写真の中の知らない自分
⚠️この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
.
押し入れの奥を片づけていたのは、ほんの気まぐれだった。
梅雨前の湿った空気が部屋にこもり、なんとなく身の回りを整理したくなっただけだ。
段ボールや古い雑誌の束をどかしていくと、奥から一冊のアルバムが出てきた。
黒い合皮のずっしりと重たいアルバム。
表紙の端は少しめくれ、金色の文字は消えかかっている。
子どもの頃に家族で作ったものだろう。
懐かしい気持ちになって、僕はその場に座り込んでページをめくった。
最初のページには、赤ん坊の頃の自分。
次は幼稚園の運動会。
園児の僕が泥だらけの顔で笑っている。
ページをめくるたびに、記憶の断片がよみがえってくる。
『この時、転んで泣いたんだっけ』とか『このあと母さんにアイスを買ってもらったな』とか。
写真は思い出を呼び起こす装置だ。
ずっと、そう思っていた。
問題の写真はアルバムを三十ページほどめくったところで現れた。
山の中の展望台のような場所。
背後には深い森と、遠くの湖が見える。
その前で―――僕が笑っていた。
普通の笑顔だ。
ピースサインまでしている。
けれど、見た瞬間に思った。
知らない場所だ。
どれだけ考えても、ここに来た記憶がまったくない。
【20**年8月12日】
写真の隅には、日付が印字されていた。
計算すると高校一年の夏休みだ。
家族旅行の写真だろうか。
だけど、そんな旅行に行った覚えがない。
気になって、夕食のときに母に聞いてみた。
「ねぇ。この写真の場所ってどこ?」
「ああ、懐かしいわね。〇〇湖の展望台よ。家族で行ったじゃない」
スマホで撮った写真を見せると、母はすぐに答えた。
「行ってないよ、そんなとこ」
「行ったわよ。あんたが『写真撮って!』って、ずっとふざけてたじゃない」
当時を懐かしんでいるのか母は笑っていた。
冗談を言っている様子はない。
「全然覚えてないんだけど」
「またまたー。あのときはお父さんが道を間違えてさー」
「山道で迷ったんだよな。お前、車酔いしてひどい顔してたぞ」
父も横から口を出してきた。
二人とも細部までしっかり覚えている。
覚えていないのは―――僕だけだ。
その夜、僕はアルバムをもう一度見直した。
例の写真の前後には、ごく普通の家族写真が並んでいる。
出発前のサービスエリア。
湖畔のレストラン。
帰り道の車の中。
すべてに僕が写っている。
しかも、とても楽しそうに。
強烈な違和感はあるのに、あらゆる証拠が“行った”ことを示していた。
「記憶が抜けてるだけか……」
僕はそう結論づけて、眠りについた。
だが、それで終わりではなかった。
数日後のことだ。
ふと、気づいたことがある。
スマホの写真フォルダだ。
高校時代のデータを遡っていたとき、あのときと同じ景色が出てきた。
森。
湖。
展望台。
例の場所だ。
写真の日付は、アルバムと同じ。
しかも、何枚もある。
自撮り。
家族写真。
風景。
すべて僕のスマホで撮られている。
だけど、その一日の記憶が僕には全くない。
嫌な予感がして、当時のSNSも確認した。
すると、その日にこんな投稿をしていた。
『〇〇湖きれいすぎる!また来てぇ~!』
コメントもついている。
『楽しそう!』
『いいなー!』
友だちとのありふれたやり取り。
つまりその日の僕は普通に旅行して、普通に投稿を楽しんでいたのだ。
それなのに、僕の頭の中だけからその一日が丸ごと消え去っている。
それからというもの、その日のことが気になって仕方がなくなった。
アルバムを何度も見返した。
すると、あることに気づいた。
例の写真をよく見ると、どこか変なのだ。
僕の笑顔もどこか“作り物”のように見える。
いや、笑っているのは確かだ。
でも、目の奥が笑っていない。
もっと奇妙なのは、次のページの写真だ。
家族四人で並んでいる。
父、母、妹、そして僕。
その写真の僕は、笑っていない。
真顔で、じっとカメラを見つめている。
その表情が妙に引っかかった。
何かを訴えかけているような……。
助けを求めているような……。
そんな顔だ。
背筋が寒くなった。
さらに数日後。
もっと不可解なことが起きた。
大学時代の友人と飲んでいるときのことだ。
何気なくその写真を見せてみた。
「ここ、行ったことある?」
「ああ、ここ? 知ってるよ」
友人は写真を見るなり、即答した。
「えっ、知ってんの?」
「何言ってんだよ。お前と一緒に行ったじゃんか」
「え……?」
「大学二年のときだよ。ドライブで行っただろ」
心臓がドクンと大きく跳ねた。
「いや、行ってない。絶対に行ってない」
「行ったって。お前、あの展望台で夢中になって写真撮ってたじゃん」
友人は自分のスマホを取り出し、保存されていた写真を見せてきた。
そこにも僕がいた。
同じ場所で笑っていた。
日付は違う。
服も違う。
でも、あのアングルの展望台だ。
僕は言葉を失った。
「……俺、あそこに行った覚え、本当にないんだ」
「どうしたんだよ。お前、あそこが大好きだったじゃないか」
友人は呆れたように笑った。
「……え?」
「ほら、『あそこにいる自分はすごく落ち着くんだ』って言ってたぞ」
「そんなこと、言ってない」
「言ってたよ。行くたびに毎回同じこと」
友人は本気で不思議そうな顔をした。
その瞬間、背中に冷たい汗が流れた。
「……毎回?」
「ああ。あそこに行くたびにさ」
家に帰り、僕は震える手でアルバムを開いた。
例の写真を見つめる。
目を凝らし、もっとよく見る。
そして、気づいてしまった。
背景だ。
森の奥。
展望台の柵の向こう側。
誰かが立っている。
最初は、ただの木だと思った。
でも違う。
人影だ。
ぼんやりとしているが、確かにこちらを見ている。
画像をズームしてみる。
画質が荒れて、顔までは判別できない。
けれど、そのシルエットだけははっきりと分かった。
それは―――僕だった。
展望台の外。
深い森の中に、もう一人の僕が立っている。
そして、写真の中の僕は森の中にいる“僕”の方を向いて笑っていた。
そのとき、気づいた。
アルバムの写真が、最初に見たときと少し違う。
……ポーズが変わっている。
ピースしていたはずの手が今はだらりと下がっていた。
表情もさっきより口元が笑っていた。
僕は恐怖に突き動かされ、勢いよくアルバムを閉じた。
閉じたはずなのに、どこからかじっと見つめられている視線を感じる。
恐る恐る、もう一度ページを開いた。
写真の中の僕は―――さっきよりもほんの少しだけ、大きくなっていた。
.




