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書き殴られた未完の物語標本  作者: かがみゆえ


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2/24

忘却の食卓:存在しない中学二年生

⚠️この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

 .





 朝、目が覚めると食卓の上はいつも通りだった。

 温かい味噌汁の湯気。

 こんがりと焼けた卵焼きの匂い。


「おはよう、亮太。今日は一段と冷え込むわね」


 母の恵子がエプロンで手を拭きながら微笑む。


「……おはよう。父さんは?」

「もう仕事に行ったわよ。ほら、早く食べないと遅刻するわよ」


 亮太は頷き、箸を手に取った。

 しかし、卵焼きを口に運ぼうとした手がふと止まる。


(あれ……父さんの仕事って、何だったっけ?)


 昨日までは確かに知っていたはずだ。

 重そうなカバンを持って、『今日は大事な会議なんだ』と言っていた記憶がある。

 しかし、その先の詳細を思い出そうとすると、頭の中に空っぽの空白が広がるだけだった。

 当たり前に共有していたはずの“事実”が砂のように指の間から零れ落ちていく。

 それが、すべての始まりだった。


 亮太はリビングの棚の上に飾られた写真立てに目を留めた。

 去年の家族旅行の写真だ。

 父と母、そして亮太の三人で赤い鳥居の前で笑っている―――はずだった。


「え……?」


 亮太は写真立てを手に取り、凝視した。

 そこに写っているのは、仲睦まじく肩を寄せ合う父と母の二人だけだ。

 二人の間には、不自然なほど広い“空白”がある。

 まるで最初からそこに誰も立っていなかったかのように、背景の景色が歪んで補完されていた。


「母さん、この写真……僕、いなかったっけ?」


 台所にいた恵子が不思議そうに顔を出した。


「何を言ってるの。その写真はお父さんと私が結婚記念日に行った時のじゃない。あんたは部活で留守番してたでしょ?」


 亮太は背筋が寒くなった。


(違う。確かに僕も行った)


 旅館の夕飯で豪華な舟盛りに興奮した記憶も、露天風呂で父と長湯をした記憶もある。

 だが、母の瞳には一点の曇りもない。

 彼女にとって、その写真は“最初から二人っきり”のものなのだ。





 亮太は逃げるように家を出て、学校へ向かった。

 しかし、そこでもさらなる絶望が待っていた。


「おはよう、和也!」


 親友であり、同じサッカー部の和也に声をかけた。

 しかし、和也はスマホから顔を上げると見知らぬ他人を見るような冷めた目を向けた。


「あ、ああ……おはよう。ええと、一組の人だっけ?」

「何言ってるんだよ。昨日も一緒に練習したじゃないか!」


 亮太が叫んでも、和也は困惑したように首を振るだけだった。


「悪い、人違いじゃないかな。俺、サッカー部だけど、君みたいなやつは知らないよ」


 和也の目は本気で“知らない誰か”を警戒していた。

 教室に入っても、亮太の席には誰の私物も置かれていない。

 昨日まで机の横にかけていたはずのサブバッグも、使い古した筆箱も、跡形もなく消えていた。




「はい。この問題、分かる人」


 一限目の数学の授業で先生が問いかける。


「はい! 先生!」


 亮太は必死に手を挙げた。

 しかし、先生の目は亮太を通り過ぎ、後ろの席の生徒を指名した。

 その後も、亮太がどれだけ大きな声で挙手をしても先生は一度も亮太と目が合わなかった。




 四時間目が終わると、給食の時間が始まる。

 給食当番のクラスメートが、淡々とトレーを配っていく。

 しかし、亮太の番になると給食当番は平然とした顔で通り過ぎた。


「あの、僕の分は……?」


 亮太が震える声で聞いても、返事はない。


「あれ? 今日は一人欠席かな? 給食、余っちゃったよ」

「じゃあ、俺がもらうわ!」


 亮太は目の前に存在しているのに、クラスというシステムの中では“亮太はいないもの”として処理されていた。





「何かの間違いだ。僕がここにいる証拠を見つけなきゃいけない」


 亮太はカバンの中から昨日返却されたばかりの英語の小テストを取り出した。


「ほら、これを見て! ちゃんと僕の名前が書いてあるだろ?」


 近くにいた担任に見せようとした。

 しかし、担任の前に小テストを差し出した瞬間、信じられない現象が起きた。

 テストの右上に書かれていた“●●亮太”という黒い文字がまるで水に溶けるように、じわじわと薄くなっていったのだ。


「あ……あ……!」


 亮太が見ている目の前で文字は完全に消失し、ただの真っ白な紙へと戻った。

 名前だけではない。

 亮太が必死に書いた答えも、先生の丸印も、すべてが消え去った。

 亮太は急いで自分のノートを開いた。

 しかし、どのページをめくってもすべて白紙だった。

 昨日まで書き連ねた板書も、悩み事を綴った日記も、すべてが消去されていた。

 世界が、亮太という存在を“なかったこと”にするために記録を上書き保存している。

 亮太は絶望し、教室を飛び出した。





 亮太は学校の図書館の奥まった資料室に逃げ込んだ。

 そこで一冊の背表紙のない古いノートを見つけた。


【世界のバグと、因果律の最適化について】


 そこには、殴り書きのような文字でこう記されていた。


『この世界は、完璧な整合性を保つためのシステムである。時折、システムは“冗長なデータ”を削除する。その基準は、観測者からの認識度だ。誰からも思い出されず、誰の記録にも残らなくなった存在は、世界の処理を重くする“ノイズ”と見なされる』


 亮太の手がガタガタと震える。


「僕が、世界のノイズだって言うのか……?」


 ノートの記述はさらに続く。


『排除は段階的に行われる。まず社会的な記録(名前、名簿)、次に身近な人間の記憶、そして最後にその者の物理的実体だ。世界がその者を“最初からいなかった”と定義し直すことで、矛盾は解消される。一度削除が始まれば、修復は不可能である』


 余白には血の滲んだような文字でこう付け加えられていた。


『家族に愛されているという確信こそが、存在を固定する唯一の錨となる。だが、一度世界が削除プロセスを開始すれば、愛する側の心から愛した事実さえも奪われる』


 亮太はノートを閉じた。


(母さんや父さん、和也にとって僕はそれほど希薄な存在だったのか……)


 そんなはずはない、と叫びたかった。

 しかし、必死に思い出そうとする母の笑顔に古い映像のようなノイズが混じり始めていた。





 五日が経過した。

 亮太の持ち物は、一つずつ物理的に消滅していった。

 筆箱がなくなり、教科書がなくなり、自分の部屋にあった勉強机までが消え、そこは単なる空きスペースへと変わった。

 そして、ついに自分自身の“肉体”までもが崩壊し始めた。

 鏡の前に立つと、自分のお腹が透けて後ろの壁紙が見える。

 食事を摂ろうとしても、味がしない。

 それどころか、食べ物が口の中で砂のようにボロボロと崩れ、飲み込むことすらできなかった。

 手足を見ると、指先がデジタルデータの破損のようにチカチカと点滅している。

 触覚も失われ、自分の腕を強く抓っても痛みを感じない。

 ただ、遠い世界の出来事を眺めているような冷徹な感覚があるだけだ。

 リビングからは、両親の穏やかな声が漏れてくる。


「ねえ、お父さん。来月は二人で旅行にでも行かない?」

「いいな。久しぶりに二人っきりか。新婚の頃に戻ったみたいだ」


 亮太はリビングに飛び込み、母の肩を掴もうとした。


「母さん! 父さん! 僕はここにいるんだ! 僕は亮太だよ!」


 しかし、彼の手は母の身体をすり抜け、空を切った。

 母にとって、亮太の叫びはただの“不気味な隙間風の音”にしか聞こえていなかった。





 七日目の朝。

 亮太はもはや自分の腕を視認することさえ困難になっていた。

 視界は霞み、思考さえも霧の中に溶けていく。

 リビングへ向かうと、そこには完成された“二人だけの世界”があった。

 食卓には、二つの茶碗。

 昨日まで、辛うじて空席として存在していた“三人目の場所”には、今や大きな花瓶が置かれている。


「お父さん。今日はお休みだし、どこか出かけましょうか」

「そうだな。どこか新しい店でも開拓するか」


 二人は微笑み合い、穏やかな時間を過ごしている。

 そこには何の欠落も、何の悲しみもない。

 中学二年生の息子を愛した記憶も、育ててきた十四年間の歳月も、すべては“最初からなかったこと”として、世界のシステムが完璧に書き換えたのだ。

 亮太は、母の背後にそっと歩み寄った。


(最後にもう一度だけ、母さんの手に触れたい)


 その温もりだけを連れて消えたいと願った。

 しかし、亮太が手を伸ばした瞬間、亮太の指先は白く細かい光の粒子となってさらさらと空気中に溶けていった。


(……ああ、そうか。僕はもう、いないんだ)


 そう悟った瞬間、亮太の意識は消失した。

 自分の名前も、この家の一人息子だったことも、自分が中学生であったことも、最後に握りしめたかった“母の手の温もり”さえも、世界の冷酷な合理性の中に消え去った。





 その日の夜。

 夫婦は、楽しく一日を過ごして帰宅した。


「本当に楽しい一日だったわ、お父さん」

「ああ、二人で暮らせて幸せだ」


 二人は寝室へ向かい、深い眠りについた。




 深夜三時。

 誰もいないはずの“かつての亮太の部屋”から微かな音が響いた。


 コトッ。

 それは、何かが床に落ちたような音だった。

 そして、砂の粒が這いずるような乾いた音が続く。

 リビングの棚の上に飾られた“二人きり”の家族写真は、誰かが触れたかのようにほんの数ミリだけ横にズレた。




 翌朝、恵子が掃除をしているとリビングの床に奇妙なものを見つけた。

 それは白くて細かい、砂のような粒子の集まりだった。


「あら、どこから入ってきたのかしら、こんな砂……」


 恵子は掃除機でその砂をきれいに吸い取った。

 砂をゴミ箱に捨てたとき、彼女はなぜか急に涙がこぼれた。


「あれ? 私、なんで……?」

「どうしたんだい、お母さん」


 恵子は首をかしげて困ったように笑った。


「わからないわ。なんだか、とっても大切なものをゴミと一緒に捨ててしまったような……そんな気がして……」


 しかし、その違和感も次の瞬間には消去された。

 恵子は再び明るい顔をして、二人分の朝食を作り始める。

 食卓には、今日も二つの茶碗。

 そしてその横の“空白”では、もう誰の記憶にも留まらない砂の粒子が永遠に届かない声で泣き続けていたのだった。


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