夢を食べる影
⚠️この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
.
夜はいつも静かにやってくる。
だけど、僕にとってそれは休息ではなかった。
眠るたびに、何かが削れていく。
最初に気づいたのは、ほんの些細な違和感だった。
クラスメイトの名前が一人思い出せない。
教科書の内容がぼんやりと霞む。
これは誰にでもあることだと思っていた。
疲れているのだと、自分に言い聞かせた。
だけど、それは毎晩続いた。
目を覚ますたびに、確実に何かが消えている。
三日後、親友の顔が思い出せなくなった。
写真を見ても『知っているはずだ』という感覚だけが残り、名前も声も浮かばない。
恐ろしくなって、僕は眠るのをやめようとした。
だけど、人間はそう長くは起きていられない。
意識は抗いようもなく沈んでいく。
そしてその夜、初めて“それ”に出会った。
夢の中で、僕は見知らぬ廊下に立っていた。
長く、どこまでも続く暗い廊下。
壁には無数の扉が並んでいる。
どの扉にも名前が書かれていた。
見覚えのある名前ばかりだった。
「……これ、僕の記憶だ」
なぜか、そう確信できた。
一つの扉に手をかける。
開けた瞬間、鮮やかな光景が広がった。
小さな頃、母と手をつないで歩いた帰り道。
夕焼けの色、手の温もり、風の匂い……すべてがそこにあった。
だけど、次の瞬間、背後から何かが伸びてきた。
黒い影だった。
人の形をしているようで、していない。
輪郭は揺らぎ、目も口もないのに“こっちを見ている”と感じる。
影は音もなく僕の横を通り過ぎ、部屋の中へ入り込んだ。
そして、記憶の光景をまるで掬い取るようにして―――飲み込んだ。
「やめろ!」
叫んだ瞬間、光景は崩れて扉は空っぽになった。
影はゆっくりと振り返る。
そして、ありえないことに僕の声で囁いた。
『これは、もういらないよね?』
目が覚めた。
心臓が激しく打っている。
嫌な汗が頬を伝っていた。
そして、すぐに気付いた。
何故か気付いてしまった。
……母との思い出が消えている。
顔は分かる。
存在も分かる。
だけど、一緒に過ごした具体的な記憶が何ひとつ思い出せない。
あの影だ。
あれが、僕の記憶を食べている。
その夜から、僕は夢を恐れるようになった。
それでも眠らなければならない。
眠れば、また廊下に立っている。
扉があり、記憶があり、そして影が現れる。
何度も見た。
影は毎回、僕の記憶を選ぶようにして奪っていく。
楽しかったこと、悲しかったこと、大切だったものから順番に。
まるで、価値のあるものだけを知っているかのように。
「どうして、こんなことをするんだ」
ある夜、僕は影に問いかけた。
影はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと近づいてきた。
冷たい気配が肌に触れる。
そして、再び僕の声で答えた。
『集めているんだよ』
「何のために?」
『僕になるために』
その言葉の意味を理解するのに、時間はかからなかった。
影は、僕の記憶でできている。
いや、正確には“僕から奪った記憶”を集めている。
「ふざけるな……!」
僕は影に掴みかかろうとした。
だけど手はすり抜け、逆に影の中に引き込まれそうになる。
触れた部分から何かが抜け落ちていく感覚があった。
慌てて手を引いたがその瞬間、何かを忘れたことだけは分かった。
何を失ったのかは、もう分からない。
日が経つにつれ、現実の僕は壊れていった。
言葉が出てこない。
名前が分からない。
自分が何者なのかすら曖昧になる。
ノートには“忘れるな!”と何度も書き殴ってあったが、その字の意味すら理解できなくなっていった。
そして、ある夜。
廊下に立ったとき、扉はほとんど残っていなかった。
数えるほどしかない。
その中央に、影が立っている。
以前よりもはっきりとした形をしていた。
輪郭は安定し、まるで人間のように見える。
そして、その姿は―――僕自身だった。
「……やめてくれ」
声はかすれていた。
影は、僕と同じ顔で微笑む。
『もうすぐ終わるよ』
残った扉の一つに手をかける。
それは、唯一強く光っていた。
直感で分かった。
これが、最後だ。
「それは……だめだ」
『どうして?』
「それを失ったら……僕は……」
言葉が続かない。
だけど、直感で分かった。
それはきっと、“僕”であるための最後の核だ。
影はゆっくりと扉を開けた。
中にあったのは、何の変哲もない光景だった。
鏡の前に立つ自分。
ぼんやりとした顔で、自分を見つめている。
だけど、その目の奥には確かな意志があった。
「これは……」
『君が君だと知っている記憶だよ』
影が手を伸ばす。
僕は反射的に飛び込んだ。
影にしがみつき、必死に引き離そうとする。
影の力に勝てず、影は静かに僕の最後の記憶を飲み込もうとしていた。
そのとき、不意に思った。
(もし、すべて奪われたらどうなるのだろう?)
僕は消えるのか。
それとも、影が僕になるのか。
視界が暗く染まる。
何かが、完全に途切れた。
朝、目を覚ました少年は静かに起き上がった。
部屋を見渡す。
その目には、何の迷いもない。
机の上にはノートが開かれている。
“忘れるな!”と書かれていた文字を少年はじっと見つめた。
やがて、小さく笑う。
「もう、忘れないよ」
その声は、どこか他人のように冷たかった。
窓の外には、いつも通りの朝が広がっている。
ただ一つ違うのは、その少年の中にはもう“元の彼”がどこにもいないということだけだった。
.




