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書き殴られた未完の物語標本  作者: かがみゆえ


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忘却屋

⚠️この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

 .





 その店は、雨の日にしか現れないという噂だった。

 駅前の古びた商店街。

 シャッターの閉まった店が並ぶその一角に見覚えのない小さな看板が出ていた。


【忘却屋】

 嫌な記憶を消します。

 その代わりに、あなたの大切な思い出を一ついただきます。


 そんな奇妙な噂を僕は笑い話だと思っていた。

 あの日までは。


 雨は朝から降り続いていた。

 傘を差していても肩口が濡れるほどの、冷たい春の雨だった。

 会社を辞めたばかりの僕は、当てもなく商店街を歩いていた。

 頭の中にはあの会議室の光景が何度もよみがえる。


『君には向いてないよ、この仕事』


 上司の声。

 笑いをこらえる同僚たちの顔。

 僕の企画書が机の上に投げられた瞬間。

 胸の奥がぐしゃりと潰れる。


 思い出したくない。

 忘れたい。

 全部、消えてしまえばいい。

 ふと顔を上げたとき、見慣れない看板が目に入った。


【忘却屋】


 胸が高鳴る。

 まさか、と思った。

 だけど、店の扉は確かにそこにあった。

 古い木の扉。

 扉には雨粒が細かく流れている。

 私は、吸い寄せられるように扉を開けた。


 店の中は薄暗く、古い図書館のような匂いがした。

 壁一面に数え切れないほどの小さな引き出しが並んでいる。

 奥を見ると椅子に白髪の老人が座っていた。


「いらっしゃい」


 穏やかな声だった。


「あの……ここは……本当に、記憶を消せるんですか……?」


「えぇ。嫌な記憶を一つ消す代わりに、あなたの大切な思い出を一ついただきます」


 老人は静かに頷いた。


「どうやって……」


「釣り合いです」


 老人は棚の引き出しを指差した。


「人の記憶は重さが違う。苦しみの記憶には、それに見合う幸福が必要です」


 僕はしばらく黙っていた。

 消したい記憶が、頭の中に浮かぶ。


 会議室。

 嘲笑。

 惨めな自分。


「……消してください」


 僕の言葉を聞いて、老人は小さく微笑んだ。


「では、目を閉じて」


 僕は言われた通りに目を閉じた。

 老人の指先が額に触れる。


(冷たい……)


 そう思った瞬間、会議室の光景がガラスが砕けるように崩れていく。

 声が遠ざかる。

 笑い声が消える。

 何もかもが、霧のように溶けていった。


「終わりました」


 目を開けると、胸の奥の重さが消えていた。

 驚くほど、すっきりしている。


「本当に……消えた」


 だけど、同時に何かが引き抜かれたような空虚があった。


「代償は?」


 老人はいつの間にか空いていた引き出しを一つ閉めた。


「あなたの思い出を一ついただきました」


「どんな?」


 老人は首を振った。


「それはもう、あなたには思い出せません」


 店を出ると、雨は弱くなっていた。

 僕は軽い足取りで歩き出した。

 胸の苦しみは、確かに消えている。

 だけど、何かが妙だった。


 スマートフォンの画面に、見知らぬ女性との写真が表示されていた。

 楽しそうに笑う、僕とその女性。


 どこかの海辺だろうか?

 夕日が綺麗だ。

 けれど僕は、彼女が誰なのか思い出せない。

 胸の奥が、ひどくざわついた。



 それから数日後。

 雨が降っていた。

 僕はまた、忘却屋の前に立っていた。

 今度は別の記憶を消すためだ。


 大学時代の失恋。

 思い出すたびに胸が痛む。


「本当にいいんですか?」


 老人が言った。


「大切な思い出は戻りませんよ」


「構いません」


 僕は即答した。

 痛みより空白の方がましだ。


 記憶は再び消えた。

 その帰り道、僕は母からの電話を受けた。


「久しぶりね。元気?」


「うん」


「覚えてる? 小さい頃、毎年一緒に行ったお祭り」


 僕は答えられなかった。

 祭り?

 そんな記憶、知らない。

 電話の向こうで、母が不思議そうに笑った。


「変な子ね。あんなに楽しみにしてたのに」


 通話が終わったあと、僕は手の震えに気づいた。


(……僕は何を失ったんだ?)



 それからも僕は何度も店に通った。

 嫌な記憶を消すたび、心は軽くなった。

 だけど同時に、僕の世界は少しずつ色を失っていった。


 友達の顔を思い出せない。

 卒業式の記憶がない。

 父の声が思い出せない。

 それでも、僕はやめなかった。

 やめられなかった。

 嫌な記憶だけが、どうしても残ってしまうからだ。



 最後に店を訪れた日、雨は嵐のようだった。


「今日は、どの記憶を?」


 老人が尋ねた。

 僕は少し考えて言った。


「……全部です」


「全部?」


「嫌な記憶、全部消してください」


 老人は長く沈黙した。


「それを消すと、あなたの大切な思い出もすべて失います」


 そして、静かに言った。


「いいんです」


 僕は笑った。


「どうせ、もうほとんど覚えてない」


 老人の目が、わずかに悲しそうに見えた。


「では、目を閉じてください」


 暗闇が広がる。

 額に触れる冷たい指先。

 次の瞬間、頭の中が真っ白になった。


 

 気が付くと、僕は雨の商店街に立っていた。

 冷たい風が吹く。

 手には、古びた鍵が握られている。

 目の前には、小さな店。

 看板にはこう書かれていた。


【忘却屋】


 僕は首を傾げた。

 この店は何をする場所なのだろう?


 鍵が回ったので扉を開けると、店の中には誰もいなかった。

 ただ、壁一面の引き出しの奥で一つだけ開いた箱があった。

 その中には、小さな紙が入っている。

 震える手で取り出す。

 そこには、こう書かれていた。


【最後の思い出】


 僕はそれを読んだ。

 そして、なぜか分からないのに涙が止まらなくなった。


.

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