思い出してはいけない日
⚠️この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
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忘却の町、八月十四日。
セミの声がまるで耳の奥に突き刺さるように響いていた。
この町には、誰もが当たり前のように守っている奇妙な“ルール”がある。
カレンダーからその日が消えているわけではない。
手帳にも、スマホの画面にも、八月十三日の次は確かに“八月十四日”と表示されている。
けれど、その二十四時間について喋ることは、この町では絶対にしてはいけないことだった。
「お母さん、明日の予定なんだけど……」
「明後日の十五日はお墓参りに行くわよ。準備しておいてね」
母は、私の問い掛けをさらりとかわした。
私の言葉の中に“十四日”という単語が入っていたことなんて、最初からなかったかのように。
町全体が大きな記憶の空白を共有している。
学校の授業でも、市役所の書類でも、去年の記録を辿れば、八月十三日の次は十五日へと飛んでいる。
誰もそれを変だとは言わない。
誰一人として不思議そうな顔すらしない。
それがこの町で、平和に暮らすためのマナーだった。
私がその“記憶”を取り戻し始めたのは、ほんの些細なきっかけだった。
自分の部屋のクローゼットの隅。
去年の夏に着ていたはずの白いワンピースに見覚えのない泥の汚れと、何かが乾いたような赤黒い跡を見つけたのだ。
その瞬間、頭の奥でカチリと古い鍵が回るような音がした。
(……雨が、降っていた?)
おかしい。
記録では、去年の八月十四日は全国的にものすごく天気が良かったはずだ。
だけど私の頭に浮かんだのは、重たく垂れ込めた灰色の雲と、肌を刺すような冷たい雨の感触だった。
私は、町の中心にある“記念公園”へと向かった。
いつもは子供たちの声でいっぱいの場所なのに、今日は妙に静まり返っている。
すれ違う町の人々の顔は、みんなお面のように無表情だった。
「こんにちは、佐藤さん。いいお天気ですね」
声をかけると、近所の佐藤さんは足を止めた。
「ええ、本当に。明日の十五日が楽しみですね」
彼女の目は笑っていなかった。
いや、口元は笑っているがその視線は私ではなく、私の後ろにある何もない空間をじっと見つめているようだった。
「佐藤さん、去年の十四日のことなんですけど」
空気が一瞬で凍りついた。
佐藤さんの顔からすべての表情が消えた。
彼女はゆっくりと首を振った。
その動きはロボットみたいで、生きている人間のような感じがしなかった。
「……十四日? そんな日は、ありませんよ」
彼女はそのまま早足で去っていった。
私は確信した。
彼女たちは“忘れている”のではない。
“覚えていないふり”をしているのでもない。
何かを怖がって、その記憶を心の奥底に閉じ込め、二度と出せないように鍵をかけているのだ。
公園のベンチに座り、私はそっと目を閉じた。
記憶がドッと押し寄せてくる。
町中の人々が、一列になって山の方へ歩いていく姿。
誰もが手に小さな白い包みを持っていた。
雨音に混じって聞こえていた、低く地鳴りのような“合唱”、
それは歌ではなかった。
もっと気味の悪い、喉の奥を震わせるような音だ。
記憶の中の私は、その列の一番後ろにいた。
前の人の背中をじっと見つめ、泥で汚れたワンピースの裾を気にしながら、ただ歩いていた。
目的地は町の北の端にある、今は立ち入り禁止になっている古い井戸。
そこで、私たちは何をしたのか。
「……思い出しちゃったんだね」
後ろから声をかけられ、私は飛び上がった。
そこに立っていたのは、幼なじみのハルだった。
彼はいつも明るい性格なのに、今は見たこともない悲しそうな、そして何かを諦めたような瞳で私を見下ろしていた。
「ハル。あんた、覚えてるの?」
「覚えているよ。でも、口には出さない。それがこの町で生きていくためのルールだから」
「あの井戸で、何があったの? 私の服についてたあの汚れは……」
ハルは私の隣に座り、遠くの山を見つめた。
「汚れじゃないよ。それは“分け前”だ」
彼はポケットから何も書かれていない古びた紙の切れ端を取り出した。
「八月十四日、この町は“神様”に休みをあげるんだ。一年間、町の悪いことを引き受けてくれた神様にね。その代わりに、僕たちは少しだけ神様の荷物を代わりに持ってあげるんだ」
「荷物……?」
「そう。言葉にすれば消えてしまうような、でも確かにそこにあるこの町全員の“悪い心”や“汚れ”だよ。あの日、僕たちは井戸に集まって、自分たちの中にある“見たくないもの”を全部そこに投げ捨てたんだ。そして、代わりに……」
ハルは途中で話すのを止めた。
ふと、私は彼の首筋に変なアザがあるのに気づいた。
それは何かに噛まれたような、あるいは身体の内側から何かが突き破って出てこようとしているような不気味な形をしていた。
「代わりに、何を受け取ったの?」
私の問いに、ハルは答えなかった。
代わりに、彼は前に指差しをした。
公園の入り口に数人の大人が立っていた。
さっきの佐藤さんもいる。
みんな、じっとこちらを見ていた。
私たちに怒っているわけではない。
私たちを叱ろうとしているわけでもない。
ただ、静かに私たちが“喋ってはいけないこと”に触れるのを見守っている。
その目は、まるで深い井戸の底のように暗く何も映していなかった。
「思い出しちゃった人間は、もうこの町の“沈黙”には混ざれないんだ」
ハルが立ち上がった。
「君のワンピースの汚れ、洗っても落ちなかっただろう? それは汚れじゃない。君が井戸から持ち帰ってしまった、去年の“十四日”そのものなんだよ」
私は自分の腕を見た。
いつの間にか、白い肌の上にワンピースと同じ赤黒いシミが浮かび上がっていた。
それは少しずつ形を変え、まるで生きている虫のように私の腕をはい上がってくる。
町中のスピーカーから夕方のチャイムが鳴り響く。
それは、いつも通りの穏やかなメロディだった。
だけど、私にはそれがあの雨の日に聞いた“地鳴りのような合唱”に聞こえてならなかった。
町の人々が一斉にこちらを向いて、深く頭を下げた。
まるで何か大切なものを神様に捧げるような丁寧な動きだった。
「さあ、帰ろう。十四日が始まる前に」
ハルが手を差し出してきた。
その手の平には、いくつもの小さな“口”のようなひび割れが入っていた。
私は気づいた。
この町の人々が十四日のことを喋らないのは、忘れたいからではない。
十四日という日は、まだ終わっていないのだ。
あの日、井戸に捨てたはずの“何か”を彼らは今も自分の身体の中に、自分たちの暮らしの中に、“沈黙”という名のオリに入れて飼い続けているのだ。
私は、差し出されたハルの手を取った。
その瞬間、私の耳には町中の家の壁の裏側で数え切れないほどの“何か”がヒソヒソと十四日の出来事を話し合っている声が聞こえ始めた。
明日になれば、また誰もが“十四日”なんて日はなかったかのように振る舞うのだろう。
腕のシミを隠し、首筋のアザを隠し、お腹の中に押し込んだ“荷物”が暴れ出さないように必死で黙り続ける。
セミの声が止まった。
代わりに湿った雨の匂いが、夏の空気を塗り潰していく。
カレンダーの数字が、ゆっくりと赤く滲み始めた。
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