【前編】消せない留守番電話
⚠️この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
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三月の風には、まだ冬の刺すような冷たさが残っていた。
佐藤家のリビングに置かれた固定電話。
スマートフォンが当たり前になった今では、固定電話を自宅に設置してある方が珍しく骨董品のようになっているが、この家の一人娘である美咲にとってそれは一年に一度だけ“命”が宿る特別な箱だった。
三月六日。
十年前、大好きだった祖母のカネが亡くなった日だ。
その日から欠かさず、この電話機には“消せない留守番電話”が吹き込まれるようになった。
第一章:変化する声
最初は、ただの聞き間違いだと思っていた。
お葬式が終わって一週間が過ぎた夜。
仕事から帰った父が顔を真っ青にして受話器を握りしめていたのを美咲は覚えている。
「……母さんなのか?」
父がふと固定電話に留守番電話が入ってあることに気付き、再生した留守番電話から聞こえてきたのは間違いなくカネの声だった。
『美咲、元気にしとるか。お父さんにあんまり反抗しちゃいけんよ。風邪ひかんようにな』
録音された時間は、三月六日の午後十一時五十九分。
相手の番号は“公衆電話”とだけ表示されていた。
警察にも相談したが、いたずら電話の主は見つからなかった。
家族は「きっとおばあちゃんが言い残したことがあって空から電話してくれたんだね」と涙を流しながら納得することにした。
だが、おかしなことは翌年から始まった。
祖母が亡くなってから二年目の三月六日。
『美咲、高校合格おめでとう。赤いカバン、似合っとるよ』
美咲は震えた。
合格発表は三月五日。
制服に合わせた赤いリュックを買ったのは、その日の午後だ。
誰にも言っていないはずの日常を、亡くなったはずの人が“見て”いる。
『美咲、その彼氏はやめておきなさい。靴をそろえない男は、心もそろわんよ』
五年目、当時付き合っていた彼氏と別れた直後だった。
恐怖よりも、すべてを見透かされている恥ずかしさが勝った。
そして十年目の今日。
美咲は二十五歳になり、東京のデザイン事務所で働いている。
実家に帰り、仏壇にお参りをする。
父と母はもうこの出来事を“毎年の決まりごと”として受け入れ、少しの怖さとそれ以上の懐かしさを感じながら固定電話の前に座っていた。
「……くるぞ」
時計の針が、重なろうとしていた。
第二章:届かない距離
プルル、プルル。
静かな部屋に呼び出し音が響く。
画面にはやはり“公衆電話”の文字。
誰も受話器を取らない。
取っても無音だった。
この電話は、留守番電話に録音されることでしかその声を聞くことができない。
ガチャリ、と自動応答に切り替わった。
スピーカーから砂嵐のようなノイズに混じって声が流れた。
『美咲……。久しぶりやね。立派な大人になって、おばあちゃん嬉しいわ』
そこまでは、いつものカネの温かな声だった。
しかし、今年のカネの声にはこれまでにない“湿っぽさ”が含まれていた。
『……でもね、美咲。そっちはもうすぐ寒くなるよ』
「えっ……?」
美咲は窓の外を見た。
春の風が吹いたばかりの穏やかな夜だ。
『おばあちゃん、寂しくなった。そろそろ、こっちの部屋の掃除をしてくれる人が欲しいわ。美咲、あんたの手はおばあちゃんに似てて綺麗やから、こっちに来て、手伝ってくれんかね』
その瞬間、リビングの温度が急に下がった気がした。
父と母が顔を見合わせる。
今までのメッセージは、いつも美咲の幸せを願うものだった。
自分から『こっちに来い』と誘うような不吉な言葉は一度もなかった。
『……三月六日が終わる前に、返事をちょうだい。受話器を上げてね』
ブツッ、と音がして録音が切れた。
リビングに重苦しい沈黙が広がる。
「……母さん、ボケちゃったのかな」
父が冗談っぽく言ったが、その声は明らかに震えていた。
第三章:受話器の向こう側
美咲は、どうしても気になった。
これまでの留守番電話は、一度聞くと消去ボタンを押さなくても翌朝には不思議と消えていた。
だからこそ“消せない留守番電話”と呼ばれていたのだ。
どこにもデータが残らない、幽霊のような現象。
だが、今年のメッセージは違った。
録音が終わったことを示す赤いランプが激しく点滅している。
「私、電話に出てみる」
「よせ、美咲! 縁起が悪い」
父の制止を振り切り、美咲は受話器に手を伸ばした。
もし、本当におばあちゃんが寂しくて呼んでいるのなら。
もし、あの温かかった手が今は凍えるように冷たくなっているのなら。
孫として、一言だけ伝えなければならない。
美咲は受話器を取り、耳に当てた。
「……おばあちゃん?」
返事はない。
ただ、遠くで波の音のような“ザザッ……ザザッ……”というノイズが聞こえる。
それは次第に、誰かの“呼吸する音”に変わっていった。
『……美咲?』
声がした。
スピーカーからではない。
耳元で、直接囁かれているような生々しい感覚。
それはカネの声だったが若返っているようにも、あるいは恐ろしく年老いているようにも聞こえた。
『そこは、暗いね。……でも、すぐに見つけてあげるから』
「何を言ってるの、おばあちゃん。私、元気だよ。お仕事も頑張ってる。だから、まだ……」
『違うよ、美咲』
受話器の向こうの声が、くすくすと笑った。
『……後ろの押し入れの中。暗いところにおるやろ?』
美咲は、全身の血の気が引くのを感じた。
自分は今、リビングの真ん中に立っている。
押し入れになんて入っていない。
だが、受話器からははっきりと“自分と同じ名前の誰か”が狭い場所で震えている気配が伝わってきた。
『さあ、開けるよ。……美咲。……みさき。……ミサキ……』
ガラッ。
受話器の向こうで、引き戸が開く音がした。
同時に美咲たちの背後にあるリビングの古い押し入れの戸が一センチだけ動いた。
第四章:血の繋がりの果て
「ひっ……!」
悲鳴を上げたのは母だった。
美咲は受話器を放り投げた。
受話器はコードにつながれたまま、床の上でぶらぶらと揺れている。
そこからも、声は漏れていた。
『見つけた』
押し入れの隙間から真っ白な指がスッと伸びてきた。
それは、美咲が小さい頃によく繋いだカネの手だった。
だが、その指先は泥にまみれ爪の間からは赤黒い何かが滴っている。
「おばあちゃん、やめて……!」
父が必死に押し入れの戸を押さえつける。
しかし、中からの力はものすごく強く、古い木製の戸がミシミシと悲鳴を上げている。
『寂しい。寂しい。寂しい。寂しい。寂しい。寂しい』
繰り返される声は、もうカネのものではなかった。
それは、佐藤家の血を引く“死んだ人たち”が一つの口を使って叫んでいるような不気味な合唱だった。
「違う……これはおばあちゃんじゃない!」
美咲は叫んだ。
その時、美咲の頭の中にカネが亡くなる直前に言った言葉がよみがえった。
『美咲、いいかい。死んだ人間は生きている人間を恨んじゃいけないよ。でもね、相手が好きすぎるとどうしても引っ張りたくなっちゃうんだ。だから、もし私が呼んでも絶対に来ちゃいけないよ』
あの時の言葉は、注意書きだったのだ。
“愛”は死んでしまうと“執着”へと姿を変える。
毎年届いていた留守番電話は、カネの心があちら側の闇に飲み込まれないように必死にこらえていた最後の“糸”だったのだ。
そして今年、その糸が切れた。
切れてしまった。
第五章:遮断
「お父さん、電話線を抜いて!」
美咲の叫びに、父がハッとして壁のジャックに手をかけた。
しかし、抜けない。
電話線は壁にくっついたかのように固まって、まるで血管のようにドクドクと脈打っている。
『……美咲、いっしょに……いっしょに……』
押し入れから、今度は顔がのぞいた。
それは、生きていた頃の穏やかなカネではなかった。
目や鼻の形は崩れ、大きく開いた口の中には真っ暗な闇が広がっている。
その闇の奥に、美咲は見てしまった。
若くして亡くなった叔母。
震災で帰らぬ人となった親戚。
そして、写真でしか見たことがない先祖たちの顔、顔、顔。
彼らはみんな、笑っていた。
“大好きな家族”を、こちら側へ引き込もうとして……。
「嫌だ……!」
美咲は机にあったハサミを掴むと、脈打つ電話線を力まかせに切り裂いた。
パチン、という嫌な手応えと共に黒い液体が飛び散った。
「……あ」
その瞬間、押し入れをこじ開けようとしていた力がふっと消えた。
開いていた押し入れの隙間からは、ただの古い布団の匂いが漂ってくるだけだった。
受話器から漏れていた『ミサキ』という呼び声もピタリと止まった。
「「「………」」」
沈黙。
三月の冷たい風が窓を叩く音だけが響く。
父は腰を抜かし、母は顔を覆って泣いていた。
床に転がった受話器からはもう二度と声が出ることはなかった。
第六章:消えない記録
翌朝。
佐藤家のリビングから固定電話は片付けられた。
父は『もう十分だ』と言い、美咲もそれに賛成した。
しかし、美咲のスマホに異変が起きたのは彼女が東京へ戻る新幹線の中だった。
ふと画面を見ると、通知が届いている。
【留守番電話サービス:1件】
指が震えた。
固定電話の電話線は切ったはずだ。
スマホの番号も教えていないはずだ。
だが、美咲は吸い寄せられるように再生ボタンを押した。
『……美咲。ごめんね』
聞こえてきたのは、優しくて温かな生前のカネの声だった。
『……おばあちゃん、あっちでみんなに捕まっちゃって。でも、もう大丈夫。糸は切ってあげたから。もう、おばあちゃんは電話できない。……でもね、一つだけ覚えておいて』
声が、少しずつ遠ざかっていく。
『……電話がなくても、おばあちゃんはあんたのすぐ後ろにいるからね』
美咲は、ゆっくりと振り返った。
新幹線の窓ガラスに映る自分の顔。
その背後の誰もいないはずの座席の影。
一瞬だけ、見覚えのある茶色の着物の裾が見えた気がした。
美咲はそっと、スマホの電源を切った。
だが、耳の奥ではまだあのノイズが鳴り響いている。
ザザッ……ザザッ……。
それは波の音ではない。
誰かが枯れた芝生の上を歩いて、こちらへ近づいてくる足音だ。
「……おばあちゃん」
美咲は小さくつぶやき、微笑んだ。
それが恐怖からなのか、それとも、逃れられない家族の愛をあきらめて受け入れたからなのか美咲は自分でもわからなかった。
ただ、その日から美咲のスマホの充電はどれだけ使っても決して減ることはなくなったのだった。
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