【後編】記憶貸出図書館、『雨の放課後、屋上にて』
⚠️この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
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第四章:剥離する自己
二日目。
私の日常は徐々に“他者の記憶”に侵食され始めた。
朝、コーヒーを淹れようとしてカップの棚に見知らぬマグカップが混じっていることに気づく。
それは色褪せたピンク色で、幼い子供が使うような小さなものだった。
私はそれを見て、強烈な懐かしさを覚えた。
「ああ、これは五歳の誕生日に買ってもらったものだ」
……いや、違う。
私の誕生日は冬で、もらったのは青いスポーツバッグだったはずだ。
自分の記憶を確認しようと目を閉じると、不気味な現象が起きた。
幼い頃、近所の公園で迷子になった時の記憶。
夕暮れ時、オレンジ色の光の中で滑り台の影に座り込んで泣いていた自分。
そこへ母が駆け寄り、私を強く抱きしめてくれた。
『もう大丈夫よ』という母の匂い、温もり。
だが、その映像がノイズの走るビデオテープのように乱れる。
気がつくと、滑り台の形は角張ったコンクリートの縁―――あの屋上の柵へと変わっている。
駆け寄ってきた母の顔が、ゆっくりと振り向く。
そこにいたのは、あの雨に濡れた少女だった。
「どうして、助けてくれなかったの?」
その声は、母のものでも少女のものでもない。
紛れもない、今の私の声だった。
三日目の夜。
眠りにつくのが恐ろしかったが、意識は強制的に屋上へと引きずり込まれた。
今度の場面は、告白のシーンではない。
私は一人で、柵の外側に立っていた。
雨は止んでいる。
けれど空は、毒々しい紫色に染まっていた。
足下を覗き込む。
はるか下のアスファルトに、人影が横たわっているのが見えた。
ぐしゃぐしゃに潰れていて、顔は判別できない。
けれど、その死体が着ている制服の色が今、私が身に纏っているものとまったく同じであることに気づき、心臓が凍りついた。
背後に気配を感じて振り返る。
そこには、あの少女が今度は乾いた制服を着て立っていた。
「四日目になるね」
彼女は友人にかけるような軽い調子で言った。
「あなたの記憶、とてもあたたかくて綺麗。私、ずっとこの場所で寒かったから。少しだけ、分けてもらうね」
その言葉とともに、私の頭の中で“何か”が音を立てて剥がれ落ちた。
母と笑い合った食卓の風景。
友人と夕暮れまで語り明かした放課後。
初めて好きになった本のページの手触り。
夏の午後に聞いた蝉の声。
それらがすべて粘り気のある紫色の液体へと溶け出し、足元のコンクリートへと流れ出していく。
必死に手を伸ばして掴もうとするが、指の間をすり抜けて消えてしまう。
私は、私を構成する断片を一つ、また一つと失っていった。
第五章:循環する空虚
四日目の朝、絶望の中で目が覚めた。
枕元のガラス瓶は空になり、ただの透明なガラスの塊に戻っていた。
私は、自分の母の顔を思い出そうとした。
「サチコ」
名前は声に出た。
けれど、その名前を呼ぶべき対象の顔がどこを探しても見当たらない。
表情があるべき場所は、のっぺりとした空白に塗りつぶされている。
アルバムを開いてもそこには私の知らない、見知らぬ家族の団欒が写っているようにしか感じられない。
代わりに私の意識の特等席には、あの少女の歪んだ笑みが暴力的なまでの鮮明さで居座っていた。
私は狂ったようにアパートを飛び出し、あの図書館へと向かった。
扉を乱暴に開ける。
図書館の内部は、以前にも増して静まり返っていた。
カウンターに向かう途中、私はある棚の前で足を止めた。
そこには、昨日まではなかったはずの新しい三つの瓶が並んでいた。
ラベルには、私の文字にそっくりな筆跡でこう書かれている。
【公園の夕暮れ】
【誕生日のケーキ】
【夏の蝉】
「それは、素晴らしい寄贈品です」
いつの間にかカウンターに立っていた司書が満足げに目を細めた。
「あなたから提供された記憶は、どれも非常に生命力に溢れている。次に借りる方はきっと満足されるでしょう」
「返せ……! 私の記憶を、返せ!」
私は司書の胸ぐらを掴もうとした。
だけど伸ばした手は空を切り、司書の体を透過した。
驚いて自分の手を見る。
指先が端から粒子のように崩れ、淡い橙色の光となって霧散し始めていた。
「境界が溶けたのです、お客様」
司書は動じることなく、カウンターの上に私が返却し忘れたはずのガラス瓶を置いた。
ラベルが書き換わっている。
【雨の放課後、屋上にて(共)】
ガラス瓶の中では、あのどす黒い紫色の光と私のものだったはずの淡い橙色の光が蛇のように絡み合っていた。
どちらが元からの記憶で、どちらが私のものなのか判別はつかない。
「強い感情は宇宙のエネルギーと同じです。消えることはありません。ただ、形を変え、所有者を変え、永劫に循環し続けるのです」
司書が背後の棚を指し示す。
ひび割れたガラス瓶の奥に、無数の“顔”が見えた。
苦悶に満ちた顔、歓喜に震える顔、虚無を見つめる顔。
その中に、私を見つけた。
ガラスの内側に指を押し当て、何かを叫んでいる私の姿。
―――やめて。
―――ここから出して!
―――私は、私だ!
声は聞こえない。けれど、その悲鳴の波長が直接脳を揺さぶる。
私は、棚へと引き寄せられていく。
物理的な力ではない。
存在の重さが、そこへ収束していくのだ。
「あなたはまだ、完全には混ざり合っていない。ですが……」
司書の白い手袋が、私の額に触れた。
その冷たさは、あの屋上で浴びた雨と同じだった。
「―――次の“私”に席を譲る時間です」
視界が急速に遠ざかる。
必死に振り返ると入口の扉が開き、一人の人物が入ってくるのが見えた。
四日前の私だ。
何も知らない、好奇心と少しの退屈を抱えた“私”が興味深そうに棚を眺めている。
時間が、巨大な蛇が己の尾を飲み込むように円環を成している。
私は叫ぼうとした。
逃げろ。
そのガラス瓶に触れるな。
だけど喉から出たのは言葉ではなく、ただの紫色の光の粒子だった。
やがて私は、冷たいガラス瓶の中で揺れる名もなき残滓になった。
外の世界は魚眼レンズのように歪み、司書の暗い瞳だけが巨大な天体のように私を見下ろしている。
カチリ、と音がして、新しいラベルが貼られる。
【空き地を見つめる午後】
その瞬間、図書館の風景が消失した。
レンガの壁も、無数のガラス瓶も、司書の姿も。
そこにはただ、元通りのひび割れたアスファルトの駐車場が広がっていた。
だが、空き地の中央にぽつんと一人の人影が立っている。
その人物は、地面に落ちていた不思議な光を放つ小さなガラスの破片を拾い上げた。
ガラスの破片の中で微かな、今にも消えそうな橙色の光が瞬く。
「……何、これ」
その人物が、破片を太陽にかざす。
その瞬間、私の中に残っていた最後の“個”の感覚が、激流に飲み込まれるように消失した。
―――次の利用者へ。
蓋が開く音がした。
私はその光に吸い込まれながら、自分が誰だったのか、何を守りたかったのかをとうとう思い出せなくなった。
ただ、降りもしない雨の匂いだけが、空き地に白く立ち込めていた。
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