婚約者に『君より麦の方が大事だ』と言われて婚約破棄された農家の娘ですが、実は私、この村の豊穣を司る巫女の末裔でした〜刈り入れ祭で真実が明かされる時、彼は全てを失う〜
「君との婚約は解消だ。僕には、本当に愛する人ができた」
麦穂が金色に染まり始めた、刈り入れ祭三日前の夕暮れ。
私──柊穂香は、幼い頃から当たり前のように隣にいた人から、まるで天気の話でもするように、そう告げられた。
「……え?」
声が出ない。いや、出たのかもしれない。でも自分の耳には届かなかった。
目の前に立つ神崎蒼真の顔が、夕陽に照らされて眩しい。いつもと同じ、整った顔。いつもと同じ、爽やかな笑み。なのに、その唇から紡がれた言葉だけが、まるで異国の言語のように理解できない。
「聞こえなかった? 婚約破棄だよ、穂香」
蒼真は困ったように眉を下げた。まるで物分かりの悪い子供に言い聞かせるみたいに。
「急な話で驚くのは分かる。でも僕も考えたんだ。君といても、僕の将来が見えないって」
「将来が……見えない……?」
私は鸚鵡返しに呟くことしかできなかった。
蒼真の家は代々この村の村長を務めてきた名家。対して私の家は、ただの農家。しかもここ数年、うちの畑だけが不作続きで──
「正直に言うとね」
蒼真は視線を逸らした。その先には、黄金色に輝く麦畑が広がっている。うちの畑じゃない。よその家の、見事に実った麦畑。
「君より麦の方が大事だ」
「──は?」
「この村の将来を担う僕には、ふさわしい人が必要なんだ。不作続きの農家の娘じゃなくて、もっと……ね」
頭が真っ白になった。
君より麦の方が大事。その言葉が、頭の中でぐるぐると回る。
「玲奈と会って、僕は気づいたんだ」
蒼真の声が、どこか遠くから聞こえる。
「本当の愛ってものにね。彼女は都会から来たんだけど、洗練されていて、教養があって……僕の隣に立つのに相応しい人だって、一目で分かった」
玲奈。
一ヶ月前、この村にふらりとやってきた、都会の令嬢。プラチナブロンドの髪に、ブランド物で固めた出で立ち。村の誰もが振り返る美貌。
『素敵な村ですね。皆さん温かくて』
そう微笑む彼女を、蒼真が熱心に村案内していたのは知っていた。でも、まさか──
「彼女との婚約は、もう父さんも了承済みだから」
「……もう、決まってるの?」
私の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「うん。来週には正式に発表する予定だよ」
蒼真は清々しいほどの笑顔で言った。罪悪感なんて、欠片もない顔で。
「でも感謝してるよ、穂香。君がいたから、僕は本当の愛に気づけたんだ。君のためを思って言うんだけど、これは君にとってもいいことだと思う」
──私のためを思って?
「……っ」
込み上げてくる何かを、必死に飲み込んだ。泣くものか。こんな奴の前で、泣いてたまるものか。
「ごめんね、急で。でも僕、玲奈との未来にワクワクしてるんだ。君も応援してくれるよね?」
蒼真は手を振って、軽やかに歩き去っていく。まるで重荷を下ろしたみたいに、軽い足取りで。
私は動けなかった。
夕陽が沈んでいく。黄金色の麦畑が、茜色に染まっていく。三日後には刈り入れ祭。村中が浮き足立つ、一年で一番華やかな日。
その祭の主役の隣には、もう私はいない。
「……どうして」
呟いた声は、風に溶けて消えた。
誰も聞いていない。誰も見ていない。
──本当は、叫びたい。どうして私ばかり、こんな目に遭うの、と。
でも、声は出なかった。
いつものように。ずっとそうだったように。
私は唇を噛んで、よろよろと家路についた。
足元で、うちの畑の麦が力なく揺れている。周りの畑は金色に輝いているのに、うちの麦だけが、まるで枯れかけのように色褪せて見えた。
──また今年も、不作なのかな。
そんなことを、場違いにも考えてしまう。
婚約を破棄されたばかりだというのに。七年も一緒にいた相手に捨てられたばかりだというのに。
私はきっと、どこか壊れている。
* * *
翌朝。
噂は、もう村中に広まっていた。
「ねぇ、聞いた? 穂香ちゃん、蒼真様に捨てられたんですって」
「まぁ……でも仕方ないわよねぇ。あの子の家、ここ何年もまともに麦が実ってないでしょう?」
「蒼真様には玲奈様の方がお似合いよ。都会のお嬢様ですもの」
井戸端で話す声が、嫌でも耳に入る。
私は俯いたまま、足早に通り過ぎようとした。でも──
「あら、穂香ちゃん」
呼び止められて、足が止まる。
振り返ると、近所のおばさんたちが意地の悪い笑みを浮かべていた。
「大変だったわねぇ。でも、身の程を知るいい機会だったんじゃない?」
「……」
「蒼真様と釣り合うと思ってたの? 村長の跡取りと、不作続きの農家の娘じゃあねぇ」
笑い声が重なる。
──違う。私だって、望んで婚約したわけじゃない。村の「慣習」で、幼い頃から決められていただけで──
でも、そんな言い訳、誰も聞いてくれない。
「す、すみません……」
私は頭を下げて、逃げるようにその場を離れた。
村の目抜き通りを歩く。刈り入れ祭の準備で、至る所に飾り付けがされている。金色の麦穂を模した旗。豊穣を祝う幟。賑やかな祭囃子の練習の音。
なのに私の周りだけ、冷たい風が吹いている気がした。
すれ違う人が、ひそひそと囁き合う。
視線が突き刺さる。哀れみ。嘲り。見下し。
「……っ」
走り出したかった。でも走ったら、余計に惨めだから。
私は必死に平静を装って、一歩一歩、家に向かって歩いた。
「穂香」
不意に、聞き慣れた声がした。
振り返ると──
「陽介……」
橘陽介。幼馴染で、隣村で農業法人を営む家の跡取り。日に焼けた肌に、短く刈り込んだ黒髪。温かくて、大きな手。
「大丈夫か? 顔色、悪いぞ」
「……うん、大丈夫」
「嘘つけ」
陽介は眉を寄せて、私の顔を覗き込んだ。
「聞いた。蒼真の野郎、何考えてんだ」
「……別に。蒼真が誰と婚約しようと、蒼真の自由だから」
「穂香」
「本当に大丈夫だから。心配しないで」
私は無理に笑顔を作った。多分、すごく下手な笑顔だったと思う。
陽介は何か言いたそうにしていたけど、結局、深いため息をついただけだった。
「……無理すんなよ」
「うん」
「なんかあったら、すぐ言えよ。俺、いつでも来るから」
「……ありがとう」
陽介の背中が遠ざかっていく。
彼だけだ。この村で、私を見る目が変わらないのは。
──でも、だからって甘えるわけにはいかない。
私は再び歩き出した。
家に着くと、母が縁側で横になっていた。
「お母さん……また起き上がって……」
「穂香……おかえり……」
母──柊早苗の顔は、日に日にやつれていく。父が亡くなってから、心労が重なって、最近はほとんど寝たきりの状態だ。
「横になってて。私がご飯作るから」
「……聞いたよ、蒼真くんのこと」
私の手が止まる。
「あなたは何も悪くない」
母の細い手が、私の手を握った。
「穂香……あなたは、あなたのままでいいのよ……」
「……お母さん」
込み上げてくるものを、必死に堪えた。
この人の前では、泣けない。これ以上、心配をかけられない。
「大丈夫だよ、お母さん。私、全然平気だから」
嘘だった。全然平気なんかじゃない。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛い。
でも──誰にも言えない。誰にも見せられない。
その夜。
私は一人、祖母の遺品が眠る納戸の前に立っていた。
──おばあちゃんだったら、なんて言うだろう。
七年前に亡くなった父方の祖母、柊静江。いつも穏やかに微笑んでいた、優しいおばあちゃん。
『穂香、お前は特別な子だよ』
幼い頃、何度も言われた言葉。その意味は、最後まで分からなかったけど。
──今なら、少しは分かるのかな。
私は静かに、納戸の戸を開けた。
* * *
埃っぽい納戸の中、私は祖母の遺品が入った木箱を開けた。
古い着物。色褪せた写真。そして──
「これ……」
一冊の日記帳と、不思議な飾りが目に入った。
日記帳は年季が入っていて、表紙は茶色く変色している。そしてその隣にあるのは──麦の穂を模した、繊細な細工の髪飾り。
手に取った瞬間、息を呑んだ。
飾りが、淡く金色に光ったのだ。
「……え?」
慌てて手を離す。飾りは畳の上に落ちて、光は消えた。
──気のせい?
恐る恐る、もう一度手に取る。
やっぱり光る。私の手の中で、麦穂の飾りが、まるで命を持っているみたいに、きらきらと輝いている。
「なに、これ……」
震える手で、日記帳を開いた。
祖母の几帳面な字が、びっしりと並んでいる。
『五十年に一度の刈り入れ祭には、黄金の巫女が舞を捧げねばならない』
ページをめくる手が止まった。
『巫女の舞なくして、この村の麦は実らぬ。継承者が踊らねば、畑は枯れる』
『我が家は代々、黄金の巫女の血を継いできた。私もまた、五十年前の祭で舞を捧げた』
『次の祭は、五十年後──私はもうこの世にいないだろう。だから穂香、お前に託す』
心臓が、どくんと跳ねた。
『お前の中には黄金の光が眠っている。いつか必ず、目覚める時が来る』
五十年に一度。
五十年前といえば、祖母が若かった頃。そして今年は──
「……まさか」
私は震える手で、カレンダーを確認した。
今年は、祖母が舞を捧げてからちょうど五十年目。
つまり──今年の刈り入れ祭が、その「五十年に一度」の祭。
『穂香、お前は特別な子だよ』
祖母の声が、頭の中で蘇る。
『いつか分かる時が来る』
私は日記の続きを、夢中で読み進めた。
『黄金の巫女は、土地の精霊と繋がる力を持つ。その力があるからこそ、麦は実り、村は栄える』
『しかし力は諸刃の剣。巫女が心を閉ざせば、力は眠り、土地は痩せる』
──心を、閉ざせば。
ふと、うちの畑のことが頭をよぎった。
周りの畑は毎年豊作なのに、うちの畑だけが不作続き。みんなは「穂香の家は呪われている」なんて陰口を叩くけど──
もしかして、それは。
私の中の「力」が、眠っているせい……?
日記の最後のページには、こう記されていた。
『穂香へ。この飾りはお前に託す。お前の中の黄金の光を、信じておくれ。お前は愛されるために生まれてきた、大切な子だから』
視界が滲んだ。
「おばあちゃん……」
穂飾りを、そっと胸に抱きしめた。
その瞬間──私の手が、再び淡く光を放った。今度は、はっきりと。
「……っ」
怖かった。でも、不思議と嫌じゃなかった。
まるで、ずっと忘れていた何かを思い出したみたいな──そんな感覚。
『いつか分かる時が来る』
──おばあちゃん、私、やっと分かったよ。
私は「黄金の巫女」の末裔。
この村の豊穣を司る、最後の継承者。
でも──
日記を閉じて、私は俯いた。
だからって、どうすればいいの?
今更この村のために舞えって言うの?
私を「身の程知らず」と嘲り、蒼真に捨てられたことを笑った、この村のために?
胸の奥で、何かが燻っている。
怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない。
──私は、どうすればいいんだろう。
窓の外で、風に揺れる麦穂の音がした。
祭まで、あと二日。
* * *
祭の前日。
村長家で、玲奈の「歓迎会」が開かれると聞いた。
私には関係ない。そう思っていたのに──
「穂香ちゃん、ちょっといいかしら」
買い物帰り、村長家の前で玲奈に呼び止められた。
彼女は相変わらず完璧だった。淡いピンクのワンピース。巻いたプラチナブロンドの髪。甘い香水の匂い。
「あなたに話があるの。中に入って」
「……私は」
「いいから」
有無を言わさない口調で、私は村長家の裏庭に連れ込まれた。
他に誰もいない。二人きり。
その瞬間、玲奈の表情が変わった。
「ねぇ、いつまでこの村にいるつもり?」
「……え?」
「あなた、まだ蒼真くんのこと諦めてないんでしょ? 惨めね」
声のトーンが、まるで別人だった。
上品な「お嬢様」の仮面が剥がれ落ちて、そこにいたのは──
「あなた程度が蒼真くんの隣? 笑わせないでよ」
冷たい、嘲りの眼差し。
「田舎者は田舎者らしく、畑でも耕いてなさいよ。あ、でもあなたの畑、全然実らないんだっけ? 可哀想に」
くすくすと、玲奈は笑った。
「……私は、蒼真との婚約なんてもう」
「嘘おっしゃい。あなたみたいな芋女、他に行くところなんてないでしょ?」
芋女。
その言葉が、胸に突き刺さった。
「私が蒼真くんと婚約したこと、悔しい? 妬ましい? ねぇ、どんな気持ち?」
「……」
「黙ってないで何か言いなさいよ。それとも、言い返す言葉もないの?」
私は俯いたまま、唇を噛んだ。
言い返したい。言い返したいけど、言葉が出てこない。
「はぁ……つまんない」
玲奈は髪をかき上げて、踵を返した。
「明日の祭、楽しみにしてなさい。私が巫女役をするの。蒼真くんが推薦してくれたのよ」
──巫女役?
「村長さんも了承済み。古臭い伝統なんて、私が新しく塗り替えてあげるわ」
「待って……それは」
「あら、何か問題?」
振り返った玲奈の目が、細められる。
「まさか自分がやりたかったとか? 身の程知らずにもほどがあるわ」
違う。そうじゃない。
巫女の舞は、血筋でなければ──
でも、そんなこと、今更誰に言えるというのか。
「……何でもない」
「そ。じゃあね、芋女さん」
玲奈が去った後、私はしばらくその場から動けなかった。
その夜。
陽介から連絡があった。
「穂香、見たか? あの女のSNS」
「……SNS?」
陽介が見せてくれたスマホの画面には、玲奈のアカウントが映っていた。
『田舎暮らし最高! 村の人たちも温かくて幸せ♡ #スローライフ #素敵な村 #婚約者とデート』
──こんなの、全部嘘じゃない。
「これだけじゃねぇ。裏垢も見つけた」
陽介がスクロールする。
『田舎マジ無理wwwwww 芋ばっかwwww』
『元婚約者の女がうざすぎてキモいんだけど。早く消えてくんないかなー』
『婚約者(笑)だったらしいwww 蒼真くんも苦労したね〜』
……ひどい。
「なんなんだこの女……!」
陽介が怒りに震えている。
「穂香、これ証拠になる。みんなに見せれば──」
「……いい」
「は?」
「いいの、陽介。もう私には関係ないから」
「関係ないって……穂香、お前はこんな扱いされて悔しくないのかよ!」
──悔しいに決まってる。
悔しくて、惨めで、消えてしまいたいくらい。
でも。
「私が何を言っても、誰も信じてくれないよ。玲奈さんは『都会のお嬢様』で、私は『不作続きの農家の娘』だもの」
「穂香……」
「ありがとう、陽介。でも、もう寝るね」
通話を切って、私は布団に潜り込んだ。
──明日は、祭。
玲奈が舞う。巫女の血筋でもないのに。
きっと、何も起こらない。麦は枯れたりしない。祖母の日記なんて、ただの迷信だ。
……そう、思いたかった。
枕元に置いた黄金の穂飾りが、月明かりの中でかすかに光っている。
まるで、何かを訴えかけるように。
* * *
眠れない夜。
私は、遠い日の記憶を辿っていた。
──八歳の夏。刈り入れ祭の日。
『穂香、おいで。よく見てなさい』
祖母に手を引かれて、祭の会場に向かった。村中の人が集まっていて、屋台が並んで、お囃子の音が鳴り響いていた。
『おばあちゃん、すごい人!』
『今日は特別な日だからね。五十年に一度の、大切な祭なのよ』
村の広場の中央に、舞台が組まれていた。
その上で、一人の女性が舞っている。美しい、金色の衣を纏って。
『あの人、誰?』
『おばあちゃんの友達よ。先代の……いえ、なんでもないわ』
祖母は不思議な顔をして、私を見た。
『穂香。おばあちゃんも昔、この舞を踊ったんだよ』
『えっ、おばあちゃんが?』
『そう。五十年前にね。今度の祭を踊るのは、きっとお前だよ』
幼い私には、その意味が分からなかった。
でも──
『ほのかー!』
後ろから声がして、振り返ると、小さな男の子が走ってきた。日に焼けた肌に、短い黒髪。大きな瞳をきらきらさせた、陽介だ。
『よーすけ!』
『祭、一緒に回ろうぜ! 屋台でりんご飴買ってやるよ!』
『いいの!? やったぁ!』
祖母が微笑ましそうに私たちを見ていた。
『おばあちゃん、行ってくるね!』
『ええ、楽しんでおいで』
陽介と手を繋いで、祭の人混みを駆け抜けた。
りんご飴を食べて、金魚すくいをして、お囃子に合わせて踊って。
『なぁ穂香、さっきの舞、すげー綺麗だったな』
『うん! おばあちゃんも昔踊ったんだって!』
『へぇ! じゃあ穂香も踊れるのか?』
『……わかんない。でも、踊ってみたいな』
私はふざけて、祭の舞の真似をした。
くるくる回って、手を広げて、空に向かって──
『すげぇ! 穂香の踊り、すごく綺麗だった!』
陽介が目を丸くして言った。
『えへへ、そう?』
『うん! キラキラしてた! 穂香、絶対将来、あの舞台で踊れるよ!』
──キラキラ、してた。
あの時は、その言葉の意味が分からなかった。
でも今なら分かる。きっとあの時、私の中の「力」が、ほんの少しだけ目覚めていたんだ。
『俺、大きくなったら農家になる! 穂香と一緒に、麦を育てたい!』
『私も! おばあちゃんの畑、継ぎたい!』
『じゃあ約束な! 大人になったら、一緒に麦畑作ろうぜ!』
『うん、約束!』
小指を絡めて、誓い合った。
あの約束を、陽介はずっと覚えていてくれたのだろうか。
──ずっと好きだった。
昨日の陽介の言葉が、頭の中で蘇る。
『穂香の踊り、すごく綺麗だった』
幼い日の彼と、今の彼の言葉が重なる。
ずっと、ずっと変わらない。あの頃から何も変わらずに、私のことを見ていてくれた。
「……陽介」
呟いた声は、闇に溶けて消えた。
私は蒼真を選んだ。正確には、選ばされた。村の「慣習」という名の鎖に縛られて、村長の息子との婚約を受け入れた。
陽介はあの時、何も言わなかった。
ただ「お前が幸せなら」と笑って、身を引いた。
──私は、ずっと間違えてきたんだ。
本当に私を見てくれている人を、ずっと見ようとしなかった。
窓の外が、少しずつ白んでいく。
祭の日が、明けようとしていた。
* * *
祭の朝。
私は一人、祖母の墓参りに来ていた。
「おばあちゃん……私、どうすればいいか分からないよ」
墓石に手を合わせて、呟く。
村を救えるのは、私だけ。祖母の日記が本当なら、私が舞わなければ、麦は枯れる。
でも──
「この村のために舞う義理なんて、私にはないよ。だって誰も、私のことなんて……」
「穂香」
背後から声がして、振り返った。
陽介が立っていた。いつもより少しだけ緊張した顔で。
「……陽介。なんでここに」
「お前がここに来ると思って」
「……そう」
沈黙が流れる。
朝の冷たい空気の中、二人きり。
「なぁ、穂香」
陽介が、一歩近づいた。
「昨日から考えてたんだ。もう黙ってられない」
「……何を」
「ずっと言えなかったこと」
陽介の目が、まっすぐに私を見つめた。
「俺は──穂香のことが、ずっと好きだった」
心臓が、跳ね上がった。
「蒼真との婚約が決まった時、身を引こうと思った。お前が幸せなら、それでいいって」
「陽介……」
「でも、あいつはお前を幸せにしなかった。傷つけた。許せねぇよ」
陽介の拳が、震えている。
「俺がもっと早く言ってれば。お前をあんな奴に渡さなければ。ずっと後悔してた」
「……」
「今更だって分かってる。でも、もう嘘はつけない」
彼は私の両肩を掴んだ。強く、でも優しく。
「穂香。俺は、お前を幸せにしたい」
──ずるい。
こんなタイミングで、そんなこと言われても。
「……今は、無理」
声が震えた。
「今は……誰も、信じられないの」
蒼真に裏切られた傷が、まだ癒えていない。
誰かを信じることが、怖い。
「陽介のことは、好きだよ。幼馴染として。でも、それ以上は……今は、考えられない」
「……そうか」
陽介は、静かに私の肩から手を離した。
「急かすつもりはない。お前のペースでいい」
「……」
「ただ、覚えておいてくれ」
彼は笑った。不器用で、でも温かい笑顔。
「俺は、待ってるから。お前が心を開いてくれるまで、ずっと」
──ずっと。
その言葉が、凍った心のどこかに、ほんの少しだけ温もりを灯した。
「……ありがとう、陽介」
「おう。じゃあ行くか。祭、始まるぞ」
「……うん」
私たちは並んで、墓地を後にした。
祭の準備で賑わう村。
でも私は、傍観者でしかない。
今日、玲奈が舞う。
そして──何が起こるか、私にはもう分かっていた。
* * *
村の広場は、祭の飾り付けで華やかに彩られていた。
黄金色の旗が風にはためき、屋台が立ち並び、人々の喧騒が響いている。
「穂香」
村長の神崎権蔵が、私を呼び止めた。
「祭では裏方を手伝え。飲み物の準備と、ゴミの片付けだ」
「……はい」
「分を弁えろよ。今年の巫女役は玲奈さんだ。お前の出る幕はない」
分を弁えろ。
何度聞いたか分からない言葉。
「おい、権蔵」
横から、しわがれた声がした。
杖をついた老婆──松田ハナさんが、厳しい目で村長を睨んでいる。
「巫女役は血筋でなければならん。あの娘では届かんぞ」
「何を今更。そんな迷信、現代では通用しません」
「迷信ではない。儂はこの目で見た。五十年前、静江が舞った時のことを」
「ハナさん、それは昔話でしょう」
村長は鼻で笑った。
「玲奈さんは蒼真の婚約者だ。この村の未来を担う方がふさわしい」
「しかし……」
「決定です。これ以上の異論は認めません」
村長は踵を返して去っていった。
「……穂香」
ハナさんが、私を見た。
濁った瞳の奥に、何かを見透かすような光がある。
「お前は、静江の孫娘じゃな」
「……はい」
「お前の中には、光がある。儂には分かる」
「……」
「何があっても、その光を消すなよ」
それだけ言って、ハナさんは杖をついて去っていった。
──光。
祖母の日記にも、同じことが書かれていた。
「お前の中には黄金の光が眠っている」と。
でも私は、その光を信じることができない。
だって、今まで誰も──
「穂香ちゃん」
不意に、甘ったるい声がした。
振り返ると、巫女装束を纏った玲奈が立っていた。
「今日は裏方なんですって? お疲れ様」
表向きは上品な笑み。でも、その目は──
「見ててね。私の舞で、この村は新しく生まれ変わるから」
「……」
「あなたみたいな、古い血筋なんてもう必要ないのよ」
玲奈は髪をかき上げて、舞台の方へ去っていった。
──古い血筋なんて、必要ない。
そうかもしれない。
私がいなくても、きっと祭は成功する。玲奈が舞って、村人は喜んで、麦は──
「穂香」
陽介が、いつの間にか隣に立っていた。
「あの女、何か言ったか」
「……別に。大したことじゃない」
「嘘つけ」
陽介は低い声で言った。
「お前の顔、いつもより硬いぞ」
「……」
「無理に笑わなくていい。俺の前では」
──陽介。
「ありがとう」
私は小さく呟いた。
今の私には、それしか言えなかった。
祭が始まろうとしている。
空は晴れ渡り、黄金色の麦畑が風に揺れている。
でも私の心は、どこまでも曇ったままだった。
* * *
祭の前夜──私は一人、祖母の畑に来ていた。
月明かりに照らされた麦畑。
でもそこにあるのは、金色の穂ではなく、色褪せて萎れた、枯れかけの麦。
「……ごめんね」
無意識に、麦に向かって謝っていた。
私のせいだ。
私が心を閉ざしているから、力が眠っているから、この麦たちは──
胸元で、祖母の穂飾りがかすかに光った。
「……」
そっと、飾りを握りしめる。
その瞬間──
体の奥から、何かが湧き上がってきた。
温かくて、眩しくて、どこか懐かしい何か。
「……っ」
目を開けると、私の手が淡い金色に光っていた。
そして──
「え……」
目の前の麦が、ゆっくりと頭を持ち上げている。
枯れかけていた穂が、みるみるうちに色を取り戻していく。
「……嘘」
私は震える手で、麦の穂に触れた。
瑞々しい。生きている。
「これが……私の、力……」
祖母の言葉が蘇る。
『お前の中には黄金の光が眠っている』
本当だった。
私の中には、確かに力がある。
土地の精霊と繋がり、麦を実らせる──「黄金の巫女」の力が。
「……」
私は座り込んで、両手を見つめた。
淡い光は、もう消えている。でも、確かにあの瞬間──
「穂香」
背後から声がして、心臓が跳ね上がった。
振り返ると、陽介が立っていた。
「何してんだ、こんな時間に」
「……陽介こそ」
「お前が出かけるのが見えたから。心配で追いかけてきた」
「……そう」
沈黙。
月明かりが、二人を照らしている。
「なぁ、穂香」
陽介が、私の隣に座った。
「さっき、なんか光ってなかったか?」
「……見てたの」
「ああ」
「……驚かないの」
「別に。お前のことだ、何があっても驚かねぇよ」
その言葉が、なぜか胸に染みた。
「……陽介。私、話があるの」
「おう、聞く」
私は、全てを話した。
祖母の日記のこと。黄金の巫女のこと。五十年に一度の祭のこと。
そして──私が舞わなければ、麦が枯れるかもしれないこと。
陽介は黙って聞いていた。
一言も口を挟まず、ただ真剣な目で。
「……それで、どうすんだ」
話し終えると、陽介は静かに聞いた。
「……分からない」
私は俯いた。
「私が舞えば、村は救われるかもしれない。でも──この村のために舞う義理なんて、私にはない」
「……」
「誰も私を信じてくれなかった。蒼真も、村長も、村の人たちも。『身の程知らず』『不作続きの農家の娘』──そう言われ続けてきた」
「穂香……」
「復讐したいわけじゃない。ただ、もう……疲れたの」
涙が、頬を伝った。
堪えていたものが、溢れ出してしまった。
「舞いたくないなら、舞わなくていい」
陽介の声が、静かに響いた。
「え……」
「この村を救う義務なんて、お前にはない。お前を傷つけてきた奴らのために、お前が犠牲になる必要なんてない」
「でも、麦が──」
「俺の村に来い」
陽介が、私の手を握った。
「俺が絶対に幸せにする。お前のことを誰よりも大切にする。だから──」
強く、でも温かい手。
「お前自身を、一番に考えろ」
──お前自身を。
誰も言ってくれなかった言葉。
「村のため」「家のため」──そればかり言われてきた。
「陽介……」
「俺は、お前の味方だ。何があっても」
その言葉が、凍っていた心を、少しずつ溶かしていく。
──どうして。
どうしてこの人は、こんなにも──
母の言葉が、ふと頭をよぎった。
『この村で生きてきた誇りを、忘れないでね』
誇り。
私には、何の誇りがあるというのだろう。
でも──
祖母の顔が浮かんだ。穏やかに微笑む、優しい顔。
『穂香、お前は特別な子だよ』
私は、この土地に生まれた。
この土地で育ち、この土地の麦を食べて大きくなった。
憎いのは、村の人たちだ。
でも──この土地そのものは、私を育ててくれた。
「……私、考える」
私は陽介の手を握り返した。
「答えは、祭の時に出す。だから──もう少しだけ、待って」
「……ああ。待ってる」
月が、静かに私たちを見下ろしていた。
* * *
祭の朝。
私は、母の枕元に座っていた。
「お母さん……」
「穂香……どうしたの、そんな顔して……」
病弱な母は、それでも私のことを見抜いてしまう。
「何か……悩んでいるのね」
「……うん」
私は、祖母の日記のことを話した。黄金の巫女のこと。五十年に一度の祭のこと。
母は静かに聞いていた。
「……知っていたの、お母さん」
「……少しだけ、ね。お義母さんから、断片的に……」
「どうして教えてくれなかったの」
「あなたを……普通の娘として育てたかったから……」
母の目から、涙がこぼれた。
「お義母さんの力は、本物だった。でもその力は、大きな代償を伴う。だから私は……穂香には、普通に幸せになってほしかった……」
「お母さん……」
「でも……」
母は私の手を握った。
「選ぶのは、あなたよ。誰のためでもない、あなた自身のために──選びなさい」
「……」
「この村で生きてきた誇りを、忘れないでね。でも……それに縛られる必要もないのよ」
母の手は、細くて冷たい。
でも、その言葉は温かかった。
「あなたは何も悪くない。あなたは──愛されるために生まれてきた子よ」
祖母の言葉と、同じ。
「お母さん……私……」
「穂香」
障子の向こうから、陽介の声がした。
「祭、始まるぞ」
「……うん」
私は立ち上がった。
「行ってくる」
「……ええ。いってらっしゃい」
母が、微笑んだ。
村の広場は、人で溢れていた。
屋台の喧騒。子供たちの笑い声。祭囃子の音。
その中心に、舞台がある。
そしてその上に──巫女装束を纏った玲奈が立っていた。
「穂香」
陽介が、私の手を取った。
「まだ間に合う。ここから逃げてもいい」
「……」
私は空を見上げた。
雲一つない、青空。
黄金色の麦畑が、風に揺れている。
この景色を、私は愛している。
憎い村人たちがいても、辛い思い出があっても──この土地を、愛している。
「陽介」
「おう」
「私──」
祭囃子が止んだ。
玲奈の舞が、始まろうとしていた。
* * *
玲奈が、舞い始めた。
金色の扇を持ち、ゆっくりと腕を上げる。
形だけは美しい。誰かに教わったのだろう、一応は舞の型になっている。
でも──
「……っ」
私は、違和感を覚えた。
胸の奥が、ざわざわする。何かがおかしい。
空を見上げると──さっきまで晴れていた青空に、黒い雲が広がり始めていた。
「なんだ……あの雲……」
村人たちがざわめき始める。
玲奈は構わず舞い続けている。
くるりと回転し、扇を翻し──
その瞬間、突風が吹き荒れた。
「きゃあっ!」
屋台の幕が飛ばされる。子供が泣き出す。祭囃子が止まる。
「何が起こってるんだ!」
「風が……風が止まらない!」
村人たちが悲鳴を上げる中、私は麦畑を見た。
「……嘘」
黄金色だった麦が──見る見るうちに色を失っていく。
まるで命を吸い取られるように、枯れていく。
「麦が……麦が枯れていく!」
「なんだこれは!」
村中がパニックに陥った。
舞台の上で、玲奈が動きを止めた。
「何よ……何なのこれ……」
彼女の顔は、青ざめていた。完璧だったメイクが崩れ、巫女装束が風で乱れている。
「なんで……ちゃんと踊ってるのに……なんで……」
「玲奈!」
蒼真が舞台に駆け寄った。
「大丈夫か! どうしたんだ、急に……」
「知らない! 私は悪くない! ちゃんと踊ったのに!」
「落ち着け、玲奈──」
「うるさい! 離して!」
玲奈が蒼真を突き飛ばした。
そのまま泣き叫びながら、舞台から走り去っていく。
「……血筋でなければ、届かぬ」
松田ハナさんの声が、風の中に響いた。
「儂は言うたぞ。あの娘では駄目じゃと」
「ば、ばかな……迷信じゃないのか……」
村長が、真っ青な顔で呟いている。
「儂の言葉を聞かなんだのは、お前じゃ。権蔵」
「そんな……そんなはずは……」
麦畑が、どんどん枯れていく。
村の命である麦が、死んでいく。
「穂香」
陽介が、私の腕を掴んだ。
「お前しかいない」
「……」
「でも、無理はするな。お前が決めろ」
私は、枯れゆく麦畑を見つめた。
憎い村だ。私を傷つけた人たちがいる村だ。
でも──
『この村で生きてきた誇りを、忘れないでね』
母の声が蘇る。
『お前は愛されるために生まれてきた、大切な子だから』
祖母の声が蘇る。
『穂香の踊り、すごく綺麗だった』
幼い日の、陽介の声が蘇る。
私は──
「……私がやる」
静かに、一歩を踏み出した。
* * *
私は、静かに舞台へと歩いていった。
風が、不思議と私の周りだけ穏やかになる。
村人たちが、驚いた目で私を見ている。
「穂香……?」
「あの子、何を……」
「まさか……」
舞台の中央に立つ。
裸足になって、冷たい板の感触を確かめる。
胸元で、祖母の穂飾りが光り始めていた。
「……おばあちゃん」
私は目を閉じて、祖母のことを思った。
穏やかな笑顔。温かい手。いつも私を「特別な子」と呼んでくれた声。
『いつか分かる時が来る』
──今だよ、おばあちゃん。私、分かったよ。
私は特別なんかじゃない。
でも──この土地と、繋がっている。
この麦畑と、一緒に生きてきた。
だから──
私は、舞い始めた。
誰に教わったわけでもない。
でも、体が覚えている。祖母と一緒に見た、あの日の舞。幼い頃に真似をした、あの動き。
腕を上げる。
回転する。
空に向かって、祈りを捧げる。
その瞬間──
私の体が、金色に輝き始めた。
「な……」
「光ってる……」
「黄金の……巫女……」
村人たちの驚愕の声が聞こえる。でも、今は関係ない。
私は舞い続けた。
土地の精霊と繋がるために。枯れゆく麦たちに、命を吹き込むために。
──聞こえる。
麦たちの声が聞こえる。
「助けて」「生きたい」「実りたい」──小さな、でも確かな声。
──大丈夫。私がいるから。
心の中で、そう応えた。
風が止んだ。
黒い雲が、晴れていく。
眩い日差しが、村を照らす。
そして──
「麦が……麦が戻っていく!」
誰かが叫んだ。
見れば、枯れかけていた麦畑が、みるみるうちに蘇っている。
色褪せていた穂が、再び黄金色に輝き始める。
頭を垂れた麦が、天に向かって伸び上がる。
「奇跡だ……」
「本物の……黄金の巫女……」
村人たちが、次々と跪いていく。
私は舞い続けた。
涙が頬を伝っていることに、自分では気づかなかった。
「静江……」
松田ハナさんの声が、かすかに聞こえた。
「お前の孫は……立派に育ったぞ……」
舞が終わった時、麦畑は再び黄金色に輝いていた。
私は舞台の中央に立ち尽くしていた。
全身から力が抜けて、今にも崩れ落ちそうだった。
「穂香!」
陽介が、舞台に駆け上がってきた。
私を支えて、その大きな手で──
「すごかった。お前、すごかったよ」
「……陽介」
「泣いてるぞ、お前」
「……うん」
私は、陽介の胸に顔を埋めた。
──やっと、分かった。
私の価値は、誰かに認めてもらうものじゃない。
私が、私自身で決めるもの。
「ありがとう、陽介。傍にいてくれて」
「おう。当たり前だ」
村人たちの歓声が、遠くに聞こえた。
* * *
祭の後。
村は騒然としていた。
「見ろよ、玲奈のSNS……」
「裏垢で穂香ちゃんのこと『芋女』って……」
「最低だな……」
陽介が保存していた玲奈の裏垢の投稿が、瞬く間に拡散されていた。
『田舎マジ無理wwwwww 芋ばっかwwww』
『元婚約者の女がうざすぎてキモいんだけど』
『婚約者(笑)だったらしいwww』
村人たちの表情が、怒りに染まっていく。
「俺たちのこと、馬鹿にしてたのか……」
「よくもぬけぬけと『素敵な村』なんて……」
「許せない……」
玲奈は青ざめた顔で立ち尽くしていた。
「違……これは……」
「違わないだろ。お前の投稿だ」
陽介が、冷たい声で言った。
「穂香を陥れようとしていたこと、全部バレてる」
「そんな……蒼真くん、助けて……」
玲奈が蒼真に縋りつく。
しかし蒼真は、彼女を見ようともしなかった。
「……穂香」
蒼真が、私の前に来た。
その顔は、見たこともないほど憔悴していた。
「僕が……僕が間違っていた。全部、僕のせいだ」
「……」
「戻ってきてくれ。僕には、君が必要だ」
──今更。
「僕の婚約者として──」
「蒼真」
私は、静かに彼の言葉を遮った。
「謝罪は受け取る。でも──」
彼の目を、まっすぐに見つめた。
「もう遅いの」
「穂香……」
「私はあなたの隣にいる未来を、選ばない」
蒼真の顔が、絶望に歪んだ。
「どうして……僕は謝ったのに……」
「謝れば許されると思った?」
私の声は、自分でも驚くほど冷静だった。
「あなたは私を捨てた。『君より麦の方が大事だ』って。その言葉、覚えてる?」
「……っ」
「あなたが本当に大事にしたのは、私じゃなかった。玲奈さんでもなかった。あなた自身のプライドと、見栄だけ」
「違う……僕は……」
「さようなら、蒼真」
私は踵を返した。
「待ってくれ、穂香──」
「蒼真!」
村長が、怒りの形相で息子を呼び止めた。
「お前のせいで、この村は崩壊するところだったんだぞ! 何をしてくれたんだ!」
「父さん、僕は──」
「言い訳は聞きたくない! お前に村長の座を継がせることはできん!」
「そんな……」
蒼真が膝から崩れ落ちる。
玲奈は村人たちに囲まれて、泣き叫んでいた。
「やめて……私は悪くない……蒼真くんが私を選んだのよ……」
「とっとと村から出ていけ!」
「二度と顔を見せるな!」
私は振り返らなかった。
陽介が、私の手を取った。
「行こう、穂香」
「……うん」
二人で、喧騒を後にした。
黄金色の麦畑が、風に揺れている。
私の舞で蘇った、命の輝き。
──もう、後ろを振り返らない。
私は前を向いて、歩き始めた。
* * *
あれから三ヶ月が経った。
母の病状は、嘘のように快方に向かっている。
医者も首を傾げるほどの回復ぶりに、私は祖母の力を感じずにはいられなかった。
「穂香……本当に、元気になったわ……」
「よかった、お母さん」
縁側で並んで座る。
目の前には、黄金色に輝く麦畑が広がっている──私の畑だ。
あの祭の後、うちの畑は村一番の実りをつけた。
近隣の農家が驚いて見に来るほどの、見事な麦。
「穂香の力……本物だったのね」
「……みたいだね」
私は微笑んだ。
あの日から、私は変わった。
自分の力を受け入れ、自分の価値を信じられるようになった。
蒼真は村を出た。
村長の座を継げなくなった彼は、居場所を失って都会へ行ったらしい。
玲奈も村を追われた。
SNSの投稿が全国的に拡散されて、「田舎を馬鹿にした都会の女」として炎上したと聞いた。
正直、どうでもいい。
彼らの末路に、もう興味はない。
私にはもっと大切なことがある。
「穂香」
声がして、振り返った。
陽介が、麦畑の向こうから歩いてくる。
「陽介。どうしたの、急に」
「いや……ちょっと、話があって」
彼の様子がおかしい。
いつも堂々としている陽介が、なぜか緊張している。
「お母さん、ちょっと失礼する」
「ええ、ごゆっくり」
母が意味深に微笑んだ。
私は陽介と一緒に、麦畑の中に入った。
黄金色の穂が、膝まで揺れている。風が吹くたびに、さらさらと音を立てる。
「なぁ、穂香」
「うん」
「俺さ、ずっと考えてたんだ。お前とのこと」
「……」
「あの祭の日から……いや、もっと前から。ずっと」
陽介が、私の前で立ち止まった。
「俺は、お前と一緒にいたい。一生」
心臓が、跳ね上がった。
「穂香」
陽介が、膝をついた。
「結婚してくれ」
その手には、小さな箱。中には、麦の穂を模したデザインのリングが輝いている。
「俺は農家だから、大したことはできない。でも、お前のことは一生守る。お前の畑も、お前の力も、全部受け止める」
「陽介……」
「今度は俺が、お前を一生守る」
涙が、溢れた。
嬉しくて、幸せで、胸がいっぱいで──言葉が出てこない。
「……陽介」
「おう」
「私──」
風が吹いた。
黄金色の麦穂が、二人の周りで優しく揺れる。
まるで祝福するように。
まるで祖母が微笑んでいるように。
私は、涙を拭って、笑った。
「うん」
たった一言。
でも、それが私の全てだった。
陽介の顔が、パッと輝いた。
立ち上がって、私を抱きしめる。
「ありがとう、穂香。ありがとう」
「こちらこそ……ありがとう、陽介」
──麦穂が金に染まる頃、さよなら。
あの日、私は過去に別れを告げた。
辛かった日々に、私を傷つけた人たちに、自分を信じられなかった弱い自分に。
そして今、新しい始まりを迎える。
黄金色の麦畑で、私を一番に愛してくれる人と一緒に。
祖母の穂飾りが、胸元でかすかに光った。
『穂香、お前は愛されるために生まれてきた、大切な子だから』
──おばあちゃん、私、やっと幸せになれるよ。
風に揺れる麦穂の音が、祝福の歌のように響いていた。
【完】




