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書き殴られた未完の物語標本  作者: かがみゆえ


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【中編】消せない留守番電話

⚠️この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

 .





 美咲のスマートフォンが奇妙な“心臓”を持ち始めたのはあの三月六日の夜からだった。

 東京へ向かう新幹線の中で目にした“充電100%”の表示。

 それは数時間使い続けても、動画を視聴しても、一向に減る気配を見せなかった。

 意図して充電しなくてもに、端末は常に満ち足りた熱を帯びている。

 それはまるで、誰かの体温が端末に乗り移ったかのようだった。






 第七章:意思を持つ端末


 最初はそれを“死んだ祖母からの最後の贈り物”だと思おうとした。

 スマートフォンの充電を気にしなくて済む生活は、忙しいデザイン事務所での仕事において確かに便利だったからだ。

 しかし、その“便利さ”は、次第に美咲の意志を侵食し始める。


 ある日のことだ。

 美咲は職場で、些細なミスから上司に厳しく叱責された。

 理不尽な言い分も多く、美咲はトイレの個室に駆け込み音を殺して泣いた。

 その時、ポケットの中でスマートフォンが脈打つような独特の振動を見せた。

 画面を見ると、アプリの通知でもメールでもない黒い背景に白い文字だけのメッセージが浮かんでいた。


『美咲、泣かないで。あの上司、明日には転ぶからね』


 送り主の名はない。

 だが、その言葉の響きには幼い頃に膝を擦りむいた自分をあやしてくれたあのカネの口調が混じっていた。


 翌日、職場は騒然となった。

 美咲を叱った上司が駅の階段で何かに足を絡め取られたかのように派手に転倒し、大腿骨を骨折して入院したというのだ。

 美咲の身体は震えた。

 感謝よりも先にどろりとした粘り気のある恐怖が背中を這い上がった。


 カネは、画面の向こう側から自分を“守っている”のではない。

 カネは、美咲の不利益になる存在をこの現実世界から物理的に“排除”し始めたのだ。




 第八章:愛という名の隔離


 カネの排除の対象は、仕事上の敵だけではなかった。

 美咲にはその頃、親しくなりかけていた男性がいた。

 職場の同僚で、誠実な人柄の彼との時間はカネの影に怯える美咲にとって唯一の救いだった。


 ある夜、彼は美咲の部屋を訪れた。

 少しずつ距離が縮まり、彼が意を決したように美咲の肩に手を置いた瞬間だった。

 机の上に置かれていたスマートフォンから、鼓膜を突き破るような猛烈なハウリングが鳴り響いた。


「うわっ、なんだ、この音!」


 彼は耳を塞ぎ、顔をしかめた。

 しかし、美咲にはその凄まじい騒音の中にはっきりとした“声”が聞こえていた。

 それは受話器を通したものではなく、部屋の空気を直接震わせる生々しい老婆の怒声だった。


『その男はダメ。おばあちゃん、気に入らないわ。美咲を汚す者は、みんな消してあげる』


 美咲が凍りついたまま部屋の隅にある姿見に目を向けると、そこには信じがたい光景が映っていた。

 自分の背後に土色の干からびた手が実体化していた。

 その手は美咲の肩を優しく、しかし逃げられないほど強く抱きしめていた。


 鏡の中のカネの顔は、かつての慈愛に満ちた表情ではない。

 それは、眼窩から執着という名の暗い光を放つ異形の相だった。

 彼は恐怖のあまり、美咲を気に掛けることなく転がるように部屋を飛び出していった。


 それ以来、美咲の元に近づく者は男も女もいなくなった。

 美咲の周囲だけ、ぽっかりと空白の空間が広がるようになった。





 第三章:鏡の中の監視者


 美咲は理解した。

 カネ……祖母はもう、彼岸から電話をかけてくるだけの存在ではないのだ。

 祖母は美咲の影に、あるいは鏡に映る像のすぐ後ろに完全に“同居”していた。

 美咲の自由は、音を立てて崩れていった。


 ある休日、気分を変えようと美容院へ行った時のことだ。

 髪を短く切って、過去の自分を捨て去りたい。

 そう願ってスタイリングチェアに座った。

 準備が整い、美容師がハサミを美咲の髪に当てようとした瞬間、彼の腕が石のように固まった。


「……あれ? 急に腕が、動かない……」


 冷や汗を流す美容師の背後で、鏡の中に映る祖母が美咲の長い髪を愛おしそうに撫でながら呟く。


『美咲は長い髪の方が似合うのに。おばあちゃん、この髪を梳かすのが好きだったわ。切らせない。絶対に切らせないからね』


 鏡の中の祖母が不満げに目を細めると、店内の温度が急激に下がり鏡の表面に霜が降りた。

 美咲は逃げるように美容院を後にした。


 行き先すら、自分では決められなくなった。

 祖母が『美咲にとって良くない』と判断した場所へ向かおうとすると、スマートフォンのGPSは狂い、地図アプリは見たこともない迷路のような道を表示する。

 歩いても歩いても、彼女は祖母の望む場所……つまり、“美咲が誰にも会わずに済む場所”へと誘導されるのだった。





 第九章:逆転する生と死


 あれから数年が経過した。

 二十代後半のはずの美咲は、まるで老婆のように痩せ細り肌は青白く透けていた。

 彼女の生活のすべては祖母の管理下にあった。

 食べるもの、着る服、眠る時間。

 すべてはスマートフォンの画面に浮かぶ、血のような赤い文字の指示に従わなければならない。


 ある夜、美咲は暗い部屋で唯一の窓である鏡に向かって震える声で問い掛けた。


「……おばあちゃん。私、もう疲れたよ。どこにも行けない。誰とも話せない。私を、自由にして……」


 鏡の奥から、ゆっくりと人影が滲み出してきた。

 それはかつてないほど穏やかな、生前の優しい祖母の姿をしていた。

 彼女は慈愛に満ちた笑顔を浮かべ、鏡の中からゆっくりと手を伸ばした。

 冷たく凍りつくような指先が、現実の美咲の頬に触れる。


『可哀想な美咲。そんなに辛かったのね。おばあちゃん、あんたが可愛くて仕方がなかっただけなのよ』


 祖母の声は子守唄のように優しく、甘美だった。


『いいよ、美咲。そんなに自由になりたいなら、もう我慢しなくていい。……さあ、こっちへおいで。ここなら誰もあんたを傷つけない。邪魔な仕事も、怖い上司も、薄情な男もいない。おばあちゃんと二人きりで、ずっと、ずっと幸せでいられるから』


 鏡の表面が、水面のように揺らぎ始めた。

 美咲はその向こう側に広がる無限の闇を見た。

 そこには、三月六日の夜に押し入れの奥で見たあの佐藤家の先祖たちが手招きしている姿があった。


 彼らは皆、自分と同じ血を分けた家族だ。

 逃げようとしても、この血が、この縁が、自分を“家”という名の檻に引き戻そうとしている。

 美咲は、吸い込まれるように鏡の中へと手を伸ばした。





 第十章:新たな呼び出し音


 さらに一年後の、三月六日。

 田舎にある佐藤家の実家では、両親が寂しげな沈黙の中で夕食を摂っていた。

 一人娘の美咲が行方不明になってから、半年が過ぎていた。

 警察の捜査も虚しく、彼女の部屋には100%の充電を示したままのスマートフォンだけが残されていたという。

 その時、誰もいない廊下で聞き慣れた音が鳴り響いた。


 父と母は、顔を見合わせた。

 それは、数年前に解約して押し入れの奥に仕舞い込んだはずの、あの“固定電話”の呼び出し音だった。

 父が震える足取りで廊下へ向かい、古い電話機を手に取る。

 ディスプレイには、あの時と同じ文字が浮かんでいた。


【公衆電話】


 父が受話器を耳に当てると、そこからはノイズに混じっていた。

 懐かしく、しかしどこか幼い、少女のような声が聞こえてきた。


『……お父さん? 私。元気にしてるよ』


 それは、紛れもなく美咲の声だった。

 だが、その背後からは大勢の人々が楽しげに笑い、食事をしているような賑やかな騒音……あるいは、無数の死者たちが蠢くような音が聞こえてくる。


『こっちはとっても静かで……おばあちゃんと一緒で幸せ。何も心配いらないよ。……ねえ、お父さん。―――来年の三月六日、また電話するね』


 美咲の声は、次第に祖母の声と重なり、一つの太い響きとなって父の鼓膜を震わせた。


『……今度は、お父さんの番だから。受話器を置いて、待っててね』


 ツー、ツー、という切断音だけが残された。

 父の手から受話器が落ち、床の上で力なく揺れる。

 窓の外では、季節外れの雪が降り始めていた。

 それは、死者たちが住む冷たい世界の入り口がすぐそこまで開いていることを知らせる合図のようだった。


 美咲のスマートフォン。

 警察の証拠品保管庫に置かれたその端末の画面が、一瞬だけ明るく灯った。

 表示されたメッセージは、ただ一言。


『家族全員、揃うまであと少し』


 充電の表示は変わらず100%のまま、一度も減ることはなかった。


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