありがとうございます。
前の話から一気に2ヶ月の月日が経ちました。その間に、結城は他人との付き合いに対して少し臆病になったような気がします。アカネスミレの件もあわせて、この先かなり心配です。
次の話では、更に時間が過ぎ、いよいよ1STリーグでの試合が始まります。
今後ともよろしくお願いいたします。