未来の記憶
⚠️この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
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最初にそれが起きたのは、雨の降る朝だった。
玄関のドアを開けた瞬間、僕は妙な感覚に襲われた。
冷たい雨の匂い。
濡れたアスファルトの光沢。
遠くを走る車の音。
いつもの朝と何も変わらないはずなのに、胸の奥がざわざわと波立つ。
その正体は、すぐに判明した。
頭の中に“ある記憶”が鮮明に浮かび上がってきたのだ。
アパートの階段を降りる途中、僕は足を滑らせる。
三段目で靴の裏がぐにゃりと逃げ、視界が大きく傾く。
そんな光景がまるで数分前の出来事のように思い出された。
けれど、それはおかしい。
だって僕はまだ、階段の一段目さえ踏み出してないのだ。
これから起こるはずのことを、どうして“思い出す”ことができるんだろう?
嫌な予感がした。
僕は慎重に階段に足をかけ、冷えた手すりを指が白くなるほど強く握る。
一段。
二段。
そして三段目。
その瞬間だった。
靴の裏が予感通りにぐにゃりと滑った。
「うわっ!」
思わず声が出る。
身体が前に投げ出されそうになる。
けれど、手すりを掴んでいたおかげでなんとか転ばずに済んだ。
心臓の鼓動がうるさい。
それよりも、さっきの出来事を僕は確かに“覚えていた”。
これから起きる未来を、すでに経験した過去のように。
それが、すべての始まりだった。
それから僕は時々、“未来を思い出す”ようになった。
ある日の昼休み。
会社の休憩室でコーヒーを飲んでいると、突然ある映像が頭をよぎった。
同僚の佐藤さんが立ち上がり、肘をマグカップにぶつけて中身をこぼす。
机に黒い液体が広がり、彼女が『あっ』と声を上げて慌てる―――……。
「あっ!」
現実の佐藤さんが立ち上がり、マグカップを倒した。
こぼれたコーヒーが机に広がる。
僕はそれを見つめたまま、身体が固まって動けなくなった。
また別の日。
電車に揺られていると、急に【車両が急ブレーキで止まる記憶】が再生された。
耳をつんざくような音、激しい揺れ、乗客たちのどよめき。
数分後、その“記憶”は間違いなく現実となった。
コンビニの列で前の客が財布を落とす場面。
信号待ちで隣の子どもが風船を離す場面。
最初は偶然だと言い聞かせた。
けれど、回数が増えるにつれ、認めざるを得なくなった。
これは“予知”ではない。
予知ならば、“これから何かが起きる”という予感のはずだ。
僕が感じるのはあくまで“思い出す”感覚だった。
アルバムのページをめくるように、まだ起きていない出来事が意識の底から浮かび上がってくる。
僕は未来を予想しているのではない。
ただ、かつて起きた出来事をなぞっているだけなのだ。
奇妙な感覚だったが恐怖はなかった。
むしろ、少し便利でさえあった。
上司の機嫌が悪くなるタイミングも、電車の遅れも、事前に知ることができる。
数秒から数分先のささやかな未来を思い出すだけ。
その程度のちょっとした特殊体質。
僕は深く考えるのをやめ、その違和感を日常の一部として受け入れていた。
………あの日までは。
それは、仕事帰りの夜のことだった。
駅前の大きな横断歩道で、信号が変わるのを待っていた。
車のライトが列を作り、人々の話し声が夜の空気に混じる。
コンビニの看板が明るく輝く。
どこにでもあるありふれた夜の景色。
その時、いつものように“記憶”が降ってきた。
だが、その内容に僕は凍りついた。
視界にあるのは、今立っているのと同じ横断歩道だ。
同じ場所、同じ街灯、同じ夜。
ただ一つ、決定的に違うものがあった。
世界だ。
道路には車が一台も走っていない。
店の明かりはすべて消え、街は深い闇に沈んでいる。
静まりかえった廃墟のような交差点に、僕だけがぽつんと立っていた。
僕は無言で信号機を見上げている。
赤のまま、二度と変わることのない信号。
『やっと思い出したんですね』
背後から低く乾いた声が響いた。
勢いよく振り返る。
けれど、そこには誰もいない。
そこで記憶は途切れた。
ハッと我に返ると、目の前の信号が青に変わっていた。
周囲の人々が一斉に歩き始める。
けれど、僕だけは一歩も動けなかった。
胃の奥に氷の塊を流し込まれたような感覚が広がる。
今までの“記憶”は、せいぜい数分後の未来だった。
けれど、さっきの光景は明らかに違う。
もっと遠い未来。
そして、あの変わり果てた街の姿。
何より恐ろしいのは、あんな不気味な光景を僕は“確かに経験した”と確信していることだった。
それから数日間、僕は生きた心地がしなかった。
仕事中もあの静けさが耳に張り付いて離れない。
暗い街。
止まった信号。
そして、『やっと思い出したんですね』というあの声。
まるで、僕が大事なことを忘れてしまっているかのような言い方だった。
その夜、僕は眠れないままベッドで天井を見つめていた。
もし僕が未来を“思い出している”のだとしたら、それは未来の僕がすでにそれを“経験したこと”を意味する。
その瞬間、はじかれたように指が動いた。
スマートフォンを手に取り、カレンダーを夢中でスクロールする。
数ヶ月先、何の変哲もない日付けの並び。
ある一点で指がぴたりと止まった。
十月二十三日。
その数字を目にした瞬間、胸の奥で何かが悲鳴を上げた。
脳裏にあの記憶の続きが流れ込んでくる。
暗い街。
止まった信号。
そして、後ろに立つ“誰か”。
“記憶”の中の僕は、ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは―――……。
「……僕だ」
少し古いコートを着て、数年分ほど年をとった“僕”がそこにいた。
髪は伸び、頬はこけているが、その瞳だけが異様に鋭い。
未来の僕は、自分をあざ笑うように小さく笑った。
『やっと思い出したんですね』
「……何を」
僕の声は、情けないほど震えていた。
未来の僕は近づいてくることなく、静かに告げた。
『ここが三回目だってことですよ』
頭の中が真っ白なノイズで塗りつぶされる。
「三回目……?」
『ええ』
未来の僕は二度と青にならない赤信号を見上げる。
『この世界は、もう何度もやり直されているんです』
冷たい風が、誰もいない街を吹き抜けていく。
『でも、あなたは毎回忘れてしまう。だから、溢れ出してしまうんです。前回の記憶が未来の形をして』
「……何をやり直しているんだ」
遠くで巨大な建物が崩れるような地響きが聞こえる。
『世界が終わる日を』
未来の僕は突き放すような声で言った。
その瞬間、バラバラだったパズルのピースがつながった。
今まで思い出していた断片的な未来。
あれは予言などではない。
すでに滅び、巻き戻された世界の“燃え残り”なのだ。
過去の僕が経験し、そして失った未来。
今、僕はまたその終わりへと向かう一本道を歩いている。
夜の静けさの中、信号は今も警告のような赤を灯し続けていた。
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