記憶貸出図書館、奪われた僕の残像。
⚠️この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
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第一章:消える“日常”
四日目の朝、目が覚めたとき、世界はまるで「色が抜けた塗り絵」のようだった。
自分の部屋にいるはずなのにどこかよその家に迷い込んだような、ざらついた違和感がある。
僕は壁に貼ってある写真を見た。
修学旅行でクラスメートとピースサインをしている自分の姿。
けれど、隣で笑っている親友の名前が出てこない。
「……誰だっけ」
喉まで出掛かっているのに、記憶の引き出しがロックされているみたいにどうしても開かない。
焦って引き出しから卒業アルバムを取り出した。
ページをめくる。
けれど、そこにあるのはただの紙とインクの塊だった。
楽しかったはずの体育祭。
放課後にアイスを食べながら歩いた道。
それらの“思い出”が、まるで他人が書いた小説のあらすじのように自分とは無関係なものに感じられる。
代わりに、頭の中を埋め尽くしているのは、あの【紫色の雨】の記憶だ。
行ったこともない学校の屋上。
冷たい雨の感触。
そして、あの少女の口角が裂けるような不気味な笑み。
「僕の思い出が、塗りつぶされてる……」
鏡を見ると、自分の瞳の奥にほんの少しだけ紫色の光が混じっているのが見えた。
第二章:司書の冷たい手
僕は転がるように家を飛び出し、あの図書館へと向かった。
昨日までは確かにそこにあったレンガ造りの建物。
けれど、街の人たちは誰もその建物を見ようともせず素通りしていく。
重い扉を押し開けると、あの司書がいつもの場所に立っていた。
人形のように整った顔で、感情のない瞳が僕を射抜く。
「……僕の記憶を、返してくれ! 家族の顔も、友達の名前も、全部消えかかってるんだ!」
カウンターを叩いて叫ぶ僕に、司書は白い手袋をはめた手で一冊の古い台帳を差し出した。
そこには、僕が借りた瓶のタイトルが記されている。
【雨の放課後、屋上にて】
「お客様。当館のルールは最初にお伝えしたはずです。三日を過ぎれば境界は溶ける。あなたが借りたその“絶望”はあまりに強すぎた。あなたの弱った心はその刺激的な痛みに耐えられず、自ら進んで自分を差し出したのですよ」
「そんなわけないだろ! 僕は、ただ少し……好奇心で……」
「好奇心。それは自分という存在を賭けるには十分すぎる理由です」
司書が指差した棚には、見覚えのある色の瓶が並んでいた。
暖かいオレンジ色の光。
それは僕が大切にしていた【母さんと食べた誕生日のケーキ】の記憶だ。
それが今、ガラス瓶に閉じ込められ、“商品”として棚に並べられている。
「やめろ! それは僕のものだ!」
手を伸ばした瞬間、自分の指先が“透けている”ことに気づいた。
輪郭がぼやけ、細かい光の粒になって空気中に溶け出している。
第三章:入れ替わる“私”
「見てごらんなさい」
司書が鏡を突きつける。
鏡に映っていたのは、僕の顔ではなかった。
あの屋上にいた雨に濡れた少女の顔が僕の身体の上に乗っている。
彼女は僕の口を使って、楽しそうに笑った。
『あったかい……。この記憶、すごくあったかいよ……』
僕の意識は、どんどん小さくなっていく。
まるで、真っ暗な海の底に沈んでいく石文字のように。
代わりに、僕の身体には“誰のものかわからない記憶”が濁流のように流れ込んできた。
知らない誰かの、失敗したテストの悔しさ。
知らない誰かの、転んで膝をすりむいた痛み。
そして、あの屋上から飛び降りた瞬間の……内臓が浮き上がるような恐怖。
それらが僕の「新しい自分」を作り上げていく。
……本当の僕は、もうどこにも居場所がない。
「境界が完全に溶けましたね」
司書の言葉を最後に、僕の視界は急激に狭まった。
身体がどんどん硬くなり、冷たくなっていく。
手足が縮まり、透明な壁に囲まれる感覚……。
……気付けば僕は狭いガラス瓶の中にいた。
外の世界が歪んで見える。
司書の巨大な顔が、僕を見つめていた。
「新しい記憶の完成です。タイトルは【自分を失う恐怖】にしましょうか。これもまた、次のお客様に人気が出そうです」
第四章:繰り返される「入口」
棚に並べられた僕の隣には、同じようにひび割れたガラス瓶がいくつもあった。
どのガラス瓶の中からも小さな……必死な叫び声が聞こえる。
『出して……』
『僕はここにいる……』
『お母さんに会いたい……』
けれど、その声は図書館の静寂にかき消される。
ふと、図書館の入り口の扉が開くのが見えた。
一人の少年が入って来た。
三日前の僕と同じ、どこにでもいる中学生だ。
彼は不思議そうに、けれど楽しそうに棚へ並んだガラス瓶を眺めている。
ガラス瓶の中にいる僕は、必死にガラスを叩いた。
『早く逃げろ! ここに来ちゃいけない!』
だけど僕の手は光の粒となって、ガラス瓶の内側を虚しくなぞるだけだ。
少年が足を止める。
彼が手を伸ばしたのは、僕が閉じ込められているこのガラス瓶だった。
司書が少年の背後に立ち、優しく囁く。
「それはとても刺激的な記憶ですよ。三日間だけ、貸し出しましょうか?」
少年が好奇に満ちた目でガラス瓶を手に取る。
僕と少年の目が合った。
けれど彼には、僕の姿は見えていない。
ただ、ガラス瓶の中で揺れる“綺麗な光”に心を奪われているだけだ。
「……借りてみようかな」
少年の手がガラス瓶の蓋にかけられる。
封印の蝋が剥がれる音が、僕の耳には“終わりの合図”のように聞こえた。
光が溢れ出し、僕は少年の目の中に吸い込まれていく。
……これから、彼も僕と同じ道を辿る。
そして僕は彼の記憶の一部になり、やがて誰のものでもない“ただの感情”として、この街を漂い続けるのだ。
図書館の窓の外では、またあの紫色の雨が音もなく降り始めていた。
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