↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

婚約者に『君より麦の方が大事だ』と言われて婚約破棄された農家の娘ですが、実は私、この村の豊穣を司る巫女の末裔でした〜刈り入れ祭で真実が明かされる時、彼は全てを失う〜

作者: uta
掲載日:2026/06/05

「君との婚約は解消だ。僕には、本当に愛する人ができた」


麦穂が金色に染まり始めた、刈り入れ祭三日前の夕暮れ。

私──柊穂香は、幼い頃から当たり前のように隣にいた人から、まるで天気の話でもするように、そう告げられた。


「……え?」


声が出ない。いや、出たのかもしれない。でも自分の耳には届かなかった。

目の前に立つ神崎蒼真の顔が、夕陽に照らされて眩しい。いつもと同じ、整った顔。いつもと同じ、爽やかな笑み。なのに、その唇から紡がれた言葉だけが、まるで異国の言語のように理解できない。


「聞こえなかった? 婚約破棄だよ、穂香」


蒼真は困ったように眉を下げた。まるで物分かりの悪い子供に言い聞かせるみたいに。


「急な話で驚くのは分かる。でも僕も考えたんだ。君といても、僕の将来が見えないって」


「将来が……見えない……?」


私は鸚鵡返しに呟くことしかできなかった。

蒼真の家は代々この村の村長を務めてきた名家。対して私の家は、ただの農家。しかもここ数年、うちの畑だけが不作続きで──


「正直に言うとね」


蒼真は視線を逸らした。その先には、黄金色に輝く麦畑が広がっている。うちの畑じゃない。よその家の、見事に実った麦畑。


「君より麦の方が大事だ」


「──は?」


「この村の将来を担う僕には、ふさわしい人が必要なんだ。不作続きの農家の娘じゃなくて、もっと……ね」


頭が真っ白になった。

君より麦の方が大事。その言葉が、頭の中でぐるぐると回る。


「玲奈と会って、僕は気づいたんだ」


蒼真の声が、どこか遠くから聞こえる。


「本当の愛ってものにね。彼女は都会から来たんだけど、洗練されていて、教養があって……僕の隣に立つのに相応しい人だって、一目で分かった」


玲奈。

一ヶ月前、この村にふらりとやってきた、都会の令嬢。プラチナブロンドの髪に、ブランド物で固めた出で立ち。村の誰もが振り返る美貌。


『素敵な村ですね。皆さん温かくて』


そう微笑む彼女を、蒼真が熱心に村案内していたのは知っていた。でも、まさか──


「彼女との婚約は、もう父さんも了承済みだから」


「……もう、決まってるの?」


私の声は、自分でも驚くほど掠れていた。


「うん。来週には正式に発表する予定だよ」


蒼真は清々しいほどの笑顔で言った。罪悪感なんて、欠片もない顔で。


「でも感謝してるよ、穂香。君がいたから、僕は本当の愛に気づけたんだ。君のためを思って言うんだけど、これは君にとってもいいことだと思う」


──私のためを思って?


「……っ」


込み上げてくる何かを、必死に飲み込んだ。泣くものか。こんな奴の前で、泣いてたまるものか。


「ごめんね、急で。でも僕、玲奈との未来にワクワクしてるんだ。君も応援してくれるよね?」


蒼真は手を振って、軽やかに歩き去っていく。まるで重荷を下ろしたみたいに、軽い足取りで。


私は動けなかった。

夕陽が沈んでいく。黄金色の麦畑が、茜色に染まっていく。三日後には刈り入れ祭。村中が浮き足立つ、一年で一番華やかな日。


その祭の主役の隣には、もう私はいない。


「……どうして」


呟いた声は、風に溶けて消えた。

誰も聞いていない。誰も見ていない。

──本当は、叫びたい。どうして私ばかり、こんな目に遭うの、と。


でも、声は出なかった。

いつものように。ずっとそうだったように。


私は唇を噛んで、よろよろと家路についた。

足元で、うちの畑の麦が力なく揺れている。周りの畑は金色に輝いているのに、うちの麦だけが、まるで枯れかけのように色褪せて見えた。


──また今年も、不作なのかな。


そんなことを、場違いにも考えてしまう。

婚約を破棄されたばかりだというのに。七年も一緒にいた相手に捨てられたばかりだというのに。


私はきっと、どこか壊れている。



     * * *



翌朝。

噂は、もう村中に広まっていた。


「ねぇ、聞いた? 穂香ちゃん、蒼真様に捨てられたんですって」

「まぁ……でも仕方ないわよねぇ。あの子の家、ここ何年もまともに麦が実ってないでしょう?」

「蒼真様には玲奈様の方がお似合いよ。都会のお嬢様ですもの」


井戸端で話す声が、嫌でも耳に入る。

私は俯いたまま、足早に通り過ぎようとした。でも──


「あら、穂香ちゃん」


呼び止められて、足が止まる。

振り返ると、近所のおばさんたちが意地の悪い笑みを浮かべていた。


「大変だったわねぇ。でも、身の程を知るいい機会だったんじゃない?」


「……」


「蒼真様と釣り合うと思ってたの? 村長の跡取りと、不作続きの農家の娘じゃあねぇ」


笑い声が重なる。

──違う。私だって、望んで婚約したわけじゃない。村の「慣習」で、幼い頃から決められていただけで──


でも、そんな言い訳、誰も聞いてくれない。


「す、すみません……」


私は頭を下げて、逃げるようにその場を離れた。


村の目抜き通りを歩く。刈り入れ祭の準備で、至る所に飾り付けがされている。金色の麦穂を模した旗。豊穣を祝う幟。賑やかな祭囃子の練習の音。


なのに私の周りだけ、冷たい風が吹いている気がした。


すれ違う人が、ひそひそと囁き合う。

視線が突き刺さる。哀れみ。嘲り。見下し。


「……っ」


走り出したかった。でも走ったら、余計に惨めだから。

私は必死に平静を装って、一歩一歩、家に向かって歩いた。


「穂香」


不意に、聞き慣れた声がした。

振り返ると──


「陽介……」


橘陽介。幼馴染で、隣村で農業法人を営む家の跡取り。日に焼けた肌に、短く刈り込んだ黒髪。温かくて、大きな手。


「大丈夫か? 顔色、悪いぞ」


「……うん、大丈夫」


「嘘つけ」


陽介は眉を寄せて、私の顔を覗き込んだ。


「聞いた。蒼真の野郎、何考えてんだ」


「……別に。蒼真が誰と婚約しようと、蒼真の自由だから」


「穂香」


「本当に大丈夫だから。心配しないで」


私は無理に笑顔を作った。多分、すごく下手な笑顔だったと思う。

陽介は何か言いたそうにしていたけど、結局、深いため息をついただけだった。


「……無理すんなよ」


「うん」


「なんかあったら、すぐ言えよ。俺、いつでも来るから」


「……ありがとう」


陽介の背中が遠ざかっていく。

彼だけだ。この村で、私を見る目が変わらないのは。


──でも、だからって甘えるわけにはいかない。


私は再び歩き出した。


家に着くと、母が縁側で横になっていた。


「お母さん……また起き上がって……」


「穂香……おかえり……」


母──柊早苗の顔は、日に日にやつれていく。父が亡くなってから、心労が重なって、最近はほとんど寝たきりの状態だ。


「横になってて。私がご飯作るから」


「……聞いたよ、蒼真くんのこと」


私の手が止まる。


「あなたは何も悪くない」


母の細い手が、私の手を握った。


「穂香……あなたは、あなたのままでいいのよ……」


「……お母さん」


込み上げてくるものを、必死に堪えた。

この人の前では、泣けない。これ以上、心配をかけられない。


「大丈夫だよ、お母さん。私、全然平気だから」


嘘だった。全然平気なんかじゃない。

胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛い。


でも──誰にも言えない。誰にも見せられない。


その夜。

私は一人、祖母の遺品が眠る納戸の前に立っていた。


──おばあちゃんだったら、なんて言うだろう。


七年前に亡くなった父方の祖母、柊静江。いつも穏やかに微笑んでいた、優しいおばあちゃん。


『穂香、お前は特別な子だよ』


幼い頃、何度も言われた言葉。その意味は、最後まで分からなかったけど。


──今なら、少しは分かるのかな。


私は静かに、納戸の戸を開けた。



     * * *



埃っぽい納戸の中、私は祖母の遺品が入った木箱を開けた。


古い着物。色褪せた写真。そして──


「これ……」


一冊の日記帳と、不思議な飾りが目に入った。


日記帳は年季が入っていて、表紙は茶色く変色している。そしてその隣にあるのは──麦の穂を模した、繊細な細工の髪飾り。


手に取った瞬間、息を呑んだ。


飾りが、淡く金色に光ったのだ。


「……え?」


慌てて手を離す。飾りは畳の上に落ちて、光は消えた。


──気のせい?


恐る恐る、もう一度手に取る。

やっぱり光る。私の手の中で、麦穂の飾りが、まるで命を持っているみたいに、きらきらと輝いている。


「なに、これ……」


震える手で、日記帳を開いた。

祖母の几帳面な字が、びっしりと並んでいる。


『五十年に一度の刈り入れ祭には、黄金の巫女が舞を捧げねばならない』


ページをめくる手が止まった。


『巫女の舞なくして、この村の麦は実らぬ。継承者が踊らねば、畑は枯れる』


『我が家は代々、黄金の巫女の血を継いできた。私もまた、五十年前の祭で舞を捧げた』


『次の祭は、五十年後──私はもうこの世にいないだろう。だから穂香、お前に託す』


心臓が、どくんと跳ねた。


『お前の中には黄金の光が眠っている。いつか必ず、目覚める時が来る』


五十年に一度。

五十年前といえば、祖母が若かった頃。そして今年は──


「……まさか」


私は震える手で、カレンダーを確認した。

今年は、祖母が舞を捧げてからちょうど五十年目。

つまり──今年の刈り入れ祭が、その「五十年に一度」の祭。


『穂香、お前は特別な子だよ』


祖母の声が、頭の中で蘇る。


『いつか分かる時が来る』


私は日記の続きを、夢中で読み進めた。


『黄金の巫女は、土地の精霊と繋がる力を持つ。その力があるからこそ、麦は実り、村は栄える』


『しかし力は諸刃の剣。巫女が心を閉ざせば、力は眠り、土地は痩せる』


──心を、閉ざせば。


ふと、うちの畑のことが頭をよぎった。

周りの畑は毎年豊作なのに、うちの畑だけが不作続き。みんなは「穂香の家は呪われている」なんて陰口を叩くけど──


もしかして、それは。


私の中の「力」が、眠っているせい……?


日記の最後のページには、こう記されていた。


『穂香へ。この飾りはお前に託す。お前の中の黄金の光を、信じておくれ。お前は愛されるために生まれてきた、大切な子だから』


視界が滲んだ。


「おばあちゃん……」


穂飾りを、そっと胸に抱きしめた。

その瞬間──私の手が、再び淡く光を放った。今度は、はっきりと。


「……っ」


怖かった。でも、不思議と嫌じゃなかった。

まるで、ずっと忘れていた何かを思い出したみたいな──そんな感覚。


『いつか分かる時が来る』


──おばあちゃん、私、やっと分かったよ。


私は「黄金の巫女」の末裔。

この村の豊穣を司る、最後の継承者。


でも──


日記を閉じて、私は俯いた。


だからって、どうすればいいの?

今更この村のために舞えって言うの?

私を「身の程知らず」と嘲り、蒼真に捨てられたことを笑った、この村のために?


胸の奥で、何かが燻っている。

怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない。


──私は、どうすればいいんだろう。


窓の外で、風に揺れる麦穂の音がした。

祭まで、あと二日。



     * * *



祭の前日。

村長家で、玲奈の「歓迎会」が開かれると聞いた。


私には関係ない。そう思っていたのに──


「穂香ちゃん、ちょっといいかしら」


買い物帰り、村長家の前で玲奈に呼び止められた。

彼女は相変わらず完璧だった。淡いピンクのワンピース。巻いたプラチナブロンドの髪。甘い香水の匂い。


「あなたに話があるの。中に入って」


「……私は」


「いいから」


有無を言わさない口調で、私は村長家の裏庭に連れ込まれた。

他に誰もいない。二人きり。


その瞬間、玲奈の表情が変わった。


「ねぇ、いつまでこの村にいるつもり?」


「……え?」


「あなた、まだ蒼真くんのこと諦めてないんでしょ? 惨めね」


声のトーンが、まるで別人だった。

上品な「お嬢様」の仮面が剥がれ落ちて、そこにいたのは──


「あなた程度が蒼真くんの隣? 笑わせないでよ」


冷たい、嘲りの眼差し。


「田舎者は田舎者らしく、畑でも耕いてなさいよ。あ、でもあなたの畑、全然実らないんだっけ? 可哀想に」


くすくすと、玲奈は笑った。


「……私は、蒼真との婚約なんてもう」


「嘘おっしゃい。あなたみたいな芋女、他に行くところなんてないでしょ?」


芋女。

その言葉が、胸に突き刺さった。


「私が蒼真くんと婚約したこと、悔しい? 妬ましい? ねぇ、どんな気持ち?」


「……」


「黙ってないで何か言いなさいよ。それとも、言い返す言葉もないの?」


私は俯いたまま、唇を噛んだ。

言い返したい。言い返したいけど、言葉が出てこない。


「はぁ……つまんない」


玲奈は髪をかき上げて、踵を返した。


「明日の祭、楽しみにしてなさい。私が巫女役をするの。蒼真くんが推薦してくれたのよ」


──巫女役?


「村長さんも了承済み。古臭い伝統なんて、私が新しく塗り替えてあげるわ」


「待って……それは」


「あら、何か問題?」


振り返った玲奈の目が、細められる。


「まさか自分がやりたかったとか? 身の程知らずにもほどがあるわ」


違う。そうじゃない。

巫女の舞は、血筋でなければ──


でも、そんなこと、今更誰に言えるというのか。


「……何でもない」


「そ。じゃあね、芋女さん」


玲奈が去った後、私はしばらくその場から動けなかった。


その夜。

陽介から連絡があった。


「穂香、見たか? あの女のSNS」


「……SNS?」


陽介が見せてくれたスマホの画面には、玲奈のアカウントが映っていた。


『田舎暮らし最高! 村の人たちも温かくて幸せ♡ #スローライフ #素敵な村 #婚約者とデート』


──こんなの、全部嘘じゃない。


「これだけじゃねぇ。裏垢も見つけた」


陽介がスクロールする。


『田舎マジ無理wwwwww 芋ばっかwwww』

『元婚約者の女がうざすぎてキモいんだけど。早く消えてくんないかなー』

『婚約者(笑)だったらしいwww 蒼真くんも苦労したね〜』


……ひどい。


「なんなんだこの女……!」


陽介が怒りに震えている。


「穂香、これ証拠になる。みんなに見せれば──」


「……いい」


「は?」


「いいの、陽介。もう私には関係ないから」


「関係ないって……穂香、お前はこんな扱いされて悔しくないのかよ!」


──悔しいに決まってる。

悔しくて、惨めで、消えてしまいたいくらい。

でも。


「私が何を言っても、誰も信じてくれないよ。玲奈さんは『都会のお嬢様』で、私は『不作続きの農家の娘』だもの」


「穂香……」


「ありがとう、陽介。でも、もう寝るね」


通話を切って、私は布団に潜り込んだ。


──明日は、祭。


玲奈が舞う。巫女の血筋でもないのに。

きっと、何も起こらない。麦は枯れたりしない。祖母の日記なんて、ただの迷信だ。


……そう、思いたかった。


枕元に置いた黄金の穂飾りが、月明かりの中でかすかに光っている。


まるで、何かを訴えかけるように。



     * * *



眠れない夜。

私は、遠い日の記憶を辿っていた。


──八歳の夏。刈り入れ祭の日。


『穂香、おいで。よく見てなさい』


祖母に手を引かれて、祭の会場に向かった。村中の人が集まっていて、屋台が並んで、お囃子の音が鳴り響いていた。


『おばあちゃん、すごい人!』

『今日は特別な日だからね。五十年に一度の、大切な祭なのよ』


村の広場の中央に、舞台が組まれていた。

その上で、一人の女性が舞っている。美しい、金色の衣を纏って。


『あの人、誰?』

『おばあちゃんの友達よ。先代の……いえ、なんでもないわ』


祖母は不思議な顔をして、私を見た。


『穂香。おばあちゃんも昔、この舞を踊ったんだよ』

『えっ、おばあちゃんが?』

『そう。五十年前にね。今度の祭を踊るのは、きっとお前だよ』


幼い私には、その意味が分からなかった。

でも──


『ほのかー!』


後ろから声がして、振り返ると、小さな男の子が走ってきた。日に焼けた肌に、短い黒髪。大きな瞳をきらきらさせた、陽介だ。


『よーすけ!』

『祭、一緒に回ろうぜ! 屋台でりんご飴買ってやるよ!』

『いいの!? やったぁ!』


祖母が微笑ましそうに私たちを見ていた。


『おばあちゃん、行ってくるね!』

『ええ、楽しんでおいで』


陽介と手を繋いで、祭の人混みを駆け抜けた。

りんご飴を食べて、金魚すくいをして、お囃子に合わせて踊って。


『なぁ穂香、さっきの舞、すげー綺麗だったな』

『うん! おばあちゃんも昔踊ったんだって!』

『へぇ! じゃあ穂香も踊れるのか?』

『……わかんない。でも、踊ってみたいな』


私はふざけて、祭の舞の真似をした。

くるくる回って、手を広げて、空に向かって──


『すげぇ! 穂香の踊り、すごく綺麗だった!』


陽介が目を丸くして言った。


『えへへ、そう?』

『うん! キラキラしてた! 穂香、絶対将来、あの舞台で踊れるよ!』


──キラキラ、してた。


あの時は、その言葉の意味が分からなかった。

でも今なら分かる。きっとあの時、私の中の「力」が、ほんの少しだけ目覚めていたんだ。


『俺、大きくなったら農家になる! 穂香と一緒に、麦を育てたい!』

『私も! おばあちゃんの畑、継ぎたい!』

『じゃあ約束な! 大人になったら、一緒に麦畑作ろうぜ!』

『うん、約束!』


小指を絡めて、誓い合った。

あの約束を、陽介はずっと覚えていてくれたのだろうか。


──ずっと好きだった。


昨日の陽介の言葉が、頭の中で蘇る。


『穂香の踊り、すごく綺麗だった』


幼い日の彼と、今の彼の言葉が重なる。

ずっと、ずっと変わらない。あの頃から何も変わらずに、私のことを見ていてくれた。


「……陽介」


呟いた声は、闇に溶けて消えた。


私は蒼真を選んだ。正確には、選ばされた。村の「慣習」という名の鎖に縛られて、村長の息子との婚約を受け入れた。


陽介はあの時、何も言わなかった。

ただ「お前が幸せなら」と笑って、身を引いた。


──私は、ずっと間違えてきたんだ。


本当に私を見てくれている人を、ずっと見ようとしなかった。


窓の外が、少しずつ白んでいく。

祭の日が、明けようとしていた。



     * * *



祭の朝。

私は一人、祖母の墓参りに来ていた。


「おばあちゃん……私、どうすればいいか分からないよ」


墓石に手を合わせて、呟く。


村を救えるのは、私だけ。祖母の日記が本当なら、私が舞わなければ、麦は枯れる。

でも──


「この村のために舞う義理なんて、私にはないよ。だって誰も、私のことなんて……」


「穂香」


背後から声がして、振り返った。

陽介が立っていた。いつもより少しだけ緊張した顔で。


「……陽介。なんでここに」


「お前がここに来ると思って」


「……そう」


沈黙が流れる。

朝の冷たい空気の中、二人きり。


「なぁ、穂香」


陽介が、一歩近づいた。


「昨日から考えてたんだ。もう黙ってられない」


「……何を」


「ずっと言えなかったこと」


陽介の目が、まっすぐに私を見つめた。


「俺は──穂香のことが、ずっと好きだった」


心臓が、跳ね上がった。


「蒼真との婚約が決まった時、身を引こうと思った。お前が幸せなら、それでいいって」


「陽介……」


「でも、あいつはお前を幸せにしなかった。傷つけた。許せねぇよ」


陽介の拳が、震えている。


「俺がもっと早く言ってれば。お前をあんな奴に渡さなければ。ずっと後悔してた」


「……」


「今更だって分かってる。でも、もう嘘はつけない」


彼は私の両肩を掴んだ。強く、でも優しく。


「穂香。俺は、お前を幸せにしたい」


──ずるい。

こんなタイミングで、そんなこと言われても。


「……今は、無理」


声が震えた。


「今は……誰も、信じられないの」


蒼真に裏切られた傷が、まだ癒えていない。

誰かを信じることが、怖い。


「陽介のことは、好きだよ。幼馴染として。でも、それ以上は……今は、考えられない」


「……そうか」


陽介は、静かに私の肩から手を離した。


「急かすつもりはない。お前のペースでいい」


「……」


「ただ、覚えておいてくれ」


彼は笑った。不器用で、でも温かい笑顔。


「俺は、待ってるから。お前が心を開いてくれるまで、ずっと」


──ずっと。


その言葉が、凍った心のどこかに、ほんの少しだけ温もりを灯した。


「……ありがとう、陽介」


「おう。じゃあ行くか。祭、始まるぞ」


「……うん」


私たちは並んで、墓地を後にした。


祭の準備で賑わう村。

でも私は、傍観者でしかない。


今日、玲奈が舞う。

そして──何が起こるか、私にはもう分かっていた。



     * * *



村の広場は、祭の飾り付けで華やかに彩られていた。

黄金色の旗が風にはためき、屋台が立ち並び、人々の喧騒が響いている。


「穂香」


村長の神崎権蔵が、私を呼び止めた。


「祭では裏方を手伝え。飲み物の準備と、ゴミの片付けだ」


「……はい」


「分を弁えろよ。今年の巫女役は玲奈さんだ。お前の出る幕はない」


分を弁えろ。

何度聞いたか分からない言葉。


「おい、権蔵」


横から、しわがれた声がした。

杖をついた老婆──松田ハナさんが、厳しい目で村長を睨んでいる。


「巫女役は血筋でなければならん。あの娘では届かんぞ」


「何を今更。そんな迷信、現代では通用しません」


「迷信ではない。儂はこの目で見た。五十年前、静江が舞った時のことを」


「ハナさん、それは昔話でしょう」


村長は鼻で笑った。


「玲奈さんは蒼真の婚約者だ。この村の未来を担う方がふさわしい」


「しかし……」


「決定です。これ以上の異論は認めません」


村長は踵を返して去っていった。


「……穂香」


ハナさんが、私を見た。

濁った瞳の奥に、何かを見透かすような光がある。


「お前は、静江の孫娘じゃな」


「……はい」


「お前の中には、光がある。儂には分かる」


「……」


「何があっても、その光を消すなよ」


それだけ言って、ハナさんは杖をついて去っていった。


──光。


祖母の日記にも、同じことが書かれていた。

「お前の中には黄金の光が眠っている」と。


でも私は、その光を信じることができない。

だって、今まで誰も──


「穂香ちゃん」


不意に、甘ったるい声がした。

振り返ると、巫女装束を纏った玲奈が立っていた。


「今日は裏方なんですって? お疲れ様」


表向きは上品な笑み。でも、その目は──


「見ててね。私の舞で、この村は新しく生まれ変わるから」


「……」


「あなたみたいな、古い血筋なんてもう必要ないのよ」


玲奈は髪をかき上げて、舞台の方へ去っていった。


──古い血筋なんて、必要ない。


そうかもしれない。

私がいなくても、きっと祭は成功する。玲奈が舞って、村人は喜んで、麦は──


「穂香」


陽介が、いつの間にか隣に立っていた。


「あの女、何か言ったか」


「……別に。大したことじゃない」


「嘘つけ」


陽介は低い声で言った。


「お前の顔、いつもより硬いぞ」


「……」


「無理に笑わなくていい。俺の前では」


──陽介。


「ありがとう」


私は小さく呟いた。

今の私には、それしか言えなかった。


祭が始まろうとしている。

空は晴れ渡り、黄金色の麦畑が風に揺れている。


でも私の心は、どこまでも曇ったままだった。



     * * *



祭の前夜──私は一人、祖母の畑に来ていた。


月明かりに照らされた麦畑。

でもそこにあるのは、金色の穂ではなく、色褪せて萎れた、枯れかけの麦。


「……ごめんね」


無意識に、麦に向かって謝っていた。


私のせいだ。

私が心を閉ざしているから、力が眠っているから、この麦たちは──


胸元で、祖母の穂飾りがかすかに光った。


「……」


そっと、飾りを握りしめる。

その瞬間──


体の奥から、何かが湧き上がってきた。


温かくて、眩しくて、どこか懐かしい何か。


「……っ」


目を開けると、私の手が淡い金色に光っていた。

そして──


「え……」


目の前の麦が、ゆっくりと頭を持ち上げている。

枯れかけていた穂が、みるみるうちに色を取り戻していく。


「……嘘」


私は震える手で、麦の穂に触れた。

瑞々しい。生きている。


「これが……私の、力……」


祖母の言葉が蘇る。


『お前の中には黄金の光が眠っている』


本当だった。

私の中には、確かに力がある。

土地の精霊と繋がり、麦を実らせる──「黄金の巫女」の力が。


「……」


私は座り込んで、両手を見つめた。

淡い光は、もう消えている。でも、確かにあの瞬間──


「穂香」


背後から声がして、心臓が跳ね上がった。

振り返ると、陽介が立っていた。


「何してんだ、こんな時間に」


「……陽介こそ」


「お前が出かけるのが見えたから。心配で追いかけてきた」


「……そう」


沈黙。

月明かりが、二人を照らしている。


「なぁ、穂香」


陽介が、私の隣に座った。


「さっき、なんか光ってなかったか?」


「……見てたの」


「ああ」


「……驚かないの」


「別に。お前のことだ、何があっても驚かねぇよ」


その言葉が、なぜか胸に染みた。


「……陽介。私、話があるの」


「おう、聞く」


私は、全てを話した。

祖母の日記のこと。黄金の巫女のこと。五十年に一度の祭のこと。

そして──私が舞わなければ、麦が枯れるかもしれないこと。


陽介は黙って聞いていた。

一言も口を挟まず、ただ真剣な目で。


「……それで、どうすんだ」


話し終えると、陽介は静かに聞いた。


「……分からない」


私は俯いた。


「私が舞えば、村は救われるかもしれない。でも──この村のために舞う義理なんて、私にはない」


「……」


「誰も私を信じてくれなかった。蒼真も、村長も、村の人たちも。『身の程知らず』『不作続きの農家の娘』──そう言われ続けてきた」


「穂香……」


「復讐したいわけじゃない。ただ、もう……疲れたの」


涙が、頬を伝った。

堪えていたものが、溢れ出してしまった。


「舞いたくないなら、舞わなくていい」


陽介の声が、静かに響いた。


「え……」


「この村を救う義務なんて、お前にはない。お前を傷つけてきた奴らのために、お前が犠牲になる必要なんてない」


「でも、麦が──」


「俺の村に来い」


陽介が、私の手を握った。


「俺が絶対に幸せにする。お前のことを誰よりも大切にする。だから──」


強く、でも温かい手。


「お前自身を、一番に考えろ」


──お前自身を。


誰も言ってくれなかった言葉。

「村のため」「家のため」──そればかり言われてきた。


「陽介……」


「俺は、お前の味方だ。何があっても」


その言葉が、凍っていた心を、少しずつ溶かしていく。


──どうして。

どうしてこの人は、こんなにも──


母の言葉が、ふと頭をよぎった。


『この村で生きてきた誇りを、忘れないでね』


誇り。

私には、何の誇りがあるというのだろう。


でも──


祖母の顔が浮かんだ。穏やかに微笑む、優しい顔。


『穂香、お前は特別な子だよ』


私は、この土地に生まれた。

この土地で育ち、この土地の麦を食べて大きくなった。


憎いのは、村の人たちだ。

でも──この土地そのものは、私を育ててくれた。


「……私、考える」


私は陽介の手を握り返した。


「答えは、祭の時に出す。だから──もう少しだけ、待って」


「……ああ。待ってる」


月が、静かに私たちを見下ろしていた。



     * * *



祭の朝。


私は、母の枕元に座っていた。


「お母さん……」


「穂香……どうしたの、そんな顔して……」


病弱な母は、それでも私のことを見抜いてしまう。


「何か……悩んでいるのね」


「……うん」


私は、祖母の日記のことを話した。黄金の巫女のこと。五十年に一度の祭のこと。

母は静かに聞いていた。


「……知っていたの、お母さん」


「……少しだけ、ね。お義母さんから、断片的に……」


「どうして教えてくれなかったの」


「あなたを……普通の娘として育てたかったから……」


母の目から、涙がこぼれた。


「お義母さんの力は、本物だった。でもその力は、大きな代償を伴う。だから私は……穂香には、普通に幸せになってほしかった……」


「お母さん……」


「でも……」


母は私の手を握った。


「選ぶのは、あなたよ。誰のためでもない、あなた自身のために──選びなさい」


「……」


「この村で生きてきた誇りを、忘れないでね。でも……それに縛られる必要もないのよ」


母の手は、細くて冷たい。

でも、その言葉は温かかった。


「あなたは何も悪くない。あなたは──愛されるために生まれてきた子よ」


祖母の言葉と、同じ。


「お母さん……私……」


「穂香」


障子の向こうから、陽介の声がした。


「祭、始まるぞ」


「……うん」


私は立ち上がった。


「行ってくる」


「……ええ。いってらっしゃい」


母が、微笑んだ。


村の広場は、人で溢れていた。

屋台の喧騒。子供たちの笑い声。祭囃子の音。


その中心に、舞台がある。

そしてその上に──巫女装束を纏った玲奈が立っていた。


「穂香」


陽介が、私の手を取った。


「まだ間に合う。ここから逃げてもいい」


「……」


私は空を見上げた。

雲一つない、青空。

黄金色の麦畑が、風に揺れている。


この景色を、私は愛している。

憎い村人たちがいても、辛い思い出があっても──この土地を、愛している。


「陽介」


「おう」


「私──」


祭囃子が止んだ。


玲奈の舞が、始まろうとしていた。



     * * *



玲奈が、舞い始めた。


金色の扇を持ち、ゆっくりと腕を上げる。

形だけは美しい。誰かに教わったのだろう、一応は舞の型になっている。


でも──


「……っ」


私は、違和感を覚えた。

胸の奥が、ざわざわする。何かがおかしい。


空を見上げると──さっきまで晴れていた青空に、黒い雲が広がり始めていた。


「なんだ……あの雲……」


村人たちがざわめき始める。


玲奈は構わず舞い続けている。

くるりと回転し、扇を翻し──


その瞬間、突風が吹き荒れた。


「きゃあっ!」


屋台の幕が飛ばされる。子供が泣き出す。祭囃子が止まる。


「何が起こってるんだ!」

「風が……風が止まらない!」


村人たちが悲鳴を上げる中、私は麦畑を見た。


「……嘘」


黄金色だった麦が──見る見るうちに色を失っていく。

まるで命を吸い取られるように、枯れていく。


「麦が……麦が枯れていく!」

「なんだこれは!」


村中がパニックに陥った。


舞台の上で、玲奈が動きを止めた。


「何よ……何なのこれ……」


彼女の顔は、青ざめていた。完璧だったメイクが崩れ、巫女装束が風で乱れている。


「なんで……ちゃんと踊ってるのに……なんで……」


「玲奈!」


蒼真が舞台に駆け寄った。


「大丈夫か! どうしたんだ、急に……」


「知らない! 私は悪くない! ちゃんと踊ったのに!」


「落ち着け、玲奈──」


「うるさい! 離して!」


玲奈が蒼真を突き飛ばした。

そのまま泣き叫びながら、舞台から走り去っていく。


「……血筋でなければ、届かぬ」


松田ハナさんの声が、風の中に響いた。


「儂は言うたぞ。あの娘では駄目じゃと」


「ば、ばかな……迷信じゃないのか……」


村長が、真っ青な顔で呟いている。


「儂の言葉を聞かなんだのは、お前じゃ。権蔵」


「そんな……そんなはずは……」


麦畑が、どんどん枯れていく。

村の命である麦が、死んでいく。


「穂香」


陽介が、私の腕を掴んだ。


「お前しかいない」


「……」


「でも、無理はするな。お前が決めろ」


私は、枯れゆく麦畑を見つめた。


憎い村だ。私を傷つけた人たちがいる村だ。

でも──


『この村で生きてきた誇りを、忘れないでね』


母の声が蘇る。


『お前は愛されるために生まれてきた、大切な子だから』


祖母の声が蘇る。


『穂香の踊り、すごく綺麗だった』


幼い日の、陽介の声が蘇る。


私は──


「……私がやる」


静かに、一歩を踏み出した。



     * * *



私は、静かに舞台へと歩いていった。


風が、不思議と私の周りだけ穏やかになる。

村人たちが、驚いた目で私を見ている。


「穂香……?」

「あの子、何を……」

「まさか……」


舞台の中央に立つ。

裸足になって、冷たい板の感触を確かめる。


胸元で、祖母の穂飾りが光り始めていた。


「……おばあちゃん」


私は目を閉じて、祖母のことを思った。

穏やかな笑顔。温かい手。いつも私を「特別な子」と呼んでくれた声。


『いつか分かる時が来る』


──今だよ、おばあちゃん。私、分かったよ。


私は特別なんかじゃない。

でも──この土地と、繋がっている。

この麦畑と、一緒に生きてきた。


だから──


私は、舞い始めた。


誰に教わったわけでもない。

でも、体が覚えている。祖母と一緒に見た、あの日の舞。幼い頃に真似をした、あの動き。


腕を上げる。

回転する。

空に向かって、祈りを捧げる。


その瞬間──


私の体が、金色に輝き始めた。


「な……」

「光ってる……」

「黄金の……巫女……」


村人たちの驚愕の声が聞こえる。でも、今は関係ない。


私は舞い続けた。

土地の精霊と繋がるために。枯れゆく麦たちに、命を吹き込むために。


──聞こえる。


麦たちの声が聞こえる。

「助けて」「生きたい」「実りたい」──小さな、でも確かな声。


──大丈夫。私がいるから。


心の中で、そう応えた。


風が止んだ。

黒い雲が、晴れていく。

眩い日差しが、村を照らす。


そして──


「麦が……麦が戻っていく!」


誰かが叫んだ。


見れば、枯れかけていた麦畑が、みるみるうちに蘇っている。

色褪せていた穂が、再び黄金色に輝き始める。

頭を垂れた麦が、天に向かって伸び上がる。


「奇跡だ……」

「本物の……黄金の巫女……」


村人たちが、次々と跪いていく。


私は舞い続けた。

涙が頬を伝っていることに、自分では気づかなかった。


「静江……」


松田ハナさんの声が、かすかに聞こえた。


「お前の孫は……立派に育ったぞ……」


舞が終わった時、麦畑は再び黄金色に輝いていた。


私は舞台の中央に立ち尽くしていた。

全身から力が抜けて、今にも崩れ落ちそうだった。


「穂香!」


陽介が、舞台に駆け上がってきた。

私を支えて、その大きな手で──


「すごかった。お前、すごかったよ」


「……陽介」


「泣いてるぞ、お前」


「……うん」


私は、陽介の胸に顔を埋めた。


──やっと、分かった。


私の価値は、誰かに認めてもらうものじゃない。

私が、私自身で決めるもの。


「ありがとう、陽介。傍にいてくれて」


「おう。当たり前だ」


村人たちの歓声が、遠くに聞こえた。



     * * *



祭の後。

村は騒然としていた。


「見ろよ、玲奈のSNS……」

「裏垢で穂香ちゃんのこと『芋女』って……」

「最低だな……」


陽介が保存していた玲奈の裏垢の投稿が、瞬く間に拡散されていた。


『田舎マジ無理wwwwww 芋ばっかwwww』

『元婚約者の女がうざすぎてキモいんだけど』

『婚約者(笑)だったらしいwww』


村人たちの表情が、怒りに染まっていく。


「俺たちのこと、馬鹿にしてたのか……」

「よくもぬけぬけと『素敵な村』なんて……」

「許せない……」


玲奈は青ざめた顔で立ち尽くしていた。


「違……これは……」


「違わないだろ。お前の投稿だ」


陽介が、冷たい声で言った。


「穂香を陥れようとしていたこと、全部バレてる」


「そんな……蒼真くん、助けて……」


玲奈が蒼真に縋りつく。

しかし蒼真は、彼女を見ようともしなかった。


「……穂香」


蒼真が、私の前に来た。

その顔は、見たこともないほど憔悴していた。


「僕が……僕が間違っていた。全部、僕のせいだ」


「……」


「戻ってきてくれ。僕には、君が必要だ」


──今更。


「僕の婚約者として──」


「蒼真」


私は、静かに彼の言葉を遮った。


「謝罪は受け取る。でも──」


彼の目を、まっすぐに見つめた。


「もう遅いの」


「穂香……」


「私はあなたの隣にいる未来を、選ばない」


蒼真の顔が、絶望に歪んだ。


「どうして……僕は謝ったのに……」


「謝れば許されると思った?」


私の声は、自分でも驚くほど冷静だった。


「あなたは私を捨てた。『君より麦の方が大事だ』って。その言葉、覚えてる?」


「……っ」


「あなたが本当に大事にしたのは、私じゃなかった。玲奈さんでもなかった。あなた自身のプライドと、見栄だけ」


「違う……僕は……」


「さようなら、蒼真」


私は踵を返した。


「待ってくれ、穂香──」


「蒼真!」


村長が、怒りの形相で息子を呼び止めた。


「お前のせいで、この村は崩壊するところだったんだぞ! 何をしてくれたんだ!」


「父さん、僕は──」


「言い訳は聞きたくない! お前に村長の座を継がせることはできん!」


「そんな……」


蒼真が膝から崩れ落ちる。


玲奈は村人たちに囲まれて、泣き叫んでいた。


「やめて……私は悪くない……蒼真くんが私を選んだのよ……」


「とっとと村から出ていけ!」

「二度と顔を見せるな!」


私は振り返らなかった。


陽介が、私の手を取った。


「行こう、穂香」


「……うん」


二人で、喧騒を後にした。


黄金色の麦畑が、風に揺れている。

私の舞で蘇った、命の輝き。


──もう、後ろを振り返らない。


私は前を向いて、歩き始めた。



     * * *



あれから三ヶ月が経った。


母の病状は、嘘のように快方に向かっている。

医者も首を傾げるほどの回復ぶりに、私は祖母の力を感じずにはいられなかった。


「穂香……本当に、元気になったわ……」


「よかった、お母さん」


縁側で並んで座る。

目の前には、黄金色に輝く麦畑が広がっている──私の畑だ。


あの祭の後、うちの畑は村一番の実りをつけた。

近隣の農家が驚いて見に来るほどの、見事な麦。


「穂香の力……本物だったのね」


「……みたいだね」


私は微笑んだ。

あの日から、私は変わった。

自分の力を受け入れ、自分の価値を信じられるようになった。


蒼真は村を出た。

村長の座を継げなくなった彼は、居場所を失って都会へ行ったらしい。


玲奈も村を追われた。

SNSの投稿が全国的に拡散されて、「田舎を馬鹿にした都会の女」として炎上したと聞いた。


正直、どうでもいい。

彼らの末路に、もう興味はない。


私にはもっと大切なことがある。


「穂香」


声がして、振り返った。

陽介が、麦畑の向こうから歩いてくる。


「陽介。どうしたの、急に」


「いや……ちょっと、話があって」


彼の様子がおかしい。

いつも堂々としている陽介が、なぜか緊張している。


「お母さん、ちょっと失礼する」


「ええ、ごゆっくり」


母が意味深に微笑んだ。


私は陽介と一緒に、麦畑の中に入った。

黄金色の穂が、膝まで揺れている。風が吹くたびに、さらさらと音を立てる。


「なぁ、穂香」


「うん」


「俺さ、ずっと考えてたんだ。お前とのこと」


「……」


「あの祭の日から……いや、もっと前から。ずっと」


陽介が、私の前で立ち止まった。


「俺は、お前と一緒にいたい。一生」


心臓が、跳ね上がった。


「穂香」


陽介が、膝をついた。


「結婚してくれ」


その手には、小さな箱。中には、麦の穂を模したデザインのリングが輝いている。


「俺は農家だから、大したことはできない。でも、お前のことは一生守る。お前の畑も、お前の力も、全部受け止める」


「陽介……」


「今度は俺が、お前を一生守る」


涙が、溢れた。


嬉しくて、幸せで、胸がいっぱいで──言葉が出てこない。


「……陽介」


「おう」


「私──」


風が吹いた。

黄金色の麦穂が、二人の周りで優しく揺れる。


まるで祝福するように。

まるで祖母が微笑んでいるように。


私は、涙を拭って、笑った。


「うん」


たった一言。

でも、それが私の全てだった。


陽介の顔が、パッと輝いた。

立ち上がって、私を抱きしめる。


「ありがとう、穂香。ありがとう」


「こちらこそ……ありがとう、陽介」


──麦穂が金に染まる頃、さよなら。


あの日、私は過去に別れを告げた。

辛かった日々に、私を傷つけた人たちに、自分を信じられなかった弱い自分に。


そして今、新しい始まりを迎える。


黄金色の麦畑で、私を一番に愛してくれる人と一緒に。


祖母の穂飾りが、胸元でかすかに光った。


『穂香、お前は愛されるために生まれてきた、大切な子だから』


──おばあちゃん、私、やっと幸せになれるよ。


風に揺れる麦穂の音が、祝福の歌のように響いていた。


【完】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
8歳の時に祖母と一緒に50年に一度の祭りを見た 今年は50年に一度の祭りなら穂香は58歳になりませんか 祖母の日記では祖母が舞ってから今年で50年 色々とおかしくありませんか?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。