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書き殴られた未完の物語標本  作者: かがみゆえ


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消えた名前の町

⚠️この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

 .





 最初に消えたのは、駅前の角で小さな店を構えていた花屋の女性だった。

 彼女の店は不思議だった。

 真冬にひまわりが並んでいたり、見たこともない鮮やかな青いバラが軒先を飾っていたりする。

 町の誰もが彼女を知っていたし、学校帰りの小学生が彼女に挨拶をするのはこの町の日常の一コマだった。


「……ねぇねぇ。あの花屋の店主さん、なんて名前だったっけ?」


 ある曇り空の午後、同僚の教師がふと漏らしたその一言がすべての始まりだった。

 それは水面に落ちた小さな小石のような、静かな波紋だった。

 最初は『えぇと、誰だったかな』と笑い合っていた職員室の空気は、数分もしないうちに妙な静寂に包まれた。

 誰も思い出せないのだ。

 顔は浮かぶ。

 エプロンの汚れや優しい話し方、いつもおまけで一輪添えてくれるガーベラの赤。

 けれど、肝心の“名前”というラベルだけが、記憶の引き出しから綺麗に抜き取られていた。


 数日後、花屋は閉まっていた。

 夜逃げしたような慌ただしさはない。

 ただ、そこには最初から何もなかったかのように空っぽの棚だけが寂しく並んでいた。


「引っ越したのかねぇ」


 誰かが言ってたけど、誰の声だったのか確信がなかった。

 それどころか、翌週には『あそこに店なんてあったっけ?』と首を傾げる者まで現れた。

 思考が滑り落ちる。

 記憶が削り取られる。

 町全体が巨大な消しゴムで少しずつ消されているような、奇妙な感覚が私を包み始めていた。


 次に消えたのは、同じ小学校に勤める私の隣の席の教師だった。

 その朝、私はいつものように『おはよう』と声をかけようとして言葉を失った。

 隣のデスクには教科書も採点途中のテスト用紙も、飲みかけのコーヒーカップすら置いていない。

 ただの灰色の天板がさらけ出されているだけだった。


「……あれ、隣の席の先生は?」


 私は近くの教員に尋ねた。


「誰のことだい? そこは予備の机だよ。ずっと使われていないだろう」


 背筋に冷たい氷を押し当てられたような衝撃が走った。

 昨日まで彼はそこで熱心に運動会のダンスの振り付けを考えていたはずだ。

 彼の笑い声が耳に残っている。

 なのに、周囲の人間にとって彼は最初から“存在しない人間”に書き換えられていた。


 出席簿を確認すると、あるクラスの担任欄が空白になっていた。

 文字が消えた跡すらない。

 最初から誰も割り当てられていないかのような、真っ白な空白。

 私は必死にその教師の特徴を思い出そうとした。


 眼鏡をかけていた。

 少し猫背だった。

 誕生日は六月だったはずだ。


 だけど、必死に手を伸ばしても記憶の断片は砂のように指の間からこぼれ落ちていく。

 “名前”という核を失った記憶は、形を保つことができないのだ。


 その日の教室は、異様なほど静かだった。

 いつもならチャイムが鳴っても騒がしい子どもたちが、まるで自分の輪郭を確かめるようにじっと席に座っている。


「先生、あの人は?」


 一人の女子児童が震える声で尋ねた。

 彼女の指先は、誰もいない教壇の脇を指していた。


「あの人って……誰のこと?」


 私が問い返すと、少女の瞳に絶望の色が浮かんだ。

 彼女は何かを言い掛けるけど、言葉が見つからない様子でうつむいた。

 その瞬間、教室の空気が冷え込んだ気がした。

 窓の外ではどんよりとした雲が町を飲み込もうと低く垂れ込めている。


 翌日、学校へ行くとその少女の机が無くなっていた。

 クラスメイトに聞いても、『最初から三十人のクラスですよ』と淡々とした答えが返ってくるだけだった。


 私は恐怖で吐き気がした。

 消えているのは、大人だけではない。

 この町の“意味”そのものが、順番に消去されている。


 私は狂ったように記録を調べ始めた。

 古い名簿。

 町の広報誌。

 卒業アルバム。

 しかし、調べれば調べるほど世界は変質していった。


 アルバムを開くと、集合写真のあちこちに不自然な空白がある。

 まるで誰かがハサミで切り取ったかのように、背景だけが写っている場所があるのだ。


「記録に残せばいい」


 そう思い、私はノートに必死で書き込んだ。


『駅前の花屋の女性、特徴は……』


 しかし、一時間後にそのノートを見返すとそこにはただの無意味な記号が並んでいるようにしか見えなかった。

 文字は読める。

 けれど、その文字が指し示す“対象”が私の脳から切り離されている。


 その夜、私は深い闇の底に沈むような夢を見た。

 場所は町の中心にある公園の広場。

 けれど、そこには遊具も木々もなく、ただ果てしない暗闇が広がっている。

 大勢の人間が立っていた。

 彼らは皆、のっぺらぼうのような顔をして声もなく泣いているようだった。

 その中心に、人の形をした“影”が立っていた。

 影には顔がない。

 ただ、深淵のような黒い穴があるだけだ。


『名前は、鍵だ』


 影がささやいた。

 その声は鼓膜を震わせるのではなく、脳の裏側を爪でひっかくような不快な響きだった。


『この世は名前という楔で繋ぎ止められている。呼ばれることで存在し、認識されることで形を成す。名前を失った魂は、もはやこの現実という地表に立っていることはできない』


 影が手を振ると、周囲の人々が線香の煙のように薄れていった。

 彼らは抵抗しない。

 自分が消えていくことすら、理解できていないようだった。

 最後に、影がゆっくりと私を指差した。


『次は、お前の番だ。お前を繋ぎ止める楔はもうすぐ引き抜かれる』


 目が覚めたとき、全身が嫌な汗で濡れていた。


「……私は、誰だ?」


 口に出した瞬間、心臓が凍りついた。

 自分の名前。

 数十年使い続けてきた、自分を証明するはずのその音が思い出せない。

 机の上にある運転免許証に手を伸ばす。

 そこには私の顔写真がある。

 けれど、氏名欄に書かれた漢字の羅列を見ても、それが自分を呼ぶための言葉だという実感が微塵も湧いてこない。


「嘘だ。そんなはずはない」


 私は鏡の前に立った。

 鏡の中にいる女は確かに私だ。

 しかし、鏡の表面がわずかに波打っている。

 自分の輪郭が背景の壁と同化し始めている。

 指先を見ると爪の先が少しずつ透明になり、透けて見える床が視界に入ってきた。


「誰か! 誰か私の名前を呼んで!」


 私は家を飛び出し、狂ったように走った。

 まだ朝の早い時間だったけど、何人かの住人が歩いている。

 私は通りすがりの知人にしがみついた。


「お願い、私の名前を言って! 私は誰なの? あなたは私を知っているでしょう!」


 知人は、ひどく困惑した顔で私を見た。


「何をするんですか。離してください」


「いいから! 私の名前を呼ぶだけでいいの!」


 知人は口を開いた。

 何かを言おうとした。

 けれど、彼の喉からは空気の漏れるような音しか出なかった。


「あなたの……名前は……ええと……」


 彼の表情から、私に関する記憶が急速に剥がれ落ちていくのが分かった。


「そもそも、あんた誰だっけ? ここらへんの人じゃないよな?」


 その一言が、最後の一撃だった。

 私をこの世界に繋ぎ止めていた、細い糸がぷつりと切れた。


 足元から感覚が消えていく。

 見慣れた町の景色が、水彩画に水をこぼしたように滲んでいく。

 アスファルトの黒。

 信号の赤。

 空の青。

 それらすべてが混ざり合い、意味を持たない色の濁流となった。


 私は叫ぼうとした。

 だけど、声の出し方を忘れてしまった。

 私は走ろうとした。

 だけど、自分の足がどこにあるのか分からなくなった。


「ああ、そっか」


 最後の一瞬、私は理解した。

 消えていった花屋の女性も、あの教師も、少女も。

 彼らは死んだのではない。

 ただ、“意味”のネットワークから外れてしまっただけなのだ。

 誰にも呼ばれず、誰の記憶にも残らず、宇宙に空いた小さな穴に吸い込まれていったのだ。


 私は一粒の光の粒になったような感覚を覚えた。

 苦しみはない。

 ただ、圧倒的な“無”が私を包み込んでいく。


「どうか、誰か……」


 心の中で繰り返したその願いも、形を成さずに霧散した。

 私が私であったという証拠は、今この瞬間に世界のどこからも消滅した。


 翌朝。

 町の小学校では職員室の机が一つ、予備として片付けられた。

 駅前の空き地には、新しい家が建つという看板が立てられた。

 人々はいつも通りに歩き、いつも通りに会話をしている。

 この町には、また一つ“空白”が増えた。

 けれど、そのことに気づく者はもうこの世界のどこにもいなかった。


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