消えた教室の記憶
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その教室には妙な噂があった。
『放課後、旧校舎の三年B組に入ると何かを忘れる』
最初に聞いたとき、僕は鼻で笑った。
どこの学校にも一つや二つはある、ありふれた学校怪談だと思ったからだ。
「本当なんだってば。あそこに入った人、みーんな少しずつ変になるんだよ」
昼休み、クラスの女子が机から身を乗り出して喋っていた。
彼女の目は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えなかった。
「変になるって、具体的にどうなるんだよ?」
「忘れるの。大切なことも、些細なことも、少しずつ削り取られるみたいに」
会話に入った僕を気にすることなく彼女は話を続ける。
「何を忘れるんだ?」
僕が問い返すと、彼女は少しの間をおいて困ったように眉を下げた。
「……それが、本人にも周りにも分からないの。だって、忘れちゃったことは最初からなかったことになっちゃうから」
哲学的な言い回しだ、と僕は思った。
忘れたことに気付かないのなら、それは忘れていないのと同じではないか。
そんな矛盾した話。
ただの思い込みか、誰かの作り話に決まっている。
だけど、その『分からない』という言葉が、妙に僕の心に棘のように刺さった。
その日の放課後、僕は吸い寄せられるように一人で旧校舎へ向かった。
窓の外ではセミが騒がしく鳴き、西日が廊下をオレンジ色に染めている。
こんなありふれた放課後に、超常現象なんて起こるはずがない。
新校舎の喧騒が遠ざかり、上履きの音がコンクリートの廊下に乾いて響く。
旧校舎は取り壊しが検討されている場所で、ほとんどの教室が備品置き場になっていた。
三年B組は、二階の突き当たりにある。
扉には茶色く変色した【立入禁止】の紙がテープで雑に貼られていた。
理由は誰も知らない。
ただ、去年からこの教室だけがまるで隔離されるように使われていないのだという。
扉の前に立つと、急に空気の温度が下がったような気がした。
心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴る。
僕は少しだけ躊躇したが、持ち前の好奇心が恐怖を上回った。
「……ただの教室だろ」
自分に言い聞かせるように呟き、僕は引き戸の取っ手に手を掛けた。
ガラガラと低い音が響き、引き戸が開いた。
中は拍子抜けするほど普通の教室だった。
整然と並んだ机と椅子。
使い古された黒板。
掃除用具入れのロッカー。
窓からは沈みかけの夕日が差し込み、無数の埃が光の粒となって宙を舞っている。
僕は緊張を解き、一番後ろの窓際の席にどさりと座った。
「なんだよ、ただの空き教室じゃないか」
クラスメートたちに報告するネタができてよかった。
そんな風に考えながら、僕は窓の外を眺めた。
静かだった。
グラウンドから聞こえていた部活の掛け声も、遠くを通る電車の音も、いつの間にか一切聞こえなくなっている。
世界から音が消え、自分だけが透明な箱の中に閉じ込められたような奇妙な感覚。
その時だ。
何かとても大事なことを忘れているような、落ち着かない気分になった。
「……あれ?」
僕は眉をひそめた。
今、何を考えていたんだっけ。
クラスメートのこと?
それとも今日の晩ご飯のこと?
思い出そうとすればするほど、思考の糸が指の間から滑り落ちていく。
「まあいいか、帰ろう」
僕は立ち上がった。
これ以上ここにいるのは、精神衛生上よろしくない。
教室を出ようと前を向いた時、黒板の端に小さな文字が書かれているのに気づいた。
白いチョークで、殴り書きされたような文字。
【まだ出るな】
……誰の悪戯だ?
僕は黒板に顔を近づけた。
その下には、さらに別の筆跡で文字が続いていた。
【君はもう忘れている】
よく見ると、黒板には他にも無数の細かい文字がびっしりと書き込まれていた。
何度も黒板消しで消され、その上からまた書かれたような跡。
古い文字はかすれ、新しい文字は白く浮き出ている。
僕は、吸い込まれるようにその文字を追った。
【最初に忘れるのは、ここに来た目的】
【次に忘れるのは、知っている人の顔】
【最後は、自分自身】
意味が分からない。
気味が悪すぎる。
僕はポケットからスマホを取り出し、この不気味な黒板を撮影してすぐに逃げ出そうとした。
だけど右手をポケットに入れた瞬間、僕の動きが止まった。
「……あれ?」
今、僕は右手をどうしてポケットに入れたんだっけ?
数秒間、記憶の霧の中を彷徨い、ようやく思い出した。
スマホだ、スマホを出そうとしたんだ。
……スマホって何のために使うものだっけ?
電話?
メール?
それはどうやってやるんだ?
使い方が思い出せない。
道具の概念が頭から剥がれ落ちていく。
心臓が早鐘を打つ。
胸の奥が冷たくなり、呼吸が浅くなる。
黒板をもう一度見た。
新しい文字が目に飛び込んでくる。
【時間が経つほど、消えるスピードは早くなる】
逃げなきゃ。
僕は全速力で引き戸へ駆け寄り、取っ手を掴んだ。
ガチャッと音がして、引き戸は動かない。
「開け! 開いてくれよ!」
肩をぶつけ、必死に力を込める。
だけど、簡単に開くはずの引き戸はまるで壁の一部になったかのようにびくともしない。
背後で、ガタッと椅子が鳴る音がした。
心臓が止まるかと思った。
僕は勢いよく振り返った。
誰もいない。
さっきまで僕が座っていた机の上に、一冊の古いノートが置かれていた。
そこにはなかったはずの使い古された学習ノートだった。
僕は足をもつれさせながら、そのノートに近づいた。
ノートの表紙には、見覚えのある筆跡でこう書かれていた。
【ぼくへ】
それは、紛れもなく僕自身の字だった。
震える手でノートをめくる。
最初のページには、切迫した様子でこう書かれていた。
【もしこれを読んでいるなら、君はもうかなり忘れている。落ちついて聞いてくれ。この教室はキケンだ。入ったしゅんかんから、記おくが外部へもれ出していく。
ぼくはさっきから何度も外に出ようとした。でも戸の前に行くまでに『何のために移動しているのか』を忘れてしまうんだ。
これを読んだら、一歩も止まらずに戸をこわしてでも出ろ】
僕はノートを握りしめた。
これは僕が書いた?
いつ?
ページをめくると、さらに文字が乱れていく。
【だめだ。どうしても途中で座ってしまう。さっき、お母さんの顔が思い出せなくなった。やさしかったことや、怒られたことは覚えているのに、顔だけがきりがかかったみたいにまっ白なんだ。
次はともだちの名前が消えた。ぼくはだれとここに来る約束をしたんだっけ?】
(クラスメートだ! クラスメートと話したからここに来たんだ!)
僕は心の中で叫んだ。
だけど次の瞬間、戦慄した。
クラスメートという名前は思い出せる。
でも、クラスメートがどんな顔をしていたか、どんな声だったか思い出せない。
ノートの次のページには、太いマジックのような字で一行だけ書かれていた。
【ぜったいにねるな。いしきがとぎれたら、ぜんぶ終わる!】
その文字を読んだ瞬間、暴力的なまでの眠気が僕を襲った。
脳を直接麻痺させるような、抗いようのない眠気。
まぶたが鉛のように重くなる。
「……だめだ、寝ちゃ……だめだ……」
僕は自分の腕を強く噛んだ。
痛みが走るが、眠気の波がそれを飲み込んでいく。
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
視界がぼやける。
ノートに、新しい文字が浮かび上がった。
ペンで書かれているのではない。
白い紙の上から、文字が染み出してくる。
【もうすぐ君は、自分の名前を忘れる】
名前。
僕の名前は……。
佐藤……いや、鈴木?
それとも……。
必死に記憶の引き出しを開けようとするが、どの引き出しも空っぽだった。
自分が誰で、何歳で、どこで生まれ、何を大切にしていたのか。
人生という長い物語のページが、一気に破り捨てられていく。
胸の奥に大きくて真っ暗な穴が開いた。
僕はもう、ノートをめくる力も残っていなかった。
ただ、床に散らばったノートの最後のページが夕日に照らされて見えた。
そこには、今までで一番穏やかな綺麗な字でこう書かれていた。
【安心して。
君のことを覚えている人は、外の世界にもう一人もいないから】
その時、ガラガラと教室の戸が開いた。
逆光の中に、一人の男子生徒が立っていた。
彼は不思議そうに教室の中を覗き込み、僕と目が合った……はずだった。
「なんだ、誰もいないじゃん。立入禁止なんて書いてあるから期待したのに」
彼は僕のすぐそばを通り過ぎ、窓を開けて外の空気を吸った。
僕は声を上げようとした。
手を伸ばそうとした。
でも、声の出し方が分からない。
体の動かし方が分からない。
僕はそこに存在しているはずなのに、彼には僕が見えていないようだった。
男子生徒は退屈そうに欠伸をすると、そのまま教室を出て行った。
「……誰か、いる?」
彼が去り際、独り言のように呟いた言葉が遠くで響いた。
戸が閉まる。
カチリ、と鍵がかかる音がした。
僕は自分がどうしてここに座っているのか分からなかった。
目の前にある机が何なのか、足元に落ちている紙の束が何なのかも分からない。
ただ、この場所に流れている終わることのない静寂だけが心地よかった。
ふと顔を上げると、黒板に新しい文字が書き足されているのが見えた。
それは、今しがたここを訪れた少年の名前だろうか。
それとも……。
【また一人、残った】
夕日は沈み、教室に深い夜の帳が下りてくる。
僕は僕だったものの欠片さえも失い、ただの“風景の一部”になっていくのだった。
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